クリシュナムルティをめぐりて

 

「時間のベールの背後」;「薄板界」「逆流(ぎゃくる)のエロス」(稲垣足穂);「生きるとは死ぬことと見つけたり」

 

クリシュナムルティ(K)  我々は起こっていることを実際には決して観察しないように私には思われます。起こっていることを正確に知ることは意外な事実の発見です。それは起こっていることを正確に、厳密に、見ることであり、外の世界で起こっていることを、技術的に、政治的に―我々が政治的に知る限り―見ることであり、そしてまた我々自身の中の実際の思考活動や我々の反応や我々の動機を観察することです。我々は自分自身のことをあまりよく知りません。そして我々の対話とトークは何らかの変質を―我々はその‘変質’という言葉を正しく使っています、それは内面的な革命のことです―心理的にもたらすことでした、そのために人間が本当に根本的に異なることです、古い同じ生き方を続けるのではない、古い決まりきった何かを、退屈や孤独や苦しみなどその他の全てを続けるのではない人間です。従って、私には、何が起こっているのかを正確に、間違いなく、正しく観察することが非常に重要であると思われます。そして、もし我々がそのように観察できれば、我々は途轍もなく学ぶことになると、とても沢山のことを発見することになると、私は思います。しかし、我々が観察するとき、我々は一般的に我々が見ることを好みません、或いは我々が見ることを好みます、そのようにして我々はそれから立ち去ります。一方、もし我々が実際に起こっていることに留まれるなら、想像上ではなく、或いはそれを何らかの方法で抑えるのではなく、それを厳密に観察できなら、我々は自分自身で途方もない沢山のことを発見するでしょう。

 それでは、我々は今朝何について対話しましょうか―対話は、同じ問題に関心を持ち、同じ問題に興味を持ち、同じ問題に深く関わっている二人の友人の間の会話を意味することを、従って探究する中にある種の愛情や気づかいやためらいがあることを心に留めておいてください。

 我々は判断について話せますか?
 我々は判断について話せるか?
 判断です。
 判断。宜しいでしょうか。我々はすでに自分自身を判断しているので、それは一つの問いです。
 (聞こえず)
 (繰り返して) 情動とは何ですか?
 (聞こえず)
 (繰り返して) 振舞うとはどういうことですか?
 我々は死と死ぬことを話せますか?
 死と死ぬこと。
 (イタリア語で)
 その紳士はイタリア語で問います、私が正しく言っていないなら御免なさい、正してください。彼は問います、我々は我々の好きな人が死ぬときに泣くだけではなく、それを我々自身のこととして泣くだけではなく、他の人に起こるときにも、他の人にとっての死に関しても泣きます。その人のためにも我々は涙を流すかもしれません。
 観察を妨げるのは何ですか?
 何が観察を妨げるのか? 周囲の状況や関係性や外的な環境の影響、そういうものが観察を妨げる―それがあなたの質問でしょうか?
 それでは我々は何を議論しましょうか? ちょっと待ってください。我々は幾つかの質問をしました、あなたの質問は、なぜ我々はいつも判断しているのか、そのように我々は決して我々自身を正確に観察しません。我々が自分自身を見るときでさえ、いつも何らかの判断が生じています、違いますか? それが一つの質問です。他の質問は、あなたは死について話せますか、というものでした。そして、振る舞いです、あなたにとって振る舞いとはどういう意味ですか? そして我々は泣きます、我々が好きな或いは愛する誰かが死ぬとき我々は泣きます、我々自身のためだけではなく、その人のためにも泣きます、そうして、この途轍もなく悲しいという感情が生まれます、亡くなった人のためだけではなく、自分自身のためにもこの途轍もなく悲しいという感情が起こります。それでは我々はそれらの中の何を議論しましょうか、或いは何について対話しましょうか?
 判断です。
 判断。
 死です。
 死。あなたは死について話したいのですか―本当ですか?
 いいえ、判断についてです。
 判断について。我々はそれから始めます、判断です、そして他の質問に行きます。なぜならそれが非常に重要だからです、というのは、我々は死を判断するのか、それとも我々はそれをあるがままに見るのかどうかを我々が明らかにしようとしているからです。我々はそこへ赴きます。
 質問は、なぜ人間はいつも判断するのか、或いは非難するのか、或いは是認するのか、或いは受け入れるのか、なぜ人間は絶えずこのように称賛したり軽視したりするのか―なぜ人間はこのようなことをするのか、ということです。それが質問です。なぜあなたは判断すると思いますか? それは我々の伝統です、一部分は我々の伝統です、違いますか? あなたは子供のときから判断するように、評価するように育てられています。違いますか? これは良い、あれは悪い、これは正しい、あれは間違っている、こうであるべきだ、こうであってはならない、私は良くない、私は悪い、などそのほかの全てがそうです、この絶え間ない判断の繰り返しです。それは自分自身に向き合うことを避けているのですか? 私の質問がお分かりですか? 私はあらゆるものを判断で染め上げます―政治、経済、宗教、神、神の非在などあらゆるものです―そのようにして私は自分自身を自分自身から隠します。それは私が覆う煙幕のようなものです、そしてそれに隠れて私は見ることを拒否します。それが要因の一つですか? そして判断することの方がずっと容易であるということが別の要因ですか? 判断というのは意見や偏った見方或いは前もっての知識です、そして前もっての知識に反射的に反応することはほとんど瞬時に起こります、そうすると判断を控えることよりも判断することの方がずっと容易です、そして観察することはもっとずっと困難になります。
 そうすると、それは現実を厳密に見ることを避けているのですか、それから逃げているのですか? そして宗教的な事柄の判断は途轍もなく強力です、なぜなら全ての宗教が判断をするからです。あなたが死ぬとき、あなたを判断しようとする何ものかが現れます。あなたはそのギリシャ的観念を知っています。これらはあなたについて何らかの判断をしようとする一つの形です。あなたがペテロの門の前に赴くと、彼はあなたを判断しようとする等々のことです。それは我々の偉大な歴史の一部ですか、宗教的な、社会的な歴史の一部ですか、そしてそれはまた実際に起こっていることの観察を部分的に避けているのですか?
