質問にざっと目を通すと、我々は我々の日常生活に関する質問を決してしないように見えます。そして本当に全く意味のない理論的な、イデオロギー的な質問が沢山ありました。我々はなぜ憂鬱や不安や深い孤独感など自分自身の生について質問しないのだろうかと人は思います。我々は自分自身の日常生活に本当は関心がないのですか、それとも我々はただ見せかけの世界を生きていて、何らかのロマンチックな、感傷的な、理想的な、宗教的な信念に対する答えを見つけようとしているだけですか? なぜ人は、もし言わせてもらえるなら、なぜ我々はそのような質問をじかに自分自身のこととして問わないのでしょうか、なぜ単純に自分自身のこととして問わないのでしょうか?
我々はみな戦争を終わらせたいと思います、少なくともある人々はそう思います。そしてラテン語の“パケム イン テリス”いわゆる“地上の平和”は明らかにこの世界では不可能です、デモや聖職者たちの説教や宗教書などにもかかわらず、我々は明らかにこの世界で平和を手にすることが全くできません。そして我々は、人が我々の日常生活をどのような暴力とも、数知れなく増加する全ての問題とも無縁に平和に生きられるのかどうかを、明瞭で単純な力強い生を生きられるかどうかを決して問いません。明らかにそれは不可能であり、我々はそのような問いを発しません。
質問しても宜しいでしょうか、何故あなたはここへ来るのですか? 宜しいですか、私は本気です、なぜ我々はみなここにいるのですか? 話し手がインドにいて五千人から八千人の人々と毎回集会で話すとき、彼らはやって来ます、彼らの殆どが英語を話します、そして殆どの彼らは宗教的な人間のすぐそばにいようとやって来ます―少なくとも彼らは“宗教的な人間”という言い方をします。彼らは話し手の言っていることを全く理解しません、本当に彼らは理解しません。しかし彼らはそうすることが伝統であり、しきたりであり、或いはそれが評判になっているせいで、そのイメージのせいなどそれら全てのナンセンスのために来なければなりません―私は強い言葉を使いました! そしてあなたは好奇心でここへ来ました、或いは素敵な朝を樹木の下で、所々にさす光の下で過ごすために、それとも日光浴をしながら哀れな男の話を聞くためにここへ来ました。そうしてあなたはそんなふうな態度をとり続けます。それら全ては実際に根本的に深いところで我々を変えません。何が人間を変えるのでしょうか? これは本当に非常に真剣な問いです。なぜ我々は現に振舞っているように振舞うのでしょうか? それは可能ですか、人が抜け出すことの殆ど不可能と思える苦しみや痛み、不安、絶望的な憂鬱感など、そして恐ろしい野望や競争など現に起こっているそれら全ての類を、それら全てを我々は変えることができますか、我々一人ひとりにそれができますか? そしてあなたは必然的に問うでしょう、私が変わるかどうかが、人が変わるかどうかが本当に重要ですかと、それは何らかの仕方で人間の全ての努力や害悪や迷信や暴力に影響するでしょうかと。そしてそれは誤ってなされた問いであると人は考えます。つまりそれは、もしそれが全世界に影響するというならあなたは変わります、しかしもしそれが影響しないのなら、人がどう生きようと、それは大して重要ではないということです。
あなたは、一人の人間が人間の全意識を、人間をどのように変えることができるのかを熟考したことがこれまであるのでしょうか。一人の人間がです。神経症的で正気ではない人物の悪い例としてヒットラーは世界に途轍もない害悪をもたらしました、彼は全世界を、人間の意識や行動を変えました、それに影響しました。そしてあなたはこうもまた言えるかもしれません、仏陀は、二千五百年前に、彼は何らかの仕方で世界に影響したのかと。或いはキリスト教徒は救世主を、イエスやそれら全てを信じます、それらは世界を変えましたか、人間の精神を、人間の行動を、果てしない苦しみを変えましたか? それとも世界中の聖職者たちがそのような変化を妨げてきましたか? 私の質問がお分かりですか? 人は仏陀から直接―じかに―教えを受けていません、或いはイエスのそれを直接受けていません。彼の教えは明らかに六十年後に解釈されました、従って彼の直接の教えというものはありません。そして恐らくそのことのせいで人間は正しく行動してきませんでした。そのように人は自身の長い生涯を通じていつもなぜ人間は根本的にその生のあり方を変えないのだろうかと思います。更なる苦しみが必要なのですか? 更なる暴力が必要なのですか? もっと沢山の専門家などが必要なのですか? それとも我々は人の行動の深部のパターンを変えるエネルギーや強い衝動や熱気や強烈さを持ち合わせていないのですか?
どうかそれらの質問を自分自身に問うて下さい。そしてここには沢山の質問が寄せられています。問うことは問題を意味します。そして問題は解決されなければなりません。それは一つの問題を解決する中で他の多くの問題が生じることではありません。それは一つの問題の消滅であり、あらゆる問題の消滅です。そして明らかに我々はそのようなことができないように思われます、政治的にも、経済的にも、社会的などでも、或いは宗教的にも。それは絶え間ない再組織です。そのような再組織がうまく機能しないときは、それを再び組織して、あらゆる再組織を再び組織し続けます。あなたがこのことに気づいていないかどうか私は知りません。そしてこれが進歩と呼ばれます。これが世界に秩序をもたらすことと呼ばれます。人は全ての組織を脇へ除けることができますか、取り分け―もし骨抜きにされてきているその言葉が使えるなら―精神的なそれを脇へ除けることができますか、どのようなものにも全く属さず、どのような入れ物にも、どのようなシステムにも囚われずに取り組んで、見て、観察して、自身の行動に気づいて変わることができますか?
