クリシュナムルティをめぐりて

瞑想 1

クリシュナムルティ(K) 私は忘れました。(笑)
 私は、もし宜しければ、今晩は沢山のことを話したいと思います、そしてもし我々が一緒にできるなら、私は非常に単純で、しかし非常に非常に複雑なことを検討したいと思います。はじめに我々は一緒に―どうかいつも一緒にということを心に留めていて下さい、私はただ一人で歩いているのではありません、駆け出しているのではありません―我々は頭脳を非常に若くしておくことができるのかどうかという問題を、恐らく科学者やグルや宗教的な人達によって決して取り組まれてこなかったこの問題を検討しようとしています。私は知りません、彼らはそのような頭脳を持っているのかも知れません、私は知りません。私は継続と発達と死の問題も検討したいと思います、そして我々の日常生活の中で人間は全き心を持つことができるのかどうかを、彼らの意識の中で愛の質を知ることができるのかどうかを、愛の質に気づくことができるのかどうかを、愛の質を持つことができるのかどうかを検討したいと思います。そしてもし我々に時間があれば、もしあなたが一緒に向き合うなら、私は瞑想の問題を―瞑想の中にある精神を、瞑想とは何かではなく、或いは瞑想の仕方ではなく、瞑想に全体的に関わっている精神の性質を検討したいと思います。瞑想はそれが意識的に、意図的に行われるとき、それは瞑想では全くありません。我々はそれら全てのことを、もし我々にできるなら、今晩検討します。
 そこで最初に、我々は一緒に、頭脳が、全精神の一部である頭脳が、その考える能力や世代を超えた何千年もの沢山の情報や知識や経験を蓄える能力と共に、その頭脳が、非常に深く条件づけられていて絶えずそれ自身を疲弊させている頭脳が、それ自身を若返らせることができるのかどうかを話し合おうとしています。それは非常に複雑な問題です、最初にその問題を理解して下さい、何故なら私は確かなのです、人は確かなのです、この問題が恐らく様々な方法で問われてきたこと、しかし人はそれを決して深く検討してこなかったことは確かなのです。そしてもし我々にできるなら、少なくとも十分間は真剣に深く気をつけていて、私の話していることにではなく、話し手の描写していること或いは検討していることにではなく、一緒に、この頭脳のあらゆる世界へ旅立って行って、非常に古い、途方もなく有能な、無限の能力を持った、時間の中で発展してきて多くの経験や知識を獲得しているその頭脳の中へ旅立って行って、そのような頭脳が―あなたの頭脳が、私の頭脳ではなく、あなたの頭脳が―継続性の荷を降ろして、全く新しく始めるために、継続性を終わらせることができるのかどうかを我々は話し合おうとしています。私はあなたがこれらに付いてきているのかどうか分かりません。
 話し手は科学者たちと沢山のことを話してきました、彼らは頭脳に二つの部分があると主張します―左脳と右脳です。左脳は全ての情報や知識や科学技術的な全ての知識や活動的なプロセスを保持します、そしてもう一方の右脳は新しくてあまり条件づけされていません、そしてそのあまり条件づけされていない頭脳が前面に出て左脳を形作ったり、コントロールしたり、促したりしています。これらのことが分かりますか? 私は頭脳の専門家ではありませんし、それらの全ての本を読んでもいません、しかし私は何か全く異なることを観察できます、それは頭脳の全体性であり、左脳でも右脳でもなく、様々な経験や様々な文化や様々な人種的限界や様々な社会的経済的圧力を通じて発展させられてきた頭脳の質です。この頭脳は途方もない装置です。そして我々の全ての考え方や我々の全ての活動や我々の全ての感覚的な働きなどをコントロールするその頭脳が、その頭脳が余すことなく無垢になることは可能かということです。私は“無垢”という言葉を使っています、どうか注意して下さい、それはキリスト教の無垢という観念、神の子羊などそれらの類の観念ではなく、我々はその“無垢”という言葉を、それはラテン語などに由来しますが、“傷つかない”という意味で使っています。傷つけないこと、つまり、他の人を傷つけないだけではなく傷つかないでもいられる頭脳のことです。お分かりですか?
