クリシュナムルティをめぐりて

閃き

クリシュナムルティ(K) 我々は先日言っていました、様々なタイプの組織が、それが宗教的であっても世俗的であっても、それらがどういうものであるのかを見ることは、そして社会組織がどういうものであるのかを見ることは、それらが不可避的にどれほど腐敗しているのかを見ることはとても重要であると、そしてそれらのいずれかに属することは人の条件づけを解くのを妨げるだけではなく人が物事を明確に見ることを妨げます。そこで我々は言いました、完全に独存することが、どのようなグループにも党宗派にも属さないことが、どのようなグルにも教師にも従わないことが、そして我々が全く異なった社会を生み出しえるためには完全に独存できることが重要であると。それが一昨日の朝、大なり小なり我々の話していたことです。
 私はあなたがその重要性を分かるのかどうか知りません。私はあなたがこの質問を認識しているのかどうか、この質問の意味することに閃いているのかどうか知りません。何故なら殆んどの我々は非常に混乱していて、我々はどうして良いのか分からないのであり、沢山の要求や圧力があるので殆んどの我々は誰かに頼るからです―我々は導かれたいと思います、我々はどうすれば良いか教えられたいと思います。我々自身の中は明確ではないので、当り前のように、非常に明確である、悟っている、或いは自由の境地にいるなどと発言する人達が現れます。そして不確かであるので、我々自身が混乱しているので、我々は大かれ少なかれ彼らの説得に屈します、そうして更に我々は条件づけられるだけではなく新しい形の条件づけを受け入れます。私はあなたがこの重要性を分かるのかどうか知りません。何故なら、もし我々がそのように条件づけられているなら、我々の精神が殆んど機械的になるのは避けられないからです。違いますか?
 どうぞ宜しいですか、先日我々が話したように、我々はこのことを共に分かち合っています、私は本気なのです。我々はこれらの問題を共に考えているのです、従ってそれを共に理解し合っているのです。それは、私があなたに何を考え或いはどう考えるのかを話しているのではなく、共に探究し、理解し、それらの問題の意味することに閃いて、最後にあなたが非常に明確になることです。その結果その明確さの中であなたは独存するのです。何故なら人は全く異なった種類の社会を、まったく異なった種類の人間を作り上げなくては、或いは生み出さなくてはならないからです、そして人が世界で起こっていることを見れば見るほど、そのような人間の出現の要請が強くなるのです。
 そして本当に独存できる精神のみが、どのようなグループにも、どのような党にも、どのような共同体にも、どのような教条にも、信仰にも、結論にも属さないという意味でのそのような精神のみが創造的でありえるのです。私は我々が創造とは何か、創造的とは何かという問題を検討する必要があると思います、何故なら、もしそれが明確でないなら、我々は精神をもっともっと機械的にする、もっともっと依存的にする、もっともっと執着的にするそれらのものに従いがちであるからです。あなたはこのことがお分かりでしょう。
 では創造とは何ですか? 創造的であるとはどういうことですか? 何故なら、もしあなたが創造的でないなら、否応なくあなたは分断的で、権威を受け入れ、逃避であるあらゆる馬鹿げたことに従うでしょう。そこで人は自分自身でこの世界で創造的であるとはどういう意味であるのかを非常に明確に理解する必要があります。宜しいですか? 私はその言葉があなたにとって何を意味するのか知りません。それは明らかに新しい何か物理的なもの―新しい発明や新しい言い回しや新しい絵画や新しい種類の音楽―を作り上げることではありません。我々は独存的な、従って創造的でありえる精神のことを話しています。宜しいですか? 殆んどの我々は何らかの葛藤の中にいます、殆んどの我々は様々な種類の要求に囚われています、物理的なそれだけではなく環境的社会的などのそれです。我々はお互いに物理的にも心理的にも依存し合っています、従って我々の性質や心理的な構造は全て断片的です。違いますか? あなたはこのことに付いてきていますか? どうかそれをあなた自身の中で観察して下さい。それ自身の中で断片的で矛盾している精神が創造的でありえますか? それとも創造はこの断片性の持続が潰えるときに起こるのですか? 私はあなたがこれらのことに付いてきているのかどうか分かりません。あなたはそれに興味がありますか? 何故なら、宜しいですか、もしあなたがその言葉のより深い意味で創造的ではないなら、そのことを我々は検討しているのですが、もしそうなら我々は深い欲求不満の中心的な事実からきっと逃げ出すはずです。違いますか? そしてその逃亡が、宗教的な逃亡であろうと、政治的な逃亡であろうと、性的な逃亡であろうと、或いは立派な仕事への逃亡であろうと、非常に重要になります。そのように、精神が囚われているこの断片性の要因ではなく、逃亡がとても重要になります。違いますか? どうかこのことに付いてきて下さい。そして自身の中でこのことを観察して下さい、人がどのように断片的で、矛盾していて、異なる欲望や要求に引き付けられているのかを、どのようにして精神は創造性が唯一その中で生まれえる自由になるのかを。