そしてなぜ人はそれら全てを行わないのでしょうか? なぜ人は他の人たちに頼るのでしょうか? どうか、もし宜しければ、それらの質問をこの上なく真剣に問うて下さい。
誰にあなたはこの質問を問うているのですか? これは明らかに真剣な質問です。真剣に思えます。誰にあなたは問うているのですか? そしてあなたは誰かからの答えを望んでいます。その誰かはさしあたりここにいる話し手です。もし話し手がその質問についてあなたを満足させないなら、あなたはさっさと他の誰かのところへ行きます。そしてもしその他の誰かが不十分なら、あなたは別の誰かのところへ行きます。あなたはこのことを続けます。そしてそれは、我々が何をすべきかを、何を考えるべきかを、どのようにして生の明瞭性や健全性や全体性を我々が見つけるのかを語る誰かに我々が頼っていることを意味します、違いますか? いつも、明らかに、我々は誰かに頼っています。我々はこの質問を決して検討しません、自分自身に問いません、そして我々が、自分自身で、他の人たちとは全く別に、できるかどうかを見ません、全く混乱しないでいることができるかどうかを、全く明瞭でいることができるかどうかを、一時的にではなく、時折他に何もすることがないときではなく、それが可能かどうかを我々は決して明らかにしません。明瞭性の持続ではありません―お分かりですか? 仮に人が一瞬明瞭であるとします、そのような明瞭性は恐れや経験やその他の全てを一瞬払い除けますが、そのような明瞭性のそのような記憶はその明瞭性の事実ではありません。違いますか? あなたはこのことが分かるでしょうか。仮に私が森の中を歩いていると、カリフォルニアではなくここです、そこは日差しが強すぎます、仮に私が森の中を歩いていて鳥の声を聞き、まだらな光や木の葉の美しさの中にいると、一瞬完全な明瞭性が生じます。そしてその明瞭性が頭脳に痕跡を残しました、それが言います、「おーっ、その明瞭性と言ったらなかった」と。そうして人はその明瞭性が続くことを望みます、違いますか? 快楽のようにそれが続くことをあなたは望みます。その持続は記憶の活動です。違いますか? 私はそれら全てを検討しなければなりません。
それは時間を含みます、違いますか? 持続するものはどのようなものも時間を含むに違いありません、時間的な含みがあるに違いありません。そして時間は明瞭性を可能にしません。時間からの自由こそが明瞭性です。宜しければ、それをもう一度検討しましょう。
例えば人が安全性を望むとします、心理的に。そして人が数秒或いは数日この完全な安心感を、守られていて確かに安全であるという感じを手にします。そうしてそれが数日のうちに消え去ります。しかしその感じの記憶が残ります。そして我々は二日前に起こったそれを持続したいと思います。違いますか? これが我々全ての囚われることです。それは終わってしまった経験の持続です、そして我々はその記憶を欲します―その記憶は起こったことの持続を望みます。違いますか? そのようにもし我々がこの質問をよく見るなら、つまり時計時間があります、日の出と日の入りによる時間があります、昼と夜としての時間、一年などの時間があります、つまり時間があります。そして思考もまた時間です。違いますか? あなたはこのことが分かりますか? 時間は過去から現在と未来への思考の活動です、それは時間の活動です。この活動にはそれ自身の持続性があります。違いますか? 我々はみなこのことが分かっていますか? そして頭脳が、時間の中で進化してきた頭脳が言います、持続性は欠くことができないと、何故なら頭脳にとってそれを持続することが本質的なことだからです。物理的に、生物的に、それは必要です。しかし心理的にもそれは持続することを望みます。そのように頭脳は持続性がないとき混乱します。違いますか? あなたはこのことが分かっていますか? 我々は多少なりともこのことの中にいますか?
そして人は心理的な持続性が正にあるのかどうかを問います。私の質問がお分かりですか? 我々は問うています、心理的な持続があるのかどうかの私の意見を述べているのではありません。つまり、あらゆる恐れやあらゆる問題そして生のあらゆる労苦を消し去ってしまう、脇へ除けてしまう明瞭性の瞬間があります、それは瞬時に起こります。そして頭脳が言います、それは持続しなければならないと。何故ならそれは時間的な観点からしか、持続的な観点からしか考えないからです。お分かりですか? 生物的にそれは一日一日持続することが必要です。違いますか? 同じ家であり、同じ食べ物であり、同じ服であり、同じ頭上の屋根です。心理的にも我々は関係性の中の持続する安全性を欲します。違いますか? あなたはこれら全てが分かっていますか? 関係性の中に果たして安全性がありますか? それは時間の長期間の持続です。そのような要求があるとき葛藤が起こります。あなたはこのことを理解するのでしょうか。おーっ、理解しません!