 どうか単に言葉に同意しないで下さい。それを検討して下さい。あなた自身の精神を、あなた自身の頭脳を観察して下さい、何故なら我々は非常に非常に微妙で非常に難しいことを検討しています、もしあなたがそれを自分自身で観察していないのなら、あなたは全てを見失います。あなたはそのようにしなければなりません、あなたは話し手と共に試みなければなりません、ただ聞いてやり過ごすのではありません。我々は非常に非常に真剣な問題を問うています。我々は頭脳自身に挑戦して、それがその全ての収集蓄積された経験と共にその過去の継続性を打ち破るための能力、エネルギー、衝動、強烈さを持っているのかどうかを、そしてその正にそれが消滅する中で正に脳細胞それ自身が変質を遂げるのかどうかを明らかにしようとしているのです。私の質問がお分かりですか? どうかあなたが同意する或いは同意しない前に、最初にその質問を理解して下さい。私は私と議論できるほんの少数の人達だけでもいて欲しいと思います。
 思考は物質的なプロセスです、何故なら思考は頭脳の中に、脳細胞自身の中に―頭脳から離れないようにします、脳細胞ではなく―頭脳の中に蓄えられた記憶や経験や知識の結果だからです。この言い方で十分だと思います。そしてそれはある特別な方向へ継続的に機能してきて発展し続けています、そして思考は物質的なプロセスです。それには何の疑いもありません、何故なら記憶は頭脳の一部だからです、頭脳は物質的です。そしてこの頭脳は記憶や経験や知識を含みます、そしてそれから思考が生じます。そのように思考は物質的なプロセスです、そして思考は知識に基づいているので、そして知識は過去なので思考には継続性があります。過去はいつも働いていて、それ自身を現在の中で修正し継続しています、そのように頭脳の働きである継続的な活動があります。これらのことがお分かりですか? 私は続けます。そしてその継続性の中に頭脳は安全性を見つけてきました。それを自分自身で見守って下さい。継続的な伝統―価値や意見、判断、価値評価、結論など―頭脳を条件づける継続的な伝統です、そしてその継続性は時間の中です、持続性の中です、そうしてその持続性の中に、その継続性の中に頭脳は安全性を見つけてきました。このことがお分かりですか? それを自分自身で見守って下さい、宜しいでしょうか、何故ならこれはあなたの生だからです、後生だから、私の生ではないからです。それを自分自身で見守って下さい。そのようにこの継続性の中にそれは安全である計り知れない感じを見つけてきました、何故なら頭脳はそれが完全に安全であるときにだけ機能するからです、それが信仰の中の安全であろうと、幻想の中の安全であろうと、ある種の知識の中の安全であろうと。これが我々に起こっていることです。そのように頭脳には安全性が必要です。それは明らかです。あなたはそれを、自分自身の思考の働きを、思考の活動を自分自身で見守ることができます。その継続性の中のどのような混乱によっても頭脳は神経症になります、そのときそれは深く揺さぶられます―トラウマになると言われます、或いは重大な挑戦に会ってそれが正しく反応できないとき、それが正しく反応できないので、それはその中に安全性を探してきた継続性が動揺させられていると分かります。これらのことがお分かりですか? それを見守って下さい。これはとても明瞭です。あなたがそのことを非常に注意深く検討すると、これは非常に単純なことです。
 そこで我々は問うています、頭脳が、それはあなたの頭脳です、それは遠い昔から発展してきた全人類の頭脳です、文化や宗教によって、経済的社会的圧力によって条件づけられてきた全人類の頭脳です、その頭脳は今日まで時間を越えた継続性を手にしてきました、そしてその持続の中でそれは安全であるという感じを見つけてきました。それがあなたの伝統を受け入れる理由です。何故なら伝統の中に安全性があるからです、模倣することの中に安全性があるからです、順応することの中に安全性があるからです、そして幻想の中にも安全性があるからです。それは明らかです。あなたの神は明らかに全て幻想です、それらは思考によって作り上げられています。そのように頭脳がその中に安全性を追い求める明らかな継続性があるだけではなく、頭脳は安全性を我々の日常生活の中のあらゆる種類の幻想的な活動の中にも見つけます。つまり信念や信仰は幻想です。信念や信仰の必要はありません、しかし神やイエスやクリシュナ或いはあなたはそれを好きなように呼んでよいのですが、それを信じること、そしてその信仰の中に、その信念の中に、その献身の中に、守られているという感じが、神の胎内にいるという感じが生まれます、(笑) それは幻想です。そこで我々は今問うています、頭脳はこの時間的な継続性の消滅を発見できるのかどうかを、何故なら時間的な継続性が進歩や発達、発展、知識などの継続に基づいた発展と考えられているからです。そして我々はそれに挑戦しています。
 そうすると我々は死がどういうものであるのかを考察しなければなりません。お分かりですか? どうか話し手に刺激されないで下さい、何故ならもしあなたが話し手に刺激されると、あなたがこの場所を離れると、あなたを刺激するものは消えてしまうからです。しかしもしあなたが実際にこの挑戦に、この活動に関わっているなら、それはあなたのものであり、それは永続的で、それは消え去らないでしょう。しかしもしあなたが刺激されているなら、それは薬やウィスキーや何やらを飲んでいるようなもので、それは暫くの間は刺激するでしょうが、それは消え去ります。ですからどうか話し手に刺激されないで下さい。もしあなたが話し手に刺激されるなら、あなたは彼に依存するでしょう、そうすると彼は権威になります、あなたの野蛮な卑劣なグルになります、そして私はあなたのグルではありません、何故ならこのことはあなたがあなた自身の光になることを要求するからです、他の人の光ではありません。
 そこで我々はこの問題を検討する必要があります、何故ならそれは頭脳の一部だからです―お分かりですか―死です。死は余すことのない消滅を意味します、そして頭脳の破壊です。違いますか? 何故ならそこでは酸素が頭脳の中に供給されないなどのそれらのことが起こるからです。死は消滅を意味します、生の継続するものの消滅です、あなたが今送っている生です―あなたはこれらのことに付いてきていますか―あなたの生であり、生きることの対極である消滅です。宜しいですか?