 最初にあなたは閃くということがどういう意味であるのか分かりますか? あなたはあなたが何かに閃くとき何が起こるのか分かりますか? 例えば、あなたが全ての宗教的組織が何であるのかに閃くとしましょう、それを例に取りましょう。それが何であるのかに閃くのです、その中に意味されているものを見るのです、それがどれほど腐敗しているのか閃くのです、それがどれほど虚偽であるのか閃くのです。精神が条件づけされていないとき、精神がどのような特別な種類の信念にも執着していないとき、あなたはそのように閃くだけです。違いますか? そこで宗教的組織がどのようなものかに閃くと、あなたはそこから結論を導き出します。違いますか? あなたが結論を導き出すと、あなたはその閃きを止めます。違いますか? あなたが閃きによって気づくことを結論にすると、あなたは閃きに終止符を打ちます。そのことは明らかですか?
 では宜しいですか、私はあなたがそれを理解するようにこのことを非常にはっきりさせなければなりません。私は何らかの政党に属するということは、その政党が国家主義的であること、それが全く腐敗した人達によって運営されていること、彼らは党の名の下で自分たちのために働いていて権力や地位などその他の全てを欲している人達であることが非常にはっきりと見えます、私はそのことに閃きます。それは本の知識によるのでもなく、何かを読んででもなく、実際にそれを見るのです。その気づきから私は結論を導き出します。違いますか? 私は全ての政治家や政治が恐ろしいものであることが分かります。そこで私が結論を導き出すと私は閃きを終了させます。お分かりですか? そうすると私はその結論から行動して、その閃きから行動しません。宜しいですか? 従って結論に基づく行動は機械的です。このことがお分かりですか? そして機械的なので私は言います「機械的に生きることは何とひどいことか、私は逃げ出したい」と。私は何らかの共同体に参加します、私は私が行うことの何にでもなって、私が何かに閃いたときに導き出した結論の結果である生の機械的なプロセスから逃げ出します。お分かりですか? あなたはその結末がお分かりですか? そのように私が結論に基づいて行動するとき、私の行動は、最初私はそれに閃いたかもしれませんが、継続的で機械的であるに違いありません。宜しいですか? ではもし人が全く結論を導き出さなくて閃くだけなら、行動は非機械的です。従ってその行動はいつも創造的であり、いつも新しくて、いつも生き生きとしています。そのように閃いて結論を導き出さないで行動する精神は、継続的な閃きの活動の中に、絶え間ない閃きの活動の中にあります。分かりましたか? このことを理解しましたか? 理解して下さい、断崖絶壁の真理を目の前に見るように、言葉ではなく実際にその真理を見て下さい。
 宜しいですか、何らかの定式とは無縁の、閃きに終止符を打ってしまう結論とは無縁のこの絶え間ない閃きは創造的な行動ですか―お分かりですか? どうかそれを見て下さい、それをあなた自身で検討して下さい。あなたが閃くとき思考である精神が消えてなくなるということは驚くほど美しくて興味深いのです。お分かりですか? 思考は閃くことができません。精神が思考の構造の中で機械的に働いていないときだけあなたは閃きます。違いますか? 閃くと思考はその閃きから結論を導き出します。そして思考は活動し、思考は機械的です。違いますか? おーっ! 我々はお互いに付いてきていますか? そこで私は自分自身が何ものであるのかに閃くかどうかを明らかにしなければなりません、自分自身は世界であり、そして世界は自分であり、そして自分は世界である自分自身に閃いているのかどうか、そしてそれは世界が何であるのかに閃くことを意味します、そしてそこから結論を導き出さないことです、もし私が結論を導き出せば私は何らかの観念に基づいて、何らかのイメージに基づいて、思考的な構造である何らかのシンボルに基づいて行動します、従って私は絶えず自分自身が閃くことを妨げています、物事をある通りに理解することを妨げています。そこで私は何故気づくとき思考が干渉して結論を導き出すのかのこの問題の全てを検討する必要があります。私の質問が分かりましたか?
