“知性のまやかし”
“全身の不動の動の熱気に始まる”
“逆流(ぎゃくる)”(Timeless movement)とは何でしょうか?
“不動の動”(Immovable mover)とは何でしょうか?
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“Identity epidemic”とは何でしょうか?
“何々人”“何々国”、これが人の殺戮し合う第一の要因でしょうか?
“はからない”(J.クリシュナムルティ)生を生きることは不可能でしょうか?
我々は“猥褻の民”でしょうか?―『思考の限界ー知性のまやかし』
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「あらゆるものが何と深く成熟して優しくなるのでしょう。そして、あらゆる生命がその中に存在しているとは、何と不思議なのでしょう、守ることを露ほども知らない萌え出したばかりの若葉のように」(『クリシュナムルティ・ノート』)
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「気をつけていること」(ザーネン・ダイアログ 3 1972年)
「気をつけていないこと」(ザーネン・ダイアログ 4 1974年)
「精神集中」(ニューデリー・トーク 8 1959年)
「観察者と観察されるもの」(ザーネン・ダイアログ 1 1972年)
「見ることと耳を傾けること」(ザーネン・トーク 6 1983年)
「空間」(マドラス・トーク 6 1965年)
「閃き」(ザーネン・トーク 2 1972年)
「死んでやり過ごすこと」(ボンベイ・トーク 7 1958年)
「徳行と秩序」(パリ・トーク 4 1965年)
「瞑想 1」(マドラス・トーク 6 1979年)
「瞑想 2」(オーハイ・トーク 6 1980年)
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あらゆる条件づけを死んでやり過ごすとは?
『精神を条件づけから自由にすることが悲しみの消滅です』『...いま死の館に入ることです。死がやってくるとき、それは生きることと同じように活力のある途方もない瞬間に違いありません』『もしその状態がいま経験されうるなら、生きることと死ぬことは同じです』
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「真理の中を生きること」(『思考の限界ー知性のまやかし』)
「欲望と善」(『同』)
「気づきと気をつけていることを超えて」(『同』)
「思考と気づき」(『同』)
「伝統と真理」(『同』)
「閃きの解放」(『同』『時間の消滅』)
「愛の叡智」(『同』『時間の消滅』)
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「真理は争いを消滅させる触媒です」(オーハイ・トーク 1984年)
「快楽のどこが悪いのでしょうか」(オーハイ・トーク 1984年)
「質疑応答 1」(オーハイ・トーク 1984年)
「質疑応答 2 自然と環境」(オーハイ・トーク 1984年)
「炎のごとく気をつけていること」(オーハイ・トーク 1984年)
「愛は意識の一部でしょうか?」(オーハイ・トーク 1984年)
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我々をバラバラにしているのは我々の観念でしょうか?
我々は観念の奴隷でしょうか?
“日本人”という観念を死んでやり過ごすことができますか?
“家族”という観念を死んでやり過ごすことができますか?
“人間”という観念を死んでやり過ごすことができますか?
『あーっ、自殺するのではありません、宜しいですね』(J、クリシュナムルティ)
事実とは何でしょうか?
内と外のメディアとは何でしょうか?
人は事実を見ていますか、事実に触れていますか、事実を感じていますか、事実を言葉にしないで飲み込むことができますか?
言葉は時と場所の不覚でしょうか?―「気をつけていないこと」(ザーネン・ダイアログ 4 1974年)
大津波に飲み込まれた先人たちの畏怖の叡智のあの“赤い鳥居の形”とは何でしょうか?
時と場所を慈しみやり過ごすのは何でしょうか?
“他者性”とは何でしょうか?―『クリシュナムルティ・ノート』
土を汚し、水を汚し、海を汚し、大気を汚す“人間”は退場しなければならないのでしょうか?―『同』
「事実や現実が悲しみをもたらすのではありません」(『同』)
事実を言葉にすると悲しみが生じるのでしょうか?
放射能に犯され、有機水銀に犯され、電磁波に犯される人の世で、呼吸の一つひとつの呼気と吸気の中に、時間と物質を超えた何かがあるのでしょうか?
思考未生以前とは何でしょうか?
時間未生以前とは何でしょうか?
物質未生以前とは何でしょうか?
精神にとっては、ただ今があるだけであり、明日というものはないのでしょうか?
「人は一日で成熟し、一日で朽ち果てる必要があります」(『同』)
今のあなたがあなたの葬式の風景でしょうか?
