クリシュナムルティをめぐりて

オーハイ・トーク 7 1955年 8月27日

クリシュナムルティ 我々の重要な問題の一つに暴力の問題と平和を見つけようとする我々の願望があるように私には思われます。私には平和はあらゆる暴力の姿形を理解することなしに発見できないと思われます。平和は暴力の対極にある何かではなく、それとはまったく異なる状態であり、従ってそれは暴力に囚われている精神では感受できません。殆どの我々の生は暴力の深みにはまっていて、そして殆どの我々の思考が暴力に取り囲まれているので、この問題を理解することは非常に重要であると私には思われます、しかしそれは非常に複雑で、そのためには大いなる見抜く力、気づきが必要であると私には思われます。そして私は今晩もしできるなら、それを検討したいと思います。
 奇妙なことに、恐らく仏教やヒンズー教を除いて、どの組織宗教も戦争を止めて人間同士の驚くべき敵愾心に終止符を打たないできました。反対に、幾つかのいわゆる宗教は戦争をけしかけてきて、人間の途轍もない殺戮に責任があります。我々の生は、それを日常的に調べると暴力に満ちています。何故我々は暴力的なのでしょうか? どこから暴力は起こるのでしょうか、そして我々はそれに終止符を本当に打てるのでしょうか? 人は暴力を終わらせることができるように私には思われます―徹底的に、根本的に、それに終止符を打つことです―唯一、人がこの暴力がどこから生まれるのかを理解するときのみ。私があなたにお願いしたいのは、暴力についての私の描写に単に耳を傾けるのではなく、私が話している正にそのときに、あなた自身の思考の在り方をあなたが観察して、その描写を通してこの暴力という言葉の背後に横たわる問題をあなたが恐らくじかに経験するようにしてほしいのです。
 何故我々は人種的だけではなく個人的にも暴力的なのでしょうか? あなたがその問いかけをあなた自身にしたことがあるのかどうか私は知りません。我々が暴力を見るとき、我々がそれに気づくとき、我々がそれについて考えるとき、我々はそれにどう取り組みますか? 明らかに、殆どの我々は、それは避けられない、我々は我々を暴力的であるように条件づけて促してきたこのような特殊な社会の中で育てられているので、我々はこの問題を非常に手短に素早くいい加減に扱うと言います。しかし我々は、我々がその背後にあるものにまで行って我々の誰もがこの暴力の途轍もない感情を何故抱くのか、そしてそれに終止符を表面的にではなく根本的に深く打てるのかどうかを見出すために、この問題を検討できるのかどうかを見てみましょう。
 明らかに、この文化は、この文明は、暴力に基づいています、西欧世界だけではなく東洋世界も暴力に基づいていて、社会は暴力を促し、我々の全ての経済的、社会的、宗教的構造はそれに基づいています。私はこの暴力という言葉を、怒りや敵愾心などの表面的な意味だけではなく、所有欲や競争、権力などを追い求める集団並びに個人の欲望、これら全ての問題を含めた意味で使っています。明らかに、その欲望が暴力を生みます、違いますか? 私が誰かと競っている限り、私が野望を抱いている限り、私が貪欲である限り、暴力が生まれます―貪欲は、多くのものを欲しがるという通俗的な意味だけではなく、もっと深い意味で貪欲であるということであり、それは何かになりたいと思う、何かを支配したいと思う、安全でいたいと思う、脅かされない地位を得たいと思う衝動に駆られることです。
 そのように、人がどのような形であれ力を追い求めている限り、確かに暴力が生まれるに違いありません。どうか言わないで下さい「暴力に基づいた文化の中で、私は個人として何をしたらよいのでしょうか」と。私は、もしあなたが言われていることに耳を澄ますことができて何をすべきかを問わないなら、あなたはその問いの答えを見つけると思います。何をすべきなのかは重要ではありません。行動は我々がこの暴力の全問題を理解するときに起こると思います。何かでいることを強く望むことや自己主張や支配欲や何かになりたいと強く望むことを理解することなしに暴力に関して何か行動を起こしたいと強く望むことは、本当に全く未熟なことです。一方、もし我々が暴力の全過程を理解できて、その真理に気づくことができるなら、その気づきこそが正に予め考えられたものではないが故に真実の行動をもたらすと私は思います。あなたがこのことに付いてきているのかどうか私は知りません。
