クリシュナムルティをめぐりて

死んでやり過ごすこと

クリシュナムルティ(K) あなたは何故これらのトークに来るのでしょうか? もしそれが単に生についてのあなた自身の特別な理論を確認しようとしているのなら、それとも別のより優れた、より精緻な理論を見つけようとしているのなら、これらのトークは非常に僅かな意味しかないと私は思います。何故なら我々がここで行おうとしていることは、もし我々にそれができるなら、理論の壁を打ち破って我々が叡知的になることです。我々は生のあらゆる次元でとても沢山の問題―物理的、心理的、知的な問題など―を抱えています、そして明らかにどのような理論もそれらのいずれをも解決しそうにありません。理論はいつも順応性をもたらします、しかし事実を理解することが精神を自由にして叡智に目覚めた生き方をもたらします。この目覚めた生き方は精神が理論や思想や定型や知的な概念に支配されているとき明らかに否定されます。私は思います―そして私はあらゆる人間の中のこのことを話しています―ここでのこれらの対話で行うことは、この叡智を、もし可能なら、目覚めさせることであり、その結果個人としてのあなたが様々の状況に相対することができ、そしてあなたが自分自身を、目覚しく、明瞭に、深く内的に理解する感じで、見出すことであると。
 そこでもしあなたと私がこの点について、つまり我々が本当にこの暗黒の壁を、理論や信仰や教条や迷信の壁を破ろうとしているこの点について明瞭なら、その打破の中で我々は生の全プロセスの目覚しい理解であるあの叡智を目覚めさせるでしょう。そうするとこれらの対話には意味が、本当の意義があるでしょう。しかしもし我々が話されていることを単に解釈して定型や理論にするなら、我々はこれら全ての要点を見失うでしょう。観念は、それがいかに洗練されていようと、いかに巧妙であろうと、いかに精緻であろうと、我々の存在の問題を決して解決できません、どのような教条も、新旧のどのようなシステムも、我々の生の知的な心理的な物理的な問題を解決しないでしょう。我々に必要なことは目覚めた叡智を我々の日常生活に適用することです、そしてそのためには大いなる閃きや大いなる深い内的な探究が要求されます。明らかにもし我々が単に特別な定型や理論―それが資本主義的なそれであろうと、社会主義的なそれであろうと、宗教的なそれであろうと―に従って活動しているなら、深い内的な探究はありえません。それは単に順応性へ導くだけです。しかし不幸なことに殆んどの我々は理論や定型や思考的なシステムに囚われています。我々ははじめに思考的なシステムを手にして、事実をそのシステムに合わせようとします―それは不可能なことです。それは一様に我々が行うことです。我々は何らかの理論を受け入れます、そしてその理論に、その信仰に、その教条に我々は順応しようとします、それは明らかにもっとも愚かな生き方に通じます。
 そこであなたと私は―我々の混乱や不安、恐れ、我々の儚い情愛、喜びなどと共に―我々がその一部である生の流れに巻き込まれている二人の友人として、我々は我々の問題を理解できないでしょうか、我々の精神をそれらに注いで、そしてそうすることによって精神を鋭くできないでしょうか? しかし我々の殆んどが願う狡賢い方法ではなく―政治的な狡賢さやビジネスでの狡賢さや関係性の中の狡賢さなどの様々な形を通じて何としてでも生き残る方法ではなく。何故なら私は、もし我々が生と呼ばれるこの途轍もないものに鋭敏になることができるなら、単に生を我々自身の特別な思考的パターンに従って解釈することを追求するのではなく、生の全プロセスに対して―自然に対して、人々に対して、観念に対して―鋭敏でいられるなら、恐らく我々は真実が何かを、そして虚偽が何かを発見できると感じるからです。
