楽譜を求めて
高校を卒業して直ぐ、中学時代に知り合った柏中と柏二中の友人たちと共に柏に市民バンドを結成しました。ここでは指揮をしなくて済むので、トランペットに執着心のない私は、編曲や作曲をしながら、人が足りないパートを自由に移動するという変わった役割を自ら担当し、パーカッションやチューバやホルンなどを演奏する機会を得て、後にバスクラやアルトサックスを買ったりする不思議な吹奏楽人間に陥っていきます。
しかし、呼吸器系の持病を抱えていたことが原因で、管楽器から離れる事も多く、その結果、楽譜を書くことに集中する時期を持つ様になります。
自分たちで作った市民バンドで、コンクール一般の部に出場したり、大会社の慰安会のゲストとして新宿厚生年金会館のステージで演奏したり、いろいろな経験をした時期です。
最初は柏の市民バンドや小金高校吹奏楽部で演奏するために始めた編曲でしたが、社会人になってからは、他の吹奏楽団からの依頼で編曲する機会も増えてきました。
印旛高校(文化祭用の編曲)、馬橋小学校(校歌の編曲)、松戸四中OBバンド(コンサートのアンコールの編曲)、JR東日本(当時は国鉄)吹奏楽団(東北新幹線上野駅開業式典の編曲)、帝京大学吹奏楽団(応援歌をテーマにした行進曲の作曲)等々、怖いもの知らずに書きまくっていました。
今思えば、年間に20~30曲のペースで書いていたので、スコアを残しておけば膨大な量になっていた筈です。
最近のように、パソコンで楽譜を作るようになってからは容易に残せるのですが、当時は手書きのスコアで、パート譜を作るのは先方に任せていたので、原譜を渡してしまうケースが殆どでした。
楽譜を書くという地味な作業が性に合ったのか、この頃から「まだどの団体も演奏してない吹奏楽向きの管弦楽曲を探してみたい」という野望に憑りつかれ、ヤマハの楽譜売り場に通ったものです。
クラシック好きと言うよりは、管楽器が活躍する曲という視点でクラシックを聴き始めたものですから、初めて買ったスコアはマーラーの交響曲第2番「復活」。聴いたこともない曲なのでその足でレコード売り場へ直行し、演奏時間84分、トランペット8パート、ホルン10パート、オルガン、混声合唱と児童合唱、木管も各4パート以上という曲を聴き(ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィル)、未だに大好きな曲です。
その後に、ドヴォルザークの8番(当時は4番と呼ばれていた)で東欧のクラシックが好きになり、チャイコフスキーの5番でロシアのクラシックが好きになり、短期間のうちに相当マニアックな作品や作曲家を聴くようになります。
今はどんな曲も割と容易に購入できますが、この当時は輸入は船便で3か月ぐらいが当たり前、価格も1$=360円の固定相場制だったので素人が手を出すには荷が重い時代でした。
最近は事情が変わり、購入は楽になったものの著作権が厳しくなり、TPP加盟により更に編曲できる作品が少なくなっているのが残念です。(お金で解決できることも多いのですが)
笑ってこらえて!という番組が切っ掛けで吹奏楽が一大ブームを起こし、最近は、いろいろな吹奏楽人が曲を発掘して発表することが多くなりましたが、編曲は手間がかかる割には収入を得られない仕事なので当時はそういったことをする人が少なく、アレンジのほとんどは輸入版に頼っていました。
更に吹奏楽の事情として学校の部活があってこそで発展してきたため、学校ごとに部員の人数や所有楽器がまちまちで、楽譜どおりの編成で演奏できることが少ない。
私が編曲を中心に吹奏楽と関わっていこうと思った理由の一つです。
この頃になると吹奏楽の分野でも指導者クリニックなどが盛んに開かれ始め、三重県にあるヤマハ合歓の郷で「吹奏楽指導者クリニック」が毎年開催され、私も休暇を取って参加したり、関東近辺で開催される吹奏楽指導者の行事には積極的に参加していました。
岩井直溥氏、保科洋氏、兼田敏氏、網代慶介氏、秋山紀夫氏などの講演やクリニックを聞きに行くのが楽しかったのを思い出します。