まずは、自己紹介。
千葉県立小金高等学校の第1期生で、小金高校吹奏楽部の創設者で初代の部長です。
高校3年のときから私は「かいちょう」と呼ばれるようになりました。
私が「かいちょう」と呼ばれることになった、そもそもの始まりは、私が吹奏楽部を立ち上げた時に「上下関係の厳しい部活にしたくない」という思いを後輩たちが受け止めてくれたことが根源にあります。
私が学生の時代は部活と言えば「先輩・後輩の厳格な上下関係」が当たり前でした。
この厳しい上下関係を取り入れない部活運営を目指した、ひとつの方法として、上級生を「先輩」とは呼ばず「○○さん」や「あだ名」で呼ぶことを提案しました。
その結果、後輩たちは私のことを「部長」と呼ぶのが日常になり、部内でも上級生と下級生の隔たり無く、職員間にも知られるほど仲の良い部活が誕生しました。
そして私の引退が迫り、2代目部長が誕生するとき「じゃあ今までの部長のことを何て呼ぶ?」と後輩たちが相談を始めました。「今更、苗字で呼ぶの、何か恥ずかしいよな」という事から「社長?会長?などなど、ふざけながら後輩たちが相談をして決めた呼び名が「会長」だったのです。
それ以来、私は「会長」というあだ名で呼ばれるようになりました。もちろん何の意味もない単なるあだ名です。
私は、吹奏楽部に敢えてOB会という組織を作りませんでした。
3期生が卒業したころに一度、後輩たちから「OB会を作ろうよ」という話が出て、総会なるものも開催したのですが、結局は事務的な事や形式的な事を維持することが大変であり、最終的には組織は自然消滅しました。
実際に組織を作っても作らなくても、母校の卒業生という事実は変わらない訳で、必要に応じてお互いに声を掛け合って集まる「有志」活動になり、高校時代に同じ音楽室で部屋で過ごした事のある友人たち=OBOGという形が継承されています。
後に「何の組織も無いのに会長と呼ばせている事自体が大問題なんだ!」と訳の分からない事を言う輩がいましたが、「会長と呼べ」と言った事も「会長」という呼び名で得をする事など何一つありません。
私は単に1期生であるだけです。私は、せっかく2期生が付けてくれた「思い出のあだ名」なので、一生付き合うことにします。
かいちょうの独り言
- 「かいちょう」という呼び名の由来
- いつのまにか吹奏楽部員になっていた
- 吹奏楽一筋の高校時代
- クラシック音楽との出会い
- 楽譜を求めて
- 趣味か仕事か
- 天国にいる仲間たち
- よこすかウインドアンサンブルの始まり
- セットリストとお客様層
- よこすかとは別のOBOGコンサート
- コパンの始まり
- コパンの音楽会
- 作曲家の指揮と演奏家の指揮
- 50歳を迎えて
- よこすか結成20周年を終えて
- 好調期がもたらす不安
- 小金高校吹奏楽部創部40周年
- よこすか入場者数歴代1位と2位
- 久しぶりに故郷へ
- 演奏会2日前の東日本大震災
- 病と手術を経験する
- 夢~親父が旅立った日~
- 退職を決めた日
- よこすか50回目の演奏会を終えて
- 小金高校創立50周年
- 小金高校吹奏楽部創部50周年
- よこすか結成30周年
- 音楽監督を退任するにあたり
- 新型コロナウイルス禍から
仲間たちとの音楽の日々
いつの間にか吹奏楽部員になっていた
私が本格的に吹奏楽と出会ったのは、中学2年生の終わり頃ですから、吹奏楽人間としては遅いデビューです。
当時、写真部であった私は、吹奏楽部の専属カメラマンを任され、吹奏楽部と行動を共にするうちに部員たちと親しくなり、部室に余っていたコルネットを貸り、いつしか演奏に参加させられる事になりました。
部員でもないのにソロを吹かされたり、顧問も何も言わずに知らぬ間に部員扱いになっていました。
この頃は戦後初期の吹奏楽ブームであり、私の中学でも吹奏楽が盛んで、大勢の部員を抱えていました。
柏市内には、柏・柏二・富勢・土・田中の、5つの中学校しかありませんでしたが、その中でも私の所属した「柏2中」と「柏中」は特に吹奏楽の盛んな学校でした。
演奏機会も多く、市内の吹奏楽部による合同発表会、マーチング・パレードなど経験を積むことが出来ました。
詳しいいきさつは覚えてないのですが、中学卒業の頃には自分のトランペットを買っていました。
まだヤマハが管楽器を発売する前の時代ですから、1本目は国産(メーカーは覚えていませんが、日管ではなかったです)、2本目がセルマーの楽器だったのは覚えています。
当時、音楽の道に進む人は、裕福な家庭の子か、音楽の先生を目指す人ぐらいでしたから、私のようなド素人が楽器を買うことは珍しいことでした。
私が楽器に熱中していたのは、この時期だけで、高校に入学してからは楽器以外のことにも興味を持ち始め、演出や編曲など裏方を楽しむようになっていきます。
このように、私と吹奏楽の長い付き合いは、多くの人とは異なるスタートになりました。
吹奏楽一筋の高校時代
新設の高校に入学したため、初年度は設備の関係で部活が結成できず、1年間は中学の同級生と市民バンドを組んで演奏を始めました。
友人の一人が指揮者であったため、私は彼のオーダーによって編曲する機会が増え、中学時代の顧問の先生に編曲を教わったり、書物により独学で編曲を学び始めました。
高校はまだ生徒会すら出来てない時期で、私自身も「生徒会準備委員」となり、なかなか経験の出来ない1年間を過ごしました。生徒会準備委員のメンバーは各クラス1名だったので全員で6人。休日登校があっても市民バンド活動には影響が無い程度の仕事でした。
この生徒会準備委員会はそのまま生徒会に移行し、私以外のメンバーは生徒会役員になりましたが、私はそういう役は性に合わないので辞退し、部活に専念することにしました。
準備委員の中に、明るくて活発で素敵な女の子がいたのですが、準備委員会が解散する直前に脳出血で突然他界してしまったのが、この頃の悲しい思い出です。
1966年の春に小金高校吹奏楽部が活動を始めました。小金高校の創立はその1年前の1965年4月、東京オリンピックの翌年のことです。
実際は高校創立の年に結成したかったのですが、校舎自体がまだ建設中であり、仮設教室(プレハブ)で授業をしていたような状態だったので、「2年目になったら楽器を購入するから1年間待ってくれと」と当時の音楽部顧問から告げられました。
中学時代にピッコロをやっていたというO野君と1年後に活動を始める約束をして待つこと1年。なんと、彼はサッカー部に入部しており「悪いけど吹奏楽はやらないことにした…」と。他にもトランペットをやっていた男子が2人いたはずなのだけど、部活が始まる頃には何処へやら。残りの部員は、フルートの女性2名とクラリネットの女性1名、あとは新入生(2期生)の部員たち。
そんな訳で、私は無理やり部長をやらされ、指導は先生がしてくれるものと思っていたら、「私は声楽が専門なので、普段は君が指揮をしてください。行事のときや、時間のあるときには指導に行きますから」ということで、部長兼指揮者になったのです。
周囲の人は、「指揮者をするようになって、楽器から離れた」と思っているかも知れませんが、今も昔も、指揮そのものに対する執着心は浅く、それよりも「喜ばれるコンサートの構築」や「楽曲の発掘や編曲」に大きな興味を抱いていた人間です。
年度が替わって吹奏楽部が出来たものの、位置付けは「音楽部」。音楽部の中に吹奏楽部とコーラス部があるという組織。それぞれに部長を置き、音楽部の代表は私で、コーラス部の部長が音楽部の副部長という位置付けなので、正確に言うと私は「吹奏楽部長兼音楽部長」でした。
楽器が来るまでの数日は待機状態でしたから、初めて楽器が届いた日のことは、とてもよく覚えています。職員室から「楽器が届いてますから放課後に部員を集めて取りに来てください」と連絡を受け、放課後に集まった部員で梱包を解いて、皆で屋上に上がり楽器を吹きました。晴天とは言えない曇の多い空でしたが、真新しい楽器を手にして思い思いに音を出した後、屋上で初合奏をしました。残念ながら、何の曲を吹いたのだか忘れましたが、たぶん当時の初級バンドの定番であった「海兵隊」か「ミリタリーエスコート」だったと思います。
当時はデジタル機器など発明されてない時代ですから、録音機材もオーディオマニアと呼ばれる人たち(後に私もその一員になってしまうのです)が「オープンリール・デッキ」を持っているくらいでした。従って当時どんな演奏をしていたかは、今聴くことはできません。
17名の部員による吹奏楽部がスタートし、最初の行事は体育祭。
入場行進の伴奏や、競技中の演奏など、17名なりに楽しい時間を作りました。顧問が指揮をするときは私は人が足りないユーフォを吹いていました。
一応、楽器経験者が多かったのですが、当時の国内では「指導書」や「楽譜」は現代とは比較にならないほど惨憺たる物で、輸入の楽譜や書物を探し回る日々を過ごしました。
特に不足していたのはポップス系の楽譜で、必要に迫られて編曲をしたのが、私の楽譜書き経歴のスタートです。
私が3年になった年に、やっと音楽室が完成。部員も3学年が揃い、25名の編成を組むことが出来ました。
ユーフォは後輩が入部してきたので、私は指揮のみをすることになり、ここで吹奏楽の楽譜不足の問題に直面し、私と楽譜の本格的な付き合いが始まりました。
この年に初のコンクール出場を果たし、Aグループ(昔の少編成部門)で第2位(当時は、金賞・銀賞などではなく順位が与えられた)を受賞することが出来ました。
自由曲は私が編曲した、チャイコフスキー作曲「スラブ行進曲」の短縮版。
そして、まだ本格的な「文化祭」が始まる前なので、「校内演奏会」や「校内クリスマスコンサート」を開催するなど、その後の私のプロデュース活動の軸が見え始めています。
その他にも、「校歌」の制定に伴い、全校生徒の伴奏用に作った吹奏楽編曲。高校野球の応援歌(体育の先生が無伴奏で歌ってテープに録音されたものを渡され)の編曲。体育祭で自作の行進曲を演奏。等々、吹奏楽部は学校の中で目立つ部活になっていました。
若いということは怖さ知らずでもあり、楽譜を書くことに楽しさを見出した高校時代は、編曲・指揮・部長として2年近くを過ごし、部活に明け暮れる毎日でした。
そして、練習大好き人間の私は、休日には8時間連続合奏なんて当然だったし、譜面台は楽譜の山。若い頃の私は相当に怖い指揮者であったようで、合奏の鬼だったと思います。
でも、練習時以外は後輩とお互いにタメ口で話せる部活ですから、何でも平気で言ってくるのでトラブルのない楽しい部活でした。
私が部長をしていた時代は「ミーティング」というのを一度しか開いていません。3期生を迎える直前に、2期生に対して「俺はミーティングはしない。その代わり、上級生は下級生の中に入っていろいろな話をして欲しい。いろいろな意見を聞いてやってほしい。そうしてお互いが理解しあえばミーティングなど開かなくても、それ以上のことが可能だ」と伝え、2期生は私の指示を的確に実践してくれました。その成果は直ぐに表れ、一躍「学校で一番仲の良い部活」が誕生し、職員室でも「ブラバンは何で皆あんなに仲がいいの?」と話題になるほど注目をあつめます。
練習時間でもないのに朝早く来て音楽室に集まり、帰りは全員で集団下校する。しかも、それは部の決まりでもなんでもなく、自然にそういう習慣になったのです。
部員総勢26名が毎日同じ様に集団で行動するのですから、学校でも目立ちます。
昔から見せ掛けの形式が嫌いだった私は、言葉遣いに関しても、「表面的に敬語を使っても意味が無いんだよ。対等に接していても、心の中のどこかで人を敬う心があれば、それは伝わる。だから普段は対等な言葉遣いでいいし、どんなことでも対等に話していいんだよ。」と部員につたえていました。だから、当時の部活内では後輩たちも敬語は使わず、ただひとつの縛りとして、社会人になっても通用するように、「先輩のことは○○さんと呼ぶ」ということは部の掟として決めてありました。
私が高校を卒業するとき、後輩たちは私が音楽関係に進むと思っていたそうですが、当時は音楽大学に進学する人は非常に少なく、私もコンピュータ関係の専門学校に進みます。
専門学校に通いながら週末は高校の部活に顔を出すという生活がスタートしました。
ここから先に、波乱の数年が待っているのですが、当時の私は若さゆえに気づかないことがたくさんありました。
クラシック音楽との出会い
小学校時代に音楽部で鍵盤楽器を担当していたので、多少は音楽に興味はあったのかも知れませんが、あまり物事に熱中しない性格であった当時の私は、音楽より鉄道が好きな子どもでした。
中学生になった頃、親が頼んだ家庭教師に「クラシック音楽も良いよ」と勧められ、初めて買ったのは、モーツアルトの「ハフナー」と「ジュピター」のカップリング。
演奏は、オイゲン・ヨッフム指揮のアムステルダムコンセルトヘボウ(現在の、ロイヤル・コンセルトヘボウ)だったと思います。