関係性が非常に重要であるように、それは生の中で途轍もなく重要なものです、関係性です、人は恐らく関係性を抜きにしてこの世界に存在できません、あなたが僧侶であろうと、托鉢僧であろうと、放浪者であろうと、あなたはいつも過去に、誰かに、未来的な概念に関係しています。それはただ単に物理的な関係性だけではありません。関係性は生の中でとても非常に重要で、関係性が大いなる深さや沈黙や途轍もない幸福感を帯びる瞬間があります。あなたはこれら全てを知りませんか? 話し手はそれら全てを詳細に見てみる必要はありませんが、彼はそれを見てみます。そのような深い充足感や全体感の瞬間が頭脳に記録されます、記憶されます、そして頭脳の機能は記憶することであり、それを持続させることです。従って記憶が重要な役割を担い始めます。
そこで人は関係性の中に安全性が果たしてあるのかどうかを問います。私の質問がお分かりですか? 我々はそれを欲します。我々はそれが絶対的に必要であると考えますが、それはありますか? どうか自分に問うて下さい。安全性は永久性を意味します、そして生の中に永久なものがありますか? 死がいつもそこにありますが、死はさしあたり放って置きましょう。生の中に永久なものがありますか? 我々は永久な何かを手にしたいと思います。明らかに宗教的な人たちは言います、神は永久であると。それは素敵な発明ですが、それには非常に僅かの意味しかありません。そのように我々は関係性の中に安全性や永久性を捜し求めています。その正に概念は―どうかこのことに暫く耳を傾けて下さい―安全性や永久性を要求する正にその概念は執着と理解されます。違いますか? 従って他の人に対する深い執着が生まれます。それは一か月かもしれませんし、一週間かもしれませんし、五十年かもしれません。そしてこの執着の状態の期間に嫉妬や疑い、恐れ、得失など全ての葛藤が生じます、お分かりですね、あなたはこれら全てを知っています、違いますか? そのように安全性が存在する永久的な持続感を関係性の中に手に入れようとする要求は執着や執着のあらゆる複雑さをもたらします。もし人がそのことを見て取るなら、そのような事実に気づくなら、それに気づいて、あなたが樹木に気づくように、もしあなたが盲目ではないのなら、あなたはそれに逆らってそれと衝突しません。そのようにもしあなたが関係性の中に永久性や安全性を要求することは多大な葛藤や執着や恐れなどを必然的にもたらすというこの事実を見て取るなら、その正に気づきこそがそのような安全性を要求することを焼き払います。お分かりですか? このことは良いですか、この質問は良いですか? それは我々が時間的な観点から、持続感という観点から考える瞬間に強烈さや明瞭性や全体感が消え去るということです。あなたはこれら全てを理解しましたか、捉えましたか?
あなたはこのことに耳を傾けてきました、それらは全てナンセンスですか? あなたは言いますか、あなたは一体全体何を言っているのかと。それともそれは正気であり、それには道理があり、それは論理的ですか、そしてもしあなたが、この上なく敬意をこめて問うのですが、もしあなたがこのことを非常にはっきりと見て取るなら、我々が我々の生の中で、我々の日常生活の中で心理的に持続感や安心感を正に要求することが必然的に葛藤をもたらすに違いないという事実を見て取るなら。宜しいですか? 我々はこのことを見て取りますか、この事実に気づきますか? そして我々は言います、もし我々がこのことの真理に気づくのなら、その正に気づきが安全性や永久性の要求を焼き払うと。そうすると我々のお互いの関係はどうなりますか? お分かりですか? 私の質問が分かりますか? 仮に話し手或いはあなたがこの安心感や永久感を持っていないとすると―それらは何の意味もありません―仮に、そうすると関係性とは何ですか? お分かりですか? 私の妻や夫或いは女友達や男友達や何かは何ですか? どうかこのことを問うて下さい、それをよく考えて下さい、それに取り組んでください。親密であろうと他の何かであろうと、人の他の人との関係性とは何ですか? そこにはただ、何でしょう、何らかのギャップがあるだけですか? それとも永久性がないときに、その全ての複雑さを伴った永久性や安全性の要求がないときに、新しく目覚めることができるのですか、愛が何であるのか新しく感じられるのですか? 私の質問がお分かりですか? 永久性と執着は、その全ての痛みや快楽や不安や恐れを伴ったそれは、愛ではありません。そしてそれが全く深く根こそぎ脱落すると他のものが花のように開花します。宜しいですか? このことは可能ですか? それはあなたがこれら全てに耳を澄ますとき可能です、それはあなたの日常生活の中で可能ですか? 愛は思考でも、欲望でも、感覚でもありません、愛は全く異なった質を持っています。そしてそれは、他のものが、安全性などその他の全てがあらゆる人間の要求であるとき、全く消えてなくなります。
これは良い質問です。事実とは何ですか、そして意見とは何ですか? その二つはどこで区別されますか? なぜ我々は意見を持つのでしょうか? その“意見”という言葉は、判断や評価、予め抱かれた概念など、宜しいですか、一人ひとりが持つ断定的な、教条的な意見の全てを意味します。なぜ我々はそのように沢山の意見を持つのでしょうか? どうかこのことを検討して下さい。どうして我々は意見を抱くのでしょうか? 我々はあらゆるものについて意見を持っています。そして見たところ、それらはとても強力であり、我々はそれが自由であると考えます、あらゆるものについて数多くの意見を持つことが自由であると考えます。そのことがあなたに自由な感じを与えます、少なくともあなたは自由であると、自主的であると考えます。それが私の意見であり、私は正しいと考えます。そのように我々は数多くの意見を持っています。