精神の条件づけを余すことなく死んで置き去りにして、精神のにじり戸をくぐると、そこにあるのは何でしょうか?
人が宇宙と称するものの先に時間と物質を超えた何かがありますか?
時間の壁とは何でしょうか?
笑いやお喋りはこの壁を厚くするだけでしょうか?
「御覧なさい、その壁が溶解します、打ち壊されます、もしあなたが叡智と共にその愛の質を手にするなら」(『思考の限界ー知性のまやかし』『時間の消滅』)
感受性は愛でしょうか?
「人は鈍さを持て余して狡知に長けます」(『クリシュナムルティ・ノート』)
「人はここに長居してはいけません...遙か遠くに離れていなさい。山々や汚染されていない空気のように、遙か遠くに離れていなさい、両親や関係性や家族や国と縁を切るほどに遙か遠くに離れていなさい、自分の居場所さえ分からなくなるほど遙か遠くに離れていなさい」「彼らは社会とか家族とかと称するものを持ています、この二つが彼らの本当の神々であり、それらは人がその中に絡み取られる網です」(『同』)
『非常に遠くへ行くためには、非常に近くに来なければなりません』(J.クリシュナムルティ)
死の意義とは何でしょうか?
余すことなく気をつけていることは、あらゆる条件づけを葬ることでしょうか?
生きるとは死ぬことと見つけたり(某所の落書き)
存在する美とは何でしょうか?
「真理を真理として、誤りを誤りとして、そして誤りの中にある真理を真理として見て取るのが否定の行動です。それは行動であって観念ではありません。思考や観念や言葉の余すことのない否定が既知からの自由をもたらします」(『同』)
柔らかな若葉の脆さと強靭さの相即不離は愛でしょうか?
「観察者が正に観察される当のものです」「念と念とで相撲取る」(盤珪永琢)「空間とは何か?」(ザーネン・ダイアログ 1 1976年)
「テクニック、メソッド、システム」「瞑想とは何か」「“日本人”という“ヘッドギアー”を脱げますか?」「“ひら・めく”ということ」(ザーネン・ダイアログ 2 1976年)
「時間のベールの背後」;「薄板界」「逆流(ぎゃくる)のエロス」(稲垣足穂);「生きるとは死ぬことと見つけたり」(ザーネン・ダイアログ 3 1976年)
「私はあなたのグルではありません、私はあなたのリーダーではありません、私はあなたの教師ではありません」(ザーネン・ダイアログ 4 1976年)
「時間を超えるもの」「言葉を超えるもの」「不生でおわせ」(盤珪永琢)「聖なるもの」(ザーネン・ダイアログ 5 1976年)
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『はからない精神』(『MIND WITHOUT MEASURE』)
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“知識”とは何でしょうか?―『全く異なる生き方』(『A Wholly Different Way of Living 』)
“知識”は人を断片的にしますか、人を自己中心的にしますか?
“意識”とは何でしょうか?―『同』
“意識”は世界を見る“鏡”でしょうか?―「私は世界であり、世界は私である」(『同』)
“鏡”というのが曲者でしょうか?
ないものをあるように見せるのが“鏡”でしょうか?
“メディア”は現代の“鏡”でしょうか?
“事実”とは何でしょうか?
“鏡”の発見と“私”の誕生は同時でしょうか?
余すことのない全身の熱気が“鏡”を打ち壊して洗い流すのでしょうか?
“触る”と“触れる”は全く別のことでしょうか?
古語の“降る”“触る”“振る”と“気がふれる”は本来同じ消息を伝えているのでしょうか?―“他者性”(『クリシュナムルティ・ノート』)
“空間”とは何でしょうか?―『全く異なる生き方』
人は 足元の 野草の中の 目くるめく言葉にならない優しさに 触れて見たことがありますか?
“宗教”という言葉を知らないで 囀る小鳥たちや芽を吹く植物たちの 至福といったらないでしょう―「宗教とは何か?」(『同』)
“今”とは何でしょうか?―『同』
“今”の美とは何でしょうか?
“今”の聖性とは何でしょうか?
“今に生まれ変わる”(J.クリシュナムルティ)とは何でしょうか?―『同』
思考は“今”に触れることができますか?
“今”とは天体の美のことでしょうか?