 私はあることが真実であると気づきます、私は自分自身をコントロールすることは―このことに注意深く耳を傾けて下さい―自分自身をコントロールすることは―このことに注意深く耳を傾けて下さい―自分自身の中に分断を生み出します。宜しいですか? コントロールする者とコントロールされるもの、従って葛藤が起こります。私はそのことに閃きます、それは真理です、しかし私の全思考過程が私はコントロールしなければならないという観念に基づいて条件づけされています、私の受けた教育や私の宗教や私がその中を生きている社会や家族構造やあらゆるものが私に言います「コントロールせよ」と、そしてそれは私に引き継がれてきた結論であり、私が獲得してきた結論です、そして私はその結論から行動します、そしてそれは機械的です。従って私は絶えず葛藤の中を生きています。違いますか? そこで私はコントロールが何であるのかのこの問題の全てに閃きます。そのように私は閃きます、それは精神が条件づけを解かれて自由に観察したときに生まれました、しかし条件づけのこの全構造は依然として残っています。あなたはこれらのことが分かっていますか? そこで今新しい精神が現れて言います「おーっ! 私はこのことが非常にはっきりと分かりました、しかし私はコントロールの習慣に囚われてもいます」と。そこで争いが起こります。お分かりですか? 一方は機械的で他方は非機械的です。宜しいですか? では何故思考はコントロールの全構造にしがみ付くのですか? お分かりですか? 何故なら思考がこのコントロールの考え方を生み出してきたからです。違いますか? お分かりですか? 分かりませんか? 
 コントロールとはどういう意味ですか? はじめにそれは抑圧を意味します。違いますか? 自分自身の中の分断が起こります、私の一部分が言います「私は他の部分をコントロールしなければならない」と。その分断は思考によって作り出されます―違いますか? あなたは明瞭ですか? その分断は思考によって作り出されます。思考が言います「私は自分自身をコントロールしなければならない、何故ならそうしなければ私は環境に、人々が言うことなどに適応しないだろうから、従って私はコントロールしなければならない」と。そのように記憶の反応である思考が―記憶は過去であり、記憶は経験であり知識であり、それらは全て機械的です―際限のない力を持つのです。そのように気づきや閃きと条件づけとの間で絶え間ない争いが起こります。
 では精神は何をしたら良いのでしょうか? お分かりですか? これが我々の問題です。あなたは何か新しいものを見ます、しかし古いものが依然としてそこにあります―古い習慣、古い観念、信念、それら全てが途轍もないものとして待機しています。では精神はどのようにして閃きを結論抜きにいつも維持したら良いのでしょうか? 何故ならもし私が結論を抱くなら、それは機械的です、結論は思考の結果であり、記憶の結果です。違いますか? 記憶に基づいて思考である反射的な反応が起こります。そうするとそれは機械的になります、そうするとそれは古くなります。あなたは私と一緒に試みています、宜しいですね。
 あなたは質問が分かりますか? 閃きます、何か新しいものを見ます、全く新しい、明瞭な、美しい何かを見ます、そしてあらゆる記憶や経験や知識を伴なった過去があり、そしてそれに基づいてどのようにして新しいものを古いものにしようかと思う、用心深くて、見守っていて、恐れている思考があります。ではあなたがこの質問を目にするとき、あなたがこの問題をはっきり見るとき、何が起こりますか? 私の質問が分かりましたか? 我々は過去の産物です、若い世代は過去から抜け出そうとするかもしれませんが、そして彼らは自由に新しい世界を作り出そうと考えるかもしれませんが、彼らは過去から自由ではありません。彼らは過去に反射的に反応しています、従って彼らは過去を継続しています。私はあなたがこのことに付いてきているのかどうか分かりません―宜しいですか? それは過去からの決別ではなくて、それは過去の修正された継続です。私はこのことが分かります、私は思考の行ってきたことが分かります、そして閃きが思考の消滅するときにのみ存在するとはっきり気づくのも私には非常によく分かります。宜しいですか? ではあなたはこの問題をどのように解決しますか? 私はあなたがそれについて考えたことがあるのかどうか知りません、恐らくあなたはそれについて初めて考えています、初めてそれを見ています、あなたはどのようにこれに反応しますか、精神はどのようにこれに反応しますか? 
