スクリーンの世界
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スクリーンの世界とは、目に見える、観察の対象になるこの世です。そこでは、目に見えない、観察の対象にならないものは、価値が認められません。スクリーンの世界では、人びとは生存のために、ひたすら、目に見えるもの、観察の対象になるもの、価値のあるものだけを求めて生きるようになります。 フランツ・カフカに「掟の門」という作品があります。ひとりの男が門の前にやって来て、門番に「入れてくれ」と頼みますが、「今はダメだ」と断られます。門番は「入りたいのなら、俺にかまわず入ればいい、ただし、この先には、俺よりも、もっと強い門番がいる」と言います。 男は門の中に入ることをためらい、長い年月が経ち、寿命が尽きてしまいます。臨終の間際に、男は、中に入った者が誰もいなかったことに気づきます。「この長い間、どうして、誰も中に入らなかったのですか」と男は門番に尋ねます。 門番は「この門はお前だけのものなのだ」と言って門を閉じます。 門とは真実の扉でしょう。門の中は真実の世界です。そこへ行くには、どれ程強かろうとも、門番を押し退けてでも入る覚悟が必要です。門番とは、「スクリーンの世界」の掟でしょう。社会制度や慣習、礼儀作法やしきたりです。善良な市民は、決して、そのような掟を破ることはしません。その掟を破らなくては、真実の世界には入れないのですが、ほとんどの人は、真実の世界よりも、掟に守られた「スクリーンの世界」を選びます。 男の罪は、自分だけの門に入る勇気がなかったことでしょう。誰にもそれぞれに違った、その人だけの真実への門があるようです。生存のためには、掟を破って門の中に入り、真実への道を歩むよりも、掟を守ることの方が賢明かもしれません。社会の中でしか生きていけない人間にとっては、それが、取るべき最も賢明な選択かもしれません。ほとんどの人が、このように生きていますが、それこそが罪なのです。罪とは、知らないこと、知ろうとしないこと、無知のことでしょう。 カフカの「審判」では、銀行の業務主任である主人公のヨーゼフ・K は、30歳の誕生日の朝、何の罪かも分からずに逮捕され、31歳の誕生日の前夜に処刑されます。何の罪か、ヨーゼフ・K は、最後まで分からず、「犬のようだ」と言って死んでいきます。逮捕されてからの彼は、自分の罪のことを考えるのではなく、訴訟のことに没頭します。何も考えずに、ただ、目の前のことに没頭して生きる人びとが想定されているような気がします。 「スクリーンの世界」の掟をきちんと守り、善良な市民として生きるだけの人びとが、どれ程までに罪深いかを、1925年に公刊されたこの作品は、伝えようとしているのではないかと思いました。 まったく関係のないことですが、日本人の 8 割は、死刑制度を「やむを得ない」と容認しています。死刑制度とは、自分や自分たちの社会に不都合な存在は、抹殺するということです。これは戦争と全く同じ論理です。自国に不都合な敵国は、抹殺しなければいけない、だから戦争も「やむを得ない」ということです。 反核平和運動には、大勢の人が関わっています。単純計算をすれば、その中の五人に四人は、戦争と同じ死刑制度を容認しているわけです。自分や自分たちの社会に不都合な存在の抹殺は「やむを得ない」とする人たちの反戦とは、どのようなものなのでしょうか。自分や自分たちが平和であればいいということでしょうか。 身体が育つには食べ物が必要です。食べ物がきちんと与えられずに、栄養不良で身体が育っていないと、親は何をしている、行政は何をしていると、地域社会や生活環境が問題にされます。心が育つには、愛情という栄養が必要です。愛情が与えられずに、心が育たず、反社会的なことばかりするような人間に育ったときは、あれは性根が悪いと、本人の責任になります。 死刑になるほどの凶悪犯罪も含めて、社会に起こるすべての犯罪は、その社会に所属する人たち全員の責任ではないかと思います。郷土の力士が横綱になったとか、ノーベル賞をもらったとか、オリンピックで金メダルを獲ったとか、同郷の人たちは喜びを分かち合います。凶悪犯罪を犯した人に対しては、早く死刑にしてほしいと、切り捨てます。栄光のおすそ分けはもらっても、つぐないを分ち合おうとはしない、これが「善良な市民」の特徴かもしれない、と言えば、言い過ぎでしょうか。
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