 我々は世の中で何が起こっているのか知っています。あらゆる政治家が平和について語ります、そしてその人たちが行うあらゆることが分断や対立、戦争を準備しています。そのようなことに本当に真剣な我々がその問題の真理を理解して、何をすべきかを問わないことが非常に重要であると私には思われます―何故なら、もし我々がその問題の真理を理解するなら、その正に真実が何であるのかの気づきこそが、あなたのものでもなく私のものでもない行動を促します、そして我々はその行動を恐らく思い描くことも、その意味する全てを予見することもできません。
 我々がこの社会で行うあらゆることが―社会的に、経済的に、宗教的に―暴力に基づいていることは、つまり、力や地位や名声を強く願うことに基づいていることは明らかな事実であり、その中には野望や成就や成功が含まれています。我々が打ち立てる途轍もない建物や巨大な教会は全て力の感じを示します。私はあなたがそれらの途方もない建物に気づいていたかどうかわかりませんし、私はあなたがそれらを見るときのあなたの反応がどういうものなのか知りません。それらは美しいかもしれませんが、私にとって美は全く異なる何かなのです。美にとっては厳格性や余すことのない放棄がなければなりませんが、もし成就されたものとして自己表現する野望的な感じがあるなら放棄は起こりえません。厳格性があるときに単純性が生まれ、単純な精神だけが自己を捨てることができて、この自己放棄から愛が生まれます。そのような状態が美です。しかしそのことに我々は全く気づきません。我々の文明は、我々の文化は、傲慢であることや何かを成し遂げることを基礎にしていて、社会の中で我々は互いに激しく争い、何かを成し遂げることや何かを獲得すること、何かを支配すること、何かになることを暴力的に競っています。それらは明らかに心理的な事実です。
 では何故このような暴力的な状態が存在するのですか? そして我々はこの状態を認めて、それを超えることができますか? もし我々にできるなら、我々は全く異なった何かに浸透することができると私は思います。支配欲を例にとりましょう。何故我々は何かを支配したいと思うのですか? 最初に、我々は我々の関係性の中で、我々の生に対する態度の中で、この支配感覚、この力や地位を欲しがる感じに気づいていますか? もし我々がそれに気づいているなら、それはどこから生まれるのですか? 私の質問がお分かりですか? もし我々がどこから支配感覚が生まれるのかを発見できれば、その発見は何故我々が暴力的であるのかの質問に答えるかもしれません。我々は誰もが異なった仕方で何者かになりたいという意味で我々は誰もが暴力的であり、我々は競い合い、野望を抱き、貪欲で、我々は何かを支配したいと思っています。それらは内的な状態の外的な現れであり、我々は我々にそのようなことをさせる内的な状態が何であるのかを見出そうとしています。我々はその状態に気づいていますか、それとも我々は単に倫理的なパターンに適合して、そのようなことを我々にさせるその源、そのルーツに本当は取り組まないで、思想的に非暴力でいよう、野望を抱かないでいようとしているのですか? もし我々がそのことを検討できるなら、恐らく我々の暴力の問題に対する取り組み方は全く異なったものになるでしょう。従って、どうか言われていることに耳を傾けて下さい、「おーっ、それが全てですか」という態度ではなく、自分で発見するようにして下さい。もしそのことについての私の話を通して、あなたがあなた自身で何かを発見するなら、実際にそれを経験するなら、それは途方もない効果をもたらすでしょう。
 何故私は暴力的なのでしょうか? 私は明らかにしたいと思います。私は社会的に、宗教的に何かでいようというこの途方もない衝動があるので私が暴力的であるのが分かります。それは事実です。ビジネスの世界で私はより豊かになりたい、より有能でありたい、トップでいたいと思い、そしていわゆる精神世界で私は私をそこで何かでいるように助けてくれる権威に従います。そこで私は私の活動が、私の思考が、私の関係性がいずれも何かを支配することや何かに依存することに基づいていることが分かります。私が何かに依存するとき、私は権威に従います、そしてそれが暴力を生みます。