“逆流(ぎゃくる)”(Timeless movement)とは何でしょうか?―『全く異なる生き方』
地球の自転と公転に“逆流する”“不動の動”(Immovable mover)とは何でしょうか?―「その二つが共に活動している生き方であり、その二つの流れが齟齬をきたさずに流れる生き方です」(『同』)
菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村
“今”の呼気と吸気が思考の“猥褻”を洗い流すのでしょうか?
“今”のあなたの逆説的な普遍性とは何でしょうか?
『貴殿が不生の仏心の生き仏であるのを、身どもが見届けて進ぜよう』(盤珪永琢)
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『水俣病公式確認60年記念特別講演会』(主催:水俣フォーラム)(2016年5月3・4・5日)の二日目のアンケートにこたえて:
『何々人、何々国という“土俵”の中にいる限り、何らかの序列化や差別化や何らかの優劣の競い合いや優遇されるものや排除されるものなどが生じるのは必然だと思われます。それらがその“土俵”のエネルギー源だと思われるからです。
我々はその“土俵”の中で生活していますが、“土俵”の“苦海”を観察するためには、川の流れを観察するときに川から抜け出して岸辺に座って見なければならないように、“苦海”の中にいながら“苦海”を岸辺に座って余すことなく見て取るかの如く、それを何のはかりごともせずに一つ残らずやり過ごす眼差しがどうしても必要であると私には思われます』
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『親が子に産み付けた』(盤珪永琢)のは何でしょうか?
不生不滅の死とは何でしょうか?
自己の“時と場所”を死んでやり過ごす丹田の美の叡智とは何でしょうか?
静かさや死する擬態の生命かな
生きるとは死ぬことと見つけたり
同じ世界を違う世界に変質させる丹田の“錬金術”とは何でしょうか?
K:そのような二人が出会うと、何が起こるのでしょうか?―J.クリシュナムルティ D.ボーム 1975年 10月11日 ブロックウッドパーク
駒落とし幾千年の不生かな
『本当は“時間”などはない』(稲垣足穂)のでしょうか?
『大いなる経験を願うのは実際のことからの逃亡です。むしろ その実際のことの中にのみ この上なく不思議なことが起こるのです。』(J.クリシュナムルティ)
『“今”に生まれ変わる』(J.クリシュナムルティ)―脱皮した蛹のように―とは何でしょうか?
“脱皮した蛹”が死んで置き去りにしたものとは何でしょうか?
『Reincarnate now』(同)丹田の熱気に始まる
子宮は時間の中に生み落とし、丹田は時間の外に生まれ変わるのでしょうか?
“現実”をやり過ごす“今”とは何でしょうか?
憑依する観念をやり過ごす“今”とは何でしょうか?
“落下する毛虫のごとく”;『 Water off a duck's back』(J.クリシュナムルティ)
『その美を見て下さい』(同)
『これが“瞑想”です』(同)
天体を内に孕む“今”とは何でしょうか?
我々は快感で内に閉じた“猥褻の民”でしょうか?
あなたの中に“月”は出ていますか?―『一千一秒物語』(稲垣足穂)
“何々人、何々国という災い”
“日本文化”という“観念”を拒絶する美とは何でしょうか?
“誰にも似ないこと”(稲垣足穂)
“二番煎じ”(J.クリシュナムルティ)
コンピューター・アルゴリズムをやり過ごす天体の美とは何でしょうか?
マルセル・デュシャンの遺作:デュシャン版“モナリザ”の首無し裸体少女が手にかざすアーク灯の美とは何でしょうか?
『...好む相手の裡に根源的自己を読み取ろうとするもの、そこに失われたアンドローギンを回復しようとする普遍的ナルシシズムである』(稲垣足穂)
あの“赤い鳥居の形”のコズミック・カタルシスとは何でしょうか?
『成熟は、あらゆる経験をやり過ごして、精神が、もはや、有形であれ無形であれ、いかなる影響下にもないことです』(J.クリシュナムルティ)
『話し手はインドのパスポートを持っていますが、偶々インドで生まれたにすぎません。私はインド人ではありません』(同)
あなたは“日本人”でしょうか?
歴史未生以前とは何でしょうか?
これが“瞑想”(同)でしょうか?
あなたが“日本人”である限り あなたは“瞑想”(同)とは何の関係もないのでしょうか?
あなたが“日本人”である限り あなたは“叡智”(同)とは何の関係もないのでしょうか?
あなたが“日本人”である限り あなたは“死”(同)とは何の関係もないのでしょうか?
