時間の流れ
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新約聖書に、時間に関して、とても興味深い言葉があります。民族の祖であるアブラハムを、その目で見たようなことを言うイエスに対して、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たというのかと問われ、イエスは言います。 アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである(ヨハネ第8章58 日本聖書協会) 時の表現があいまいな日本語では、この言葉は、よく理解できないのではないかと思います。英語で考えると、分かりやすくなるような気がします。 Before Abraham was born, I am. アブラハムが生まれたのは過去です。その過去よりも前というのは、過去の過去で、英文法では大過去と呼ばれていて、通常は、過去完了形で表現されます。だから、この文章は、文法的にいえば、以下でなければいけません。 Before Abraham was born, I had been. I am ということは、「今」ということです。「今」とは現在であって、アブラハムよりも前の「大過去」ではありませんが、ここでは、「今」が「大過去」になっています。つまり、過去と現在が重ね合わさって、ひとつになっているということです。 今という時は、イエスによると、アブラハムの生まれる前ということになります。イエスは、悟っていたので、今も、アブラハムの時にも、アブラハムの前にも、存在しているのでしょう。 文豪のトルストイは、聖書を書いています。小説家が書いただけあって、分かりやすく、読みやすい聖書です。「トルストイ聖書」では、この部分は「アブラハムの前にも私の教えはあった」となっています。とても合理的な解釈です。でも、合理的で辻褄は合っていますが、真実を伝えるスピリチュアルな要素は消えています。これでは聖なる書物ではなく、単なるお話です。トルストイは、悟っていなかったので、時間がひとつという次元には、たどり着けていなかったのでしょう。 人生とは、すべてが収納されている広い屋根裏に、懐中電灯をひとつもたされて、一周するようなものなのでしょう。懐中電灯とは、意識のことです。屋根裏の中で、見えるのは意識している部分だけです。それ以外の場所は、見えないのです。見えないだけで、そこにはすべてがあるのです。光が持ち込まれ、屋根裏全体が明るくなれば、すべてが見えるのです。それが、悟りなのでしょう。 過去も現在も未来も、屋根裏というひとつの場所にあるのに、意識で照らせないので、見えないだけなのです。時間は、分けることはできないというのは、こういうことでしょう。
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