 そこで私は暴力の全過程を理解したいと思います、私は単に社会的なパターンに適合したくないと思います、それは非常に表面的で私はそれに少しも興味を持てません。私は精神が暴力から余すことなく自由になれるのかどうかを、この全プロセスが精神から根こそぎ引き抜かれえるのかどうかを見出したいと思います。私はこのことに本当に興味を抱いていて、このことを明らかにしたいと思います。私は表面的な衝動や要求や影響が異なったパターンへ単に適合するのでは問題は解決しないと分かります。一つの社会構造を別のものに取り換えたり、資本主義社会の代わりに共産主義社会を打ち立てたりしても支配や暴力からの自由はもたらされないでしょう。私にはそれが分かりますので、私はそれら全ての途方もない衝動や要求や追求の源が何であるのかを、敵対や暴力を生みだすそれらの源が何であるのかを見出すために私自身を探究しようと思います。
 何故私は暴力的で、競争に明け暮れ、野望を抱き、貪欲なのですか? 何故私は何かでいようとして、何かになろうとして絶え間なくあがくのですか? 明らかに、私は野望を抱くことによって、何かを所有したいと思って、成功者でいたいと思って何かから逃げ去っています、何かを避けています。私は何かを恐れていて、それが私にそれら全てのことを行わせています。恐れは逃避の状態です。そこで私は私が本当に恐れているものを探究しています。私はさしあたり闇の恐怖や大衆的な意見や誰かが私について何を言うのか言わないのかの恐怖には関心がありません、何故ならそれらは全て非常に表面的だからであり、私は根本的に私を恐れさせて私に野望を抱かせたり、私の競争心を煽ったり、私を貪欲にさせたり、私に妬みを抱かせたりするようにけしかけて敵愾心やその他の全てのことを作り出すものは何であるのかを見出そうとしているからです。
 どうか私と一緒に考えて下さい。最初に、我々は非常に孤独な人間であるように私には思えます。私は非常に孤独です、内面的に虚しいのです、そして私はその状態が好きではないので、私はそれを恐れて、私はそれを避け、それから逃げ去ります。その逃げ去ることが正に恐怖を生みます、そしてその恐怖を避けるために私は様々な種類の活動に埋没します。明らかに、私の中に、あなたの中に、この虚しさがあり、精神は何らかの行動を通して、野望を通して、何かになろうとする衝動を通じて、もっと知識を獲得しようとする衝動を通して、それから逃げています―宜しいですか、それが暴力の全容です。逃げ去らないで、精神はこの虚しさを、この孤独の途方もない感じを、それは自己の究極的な表現ですが、この虚しさやこの途方もない感じを見ることができますか―自己とはそれが逃げないときのその当のものであり、虚しい自己意識です。あなたは私が説明していることが分かりますか? もしそれがはっきりしなければ、私は他の角度からそれを話そうと思います。
 結局のところ、自己、エゴ或いは“私”は、野望や、何かを所有すること、妬み、暴力的でありながら非暴力的であろうとすることなどを通して自分自身を表現しています。それらは全て“私”の表現です。私はそれら全てが分かります、そしてその背後を見ると、私はその正に自己の活動がこの途方もない虚しさの感じから起こるのも分かります。私はあなたが“私”のあらゆる活動を追跡するとき、あなたは精神が自己を完全に虚しいものとして余すことなく気づいているけれども、精神はこの虚しさを本当には決して見ないこの点まで―それはいつも逃げ去っていて避けてきました―あなたがやってくるのに気づいたのかどうか私は分かりません。
 宜しいですか、もし私がこの虚しさが何であるのかを理解できるなら、恐らく私は暴力の問題を解決することができるでしょう、しかし虚しさが何であるのかを理解するためには、私はそれを見なければなりません、そして私が逃げ去っている限り、私はそれを見ることができません。この逃げ去ることこそが恐怖を生んで、妬みや競争心、無慈悲さ、敵対心などそれら全ての行動に拍車をかけます。従って、精神はそれがいつもそれから逃げ去って何らかの行動を起こしているその当のものを見ることができますか? 私は私の言おうとしていることが明瞭であってほしいと思います。
 あなたはあなたが孤独で虚しいことに気づいていませんか? 我々はあなたがそれについて何をすべきかを検討しているのではありません。「あなたはそれについて何をなすべきか」がこの愚かで混乱に満ちた世界を作り出してきました。私は何かをしようと願う背後に何があるのかを問うています―それは発見するのが極端に難しいことです、何故なら精神はいつもその核心的な点を避けてきているからです。しかしもし精神がそれ自身を虚しい孤独なものとして余すことなく気づくことができるなら、それは精神をそのような状態に追い込んだ自己の在り方を完全に発見することを意味しますが、そのときあなたはどのような行動も、そのことを理解しないどのような行動も異なった形で暴力に拍車をかけているに違いないと分かるでしょう。単に平和主義者やこれやあれに賛成や反対を唱える思想家でいることでは問題は解決されません。非暴力の実践者は暴力の問題を全く解決してきていなくて、その人は単に何らかの観念を実践しているにすぎないのであり、その人はそこからあらゆる行動が起こる深くて根本的な事柄に決して取り組んできていません。