 もしそれらの幾つかが事実なら、恐らくもっと多くがそうなら、判断を全くしないで観察することは可能ですか? 私はその赤いシャツが好きです、或いは、私はその赤いシャツが好きではない。しかし、そのような反射的な反応をしないで、ただ観察することです。そうすると私はもっと多くを学びます、私はその色を全く違うように見ます。あなたがこのことに気づいたかどうか私は知りません。
 そこで、振る舞いの中で―その紳士が問いました、振る舞いとは何ですか―判断は振る舞いの中でどのような位置を占めるのですか? お分かりですか? 人は伝統的なパターンに従って判断し振る舞います―婦人が入ってくるとき、私は立ち上がり、その婦人のためにドアーを開けるなど、これやあれや行います、そのように様々に振る舞います。それでは、判断は振る舞いに対してどのような関係にあるのでしょうか? 私の言っていることがお分かりですか? あなたは私の質問がお分かりですか? そして振る舞いとは何ですか―振る舞うことです。実際に行動することです、違いますか? 他の人、或いは私の友人などとの関係の中で行動することです。関係の中で行動することです。宜しいですか、正しく、間違いなく、正確に行動すること、それは判断ではありません、違いますか? あなたはそのことが分かるでしょうか。振る舞いは行動であると我々は言います。違いますか? 勿論そうです。そのような行動は判断に基づいていますか? それともそれは正確で、間違いがなく、正しいのですか? 私はそれら三つの言葉を同じ意味を持つものとして使っています。そうすると、我々がその言葉‘正確に’を使うとき、その正確さは前もっての記憶や前もっての活動、前もってのパターンに基づいているのですか、そのようにそれらが私の行動を判断するのですか―正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとかと。それとも、間違わない行動の中には、判断は存在しないのですか? 私は何かを見つけています。
 間違わない行動とはどういうものですか? 私は、行動を起こす前に、前もって「これは正しい行動だ、或いは、これは間違った行動だ」と言えますか? 私の質問がお分かりですか? 我々は分かり合っていますか?  私は、この世界に生きている人間として、間違いのない行動とは―政治的に、宗教的に、お分かりですね、あらゆる点で、あらゆることに関して、完全な行動とは―どういうものかを明らかにしたいと思います。それでは、どのようにして私は何が間違いのない行動なのかを発見するのでしょうか? 最初に私はそれが判断に基づくものであるのかどうかを問わなければなりません―他の人達の判断であれ、私が発展させてきたパターンに従って私が私の行動に課そうとする何らかの判断であれ。そこで、間違いのない行動は他の人達の判断に基づくのか、それともそれは私の経験や私の知識などその他の全てに基づくのかということです。お分かりですか? 我々は分かり合っていますか? 宜しいですか? 私は環境のおかげで間違いなく行動していますか? それとも、私は振る舞うパターンを前もって身につけているので間違いなく行動しているのですか? それとも、行動は両者から独立しているのですか? 行動は今行うことを意味します。違いますか? 今行うことであり、活動的現在です、違いますか? その動詞です、行うことです。そして、行うことは行動的瞬間です。もしその行動が未来―理想や希望や判断―に基づいているなら、それは行っていません。違いますか? 或いは、もしそれが私の前もっての結論に基づいているなら、それは行っていません。違いますか? もし私が過去に従って行うと、それは行動ではありません。或いは、もし私が未来に従って行うと、それは行動ではありません。行動は行うというその動詞の活動的現在のことです。違いますか? 行動は現在の中にだけあります。そうすると判断はどこで起こりますか? あなたは私の質問が分かりますか? もし私が未来や過去のパターンとは無縁に行っていると、それは完全な行動です。あなたがそれは間違った行動だというかもしれませんし、他の人がそれは正しいというかもしれません、しかしそれは行動です。私はこのことを明確にしているでしょうか。そのように、振る舞いは過去のパターンや未来の理想に基づくのではありません。それは今行っているのです、その活動が何であれ、それは現在の中です。どうか、このことの重要性を見てください。もし私がそれに従って行っている未来のパターンが存在しないなら、或いは過去のパターンが存在しないなら、私は動機を持たずに、賞罰という観念とは無縁に行っています。そうすると、行うということは今ということになります。そのように、行動が現在の中にあると、行動が過去や未来から自由になっていると、それは正しい行動です。あなたはそれを了解したでしょうか―あなたは理解したでしょうか? 私は何かを伝えましたか?
 (聞こえず)
 はい、判断の基準について、はい、パターンです、はい。それが我々の言ってきたことです。そのように我々はそれら二つの質問に答えました、判断と振る舞いです。
 そして死の質問があります―あなたはそれを議論したいのですか?
