登場人物  

映画で描かれる世界は、実話に基づく作品は別にして、現実にはない虚構です。それが虚構の世界だと知りながらも、観ているときには、涙を流したり、腹を立てたり、喜んだりして、私たちの感情は揺さぶられています。現実ではない虚構の世界に、現実と同じように、時にはそれ以上に、感情が揺さぶられるのは、それが単なる虚構ではないからでしょう。

「あしたのジョー」という漫画の登場人物、力石徹の葬儀が、1970年3月24日に営まれました。アニメのキャラクターの追悼集会が行われたのは、力石徹だけではないようです。2007年4月18日には「北斗の拳」のラオウの葬儀が、高野山東京別院で執り行われ、雨の中、約三千人のファンが参列したということです。このような架空の人物の葬儀は、たくさんあるようです。これらの追悼には、現実にはない、超現実の世界があるのでしょう。それは神話の世界と同じではないでしょうか。

神話とは実話ではなく、アニメと同じ作り話ですが、その世界とは、現実を超えた真実の世界が表現された、超現実の世界だと思われます。真実の世界という超現実の世界は、私たちの認識能力では到達できないために、神話やアニメという虚構を通してしか表現できないのです。

アニメのキャラクターは、実在はしていませんが、物語の中では生きて存在しています。だから、物語に死が設定されていれば、そのキャラクターは死ぬことになります。でも、実在しないそのキャラクターの死は、死なのでしょうか。

まったく同じことが、私たち人間にもいえるのではないでしょうか。永遠不滅ではない身体と心は、この世に存在はしていますが、実在ではありません。この世に一時的に存在しているだけで、いつかは必ず消え去ります。実在ではない身体と心の死は、死なのでしょうか。

私たちは、寿命が尽きると死ぬことになっていますが、寿命が尽きてこの世から消えるのは、身体と心です。アニメのキャラクターが物語から消えたように、単に、身体と心がこの世から消えるだけです。 私たちの本性が、身体と心ではなく、『唯我独尊』の「我」だと知るに至れば、私たちに死はないはずです。

アニメのキャラクターの死が死でなければ、人間の死も死ではないはずです。死だと思っているから死になるわけで、その死とは、心がつくり上げているだけなのではないでしょうか。

私たちは、アニメやドラマを観るとき、客席でひとり映画を観る『唯我独尊』の「我」と、同じことをしているのです。アニメやドラマを観る「私」は、アニメやドラマの登場人物に同一化しています。同じように、この世の映画を観る『唯我独尊』の「我」は、この世に生きる「私」に同一化しているのです、



読んだ内容は

面白かった まあまあ つまらなかった

メッセージなどのある方は下記にお書き込み下さい。ない方はそのまま、送信ボタンを押して下さい。
 (返信をご希望の方はメールアドレスをお書き添え下さい)



Top ページへ