特別な体験
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体験は、身体と心が生むものなので、繰り返せば必ず飽きます。身体と心は、既知のものには、あまり反応しなくなるのです。薬物やアルコール依存で、必要量が増えるのは、そういうことでしょう。体外離脱を繰り返し体験した人が、体外離脱はもう飽きた、と言っていました。悟りとは、身体や心が生み出すものではないでしょう。身体や心を超えるはずのもので、飽きがあるとは思えません。悟りが体験であれば、それは悟りではないのです。 禅定という非日常的体験であれ、日常的体験であれ、体験とは日常の中の現象です。一時的なものであり、必ず消え去り、記憶としてしか残りません。悟りとは、身体と心を超え、日常を超えた状態であり、一時的なものではなく、永久不変の状態のはずです。 臨済宗に「仏に会ったら、仏を殺せ」という言葉があります。教えや指導者に依存せず、自己の内面を深く探求しろという意味のようですが、私は体験や経験を信頼するな、という意味に理解しました。つまり、悟り体験はまやかしだ、ということです。
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