 感受性が鋭敏な能力は勿論叡智です、違いますか? 叡智は生のあらゆる活動に対して感受性が深く鋭敏である能力です。あなたは断片的に、個人的に、分離して―ビジネスマンとして、財政家として、政治家として、宗教家として、共産主義者として、あれやこれとして―生き続けることができません、何故ならあなたは途方もない能力を持った余すことのない存在だからです。生のこの活動に敏感であること、気を抜かずに警戒していること、鋭敏であることが唯一本当の叡智です、そして人がそのように叡知的であるとき人はその叡智をどのような次元のどのような行動にも余すことなく適用できます。そのように私には生に鋭敏であること、醜いものに、美しいものに、天空に、人自身の精神の未踏の領域の全てに、人自身の精神の落ち着きのなさに―その要求や悲しみや内面的な不安を抱えた落ち着きのなさに―鋭敏であることが肝要であるように思われます。我々は問題に対する答えを見つけようとしているのではなく問題に鋭敏であろうとしています、そしてその鋭敏さで、それは叡智ですが、我々は問題を理解することができて、従って我々はそれを解決できます。どのような次元にも問題に対する答えはありません、しかしもし十分な叡智と問題それ自身に対して十分に鋭敏であればその問題は解決されます。しかし不幸なことに殆んどの我々は解決策を追い求めます、答えを追い求めます、従って我々は決して問題に鋭敏ではありません、何故なら精神が答えを追い求めているとき、それは明らかに実際の問題から逃げ去っているからです。しかし感受性の鋭敏さで叡智は呼び覚まされます、そうするとあなたは問題を、それが何であろうと、扱うことができます。もし人に生の全プロセスに対する鋭敏な感受性の能力があるなら、儀式主義や信仰やそれら全ての愚かなナンセンスな全ての装置には意味がなくなります、そしてこの感受性の鋭敏さは精神が単に習慣の中で機能しているとき否定されます。
 我々の精神は殆んど思考的な習慣の中で機能します―我々の辿り着いた結論や我々の経験や我々が知っている何らかの固有な状態が我々の習慣になります、そして我々はそれらに基づいて行動します。
 もし少し脇道へ逸れることを許してもらえるなら、私はあなたが単に知的に或いは単に言葉の言語的な意味だけを聞いているのではないことを願います、何故ならそうしているとあなたはあなたの聞いていることを適用していなくて、あなたは学ぶことができないからです。ここではあなたと私は一緒に学ぼうとしています、そしてこの探究では教える者も教えられる者もいません。生は教師によって教えられるプロセスではありません。あらゆるものが学ばれる必要があります。汚れた通りに落ちている枯葉に、もしあなたがそれを感受性豊かに見れば、途轍もない意味があります。それは春と夏を生きてそれらを見てきたので、そしてそれは死を知っているので、あなたはその枯葉から学ぶことができます。人はあらゆるものから、あらゆる出来事から、あらゆる経験から、あらゆる仕草から、あらゆる様子から、あらゆる言葉から学ぶことができます。ですから私はあなたと私がそのようにお互いに耳を傾けていることを期待します。それには謙虚さが要求されます、謙虚を知らない精神は学ぶことができません、それは単に情報を得ているだけです。そのような精神はそれ自身の知識の中で本当に傲慢です、それは収集蓄積して狡賢くなります、しかしそれは学ぶことができません。私はトークを行っていますが、私はあなたが学んでいる精神の状態―あなたの思考的な習慣について、模倣であり順応であり世間体であり精神の取るに足りなさであるあなたの思考的な習慣について学んでいる精神の状態―で耳を傾けていることを願います。そのような思考的な精神こそが生に鈍感です。その取るに足りない精神こそが問題を作り出します、そしてそれはその問題の答えを追い求める、従って問題を増加させる精神と依然として同じです。そのような精神についてこそ我々は学ぶ必要があります。
 もしあなたが自分自身の精神を観察したら、あなたはそれが思考の敷くレールへ途方もなく素早く乗るのが分かります。あなたはどのようにして精神がある方向に沿って機能するように条件づけられているのかを、いわゆる良い習慣を確立し、悪い習慣を避けるように条件づけられているのかを見ることができます、違いますか? 良い習慣も悪い習慣もありません、ただ習慣があるだけです、そして習慣こそが生の挑戦に鈍感で、我々を鈍く、愚かに、重苦しくさせます。宜しいですか、これが我々皆に起こっていることです、違いますか? 我々はもう考える必要がないように習慣を確立したがります。我々が機械のようにオートマチックに機能できるように我々は良い習慣を確立したがります。そして機械に感受性がないように、明らかに習慣の中で機能する精神には感受性がありません。三十年或いは四十年間書類にサインをして生きてきた官僚、どうして彼が生に鋭敏でありえますか? 彼は制限された精神で機能しています、そしてあらゆる専門家や技術者やその他の我々は同じ状態の中にいます、我々は仕事を学びます、そしてその中で生きます。そこで問題はどのようにして習慣を死んでやり過ごすかです、私はこのことを、死の問題に繋がるこのことを非常に深く議論したいと思います。