そうすると事実とは何ですか? 何が事実ですか? 事実はこれまでに起こったことです。違いますか? これまでに起こったことです。出来事或いは事件が事実です、それは昨日起こりました。そして事実は今起こっていることでもあります。違いますか? 今起こっていることです、あなたと私がここに座って会話を、対話を、或いは質疑応答などをしています、それが事実です。事実でないのは明日起こるかもしれないことです。違いますか? このことは宜しいですか? あなたがここを去って行って車へ向かうとき起こるかもしれないことです。そのように事実は起こったことであり、起こっていることです、そして事実は起こるだろうことではありません。それは明らかです。起こるだろうことは今起こっていることによって決められます。違いますか? あなたはこのことが分かるのでしょうか。未来は今の中にあります。違いますか? 未来は―今のあなたが未来です―修正されているけれども、基本的に今のあなたです。そのように未来は現在の中にあります。違いますか? そして過去も現在の中にあります。違いますか? そのように現在は全ての時間を含みます。どうかこのことを理論として弄ばないで下さい、それは無意味です。もしあなたがそのことを繰り返し言うなら、それはスローガンになり、少なくともそれはその意味を失います。しかしもしあなたが、過去は現在の中に何らかの継続性があって、未来は現在の中で修正された過去であり、現在を通じて修正された過去であるので、現在が、今が全ての時間を含むということを見て取るなら。宜しいですか、そしてもしあなたが今変わらなければ、あなたは明日も全く同じでしょう、多少修正されていても。そのように未来は現在の中にあります。このことは理解すべき本当に極めて重要なことです、何故なら活動とは何かということがあるからです。私はそれをいま検討すべきではありません、それは複雑すぎます。
それではなぜ人間は意見や事実ではないことにこだわるのでしょうか? あなたは事実から意見を結論づけます。違いますか? 事実が意見に変えられます、しかしその意見はその事実ではありません。私が車で事故を起こすかもしれません、そしてあなたがやって来て、それを見て、あなたはそれについて沢山の意見を持ちますが、事実は私が事故を起こしていることです。そのようになぜ我々は意見を持つのでしょうか、政府について、宗教について、これやあれについて、文学について、詩について、お分かりですか? 何故ですか? それはゲームの一種ですか? それは一種の時間の浪費ですか? それは別の形のお喋りですか? それらは全て時間の浪費です、エネルギーの浪費です。一方、もしあなたが事実にしがみつくのなら、それは起こったことであり、起こっていることですが、それが事実なだけです。私はその樹を見ています。それが事実です。なぜ私はそのことについて意見を持たなければならないのですか? もし私が木材商人なら、幸い私はそうではありませんが、私は言います、それは価値のある樹だ、それを伐採しようと―それは別の問題です。しかしあらゆることについて絶え間なく意見を持つことは人にとってとても馬鹿げたエネルギーと時間の浪費であるように思われます、お分かりですか、それは全く無駄なことです。
そして判断とは、質問にあります、判断とは何ですか? 裁判官が人に、犯罪者或いは無実の人に判決を言い渡します。かつて話し手がたまたま知っていた裁判官がいました。彼は法曹界の高い地位にいて裁判官になりました。そして長年判決を下してきて、ある朝彼は言いました、私は裁判所で何を言い渡しているのかと、真理とは何かと、私はあらゆることについて判例などに従い判決を下しています、真理とは何ですかと、もし私がそれを見出さなければ判決には意味がありませんと。そうしてその当時―およそ五十八年前―のインドの慣習にならって彼は家族に告げました「私は隠遁して森の中へ行き、離れた村の中へ入って瞑想して見出す」と。我々はその事実をあなたに話しているのであって、それについて意見を述べているのではありません。
二十年か四十年か後に―私は正確な年数を忘れました―誰かがKが行っていたトークの一つを聞くように彼を連れてきました、そして後で彼は話し手に会いに来ました、そして彼は言いました「あなたは私がこの四十年間何をしていたか分かりますか、私は真理を探し始めて、瞑想しました、あらゆる種類のことを行いました、そして今私は私が自分自身に催眠術をかけていたのが分かります、私は幻想を生きていました」と。宜しいですか? あなたはこれら全てが分かりますか? 老人がそのようなことを認めて「それが事実です」と言うのには大変な気づきを要します。
そうすると、判決とは何ですか、正義とは何ですか? 世界に正義はありますか? どうかこの質問を自分自身に問うて下さい。世界に正義がありますか? あなたは裕福な家に生まれ、お金、教育、繁栄、成功に恵まれ、他の人は小さなスラム街で生活し、貧困以外に未来はなく、絶えずもがいています。違いますか? そのような中のどこに正義がありますか? インド人は、ヒンズー教徒は非常に巧みな説明をします、つまりカーマです。お分かりですか? 待って下さい―宜しいですか、その“カーマ”という言葉は行動することを意味します。それに与えられたそれら全てのことではありません。それは今まさに行動することを意味します。何故ならもしあなたが今まさに行動するなら、未来は正しいからです。そのように或いはもしあなたが今災いをもたらすことを行うと、あなたは次の日或いは次の世でその代償を払います。