あなたが“日本人”である限り あなたは“美”(同)とは何の関係もないのでしょうか?
あなたが“日本人”である限り あなたは“愛”(同)とは何の関係もないのでしょうか?
…それは政治運動であって、天体の美ではないのでしょうか?
日本国憲法公布文
公布 昭和二十一年十一月三日
施行 昭和二十二年五月三日
朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十一年十一月三日
内閣総理大臣兼外務大臣 吉田茂
(以下略)
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“時間”はあなたの葬式の風景でしょうか?
“Timeless now”とは何でしょうか?
丹田の“Total attention”(J.クリシュナムルティ)とは何でしょうか?
『耳に見つ 目にきくときは 何事も 誠の法の旨にかなはむ』(盤珪永琢)
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『世にありて世と遠ければ世の中の人に見られで独り住むかな』(盤珪永琢)
『非常に遠くへ行くためには 非常に近くに来なければなりません』(J.クリシュナムルティ)
『さしむかふ心ぞ清き水鏡 色つきもせず あかづきもせず』(『うすひき歌』盤珪永琢)
先の先と後の先 盤珪永琢とJ.クリシュナムルティ
『身どもは仏法もいわず、又禅法もいわずにござるわひの。みな人々の今日の身の上の批判で相すんで、埒の明く事なれば、仏法も禅法も説くことはござらぬわひの。』(『盤珪禅師語録』)
『心上に心を生じ、不生になろうとするは、誤りなり。本来不生也。皆不生の理と言わるるが、不生には理はなき也。理でもあれば、不生でなし。また不生になることもいりませず。理にあずからずに起きて、ただそのままが真の不生也。』(同)
『少しでも仏を求め道を得んと思へば、直ちに不生にそむき、生まれつきの不生の心に違ふ也。ただこの心は明るいとも暗いともいわず、生まれつきのまま也。それを悟らんと思うは、第二に落ちたること也。本来仏なれば...本来内より起こるものなしということ、確かに知るべし。...我宗は自力にもあずからず、他力にもあずからず、自力他力を超えたが我宗でござる。その証拠は、身どもがこう言うを皆こちら向いて聞きござる中に、後ろで鳴く雀の声、カラスの声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声や音を聞こうと思う念を生ぜずに、それぞれの声や音が分かれ通じて聞こえるは、我聞くにあらざるゆえに、自力にあらず。またこれを人に聞いてもらって役立てるのでないので、他力にあらず。すれば自力にもあずからず、自力他力を超えたが我宗でござるわひの。...その他の一切事も、みなそのごとく不生で整いますわひの。』(同)―“他者性”(『クリシュナムルティ・ノート』)
思考未生以前とは何でしょうか?
時間未生以前とは何でしょうか?
『不生の仏心の霊妙な働きは、些かの思考にもよることなく、美醜を違わずに見分けてござる。それは旧知の人か見知らぬ人かを思考を働かせずに即座に見分けるようなものでござる。』僧、曰く『即座に旧知か見知らぬ人かを知るのには依然として思考が頭をよぎりまする。違うのでございますか?』禅師、しばらく間をおいて、声を強くして曰く『本来無念』僧、声を高ぶらせて曰く『思考は確かに働きます』禅師、応えることなく、息を長く吐く。僧、当惑して呆然とする。後日、僧、忽然として悟り、禅師に会う。禅師、微笑するのみ。―(『盤珪禅師語録』)/(『THE UNBORN』ノーマン・ワッデル)―要約/要訳
『不生になりたいと思し召して、瞋り、腹立ちや、惜しい、欲しいやの念が起こるを止めようと思わっしゃっても、それを留めますれば、一心が二つになります。走るものを追うがごとくでござる。起こる念を止めようとすると、起こる念と止める念が戦いまして、いつまでも止まぬものでござる。たとえ、ふと怒ることがございましても、また惜しい欲しいという念が起こりましょうとも、それは出来次第にいたして、その念を重ねて育てず、執着いたさず、起こる念を止めようとも、止めまいとも、その念に関わらざれば、自ずからその念は止むほかはありませぬ。たとえ、色々の念が起ころうとも、その起こりだした当座ばかりにして、その念に重ねて関わらず、嬉しいことにも永く念を留めず、一心をニ心に致さぬがようござる。...このことに油断しなければ...念というものは生ぜず、滅せずでござらぬか。これが不生不滅の仏心と申すものでござる。』 『一心をニ心に致すとは、たとえて申すなら、血をもって血を洗うようなものでござる。なるほど血は落ちましょうけれども、また後の血が付きまして、赤い色は消えませぬ。このようなことでござって、前の瞋りの念は止みましょうけれども、止めにかけた後の念が、いつまでも止まないのでござる。』(『盤珪禅師語録』 )
『思考は思考者が正に思考される当のものです』 『観察は観察者が正に観察される当のものです』 『分析は分析者が正に分析される当のものです』 『言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません』(J.クリシュナムルティ)
『博学の人よりも不学の人に不生の人は多くござる』(盤珪永琢)
脳無しの“丹田”の美の叡智かな
“丹田”の“子宮”との違いとは何でしょうか?