 そこではじめに人は我々が生と呼ぶものの継続性と、我々が死と呼ぶその消滅を検討する必要があります。そしてこれを検討するためには、どのような形の恐れも、どのような形の意見も判断も価値評価も全く価値がありません。我々は“現実”を、あなたの生の現実≠、あなたの日常生活を検討する必要があります。それは事実です。そして人は昔からずっとこの継続性にしがみ付いてきました―生の継続性です、彼が送っている生です、彼が来世は良い環境であると期待する、宮殿の中に生まれると期待する、或いはもっとお金を手にすると期待する、もっと美しくなると期待する、もっと機会に恵まれるなどと期待する生です。そこで我々は非常に明確なことを問うています、それは観察するだけではなく、我々が生と呼ぶものを、我々の関係性、我々の野望、我々の貪欲さ、我々の力や地位を欲しがる欲望、不安、恐れ、快楽、悲しみ、執着、無関心、対極間の争い、矛盾などを検討することです。それは我々の生であり全ての神々や迷信を伴ないます、それら全て―理想や、いつか我々が皆兄弟になるという願い―それら全てを伴ないます。それは我々の日常生活です。そしてそれは幾世代にも亘って継続してきました。どうかそのことを見守って下さい、これは、我々が行っていることは途方もないことです。
 そして我々は死の意味がどういうことであるのかを、そして生きることの意味がどういうことであるのかを問うています。我々は死を生の対極に、生きることの対極に置いてきました。そのように我々が生きることと呼ぶものを我々は恐れ、我々が死と呼ぶものを我々はできるだけ遠ざけます、或いは避けます。そのように時間の中の継続が起こります、我々の悲しみの中の継続が起こります、我々の恐れの中の継続が起こります、我々の執着の中の継続が起こります―どうかこれらのことに注意深く付いてきて下さい―そしてその執着が妨害されると、打ち破られると、再び別の継続性が、別の執着が起こります。継続性は時間を意味します。違いますか? 時間は思考的な活動です。時間は活動を意味します。ここからあそこへは時間を要します、或いは心理的に美しくないものから美しいものへ至るためには時間を要します。そのように継続的な活動は時間です、そしてこの活動は思考です。違いますか? そしてそれが我々の生です。あなたの生であり、理想的な生でも、天国の生でもなく、或いは解脱の生や解放の生、非暴力的生活の理想の生でもなく、現実から、実際の日常生活から逃げるために思考が作り上げてきた全ての発明品でもありません。
 そこで我々は問うています、そのような生が、その全ての混乱と共に、それら全てと共に、死がどういうものであるのかを明らかにするために止むことがありえるのかどうかを。分かりましたか? 宜しいでしょうか? 私はそれをあなたに示します。ゆっくり生きましょう。ゆっくり生きましょう。
 我々は家や人物、信念、結論、概念、理想などに執着しています。我々は執着しています。分析すれば、内面的にあなたがどうしようもなく孤独であるのであなたは執着します、そして孤独であるのであなたはこの全く孤立している感じから逃げ出すために何かを欲しがります。それが孤独と呼ばれます。あなたはそれを経験したはずです、あなたはそれを知っているはずです、もしあなたが少しでも観察したなら。従ってあなたは何かに執着します、一般的に人物や理想に、或いはあなたが経験済みの経験に執着します。宜しいですか、執着は継続を意味します、違いますか? その言葉は正に持続を意味します。あなたが“関係”という言葉を使うとき、私の妻と関係することは―私の妻ではありません―妻と或いは夫と関係することは、その正に依存は、執着は時間を、持続を意味します。