 質問を違う言い方で言ってみましょう。精神は知識を持たなければなりません、私は私が何処に住んでいるのか知らなければなりません。それはそれが話す言葉を知らなければなりません。それは思考を働かせなければなりません―記憶や経験や知識、過去であるそれらの反応が思考です。それは働かなければなりません、そうでないとあなたと私との間のコミュニケーションが成立しないでしょうし、私は私がどこに住んでいたのか分からないなどその他の全ての馬鹿馬鹿しいことが、もし私が明瞭に思考できなければ始まります。そのように私は機械的な世界で働くためには知識が必要であることが分かります。宜しいですか? ここから私の住んでいる所へ行くことは機械的です、言葉を話すことは機械的です、知識に基づいて行動することは機械的です、あらゆる種類の経験に基づいて行動することは機械的です。そしてその機械的なプロセスはある程度続かなければなりません。私の閃きのように。分かりましたか? そうすると知識と、閃きが起こるときの知識からの自由との間の矛盾がなくなります。私はこのことを明確にしているでしょうか。
 私は今閃いています、知識は必要です、そして思考が消滅しているときにやってくる閃きもあります。そのようにして気づきや閃きはいつも起こります、それは矛盾ではありません。あなたはこのことが分かるでしょうか。
 私が伝えたいと思うことを言葉にすることの難しさを見て下さい。私があなたに伝えたいことは、絶えず結論に基づいて活動している精神が不可避的に機械的になることです、そして機械的なのでそれは何らかの種類の幻想に、何らかの種類の神話に、何らかの種類の宗教的なドタバタ劇に逃げ込むに違いないことです。違いますか? そしてあなたはそのことに閃きます。あなたは言います「おーっ! それは全くその通りだ」と。そこでもしあなたがその閃きから結論を導き出すなら、あなたは異なる地平へ移りました、しかしそれは依然として機械的です。私はあなたがそのことを分かるかどうか知りません。そのようにあなたが結論抜きに絶えず閃いているとき、その精神の状態は創造的です―それは葛藤の中の精神ではありません、葛藤を通じて絵画や本を生み出す精神ではありません、お分かりですか? それは葛藤の中の精神ではありません、葛藤は決して創造的ではありません。ではもしあなたがそれを分かるなら、それが閃きです、違いますか? あなたはそれが分かります、我々はそれを検討します。
 あなたは文学の世界の中で、芸術の世界などの中で、人々が彼は偉大な芸術家である、彼は偉大な創造的な作家であると言うのを知っています。宜しいですか? そこでもしあなたがその文学の、その作家の背後に目をやるなら、あなたは彼が日常的に葛藤しているのが分かるでしょう―彼の妻との間で、彼の家族との間で、社会との間で、彼は野心的であり、彼は貪欲で力や地位や名声を欲しています。そして彼はある種の書く才能を持っています。緊張感や葛藤を通じて彼は非常に良い本を書くかもしれませんが、彼はその言葉の深い意味で創造的ではありません。そして我々は我々の誰もがその言葉の深い意味で創造的でありえるのかどうかを明らかにしようとしています、表現の中ではなく、つまり本や詩を書いたりするそれらの類ではなく、閃くこと、そしてその閃きから結論を導き出さないこと、そうやってあなたが絶えず閃きから閃きへ、行動から行動へと活動していることがありえるのかどうかを。それは内発的な行動です。
 そうするとそのような精神は明らかに独存しているに違いありません―孤立しているのではないという意味の独存です。あなたは孤立していることと独存していることとの違いが分かりますか? 分かりますか? 分かりませんか? おーっ、何と、私は一語一語説明しなければなりませんか? 私は私が私の周りに抵抗の壁を築くとき孤立しています。違いますか? 私は抵抗します。私はどのような批判を浴びても、どのような新しい考え方にも抵抗します、私は恐れます、私は自分自身を守りたいと思います、私は傷つきたくありません。従ってそのことが私の行動の中に孤立的なプロセスである自己中心的な活動を生み出します。宜しいですか? そして殆んどの我々は自分自身を孤立させています。私は傷ついてきました、そして私は傷つきたくありません。その傷の記憶が残っているので私は抵抗します。それとも私はイエスやクリシュナや何やらを信じます、そして私は私の信仰の中に安心を得ているので、どのような疑いの問いかけにも、私の信仰を批判する何ものにも私は抵抗します。違いますか? それは孤立します。そのような孤立は何千という人々、何万という人々のものかもしれませんが、それは依然として孤立です。私が私はカトリック教徒であるというとき、自分自身を孤立させています、或いは共産主義者や何やらと言うとき、私は自分自身を孤立させています。