独我論的体験  

独我論的体験では、この世には自分しかいません。他者は存在していても、その存在が確信できません。他者や世の中という目の前の現実が、自分の心の中にしか存在しないのです。

街には大勢の人がいるのに、自分しかいないと感じ、街を歩く人は自分の心が生み出していると思うのは、通常の感覚ではない感覚で現実世界を認識しているからではないかと思われます。

私たちは感覚器官によって世界を認識していますが、認識するするためには、認識するための時間が必要です。観察の対象を感覚してから認識に至るまで、少なくとも 0.2 秒 〜 0.5 秒が必要だといわれています。つまり、認識された世界とは、常に 0.2 秒 〜 0.5 秒の過去なのです。

現在という時間には、認識主体の「私」独りしか存在しません。なぜなら、「私」以外の他者やこの世、すべての観察対象は、0.2 秒 〜 0.5 秒の過去に存在しているからです。現在に独りいるその「私」は、認識できません。「私」が認識されれば、それは現在に独りいる「私」ではなくなり、他者やこの世と同じ過去に存在することになるからです。目が目を見ることができないように、認識主体の「私」は、認識できないのです。

現在にいる「私」が認識した他者やこの世は、「私」の感覚器官によって認識されたものなので、「私」の心の中に存在しています。他者やこの世という観察の対象は、現在にいる「私」とは、0.2 秒 〜 0.5 秒という時をへだてて、「私」の心の中の過去に存在しているのです。

このように考えると「独我論的体験」をしている人たちとは、異常なまでに精密で正確に、この世を認識している人たちだといえるのではないでしょうか。現在という時間から、タイムマシンで、0.2 秒 〜 0.5 秒の過去を旅している人たちでしょう。

「独我論的体験」が悟りだとは思いませんが、「現在」という地点こそが、「悟り」ではないかという気がします。



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