あなたはこれらのことに付いてきていますか? これは少し難しいですか? 何てことでしょう。待って下さい、言葉の上であなたは付いてきているかもしれません、しかし言葉はその当のものではありません。表現は表現されているその当のものではありません。どうかそのことをいつも心に留めていて下さい、言葉はそれが言い表そうとするその当のものではありません、そしてもしあなたが言葉に囚われるなら、あなたは真実を見失うでしょう。それが我々の行ってきたことです。知力の一部が言葉の刺激を受けてその刺激にしがみ付くのです、そしてその知的な働きによってあなたは世界中の大混乱を作り出してきたのです。何故なら知力は部分にすぎなくて全体ではないからです。部分が優勢になると分断が起こるに違いありません、残酷なことが起こるに違いありません、暴力が生まれるに違いありません、そしてそれが知力の世界中で行ってきたことです。知力はヒンズー教、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ世界、アラブ世界などを発明してきました、そしてそれらは激しく相争っています。そして我々が知力にそのような重要性を与えてきたので、それが世界中の大変な悲惨を生み出してきました。それは我々皆が鈍感でいなければならないことを意味しません。反対に、我々は知力が、部分に過ぎない知力が、その知力が優勢になると、劣化が、衰退が起こるに違いないと指摘しているのです、そしてそれが世界中で起こっていることです。
 宜しいですか、我々は執着が、正にその言葉が永遠的な感じを、継続的な感じを、持続的な質を意味すると言っています、そしてその時間の中に、その持続性の中に、我々は安定した交わりを、完全に、安全性を手にしたいと願います。違いますか? 死はあなたに言います「それを消滅させなさい」と。それが死の意味することです―あなたの執着を完全に消滅させることです、何故ならあなたが息をしなくなると、それが起こることだからです。あなたはあらゆるものを置き去りにします。金持ちが言ったように「少なくとも私は最後の瞬間までそれを持っていられる」と。違いますか? ですから、どうかそれを見守って下さい。
 あなたは執着の意味することとその成り行きを知ることができますか―家や財産、あなたの妻、信念、概念、結論、意見、神などへの執着です。あなたはその意味することが恐れや嫉妬、不安、あなたが迷うことなどであることが分かりますか? あなたは、どうか耳を傾けて下さい、あなたの執着を完全に止めることができますか? 宜しいですか、あなたは首を縦に振りません。これはテストです、あなたはそれを進んでテストしようとは思いません。
 そこで、我々は言います、頭脳は、それに継続性があるとき、それは機械的になると。そして全ての思考はそうすると機械的です。新しい思考というものはありません、何故なら全ての思考が知識などの反応である記憶に基づいているからです。従って新しい思考はありません。
 そのように死は執着の消滅を意味します。消滅する中にのみ始まりがあります。お分かりですか? これは真剣なことです、言葉と戯れないで下さい。何故なら消滅するや否や、新しい何かが起こるからです。しかしもし継続性があるなら、何もありません、新しいものが日の目を見ません。そしてそれは、この消滅は非常に重要です、何故ならそのときにのみ頭脳はそれ自身で余すことなく…な活動の質を、過去の中にはない活動の質を発見できるからです。私はこれら全てを説明しているでしょうか? 宜しいですか? あなたは付いてきているでしょうか? 我々は少しはお互いに通じ合っていますか?