 情動の質問もあります。
 その通りです。情動とは何ですか? 情動と思考との関係はどうなりますか? 情動は思考から独立していますか? それとも思考は情動の一部ですか? 情動、それはどういう意味ですか、その言葉そのものです。
 動き出すこと。
 動き出すこと。それは動き、動機、感情を表す、‘出る’という言葉から来ています。それでは、ちょっと待ってください。私は問うています、情動や感情、感傷、感覚は、それらは思考と何らかの関係がありますか? 感傷や感激性やロマンチシズムの、それらの思考との関係はどうなりますか? そして、情動、感傷、ロマンチシズム、それらは愛とどういう関係にありますか? あなたは私の二つの質問が分かりますか? つまり、思考との関係と愛との関係です。
 愛は感傷ですか? 愛はロマンチシズムですか? 愛は何らかの感覚ですか? 宜しいですか? それでは、情動とは何ですか、動き出すことです。私は何かを非常に強く感じます。それは何を意味しますか? あなたは何かを非常に強く感じます、何でしょう、ヒンズー教について、それは何でもかまいません、共産主義、それとも独裁主義について。それにしましょう、共産主義は止めて、独裁主義にしましょう。共産主義は今やブルジョアになっています!(笑) では、我々は続けることにします。あなたは情動を抱きますか? 宜しいですか、思考とそれとの関係はどうなりますか? 待ってください、待ってください。注意して進んでください、注意深く見てください。
 それは思考との関係はありません。
 それを私は答えようとしています、見つけてください。カテゴリー分けしないでください、それと遊んでみましょう。もし思考が起こらないなら、情動は起こりえますか? 或いは感覚が生じますか? そのように我々は問うています、思考と情動との関係はどうなるのかと。私は非常に美しい何かを見ます、知覚、視覚、触覚、感覚、欲望そして思考です。そして思考がそのイメージを築き、それが確立します。違いますか? そのように、知覚、視覚、それから触覚、感覚が生じます。もし思考がそこに干渉しなければ、そこで終わって、感覚だけが生じます。あなたは私の要点を理解しているでしょうか。どうか、これを受け入れないでください、私は全く間違っているかもしれません、ですからそれを検討してください、それを探究してください、それを問うてください。
 つまり、私はこの上なく心地よい何かを見ます。その視覚が感覚を呼び覚まします―違いますか―あらゆる感覚が覚醒します、そして、それはそこで止めることができますか、そして欲望や思考、イメージが起こらないようにできますか? 私の言っていることが分かりますか? そうすると、情動は単なる感覚ですか、思考に触れられていない単なる感覚ですか? 従ってそれはもはや欲望の活動ではありません。分かりましたか? それは極めて簡単です。私は美しい何かを見ます―何でしょうか? 何か言ってください。
 女性。
 女性?(笑) あーっ、私もそう思いました。あなた方はみんな女性を愛します、そうですね? 美しい女性に気づきます。宗教は欲望を非難します、なぜならその女性に気づくことによって、その女性を見ることによって、あらゆる感覚が起こり、そして思考が這い寄ってきて、イメージが形成され、そして戦いが始まるからです。違いますか? そのように、世界中で宗教僧は言ってきました、欲望を断ち切りなさい、それを抑えなさい、それをコントロールしなさい、女性を見てはいけませんと。違いますか? 私はあなたが僧侶たちの後を歩いたことがあるかどうか知りません、或いは僧侶たちの一団の後を。もしあるなら、あなたはこれに気づくでしょう―彼らは見て素早く目をそらします。(笑) なぜなら彼らには勇気がないからです、そのあらゆる伝統が言います、それを抑えなさい、それを否定しなさいと。しかし、我々の言っているのは全く異なることです。その美しい女性或いは男性を見ると、感覚が呼び覚まされます、それは自然なことです、そしてそこで終わりです、思考に這い寄ってこさせません、思考が寄ってくると、欲望が生じ、イメージを築き始めます。お分かりですか? 理解しましたか? それを試みてください、それをいつか行ってください、そうすると、あなたはそれが途方もなく何らかの規律を要するのが分かるでしょう。お分かりですか? その規律は何らかのパターンを課すという意味の規律ではなく、学ぶ行為であり、それがその規律です。お分かりですか? 何か美しいものを見て、感覚が起こり、そして朽ち果てます。思考が這い入ってくると、それは朽ち果てません、そうすると欲望が起こり、あらゆる問題が生じます。お分かりですか? 宜しい。
 それでは、先へ行きましょう、もしあなたが死を議論したいのなら。それは測り知れない問題です、これは、お分かりですか? あなたはそれを本当に検討したいのですか?
 (聞こえず)
 彼の質問は局所化された特殊な質問です、つまり、あなたが好きな或いは愛する人が死ぬと涙が出るとき、その涙はその人と自分自身に向けられます。自分自身と他の人です。それは、我々が死について対話をしていく中で行き当たる特殊な質問です。
 (聞こえず)
 ある人達は気づいていました、質問者は言います、死の瞬間に死んでゆく人の顔に微笑が生まれると―幾つかのケースです。別の人達はひどい苦悶の中で、事故で、老齢で、身体に障害を抱えて、意識を失って死にます、そうすると恐らく笑顔は生まれません。一方、その紳士が言うように、時々、死んでゆく人の顔に笑顔が生まれます。そのような笑顔の意味は何でしょうか? それが質問です。
 (聞こえず)
 (繰り返して) 恐れと悲しみと幸せの違いは何でしょうか?
   我々はその質問を議論できますか?
 最初に死を議論できますか?
 最初に死を議論して、それからその質問を議論できますか? それで宜しいでしょうか?