 宜しいですか、どうかあなた自身を見守って下さい、単に私の描写に従わないで下さい。あなたの精神はこの虚しさにそれから逃げ去ることなく気づくことができますか? 虚しくて孤独なので、あなたは仲間を、頼れる誰かを欲しがります、そしてその依存が権威を生み、あなたはそれに追随します、従ってその正に権威に従うことこそが暴力の徴候です。精神はそれらの真理を見て取って、逃げ去ることを止め、この虚しさを見ることができますか? 見るということが何を意味するのか分かりますか? もしあなたがこの虚しさに驚いていたら、それを避けていたら、あなたはそれを見ることができません。あなたはあなたに非難する感じがないときのみそれに十分に気づくことができます。どうかこのことをじかに受け止めて付いてきて下さい。私はそれをゆっくりと慎重に検討していきますので、我々のコミュニケーションや理解は同じものになりえます。
 私は私が孤独で虚しいのに気づいています、そして私はその虚しさを見守っていますが、もし私がそれを非難したら、私はそれを見守ることができません。その正に非難することこそが見守ることからの逸脱です。では私はそれを言葉にしないで、それを見守ることが、それに気づくことができますか? お分かりですか? 私がそれを言葉にしないとき、それを見守っている観察者はその観察者が見守っているそれと異なりますか? 見守っている者がそれを言葉にするときのみ分断が起こるのではないのですか? お分かりですか? いいでしょう! もっと簡単にしましょう。
 私が「私はお腹が空いた」と言うとき、その感覚を正に言葉にすることが、その反射的反応が二重性をもたらします、違いますか? しかしもし私がそれを言葉にしないなら、それは正に私自身です。お分かりですか? 宜しいですか、私は何らかの感情を言葉にします、何故なら精神は認識するように、名付けるように訓練されているからです、しかしもし精神が名付けないなら観察する者と観察されているものとの間の分離や分断は消滅します。言い換えれば、言葉にするのを止めると、ある状態のみが存在して、その状態の中には、それについて何かを行おうとする何らかの分離したものが存在しません。精神はそれが理解したいと思う何かにもはや働きかけていないので、精神的な活動が、本質的に暴力的なそれが止んでいます。
 宜しいですか、これは知的なことではありません。それは空想的すぎる、抽象的すぎる、それは馬鹿馬鹿しいなどと言わないで下さい。私は暴力の姿形を少しずつ暴いています。我々の社会構造は暴力に基づいていて、国家間だけではなく個人的にも我々は互いに激しく競い合い、我々は競争的で冷酷です。では、もし私がその全問題を理解したいのなら、私は私が虚しさと呼ぶこのことに関する精神の活動を理解しなければなりません、そしてその理解が起こるや否や、私はもはや何かでいようとは思いません。お分かりですか? 何かでいることを願うことが敵意や暴力を生みます。完全なユートピアを作り出したいと思う理想家はその正に本性上暴力的です。非暴力を実践している人は暴力的な人間です、何故ならその人は本当にはその問題を理解していないからであり、その人はそれを表面的に扱っているからです。
 従って、私は精神が野望という観点から或いは野望を持たないという観点から働いている限り、それは大いなる混乱、あがき、悲惨を自分自身にも他の人たちにも作り出しているに違いないと分かります。もし精神がさらに深くこの問題を検討して何かでいようというこの衝動の全過程を理解するなら、精神は必然的にそれが虚しさの状態である何ものでもないものから逃げ場を追い求めているのが分かる地点にまでこざるをえません。私はその虚しさが理解できますか? 精神はそれを検討して、それを吟味し、それを感じきることができますか? 明らかに精神は、我々が虚しさや孤独と呼ぶ途方もないものを、それがなんらかの仕方で非難している限り、それが拒絶したり、支配したり、或いはそれを超えようとしている限り、経験したり理解したりできません。精神は、それがそれを言葉にしている限り、その状態を拒絶したり支配したりするでしょう、そして認めたり言葉にしたりすることが正に精神的な過程です。