そして独存することはそれとは全く異なります、それは孤立することの対極にあるのではなく―このことに注意深く耳を澄まして下さい―孤立することがどういうことであるのかに閃くこと、その閃きが独存することです―分かりましたか?   そのように、私は精神が死んでやり過ごしている状態のときに精神は完全に独存していると―それを我々は別の機会にもっとずっと深く検討するでしょう―あなたが気づいたかどうか分かりません。あなたは死が完全な孤立の最終的な状態であると知ります。違いますか? あなたはあらゆるものを置き去りにします、あなたの全ての仕事やあなたの考えを置き去りにします、あなたはそのことを恐れて完全に孤立します。違いますか? そしてその孤立は死の全性質を理解することとは全く異なります。もしあなたがそのことに閃くなら、あなたは独存しています。あなたはこのことを理解しているでしょうか? 私はあなたがこのことを理解しているとは思いません。それから差し当たり離れましょう、我々はそこへ戻ってくるでしょう。
 従って、自由な精神は一瞬々々閃いています、自由な精神は結論とは無縁であり、従って非機械的です。そのような精神は行動しています、非機械的に行動しています、何故ならそれは事実を見るからです、あらゆるものに一瞬々々閃くからです。宜しいですね。従ってそれは絶えず活動しています、生き生きとしています、従ってそのような精神はいつも若く、瑞々しく、傷つくことがありません、一方機械的な精神は傷つくことがありえます。
 そのように、思考は、我々の全ての文明がそれに基づいている思考は機械的になります、我々の全ての文明は機械的です。私はあなたがこれらのことに付いてきているのかどうか分かりません。従ってそれらは腐敗します。従ってどのようなものであれ組織に属することは腐敗することです、或いは自分自身を腐敗させることです。違いますか? 宜しいですか、それが閃きです、違いますか? ではあなたはその閃きから別の閃きへと活動し続けることができますか、それは生きていることです、従って関係性が全く異なったものになります。宜しいですか? 我々の関係性は結論に基づいています、違いますか? このことを良く見て下さい、どうかこのことが何なのか閃いて下さい、そうするとあなたはあなたの関係性の中で途轍もない変化が起こるのを見るでしょう―もしあなたが本当にこのことに閃くなら。
 最初に我々の関係性は機械的です、そしてそれは我々の関係性が観念や結論やイメージに基づいていることを意味します―違いますか? 私は私の妻についてのイメージを持っています、或いは彼女は私についてのイメージを持っています―知識や結論や経験という意味のイメージです―そしてその結論や知識やイメージから彼女は行動します、そして彼女は、他の人が行うように、或いは男が行うように、そのイメージや結論を行動を通じて増やします。従ってその関係性は二つの結論の間の関係性です。私はあなたが分かるかどうか知りません。従ってそれは機械的です。あなたはそれを愛と呼ぶかもしれないし、あなたは一緒に寝るかもしれませんが、それは機械的です。それが機械的なので、あなたはわくわくさせるものを欲しがるのです―宗教的な興奮や心理的な興奮、あらゆる形の娯楽です―違いますか―その機械的な関係性からの逃亡です。あなたは離婚して何か新しいものを持っている他の女や男を見つけようとしますが、それは直ぐに機械的になります。違いますか? そのように我々の関係性はこの機械的なプロセスに基づいています。そこでもしあなたがこのことに閃くなら、それを実際にその通りに見るなら―その快楽やいわゆる愛やいわゆる敵愾心や欲求不満―あなたはあなたが彼女やあなた自身について築いたイメージや結論を知ります。宜しいですか、もしあなたがそのことに閃くなら、それら全てが消滅します、違いますか? あなたはもはや結論であるイメージを持っていません。あなたはこれらのことに付いてきているのでしょうか。従ってあなたの関係性は直接的でイメージを通してのものではありません。そして我々の関係性は思考に基づいています、知力に基づいています。違いますか? それは機械的です、そしてそれは愛とは何の関係もありません、それは明らかです。私は言うかもしれません、私は私の妻を愛していますと、しかしそれは実際の事実ではありません。私は彼女が私を攻撃していないときの彼女について私が持っているイメージを愛しています、あなたはその他の全てのことを知っています。そのように私は関係性がイメージや結論からの自由を意味することを、従って関係性が責任と愛を意味することを発見します。あなたはこれらのことに付いてきていますか? それは結論ではありません、お分かりですね?
