登場人物に同一化
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映画で描かれる世界は、実話に基づく作品は別にして、現実にはない虚構です。それが虚構の世界だと知りながらも、観ている時には、涙を流したり、腹を立てたり、喜んだりして、私たちの感情は揺さぶられています。現実ではなく虚構の世界に、現実と同じように、時にはそれ以上に、感情が揺さぶられるのは、それが単なる虚構ではないからでしょう。 現実ではない虚構が軽視されるのは、それが非現実的だと思われているからでしょう。現実とは日常の風景です。心を含めた、六つの感覚器官が生み出す世界です。非現実というのは、心というひとつの感覚器官だけが生み出す、単なる脳内現象です。非現実の世界は、妄想や夢、偏見や極端な思想など、一部の人たち以外には、あり得ない世界です。 虚構とは、現実ではありません。だから、非現実的な世界なのですが、同時に、超現実的な世界なのではないでしょうか。超現実的な世界とは、人間の感覚器官ではとらえられない世界であり、現実を超えて、誰にも共通する、普遍的な世界ではないかと思うのです。それは、真実の世界なのですが、真実の世界は、あらゆるものの区別がないので、表現できないのです。だから、虚構という非現実的な世界として描くしかないのです。 虚構とは、非現実的な世界であると同時に、超現実的な世界でもあるのですが、問題は、超現実の世界をもたらそうとして、非現実な世界を作り上げてしまうことです。新興の宗教教団が糾弾されるとしたら、もたらしているのが、超現実の世界ではなく、非現実の世界だからでしょう。それはインチキであり、いかさまです。この種の問題は、新興宗教の教団にかぎらず、社会のあらゆるところに潜んでいます。 困るのは、非現実か超現実かの判断は、その人個人にしかできないことです。神とは、現実ではないので非現実ですが、ある人には超現実であり、ある人には非現実です。すべての神が非現実であれば、この世には宗教がなくなります。すべての神が超現実であればいいのですが、神は虚構としてしか描けないので、そうもいかないのでしょう。 神を信じるほど無知ではない現代人にしても、神なしで生きていけるほど知的ではないのです。神とは、人生を紐解くための補助線のようなものです。だから、宗教は、不必要な人には不必要でしょうが、必要な人には必要なのです。 「あしたのジョー」という漫画の登場人物、力石徹の葬儀が、1970年3月24日に営まれました。アニメのキャラクターの追悼集会が行われたのは、力石徹だけではないようです。2007年4月18日には「北斗の拳」のラオウの葬儀が、高野山東京別院で執り行われ、雨の中、約三千人のファンが参列したということです。このような架空の人物の葬儀は、たくさんあるようです。これらの追悼には、現実にはない、超現実の世界があるのでしょう。それは神話の世界と同じではないかと思います。 それらキャラクターは、実在していませんが、物語の中では生きて存在しています。だから、物語に死が設定されていれば、そのキャラクターは、死ぬことになります。でも、実在しないそのキャラクターの死は、死なのでしょうか。まったく同じことが、私たち人間にもいえるでしょう。身体や心は、実在ではありません。実在とは、永久不変です。だから、身体と心が自分だと思っているとしたら、私たちもアニメのキャラクターと同じです。 私たちは、寿命が尽きると死ぬことになっていますが、実在していない私たちの身体と心の死は、死なのでしょうか。アニメのキャラクターが物語から消えたように、単に、身体と心が、この世から消えるだけなのではないでしょうか。身体と心ではない私たちには、死はないはずです。なぜなら、私たちの本質は、永久不変の「我」だからです。 私たちは、アニメやドラマなどを観るとき、客席でひとり映画を観る『唯我独尊』の「我」と、同じことをしているのです。私たちの本性は、「我」なのです。「我」が、この世に生きる「わたし」に、同一化しているように、私たちはアニメやドラマの登場人物に、同一化しているのです。アニメやドラマなどの物語の世界は、私たちが生きるこの世という劇の中の「劇中劇」のようなものでしょう。
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