世間を超える教え
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ヘレンケラーは、仏教についてこんなことを言っていたようです。 海の向こうに、仏教という非人間的な宗教を信じる人がいることが信じられない… ブッダの教えの基本は、生きることは「苦」という苦の真理です。生きることが「苦」になるのは、人間的であろうとするからでしょう。自分のことしか考えない人には、「苦」はありません。少なくとも、自責の念という「苦」はありません。「苦」があるのは、他者を思いやり、人間的であろうとするからです。「苦」の本質とは、人間的ということでしょう。 人間的とは、まず第一に、思いやり、心遣い、やさしさといった、他者に対する共感でしょう。ほとんどの場合、そのような人間的なふるまいは、豊かな人間関係を築きますが、相手を思いやったときに、相手がそれにきちんと応じなければ、傷つきます。それは時に、怒りとなり、場合によっては敵意になります。へたをすると、争いにまで発展するということにもなります。これこそが「苦」です。人間的でなければ、このような「苦」は、ありません。 西欧にこのようなことわざがあります。地獄への道は善意で敷き詰められている … 善意という人間的なふるまいは、地獄という「苦」を生み出すということでしょう。人間的ということは、文明社会では、洋の東西に関係なく、「苦」を生むようです。 愛しい人が死ねば、誰でも嘆きます。人の死を嘆くのは、執着心です。それは苦を生みます。苦の真理を知り、誰でもいつかは必ず死ぬと知っている人は、真理を知る人です。真理を知る人は、真理に反しているとして、嘆かないはずです。でも、嘆かないとしたら、非人間的だと思われるでしょう。真理を知る人が死を嘆かないとしたら、非人間的ではなく、超人間的なのです。 ブッダは、一番弟子のシャリープトラが亡くなると、深く悲しんだということです。これは、とても人間的です。人間的であっても、そこに執着心がなければ、煩悩は生まれず、「苦」はないのでしょう。 仏教では、人間の苦しみは、煩悩があるからだとされています。煩悩は執着心が生みます。執着心を克服するには、この世のあらゆるものに対して、執着しないことです。人間的であっても、執着心がなければ、問題はないのでしょうが、ほとんどの場合、人間的であることが、執着心を生んでいるような気がします。 真実の世界は、人間のままではたどり着けない、人間を超えた世界だと思われます。だから、仏教は人間を超えるための教えなのですが、人間を超える教えである超人間的を、ヘレンケラーを含めて、ほとんどの人が、非人間的だと感じるのでしょう。
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