 私はこの死の問題の全てについて対話したいと思います、しかしもし我々が始めに習慣を作り出す精神を理解しなければ、精神がそれに基づいて機能する中心を正に作り出す精神を理解しなければ、あなたと私はその問題を理解できないでしょう。その中心は“私”です、違いますか? その中心は収集蓄積され組織化された経験を伴なう自己であり、それが行動し、考え、愛し、憎む、収集蓄積され組織化された経験を伴なう自己です。その中心こそが―それは明らかに習慣や思考や知識の組織化された経験です―機能します、そしてその中心は思考と分離していません、自己と分離していません。自己を作り出す思考する当のものがいるだけです。そして私は、もしあなたと私が習慣のこの中心を、模倣のこの中心を十分に理解しないなら、そしてもしその中心が破壊されないら、消滅させられないなら、我々は決して死が何であるのかを理解しないと感じます。
 私はそれを検討したいと思います、あなたとそれについて言葉を交わして考えたいと思います―或いは“考える”のではなく、それについて対話したいと思います。しかしもしあなたが本当に観察しないで、あなた自身の中心に気づかないで単に聞くだけなら―不安の中心、苦しみの中心、愛したいと思う、愛し方を知らない中心、何らかの種類の成就を、何らかの種類の幸せを、喜びを、何らかの形の物理的或いは心理的生き残りを追い求めている中心―もしあなたがそれらに気づかないのなら、それは本質的に昨日という過去に基づく模倣の塊りですが、私のこの死の問題の検討はあなたの質問に答えないでしょう。私が言ったように、どのような問題にも答えはありません、その問題の理解があるだけです。同様に、死に対する答えはなく、死の理解があるだけです―その途方もない深さ、その美、その壮大さ、その新しさ―そしてその正に理解が、あなたを死の恐怖や死の悲しみから自由にする精神の全く異なった状態をもたらします。しかし死の恐怖や孤独の恐怖、そして死を理解することでやってくるあの独存性、それらはもしあなたが習慣の意味するものを、模倣の意味するものを、順応の意味するものを、世間体の意味するものを叡知的に理解しないなら理解されないでしょう。
 では、この中心はどのようにして消滅させられるのでしょうか? 私は“どのようにして”という言葉を答えや新しいシステムを見つけるという意味ではなく、単に問題の探究を始めるという意味で使っています。私はその中心をどのように破ればよいのか知りたいと思います、その中心を共産主義体制の下で、或いは社会主義体制の下で、或いは資本主義体制の下で、或いは他の体制の下で、内在する苦しみや痛みや悲しみを抱えたまま異なった方法で単に継続することではないのです。私はそれを理解したいのです、それを打ち破りたいのです、そして私は時間がその解決ではないのが分かります。この未来への時間的引き延ばしはその解決ではありません、これまでのことの継続はその答えではありません。私はあなたが私の意味することを理解していると願います。人は悟ります、違いますか、この中心は自己であると“私”であると―それが切望します、それが欲します、それが力を地位を名声を追い求めます、それは苦闘や適応、痛み、悲しみ、束の間の喜びなどの絶え間ない悪夢を見ます、そしてそれら全てが我々の存在のあらゆる次元で我々を疲弊させます。そこで私は問うています、どのようにしてこの中心は打ち破られるのかと。我々は時間が、将来の月日がそれを解決すると言います、或いは我々は生まれ変わりを信じます。しかしそれは単にこれまでのことを修正して未来に継続させているに過ぎません、違いますか? この中心が依然としてそのあらゆる不安や問題、恐れ、模倣の残滓、習慣の残滓などと共に生き残っています、違いますか? そこで問題は、その中心を、将来ではなく、あなたが老いて疲れ果てて肉体的に死がやってくるまで待つのではなく、今その中心を死んでやり過ごすことができるのかということです。私は問題を明確に言っていますか? 宜しいでしょうか、私は今自分自身を死んでやり過ごすことができますか? 