 それでは、我々は死について対話しようと思います―対話は会話です、二人の友人の間の問いかけです、二人の間の、或いは、そのことに本当に関心を持っている数人の間の問いかけであり、それは理論的な問い詰めではありません、実際にそれを明らかにしたいと思う人達の問いかけです。そのように我々は問うています、我々は何かを教条的に述べているのではありません、我々は問うています。そして我々が正しく問うとき、我々はその真理を発見します、お分かりですか? 正しく問うためには、自由がなければなりません。違いますか? もし私が死を恐れていると、私は問えません、なぜなら、そのような恐れが私の探究を歪めるからです。違いますか? そのことは宜しいですか? 或いは、もし私が死や死後について何らかの信念を抱いていると、それもまた探究を歪めます。
 そのように、死のような非常に複雑な人間の問題を探究するためには、検討する自由がなければなりません。そして、もし何らかの偏った見方や信念、希望、恐れがあると、あなたは観察できません、或いは探究できません。そういうわけですので、あなたはそのような準備ができていますか? 私の質問が分かりますか? 非常に真剣に問うためには、偏った見方があってはなりません―そうでないと、それは歪みます、恐れ、快楽を願うこと、希望など、そういうものがあってはなりません。精神は検討するために完全に空でなければなりません。宜しいですか? それが何かを発見するための最初の要件です。
 はじめに、あらゆる人間が継続性を強く願います。違いますか? あらゆる人間がです。古代のエジプト人はある方法でそうしました、そして近代の人々は別の方法でそうします―彼らは死体を埋葬します、或いは火葬にします、或いは火葬にすることで彼らは何かが継続することを願います。そのように、ある種の継続性がなければならないというこのような強い要求が人間にはあります。違いますか? それはあなたの中にあります、違いますか? それを見てください。そうすると、継続するものは何ですか? 継続する何かがありますか? 永久な何かがありますか? それとも、あらゆるものは永久ではないのですか? 私の質問が分かりますか? ですから、私はそれを明らかにしなければなりません。私が死の問題を検討しうる前に、私ははじめに明らかにしなければなりません、人間は、あなたは、人間は継続する永久な何かがあるのかどうかを明らかにしなければなりません。継続性は永久性を意味します。違いますか? それでは、あなたの中に、人間としてあなたの中に、何か継続するものがありますか? 
 継続したいという欲望があります。
 いいえ、宜しいでしょうか、注意してください。いいえ、欲望を別にして、それを別にして、永久な何かがありますか? 永久というのは継続することです、それは終わりのない活動です。お分かりですか?
 多分。
 いいえ、多分ではありません。先ずそれを見てください。継続性を欲望します―欲望は、我々は注意深く言いました、感覚プラス思考が欲望です、そしてその欲望がイメージを作り出します。その経緯を見てください。感覚、思考、欲望、イメージの形成です。欲望とは別に、永久的な何かがありますか、それは時間がそれに触れないことを意味します、違いますか? それが我々の意味する永久的な何かです。時間はそれを変えません。従って、それは何らかの活動です、継続的な活動です。それでは、人間の中に永久的な何かがありますか?
 霊魂とは何ですか?
 霊魂とは何か。我々はそこへ行きます、マダム。宜しいですか、あなたは質問をして...を望みます。どうか、我々が議論していることと実際に関係ないことを質問しないでください。どうか、お願いします、というのは、そうするとあなたは我々が言っていることに気をつけていないからです。我々はその霊魂などそれら全てを間もなく含めます。しかし、これが我々の問うていることです、つまり、人間の中に永久的な何かがあるのか、ということです。
 継続性は時間を意味します。
 その通りです。継続性は時間を意味します、そしてまたそれは時間とは無縁であることも意味します。もしそれがはじめから...まで継続するなら―決して終わらないなら、それは時間を超えています。ちょっと待ってください。私はまだそれを探究したいとは思いません。人間の中に、あなたの中に、私の中に、永久的な何かがありますか? 
 存在感があります、自己の存在感があります。
 存在感があります、自己の存在感があります。自己と生きている感じがあります、子供のときからあなたが死ぬまで。存在、生きている感じ。そうすると、‘私’とは何ですか? 彼は言いました、‘私’は永久である―誰かがそう言いました。そうすると、‘私’とは何ですか、‘私’です、霊魂です、個性です、それは何ですか? どうか、真剣になってください、このことと戯れないでください、なぜなら、もしあなたが本当にこの質問を検討したいのなら、それはとても真剣なことだからです。
 記憶としての思考です。
 あなたは記憶としての思考と言います。あなたは誰かがそう言うのを聞いて、それをその人と同じように言っているのですか、それとも、それはあなたにとって真理ですか?