では、世界に正義がありますか? 卑劣な人間は狡賢い弁護士を雇ってまんまとやりおおせます。このことが毎日起こっています。あなたは賢くて、私はそうではありません。あなたは美しくて、私はそうではありません。あなたは途方もなく生き生きとしていて、私はそうではありません。それらは事実です。そうするとどこに正義がありますか? 現実の正義とは全く異なるいわゆる法的正義があります。正義は自由と慈悲心があるところに見つけられうるだけです。そのような叡智が働く自由と慈悲心なしに世界に正義はありません。これは、宜しいですか、意見ではなく、理論ではなく、極めて深い問いかけであるこのような大いなる慈悲の心をあなたが抱くとき、それがあります、そのような慈悲心の中に、正義があります。
同性愛という事実に相当に窮している沢山の人たちがいます。教師たちは何世紀にもわたってこの質問を避けてきました。どうか簡単にでもこの質問に答えて頂けませんか? 私は二千年かけて―二千マイルです(笑い)―この質問を問うためにやって来ました。御免なさい、全くその通りです。私は二千年旅してきました! これは何千年にも何千年にもわたっての質問です。それは新しいことではありません。我々はこのことについて何らかの立場を取っているのではありません。我々はそれを非難するのでも、それに賛成するのでも、それに賛成しないのでもありません。それらは事実です。違いますか? 異性愛が事実であるように。同性愛は世界に存在します、世界の異なる地域に共通です、そして他の地域ではそれがほとんど知られていません。それではあなたはこの質問にどう答えますか? 質問は何ですか? なぜ我々はそれをそのような途轍もない問題にするのでしょうか? 明らかに我々は異性愛を全く問題にしませんが、我々はこれを問題にします、何故ですか? それは事実です。そうすると我々はこの質問を、異性愛として、そして同性愛として異なって検討すべきですか? どちらかを非難したり、一方に賛成したり他方を否定したりするのではなく、なぜ性が、なぜ両方の性がそれほど途方もなく重要になっているのかを検討します。宜しいですか? 何故です? あなたはこの質問に答えます。テレビで、雑誌で、どのベストセラーもその中にこの要素があります、詳細に、毎日です。お分かりですか? 私はこれら全てをあなたに言う必要はありません。毎日それが強調されています―性です―私は同性或いは異性愛について話しているのではありません、一般的な性です。なぜ人間はこのことにそのような格別の重要性を与えてきたのでしょうか? そしてもしそれがあなたには重要でないなら、あなたは自分がどこか悪いのではないかと感じます、自分は神経症であるとか、私は満たさなければならないとか、あなたは心理学者や専門家や性の精神分析者たちによる数知れない説明を知っています。何故ですか? それは快楽ですか? 性の情景を思い出すこと―お分かりですか? なぜ人はいつの時代もこのことにそのような途方もない重要性を与えてきたのでしょうか? もしそれが奪われると、あなたは何か恐ろしいことが起こったと感じます。そしてあなたは自ら進んで言います、私はどのようなそれも手にしない、私は独身者になります、そして僧院へ入ります、或いは僧院へ入らず、独身のあらゆる問題を抱えて独身者でいますと。違いますか?
そうすると質問はどういうことですか? 何故これは生の中でそのような位置を与えられてきているのでしょうか? それは生の一部です。違いますか? それは、歩いたり、見たり、走ったり、笑ったり、涙を流したりする生の一部です、それは生の一部です。しかし何故これが重要性を与えられてきているのでしょうか? そしてそれは非常に注意深く鼓舞されています。違いますか? エンターテイメント産業によって。どうかこれら全てを検討して下さい。そして心理学者たちもこれを奨励してきました、満たすようにと。そしてある母親たちは十二,三歳を過ぎても男友達や女友達がいない娘や息子はどこか悪いのではないかと感じます。このことが世界中で起こっています、特にこの国では。インドのような伝統的な国や他の国々では、依然として人々は言います、待ちなさい、自制しなさい、あなたが二十歳或いは二十一歳や何かになるまで待ちなさいと。
そのようにこれら全てを見て、人はこれら全てから何を学ぶのでしょうか? 学ぶのです、倫理的にではなく、倫理ではなく、独身主義などではなく、人はこれら全てから何を学ぶのでしょうか? どうですか、皆さん! 世界中の宗教が、古代の宗教が―私はそれらを古代の宗教とは呼びません―ヒンズー教や仏教やキリスト教がいつも言ってきました、独身者になりなさいと、もしあなたが神に従いたいのなら、独身者になりなさいと。何故ですか? そして彼らは独身を誓い、僧院に入って僧侶になったり放浪僧になったりします、インドの人たちのように、そしてこのことで拷問を受けます。違いますか? 彼らは誓いを立てました、彼らはそれにしがみつかなければなりません。なぜ彼らが初めに誓いを立てるのか私は分かりません、しかしひとたびあなたが誓いを立てると、あなたはあなたが受け入れたことに従わなければなりません。しかし心理的に、内面的に、生理的な腺は、あらゆるものは機能していて、あなたは恐ろしい時間を過ごすことになります。話し手は多くの多くの彼らと話してきました。彼らは地獄を経験します。宗教はこのことを行ってきました。あなたはこれら全てを知っています、違いますか?