残念ながら、当時の私には、やや退屈な音楽でした。
この時代、家庭のテレビは茶の間に1台というのが一般的で、番組は生放送が多く、内容も海外のドラマとかお笑いのバラエティ、そして音楽番組が多くありました。
ドラマのテーマ曲やBGMもオーケストラが演奏していて、ゴールデンタイムにクラシックの音楽番組も放映していました。
今思えば贅沢な事ですが、各テレビ局には専属のオーケストラがあり、近代日本を代表する「芥川也寸志」「黛敏郎」「團伊玖磨」の3人が、それぞれ冠番組を持っていたので毎週クラシックの演奏をテレビで見ていました。
また、警視庁、消防庁、自衛隊の音楽隊が学校の校庭や公園で演奏活動を盛んに行う様になり、私がクラシックに興味を持ち始めたのがこの頃だと思います。
今の高齢者が意外とクラシックに親しみを持っているのも、このような時代を経てきた影響があるのかもしれませんね。
このうち何回かは、柏で公開収録を行い、葉書を出して観覧に行きました。
このとき体感した團伊玖磨の「西海賛歌」や、若き小澤征爾が指揮した「運命」等は、一生の思い出です。
もうひとつ思い出すのは、前段の話より前の時代ですが、警視庁や消防庁の吹奏楽団の出張演奏。子供の頃のことなので詳しくは覚えていませんが、学校の校庭や公園に制服姿の音楽隊がクラシックやマーチを演奏しに来ていました。
東京にまだコンサートホールなど殆ど無い時代でしたし、国民の多くは戦後の貧しい生活をしていた時代でしたから、生の音楽を聴く数少ない機会でした。こうした吹奏楽団の印象も、今の自分の活動に影響を残していると思います。
楽譜を求めて
高校を卒業して直ぐ、中学時代に知り合った柏中と柏二中の友人たちと共に柏に市民バンドを結成しました。ここでは指揮をしなくて済むので、トランペットに執着心のない私は、編曲や作曲をしながら、人が足りないパートを自由に移動するという変わった役割を自ら担当し、パーカッションやチューバやホルンなどを演奏する機会を得て、後にバスクラやアルトサックスを買ったりする不思議な吹奏楽人間に陥っていきます。
しかし、呼吸器系の持病を抱えていたことが原因で、管楽器から離れる事も多く、その結果、楽譜を書くことに集中する時期を持つ様になります。
自分たちで作った市民バンドで、コンクール一般の部に出場したり、大会社の慰安会のゲストとして新宿厚生年金会館のステージで演奏したり、いろいろな経験をした時期です。
最初は柏の市民バンドや小金高校吹奏楽部で演奏するために始めた編曲でしたが、社会人になってからは、他の吹奏楽団からの依頼で編曲する機会も増えてきました。
印旛高校(文化祭用の編曲)、馬橋小学校(校歌の編曲)、松戸四中OBバンド(コンサートのアンコールの編曲)、JR東日本(当時は国鉄)吹奏楽団(東北新幹線上野駅開業式典の編曲)、帝京大学吹奏楽団(応援歌をテーマにした行進曲の作曲)等々、怖いもの知らずに書きまくっていました。
今思えば、年間に20~30曲のペースで書いていたので、スコアを残しておけば膨大な量になっていた筈です。
最近のように、パソコンで楽譜を作るようになってからは容易に残せるのですが、当時は手書きのスコアで、パート譜を作るのは先方に任せていたので、原譜を渡してしまうケースが殆どでした。
楽譜を書くという地味な作業が性に合ったのか、この頃から「まだどの団体も演奏してない吹奏楽向きの管弦楽曲を探してみたい」という野望に憑りつかれ、ヤマハの楽譜売り場に通ったものです。
クラシック好きと言うよりは、管楽器が活躍する曲という視点でクラシックを聴き始めたものですから、初めて買ったスコアはマーラーの交響曲第2番「復活」。聴いたこともない曲なのでその足でレコード売り場へ直行し、演奏時間84分、トランペット8パート、ホルン10パート、オルガン、混声合唱と児童合唱、木管も各4パート以上という曲を聴き(ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィル)、未だに大好きな曲です。
その後に、ドヴォルザークの8番(当時は4番と呼ばれていた)で東欧のクラシックが好きになり、チャイコフスキーの5番でロシアのクラシックが好きになり、短期間のうちに相当マニアックな作品や作曲家を聴くようになります。
今はどんな曲も割と容易に購入できますが、この当時は輸入は船便で3か月ぐらいが当たり前、価格も1$=360円の固定相場制だったので素人が手を出すには荷が重い時代でした。
最近は事情が変わり、購入は楽になったものの著作権が厳しくなり、TPP加盟により更に編曲できる作品が少なくなっているのが残念です。(お金で解決できることも多いのですが)
笑ってこらえて!という番組が切っ掛けで吹奏楽が一大ブームを起こし、最近は、いろいろな吹奏楽人が曲を発掘して発表することが多くなりましたが、編曲は手間がかかる割には収入を得られない仕事なので当時はそういったことをする人が少なく、アレンジのほとんどは輸入版に頼っていました。
更に吹奏楽の事情として学校の部活があってこそで発展してきたため、学校ごとに部員の人数や所有楽器がまちまちで、楽譜どおりの編成で演奏できることが少ない。
私が編曲を中心に吹奏楽と関わっていこうと思った理由の一つです。
この頃になると吹奏楽の分野でも指導者クリニックなどが盛んに開かれ始め、三重県にあるヤマハ合歓の郷で「吹奏楽指導者クリニック」が毎年開催され、私も休暇を取って参加したり、関東近辺で開催される吹奏楽指導者の行事には積極的に参加していました。
岩井直溥氏、保科洋氏、兼田敏氏、網代慶介氏、秋山紀夫氏などの講演やクリニックを聞きに行くのが楽しかったのを思い出します。
趣味か仕事か
人生の中で何度か選択を迫られたことがあります。それは、音楽を仕事にするか否か。
最初は大学進学のときですから、既に気持ちは決まっており、迷わずに「音楽は趣味で!」と言えました。
ところが二度目のときは就職先での事なので、正直困りました。
当時、私が勤務していた某市役所では交通安全課に「婦人交通指導員」という部署あり、主に学童の交通安全指導などをしていました。
その指導員で音楽隊を作ろうと言う話が起き、市役所内で吹奏楽やってる人として認知されていた私に白羽の矢が飛んできました。
いわば、職務命令の人事異動です。
とは言うものの、趣味を仕事に結びつける訳なので、本人にも承諾の機会が与えられました。
「仕事として、吹奏楽や音楽の講習会にも出席してかまわない」という条件まで付けられ 「音楽は趣味で続けよう」というつもりの私は大いに迷いました。
すでに、市は予算で楽器まで購入しています。
事は既に動き始めていたのです。
結論として、自分は「立ち上げに協力はする。しかし、所属は以前のままで仕事を続けたい」という意思を伝えました。
その、代わりとして、私の中学時代の友人を指導者として紹介することになり、彼は臨時職員と言う肩書きで、音楽隊の指導をすることになりました。
この時も練習場所は柏中でした。
若い頃には、それほど感じなかったことですが、歳を数えるに連れ、少しづつ「アマチュアのならではの幸せ」というのを心から感じるようになりました。
50代半ばを過ぎた今、音楽を趣味として過ごして来た道を振り返ると「アマチュアとしての自分のポジション」「アマチュアとして自分が残せるもの」「自分の人生を充実させる活動」ということをいつも考えていました。
遡れば、高校生の頃に「音楽の道に進むのか」どうかを訊ねられたとき、「音楽を仕事にはしたくない」と決めたときから始まっていたのでしょう。
私がアマチュアである幸せを感じるひとつに、後輩やメンバーたちと「人として」接する時間が豊富に得られたことがあります。
皆の前に(指揮者として)立つことによって、音楽をしながらメンバーと(音楽以外の)コミュニケーションをとることができました。
メンバーの表情を見ていれば、「今日は調子悪そうだ」「何か不満がありそうだ」などすぐに判りますから、そういったときには、自分から話しに行くことにしています。
何かグレーな空気を感じたら自分から入って行って見極めることが大事だということは、「膨大な数の後輩たちと接した経験で得た」、自然に身に着いた行動です。
それを積み重ねることによって得た無形の資産は、私にとって何物にも替えがたい貴重な物であり有益な経験です。
アマチュアがプロと異なる点のひとつに、「音楽技術の上手下手」が社会人としての人格とは結び付かないという点があります。「高校の先輩後輩」の絆から仲間や友人に自然に変化する様な関係が私の理想です。
プロであれば「楽器の音色が汚い」「音程が悪い」「指導が下手」などは直に「音楽家」としての格が下がり、いくら「素晴らしい人間性」であっても演奏家としての評価は下がり「努力」は評価はされません。
アマチュアは、社会人としての評価が第一で、趣味の技量が劣っていても「努力」は評価されます。たとえ小さな結果でも「努力」は大きな満足感をも与えてくれます。
アマチュアは「人間性」に問題があれば、いくら演奏技術が優れていても、社会人や仲間として嫌われます。
中には、プロ志向のアマチュア団体もあり、わずらわしい人間関係よりも、音楽という趣味の目的だけを追求したいという姿勢の人たちが「高い目標と技術向上」を目指して頑張っています。これも一つのあり方だと思いますが、社会人という土台は同じです。
人間性を重視する団体と技術を重視する団体との主旨が分かれるところですが、どちらも趣味の世界であり、それぞれ求めるスタイルが違うだけであり、音楽の懐はそれらを包み込むほど深く広いものである筈です。
プロの音楽家の中には、アマチュアを相手にする際に同じやり方で臨む者がいます。
アマチュアに音楽を伝えるということは、相手に応じて分かりやすく丁寧に伝える事が必要であり、それを納得したうえでアマチュアからお金という対価を頂くのが仕事です。その辺を分かってないプロは意外と多いものです。
一般社会人の音楽活動の場で仕事をするのなら、それなりの対応術を勉強するのは最低限の条件です。
不用意な一言で、アマチュアから音楽を奪うような人を見受ける事がありますが、音楽を嫌いにさせるような者は音楽家失格です。
音楽は音楽家だけのものではありません。誰もが自由に自分の生活に合わせて楽しむために生まれてきたものが音楽であると私は思います。
よこすかとは別のOBOGコンサート
小金高校吹奏楽部が20回目の定期演奏会を迎えるにあたり「OBで記念コンサートがやりたいです」と、ある卒業生が提案してきました。
それを受けて、純粋なOBバンドを編成して、1998年2月に「小金高校吹奏楽部定期演奏会開催20回記念OBコンサート」(名前が長い・・・)を開催しました。
現役の第19回定期演奏会に集まったOBスタッフからも「よこすか」で無い「小金のOBだけの演奏会をやりたい」という声が多く、一気に企画が始まりました。
こういう事は、切っ掛けと勢いが大事です。しかも結構大きな行事になります。
まず発起人が幹事となり実行委員会が結成され、会場確保、参加者集めなどが始まりました。
演奏会をやるなら、同じ日に「レセプションをやろう」「記念誌を作ろう」、ロビーで展示もやろう・・・など、夢と希望は広がるばかりです。
だた、これだけ大きな夢を実現するには、莫大な労力と費用がかかります。夢を描く力はあっても実現に結びつける力は別物です。実行力とその時間を作れる人材は意外と少なく、苦労も多くありましたが力を合わせて来た約10ヶ月の壮大な思い出が、今では宝物のひとつになっています。
企画・広報・会計などの部門が置かれ、それぞれが活動を開始しましたが、当時は委員の多くが大学生であり、試験シーズンやサークル行事が多い時期は遅々として作業が進みません。
更には、若い人たちゆえに社会経験の少なさもあって、夢と現実のバランスがとれずに、焦り・不信・挫折なども味わいながら目標の日を迎えました。
コンサート当日は早朝から準備に追われ、ロビー展示、ロビーコンサート、メインコンサート、記念レセプションと進行し、すべてを終えたときの達成感はなかなか感動的でした。
いろいろな事はありましたが、当時としては精一杯の力を出し切り、それ相応の手応えのあった大事業でした。
まもなく、あれから10年が経ち、次の節目の事業を立ち上げる話が出ています。
ちょうど折りよく、初期OB(1期~16期)の飲み会が開かれるので、そんな話もしてみようかと思っています。
コンサートを開いた経験の無い12期生以前の仲間も含めて、「創部40周年記念」を実現したいと密かに考えているところです。
(2005.10 記)
よこすかウインドアンサンブルの始まり
よこすかウインドアンサンブルは、1979年ごろから活動を始めた「小金高校吹奏楽部OBバンド」の流れを上手く利用して始まった楽団です。
小金高校OBバンドが活動を始める際に、集まる場所の確保が必要でした。