 (聞こえず)
 どうか、宜しいでしょうか、注意深く聞いてください。我々は会話をしています、或いは、‘私’とは何かを問うています―‘私’とはあなたが生きているという感じです、あなたが存在しているという感じです。そうすると‘私’とは何ですか? その‘私’は永久的ですか? 古代ヒンズー人は、その‘私’が生から生へ生が完全になるまで進展するという、彼らの最高原理であるブラフマンを唱えました。そのようにして‘私’にはそれがそれ自身を完全にするまで継続性があります、そして‘私’はその最高原理であるブラフマンに同化します。それが輪廻転生の概念です―再び生まれ変わるのです。どうか、その生まれ変わるという言葉に耳を傾けてください。それは再び生まれるということです。宜しいですか、我々は問うています、‘私’とは何かと。その‘私’は永久的ですか? あなたが自分自身で見つけていないことを人のまねをして繰り返さないでください。それはあなたが単に誰か他の人の言ったことを繰り返し言っているにすぎません、それには何の価値もありません。その‘私’は永久的ですか? それは‘私’とは何かを意味します。それはどのようにして生じるのでしょうか? それは精神的な実体ですか、従って継続するのですか、それともそれは一時的な何かで、流動的で、絶えず変化しているのですか? お分かりですか? それは―その本質は―非物質的なプロセスである精神的なものですか? それとも、それは物質的なプロセスですか? 物質的なプロセスであるものが、ものとしての思考が、それが様々な出来事や、アクシデント、印象、環境の影響、家族、名前などを通して築き上げてきました、それら全ては思考によって作り出された物質的なプロセスです、そして思考が言います「私は思考とは異なる」と。あなたはこれらのことが分かりますか? そのように、‘私’と思考は互いを分離して言ってきました「思考が働く、私の思考が働く」と。違いますか?
 そこで、あなたは自分自身で見出さなければなりません、死についてのこの問いかけの中で、何か永久的なものがあるのかどうか、それとも、あらゆるものが変化する動きの中にあるのか、あらゆるものがです、物質的なプロセスもあなたが何らかの魂であるという観念も、両者とも絶えず変化する動きの中にあるのかどうかです―変化する動きは時間です、時間はここからあそこまでです、物理的に、時間はまた精神を育てることでもあります。変化する動きです。そうすると―お分かりですか―永久的な何かがありますか、それとも人間の中のあらゆるものは変化するのですか? 
 (聞こえず)
 彼は言います、我々はどこか永久的です。つまり、生の中には時間を超えていると実感することやそのような出来事が起こる瞬間があると。そのような出来事は永久的です。それがその紳士の言わんとすることです。そのようなことが起こるとき、もしそれが何らかの記憶になると...
 それは記憶ではありません。
 待ってください、聞いてください。私は、‘もし’と言いました。もしそれが記憶になると、それは物質的なプロセスです、そして、あなたはそれを永久的な何かと呼べます。或いは、もしそれが起こり、そのような時間とは無縁な途方もない状態が起こり、そしてもしそれが記憶ではないなら、問題はそれが継続するのか、ということです。お分かりですか? このことを済まさせてください、あなたの質問は少し待ってください。つまり、あなたは何かを経験します―私は経験という言葉さえ使いません―時間を超えている何かが起こります。それが記憶として頭脳に記録されないとき、それは依然として時間を超えたままです―それが頭脳に記録されるや否や、それは時間の産物です。それは非常に単純です。そうすると、その出来事は継続的なものですか? それとも、それはなくなるのですか? もしそれが継続的なら、それは時間的なものです。宜しいですか、私はこのことを非常に注意深く検討しました、なぜなら我々は何かを発見するために大いに気をつけていることを、本当の感受性を要求する何かを検討しているからです。我々は言っています、問うています、永久的な何かがあるのかと。それはあなたが答えることです。
 我々は永久的な何かを願います。
 我々は永久的な何かを願う。永久性を手に入れたい欲望があります―私の永久な家、私の永久な名前、私の永久な姿形―お分かりですか―それらの記憶であり、それらに執着することです、我々は何もかもが永久であってほしいと思います。保険というのは全て永久性に基づいています。違いますか? それでは、ちょっと待ってください、我々は自分自身で永久的なものがあるのかどうかを見つけなければなりません。
 (聞こえず)
 いえ、いえ、宜しいでしょうか。どうか見てください。宜しいですか、私自身にとって永久的なものは何もありません。私はこのことをあなたに押し付けているのではありません。永久的なものは何もありません。それでは死とは何ですか? お分かりですか? もし‘私’に何らかの継続性があるなら、‘私’がその構造を作り出すのであり、思考によって作り出されます、思考は言葉であり、言葉は名であり、その名はその形に結び付けられています。身体の名や形、その有機組織そして精神の全構造は思考によって作り上げられます、それは明らかです。そのことが分かりますか? それとも、あなたは「いえ、いえ、その背後にもっとずっと霊的な何かがある」と言いますか? もしその背後にもっとずっと霊的な何かがあるなら、そして、もしあなたがそれは存在すると言うなら、それは依然として思考の一部です。お分かりですか? もしあなたが、この時間のベールの背後に―それは良い表現です―時間のベールの背後に時間とは全く無縁な何かがあると言うなら、あなたはそれを認識しました。違いますか? もしあなたがそれを認識したなら、それはあなたの記憶の一部です、もしそれが記憶なら、それは思考の物質的なプロセスです。それとも、そのようなベールの背後の何かが本当で、真実で、従って思考の及ばない何かなのかのどちらかです。違いますか? 従って、あなたは知りません。しかし、あなたが霊的な何かがあると主張すると、何か霊的な本質を主張すると、あなたはすでにそれを汚しています、従ってそれはもはや霊的ではありません。このことを一度見て取れば、あなたは分かるでしょう。あなたは、これが偉大な多くのヒンズー教の中の古いトリックであることが分かります、つまり、あなたの中に神がいるということです、あなたの中にブラフマンがいるということです、そして、あなたのすべきことは、玉ねぎの皮をはがすように、一つ一つめくり取ることであると。お分かりですか? つまり、あなたはあなたの中に神を思考によって確立しました、或いはブラフマンをあなたの中に確立しました、そして思考が言います「私はそこに到達しなければならない、そして私にそれを作動させてください」と。お分かりですか?