 そのように死は消滅を意味します、身体組織だけではなく人が収集蓄積してきたあらゆるものの消滅です。もしそれが消滅しなければ、この大いなる問いが起こります、精神に何が起こるのか、意識の全活動に何が起こるのか、あなたの意識でもなければ私の意識でもありません、人の意識です、それに何が起こるのか? あなたは私の質問が分かりますか? あなたは分かりません。宜しいですか、人はあらゆる細かなことを説明しなければなりません、あなたはそれを直ぐに把握しません。宜しいでしょうか、我々の日常生活は壮大な河のようです―それを見守って下さい―壮大な河のようです、そして全ての人間の生がその河のようであり、その中にあらゆるそれらの複雑さ、問題、苦痛、悲しみ、不安などがあります―あらゆるものがその河であり、我々はその一部です。その一部が死に、河は流れ続けます。河はあなたの名やあなたの質などと共にあなたとして現れます、しかしあなたは依然として河の一部です。あなたは分かって…付いてきていますか? その河の一部です。そして我々はその河の消滅のことを言っています―お分かりですか―その河から余すことなく抜け出すことを、その河に決して属さないことを言っています、何故ならその河は葛藤であり、混乱であり、苦痛であり、執着であり、無関心であり、或いは何が正しくて、何が…なこと、お分かりですか―人の中で続くこの争いです。そこで我々は言います、あなたが生きていて、意識があり、生き生きとしていて、悪戯をしたり活動したりするなど意気盛んなとき―何かを自発的に消滅させること、動機を持たずに、自発的に執着を消滅させることが全く新しい何かの始まりであることを見て下さいと。分かりましたか? 何故なら“私”や“自分”は一つの継続性であるからです。“私”は遺伝子的に何千年と引き継がれてきただけではなく、幾世代にも亘って…それは一つの継続性です、そして継続的なものは機械的です、その中に新しいものは何もありません。違いますか? 私はあなたが…かどうか知りません―もしあなたがそれを検討するなら、それは驚くべきことです。
 宜しいですか、別の要点が、別のことがあります。頭脳が―どうか静かに耳を傾けて下さい、同意しないで、ただ耳を傾けて下さい―頭脳が記録している限り、継続性が生じます。違いますか? あなたはこのことに付いてきていますか? 私が傷を、痛みを記憶に留めている限り―頭脳はこれら全てを記憶に留めています、そしてそれはそれに継続性を与えます。それは“私が継続している”という観念を与えます、そしてその継続性が発展的な縮小と考えられます、次第に“私”を消滅させると考えられます。お分かりですか? そのように、頭脳がコンピューターのように記録している限り、それは機械的です。あなたが侮辱されたり、或いは誉められたりすると、それは記憶に留めています。そしてそれは何千年にも亘って記憶に留めてきました。お分かりですか? それが我々の条件づけです、それが我々の発展的な活動の全体です。そこで我々は問うています―どうかこの質問に最初耳を傾けて下さい―記憶に留めないことは可能かと。妥当なものを除いて、その他の全てを。あなたはこのことが分かりますか? 分かりませんか、これはかなり難しいことです。何故人はあなたが傷ついていると記憶に留めるのですか? 何故あなたは誰かからの侮辱やへつらいを記憶に留めるのですか? 宜しいですか? 私はあなたに尋ねています、何故ですか? そしてあなたが記憶に留めるとき、頭脳が記憶に留めるとき、その記憶に留めることが侮辱したその人を観察するのを妨げます。つまり、あなたは記憶に留めておいた精神或いは頭脳であなたを侮辱した或いは賞賛した人物を観察します、従ってあなたは彼を実際には決して見ません。お分かりですか? あなたは私の話していることが分かっていますか? 宜しいでしょうか。あなたの頭脳は記憶に留めます。この記憶に留めることは一つの継続性です、そしてその継続性の中に安心があります。私は私が嘗て傷ついたと言います、従って私はそれを記憶に留めます、それを保持します、従って傷つくことを避けます、身体的にも心理的にも。宜しいですか? 身体的にそれは妥当です、しかし心理的にそれは妥当ですか? あなたは私の質問が分かりますか?
 人は傷つきました。人が傷つくのは、その傷が自分自身についてあなたが持っているイメージを構築する時間的な活動だからであり、そのイメージが汚されるとあなたは傷つくからです。そしてあなたがそのイメージを持っている限り、あなたはいつも傷つきます。そこでイメージを持たないことが、従って記憶に留めないことができますか? あなたはこれら全てが分かっていますか?