そして人は問います、なぜ人は自分自身に言ってきたのか、最も崇高なことを成し遂げるためには、あなたは独身でなければならないと。お分かりですか? つまり、あなたは自分自身を拷問にかけなければならない、苦悶を経験しなければならない、そうすればあなたは神の傍により近付くでしょうと。それはとても子供じみているように思えます、それら全てがです。御免なさい! 私はインドで沢山の沢山の托鉢僧や僧侶に会いました。私はその詳細に立ち入りません、彼らは自分自身をあらゆる仕方で拷問にかけてきました。何故なら一般的な見方では、神に至るためには、最高の所に至るためには、あなたは完全な禁欲生活をしなければならないからです。それは人間が厳格ということがどういうことであるのかを決して理解してこなかったことを意味します。我々はそれを検討しても宜しいですか? あなたはこれら全てに退屈していませんね? あなたが退屈していても私は構いません。恐らくあなたはこれら全てを検討したくありません、それはあなたをひどく混乱させるかもしれません。どうか混乱しないで下さい、なぜなら我々は事実を扱っているからです。
厳格とはどういうことですか? あなたはその言葉の語源的な意味を知っています、先日我々は説明しました、厳格であることはギリシャ語で乾いた口になることを意味します、飲み物によるのではなく、乾いた口であり、それは厳しいこと、激しいこと、乾いていることです。そのように徐々に人間はこの厳格でなければならないという観念を手にして、自分自身を灰に変えてきました。お分かりですか? あなたが自分自身を一日一日、一月一月、一年一年強いて、自分自身を追い込むと、あなたは最後に乾いた人間になります。そしてもしあなたが他のことにのめり込んでも、あなたは同じ問題を抱えます。
それでは人は葛藤とは無縁な生を生きられますか? お分かりですか? 両極端に走らずに、それは葛藤を意味します、感覚的な要求と感覚的な要求の抑圧です。人はその間に生じる争いの、努力の、あがきのただの一つとも無縁に生きることができますか? 私の質問がお分かりですか? そのためには欲望や意志や願望や生物的な衝動の全問題を大いに検討する必要があります。お分かりですか? あなたはこのことを続けたいですか?
最後の所に非常に良い質問があります―私はそれをちらっと見ました! どのようにして人はこの地球上で―どうかこれに耳を傾けて下さいーどのようにして人はこの地球上でその美を害さずに破壊せずに、他のものに苦しみや死をもたらさずに生きることができるのか?
しかし我々はこれまで我々が話していた質問を終えなければなりません。我々はもう十五分耐えられますか? あなたは話し手と同じように取り組んでいますか、それともあなたはただ聞いているだけですか? あなたの頭脳は全く異なる生き方を見出すために活動的で、取り組んでいて、問うていて、疑っていて、強烈ですか?
我々は言っていました、葛藤とは無縁な生を生きるためには欲望の全問題を検討する必要があると、そしてそれは非常に非常に複雑な問題であると。あなたはそれら全てを本当に検討したいですか? 私は励まして問うているのではありません、私はただ問うているだけです。我々が取り組んでいるのは非常に真剣なことです。ただ単に聞いたり繰り返したりすることは無駄なことであり、全く無意味です。しかし事実が何であるのかを、世界で、この国だけではなくあらゆる国で、いわゆるあらゆる文化の中で何が実際に起こっているのかを見ることです。そして人の中の葛藤はますます増大していて減少していません。私が使っている“男”という英語は男性と女性を意味しているので、どうかその言葉にいら立たないで下さい―私が女性について話さないわけはありません。もし人が欲望の活動を非常に深く理解しないのなら、その表現ではなく、その説明ではなく、なぜ欲望がそれほど途方もなく重要になるのかを検討することです、成功する欲望、お金を手にする欲望、セックスや感興や娯楽などの欲望、その途轍もない衝動やそのスピード、そしてその成就の要求などです。宗教はまたもや言ってきました、あなたは欲望を抑えなければならないと、それは別の戦いを、別の葛藤を、別の拷問を意味します。あなたは宗教が人間を台無しにしてきたのを知っています。そして彼らはそれを依然として行っています、キリスト教世界だけではなく、全世界で、イスラム教の世界で、彼らがイランやイラクで行っていることを見て下さい。それを言わないで下さい!
そうすると欲望とは何ですか? 宜しいですか、我々はそれを抑圧しようとしたり、それを奨励しようとしたりしているのではないことを理解して下さい、それは事実です。事実は我々が欲望によって駆り立てられることです。そしてそれが挫かれることは苦痛です。違いますか? 成就できないと感じることです。そのように何が何でも、どんな犠牲を払っても我々は欲望を成就したいと思います。あなたは神のための欲望、理解するための欲望と言うかもしれませんが、それも依然として欲望です。何と、私はこれら全てを検討しなければなりませんか?