 そのように私の頭脳は様々な知識や経験、記憶、傷、イメージの貯蔵庫であり、それは思考です。違いますか? このことを良く見て下さい。そして私の頭脳は、それは私の頭脳であると同様にあなたの頭脳でもありますが、その頭脳は時間を通じて、進化を通じて、成長を通じて条件づけられています。そしてその機能は完全な安全性の中で働くことであり、それは自然なことです、そうでなければそれは機能できません、従ってそれはそれ自身の周りに信仰や教条、名声、力、地位などとしての壁を築きます、それはそれ自身の周りに完全に安全であるための手段としての壁を築きます。私はあなたがこれらのことに付いてきているのかどうか知りません。あなたは自分自身の頭脳が働いているのを見守ったことがありますか? そうするとあなたはそれが怯えていないとき、それが驚くほど上手く、論理的に、健全に働くことのできるのが分かるでしょう。それはそれが完全な安全性を手にしているときを意味します。違いますか? では完全な安全性がありますか? そこで完全に安全であることが不確かなので、それが安全性はあると進んで結論づけます。それは結論を下します。あなたはこのことに付いてきていますか? 従って結論がその安全性になります。宜しいですか? これはあなたにとって手に余ることですか? あなたはこれらに付いてきていますか? 宜しいですか、私は怯えています、私は本当に幸せな楽しめる安全性があるときに私は機能できるだけであると、頭脳は機能できるだけであると分かります。しかし私は私が怯えているので、私は職を妻を失うかもしれないので、それを楽しめません。お分かりですか? 私は怯えています。従って恐れから私は私のエネルギーを信念や結論に注ぎ込み、それが私の安全性になります。従ってその信念や結論は幻想や神話やナンセンスなものかもしれませんが、それが私の安全性です。教会のこと全てやそれらの類を信じている人達にとっては、それは完全な神話ですが、彼らにとっては、それが私の安全性です、となります。違いますか? そのように私は安全性を信念や神経症的な振る舞いの中に見つけます―違いますか―何故なら神経症的に振舞うことも安全性の一つの形だからです。
 そのように頭脳は完全な安全性の中で自由に十分に機能できるだけです。違いますか? そのように、それには、それが真実であろうと虚偽であろうと、幻想であろうと非実在であろうと、安全性がなければならず、それは安全性を発明するでしょう。違いますか? そこで私は信念の中にも、結論の中にも、どのような人物の中にも、どのような社会的な構造の中にも、どのようなリーダーの中にも、誰かに従うことの中にも、安全性はないと分かります。私はそのことの中に安全性はないと分かります。宜しいですか? 従って私は見ることの中に、閃くことの中に安全性を手にします。あなたはそのことが分かるでしょうか? 閃きの中に安全性があるのであり結論の中ではありません。私は降参します! あなたは分かりましたか? 私からではなく、自分自身でそれを把握しましたか、それはあなたにとって現実ですか?
 そうすると我々にはこの問題があります、完全な秩序の中で、完全な安全性の中で、完全な確かさの中で機能しえるだけの、そうでなければそれは常軌を逸して神経症的になる精神の、頭脳のこの問題があります。宜しいですか? 従って私は、何らかの組織に属して、組織に信を置く人、リーダー―私を含めて―を信頼する人は、いかなる人もその行動は神経症的であると分かります。違いますか? 精神は、それがこれら全てを投げ捨てたとき、どのような安全性を手にするのですか? お分かりですか? その安全性は叡智をもたらす閃きの中にあります。違いますか? 分かりましたか? 安全性とは叡智です―違いますか? 知識の中ではなく、経験の中ではなく、知識の価値がどういうことであるであるのかに閃く中にあります、従ってその閃きは維持された叡智の能力であり、その中に安全性があります。従ってその叡智、その閃きは決して怯えません。私はあなたがこれらのことを理解するのかどうか分かりません。分かりますでしょうか?
 私は今が恐れや快楽や楽しみや喜びと称されるものを検討する機会かどうか、恐らく次に我々が会うときがその機会なのかどうか、分かりません。
 しかしもし我々が、我々が皆一緒に、この一つのことを理解するなら、それは途轍もないことだと思われます、つまり、気づきの性質、知覚の性質、閃きの性質です。お分かりですか? 何故ならそうすると精神は自由に生きることになるからです。お分かりですか? 生きることです、葛藤や争い、疑い、恐れ、傷を抱えた中などその他のあらゆること―悲惨―の中を生きるのではなく、生きることです。
 では皆さん、何か尋ねたいことがありますか?