結局のところ、死は大いなる否定です、そして全ての否定はその深い次元で神聖なものであり、深遠なものです。それが否定的な考え方のもっとも偉大な考え方である理由であり、いわゆるプラス思考が本当は模倣や順応の継続に過ぎない理由です。そこで私はあなたに問うています、どのようにして死んでやり過ごすのか―どのようにして習慣を死んでやり過ごすのかと。お分かりでしょうか? あなたが知っている野望の習慣―あなたはそれを死んでやり過ごすことができますか? 誰もが、この社会構造の中で偉大なリーダーから最もみすぼらしい人まで野心的です。あなたは何かでいたい、何かになりたいと思います、違いますか? 苦闘や苦痛、欲求不満、無慈悲さ、そしてそこには残酷さが含まれています―あなたはそれら全てを知っています、それでもあなたは願います、何かを成し遂げることを。では人はその思考の習慣を死んでやり過ごすことができますか? 明日にではなく、その衝動がその場で潰えることがありえますか? 何故なら、明らかに、それが止む途端に精神は驚くほど鋭敏になるからです、そしてその特別な習慣が止むと目覚めるからです。その目覚めはあなたが野望の意味するものの全てを見て取るときにやってくる叡智によって呼び覚まされます。私は野望を例として取り上げていますが、嫉妬や貪欲やプライドもあり、そして私が間もなく検討しようとする徳もあります。人はこれら全てを死んでやり過ごすことができますか? 何故なら、もしあなたがそれを死んでやり過ごすことができないなら、明らかにあなたは継続するでしょう―悲しみと死の継続です、そうすると死は恐ろしいものです。結局のところ、徳も一種の継続です、あなたが良い或いは真実であると考えることの永続化です。徳はあなたにとって肯定的な状態です、そして徳は、何らかの対極の育成である徳は継続を意味します。もしあなたが暴力的なら、あなたは非暴力を育成して、そしてその理想を来る日も来る日も追求します。あなたは実践し、あなたの精神を従属させます、しかし明らかにそれらは単にある一つの観念の、ある一つの思考の継続に過ぎません、それが全てです。ある特別な観念の継続は、あなたはそれを徳と呼びますが、それは単に社会が要求するある一つのパターンへの順応に過ぎません。本当の徳は野望や嫉妬、貪欲、プライドが完全に止むことです―ひとつの特別な感情を他の種類の感情に変質させることではありません。習慣が止むこと、これまでのことが継続していないそれのみが明らかに徳です。余すことなく止むこと、プライドを全く持たないことは、プライドを意識して謙虚を育成することとは全く異なります。育成された謙虚は単に違った形のプライドの継続にしか過ぎません。しかしプライドが止むこと、余すことなく、その場で―確かに、それは可能です。
 至る所で起こっていることを見て下さい! 誰もが、上の者から下の者まで、野心的です。ひとたび人が固守できる地位に着くと彼はそれを放棄しません、彼は言います、国のために、人々のために、社会のために、彼はそこに留まらなければならないと。あなたはそれらの言い回しを知っています。「もし私が野心的でないなら、私に何が起こるでしょう」とは言わないで下さい。あなたは、もしあなたが野心的であるのを止めれば、何が起こるのか明らかに知るでしょう。あなたは全く異なった生を送るでしょう。あなたはこの腐った社会に溶け込むかもしれないし溶け込まないかもしれませんが、あなたは明日とは無縁の徳の状態があることを理解するでしょう。徳はその瞬間の存在の状態です、そしてその中には大いなる美の深さがあります。従ってあなたはあなたの全ての昨日という過去を死んでやり過ごさなくてはなりません。しかしそれは、もしあなたが収集蓄積してきた精神の問題の全てを本当に理解していなければ、もしあなたが自分自身の習慣に、自分自身の偏見や野望、欲求不満、喜び、悲しみなどに気づかないなら、それは理論に、単なる発言になります。もしあなたがそれらに気づかないなら、あなたは全ての昨日という過去を余すことなく死んでやり過ごさなければならないという単なるその発言には全く意味がありません。あなたはそれを繰り返して言うかもしれないし、それを人に伝えるかもしれませんが、それには何の意味もないでしょう。一方、もしあなたがあなたに起こった一つの思考、一つの習慣を取り上げて、そしてそれを死んでやり過ごすことができるなら、あなたは死ぬことがあなたの知っているどのようなものとも全く異なったものであることが分かるでしょう。
