吹奏楽一筋の高校時代
新設の高校に入学したため、初年度は設備の関係で部活が結成できず、1年間は中学の同級生と市民バンドを組んで演奏を始めました。
友人の一人が指揮者であったため、私は彼のオーダーによって編曲する機会が増え、中学時代の顧問の先生に編曲を教わったり、書物により独学で編曲を学び始めました。
高校はまだ生徒会すら出来てない時期で、私自身も「生徒会準備委員」となり、なかなか経験の出来ない1年間を過ごしました。生徒会準備委員のメンバーは各クラス1名だったので全員で6人。休日登校があっても市民バンド活動には影響が無い程度の仕事でした。
この生徒会準備委員会はそのまま生徒会に移行し、私以外のメンバーは生徒会役員になりましたが、私はそういう役は性に合わないので辞退し、部活に専念することにしました。
準備委員の中に、明るくて活発で素敵な女の子がいたのですが、準備委員会が解散する直前に脳出血で突然他界してしまったのが、この頃の悲しい思い出です。
1966年の春に小金高校吹奏楽部が活動を始めました。小金高校の創立はその1年前の1965年4月、東京オリンピックの翌年のことです。
実際は高校創立の年に結成したかったのですが、校舎自体がまだ建設中であり、仮設教室(プレハブ)で授業をしていたような状態だったので、「2年目になったら楽器を購入するから1年間待ってくれと」と当時の音楽部顧問から告げられました。
中学時代にピッコロをやっていたというO野君と1年後に活動を始める約束をして待つこと1年。なんと、彼はサッカー部に入部しており「悪いけど吹奏楽はやらないことにした…」と。他にもトランペットをやっていた男子が2人いたはずなのだけど、部活が始まる頃には何処へやら。残りの部員は、フルートの女性2名とクラリネットの女性1名、あとは新入生(2期生)の部員たち。
そんな訳で、私は無理やり部長をやらされ、指導は先生がしてくれるものと思っていたら、「私は声楽が専門なので、普段は君が指揮をしてください。行事のときや、時間のあるときには指導に行きますから」ということで、部長兼指揮者になったのです。
周囲の人は、「指揮者をするようになって、楽器から離れた」と思っているかも知れませんが、今も昔も、指揮そのものに対する執着心は浅く、それよりも「喜ばれるコンサートの構築」や「楽曲の発掘や編曲」に大きな興味を抱いていた人間です。
年度が替わって吹奏楽部が出来たものの、位置付けは「音楽部」。音楽部の中に吹奏楽部とコーラス部があるという組織。それぞれに部長を置き、音楽部の代表は私で、コーラス部の部長が音楽部の副部長という位置付けなので、正確に言うと私は「吹奏楽部長兼音楽部長」でした。
楽器が来るまでの数日は待機状態でしたから、初めて楽器が届いた日のことは、とてもよく覚えています。職員室から「楽器が届いてますから放課後に部員を集めて取りに来てください」と連絡を受け、放課後に集まった部員で梱包を解いて、皆で屋上に上がり楽器を吹きました。晴天とは言えない曇の多い空でしたが、真新しい楽器を手にして思い思いに音を出した後、屋上で初合奏をしました。残念ながら、何の曲を吹いたのだか忘れましたが、たぶん当時の初級バンドの定番であった「海兵隊」か「ミリタリーエスコート」だったと思います。
当時はデジタル機器など発明されてない時代ですから、録音機材もオーディオマニアと呼ばれる人たち(後に私もその一員になってしまうのです)が「オープンリール・デッキ」を持っているくらいでした。従って当時どんな演奏をしていたかは、今聴くことはできません。
17名の部員による吹奏楽部がスタートし、最初の行事は体育祭。
入場行進の伴奏や、競技中の演奏など、17名なりに楽しい時間を作りました。顧問が指揮をするときは私は人が足りないユーフォを吹いていました。
一応、楽器経験者が多かったのですが、当時の国内では「指導書」や「楽譜」は現代とは比較にならないほど惨憺たる物で、輸入の楽譜や書物を探し回る日々を過ごしました。
特に不足していたのはポップス系の楽譜で、必要に迫られて編曲をしたのが、私の楽譜書き経歴のスタートです。
私が3年になった年に、やっと音楽室が完成。部員も3学年が揃い、25名の編成を組むことが出来ました。
ユーフォは後輩が入部してきたので、私は指揮のみをすることになり、ここで吹奏楽の楽譜不足の問題に直面し、私と楽譜の本格的な付き合いが始まりました。
この年に初のコンクール出場を果たし、Aグループ(昔の少編成部門)で第2位(当時は、金賞・銀賞などではなく順位が与えられた)を受賞することが出来ました。
自由曲は私が編曲した、チャイコフスキー作曲「スラブ行進曲」の短縮版。
そして、まだ本格的な「文化祭」が始まる前なので、「校内演奏会」や「校内クリスマスコンサート」を開催するなど、その後の私のプロデュース活動の軸が見え始めています。
その他にも、「校歌」の制定に伴い、全校生徒の伴奏用に作った吹奏楽編曲。高校野球の応援歌(体育の先生が無伴奏で歌ってテープに録音されたものを渡され)の編曲。体育祭で自作の行進曲を演奏。等々、吹奏楽部は学校の中で目立つ部活になっていました。
若いということは怖さ知らずでもあり、楽譜を書くことに楽しさを見出した高校時代は、編曲・指揮・部長として2年近くを過ごし、部活に明け暮れる毎日でした。
そして、練習大好き人間の私は、休日には8時間連続合奏なんて当然だったし、譜面台は楽譜の山。若い頃の私は相当に怖い指揮者であったようで、合奏の鬼だったと思います。
でも、練習時以外は後輩とお互いにタメ口で話せる部活ですから、何でも平気で言ってくるのでトラブルのない楽しい部活でした。
私が部長をしていた時代は「ミーティング」というのを一度しか開いていません。3期生を迎える直前に、2期生に対して「俺はミーティングはしない。その代わり、上級生は下級生の中に入っていろいろな話をして欲しい。いろいろな意見を聞いてやってほしい。そうしてお互いが理解しあえばミーティングなど開かなくても、それ以上のことが可能だ」と伝え、2期生は私の指示を的確に実践してくれました。その成果は直ぐに表れ、一躍「学校で一番仲の良い部活」が誕生し、職員室でも「ブラバンは何で皆あんなに仲がいいの?」と話題になるほど注目をあつめます。
練習時間でもないのに朝早く来て音楽室に集まり、帰りは全員で集団下校する。しかも、それは部の決まりでもなんでもなく、自然にそういう習慣になったのです。
部員総勢26名が毎日同じ様に集団で行動するのですから、学校でも目立ちます。
昔から見せ掛けの形式が嫌いだった私は、言葉遣いに関しても、「表面的に敬語を使っても意味が無いんだよ。対等に接していても、心の中のどこかで人を敬う心があれば、それは伝わる。だから普段は対等な言葉遣いでいいし、どんなことでも対等に話していいんだよ。」と部員につたえていました。だから、当時の部活内では後輩たちも敬語は使わず、ただひとつの縛りとして、社会人になっても通用するように、「先輩のことは○○さんと呼ぶ」ということは部の掟として決めてありました。
私が高校を卒業するとき、後輩たちは私が音楽関係に進むと思っていたそうですが、当時は音楽大学に進学する人は非常に少なく、私もコンピュータ関係の専門学校に進みます。
専門学校に通いながら週末は高校の部活に顔を出すという生活がスタートしました。
ここから先に、波乱の数年が待っているのですが、当時の私は若さゆえに気づかないことがたくさんありました。