 結局のところ、あなたはシンボルなしに、観念なしに、言葉なしに考えることができません。精神は言葉にするのを止めることができますか? それは、その過程に終止符を打って、それが虚しさと呼んできたものを言葉にしないで或いはその想像的なシンボルを作り出さないで見ることができますか? それがそうするとき、それが虚しさと呼んできたその状態はそれ自身と異なりますか? 明らかに異なりません。そうすると言葉にしない、名付けない状態だけが存在するので、分離したり、競ったり、敵意を生んだりする精神の全活動が消滅します。その中に全く異なった活動が起こります。それはもはや暴力的ではありません。「私は優しくなければならない」と言う精神によっては理解できない優しさが生まれます。意志的な全ての活動が止みます、というのは意志もまた暴力の結果だからです。

質問者(Q) あなたの言うことは異国的であり東洋的です。そのようなあなたの教えは効率性と発展を基礎とする、そして世界中の生活水準引き上げている我々西洋文明に当てはまりますか?
クリシュナムルティ(K) あなたは思考が東洋的であったり西洋的であったりすると思いますか? 行儀作法は色々と違うかもしれません。私はインドで手を使って食事をしますし、中国では箸を使い、ここではあなたは更に違う仕方で食事をしますが、東洋的な見方をする当のものは西洋的な見方をする当のものと異なりますか? その当のものに違いがありますか? もし私がアメリカに生まれて、いま私が言っていることと同じことを私が言うなら、あなたはそれを東洋的と言いますか? 恐らくあなたはそれを神秘的であるとか、実行できないとか、奇抜な考えであるとかと言うでしょう。しかし問題はインドであれ、日本であれ、ここであれ同じです。我々は人間であり、アジア人でもアメリカ人でもロシア人でもドイツ人でも共産主義者でも資本主義者でもありません。我々はみな同じ人間の問題を抱えています。
 宜しいでしょうか、私が言っていることはここでもインドでも明らかに当てはまります。暴力はインドでも問題であるようにあなたの問題でもあります。関係性の問題、愛の問題、美の問題、平和な精神状態をもたらす問題、その社会自身だけではなく他の人々に対しても破壊的ではない社会を作り出す問題―それら全ては我々が東洋で生活していようと西洋で生活していようと明らかに我々一人ひとりの関心事です。ここではあなたは軍隊を作り出す問題を抱えていて、それはどのような社会であれ社会の腐敗を指し示すものです、何故なら軍隊の基礎は正に権威、ナショナリズム、安全性だからであり、それはインドでも日本でもアジアでも全く同じことだからです。従って東洋的であるとか西洋的であるとかと思考をこのように恣意的に分断することは本当に探究している人にとってはありえないことです。アジア的な見方や哲学に条件づけられていて、その条件づけからどのように生きるのかをあなたに語る人は明らかに思考を東洋的思考とか西洋的思考とかと分断しています。しかし我々は全く違うことを話していて、それは精神を全ての条件づけから自由にすることであり、とても子供じみたことですが、東洋的な哲学に従ってそれを形作らないことです。
 我々が行おうとしていることは我々の生の途方もない複雑さを一緒に探究して、我々がそれらの複雑な問題を非常に単純に本当に見ることができるのかどうかを明らかにすることですが、人は自分自身を理解しなければ、それらの複雑な問題を非常に単純に見ることができません。自己は数知れない矛盾する欲望を抱えた途方もなく複雑な存在です。我々は果てしなく自分自身と格闘していて、この内的な葛藤がそれ自身を促して外的な活動へと向かわせます。自己を理解すること―無意識同様意識を理解すること―は途轍もなく骨の折れることであり、人は一日一日、一瞬一瞬それを理解することができるだけです。それは最終章を欠いた本なので、それは結論付けられる何かではありません。
 従って、もし人が言われていることにアメリカ人やヨーロッパ人や東洋人としてではなく、それら全ての問題に直接かかわっている人間として耳を傾けることができるなら、我々は一緒に異なった世界を作り出すでしょう、そしてそのとき我々は本当に宗教的な人間でしょう。宗教は真理を探究することであり、宗教的な人間にとってはナショナリティや国家や哲学はなく、その人は誰にも従わないので、その人はその言葉の最も深遠な意味で本当に革命的な人間です。
 我々が経験する様々な形で自己表現されて発表されるものは幻想ですか、それともこの成就感はあなたが話している創造性と関係がありますか?