あなたがその樹木や樹木の美しさを見るとき、木の葉の上の光やその向こうの山々や谷を見るとき、影や斑に差す光を見るとき、そして地球の途轍もない美を見るとき、それは何らかの感覚です。違いますか? 私はその質問を、美は感覚であるのかどうかを検討しません、それは別の問題です。いいえ、問題というのではなく、それは全く別の事柄であり、非常に興味深いものです、もしあなたがそれを検討するなら、美は感覚かどうかを検討するなら。あなたがそれら全てを、地球とその美を見るとき、それは何らかの感覚です。違いますか? 目で視覚的に見るとき、目で見るとき、その見ることが、その正に見ることがその感覚を呼び起こします。宜しいですか? 美しい女性や男性を見ることが様々な種類の感覚を呼び起こします。そうしてそのような感覚は正しくて、違いますか、正常であり、健全であり、自然です、もし人が麻痺していたり、目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、口がきけなかったりするのでなければ。つまり人が感受性豊かなら、人はこれら全てに敏感に気づきます。そしてあなたはこのことが分かります。あなたはこれら全てに気づきます。そうすると何が起こりますか? あなたはそれらの丘を見ています。それらの丘を見ることがある種の感覚を呼び起こします。そうするとその次はどういうことになりますか? 検討して下さい、どうかそれを見て下さい。そうすると思考が入ってきて、それは何と美しいのか、と言いませんか? 違いますか? 思考はそうするとそのような感覚からイメージを作り出します。違いますか? 私は事実ではないどのようなことも言っていません、これは推測でもなければ創作でもありません。感覚―触れる、感じる―が生じて、思考がそのような感覚からイメージを作ります。違いますか? 分かりますか? 思考がそのような感覚からイメージを作ると欲望が生まれます。感覚は欲望ではありません。しかし思考がやってくると言います、はい、それは何て素敵なんでしょう、それは何て素敵な服なんでしょう、何て素敵なシャツ―男性であるなら―なんでしょう、或いは女性なら、何て素敵なドレスなんでしょうと。中に入って、それを触り、それを感じ、それを着てみて、思考が言います、私は何て綺麗になるのでしょうと。それは私に似合う素敵なシャツだと。そうすると欲望が生まれます。このことが分かりますか? これは事実です。それは理論的な何かではありません、それは事実です。
そこで質問は、もしあなたがもっと深くそのことを、感覚を検討するなら、美しい絵を見て、美しい枠に入れられ美しく光が当てられている素敵なそれを検討するなら、それは何らかの感覚です。そうすると思考が言います、私はそれを私の部屋に飾りたいと。そうして思考が感覚に対して権威を帯びると欲望が生まれます。そこで質問は、感覚と思考を分離しておけないかということです。このことを検討して下さい。意志によるのでも、強制や努力やそれら全てによるのではなくです、我々は非常に真剣でシンプルな質問をしています。感覚は自然であり、思考も多少なりともそのイメージと共に自然です。それが起こることです。それでは感覚と思考が分離しているようになる何らかのギャップ、何らかの間隙、何らかの隔たりは可能でしょうか? お分かりですか? そこに意味されていることを見て下さい。それには途轍もなく気をつけていること、気を抜かずに大いに注意深く見守っていることが要求されます。見ることであり感覚です。話し手は世界の中の幾つかの最も美しいものを見てきました、美しい車であり、美しい人たちです―私はそれを普通の意味で言っているのではありません―美しい人たちです。そのようにこの世界を、この途轍もない美を、その破壊を、人間が地球にしていることを見るのは自然なことであり、世界の中の最も美しい庭園の幾つかや家屋や宮殿などを見るのは自然なことです、我々はそれらの中を、それら全ての中を生きてきました。そしてそのどれとも決して一体化しないことです。おーっ、あなたはこれら全てが分かりません。「それを手に入れたらなあ」と決して言わないことです。お分かりですか? それには大いなる気づきや気を抜かずに注意深く見守っていることや明瞭性が要求されます。
そしてそれら全ては途轍もなく内面的に学ぶ感じであり、それは気を抜かずに規律正しく気をつけていることを意味します。学ぶことは気を抜かずに規律正しく気をつけていることであり、何かに順応することではありません。
あなたはかつてこの問いを発したことがありますか? 実際にありますか? 理論的にではなく実際にそのような問いかけをしたことがありますか、それと面と向き合うことです。それから逃げ去るのではなく、説明するのではなく、説明は必要であり、その他の全ての類が必要ですが、それを見つめることです、それと向き合うことです。あなたは今までそのような問いを発したことがありますか? それは集団で、国立公園か何かを破壊したいと考える政治家に対してデモをすることではありません。そのような問いかけをすることは、あなたがそれで燃えていることを意味します、それは途轍もなくリアルな何かであって、それは一日の時間をやり過ごすためのただの気まぐれな質問ではありません。その途方もない美を伴ったこの地球の上を生きることです、それを破壊しないことであり、悲しみを終わらせることであり、他のものを殺さないことであり、他の人間を殺さないことであり、生きている人間を殺さないことです。インドにある人たちがいます、ある宗派です、彼らの交通手段は歩くことであり、彼らは電車や飛行機やその他の乗り物に乗らずにただ歩くだけです、そして彼らは呼吸することによって虫を殺さないようにマスクを付けています。お分かりですか? 彼らはそのような集団です。その集団の何人かが話し手に会いに来ました、そして彼らは八百マイルを四月から一月にかけて歩いて来て、歩く以外にどのような交通手段も全く取りませんでした。そして彼らは殺しません。