 そのように、もし全ての思考が物質的プロセスなら、そしてそれが作り出すものは何でも依然として物質的プロセスなら、たとえそれが永久的な‘私’があると言っても、それは依然として思考的構造の一部です。それでは、消滅するとは、死である消滅するとはどういうことですか? お分かりですか? あなたはこれらのことが分かっているでしょうか。
 (聞こえず)
 ただそれに耳を傾けてください、それを見てください、私に答えないでください。それを最初に見てください、見てください、それを答える前に。ほとんどの我々が継続性を強く願います、それゆえに死を恐れます、それでは、死ぬとき、つまり消滅するとき、何が起こりますか? お分かりですか?
 (聞こえず)
 はい、そうです。我々は言いました、宜しいでしょうか、あらゆるものが変化する動きの中にあると、そして私は言いました、消滅するとき―宜しいですか、それを非常に単純に言わせてください―私は継続することを強く願います、それが私の希望です、それが私の切に願うことです、私はあなたが...どうか知りません、しかし私はそれをただ例えとして、一人の人間として、取り上げているだけです。普通の人間が、彼が言います「私は引き続き生きなければならない、私は死が恐ろしい」と、しかし消滅します。私は死にます。私は死にたくないと思うかもしれません。私は死を前にして泣き叫ぶかもしれません、私は死に対して戦いを挑むかもしれません、それは避けられません。違いますか? そこで私は言っています、継続性を強く願って消滅するとき、何が起こるのかと。私の質問が分かりますか? あなたは疲れていますか?
 有機体の死と精神の死があります。それらは相関的で、精神身体的であるなどの類です。そこで私は問うています、一人の男が言います「私は引き続き生きなければならない、私は引き続き生きたい、それは私の人生です、後生だから、助けて下さい、なぜなら私のたった一つの欲望は継続することだからです」と。そして私は問います、分かりました、友よ、その終わりがやってくるとき、避けられないその終わりがやってくるとき、何が起こるのかと。その終わりは事故によるものか、病によるものか、いずれにしてもあらゆる種類の終わり方がありますが、何が起こりますか? そうすると、何が起こるのかを明らかにするためには、あなたは精神が、‘私’が、永久的なものか、それとも永久的ではないものなのかを探究しなければなりません。もしそれが永久的ではないなら、消滅します―何が起こりますか?
 (聞こえず)
 どうか、答えないでください、ただそれを見てください、胎の底から明らかにしてください! このことは途轍もなく重要です、というのは、その人が言います、私は不死を見つけなければならないと。お分かりですか? 古代エジプト人は彼らの日常生活を永久に継続することによって墳墓の中に不死を見つけました。もしあなたがエジプトの墳墓を見たり、それらについての書物を読んだりすると、それは彼らの欲望です、何千年も或いは何万年も彼らは生きるにちがいない、なぜならナイル谷は守られていたからです―両側が砂漠でした、従ってそのナイル谷が彼らに永久感覚をもたらしました、そしてその永久性は継続する生と解釈されました。あなたはそれについて書物に当たることができます、或いはもしあなたに興味があるなら、あなたはそれを見ることができます。そして古代のヒンズー教では、自我は、永久的ではなくても、それが完全な原理、最高の原理であるブラフマンに到達するまで引き続き生きなければならないとされます。或いは、彼らは言いました、あなたの中に神がいると、そして様々な輪廻転生を経て、あなたはその自我をそれが最高原理に至るまで完全にするでしょうと。お分かりですか? そしてキリスト教徒には復活などその他の彼ら独自の方法があります。
 そこで、私は明らかにしたいと思います、人間として、私は継続性を強く願いますが、死が避けられないことを知っています―避けられません、あなたがそれを好もうと好むまいと、死はそこにあります。そして私は自分自身に言います、消滅するとき何が起こるのかと。
 それは大変なショックです。
 大変なショックです。それは私の質問ではありません、宜しいですか。我々はそれを色々な仕方で議論するでしょう、ちょっと待ってください。あなたは私の質問に答えていません、なぜならあなたはそれに相対していないからです、あなたはそれを見ていません、明らかにするためにそれに精力的に取り組んでいません。
 私は引き続き生きたい、それが私の希望です、私の欲望です、私の願望です。私は八十年間私の家族と共に、私の家具と共に、私の書物と共に、八十年間収集してきたあらゆるものと共に生きてきました、どうか私にそれら同じものと共に更に数千年与えてください。しかし死がやって来て言います「いいえ、友よ、あなたは死にます」と―その後、何が起こるのでしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? 私は何らかの継続性を強く望みます―人間は何らかの継続性を強く望んで消滅します。継続性とは人間の精神が収集してきた全てのものです―知識、物、観念、執着するもの、人間が収集してきたあらゆるものです―財産、物と観念、信念、神々、それら全てであり、私はそれが永久に続いてほしいのです。しかし死がやって来て言います「それで終わりです」と。そこで私は問います、終わるのは何ですかと。
 精神です。
 自我です。
 あなたは確かですか? 注意してください、宜しいでしょうか、単に推測しないでください。私はこのことを多くの人達と本当は議論したくありません、或いは、検討したくありません、なぜなら、多くの人々は真剣ではないからです。このことのためには大いなる真剣さが要求されます、ただ喋り続けることではないのです。私は言いました、欲望は感覚と思考を通じて生まれると、そうして思考は、欲望である思考は何らかの名を手にします、という名を手にします、という形を手にします、そして私の意識の全内容が生まれます、それは思考によって作り出されたものです、それを私は継続したいと思います。私は思考を、その全ての内容と共に、その全ての執着と共に、その全ての痛みと共に、その全ての苦しみと共に、その全ての悲惨と混乱と共に継続したいと、私はそれが継続してほしいのです。
 (聞こえず)
 身体が死ぬとき、頭脳の構造である物質的なプロセスが、思考的なプロセスが死ぬとき。お分かりですか? あなたはこのことが分かるでしょうか。
 (聞こえず) 一つの困難は...