我々が“日本人”という“蛸壺”の中にいる限り 我々は“猥褻の民”でしょうか?
『我々が内側の安全を追い求めている限り、生の全体的プロセスは理解されえません』(J.クリシュナムルティ)
何もかも未生以前の叡智かな
『奥旨を挙揚するに口を開かず 庭際の寒梅鼻を撲つて香ふ』(盤珪永琢)
朝まだき小鳥の声の目覚めかな
朝顔につるべ取られて貰い水(加賀千代/田中正造)
Othernessふるこの世のいつくOrderかな
整うや丹田いつく触背かな
似て非なるMeditationとConcentrationの違いとは何でしょうか?
蛸壺思考 蛸壺の眼差し 蛸壺文化 蛸壺伝統 蛸壺歴史 蛸壺憲法 蛸壺文学 蛸壺芸術 蛸壺娯楽 蛸壺宗教 蛸壺スポーツ 蛸壺五輪 蛸壺政治 蛸壺経済 蛸壺行政 蛸壺裁判 蛸壺教育 蛸壺医療 蛸壺メディア 蛸壺科学 蛸壺技術 蛸壺警察 蛸壺市民
山法師思考過ぎ去る月明かり
地の蔵や死と再生の赤子かな
観音や不動の動の昇り龍
“生きるとは死ぬことと見つけたり”―地蔵/観音菩薩
舌下湧水起死回生丹田熱気霊妙不可思議不動之動
星垂平野闊月湧大江流―杜甫
『シンプルに』(J.クリシュナムルティ)
『耳に見つ 目にきくときは 何事も 誠の法の旨にかなはむ』(盤珪永琢)
観音や死んでやり過ごす龍頭かな
もはや“私”はどこにもいないのでしょうか?―『クリシュナムルティ・ノート』
観念が手足や口やその他をつけているだけでしょうか?
触らずに触るる何事も妙なる不生の叡智かな
触れて見て見て触るる何事も…
触れて聞く聞いて触るる何事も…
触わるConcentration 触るるMeditation
蛸の壺時間の外へ龍樹かな
“猥褻”という言葉は大海や大河から逸脱して陸地に凹部を形成する地勢的形状に由来する言葉であり、その凹んだ地勢を我々の生理的そして心理的生態にまで敷衍して、凹部的に蛸壺化する我々を“猥褻の民”と呼ぶのでしょうか?
時間的頭脳ではない丹田的頭脳とは何でしょうか?
丹田ナウ!
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“Identity epidemic”(『思考の限界』帯文)とは何でしょうか?
『“ままごと”はそれ位にしておけ』(天知茂)(『某映画』)
カラス神父(『エクソシスト』)
“落下する毛虫のごとく”;“Like water off a duck's back”(J.クリシュナムルティ)
もはや“私”はどこにもいないのでしょうか?―『クリシュナムルティ・ノート』
“思考の蛸壺”から抜け出すのは何でしょうか?
“他者性”(『同』)とは何でしょうか?
触れて触れる“空気”の美の不生かな
首無しの赤い鳥居のカタルシス
首無しや月は東に日は西に
もろもろのものみなきゆる死のめざめ
触れて触れる不動の動の熱気かな
通じ合う不動の動の熱気かな
逆流(ぎゃくる)するノイズの“私”の意識かな
『アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ』(『THE NATURE OF THE NEW MIND』)(新ホームページ)
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クリシュナムルティ 話し手はあるとき無名性を試みて...カーテンの後ろからトークを行ないました。そしてそれはかなり馬鹿げた光景になりました。
質問者 (笑)
1980年 5月13日 カルフォルニア オーハイ 質疑応答 3
中野多一郎 訳