そして殺す人たちがいます、面白半分に殺します、楽しみのために殺します、金銭的な利益のために殺します―全ての食肉産業です。違いますか? 地球を破壊します、毒ガスを投棄します、あなたはそれら全てがこの国で起こっているのを知っています、空気を汚し、水を汚し、お互いを汚染しています。これが我々の地球や我々自身にしていることです。
そして質問者は問います、我々はその大いなる美と共にこの地球上を生きられるのかと、他のものに苦しみや死をもたらすことなくこの地球上を生きられるのかと。それは非常に非常に真剣な問いかけです。他のものに苦しみをもたらすことなく、或いは他のものに死をもたらすことなく生きることです、それは人間を殺さないこと、どのような動物も面白半分に、あなたの食料のために殺さないことを意味します。あなたはこれら全てがお分かりですか? これが質問です。
インドにある時期ある社会的階級に属する人々がいて、彼らは全く肉を食べませんでした。彼らは殺すことは悪いことだと考えました。彼らはその当時バラモンと呼ばれていました。そして西洋文明は殺すことが正しいのかどうかを、生きているものを殺すことが正当化されるのかどうかを全く検討してきませんでした。西洋世界はあらゆる人種を破壊してきました。違いますか? この国はこの国の原住民を破壊して、土地やそのほかの全てを手に入れたいがために彼らを一掃してきました。そうすると我々は殺すことなく、戦争をすることなくこの地球上を生きられますか? 私は答えられますが、それはあなたにとってどのような価値がありますか、何故ならあなたは殺しているからです。私は菜食主義を奨励しているのではありません。ある作家が何年か前に本を書いて、その切り抜きを私に送ってきました、彼は述べています、菜食主義がこの国では疫病のごとく広がっていると。たとえあなたがキャベツを“殺す”のであっても。そうするとあなたはどこにその線を引きますか? あなたはそれを問題にしますか? 私の質問がお分かりですか? もしあなたが戦争に反対なら、ある人たちのように、私自身を含めて、戦争に反対なら、どのような理由であれ他の人間を殺すことに反対なら、あなたは手紙を出せません。違いますか? あなたが購入する切手、あなたが手に入れる食べ物、それら全ての一部が防衛のための軍備に費やされます。もしあなたがガソリンを購入するなら、その一部が、あなたの税金が、その一部がそのようなことなどに費やされます。そうするとあなたはどうしますか? もしあなたが税金を払わないのなら、あなたは罰金を科せられるか投獄されます。もしあなたが切手を買わなければ、あなたは手紙を出せません、あなたは旅行ができません。違いますか? あなたはこれらのことに付いてきていますか? あなたはそれを面白いと思いますか? そうするとあなたは袋小路に陥ります。そして袋小路にいるのは相当に不毛なように思われます。そうするとあなたはどうしますか? もしあなたが、私は旅行しない、私は手紙を書かない、これら全てが陸軍を、海軍を、武器を維持する助けになると言うなら―お分かりですか、大騒ぎになります。それともあなたはそのことに異なった仕方で取り組みますか? なぜ我々は殺すのですか? 宗教は、取り分けキリスト教は地球上の人間を恐らく誰よりも多く殺戮してきました、彼らは人々を拷問にかけてきました、異教徒と呼んで彼らを火あぶりにしてきました。あなたはそれら全てを知っています。イスラム教徒はそれをしてきました、イスラム教世界はそれをしてきました、恐らくヒンズー教徒と仏教徒が唯一の人たちです―彼らの宗教は禁じます。
どのようにすれば人は他の人を殺さずに他の人の苦しみの要因にならずにこの地球上を生きられるのでしょうか? この質問を非常に深く本当に検討することは、それは非常に非常に真剣な質問です、この質問に答えるそのような愛の質があるのでしょうか? もしあなたが他の人を愛するなら、もしあなたが他の人間を愛するなら、あなたはその人間を進んで殺しますか? そうするとあなたは何かを殺しますか、あなたが何らかの食べ物を、野菜や木の実などを必要とすることを除いて、それらを別にすれば、あなたは何かを殺しますか? それら全ての質問を検討して下さい、宜しいでしょうか、それを生きてみて下さい、後生だから、それについてお喋りしないで下さい。
世界を分断しているのは理想です、一つの集団のイデオロギーと他の集団のそれです。この永遠の分断、明らかな絶え間のない分断、男と女の間などの分断です。人々は論理で理性でこの溝を埋めようと試みてきました、様々な機構や団体や組織を通じてこの溝を埋めようと試みてきました、そして人々はどうしても成功しませんでした。これは事実です。知識もこの質問を解決しませんでした―収集蓄積された経験などの意味の知識です。そして思考はこの問題を確かに解決していません。
従ってそのことからただ一つのことが残ります、愛とは何かを発見すること或いは見出すことです。愛は欲望ではありません、愛は何かを所有することではありません、愛は利己的でもなければ自己中心的な活動でもありません、自分が先であなたが後ではありません。そして明らかにそのような愛は殆どの人たちにとって全く意味がありません。人々はそれについて本を書くかもしれませんが、それには全く意味がありません、そうすると人々はそのような質を、そのような香りを、そのような炎を、そのような慈悲心を発明します、しかし慈悲心にはそれ自身の叡智が備わっています、それは霊妙な叡智です。慈悲心や愛から生まれるそのような叡智があるとき、それら全ての問題が単純に穏やかに解決されます。しかし我々はそのような問いかけをその正に行き着く先まで決して追究しません。我々はそれを知的に言葉の上で追究するかもしれませんが、あなたがあなたの心と精神とその背後にある熱気でそれを行うと、地球は美しいままに保たれるでしょう。そうすると大いなる美の感じが人の中に生まれます。
1984年5月24日 オーハイ 質疑応答 2
中野 多一郎 訳