趣味か仕事か
人生の中で何度か選択を迫られたことがあります。それは、音楽を仕事にするか否か。
最初は大学進学のときですから、既に気持ちは決まっており、迷わずに「音楽は趣味で!」と言えました。
ところが二度目のときは就職先での事なので、正直困りました。
当時、私が勤務していた某市役所では交通安全課に「婦人交通指導員」という部署あり、主に学童の交通安全指導などをしていました。
その指導員で音楽隊を作ろうと言う話が起き、市役所内で吹奏楽やってる人として認知されていた私に白羽の矢が飛んできました。
いわば、職務命令の人事異動です。
とは言うものの、趣味を仕事に結びつける訳なので、本人にも承諾の機会が与えられました。
「仕事として、吹奏楽や音楽の講習会にも出席してかまわない」という条件まで付けられ 「音楽は趣味で続けよう」というつもりの私は大いに迷いました。
すでに、市は予算で楽器まで購入しています。
事は既に動き始めていたのです。
結論として、自分は「立ち上げに協力はする。しかし、所属は以前のままで仕事を続けたい」という意思を伝えました。
その、代わりとして、私の中学時代の友人を指導者として紹介することになり、彼は臨時職員と言う肩書きで、音楽隊の指導をすることになりました。
この時も練習場所は柏中でした。
若い頃には、それほど感じなかったことですが、歳を数えるに連れ、少しづつ「アマチュアのならではの幸せ」というのを心から感じるようになりました。
50代半ばを過ぎた今、音楽を趣味として過ごして来た道を振り返ると「アマチュアとしての自分のポジション」「アマチュアとして自分が残せるもの」「自分の人生を充実させる活動」ということをいつも考えていました。
遡れば、高校生の頃に「音楽の道に進むのか」どうかを訊ねられたとき、「音楽を仕事にはしたくない」と決めたときから始まっていたのでしょう。
私がアマチュアである幸せを感じるひとつに、後輩やメンバーたちと「人として」接する時間が豊富に得られたことがあります。
皆の前に(指揮者として)立つことによって、音楽をしながらメンバーと(音楽以外の)コミュニケーションをとることができました。
メンバーの表情を見ていれば、「今日は調子悪そうだ」「何か不満がありそうだ」などすぐに判りますから、そういったときには、自分から話しに行くことにしています。
何かグレーな空気を感じたら自分から入って行って見極めることが大事だということは、「膨大な数の後輩たちと接した経験で得た」、自然に身に着いた行動です。
それを積み重ねることによって得た無形の資産は、私にとって何物にも替えがたい貴重な物であり有益な経験です。
アマチュアがプロと異なる点のひとつに、「音楽技術の上手下手」が社会人としての人格とは結び付かないという点があります。「高校の先輩後輩」の絆から仲間や友人に自然に変化する様な関係が私の理想です。
プロであれば「楽器の音色が汚い」「音程が悪い」「指導が下手」などは直に「音楽家」としての格が下がり、いくら「素晴らしい人間性」であっても演奏家としての評価は下がり「努力」は評価はされません。
アマチュアは、社会人としての評価が第一で、趣味の技量が劣っていても「努力」は評価されます。たとえ小さな結果でも「努力」は大きな満足感をも与えてくれます。
アマチュアは「人間性」に問題があれば、いくら演奏技術が優れていても、社会人や仲間として嫌われます。
中には、プロ志向のアマチュア団体もあり、わずらわしい人間関係よりも、音楽という趣味の目的だけを追求したいという姿勢の人たちが「高い目標と技術向上」を目指して頑張っています。これも一つのあり方だと思いますが、社会人という土台は同じです。
人間性を重視する団体と技術を重視する団体との主旨が分かれるところですが、どちらも趣味の世界であり、それぞれ求めるスタイルが違うだけであり、音楽の懐はそれらを包み込むほど深く広いものである筈です。
プロの音楽家の中には、アマチュアを相手にする際に同じやり方で臨む者がいます。
アマチュアに音楽を伝えるということは、相手に応じて分かりやすく丁寧に伝える事が必要であり、それを納得したうえでアマチュアからお金という対価を頂くのが仕事です。その辺を分かってないプロは意外と多いものです。
一般社会人の音楽活動の場で仕事をするのなら、それなりの対応術を勉強するのは最低限の条件です。
不用意な一言で、アマチュアから音楽を奪うような人を見受ける事がありますが、音楽を嫌いにさせるような者は音楽家失格です。
音楽は音楽家だけのものではありません。誰もが自由に自分の生活に合わせて楽しむために生まれてきたものが音楽であると私は思います。