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「無いもの」をなくす
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たとえ話です。 ある人がテーブルの上に毒蛇がいると騒ぎ立てました。そこにいた人は、誰も毒蛇が見えませんでしたが、その人の毒蛇への反応や、その描写が、あまりにもリアルだったので、ひとり、ふたりと、だんだんと毒蛇の見える人が増えていき、ついに、そこにいた人全員が毒蛇がいると騒ぎ出しました。さて、この毒蛇は退治できるでしょうか。 この毒蛇のたとえ話は、さまざまに解釈できますが、その典型が、「無いもの」をあると見る私たち人間の認識です。毒蛇の見える人とは、身体と心が自分だと思っている人のことです。身体や心である 五蘊 (ごうん)とは、仏教の教えでは、「無い」とされているものなのですが、ほとんどの人は、そうは見ていません。私たちのほとんどが、テーブルの上に毒蛇を見ているのです。 身体と心が自分だと思っている人は、身体と心が生み出す自分が、自分だと思っている人です。年齢、容姿、仕事、地位、名誉など、社会が評価する自分に価値をおいている人のことですが、ほとんどの人がそうでしょう。このような価値観は、テーブルの上に毒蛇を見るような誤った認識がつくっています。だから、認識が正されると、テーブルの上の毒蛇が消えるように、身体や心を自分とする自分が消えます。 テーブルの上の毒蛇、そんなものは、実際はありはしないのだと実感できれば、身体や心を自分だとする自分がなくなり、身体や心が生み出す苦悩から解放されます。ただ、苦悩がなくなると同時に、身体や心が生み出す快楽もなくなるので、身体や心はなかなた手放せません。 テーブルの毒蛇の話は、いろいろと応用できます。例えば、差別の問題です。毒蛇を差別に例えると、差別の問題がとてもうまく説明できます。毒蛇の見える人は、価値観を共有しているわけです。差別をしている人も、差別をされている人も、差別という毒蛇をテーブルの上に見て、価値観を共有しているということです。 違いは、数の問題だけです。数の多い方が、数の小さい方を差別するわけです。数は状況によって変わりますから、差別をされていると思っている人は、多数派になれば、差別をする人になるのではないかと思われます。 差別の問題は、誰もが「テーブルの上に毒蛇はいない」と知るまで、なくならないのではないかと思うのです。 「無いもの」はなくせないのです。テーブルの上の毒蛇は、いないのだから、退治できないのです。退治しようとすればするほど、毒蛇は強大になっていきます。 毒蛇はテーブルの上ではなく、それを見る人の心の中にいます。退治するためには、テーブルの上ではなく、見る人の心の中の毒蛇を退治しなければいけないのです。 |