 何故なら我々は―どうか注意深く耳を傾けて下さい―我々は瞑想とは何かを発見するための基礎を敷いているからです。何故ならもしあなたが恐れを抱いているなら、あなたが何をしようと、瞑想はありえないからです。もしあなたが国家主義的なら、もしあなたに野望があるなら、もしあなたが貪欲なら、もしあなたがこれやあれなら、あなたはあなたの残りの人生をつま先立ちして送ることはできても、あなたは瞑想とは何かを決して知りえないでしょう。それが、これらのトークの正に最初から、我々が自分自身を理解することが瞑想の一部であると非常に注意深く言っていた理由です、悲しみや痛み、恐れ、不安の理解です、その結果精神が、その全ての内容と共にあなたの意識が洗い流されるのです。そこで、我々は問うています、心理的に記憶に留めないことができるかと、必要なことだけではなく妥当なことも記憶しておくのだけれども、心理的に記憶に留めないことができるかと。何故ならあなたが確立すると―あなたの生の中に秩序が生まれると、それを我々は先日検討しましたが、秩序が生まれると自由が生じるからです。秩序の乱れた精神だけが自由を追い求めるのです。余すことのない秩序が生まれるとき、その正に秩序が自由です。そして我々は言っています、機能するための知識だけを記憶に留めるというのは可能かと。どうかこのことに耳を傾けて下さい。私と一緒に試みて下さい。通常の意味で秩序正しい生活を送るために必要で妥当な知識を記憶に留めます―オフィスへ行くこと、車を運転すること、あなたの妻や夫を認識すること、あなたの名前を認識することなど―妥当な知識、必要な知識です。そこで我々は言っています、心理的に、内面的に、記憶に留められるべき必要性或いは妥当性はないと。それは可能ですか? お分かりでしょうか? 知的に、論理的に、あなたはこのことが分かります、或いは言葉の上であなたはこのことが分かります、しかしこのことをもたらすこと、このことに出会うこと―お分かりですか―このことが生の中で起こるのを見ること、それは全く異なることです。ではもし宜しければ、私はそれを検討しようと思います、何故なら私には話すことが沢山あるからです。私はあなたと毎日話せたらよいのにと思いますが私はできません。そして恐らくあなたはそうしたいと思うでしょうが、私はできないと思います。
 そこで最初にこのことを非常に深く検討するために、人は、あなたの意識の性質を理解しなければなりません。それらを非常に難しくして御免なさい―それは難しくありません。あなたの意識とは何ですか? あなたは自分自身で問うたことがありますか? あなたの意識はその内容です。違いますか? その内容なしにそれはありえません。違いますか? あなたはこのことが分かりますか? 宜しいでしょうか。私を助けて下さい! 宜しいですか? そのようにその内容が我々の意識を形作ります。その内容は我々の伝統であり、我々の不安であり、我々の名前であり、我々の地位です。お分かりですか? その内容がそれです、そしてそれが我々の意識です。そして思考はその意識に満足しないで言います、超意識が、それら全てを超えた超意識があるはずであると。しかし下位から上位に至る意識のその活動は依然として思考の活動です。思考は物質的なプロセスです。従ってそれは依然としてこの意識の一部分です。あなたはこのことを理解したでしょうか。理解しましたか? あなたはそれを理解しましたか? それはこの意識の一部です、たとえ思考が無限の意識が存在する、宇宙的意識が存在する、最高のものが存在すると言っても。それは依然としてこの意識の領域の中です、そしてそれにはその継続性があります、そしてその継続性がその内容です。宜しいですか? このことを言葉の上で知的なだけでも見て下さい―それで十分です。そしてこの意識には継続性があります―執着などそれらの類です。
 そこで我々は言います、この意識はその全ての内容と共に、それは頭脳の一部であり、精神の一部ですが―精神は頭脳や感情などそれらであり、精神はこの意識の一部です―この全意識はその内容を悟って、その持続性を悟って、その意識の一部を執着として取り上げて、それを消滅させることが―お分かりですか―自発的にできますか? それはあなたが継続性を破っていることを意味します。あなたはこれら全てのことに付いてきているのでしょうか。それは、我々は問うているのです、必要で妥当なものだけを―その他のものは何ものも記憶に留めないで―記憶に留めることができるのかという意味です。その質問の美しさを、その質問の意味するものを、その質問の深さを理解して下さい。我々はそれが可能であると言います。私は説明しますが、説明はその当の事実ではありません。説明に囚われないで下さい。説明を通じて事実に至って下さい。そうすると説明には何の価値もありません。コメンテーターは説明しますが、彼らは決して事実には至りません。違いますか? そこで我々は言います、継続性のあるものは時間的な活動であり、思考の活動であり、過去に基づいた知識の活動であって、その過去に基づいた知識の活動が現在の中でそれ自身を修正して未来へ向っていると。それが記憶に留めることの全プロセスです。違いますか? それに付いてきて下さい。 頭脳の記憶に留める全活動、そうではないと我々は知識を持てません。そのようにそれが全活動です、そして我々はその活動が心理的な領域を占拠してきたと言っています。違いますか? 何故なら人は知識が必要であると分かります、そうでないとあなたは機能できません、私は話すことができません―私は私のトークのことを持ち込みません、それは異なる事柄です、もしあなたがそれを検討したいなら、それは途轍もなく興味深いことです―私は今それを検討しません。私は何を言っていましたか?