当時は、松戸市が、市民活動のために学校開放という手段をしていたため、このルールに則り、学校に相談したところ、「教育委員会で認定されること」が必要条件でした。
そのための規約作りをしたのが、私と10期~12期のOBです。規約作りのために、顧問を交えて会議を重ね、教育委員会へ市民活動団体の申請を行いました。
その際にも「松戸市民の団体」である必要が有った為、「市内にある県立高校のOB活動」であることを訴えて、特例として認めてもらうまで苦労がありました。
学校使用許可の事務手続きが済み、OBバンド活動への理解をお願いするために、OBを代表して小金高校の学校長に面会を求め、直接OB活動の理解と支援をお願いすることが出来ました。
こうした準備期間を終え、晴れて小金高校OBバンドは、小金高校を練習場所として活動を始めることができたのです。
※上の写真は、よこすか結成より5年ほど前の写真
よこすか誕生を語るときにいつも書いてるように「よこすかウインドアンサンブル」としての第一歩は1986年4月、いつもの遊び仲間でドライブに行った帰りに、我孫子のファミレス(我孫子高校の隣にある)に休憩で立ち寄ったときに遡ります。
雑談のなかで18期のOGが「新松戸にある中学校のOBバンドにエキストラで参加した」という話がきっかけになり「うちのOBも出ましょうよ。」という話を受け、思い出作りにやってみようか、と私がGOサインを出すという毎度の展開で実現への話が始まりました。
その場にいた社会人は私と10期生のI田だけで、19期が高校を卒業したばかりの時です。
一気に人集めの話や吹奏楽連盟登録の手筈などをまとめ、行動が開始されました。
このように何かある時に直ぐに動き出せる背景には、小金高校吹奏楽部のOBが広い世代で仲が良く、直ぐに集まれるという独特の環境を作っていた強みがありました。
いつもの様に私が発起人となり、小金高校OB吹奏楽団が誕生し(実際は3度目の結成ですが)、発足時の事務的な作業は当時の大学生たちに動いてもらい、対外的な諸事項は社会人が行うという分担で事が動き出しました。
具体的に言うと、よこすかウインドアンサンブルの創設と命名をしたのが私で、結成後に事務分野を任命されたのが団長(17期のS君)です。
楽団の位置付けとしては、小金高校吹奏楽部OB活動の中のひとつとし、何かの時の責任はOBが負うという事でした。
諸々の手続きの関係で楽団の正式名称は「千葉県立小金高等学校OB吹奏楽団」。
ただし、コンクール目的の楽団のため、「コンクールで下手な演奏をしたら後輩に申し訳ない」という思いから、正式名称のほかに「通称」を付ける事にしました。
第1案は「新松戸吹奏楽団」。
ところが、当時は既に「新松戸吹奏楽団」を名乗る団体が存在することがわかり、私が命名したのは高校所在地の「松戸市横須賀」から「よこすかウインドアンサンブル」
ひらがなにしたのは、団体名をやさしい印象にしたかったからです。
この後「よこすか」が活動を続ける中で、誤解を受けていることがあります。
結成のときに、ブランクの空いたOBたちの敷居を高くしないために「3回の合奏で」というキャッチを使いましたが、これは「様々な環境に居るOBでも3回だけ高校時代に戻って熱く吹奏楽に向かい合おうよ」という思いがあっての言葉です。
コンクールの出場+同窓会を目的にした、夏季限定の活動は3年続きましたが、母校の定期演奏会10回記念に出演したらどうかという顧問の提案により、コンクール以外の場所での演奏が実現しました。
この時もまたお祭り騒ぎで、わずか20数分の演奏でしたが64名のOBが集まり、異常な盛り上がりの中、現役の前座を務めました。
またいつか、たまには集まって楽器を吹きたいね、という雰囲気が盛り上がり、更には顧問からの「高校の定期演奏会に出ればいいじゃないか」という話。
しかし、私としては複雑な思いがありました。
顧問の好意は嬉しいけれど、高校生にしてみればOBは邪魔な存在になるのが世の常。
高校生の演奏会に無理に出て邪魔をしたくない、という気持ちの方が強くありました。
事の成り行き上、次年度だけは出演させてもらい、演奏会費用をOBで半額負担したものの現役とOBの溝は深まり、それぞれの思いはすれ違いを生むことになりました。
一度不信感をもたらすと、物事は必要以上に悪く伝わります。
OBの悪口は現役の上級生から下級生に伝わり、会ったことも話したことも無い新入部員までもがOBを嫌う事態が起こりました。
彼らは、未知のOBに対して何も知らぬままに「きっと酷い人たちなんだ」と思い込んでしまうという刷り込みの連鎖です。
これを回避・修復するという大きな課題を背負うのは1期生の私の責任であり、17期で先輩たちに押付けられただけの団長には無理な話です。
この間に顧問の転勤があり、新規の音楽教諭は吹奏楽を目の敵にする人だったので顧問不在になり、学校長から直々に呼ばれた私に「来年は必ずOBの教員を呼ぶから1年間、面倒を見て欲しい」と頼まれるという事態が重なりました。
ピンチこそチャンスと思い、現役とOBの関係修復の手段のひとつとして、OBバンド(よこすか)の演奏会を開催し、現役を招待するという裏事情を含めて「よこすかウインドアンサンブルの演奏会」を開催しました。
目論見は成功し、この年以降の卒業生はよこすかにも多数在籍しています。
当時は「県立小金高校OB吹奏楽団(通称「よこすかウインドアンサンブル」)」でしたから、小金高校周辺、新松戸周辺へのチラシのポスティング。市内と近隣市の学校へポスターや入場券を配布。駅周辺にポスター掲示の依頼に回ったりしました。
集客のために名称も「クリスマス・コンサート」とし、経費が無いためポスターやチケットも赤の一色刷り。チラシは夜に団員有志で集まって広範囲にポスティングもしました。
しかし、よこすかウインドアンサンブルの最初の演奏会を最後に、事情で吹奏楽から離れた仲間もいました。
残念なことに、初回のコンサートを迎える前に、病気で命を奪われてしまった仲間達もいます。
まったく同じメンバーでステージに乗ることは二度とありません。
そんなこともあって、私は、毎回のコンサートを「ラストコンサート」のつもりで迎えることにしています。
セットリストとお客様層
よこすかのお客様はリピーターの方が多いです。
これは、当初から選曲や企画をしていた者としては、大変嬉しいことです。
現在は、よこすかの演奏曲目は「選曲企画委員会」というものを組織して決めています。
結成当初も「選曲会議」なる会議があって、それは幹事(役員)の仕事でもありました。
その後、団員の多くが社会人の年齢になり、転勤や結婚などで自由に集まりにくい生活環境に変わったため、団員の希望を聞いたりしながら、プログラム全体のバランス(認知度や曲種、難易度など)の調整は音楽監督の役割になりました。
よこすかのお客様は高齢者層が多く、60~70年代に流行っていた「ポールモーリア」「レイモンルフェーブル」「マントヴァーニ」「フランクプゥルセル」「パーシーフェイス」などのポップスオーケストラが演奏していたクラシック音楽には馴染みがあります。
クラシックに馴染みの無い人たちも、こういったオーケストラの演奏で、原曲の美しい旋律に楽団独自のアレンジを施して、コーヒータイムや食事を楽しみながら耳を傾ける時代だったのでしょう。
ニューサウンズインブラス(NSB)の中にはこれらの曲がたくさん含まれているのですが、今の吹奏楽ブームで育った年代には、NSBの楽譜としか認知されていない事が解りました。
私や私より上の世代の方たちは、若い頃に「歌声喫茶」や「名曲喫茶」などがたくさんあり、まだテレビやビデオなど無い時代を過ごした世代は自ずと「書」や「音」に親しんでいたのだと思います。
クラシックにも流行というものがあって、当時の名曲喫茶で流れていた曲の中には、今ではほとんど聴く事が出来なくなってしまった美しい旋律の数々があります。
逆に今の吹奏楽世代の人たちは原曲を知らずに「吹奏楽のレパートリー」としてクラシック音楽を知る人が圧倒的に多いです。
吹奏楽のレパートリーは年々変化しているので、よこすかのセットリストも変わっていくと思います。ただしそれは集客と大きく関連するので、それぞれの楽団が「何を目的とするのか」という事を考えて決めて欲しいと思います。
あらゆる世代・あらゆる趣向の人を同時に満足させるプログラムなどそもそも無理な話で、コンサートというものは、そういうものではありません。
物事を築くには長い年月と地道な努力が必要ですけど、壊すのは簡単で、修復もまた相当な計算や努力が必要なものです。
コパンの始まり
友人と吹奏楽の話をしていた時に「少人数の吹奏楽もいいですよね」「小編成こそ吹奏楽の原点ですよ」と盛り上がり、前々から考えていた「コパン」の活動を始めました。
小編成で小さな演奏活動や訪問演奏をしてみたいという構想は、よこすかのコンサート活動が定着した頃から考えていたことです。
少子化や地方の過疎化に伴う吹奏楽事情の変化についても注目していたので、小編成の活動を始めると同時に、今まで編曲した楽譜や小編成用編曲の楽譜をweb公開して、希望団体に利用してもらえるような環境を造りたいと思うようになりました。
活動を始めるには準備期間が必要なため、始めるタイミングを見計らっていました。依頼する側に人たちは、何人ぐらいが希望なのか、対象者は誰なのか、音の対策は出来るのか、といった事まで考えずに依頼してきます。引き受ける側は、楽譜探し、練習場所、楽器の移動手段、現地の広さや準備場所を聞いてからでないと返事が出来ません。
意外と多いのが「再来週なんですけどお願いできますか」の様なケースです。
そういった経験を踏まえて、自由な編成や人数で演奏できる楽譜を作り始め、同様な活動をしている団体が多いことを知り、格安でネット販売しながら活動を始めることにしました。
地元の小さな行事や病院・老人施設・児童施設からの依頼に応えながら、あまり手を広げずに、地味に継続していきたいと思います。
30人ぐらいの編成でどんな曲でも吹奏楽流に演奏してしまう自由さは、とても魅力的です。五重奏でオーケストラの曲を演奏する室内楽的な楽しみにも似ています。
サロンオーケストラやブラスバンドなども、それぞれの演奏スタイルを確立し、どんなレパートリーもこなすところは共通です。
よこすかは大編成の吹奏楽団に成長しつつあり、それに伴なって団員も増えて組織や規約などの縛りが必要になってきました。
コパンをよこすかとは切り離した別の活動にした理由はそこにあります。
大きな組織となった「現在のよこすかWE」とは方向性も活動手段も異なり、小さな依頼に臨機応変に対応する独立団体として、それぞれの特長を活かし「大きな演奏活動は『よこすかWE』、小さな演奏活動や小さな地域活動・ボランティア活動は『コパン』」というように、それぞれが充実した活動をすることによって、音楽の裾野を広げるのが理想です。
この様な形態は、大きな吹奏楽団には割とある例で、活動の幅を広げているようです。
しかし、よこすかの極一部の者がコパンの活動に対して「ボランティアなんて所詮は自己満足に過ぎない」「居場所のない人間がやる事だ」と陰口を言っていると耳にしました。
主旨や目的は異なれど、音楽を愛する者がこのような最低の悪口を言う人間が団の中心にいたのは残念な事です。
コパンを始めて10年以上になりますしたが、どこへ行っても暖かく歓迎されています。
音楽の裾野を広げ、既成概念に捉われない、自由な活動をしていきたいと思います。
コパンの音楽会
2006年5月4日に、コパンの自主事業としての音楽会を開いてみました。
訪問演奏を続けていると、コパンならではの音楽会を開いてみたくなりました。
元々小編成なので、ホールも小ホールで充分だし、練習の経費もあまり掛かりません。
私は演奏会開催の過程をすべて経験しているし、応援スタッフもいます。
小金高校吹奏楽部1期生としてOBのまとめ役を何十年もやってきた経験が役に立ち、この演奏会を成功させる確信がありました。
開催日を決めてホールの予約、ゲストとの出演交渉、練習計画、練習会場の確保、ホールの打合せ、印刷物の手配、案内物の発送や情報機関への広報活動、すべて一人でやってみました。人に依頼したのは「印刷物のデザイン」「集金」「打ち上げ用の買出し」あとは当日の撮影と受付ぐらいです。
さすがに本番当日は出演もするので、てんてこ舞いでしたが、何とかやり終えました。
無駄を控えれば、大組織のように役割の分散が必要な事も最小限に抑えました。
コパンの音楽会は「クラシックのコンサート」という堅苦しいイメージでなく、ライブの様な感覚で進行したいという思いがあり、ゲストとお喋りをしながら進行しました。
使い慣れている大ホールと違って客席が近くにあり、お客さんの表情が見渡せる楽しい演奏会でした。
お客様のアンケートでは「すごく楽しかったし面白かった」「肩の凝らないコンサートで楽しかった」と言ってくれていますので、目標は達成できたと思います。
