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誰もが本質的には勝者
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初期仏教は「一世界一仏論」の立場をとっています。ひとつの世界に二人の仏は同時に出ないということのようです。だから、この世には「仏」としてのブッダは、ひとりだけです。ブッダが入滅した後は、次の「仏」である弥勒仏が現れる五六億七千万年先までは「無仏の世」になるというのが、初期仏教です。 「ブッダ(Buddha)」という言葉は、「目覚める」を意味する動詞の「budh」の過去分詞が名詞化されてできたようです。古代インドでは、この言葉は「真理に目覚めた人」を意味する普通名詞として使われています。だから、聖者は皆そう呼ばれていたようです。仏教の最初期の段階では、仏弟子も「ブッダ」と呼ばれていました。シャーリプトラ(舎利弗)も、ジャイナ教の文献では「ブッダ」と呼ばれているようです。 ブッダ入滅後、教団がある程度の規模に拡大すると、ブッダを頂点とする教団の組織化が必要になり、ブッダの神格化が進みます。こうして、ブッダは教祖となり、この世にひとりだけのブッダとなります。悟った修行僧は、「ブッダ」という呼び名ではなく、仏弟子の最高位の「アラハン(阿羅漢)」と呼ばれるようになります。ブッダと仏弟子との差異化は、教団運営には、必須だったのでしょう。 大乗仏教では、固有名詞としての「ブッダ(Buddha)」は、普通名詞として扱われています。教祖としてのブッダ以外にも、多くの「仏」が登場します。ただ、「一世界一仏論」は、尊重しているようです。大乗仏教に多くの「仏」がいるのは、多くの世界があるからだそうです。多くの世界のそれぞれに、ひとりの「仏」がいるということのようです。 ブッダはウパカへの説法で、煩悩をなくせば誰でも自分のような勝者になる、と語っています。つまり、 誰もが、本質的には「ブッダ」なのだということでしょう。ブッダは、あらゆる人の中に「ブッダ」を見ていたのではないでしょうか。
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