 もし私が私のプライドを死んでやり過ごすことができるなら、もし私が私の野望を死んでやり過ごすことができるなら、もし私が私の受けてきた傷や侮辱、絶望、私が長い間抱いてきた希望と恐怖を死んでやり過ごすことができるなら、私の精神はもはや時間的な観点から考えていません、そうすると死は存在の最後にあるだけではなく、死は最後と同様に最初にもあります。これは理論ではありません、これは詩的な発言ではありません、たとえあなたがそれを繰り返して言っても、それには何の意味もありません、しかしもしあなたがあなたの習慣の一つを死んでやり過ごすなら―どのような習慣でもそれをただ死んでやり過ごして下さい、ただそれを脱落させて下さい、木の葉が自然に脱落して落下するように、そうするとあなたはその正に死ぬことの中に新しい息吹が宿るのを、存在の新しい佇まいが現れるのを認めるでしょう。それはあなたが死を他の存在の仕方で置き換えるのではなく、その習慣を死んでやり過ごすことが正に新しい創造的な生き方を生み出すのです。どうか、宜しいでしょうか、私が話しているときどうか耳を澄ましてそれを適用して下さい―あなたが帰宅する時ではなく、あなたがバスを待っている時ではなく、静寂の瞬間を探している時ではなく、今です。あなたは今何かを死んでやり過ごすことができませんか? あなたは誰かに対するあなたの嫌悪感を、誰かに対するあなたの恐怖を、あなたの信仰を―それは更にずっと難しいことです、何故ならあなたのグルやあなたの信仰はあなたに希望や未来をもたらすからです―死んでやり過ごすことができませんか? しかしもしあなたがあなた自身の絶望を死んでやり過ごすことができるなら、グルの必要はないのです、そしてそれは希望の必要性がないことを、明日の必要性がないことを意味します。絶望を死んでやり過ごすことは死の否定です、それは最も偉大な創造性の状態です。
 そうすると我々の日常的な存在の中で継続するものは何かという更なる問題が起こります。我々は死後何らかの継続的な形があるのかどうかを知ることに関心があります、違いますか? あなたは願います、あなた方の多くが願います、あなたが生まれ変わることを、自分自身が完全になること、もっともっと価値が増すことを―それは成功の階段を駆け上がることを意味します。もしあなたがこの世で何者でもないなら、あなたは次の世で何者かになることを願います。いつもこの継続の問題が起こります。ではこの世で継続するものは何ですか、そして何故あなたはその継続性にしがみ付くのですか? 何故精神はこれまであったその形にしがみ付くのですか、執着するのですか? 質問がお分かりでしょうか? あなたは死を恐れて死後も存続すると言います。ではあなたは未来を覗く前に現在を問うことができませんか? 継続するものとは何ですか? あなたは何にしがみ付いているのですか? 事務員としての、首相としての、聖職者としての、ビジネスマンとしての―欺瞞的で、不正直で、腐敗した個人の―地位にですか? それがあなたのしがみ付いているものですか? あなたの家族、あなたの財産、あなたの名前、それがあなたのしがみ付いているものですか? それらが死後にあなたの継続したいものですか? おーっ、何と! それらは何ものでもありません、違いますか? あなたの名前やあなたの財産、あなたの観念、経験、喜びは全て変化して不動ではありません、そしてそれらの中には不確かさや恐れや絶望があります。ではそれがあなたの継続したいものですか? そしてそれらには継続性がありますか、何ものかに継続性がありますか、或いはあらゆるものが自然に死にますか? 精神は死を受け入れるのを今拒否しています、違いますか、しかし明らかに、継続するものは決して創造的ではありえません、それが精神の創造性であるあの途方もない状態を見つけることは決してできません。明らかに、継続するものはこれまであったものであり、未来に進むために現在の中で修正されたものだけです、そしてそのような継続性は―その悲しみや失敗、希望、絶望の意味するものと共に―中心や“自分”や、超越的な自己或いはアートマンなど他の全ての理論の類を発明する自己の単なる継続です。