 自己成就というものが本当にありますか? 我々はそういうものがあると受け入れてきました、違いますか? もし私が芸術家なら、私は何かを成し遂げなければなりませんし、もしあなたが作家なら、あなたは何かを成し遂げなければなりません。我々はみな異なった方法で、家族を通じて、子供を通じて、夫や妻を通じて、財産を通じて、観念を通じて自分自身を成就しようとしています。もしあなたが野望を抱いているなら、あなたはあなたの野望を成就しなければなりません、そうしなければあなたは挫かれて、その正に挫折の中であなたは惨めになります。我々はみな自分自身を成就しようとしていますが、我々は決して自己成就というものが本当にあるのかどうかを問うてきていません。明らかに、何かを成就することを追い求めている人は欲求不満に付き纏われています。それは極めて単純です、違いますか? もし私がいつも私の息子や私の妻や何らかの観念や行動を通じて何かを成就しようとしているなら、いつも欲求不満の影やその背後の恐怖が存在します。そこでもし私が恐怖や欲求不満や心身の込み入った苦悶やその他の全てを理解したいのなら、私は自己を成就するというようなものが、何かになろうとしている“私”というようなものがあるというこの観念の全てを問わなければなりません。“私”は幻想ではないのかも知れませんか? 人が行動するとき、それが機能するという意味で、それは何らかの現実ではあるけれども。 野望を抱いていて、競争的で、貪欲で、妬みを抱いている人にとって“私”は幻想ではなく、それは非常に現実的なものです。しかしこの全問題を探究し始めている人に、平和が何であるのかを理解したいと本当に思っている人に―恐怖から生まれる平和ではなく、政治家の平和ではなく、人が願ってきたものを収集した後の自己満足的な平和ではなく、争いごとや何かになろうともがくことのない平和―そのような人に余すことなく何ものでもなくいるという経験がやってきます、そしてその状態の中に時間とは無縁の創造性が生まれます。我々が創造性と呼ぶものは、技術を学んでそれを表現するプロセスですが、私は全く異なったことを、自己が余すことなく消滅している精神のことを話しています。
 あなたが話す創造性は個人的贖罪の法悦に限るのですか、それともそれは人間を助けるための、その人自身や他の人たちの科学的業績を利用する人間の力を解放するかもしれないのですか?
 そのような質問は―もしこれが起これば、何がそれに続くのか―明らかに非常に表面的に聞いていている人たちによってなされます。私が言ったように、追究している人の行動は、真実が生まれるその人の行動は、この状態を垣間見てそれを表現しようとする人のそれとは異なるでしょう。結局のところ、殆どの我々は何らかの種類の技能の中で教育されています、絵画、工学、機械などです。それは明らかに必要ですが、単に個々の職業の技術を学ぶだけではこの創造的なものを解放することにはなりません。創造的な真実―それを神と呼ぼうと、真理と呼ぼうと、何と呼ぼうと―は技術を通じてではなく、精神がそれ自身を理解したときのみ生まれます。あなたは自分自身を理解することがどんなに難しいか知っていますか? それが難しいのは我々がディレッタントだからであり、我々は本当には興味を持っていないからです。しかしもしあなたが本当に気づくなら、もしあなたが自分自身を理解するのに余すことなく気をつけているなら、あなたは破壊されることのない財宝を見つけるでしょう。あなたは哲学や心理学や精神分析などそれら全ての本を一冊も読む必要がありません、何故ならあなたが全人間性の余すことのない内容だからです、そしてあなた自身を理解しなければ、あなたは数知れない問題を、終わることのない悲惨を作り続けるでしょう。自分自身を理解するためには、衝動的な力や結論ではなく、大いなる辛抱を要します。人はゆっくりと行かなければなりません、一ミリ一ミリ、一歩も踏み間違えないように―それはあなたが永久に目覚めていなければならないことを意味するのではありません。あなたはそのようなことはできません。それが意味するのは、あなたは見守ってあなたの見守ってきたものを脱落させ、それをやり過ごし、そしてそれを再び拾い上げなければならないことです、そのために精神がそれまで学んできたものの単なる収集蓄積にならずに一つ一つを新たに見守ることができるということです。精神がそれ自身を見ることができて、それ自身を理解することができるとき、あの真実の創造性が生まれます、そしてそのような精神が悲惨をもたらすことなく技術を使うことができます。
 夢の意義は何ですか、そして人はそれを自分自身のためにどのように解釈できますか?