 宜しいですか、後生だから...それが私のそうしたくない理由です!
 それは自己の問題です。私の頭脳は死にますが、私の意識の内容は...
 宜しいでしょうか、私は世界です、そして世界は私です。それは事実です。違いますか? 世界は私です、観念としてではなく、理論としてではなく、それは現実です。お分かりですか? 私が手に針を刺すと痛いです、それと同じように、私が世界であり、世界が私であるのはリアルな現実です。‘私’は思考によって作り上げられます。それは物質的なプロセスです。思考はものです、物質的なプロセスです、なぜなら、それは知識として頭脳に蓄えられる記憶の反応だからです、そうすると、その頭脳が死ぬとき、その物質的なプロセスも死にます。違いますか? そうすると何が起こりますか? あなたは私の質問が分かりますか?
 物質的なプロセスが死にます。
 あーっ、マダム、乱暴な言い方ではなく指摘させてもらえば、あなたが物質的なプロセスは死ぬと言うとき、あなたは今それを死んでやり過ごしましたか? 死がやって来るときではなく、今です。お分かりでしょうか? 私はそれをあなたに示します。
 私は世界であり、世界は私です。私の意識は世界の意識です。私の意識の内容は世界の意識の内容です。そして、その内容は思考によって作り上げられます―私の家具であり、私の名であり、私の家族であり、私の銀行口座であり、私の信念であり教条であるなどそれら全てがその意識の中にあります、そして、それは世界の意識です。もしあなたがそのことを分からなければ、あなたは我々が問うていることをこれ以上検討できません。そうすると、その意識が、物質的なプロセスであるその意識が消滅します、なぜなら有機体が病気や事故などによって崩壊するからです、そのように頭脳が朽ちて、そうして思考的プロセスが消滅します。違いますか? そのように、自我や私を作り出してきた思考的プロセスが消滅しました。あーっ、あなたはそれを受け入れません。そこで私は言います、思考が意識として、それは私です、私であり、世界です、思考が意識として作り上げてきたあらゆるものを今死んでやり過ごすことは可能ですかと。あなたは私の質問が分かりますか? あなたは分かるでしょうか。
 我々はあなたの言うことを受け入れられません、それは霊魂消滅です。
 我々は明らかにしようとしています。彼は言います、我々はそれを受け入れられないと、なぜならそれは全くの霊魂の消滅を意味するからですと。それを我々は受け入れられない。なぜですか、もしそれが真理なら。それが我々の永久的な何かを望む理由です、あなたは終わりのない何かを望みます、それはあなた自身です、あなたの全ての悲惨さなどそれら全ての類と共に。そこで、私は自分自身に言います―どうか、聞いてください―私は世界であり、世界は私であるので、私の意識は世界の意識です、そして意識を成すそのような意識の全内容は思考によって作り上げられます―信念や教条、儀式などあらゆるものが思考によって作り上げられます。そこで私は自分自身に言います、それら全ては今死ぬことができるのかと、五十年後ではなく、今です。それは、そのような内容がそれ自身を今空にできるのかということを意味します。あなたは私の質問が分かりますか? それは、死は今であり、五十年後ではないということです。
 (聞こえず)
 待ってください、私はそれを言っているのです。あなたが死ぬとき、あなたの身体は朽ち果て、あなたの頭脳は消滅します。そしてあなたの意識の全内容はそのまんま継続できません、なぜなら、それが思考的プロセスだからです。そこで私は自分自身に問います、そしてあなたに―私はあなたに問います―私自身ではなく―私は人間としてのあなたに問います、これら全ての理由を見て、その理由、その論理、従って論理を超えていて、その真理を見て、つまり、あなたは世界であり、世界はあなたである、そしてあなたの意識は世界の意識であると。あなたがそのことを分かるかどうか知りません。そして、あなたがそのことを見て取るとき、そのことに閃くとき、思考によって作り出されたもの、それら全てが消滅しえますか、五十年後ではなく、今です。あなたは質問が分かりますか? 私の質問が分かりましたか? あなたは分からない、この理由は...あなたは分からない、これはただ...どうか、私にはどうしてよいか...これは恐ろしく真剣なことです。
 宜しいでしょうか、私の意識の一部は...私は信じる―信念は私の意識の一部です。世界中で人々は何かを信じます。違いますか? 神を、私は完全な状態を信じます、私は私の経験を信じます、私は神を信じます、私はイエスを信じます、私は仏陀を信じます―私は信じる、それは、従って、人間にとって共通の要因です。その信念は思考によって作り上げられます、それは物質的なプロセスです。あなたはその信念を今終わらせることができますか、あなたが死ぬときそうするように。私の質問が分かりますか? あなたの何かの信念を完全に終わらせることです、そして何が起こるか見るのです。言わないでください、私は私の信念を失うのが怖い、なぜなら信念は私に途轍もない安心をもたらすからですと。宜しいですか、あなたは何らかの幻想の中に安心を追い求めています、従ってそれは安心でも何でもありません。そこで、あなたはそれを今死んでやり過ごすことができますか? そうするときだけ、あなたは次に何がやって来るのか答えられます。しかし、次に何がやって来るのかあなたが答えることができる前に、あなたは行ってみなければなりません。それはつまり、言葉は行動ではなく、理論は行動ではなく、信念が人間の欲望のもっとも共通の要因であること、人は信念の中に大きな力を見つける―私は神を信じる、それが私に途轍もない力を与える―ということに気づくときです。それは幻想かもしれません、そしてそれはそれが思考によって作り出されるからです。そこで私はそれを死んでやり過ごすことができますか?