質問者(Q) 今日我々は新しいイエスの波が世界中で起こっているのを聞きます、例えばアメリカの若い人達の間で。イエスの精神的な力が地球上で現在起こっていますか?
クリシュナムルティ(K) 宜しいですか、もし私がインドの村に、遠く離れたインドの村に住んでいるなら、私は決してイエスのことを聞いていないでしょう、違いますか? 私はイエスのことについて何も知らないでしょう、しかし私は私の特別なイエス或いはクリシュナについて知っているでしょう。違いますか? 或いは私がその中で育てられてきた何か他の神について。お分かりですか? そのように二千年間イエスの神話の中に条件づけられてきた人達がそれから抜け出して、そしてそこへ戻ってきます。分かりましたか? 分かりませんか? あなたは一年間或いは数年間イエスを捨てます、そしてそれを又拾い上げます。あなたは共産主義者或いは社会主義者になり、それを止めて教会へ戻ります。或いは新しいカルトに参加します。ですからあなたはそのことを注意深く見て、このことが何なのかに閃いて下さい。
 全西洋世界が観念や思考や聖者或いはそれらの類の個人崇拝に基づいた宗教的な概念の上に条件づけられています。インドやアジアの人達も同じように一連の異なったイメージや観念や結論によって条件づけられています。違いますか? 恐らく彼らはイエスのことを全く聞いたことがありません。仏教世界では彼らはイエスのことを考えさえもしません。これらのことが分かりますか? そのように異なった宗教的な概念に条件づけられた異なった地域が世界中にあります。宜しいですか? そして質問者は問います、新しい精神的な目覚めが起こっていますかと。違いますか? 新しい精神的な波が起こっていますか? 明らかにインドの宗教的な概念の波は、宜しいですか―或いはキリスト教的な概念のイエスは―新しい波では全くありません。違いますか? それは異なって表現されていても古い条件づけの反応の継続です、それは依然として条件づけられた反応です。違いますか? 違う言い方をさせて下さい。
 話し手がインドへ行くと、際限のない追随者が現れる様々なグルがいて、追随者たちが言います「これは新しい波であり、新しい精神的な目覚めである」と。そして彼らは彼らの古いグルに従っているので、それは新しくありません、それは異なった形をした古いものの繰り返しにしか過ぎません。違いますか? そのようにこのことは世界中で起こっています―異なったやり方での或いはそうではなくても、条件づけられた精神の宗教的な繰り返しです。私には、個人的には、それは精神的な目覚めでは全くありません。あなたはこれらのことに付いてきていますか? 明らかにそれはありえません。もし私がヒンズー教徒になるなら、或いはヒンズー教徒なら、私はヒンズー教の中に含まれたあらゆるドタバタ劇を演じます、その中に新しいものは何もなく私は戻って行って古いものを繰り返します。新しさは自由の中にあります、お分かりですか? 条件づけからの自由の中です、その結果私はキリスト教徒でも仏教徒でもヒンズー教徒でもイスラム教徒でもありません。
 何故なら真理が何であるのかを見出すためには精神が自由でなければならないからです。違いますか? もしそれが教会や聖者や書物の権威を受け入れるなら、それは自由ではありえません。新しい精神的な目覚めが唯一可能なのは、世界に何人かが、少数でも多数でも、この問題の全てを深く本当に検討して、彼ら自身を完全に自由にして完全に独存するときです、何故なら人々が独存しているときのみ、人間の精神が独存しているときのみ、他の人達と本当の関係が持てるからです。そしてそのような精神のみが時間を超えた、“はかること”を超えたそのことを見出すことが、そのことに出会うことができるのです。違いますか? それが本当の目覚めであり、全く新しい何かが起こることです。そしてそれはあなたの責任です。宜しいですか? ただここに座って、話し手に耳を傾け、同意したり同意しなかったりして、いくつかの考え方を受け入れることではないのです。あなたが人間としてあなたの条件づけから自由になって、独存して、従って誠実な生を、正直な生を、徳行の生を生きて見るのは―それが新しさです―あなたの責任です。違いますか?