 私はこの質問をかなり深く検討したいと思います、それをただ表面的に扱いたくないと思います、そしてあなたが十分に興味を持って一歩一歩付いてきてくれることを期待します。
 殆どの我々が夢を見ます。過食や食べあたりから悪夢を見ることがありますが、私はそのような夢について話しているのではありません。私は心理的な意義を持つ夢について話しています。夢には様々な状態があります、違いますか? 夢を見て、目が覚めて、あなたはあなたが見た夢の意味を見つけようとします―あなたはそれを解釈します。その解釈はあなたの知識やあなたの条件づけ、あなたが様々な哲学者たちや心理学者たちなどから学んできたものに依存します。そしてもしあなたが解釈を誤ると、あなたの結論は全て誤りでしょう。人は夢を見るかもしれません、そして人が夢を見ているとき、その解釈が同時に進行しているので、人は明瞭な気持ちで目覚めて、人はその夢を理解し、それはもはや人に影響していません。そのようなことがあなたに起こったことがあるのかどうか私は知りません。
 従って問題は夢をどのように解釈するのかではなく何故我々は夢を見るのかです。お分かりでしょうか? もしあなたがあなたの夢を心理学者に従って解釈するなら、その解釈はその心理学者の条件づけに依存します、そしてもしあなたがそれをあなた自身で解釈するなら、あなたの解釈はあなた自身の条件づけによって形作られます。いずれの場合もその解釈は誤りかもしれませんし、それに基づいたどのような結論も行動も従って全く誤りであるということになるかも知れません。従って問題は夢をどのように解釈するのかではなく何故我々は夢を見るのかということです。もしあなたがその問題を解決できるなら、その解釈は必要ないでしょう。もしあなたが夢を見る全過程を本当に理解できるなら、それは非常に簡単なことになるでしょう。
 何故我々は夢を見るのですか? それを一緒によく考えてみましょう、それについて本を書いている何らかの権威に従うのではなくよく考えてみましょう。もしあなたにそれができるなら、それら全てを完全に脇へ除けて、一緒にそれを非常に単純によく考えて見ましょう。何故我々は夢を見るのですか? 夢を見るとはどういう意味ですか? あなたはベッドへ行って眠りに落ちます、そして眠っているとき行動が起きていて様々なシンボルや光景の形を取ります、そして目が覚めるとあなたは言います「そう、それが私の見た夢だ」と。
 では何が起こりましたか? どうかこのことに付いてきて下さい、それは非常に単純です。あなたが日中目覚めているとき、表面的な精神は多くのことで塞がれています―仕事、喧嘩、子供たち、お金、買い物に行くこと、炊事―宜しいですか、それは様々なことで塞がれています。しかし表面的な精神が精神の全てではなく、無意識なものもあります、違いますか? あなたは無意識なものがあるのを発見するために本を読む必要はありません。我々の隠れた動機、本能的な反応、人種的な衝動、引き継がれてきた矛盾や信仰―それらは全て無意識なものの中に存在します。無意識なものは明らかに表面的な精神に何かを話したくて、表面的な精神が眠っていて静まっているときそれを話そうとします。無意識なものもいつも活動しているけれども日中は何かを表現する機会がないだけなので、それは様々なシンボルを意識的精神が眠っているときに思い描き出します、そして我々は言います「私は夢を見た」と。それはもしあなたがそれを検討できるなら複雑ではありません。
 宜しいですか、私は私自身を夢の解釈で永久に占領されたくありません、それは台所や神や飲酒や女性や何やかやで塞がれるようなものです。私は何故私が夢を見るのかを、そして全く夢を見ないことは可能なのかどうかを明らかにしたいのです。心理学者は夢を見ないことはありえないというかもしれませんが、専門家たちには彼らの専門領域に居てもらって我々はそれを明らかにしましょう。(笑) いえ、いえ、どうか笑わないで下さい。何故夢が起こるのですか? 夢を抑圧しないで、或いは夢を乗り越えようとしないで夢が消滅して精神が睡眠中に余すことなく静まっていることは可能ですか? 私は明らかにしたいので、それが私の最初の質問です。
