眠って見る夢  

夢の中で自分が夢を見ていることに気づき、ある程度コントロールできるような夢を、明晰夢(lucid dream)というようです。約半数の人が、生涯に一度はこの明晰夢を体験しているようですが、ほとんどの場合、夢を見ていたと知るのは、目が覚めて、夢の世界が消えてからではないでしょうか。

誰にしても、夢を見ている間は、その夢は現実です。寝て夢を見たときに、前夜にみた夢と同じ状況があり、自分がその状況の中を習慣的に生きていたとしたら、それが夢をみるたびに続いたとしたら、現実と夢との区別はつかなくなります。現実とは、習慣と社会制度に過ぎないのです。

日常を「夢」ではなく「現実」だと、誰もが疑わずに思っているのは、「目覚める」ということが、日常的にないからでしょう。同じ状況の中を習慣的に生きるその世界が続いている間は、その日常は夢ではなく現実です。でも、その日常の世界は、ずっと続きません。いつか必ず「目覚める」ことになっています。その時になって初めて、夢だったと気づくのでしょうか。

永遠に続かないのが夢です。寝てみる夢も、日常の現実も、永遠には続きません。夢は一夜ですが、現実の一生は、それよりも長いというだけです。宇宙的時間尺度で見れば、一夜も一生も、ほとんど一瞬でしょう。

寝てみる夢と、夢でしかない日常の現実との違いは、明晰夢を除いて、夢に出てくる人物に、主体性があるのかないのかでしょう。寝て見る夢の場合、主体性はありません。日常の現実では、主体性があります。日常生活では、自我が日常の行動の全般を取り仕切っています。夢では、風に揺れる蘆のように、なすがままです。日常の現実では、世界の体験者は自分ですが、夢の世界では、ただ、その世界があるだけです。

日常の現実も、夢の中のように、なすがままであり、自分が体験者にならなければ、現実ではなく夢だと気づくのかもしれません。体験者にならず、なすがままの、そのような生き方が、夢であるこの世に生きる人間の、本来の在り方なのかもしれません。浄土教の「他力」とは、人のこのようなあり方のことをいうのではなかろうかと思うのです。阿弥陀如来とは、『唯我独尊』の「我」でしょう。



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