終演後に開かれた打ち上げにも、出演者の大部分(3名のみ事情で欠席)が参加しての大宴会。その後の二次会にも20名ほどがなだれ込み、深夜まで余韻が続きました。
音楽にはたくさんの顔があり、クラシック音楽のように高い芸術性を求める音楽が存在する一方で、余分な知識など必要のない誰でも楽しめる音楽があります。
私は、それらを比較して優劣をつける事に意味を感じません。
今回ゲストで出演してくれたのは、市民バンド時代からの友人であり、小金高校の前顧問と音大時代に同期だったフルート奏者の鈴村栄里子さんと、よこすかを始め何度も共演経験のある、今や世界的に活躍しているバンジョー奏者の青木研さん。
鈴村さんにはついでに、よこすかフルート有志の指導もお願いしました。
私の活動の原点には「音楽を好きになってもらうために、まず音楽の楽しさを知ってもらいたい。その切っ掛けになる機会を作る活動を行いたい」という思いがあります。
今回の音楽会は、私が表現したい形のほんの一部分です。
まだまだ、たくさんのプランが頭の中にあるのですが、実現するには時間も費用もかかります。
これからも、時間の許す範囲で、小さな夢を一つづつ実現できればと思っています。
そのときは、また遊びに来てください。
50歳を迎えて
■2000年■
2000年に開催された第22回コンサートで、アンコールに「自由の鐘(E.F.ゴールドマン)」というマーチを演奏したのですが、本番で指揮をしているときに「ああ、これで自分の夢は達成できた」という感覚が湧いてきて、自分の中で何か一区切りをつけられた思いがありました。
この曲は、自分が吹奏楽の世界に入って間もない頃に愛聴していたLPレコードの1曲で、当時耳にしていた他のマーチに比べて、格段にスマートで推進力があり、リズムやベースの動きが印象に残る、思い入れの強い曲だったのです。
「いつかこの曲を演奏してみたい」という初心の思いが蘇えり、それを達成している瞬間の自分が重なって、このような気持ちになったのだと思います。
よこすかを始めてから現在までの長い間には、練習にメンバーが4~5人しか集まらないような時期がかなりありました。
ここまで地道に守り続けた活動が、ようやく軌道に乗り、後は安心して任せられる後進を見つければいい。そんなことを考え始めたのが、この頃からです。
具体的には、よこすか第一線からの引退時期や方法について考えることが多くなりました。いわゆる「老後を考える」ってやつですかね。
第一線から退いた後は、「自分なりの集大成」として、いろいろな人たちに喜んでもらえるような、小さくても自由な発想の活動に力を注ぎたいと思っていました。
楽団は「楽器を演奏すること」が一番好きなのでしょうが、私は楽譜を書いたり、人に喜んでもらえるような企画を創ることが一番好きです。
今までにも、何度か指揮者を探しては自分の指揮の負担を減らそうと試みたのですが、なかなか定着してくれませんでした。
アマチュア団体の指揮者というのは条件が難しく、音楽的に優れていても人間的な魅力がないと育たないし、団員からも受け入れられません。しばらく慎重に時期を見定めていたのですが、やっと指揮を任せられそうな後輩が現れ、先ずは半分肩の荷を降ろして、少しづつ自分の目指すものに時間を向け始めたところです。
周囲に「なんでそんなに急に自分の分担を減らすの?」と驚かれたりしましたが、当初の目的の一つであった「小金OBのシンボル」としての位置付けが必要なくなった今、よこすかでの自分の役割や責任から解放され、身軽になった感覚が嬉しいのです。
私のような特殊な道を歩んできた者としては、自分で転轍機を切り替えて道を広げるのが、楽しみでもあるのです。そして、自分の道を引き継いで頑張っている後輩たちを応援するのも楽しみなのです。
■2007年■
あと3年でいわゆる定年という歳になります。
ここ2~3年、何かと忙しく過ごしてきた故か「残された時間を自分なりに有意義に生きるために」の選択を考えるようになってきました。
「人」と「音楽」が好きで、いろいろな活動を立上げて来た私ですが、楽団の規模が大きくなり、当然のように煩雑な業務が増えて本質的な部分への距離が遠くなっている感じがあります。人生の最終楽章は、自分が最も大切にしていることに力を注ぎたいというのが、今の結論です。
若く健康なときには、「残された時間」などという概念がありませんでしたし、気の赴くままに、やりたいことの幅を広げていきました。
でも今は、やりたいことを絞る年齢に入りました。
時間・労力・体力を多く必要とする事は元気な世代に任せ、自分はサポートやアドヴァイザー的な役に回ることにより、広い世代が同居する団体活動の姿を見直しながら移行していくのが自然な流れであるかと思っています。
別の項でも書きましたが、私の場合は元々「楽器を演奏する」立場ではなく「行事を企画し、計画を立てること」「編曲をすること」「行事を映像作品として編集し保存すること」などに多くの時間を費やしていました。
頑張っている演奏者が揃い、任せられる指揮者がいる現在では、前線での演奏活動を極力減らし、自分の本来のポジションに回帰することが出来ます。
1年後に控えた小金OBの大行事や、2年前に活動を始めた出張演奏ボランティア「コパン」のことなど、手が回らないことがたくさんあります。
今までのような他の事を後回しにして「よこすか」中心の生活を見直して、自分が元来求めていた音楽活動を充実させたいと考えるようになりました。
この事は、よこすか結成20周年記念のコンサート前から考えていたことです。
ここ3年間ぐらいは、よこすかや他の雑務が急激に増え、自分の時間が極端に取れなくなりました。
この忙しさ(時間的+精神的)は、副団長や副音楽監督ともよく話したのですが、少なからず皆が感じているようなので、私だけの感覚では無いようです。
多くの皆さんも、複数の趣味をお持ちだと思います。
私も、「音楽」の他に「写真」や「鉄道」が好きで「鉄道模型のジオラマ作り」や「ビデオの編集」も趣味です。
ビデオカメラと自分の編曲した楽譜を持って、地方の私鉄に乗って、自然豊な地方の学校で15人ぐらいの吹奏楽団と共演して、旅から帰ってビデオを編集してDVDを作る。
そんな実現しない夢を持ちながら、出来る範囲で頑張って生きていこうと思っています。
よこすか結成20周年を終えて
よこすか結成20周年記念演奏会や記念事業が一応終了し、ほっと一息ついたところです。
今回の演奏会は過去最高の入場者数でした。大して有名でもなく、コンクールで賞を取る訳でもない市民バンドのコンサートに1000人以上の人々が来場してくれたという結果は、私たちに素晴らしい自信と力をもたらしました。
この事実を、これまで活動してきた仲間と共に喜びたいと思います。
発足以来「よこすか」のプログラムは、若い吹奏楽愛好家が好むような作品だけに拘らず、普段コンサートに足を運ばないような方たちにも楽しく聴いて頂けることを大切に考えてきました。
もちろん吹奏楽の為に書かれた作品も取り上げますし、知名度が低くてもお勧めしたい作品をプログラムに入れてきましたが、お客様を飽きさせずに最後まで演奏会を聴き通してもらえる構成を第一に考えてきました。
その成果は着実にお客様の人数や世代層となって現れており、リピーターが多い楽団になった一因と思います。
更に、ここ最近は若い世代が頑張って宣伝活動をしたり、今まで取り組まなかったような難しい曲にも取り組み、少しづつ新鮮な風を送り込んで来た事がプラスに作用した表れだと思います。
よこすかのようにOBバンド結成時から幅広い年齢層が参加してきた例は少ないですが、同窓生が多数集まり、そこに一般団員が自然と馴染み、出身校に関係なくひとつにまとまれるのた事は素晴らしい事だと思います。
20周年記念事業は、当時の役員夫々の個性が発揮され、大きな成功をもたらしました。
そして、何より楽しかった演奏会の大成功。
本番では多くのメンバーが「感動した」「泣きそうになった」と言っているのを聞きました。それほどすべてが楽しかった証だと言えるでしょう。
ただ音楽が好きなだけでは、ここまで続けては来なかった私のライフワーク。
後輩たちと繋がり一緒になって大きな輪につなげるという行動。
この20年間、私は自然体でよこすかと活動してきました。
今は、この余韻を楽しんでいます。
みんな、ありがとう。
好調期がもたらす不安
後輩たちには、思い付きで自由に行動している様に見えるらしいですが、私は慎重で細かい事に気を遣う心配性な性格です。
だからなのかもしれませんが、私は「安定」「好調」というポジティブな言葉の裏に、何か落ち着かなさを抱きます。本当にこれで良いのか?これが最善なのか?などと、上手く行った時ほど、あれこれと考えます。
自分の歩いてきた道を振り返れば「何も無いところから何かを始める」様な事が多く、しかもその中心に居る事が多かったのです。
高校で吹奏楽部を作り、卒業してOB会を作り、OBバンドや市民バンドを何度も作っては途絶えるという経験を繰り返してきました。よこすかウインドアンサンブルもその中の一つです。過去の経験があったからこそ諦めずに、他人が何と言おうと長期に渡る低迷期を乗り越えて続けてきました。
普通に考えて、毎週5人ぐらいしか集まらない時期を何年も続けて、本番直前の数週間だけ50人集まる楽団を続ける気にはならないと思います。
私はいつ終わるか分からないトンネルを歩き続けました。いろいろな手段を考え、いつか皆んな揃ってトンネルを抜ける日が来るという小さな自信の様なものが心の中にありました。
幸いなことに、仕事においても、市民対象の事業や講座の企画をはじめ、社会人サークル活動の援助や指導を担当した経験も活きています。
長年かけて築き上げたものでも、気を抜けば一瞬にして崩壊することも学びました。
集団のつながり方には「不安定要素+信頼関係」の絶妙なバランスというのがあります。
私が今までの活動において常に細心の注意を心がけてきたことです。
私たちが活動している趣味の団体というのは、企業に就職する様な「社の方針に従って働く代わりに賃金を貰う」契約関係ではありません。
強制や独断は通用しない世界です。
私が楽団でただ1回だけ独断を委ねられたのは、団員が過失で死亡事故を起こしてしまった際に「役員会では遺族の気持ちを考えると除名が妥当ということになりました。この決定を受けるか受けないかは会長に委ねます」と言われた時に、「こういう時こそ彼の日ごろの頑張りを評価して、除名は避けたい。何かあっても僕が被害者遺族に土下座をしに行くから。」と、役員会の決断を翻した時だけです。
同じ目的を持った組織的行動でも「強制」や「命令」によって行動する集団よりも、本人の意思で行動する自由な集団の方が遥かに結束力が生まれます。目標以上の結果を出す事もあります。
小金高校吹奏楽部の1期生としての私の役目は「メンバーが気持ちよく活動に参加できるような環境を作ること」でした。
今のよこすかは波に乗り物事は概ね順調に進んでいます。
私は「安定しているもの」や「軌道に乗っているもの」「変化の無いもの」「ありきたりのもの」「誰がやっても同じような結果になること」には興味が湧きません。
たとえ実現したいことであっても「今はその時期でない」と見極めたときは時期が来るまで寝かせます。
その采配こそが、物事の成否に直結するので、決断も責任も全て自分が負う覚悟でないと出来ません。
周囲から「なぜ直ぐに実行しないんだ」と見える時は、私の中では「今じゃない」か「ほかの方法は無いのか」と思っている場合がほとんどです。
その辺は自分の経験に基づく判断なので他人に理解されない事も多いでしょう。
こればかりは、説明してもしょうがないことで。
小金高校吹奏楽部創部40周年
創部年度記念としてはこれまでで一番大規模な行事です。
2005年の年末から入念な構想を練り始め、2007年7月に実際の準備を開始しました。
実際には1年半前に「コンサート会場の申し込み」を行い、連絡が取れる範囲の部長と代表者を集めて初の「部長会(説明会)」や実行委員会の立上げなどの準備を行ってきたのですが、こうして演奏メンバーが集まるのを見ると実感が増します。
10年前に「小金高校吹奏楽部定期演奏会開催20回記念・OBコンサート」というのを開いたのですが、定期演奏会を初めて開いたのが13期生なので、全OBを対象としての同窓会は今回が初めてです。
今回開かれる同窓会は10年前と比較してかなり広い世代が参加し、現在の申し込み数でも200名を超えています。
この行事の呼びかけを開始してから、私のところには懐かしい卒業生からのメールや電話がたくさんありました。
嬉しいことに、何年経っても瞬時に昔のままの関係に戻り、電話で話していても昔の話し方や呼び方になります。
高校生のときの「○○ちゃん」という呼び方が、何十年も経った今でも自然に口から出て、お互いにオバサン・オジサンになっても呼び方は同じです。