 その継続性が今止むことはありえますか―事故や病気や老齢による死をただ待つのではなく。私はあなたがこの問題を考えたことがあるのかどうか知りません。伝統的な取り組み方では明らかにこの問題は顕わになりません。そこで本当に問題は、精神がその全ての記憶や組織化された経験と共にその記憶を死んでやり過ごすことができて、精神が単に鈍く愚かになることなく創造性を喪失しないでいられるのかどうかです。我々は記憶を死んでやり過ごして、その結果記憶が精神に影響しないようにできませんか―我々はそれを事実としては保持するけれども。何故ならもしあなたが事実としての昨日を忘れるなら、あなたは生き残れません、あなたは生きて行けません。しかし昨日が今日に影響するとき―我々皆の場合がそうであるように―あなたは感受性を、本当に昨日を死んでやり過ごすことの深遠さを失います。
 もし本当にあなたがこれら全てに耳を傾けていたなら、あなたは死について学んでいます、死は今であって、未来の中にはないことを学んでいます。死の美は現在の中にあります、そしてそれは否定的なので、肯定的な取り組み方ではそれを決して発見できません。しかしこれまでのことの継続が止むとき新しい精神の質が生まれます、それは数知れない昨日の知識を収集蓄積してきましたが、精神はそれら全てを死んでやり過ごして、新鮮で、新しくて、無垢です。しかしもしあなたが「どのようにして私はその無垢を手にすることができるのか」と問うなら、あなたはこの上なく愚かな質問をしています。メソッドやシステムはありません、システムやメソッドや訓練や徳はこれまでにあったことの継続を、修正された継続をもたらすだけです。死んでやり過ごす中にのみ創造的な精神が生まれます。人は精神がそのエゴイズムの中で、その自己中心的な活動の中で強くなればなるほど、自己が更にエネルギッシュに、暴力的に、闘争的になるのも分かります。そして精神は頭脳とは異なるので、それは明らかに継続するでしょう。精神は頭脳の産物ではあるけれども、思考が頭脳から自由であるように、それは頭脳から自由です。思考は、後からそれ自身を振動として表現するのかもしれないように、継続しますが、それは再び一種の継続であり、その継続的する当のものは決して創造的でもありえないし、決して創造のこの途方もない状態を知ることもできません。そのように、宜しいでしょうか、この世界が現時点で必要としているのは更なる技術者ではありません、更に多くの技術者が生まれるでしょうが、彼らの次元では彼らは人間の問題を解決しないでしょう。彼らはもっとダムを、もっと良い道路を作るかもしれませんし、彼らはもっと良いコミュニケーションの手段を編み出すかもしれませんし、彼らは更なる繁栄を、更に良い生活様式を生み出すかもしれません―それは勿論重要です―しかしそれが全てです。それらの中で我々は宗教を否定してきました。何故なら多くの我々にとって生は主に物質的なものだからです。科学技術を通じてあなたは完全な物質的な生活を手にしようとしているかもしれませんが、それは我々の根本的な問題の答えではありません。
 そうすると要求されているのは継続的な状態の中ではなく創造的な状態の中にある精神です。そして創造は死の状態の中でのみ本当に理解されえますし、学ぶことができますし、知られえますし、経験されえます。創造は真実です、創造はあなたが神と呼ぶものですが、神という言葉はその創造ではありません、その言葉はシンボルにしか過ぎません、それには意味がありません。神について繰り返し話すことや神に祈ること、寺院や教会へ行くことには意味がありません。しかしもしあなたが全ての言葉を、全てのシンボルを死んでやり過ごすなら、あなたは自分自身で明らかにするでしょう―どのような書物も読まずに、どのようなグルの所にも行かずに、どのような儀式とも無縁に、どのような援助も受けずに―あなたはそのあらゆるものが存在する創造の状態を見つけるでしょう。しかしあなたは言葉をどれほど沢山繰り返してもその状態を理解できません。その状態はあなたがあなたの野望、あなたの不安、あなたの堕落を死んでやり過ごすときにのみやってくるだけです。そうするとあなたは否定であるその死の状態の中に肯定的なものの全く異なる状態があるのを見るでしょう、それが創造です。
                    1958年12月17日 ボンベイ トーク 7
                                   中野 多一郎 訳