 何故私は夢を見るのですか? 私は私の意識的精神が日中沢山のもので塞がれているから夢を見ます。しかし意識的精神は日中全ての無意識的な仄めかしや無意識的な促しに心を開いていることができますか? お分かりですか? 表面的な精神は日中気を抜かずにとても警戒していて、無意識的な動機や隠れているものを垣間見ることに、それらを抑圧することなく、それらを変えることなく、それらに何かをすることなく、気づくことができますか? もしあなたがこれらの葛藤の全てに批判することなく取捨選択することなく単に気づくことができるなら、もしあなたが心を開くことができて無意識的なものを、あなたがバスに乗っているとき、車を運転しているとき、テーブルの前に座っているとき、友人と話をしているとき、日中に一瞬一瞬それ自身を仄めかすことができるなら、もしあなたがあなたは人をどう見るのか、あなたの話し方はどうなのか、あなたはあなたと同質ではない人たちをどう扱うのかをただ見守ることができるなら―そのときあなたは、より深く、より根本的に観察しているので、あなたが夢を全く見なくなっていることが分かるでしょう。そうすると無意識的なものが睡眠中にあなたに何をすべきで何をすべきではないと語る仄めかしや暗示の必要がなくなります、何故なら全てのものがあなたの日常生活の中で露わになっているからです。
 従って我々はとても興味深い点にきています、つまり、日中に精神が途方もなく気を抜かずに警戒して判断や非難をしないで見守っていて、意識の全過程が露わにされ、検討され、理解されるとき、あなたは全く穏やかな状態が睡眠中に起こり、それが全く穏やかなので覚めているときの意識ではそれにどうしても触れることができない深みへ精神が行けるのが分かるでしょう。お分かりでしょうか? お分かりでないと思います。もう一度説明しましょう、少し遅くなっても構わないことを願います。
 宜しいでしょうか、我々は幸福や平和、神、真理などを追い求めていて、絶え間なく適応しようと、愛そうと、親切でいようと、寛容でいようと、これを脇へ置いてあれを獲得しようともがいています。もし我々が正に気づくなら、我々はそれが事実であると分かり、この騒々しい苦闘したり適応したりする活動が余すことなく絶えず続くのを知り、その状態の中の精神は明らかに新しい何ものも見つけることができないと分かります。しかしもし私が日中に起こる様々な思考や動機に気づくなら、もし私が私は野心的で、何かを非難したり、何らかの判断をしたり、何かを批判していると気づいて、そのような活動の全てを見て取るなら、何が起こりますか? 私の精神はもはやもがいていません、それはもはや突き進んでいません、見つけようとする衝動によって生み出されたそのような騒々しさはありません。従って精神は完全に穏やかです、表面的な精神だけではなく意識の全内容が穏やかであり、見つけようとするどのような活動も、何かであろうとする或いは何かでないようにする努力も存在しない完全に穏やかなその状態の中で、精神はそれが何かを見つけようとしているときには恐らく決して触れることのできない深みに触れることができます。それが非難することなく気づくことの、批判や判断なしに見ることの非常に重要な理由です。人はこのことを一日中断続的にできます、その結果精神はもはや睡眠時に格闘する装置ではなくなり、それはもはや無意識からシンボルを通じて暗示を捉えようとしたり、それを解釈しようとしたりせず、それはもはや星界などそれら全てのナンセンスを発明したりしません。全ての条件づけから自由なので、精神は睡眠時に日中の意識が決して触れることのできない深みに浸透できて、あなたはあなたが覚めているときにあなたの以前に全く経験したことのない新しさが存在するのを見つけるでしょう。それは過去を洗い流して新しく生まれるようなものです。
                          1955年 8月27日 オーハイ
                                  中野 多一郎 訳