今回のOBバンドのために、7月末に第1回目の練習があり、久しぶりのOB・OGから卒業間もないOB・OGまでが森のホールに集合しました。
日ごろ「よこすか」で活動している卒業生もほとんどが加わり、よこすか結成のころの雰囲気を思い出します。
「よこすか」がOBバンドから市民バンド変貌した今、この40周年記念OBバンドは純粋に同窓生で演奏を楽しめる貴重な機会ですから、ふるさとに帰って来たような懐かしさに溢れています。
今日で5回目の練習が終わったところです。毎回、早い時間に来て、自主的に椅子を並べたり準備を手伝ってくれるのは若い世代(社会人初心者ぐらいの年代)が多く、とても助かっています。
練習自体は、毎回30~40人ぐらいの参加ですが、他で演奏する機会の少ないメンバーは流石に一生懸命練習に参加しています。
悪戦苦闘しながら取り組んでいるメンバー達と一緒に合奏するのはとても楽しく、充実感があります。
現時点では、まだ全てのメンバーとは顔を合わせていません。
社会人で多忙な人や、他の音楽活動をしている人はなかなか日程調整が難しいです。
今回のイベントは、日ごろは会うことなく過ごしていた同窓生たちが年代を超えて同じステージに乗るという目的があるので、「演奏技術」よりも「高校時代の部活愛」が大きな力となります。
残念なことに(10年前の行事のときもそうでしたが)OBバンドから始まった「よこすかウインドアンサンブル」である事実にも拘わらず、団長の独断(役員会すら開かれず)で、この記念行事に非協力的であったことです。他の役員は全員が協力的であった事は参加者の皆さんにお伝えしておきたいと思います。
OBバンドだった時代から長年ご来場いただいている皆様に充分なご案内を出来なかった事情はここにあります。
40周年記念行事の直前は静かな夜を迎えています。
明日と明後日は、最終リハーサルや最後の準備で慌しく過ごすので、多分今が一番静かな時だと思います。
よこすかの夏の演奏会以来、毎週末は大勢のOBたちと時を共に過ごしてきました。
まるで若い頃の様な感覚が懐かしく蘇りました。
この様な大きな行事を実行するには、多くのスタッフが必要になります。
心強い後輩たちは、自主的に各自の得意分野で役割をこなしてくれています。
毎回、私の予想を上回る見事な仕掛けを用意して会を盛り上げてくれます。
本番の日は朝からみんな良い顔をしていました。
慣れ親しんでいる会場なのですが、この日はメンバーが違うので、どこか勝手も違います。
コアラテレビの取材カメラが2台入り、3日後くらいのニュースの特集と、翌月あたりの特番の2つの番組で紹介されました。
※両番組とも映像が残っていますので、希望する関係者にはお分けします。出演者に配布する記念DVDにはニュースの方(12分ぐらい)の映像は入っています。
特番の方は1時間番組です。
2ヶ月前には初対面だったOB同士も今では仲良しの仲間になっています。
同窓生ゆえの繋がりや暖かな関係が演奏にも顕れます。
演奏を終えての皆さんの感想は、殆どが「楽しかった」「また、やりたい」でしたから、その言葉が聞けただけでも、この行事は成功と言えるのではないでしょうか。
そして、お客様のアンケートでも、「楽しさ・情熱が伝わってくる」といった意味合いの内容が多かったのも嬉しい限りです。
そういえば、mixiの方でもこの会の直後は盛り上がっていましたね。
この日の舞台裏の様子も、本番の演奏と共に編集して、参加者の皆さんに届きますから楽しみにしていてください。
記念演奏会終了後にレセプションホールで開催された同窓会には、吹奏楽部OBが230名ほど集まり、同期・世代ごと・楽器ごとなど様々な交流が行われました。
私が高校で吹奏楽部を立ち上げる際に目指した、上下関係のない世代間交流の集大成が目の前に出来ています。これほど嬉ことはありません。
みんなと過ごした2ヶ月間は忘れない思い出です。
もし私が元気なら、10年後にまたお会いしましょう。
よこすか入場者数歴代トップ2
よこすかのコンサートの中で、お客様の入場数が特に多かったプログラムが2つあります。
一番多かったのは「ザ・ムービー・オブ・ムービーズ」
切っ掛けは団員の意見による映画音楽特集でしたが、よこすかでやるなら、何処にも負けない最高の物にしようと練り始め、現存する楽譜から曲を選ぶのではなく、名作と呼ばれる映画の中から音楽と映像が同時に思い浮かぶ様な曲に絞ろうと拘りました。
映画の題名を聞いただけでメロディーが浮かぶ様な曲。まさに「名画の中の名曲」によるコンサートになりました。
ステージから見ても、それは明らかで、会場の席がほぼ埋め尽くされていました。
特に宣伝などに力を入れた訳でもなく、「チラシ」「ポスター」などに載せられた「プログラムの企画・曲目」がお客様を呼び寄せた結果だと思います。
そしてアンコールも、「ここで、この曲が演奏されたら、うちのお客様は、思わず拍手をしてくれるはず」と確信して決めた「ダースベイダーのマーチ」と「男はつらいよ」。
よこすかウインドアンサンブルのコンサート・プログラムを組むのは、私の大きな役割のひとつです。
振り返ると、他団体を含め100回以上の演奏会プロジェクトに関わり、その全ての演奏会でお客様の反応を体感してきた賜物です。
大震災後の初めてのコンサートでは「愛と夢」をテーマに「バレエ音楽」と「ディズニーの世界」、昨年の夏は「家族連れで楽しめるファミリーコンサート」、そして今回は「名作映画の世界」。よこすかはこれからも魅力的なコンサートを続けてくれるでしょう。
そして、次に人気があったのは「クラシック名曲コンサート」
1960年代~70年代は、クラシックオーケストラもポップスを演奏し、ポップスの楽団にも弦楽器やホルンなどが入るなど、ジャンルの垣根が低い時代です。
ポールモーリアやマントヴァーニなど、ポップスオケ(フレンチ・ポップス)が続々と来日して大きなブームになりました。
日本でもクラシックの名曲に歌詞が付けられて大ヒットしたり、音楽のジャンルに偏見を持つ人が少なかった気がします。
今の団員が知らないようなクラシックも、むしろこの時代を経験した(私より少し歳上の)方たちに懐かしい曲で構成したのが良かったのだと思っています。
現在は吹奏楽の作品も多くなり、クラシック音楽も作品の傾向が変わってきましたから、よこすかも時代とともに取り上げる曲が変化すると思います。
私自身もクラシックファンですが、癒しを求めるときはロマン派や国民楽派の曲を聴きます。多様化すると選択も難しくなりますね。
よこすか50回目の演奏会を終えて
50回記念演奏会が終わりました。
今までの演奏会で、一番準備が慌ただしかった演奏会でした。
例年の冬のコンサートは2月が恒例だったのですが、諸般の事情で4月29日にずれ込んだため、夏の「50回記念」の準備期間が3ヶ月になってしまったこと。
これは、アマチュア楽団の練習期間としてはかなり厳しいスケジュールでした。
特に記念企画の目玉であった「ジュークボックス」では、10曲準備しておいて当日にお客様に3曲選んでいただく企画で、外れた7曲は演奏されません。
アンコールを含めると、約6回の練習で15曲練習するわけで、1回の練習が正味約2時間で単純計算しても、通し練習をするだけでも時間が足りない。
演奏者との企画についての意思疎通の時間も足りなくなるという、ストレスの溜まる日々は、演奏上の事以外の諸準備を担当する団員も同様です。
企画面では1年前から企画委員会を立ち上げて、月に2回ぐらいのペースで会議を行ってきたが、最初の頃は実感が沸かないのか会議の出席率も悪く、具体的な意見も出てこなかった。
途中で、春のコンサートのため1ヶ月ほど会議を中断して、5月に再開したあたりから企画委員もやっと本気モードになってきました。
練習スケジュールが3ヶ月という短期間であった特殊事情も重なり、15曲を6回半の合奏で扱うのも現実的には相当な負担がありました。
毎回の練習に全員が揃う訳でないため、1回の練習で可能な限り多くの曲を演奏させることが優先になり、団員も曲に馴染む余裕が無かったように思うし、正直なところ、練習した気がしないまま時間が過ぎました。
アマチュアの場合、練習でコツコツと時間を掛けて曲を仕上げていく時間も楽しみの一つであると思うが、その時間が、指揮者にも演奏者にも足りなかった。
今回は「回数の記念演奏会」ということなので、今までの慣例に従い音楽監督である私が中心になって企画事業を進めてきたが、その業務量は予想をはるかに超え、たまたま、私の体調が悪くなった時期と、腰椎の手術という想定外の出来事も重なり、体力的にもかなりな負担であったというのが正直な感想。
途中からでも全役員に参入を求めて役割を分担した方が良かったと、後になって思った位に大きな行事になってしまった。
今回は、自分としても最後の大仕事と思って取り組んできたが、同時に「よこすかの抱える負の課題」の存在するかを見た。
よこすかの次の大事業は2年後の「結成30周年」であるが、それは役員主導で行う事業なので私の仕事は大幅に少ないはずです。
ほぼ同時期に、私には「小金高校創立50周年記念」と「小金高校吹奏楽部創部50周年」という大きな行事が控えているので、むしろ来年・再来年が大変です。
今回の演奏会が、私のよこすかウインドアンサンブルにおいての最後の大仕事となるので、特に中堅以上の年齢の人に期待したいと考えています。
もともと、人に喜んでもらうことが好きだった私は、当然のように、後輩たちが望んでいることを実現することに喜びを感じていました。
その対象が「後輩たち」と「お客様」の両方になって具現化したのが「OBバンド(よこすか)」です。
コンサートの中身も、後輩たちが演奏したい曲をまず選んで、私のすることは、それを一般のお客様にも喜んでもらえるような姿に整えることです。
若い世代から見れば、私が自分の考えで全てを決めて実行しているように見えるかもしれませんが、それはむしろ逆です。
私がすることは、テーマ(課題)と理由を提示することと、自分の経験上で「これは止めたほうが良い」と思ったことをストップする事だけにしています。
当然、テーマを提示するときには私の頭の中にはラフ・スケッチが出来上がっていますが、それは自分の心の中に留めておいて、団員には別の視点で提案したり考えてもらうことで、目標以上のものが生まれることを期待しているからです。
自分が設計段階で「時間的に無理だろう」とか「団員の負担が大きくなる」などの理由で除外しておいた案が、企画委員や役員から提案されることも案外多いのですが、それは逆に頼もしく、大歓迎なことです。
同じ内容であっても、私の指示で実行するより、団員が自主的に実行した方が潜在能力を発揮できたり、本人たちの達成感も生まれるケースが多々あるからです。
もしかしたら失敗するかも知れないという事でも、人に迷惑がかからないようなことなら、敢えて失敗のリスクを背負うのも後輩たちの良い経験となるだろうと思って見守ることが出来る過渡期的な見方も出来ます。
自分の考えを変えなくとも、新しい事や方法は自由に後輩たちに任せる。それが永い目で見て良い結果に繋がれば、楽団にとって何よりの財産になるでしょう。
小金高校創立50周年
母校である県立小金高校が創立50周年を迎え、記念式典の協力依頼がありました。
式典の際の校歌や記念曲の伴奏と、第2部の「映像と音楽で綴る50年」の音楽を演奏することです。
よこすかウインドアンサンブルがOBバンドであった時代であれば「よこすか+吹奏楽部卒業生+現役」で演奏しようと考えたのですが、現在はよこすかの半数が小金高校卒業生でなく、それなら卒業生+現役部員で演奏した方が相応しいだろうという考えの元で、式典実行委員の音楽監督として参加することにしました。
式典と同時進行のため、あまり人数が多すぎても舞台に収まらないため、現役と卒業生の合計88名の編成に収めました。
3時間近い行事の中で、演奏する部分とその他の出し物があり、それでも演奏曲は相当な曲数になりました。
丁度、顧問が幕張総合から転任してきた中島先生に交代した年だったので、現役の上達が早く、卒業生は森のホールでリハビリしてから現役と合流しました。
この機会があったため、翌年の吹奏楽部創部50周年は更に素晴らしい演奏会になりました。
約1年前から準備を進めてきた母校の創立50周年記念式典。
この年は私にとっては大変忙しく目まぐるしい年でした。
8月に「よこすかウインドアンサンブル第52回演奏会」、9月にコパンの訪問演奏、10月にアンサンブルコンート、11月にこの50周年記念行事と続き、どの行事も仕切る側の役目なので毎日が慌しかった記憶が残っています。
いよいよ今年最後の大仕事。
学校行事でもありますが、実行の主体は同窓会。
そしてPTAや卒業生を含めて実行委員会が組織され、どの部門も最高の成果を上げようと努力しています。