 (聞き取れず)
 我々の精神はオートマチックで、制限されていて、小さくて、機械的です、どのようにして私は、質問者が言います、それから自由になるのでしょうか。私はそれを正に説明しました。分かりました、それを検討しましょう。
 私の精神は取るに足らなくて、機械的で、小さい、私はそれをどのように扱ったらよいのでしょうか? 宜しいですか? あなたはあなたの精神が小さくて、取るに足らなくて、不安で、嫉妬深くて、うらやましげで、競争的で、常に比較していることを知っていますか? あなたはそのことを知っていますか? あなたはあなたの精神がそのようであることに気づきますか? 気づきます? おーっ、後生ですから暫くは正直になりましょう。宜しいですね。私はそれに気づきます。私は何をしましょうか?
 そうすると、あなたが私はそれに気づくと言うとき―その“気づく”という言葉は何を意味しますか? あなたが「私は私の精神が取るに足らないのを知っています」と言うとき―その“知る”という言葉はどういう意味ですか? どうか、これは重要なことです。あなたはあなたがあなたの精神を取るに足らなくない他の精神と比較したからそれが分かるのですか? 私の質問が分かりましたか? 私は私の精神は取るに足らなくて、狭くて、愚かで、鈍くて、大馬鹿で、神経症であると言います。どのようにして私はそれを知るのですか? 誰かが私に言ったからですか? 何故なら私が神経症ではないと私が考える、自由であると私が考える他の精神とそれを比較したからです。違いますか? そのように私は私の取るに足りなさを比較することやはかることによって発見するのですか? 違いますか? 宜しいですか、はかることや比較することが精神を取るに足らなくさせる要因です。私はあなたがこのことを分かるかどうか知りません。宜しいですか、これが閃きです。お分かりですか? 私は自分自身を非常に賢い、明晰な、澄んだ目をした容姿の良いあなたと比較します、お分かりですか、自分自身をあなたと較べます、はかります。そして私は言います「おーっ! 何でことだ、私は何て鈍いのか」と。それはどういう意味ですか? 比較をして私は私が鈍いと分かりました、それが私の受けた教育です。お分かりですか? 私は自分自身をいつも比較するように教育されてきました―学校で、大学で、私は成長しながら、自分自身を他の人と較べたり、はかったりしてきました。従って私は自分に問います、一体何故私ははかるのかと。あなたはこれらのことに付いてきていますか? 何故私ははかるのですか? もし私がはからなければ、私は鈍いのですか? 私は知りません。私は比較を通じて私は鈍いと決め込みました。どうかこのことに付いてきて下さい。これが閃きです。そして何世紀もの教育を通じて比較するように条件づけられている精神は―お分かりですか―宗教的にも経済的にも社会的にもあらゆる方法で比較するようにはかるように条件づけられている精神ははかることに終止符を打つことができますか? それが私の最初の質問です。もし私がはかることの愚かさに閃くならそれは止むだけです。何故私は自分自身をあなたと比較するのですか? あなたは地球上の最も驚くべき人間、最も偉大な聖者、或いは救済者かもしれません、何故私は自分自身をあなたと比較するのですか? 私は比較するように教育されてきたので―私の兄或いは弟は私より優れている、私の叔父は私よりずっと聡明である―私は自分自身をあなたと比較します。お分かりですか? そこで私は閃いて言います、比較するな、それは何て愚かなことだと。そのことに閃いて私は比較するのを止めます、そうすると私は何者ですか? お分かりですか? 私は何者ですか? 私は知りません。宜しいですか? 私は本当に知りません。あなたはこのことに付いてきてますか? あなたが自分自身を誰かと比較しないとき、あなたは何者ですか? あなたは明らかにしようとしますね? 違いますか? あなたは言いません「私は取るに足らない、小さい、ブルジョアである、限界がある、何と醜い」などのあれやこれやを。私は知りません。そこで私は明らかにしようとします。違いますか? 私が私は愚かである、鈍い、狭いと言うとき、私は比較することによって結論を導き出しました。結論は閃きを終わらせます。そこで閃きは比較することの不毛さを私に示します。私は比較しようとは思いません。それで終わりです、永久に。お分かりですか? 従って私は私が何者であるのか見ようとします。私が比較するのを拒絶するや否や、私はもはや愚かではありません、何故なら私は比較の全構造が何であるのかに閃いているからです。分かりましたか? それが叡智です、そしてそれは取るに足りなさと偉大さの比較的な価値よりも偉大なのです。分かりましたか? 宜しいです。
                    1972年 7月18日 ザーネン トーク 2
                                   中野 多一郎 訳