 (聞こえず)
 私はそのように言いました。私はそのように言いました、私はそう言いました。あなたは、それがあなたの...できない理由であることが分かりますか? そこであなたはその信念を死んでやり過ごすことができますか、信念です、ある特定の信念ではなく、信念をです。そしてほとんどの人が理想を抱くので、世界中でもっとも途方もない現象の一つがどこへ行っても人間は理想を抱いているということです―理想的な何かです、それが何であろうと問題ではありません、気高いもの、卑しいもの、現実的なものや幻想などです。宜しいですか、理想は明らかに思考によって作り上げられます、それは現実の私に反抗する物質的なプロセスです。そうすると、あなたはそれを死んでやり過ごすことができますか?
 そしてもしあなたがそれを死んでやり過ごさないなら、あなたはその後のことに恐らく答えられません。そして我々は我々が死ぬ前にその後のことを明らかにしたいと思います。それが我々の固執していることです、お分かりですね? もしそれが語られると、言葉にされて一般的になると、あなた方はみなそれを信じるでしょう。それは俗悪なものになります―私はその俗悪という言葉を通常の意味で使っています、普通の意味で使っています、それを侮蔑したり、貶めたりしていません。そうすると、それは何らかの信念になり、我々はみな幸せです。しかし、何も知らないで死ぬことなのです―お分かりですか? 宜しいでしょうか、あなたは分かりません。そのように、我々は事実だけを扱っています、理論を扱っていません、思い描かれた観念を扱っていません、心地よいそれであろうと、気高いそれであろうと、我々は日常生活の現実の事実を扱っています。我々の日常生活は思考によって作り上げられたもので成り立っています。思考は物質的なプロセスです。
 (聞こえず)
 あなたの言っていることは分かります、分かりました、宜しいでしょうか。彼は心霊体のことを言っています、それは全く異なる問題です、あなたは...していません。
 宜しいでしょうか、別の言い方をさせてください。人間は彼の悲しみを終わらせません、彼の悲惨や混乱を終わらせません。そうすると彼は彼の他の全ての世界と同じです。違いますか? 彼は死にます、しかし壮大な領域としての悲しみ、混乱、悲惨は続きます。あなたはこのことが分かりますか? これは事実です。大河の壮大な量の水のように、人間のこの測り知れない悲しみが存在します。何と、あなたはこれらを見ません! そのような暴力や憎悪、嫉妬が存在します。それは壮大な流れです。そして我々人間はその水流の一部です。もし我々がそのような水流を死んでやり過ごさなければ、それは続きます、その水流は続きます、それが我々の世界です。お分かりですか? そうすると、その水流から抜け出る人は、或いは、その水流から抜け出る人間は‘現実’を超えたものを知るでしょう。しかし、あなたがそのような流れの中に留まっている限りは、足を入れたり出したりして、戯れている限りは、ほとんどの人がそうしているのですが、あなたは死を超えたものを決して発見しないでしょう。それが意味するのは、希望を抱くことなく、人はあらゆるものを死んでやり過ごさなければならないということです。あなたはこれらのことが分かりますか? これはもっとも難しいことの一つです。私は、ダンテが彼の地獄偏の中で、「あなたは入る前に全ての希望を棄てよ」と言ったと信じます―それはその種の希望ではありません、我々は地獄へ入って行くのではありません。しかし、あらゆるものを死んでやり過ごす人は永遠が何かを知るでしょう。お分かりですか?
 (聞こえず)
 宜しいでしょうか、それはただの...それが私のあなた達と議論したくない理由です―あなた達は理論にしてしまいます。宜しいでしょうか、お分かりですか?
 (聞こえず)
 宜しいですか、宜しいでしょうか、どうかお願いします。分かりました。宜しいですか、それは、正に最後まで途轍もなく気をつけていて話す、議論する、或いは検討することのもっとも難しいことの一つです。非常に僅かの人しかそれができません。これはあなたが余すことなく気をつけていることを要求する主題です、言葉にすることなく、理論やそれらの類ではなく、あなたが絶え間なく気をつけていることを要求する主題です。僅かの人がこのことをできるだけです、僅かの人がこのことを行おうとするだけであり、多くの人達はそれを行えるけれども、彼らはとても怠惰であり、とても興味を欠いています。もしあなたが本当にこのことに魅かれるなら、このことに魅了されるなら、発見したいと思うなら、あなたは完全に気をつけているでしょう、従って、言葉ではなく、絶えず―お分かりですか―推し進めて、推し進めて、推し進めます、あなたがどこへ行くのか知る由もなく。そして、それが死です。あなたが死ぬとき、あなたの知っているあらゆるものが消滅します。それでは、あなたはあなたが知っているあらゆるものを今死ねませんか? お分かりですか? そうすると、あなたは自分自身で幻想とは無縁の真理とは何かを発見するでしょう、いいえ...真理は個人的な何かでは全くありません、それは私の真理でもなければ、あなたの真理でもありません、それは真理です。
                                                 中野 多一郎 訳