内容を決めるのは第2部の式典担当チームですが、内容が決まった後は夫々が関わる分科会に分かれて会議を進めます。舞台関係の知識や経験者の出番が多くなり、記念式典の進行と音楽は、小金の定演で毎度お馴染みの面子が現場を仕切ることになりました。
いろいろな立場の人が集まって一つのことを作り上げることの苦労は数々経験していますが、今回は規模が違います。
それぞれの分野ごとや、一般社会人と教職員の時間的概念や社会理念ルールの違いも多く、調整は難航しました。
実行委員会は社会人の集まりなので、そうそう多くの回数は集まれないため、月単位とか週単位で話が進んでいきますが、学校は毎日同じ環境で話が進められるため、日単位で話が進みます。
既にホールとの打合せも済み、実行委員会で決定した事柄にも拘わらず、学校内では実行委員会への確認や相談もなく違う方向に話を進めてしまうことも多くありました。
本番まであと2週間です。
無事に盛大なる式典に仕上げるべく、最後の詰めに突入しています。
よこすか結成30周年
よこすかウインドアンサンブルが結成30周年を迎えました。
このOBバンドは「吹奏楽部の卒業生が再び楽器を演奏したくなったら戻ってこられる場所を作ること」「それを定着したバンドにしたい」というポリシーで結成した、小金高校吹奏楽部OBによるOBのためのバンドです。
同時に、出身校の吹奏楽部を様々な形で支援するという内容も含まれていました。
小金高校吹奏楽部の卒業生は母校に足繁く訪問する者が多く、これほど集まるのなら一緒に楽器を吹きたいね、という切っ掛けから始まりました。
現在のよこすかウインドが始まる更に5年以上前の話です。
やがて、卒業生自身に楽器への思いが蘇り、楽器を演奏し続ける欲が出るのを見計らい、折良く「コンクールに出たい」という話が切っ掛けで第2期OBバンドが再開しました。
よこすかウインドアンサンブルという通称名での活動を始めて3年が過ぎ、更に上を目指す意識が見えてきた様子を見て、よこすか初のコンサートの開催を決めました。
継続させる意思は無かったので「第1回」という文字はポスターにもチケット、プログラムにもありません。
30周年記念コンサートの打上げの席上で団長が「この楽団は何のポリシーも無く生まれた楽団です」と発言していましたが、それは丁度この頃の「よこすかウインドアンサンブル」を指しています。
そのころには当初のOBバンドのポリシーは、演奏会のスタッフチームが担い、毎回の定期演奏会に裏方として働いてくれていました。
よこすかウインドアンサンブルのコンサートが定着して暫くすると、初期の勢いを失い、毎週の練習日に4~5人しか集まらない日々が何年も続いた時期がありました。
それでも、諦めずに守ってきたのは、いつの日かまた集まり始める日が来ることを信じていたからでもあります。
長年辛抱強く待ち続けた甲斐があり、少しづつ、本当にゆっくりと復活したよこすか。
重い病が少しづつ快方に向かうよな時期を経て、安定化して勢いのある市民バンドへと移行しました。
ここ数年は安定しているように見える楽団ですが、今こそ足元を見直して、細部を見据えた運営を期待したいと思っています。
私たちは、出演者が自己の資金を出し合って演奏会を開き、気に入ってもらえたお客様に来ていただくというアマチュアの楽団です。
驕ることなく真摯に決して無理をせず前向きに活動をする楽団になって欲しいと思います。
作曲家の指揮と演奏家の指揮
宮本文昭バースデー・コンサートin軽井沢 2009.11.4
宮本文昭を慕って集まった弦楽オーケストラMAP’Sを指揮しての還暦バースデイコンサートを聴きに行きました。
場所は軽井沢にある大賀ホール。
この日(11/3)の軽井沢は非常に寒く、前夜降った雪が残っていました。
天気は快晴で、駅近くのカフェで休憩、散歩しながらホールへ向かいます。
駅からは徒歩で10分くらい。のんびり歩くには絶好のロケーションです。
曲は
モーツァルトのディヴェルティメント:ニ長調
ドヴォルザークの弦楽セレナーデ
チャイコフスキーの弦楽セレナーデ
宮本氏の指揮を見るのは2度目ですが、熱い指揮ぶりで、チャイコは最近聴いた中でも最高に熱の入った名演でした。
アンコールの2曲目ではメンバーが立ち上がって「ハッピーバースデイ」を演奏し、娘の宮本笑里さんが花束を持って現れる演出。
最後の挨拶では「若い人達と活動を共にしていても、まだまだ学ぶことがあり、音楽の深さを感じる」と話していました。
旧軽井沢で夕食をとり、軽井沢で一泊。
帰りは、旧軽井沢の町を散歩してから、新幹線で佐久平へ向かい、そこから小海線に乗換えて清里で昼食。
JR最高地点へのバスツアーの観光客で一瞬混むが、それ以外は閑散としている。
タクシーで清泉寮へ向い、名物のソフトクリームを食べ、列車の時間の都合もあるので20分ほどで駅に戻り、急いで蕎麦屋を探すが閉まっている店が多い。
軽井沢もそうだったけど、季節はずれの観光地は開いている店が少ないですね。
小海線は車窓が綺麗なことで有名だが、紅葉が残っている時期だったので素晴らしい車窓を楽しみながら、小淵沢へ向いました。
ここからは中央線の特急あずさで新宿まで約2時間。
走り出してしばらくすると、もうあたりは夕闇でした。
そして今日は、作曲家・久石譲が指揮するクラシックのコンサートを聴きにサントリーホールに。
久石譲がプロデュースしている新日フィルのポップスコンサートや自身の映画音楽のコンサートの指揮姿は何度も見ていますが、今日は「未完成」と「新世界より」という純粋なクラシックコンサート。
開演前に本人から、なぜクラシックの指揮をしたくなったかのプレトークがあった。
演奏は、残念ながら期待以上のものではなく、お客さんもクラシックファンは少なかったようで、楽章ごとに大きな拍手が入ってしまう。
きっと、クラシックファンでなく久石譲の作品のファンが多かったのでしょう。
本人が作曲家として目指していたミニマルミュージックの新作を交え、作曲家として名曲をアナリーゼしてクラシック音楽を広めようと考えたのかも知れませんね。
そしてまた別の日に、元オーボエ奏者・宮本文昭指揮のコンサートを聴きに来ました。
宮本氏のオーボエのリサイタルには何度も足を運んで来ましたが、オーボエを引退して、3年間限定で引き受けたというフルオーケストラの指揮を見るのは初めて。
1曲目は、モーツアルトのディヴェルティメントニ長調。
なかなかの快演。
指揮姿は小澤征爾に似ている。
オーボエを演奏するときも動きの大きい人だったが、指揮は更に動きが大きく、体全体で音楽を引き出している。
長年の演奏者としての経験が、分かり易いアクションに結びついている様な印象です。
作曲家や演奏家が指揮をすると、やはり本業以外のためか指揮者の思いが楽員に上手く伝わってないような消化不良感を感じる事が多いのですが、宮本文昭の指揮はまるで自身が楽器を吹いているかの様な感覚になります。
2曲目と3曲目は、大島ミチルの作品で、「アルトサキソフォンと管弦楽のための断章」と「NHK大河ドラマ・天地人のオープニングテーマ」
舞台に現れた小柄な女性の作品とは思えない力強い分厚いサウンドの管弦楽作品でした。
メインの「エロイカ」は速めのテンポの颯爽とした演奏で、聴衆の反応も良く、素晴らしい演奏でした。
非常に腰が低く、控えめに舞台で拍手を受ける宮本文昭の姿が会場から笑みを誘っていました。
この3回のコンサートで「音楽を楽譜に込めることを本職としている作曲家」と「楽譜から音楽を再現することを本業としている演奏家」の音楽へのアプローチを興味深く体験することが出来ました。
天国にいる仲間たち
私は小金高校の1期生なので当然OBでも最年長です。
なので後輩が先に天国に行くなど考えもしていなかったので、初めて後輩の訃報を聞いたときは、相当な衝撃を受けたものです。
特に、毎週のように顔を合わせていた後輩が突然逝ってしまったときは、なかなか現実を受入れる感覚が持てませんでした。
5期パーカスのW辺、8期トロンボーンのN倉、11期のクラリネットのT口、13期トロンボーンのS土、19期トランペットのO川、皆あまりにも突然だったね。
いつも世の中を斜めから見ていたようなW辺。
独自の世界を持っていたT口。
いつもニコニコ笑顔で物静かで絶対に人から恨まれる事など有り得ないS土。
目立つ事無く穏やかに周囲を引き付けて物事を上手くまとめる名脇役のO川。
みんな今でも、普通にどこかで生活していそうな錯覚に陥ります。
なんで今になって、この仲間たちのことを書こうと思ったかと言うと、よこすか20周年や小金創部40周年という節目の行事が続き、自分たちの軌跡を振り返るときに必ず思い出すことだからです。
よこすかのメンバーに霊感の強い人がいて、あるとき「音楽室で合奏してたとき、背の高い眼鏡かけた男の人がトロンボーンを持って準備室から出てきて、合奏に入りたそうに見てた。」と言いました。
実際にその場には背の高い男の人はいなかったし、まして音楽準備室は鍵が掛かっていて誰も入ることは出来ません。
彼を見たというメンバーは小金の卒業生ではないし、年齢も離れているので亡くなった彼を知るはずは無いのですが、その特徴からすると思い当たるのは8期のNしかいません。
彼は「じゃあ、今度はクリスマス会の日に高校でね!」といって別れたのを最後に、言葉を交すことなく逝ってしまいました。
楽器が好きで、生きていたら必ずOBとして一緒に演奏するか、指揮をしていただろう彼。
小金のトロンボーンの中で1、2を争う名手でした。
酔ってチャイコの「悲愴」を聴きながら「会長!俺こういう曲指揮したい」と言って指揮真似をしていた彼。
週に一度位の頻度で会っていた彼との思い出は多く、毎週の出来事が突然止ったことによる生活の変化の衝撃は忘れられません。
彼が他界してからもご両親とは親交があり、我が家を新築したときに、オーダーメイドのレコード棚とオーディオラックをプレゼントしてくれた。
彼のお父さんは、ホテルや高級船舶などの創り付け家具などを作る職人で、彼も将来はお父さんの仕事を継ぐつもりでいましたから、ご両親の悲しみは見ていられないほどでした。
たまには皆で集まって昔話に花を咲かせ、天国の仲間たちを呼び戻してみたいですね。
(2006.8.8)
この文を書いた直後、8月14日にN倉の同期のK沢の訃報が飛んできました。
かなり長いこと会ってなかったのだけど、それこそ「便りの無いのは元気な証」と思っていたことへの後悔の念。
葬儀に集まった後輩たちと「今度は楽しいことで会おうね」と別れました。
年長組のOB会を恒例化しようと誓い、また皆と会う日を楽しみにすることにしました。
それにしても、前回のOB会のときに連絡が着かなかったのが悔やまれます。
話をしたかったよ。
(2006.8.18)
病と手術を経験する
2009年の演奏会本番終了直後に気分が悪くなり、起立性貧血と診断されたが、目眩に似た平衡感覚の異常を感じて総合病院で検査を受けたことがある。
それ以降、同様の症状が時折現れてはいたが、軽度の症状だったので何とか普通の生活を送れていた。
2013年1月の下旬に、風邪に似た症状と同時にから突発的に発症した原因不明の激しい目眩に悩まされた。
「めまい外来」のある総合病院で診察を受け、緊急を要するような悪性のもので無いと診断されたが、日常生活に何かと影響する目眩はとても厄介だ。
薬を飲み続けてください。但し即効性はありませんと最初に告げられていたが、5週間が過ぎた頃から徐々に症状が軽くなってきた。
とは言っても症状は安定せず、激し時と軽い時を繰り返す毎日が続く。
以前の、貧血性目眩は静かにしていれば治まるタイプだったのだが、今回の目眩は平常時でも軽度のふらつきが起き、上を向いたり急に振り向いたりすると急激に発症する。
高いところにある物が取れない・水を呑むときもストローが必要・目薬が差せない・うがいが出来ない、床屋や歯医者の様に上を向かなくてはならない事が何一つ出来ない不自由な時期を送っていました。
日常的にパソコンの前に座っていることが多く、映像編集と楽譜の浄書という、目を凝らして作業する時間が多かったので、目の疲労が目眩に関係するのかを尋ねてみたところ、眼精疲労が直接目眩に影響する事はないが、肩が凝ったりする作業は目眩に大いに影響するとの話。
疲労・睡眠不足・煙草(自分は吸ってないが)・首や肩の凝り・ストレス、の5つは目眩の原因になるそうだ。
なるほど。パソコン作業はどうしても連続してしまう事が多いので、小まめに休憩を入れるように気をつけようと思った。
最近は、風呂に入った時に、軽くストレッチすることを習慣づけているので、以前のように頭痛がするほどには至らないが、肩凝りは慢性的だから酷くならない様に気を付けようと思った。
年齢的に、身体に気を使うようにはしているが、故障が多くなるのはいたしかたない。
ここ数日は目眩が殆ど起きない程に改善されてきたので、少しづつ運動不足を補うように外出しようと思う。