質問者 知識は機能するために必要です。
クリシュナムルティ 我々は言いました、知識は継続性であると、そしてこの継続性は…頭脳はこの継続性の中に安全性を見つけてきました、従ってそれは記憶に留めなければなりません。違いますか? しかし知識にはいつも限界があります。全能の知識というのはありません。そこで頭脳は知識的な活動の中に安全性を見つけて、それにしがみ付きます、そしてあらゆる出来事を、あらゆる思いがけない出来事を過去に従って解釈します。従って過去が頭脳にとって途轍もなく重要になります。何故なら頭脳それ自身が過去だからです。そして自分自身の知力が言います、我々が説明してきたように論理的に知力が言います―それは知力の言葉による説明です―知力は言います、私は継続するものには新しいものは何もないと、新しい香りは全くないと、新しい天国や新しいこの世はないと非常にはっきり分かりますと、そして知力は言います、継続性が消滅して頭脳に危険をもたらすことはないのかと―お分かりですか―何故なら安全性がないとそれは迷うからです。そこでそれは言います、もし私が継続性を消滅させたら…知力はそれ自身に言います、言います、もし私がその継続性を消滅させたらどうなりますかと。頭脳は安全であることを要求します、そうするとそれはどういうことですか? もしそれが終わりと始まりの中に何かを見つけることができると、それは言います、大丈夫、私はそれを手に入れました、私は安全ですと。お分かりですか? 頭脳は言ってきました、私は安全性の中で機能するだけです、それが虚偽の安全性であろうと真実の安全性であろうと、そして継続性がそれに安全性を与えてきました、それが記憶に留めるプロセスです。宜しいですか? 記憶に留めること―それがそれに安全性を与えてきました。そしてあなたがやってきて、私に言います…頭脳に言います、必要なものだけ、妥当なものだけを記憶に留めて、その他のものは記憶に留めないで下さいと。あなたは私の質問が分かりますか? それは突然途方に暮れます。それは言います、それはどういう意味ですかと。何故ならそれは安全性から機能していて、言います、私に安全性を与えて下さい、そうすれば私はそれを追い求めますと。あなたはこのことが分かりますか?
 私は安全なものがあると言います、しかしそれはこの種の安全性ではありません、それは知識を、思考を、その正しい位置に置くことです。宜しいですか? 生の正に秩序正しさは、頭脳が、それが秩序の乱れの中に―それはそれを安全性と呼びますが―生きていると理解したときにのみ可能です。そしてそれが、安全性はあらゆるものを秩序の中に置くことで、それはあらゆるものが妥当で妥当ではないものがないことを意味すると悟るとき―あなたはこれらのことがお分かりですか―頭脳は言います、私はこのことを理解しました、私はそれが分かりましたと。それは私がこの安全性の全活動がどういうものであるのかに閃くことです。違いますか? お分かりですか? それはそのことに閃きます。その閃きは完全な秩序の結果です、それは頭脳があらゆるものをその正しい位置に置くことです。そうすると意識的活動の全てに余すことなく閃きます。従って、それは頭脳が…ではないものだけを…必要であるものだけを記憶に留めて、その他のものは何も記憶に留めないことを意味します。分かりましたか、あなたは何かをつかみましたか? その中に意味されているのは、頭脳の活動が変質を遂げることであり、頭脳の構造が正に変質を遂げることです、何故なら何か新しいものを初めて見ることは、新しく働く機能をもたらすことだからです。あなたはこれらのことが分かりますか? 宜しいでしょうか、あなたの腕は、この腕は機能するために発達させられています。違いますか? そのように頭脳が新しい…を発見するとき、新しい何かを見るとき、新しい機能が生まれています―違いますか―新しい有機体が生まれています。私はあなたが…かどうか分かりません、それは問題ではありません。そこで我々は言います、心理的に記憶に留めることを全くしないで精神が…頭脳が非常に若く、新鮮で、無垢で、生き生きとしていて、若々しくなることが全く必要であると。
 そして我々はこの問題も検討しなければなりません、愛はこの意識の中にあるのかどうかを。あなたは私の質問が分かりますか? 愛に継続性がありますか? どうかこの質問に最初耳を傾けて下さい。同意しないで下さい、或いは―ただそれに耳を傾けて下さい。我々は意識が一つの継続性であると―伝統やそれらであると言いました。そして愛はこの領域の一部ですか、それともそれは全くその領域の外ですか? 私は問うています、私は挑戦しています。私はそうであるともそうでないとも言っていません。我々はそれを検討しています。何故ならもしそれが我々の意識のこの領域の中なら、それは依然として思考の一部だからです。違いますか? 何故なら我々の意識の内容は思考によって作られているからです―信仰、神々、迷信、伝統などそれらは、恐れは、思考の一部だからです。