その後1年半、ほぼ目眩から開放され、発症当時はテレビの激しく動く映像さえ見れなかったのが嘘の様に治りました。
本当のところは、何が原因だったのか判りませんが、今は元気です。
そして眩暈から解放された頃、椎間板ヘルニア腰椎固定術という手術を受ける事態が起こったのです。
2013年12月に激しい腰痛とともに足の痺れが現れたので総合病院の整形外科に行ったところ、腰椎が損傷して椎間板が神経を圧迫していると診断され、手術を言い渡されました。
検査予約や手術室とドクターのスケジュールの関係で、手術のための事前検査を1月下旬に1泊入院で行い、3月6日に手術となりました。
私の場合、第3第4腰椎の接続部が圧迫して潰れており、それによって発生したヘルニアが体の内臓側にあるため、第3腰椎を半分ほど取り除いてから椎間板を除去し、他の部位の骨を移植して金属で固定するという、腰の手術では結構大きな手術で結局5時間かかりました。
事前説明では、入院は術後1~2週間。1ヶ月は安静、3ヶ月で軽作業程度が可能、6ヶ月でほぼ完治という話でした。
手術の翌日からは歩行練習。体をねじる事以外は痛みが無い範囲で動かした方が良いとの指示があり、2週間で退院はしたものの結構不自由な生活です。
手術の翌月、4月29日には楽団の演奏会があり指揮をしなくてはならず、8月9日には楽団の50回記念演奏会があります。
手術の4日前に楽団の練習で指揮をして、結局2週間の入院後すぐに楽団の練習に復帰という無茶なスケジュールでした。
歩いた方が良いとのことなので、毎日家の周辺を散歩したり、コンビニぐらいの買い物には出かけるようにしましたが、外見上は健康な人と変わらないので周囲から心配されることが無く、楽団の練習スケジュールは変更することなく済みましたが、安静期間中に指揮をすることの不安はありました。
どうしても指揮をすると体をねじってしまうからです。
腰は字の如く「体の要」であることを実感しました。
体が曲げられないため「靴下が履けない」「服の着脱に異常に時間がかかる」「長時間の同じ姿勢が辛い」「直角な椅子以外はダメ(床やソファーはNG)」など、生活はとても不便です。
練習に行っても、立ち続けて指揮をすることが出来ず、椅子に座ったり立ったりと様子を見ながらです。
4月の本番が近付いて練習が仕上げ段階になっても無理な動きは出来ず、本番の直前まで「立って指揮するか、椅子を使うか」を迷いました。
後になって考えると、手術後一月半で本番の指揮をするのは、かなり無茶なことなのだと思いました。
本番前日の夜、無理な姿勢で足の爪を切っていたら突然腰に痛みが走り、演奏会の翌日に病院に行ってCT検査。
金属のズレは無く、大事には至らずに済みましたが、やはり最低でも半年間は無理をしないようにということでした。
ドクター曰く「腰に大怪我をしたようなものですから、すぐには直りませんよ」
術後、1ヶ月、3ヶ月、半年、9ヶ月、1年という期間で定期検診。
9ヶ月を過ぎた頃から、やっと安心していろいろな姿勢で動けるようになりました。
5年ほど前の起立性貧血に始まり、2012年に突発した原因不明の目眩の治療に1年半。落ち着いた頃に腰痛の悪化。
病気の連鎖で、安心して指揮台に立て無くなって久しく、2014年末の練習時は不安無く指揮台に立つ事が出来、健康のありがたさを身に染みながら2015年の新年を迎えました。
久しぶりに故郷へ
2011年3月9日、自分の誕生日に天気が良かったので、何となく幼少時代を過ごした日暮里に出かけました。日暮里と言っても最寄り駅は常磐線の三河島駅かた徒歩1分程度。
三河島で降りるのは久しぶりです。
子供の頃住んでいた方に向かって歩くと、3年前に来たときには無かった蕎麦屋が営業していたり、住んでいた家の向かい側に喫茶店が出来ていたりと、街の様相は変化していました。
まだお昼には早いので、尾竹橋通りをぶらつき、昔のまま残っている店を探しました。
子供の頃によく遊びに来ていためがね屋は健在。となりの写真屋も健在。
その隣にあった天ぷらやは店頭販売だけになっていました。
親に「この天ぷらやは伊東四郎のお兄さんの家だよ」と教えられ、確かに顔が似ているのを思い出して表札を見ると、確かに「伊東」と書いてありました。
私が子供の頃、近くに松島トモ子という女優が住んでいて、うちの犬が噛みついたことがあったという話も思い出しました。
小学生の頃住んでいた私の家は、産婦人科医・我が家(電気屋)・駄菓子屋・釣り具屋(親父の兄弟)・氷屋、が並ぶ小さな商店街でしたが、今はその姿はありません。
私が住んでいた場所を通り過ぎ、七五三通りを渡って出身小学校(第2日暮里小学校)まで行くと、そこは有名な生地問屋です。
裏道には韓国料理の店やアジア系の飲食店が並び、総菜などの商店街もあり、日暮里駅の反対側に行けば谷中・根津・千駄木です。食べ物には苦労しない街です。
昔は気がつかなかったけど、この辺りはどこに立っても必ず食堂や弁当屋が目に入ります。
しかも値段が安く300円未満の手作り弁当が店頭に何種類も並び、お客さんも列を作っています。
下町なので小さな町工場や事務所が多いため、お昼時は作業着や制服姿の人々が目立ちます。
日暮里駅前に出て都バスで浅草に向かい、仲見世をブラブラしました。
下町生まれの私にとって、この界隈は和むんですよ。
このあと地元に戻り市役所で確定申告をし、親父が入院している病院に寄って、久しぶりの長時間外出の一日でした。
まさか、この2日後に東日本大震災が来るとは…
東日本大震災
(震災当日)
この日は、2週間前に急に倒れた親父の容体を聞きに名戸ヶ谷病院脳外科の先生に面会に行く日でした。
約束の2時に着いたのですが先生は手術中との事でしばらくナースセンターの前で待っていました。
その時です、急に大きく長い揺れが始まり、看護師や付き添いの人たちと一緒にベッドを押さえたり点滴が倒れない様に必死に協力しました。
大きな地震は第2波が直ぐに来ると知っていたので「もう一度来ますね」と声をかけていると直ぐに第2波が来ました。屋上の貯水タンクから水が溢れ「いよいよ首都直下が来たのか」と思っていました。
担当の先生が手術を終えて部屋で病状の報告を受けました。
脳出血で脳全体に血液が回っているので恐らく意識が戻る事は無いでしょうとの告知があり、看護師から今後の説明を受けて家に帰りました。
病院がこんなに揺れているということは、我が家はどうなってるのだろう?・・・ 家に入るのが怖いな。 家が無くなっていたらもっと怖い。
車に乗っても、度々訪れる大きな余震。 ゆっくりと安全運転で我が家に帰り、玄関を開ける。
まず、あの重たい消火器が倒れている。が、玄関はそれ以外の被害は無さそう。
問題は2階のCDラックとAVラック。
見るのが怖いので後回し。
台所に入る。トースターが半分落ちかけている。 棚から殺虫剤の缶が落ちている。
思ったより被害は少ないじゃないか。
2階へ上がる。案の定、薄型TVが倒れている。
TVは後にしてパソコン周辺を見ると、大量の書類が床に散乱。ため息。
パソコンの位置もずれているので直して電源を入れてみる。OK。
本棚を見る。DVDが床に散乱。大きなため息。
CDラックを見る。何百枚も入っているのに、以外にも2枚しか落ちてない。
CDラックの上に乗せてあるDVDのファイルが1冊だけ落ちていた。
よく見ると、CDラック自体が移動していて20センチぐらい前に出ていた。
こんなに重いのによく動いたもんだ。
さて、最後に倒れていた薄型TVを元のラックに戻せば一応終わりかな。
えーーーーーーーーーー!!
TVの液晶の下に、金属製のミッキーの置物が。
液晶パネルは全面にヒビが入って完全にお釈迦です。
これじゃ地震のニュースも見れない。
とりあえず、1階のアナログTVをつないでニュースを見れるようにして、明日はTVを買いに行くことにした。
明後日に控えていた、うちの楽団のコンサートも中止になってしまったし。 それにしても刻々と露になる被害の大きさに驚いていた。
団員にもメールで様子を聞きまくる。
コンサートは、団員の都合が合えば、振替コンサートの案を検討することになりました。
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(震災翌日)
先ほど、柏駅周辺に行ってきました。
思っていたより車は多く、でもいつもの土曜日ほどでは無い感じです。
私は、駄目になったテレビを買い替えに、ビックカメラに行きました。
柏のコジマ電器は地震の被害が大きかったようで、営業を停止していました。
ビックカメラも意外に混んでいたのは、やはり地震で壊れたケースが多かったのでしょうか。
店員に尋ねると、運送関係が安定していないので、即日配達をお断りしているのと、在庫が減っているので、ご希望に添えない場合がありますとのこと。
1階に残っているアナログの買い替え予定もあったので、この際、2台購入することに。
1台は自宅に持帰り、電源を入れて設定を始めるが、画面は相変わらず地震の映像。
地震の被害は、時が経つに連れて大きさが分かってきた。
ひと晩過ぎると、昨日は分からなかった被害が徐々に伝わってくる。そして、被害の大きさに、やりきれない気分になる。
まだまだ地震は収まらず、震源地が移動しつつ不安をあおっていますね。
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(2日後)
一昨日、ホールの安全面の理由で使用禁止の連絡があり、演奏会は中止になりました。
その時点では、中止ではなく延期にして開催できるとことを望んでいましたが、偶然にも4月下旬にホールの空きがあると団長から知らされ、今回のホール使用料については、返却または次回の使用に振替という選択肢が提示されました。
急いで振替のシナリオを描き、役員や主だったメンバーに第一報を投げました。
その日のうちに何人かの団員に電話やメールで振替公演の聞き取り調査をして、振替候補日の中で最も条件が合う4/24に絞り、ホールの仮押さえを団長にお願いしました。
スタッフ、エキストラ、練習スケジュール、広報など、クリアしなければならない課題はありますが、このコンサートを楽しみにしてくださるお客様のためにも、頑張ってきたメンバーのためにも、開催を目指したいと思いました。
突然の中止からわずか2日後には振替コンサート開催に向けて動き始めた我が団体の行動力は頼もしいです。(結果的には、4月もホール使用開始の目処が立たず、このコンサートは中止になり、夏にコンサートが再開されました)
今日は、中止の告知を知らずに会場に来てくださった方々に案内をするために、団員有志でホールに集まりました。
いずれのお客様も状況説明に対して、暖かく応えてくださりました。
ちょっと慌しい日々が続きますが、団員の皆さん、頑張りましょう。
今日は、穏やかな天気です。
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(3日後)
信号機の停電による渋滞に巻き込まれないため、今日は徒歩で病院まで行ってみた。
いつもより自動車の数が多いような気がする。
今日は電車が動いてないからかな。
帰りにバスで駅に向かってみた。
途中で、壁が崩壊しているビルがあった。
そして、駅の近くを通ったとき、神社の石門が倒れているのが見えた。
すごいな、下の方でポッキリ折れている。
そして柏駅。
駅前の店がほとんど閉店している。
駅前は大型店が多いので、計画停電の時間で閉店を決めていたのだろう。
張り紙には「明日は10時に開店します。営業時間は未定です」とある。
東電が、直前まで停電時間や地域を発表しないから、店も国民も困る訳だ。
駅前通りもガラガラ。
個人経営の店は、電気が点いている間は営業するのだろう。小さな店は営業している。
駅を見ると、ホームに人影がない。
まだ明るい時間なのに、電車の来ない柏駅ってSFの世界みたいだ。
誰も体験したことのない世界が計画停電によって始まる。
明日が見えない世界はまさにSFの世界だよなぁ。どうなるんだろう。
震災後、いろいろな理由で、ほとんどのコンサートが軒並み中止になっていたのですが、久しぶりに生演奏を聴きに行くことが出来ました。
本来の公演は出演者の関係で中止になっていたのですが、同じ時間に同じ場所でチャリティーコンサートが開かれることになったのです。
中止のチケットを払い戻しせず、そのチケットでチャリティーコンサートに来場賜れれば~云々の但し書きがあったので、いつもの友人と出かけてきました。
演目も演奏団体も指揮者も、すべてが変更になってのコンサートでしたが、会場の東京文化会館大ホールには、客席の7割ぐらいのお客さんが来ていました。
最初に演奏されたのは、被災地で亡くなった方々への追悼曲として、バーバーの弦楽のためのアダージョ。
短い休憩の後に、マーラーの5番。
終演後、指揮者から今回のいきさつなどの話があり、「通常はマーラーの5番の後にアンコールなどあり得ないのだけど、今日はコンサートマスターと相談して、エニグマ変奏曲からニムロッドを演奏することにしました」と。
エニグマは、私の好きな曲のひとつですが、生で聴く機会は意外と少ない曲です。
マーラーの演奏では、充分なリハも出来なかったのでしょうか今ひとつ完成度は低かったですが震災への熱い思いが感じられました。アンコールのニムロッドでは涙を流す人も見受けられ、震災の直後のことなので、いろいろな思いが巡りました。
音楽というものは、非常事態に直接は何も出来ないものですが、復興期には人々に意欲を沸かせたり、勇気づけたりする力があると思います。
自分の楽団も、コンサートを2日後に控えていた時、大震災が起きました。
錯綜する情報に翻弄されながら、連絡を取り合った日々でした。
練習を再開することが出来るようになっても、被災地のことを考えると「自分たちは、趣味で楽器演奏などしていて良いのだろうか」と、皆が複雑な気持ちで過ごしています。
夢(親父が旅立つ日)
非常に重い疲労感を感じた一日を終えて、家に帰る途中で亀を拾ってきた。
そのまま2階へ上がり、床に放置する。
しばらくすると、いつものように、親父が帰宅して、居間の電気を点ける。
しばらく2階に居てから下に降り、居間を開ける。
夜に帰ったはずなのに、南側の窓からは夕日が射していた。
「明日は温泉旅行だってさ。」親父が言う。
「どこへ?」と訊ねると、「知らない。○○っていう処らしい」と言う。
聞いた事がある地名だ。「草津の方じゃないか?」と私が言うと「そうかな」と。
「そろそろ寝るかな」と夕日が射しているのにベッドの方に、居間の電気も点けたまま行く。
こんなこと言ったことがないのに、何故か「おやすみ」と言ってみた。
親父も「おやすみ」と返してきた。
「電気消すよ」と2階に帰る途中で言うと、「ああ、3つも点いてると何だと思われるからな」と言いながら親父は自分の寝室の電気を消した。
そういえば1階の3つの部屋の電気が全部点いていたんだ。
ついさっきまで雨戸が開いて夕日が射していたのに、1階は暗闇になった。
2階に上がり、部屋に亀が居ることを思い出した。
餌をあげなくちゃと思い亀を探すと直ぐに見つかった。
都合好く、レタスの葉を2枚、一緒に拾ってきている。
レタスの葉を亀の傍に投げると、ワシャワシャを凄い速さで食べ始めた。
急に、逆流性食道炎による吐き気で目が覚め、激しい疲労が戻ってきた……
不思議な夢を見たなと思いながら、夢の中で一瞬だけ、このひどい疲れから開放された感覚を味わった。
本当の開放はいつになるのだろう。
実は、今年の2月28日に、親父が倒れた。
そして、正に東日本大震災の起きた直後の時間に、私は担当医から「脳内出血で意識は戻らないだろう」との説明を受けた。
その後、入院期限を過ぎたため別の病院に転院し、6月に入ると「だいぶ容態が悪い。恐らく今週末まで持たないだろうと」と、付添うように言われた。
約1週間ほど、従兄弟と交代で病院に寝泊りをし、休むために家に帰った時に見た夢が、この「夢」である。
不思議な夢だけれど、なぜか「覚えておこう」と思い、起きて直ぐにmixiに書き込んだ。
夢から覚めてその足で病院に向かい、同日の穏やかな午後に親父は旅立った。
こういうことって本当にあるんだなと、説明の出来ない不可思議な思い出の日が残った。
退職を考えた日
2007年3月末で、約37年勤めた職場を辞めました。
定年より3年早くの退職です。
突然のことではなく、定年の2年前に退職することは前々から考えていたので、自分的には予定より1年早まった程度のことです。
いざ辞めるとなると色々と考えるもので、何より未知の世界に踏み出すのですから不安もありました。
人に話すと、必ず「何故、早期退職するの?あと少しなのに」と聞かれるのが常で、説明も大変なのであまり自分から人に報告することはしませんでした。
早く辞めた理由というのは一つではなく、いくつかの複合的な考えの結果なので人に説明するのは大変です。
ほとんどの人から、「いいねえ、悠々自適で」と言われますが、そんな気分ではないのが正直なところです。
他人からは、そんな風に見えるのでしょうね。
考えることは山ほどあって「将来に渡る健康管理のこと」「生活資金のこと」「親のことや家のこと」「生活環境の変化への対応」そして「人生の最後の目標」ということです。
突き詰めて言えば「収入がなくなる=生活の考え方を変える」ことであり、それをクリアしなければ「趣味を満喫する」などという目先の甘いことは考えられません。
私の周囲には若い人たちが多いので当然のことなのですが、彼らには「定年」「引退」という言葉の重みが理解してもらえませんでした。
私自身も、目の前に「退職」が迫ってきて、やっと実感したしたぐらいで、これから始まる未知の世界の事は分かりませんでした。
実際に仕事をやめてみると物事の見方も変化し、今まで気に留めなかった事の重要さが見えてきたり、逆に人生の中心と思っていたことが些細に見えたり、新たに「希望」や「楽しみ」を感てきました。
今は「自由な時間」や「感動」を大切にしたいという気持ちが増えています。
若いころに海外のオーケストラが来日する度に、世界中のほとんどの有名オーケストラを生で聴きまくりました。
もうその段階は過ぎて今はもっと身近な感動を体験したいと思う様になりました。
通常より3年早く引退して得た時間を、有意義に使おうと思っていたのですが、実際にはそれほど大したことは出来ていません。
ただ、早期退職した人たちに聞いてみると、何をするにしても「余裕」が全然違うと言います。
確かに年々体力的なものは衰える訳で、余力を残して引退する方が精神的にも肉体的にも余裕を持って対応できている感はあります。
逆に経済的な面ではマイナスになるのですが、それを引き換えにしても精神的な余裕で得るものは大きいとも感じています。
退職して最初の1年間は、在職時代に処理できずに溜まっていた私的な案件の整理に追われてしまった感がありますが、2年目になると少しづつ時間的な余裕が出来て、じっくりと自分の目的に目を向けられるようになってきました。
小金高校吹奏楽部創部50周年記念
1966年、私が高校2年の春に創部した吹奏楽部が50周年の年を迎えました。
約1年前から準備を始め、秋に開催する予定でしたが、学校行事との兼ね合いや大ホールの空き状況により年明け直ぐの1月14日に開催が決まりました。
秋から月に2回ペースでOBOGの練習が始まり、11月からは月に1回現役部員との合同練習を行いました。
前年度に80名で合奏練習をした時も狭かった音楽室に、卒業生だけでも85名、現役部員を合わせると約150人の合奏です。
本番ではステージを最大限に広くし、さらにオーケストラピットを上げて舞台を広くして演奏しました。
本番は約2時間半、当日のステージリハーサルだけでも大変な騒ぎです。
プログラムは
第1部:OBOG有志の吹奏楽団 指揮:波多野好美(1期生)、黒田尚宏(27期)
1.チェリオ・マーチ=オープニング演出曲
2.アルヴァマー序曲
3.スラブ舞曲第8番
4.アフリカン・シンフォニー
第2部:小金高等学校吹奏楽部の演奏
1.交響曲第1番「グラール」~第4楽章 ロンド-コーダ(天野正道)
2.第九Brass Rock
3.君の瞳に恋してる(フルートとバンドのための)
4.マイケルジャクソン・メドレー
5.バンドとコーラスのためのソーランファンク
第3部:卒業生と現役吹奏楽部員の合同演奏 指揮:中島正考(顧問)、波多野好美(OB会長)
1.春の猟犬
2.ディスコ・キッド
3.エル・クンバンチェロ
4.エルザの大聖堂への行列
アンコール曲
5.オーメンズ・オブ・ラブ
第2部の現役ステージは今は普通に行われる様になった振付や・踊りながらの若さ溢れる演奏を披露してくれました。今では県大会金賞常連で東関東大会に出場したり、数多くの全国レベルの大会にも出演する吹奏楽団になっています。
本番終演後は、200数十名による歴代吹奏楽部卒業生によるレセプションで盛大に盛り上がりました。
以前は葉書で連絡して皆が集まりました。40周年はメールで連絡、今回はSNSが主な連絡手段でした。連絡手段が変わり、一度連絡先が分からなくなると音信不通者が増えるのが今回最大の苦労でした。
10年前には「また10年後に」と思いましたが、この先続けられるのかは分かりません。
とりあえず「50年」という大きな区切りまで成し遂げる事が出来て私は満足しているし、嬉ことでした。
音楽監督を退任するにあたり
2018年度末を以て、音楽監督を退任しました。
但し今後も協力する前向きな意思を残し、団員としての身分を残した内部顧問という役を作りました。名前だけの顧問でなくアドヴァイザーという役割です。
たまたま同時に前団長も辞任するとの意向があり、彼は一団員として今までの裏方事務はそのまま継続してくれるとの申し出もあり、2019年度からは新体制で活動が始まりました。
但し、演奏会というのは半年以上前から準備をするので、2019年度の第60回演奏会は前年度の役員との引継ぎを兼ねて、新旧役員の共同で開催準備を行いました。
今後は音楽上の事は新音楽監督が、運営上の事は新団長が引き継いでくれるので、私個人としては体力的な面の負担を減らし、自分のペースで音楽に向き合える筈なので新たな楽しみが増えました。
音楽監督を辞任しようと考えていたのはかなり前からの事した。
一番の理由は年齢的な体力の衰えや体調の不良が多くなったことです。
眩暈、腰痛、最後には腰の手術、腎臓と肝機能障害などが発症しています。
酒を飲まない人間の肝機能障害は結構厄介なものです。
これまで、よこすかに対しては「強引に事を運ばず、団員発信の希望・要望を重点した音楽活動」の実現を心がけてきました。「楽団に必要な事であってもベストな時期を待つ」「個人の価値観だけでの行動はしない」という、小金1期生として得た教訓を元に団員と接してきました。
最近は、団員が個人の感覚を押し通して人の話を聞こうとしない者や、根拠も理由も知らずに一方的に非難する者を見受ける様な団体になりつつある事が残念です。
団体には様々な意見の人が集まっています。所属する以上は、他人の考え・心象・環境・立場など、様々な事を理解して発言や行動をする必要があります。
熱く語っている時には気付かない事でも、視点を変えたり、何かの拍子に気付くこともあります。
その時は一人静かに自己反省してください。
次に同じような事があった時にきっと役に立つと思うし、ゆとりのある優しい人になれると思います。
そういう人が増えれば楽団の危機も乗り越えられます。
新型コロナウイルス禍から
2020年3月から新型コロナウイルスによって様々な社会生活が一変しました。
仕事や家庭などの日常生活を筆頭に、私たちの様に趣味を日常の一部として過ごして来た者にとって、精神的な影響は大きいものです。
世の中の状況を考えれば、活動を一時休止して家族や職場などで第三者に感染させるリスクを回避しなければならない程、全世界に拡大感染してしまいました。
ウイルスが蔓延している事自体は現在も同じですが、感染リスクを下げる方法や感染した場合の処置方法が浸透しつつあり、私たちも「感染しない・感染させない」注意をしながら少しづつ以前の生活に戻ろうとしています。
吹奏楽において最も影響の大きい呼吸器系を襲うウイルスは脅威です。症状が出る人は全体割合では少ないが感染力は高く、軽症であっても発症したら後遺症が残り、暫く楽器が吹ける状態ではない方もいると聞きます。
楽器演奏出来ない事でストレスが溜まる人は多いと思いますが、今は趣味に限らず様々な事でストレスが溜まっている事でしょうし、個々の性格や体験によっても、考えが異なるでしょう。
しかし、ほとんどの人(団員)が「また演奏出来る日が来る」と信じながら、「感染しない、させない」生活を送っています。
今回の新型コロナウイルスに関する、音楽家やアマチュア演奏者の実験や挑戦している番組はほとんど録画して、再開の際の参考に残しています。
現状では、医療従事者・教育機関職員・対人窓口職・等に携わる人は、三密が発生する趣味に参加する事は社会的に難しいでしょうし、リモート勤務が出来ない職種の人たちや家族の脅威は変わってないと思います。
我々が、本当に趣味を楽しむにはまだまだ時間が必要かと思います。安全対策が講じられる団体であっても個々の生活環境が異なるため、しばらくは本人の判断で活動に参加することになります。
こういう時こそ他人の事(家庭環境・職場環境・個人の意思)をお互いに理解し合えないと団体は崩壊します。
楽器からの距離が一時的に離れる事よりも、団員同士の信頼心が離れる方が致命的です。
くれぐれも、「今、自分はどういう判断すべきか」を考えて行動して欲しいものです。
何かあっても誰も責任は取ってくれません。逆に非難される立場にもなり得る世の中ですから。