そして愛は思考の一部ですか―あなたは…が分かっていますか―愛はこの意識の一部ですか? それは愛が欲望であるのかどうか、快楽やセックスなどそれらの類であるのかどうかを意味します。愛はこの思考のプロセスの一部ですか? それは愛が思い出であるのかどうかを意味します。あなたはこれらのことに付いてきていますか? 愛は、恐らくもし知力が優勢なら、瑞々しい朝の雫のように存在できません、そのように生まれません。違いますか? そして我々の文明は知力を崇拝してきました。つまり、それが理論を作り出してきたので、それを崇拝してきました―ブラフマンは存在する、ブラフマンは存在しない、神は存在する、神は存在しない―お分かりですか? それは原理を、理想を、一神的な原理や、二神的な原理、三神的な原理を作り出してきました。そこで我々はあなたに尋ねています、愛はこの河の流れの一部、この意識の一部ですかと。愛は嫉妬があるとき存在しえますか? 愛は私が私の妻や私の夫や私の子供たちに執着しているとき存在しえますか? 愛は性的行為の記憶があるとき、何らかの思い出やその光景などそれらがあるとき存在しえますか? 愛には継続するものがありますか? どうかそれを検討して下さい。後生だから見つけ出して下さい、何故ならそれがあなたの心の中に存在しないからです、それが世界がそのような大混乱の中にある理由です。
 この愛に出会うためには、意識の流れの全てが消滅しなければなりません―違いますか―意識とはあなたの嫉妬心であり、あなたの敵愾心であり、あなたの野望であり、あなたの地位への欲望であり、あなたのより大物になる、より気高くなるなどの類の欲望であり、或いは力を追い求める―お分かりですか―力です、不思議な力や、お分かりですか、空中浮揚などそれらの類を追い求めることであり、或いは政治的な、宗教的な力や地位を追い求めることであり、或いはあなたの妻やあなたの夫やあなたの子供たちに対する力を追い求めることです―それら全てが意味されています。どのようなものであれ自己中心的な感じがあるところに、その他のものは存在しません。そして自己本位の本質は記憶に留めるプロセスです。そして我々は先日或いは昨日言いました、悲しみの消滅は慈悲心の始まりであると。しかし我々は悲しみを進歩の手段として使ってきました、より良く、より良く、より良くなることです。反対に、消滅すると無限に新しい何かが起こります。
 宜しいですか、今我々は瞑想について話すことができます。身構えないで下さい。突然背筋を伸ばして座って私は瞑想しますと言わないで下さい。楽にして下さい、それが全てです。宜しいでしょうか、幾つかの意味が瞑想の中にあります。最初に、空間がなければなりません、物理的な空間だけではなく精神の中の空間です、それは何ものにも塞がれていないことを意味します。このことが分かりますか? あなたはこのことが分かりますか? 何故なら我々全ての精神は塞がれているからです。どのようにして私はお喋りを止めましょうか? 私は空間を持つことに塞がれているはずです。私は沈黙しなければなりません。お分かりですか? このように精神が塞がれることは、主婦が料理に子供たちに掛かりきりになるようなものであり、或いは帰依者が彼の神に掛かりきりになるようなものであり、或いは人が彼の職業に、彼のセックスに、彼の仕事に、彼の野望に、彼の地位に掛かりきりになるようなものです―精神が完全に塞がれています、従ってその中に空間がありません。お分かりですか? 我々は我々の生の中に秩序を確立してきました、規律やコントロールの秩序ではありません―それは問題外です。しかし我々はその秩序が秩序の乱れの理解からやってくるだけであると見てきましたので、知的に我々は見てきましたので、我々は秩序を確立してきました。我々はそのことを検討してきました。私はそれを検討しようとはしていません。
 そのように我々は我々の生の中に秩序を生み出してきました、我々の関係の中の秩序です、それは非常に重要です、何故なら生は関係性だからです―関係性の中の活動であり行動だからです。もしあなたの妻との関係の中に、あなたの夫との関係の中に、あなたの子供たちとの関係の中に、あなたの隣人との関係の中に、その隣人が身近の隣人であろうと遥か遠くの隣人であろうと、あなたの隣人との関係の中に秩序がないなら、瞑想のことは忘れて下さい。何故ならもしあなたの生の中に秩序の乱れがあって、そこからあなたが瞑想しようとするなら、あなたは幻想の罠に陥るからです。ですからそれがこれらのトークで我々が言った理由です、もしあなたが真剣でいたなら、もしあなたが付いてきていたら、我々は秩序を生み出してきたと、絶対的な秩序を、一時的な秩序ではなく絶対的な秩序を生み出してきたと。その秩序はコズミックな秩序に目を向けることができます。お分かりですか? それは関係しています―私はそれを検討してはいけません。少しだけ私に検討させて下さい。その秩序はコズミックな秩序と関係しています。コズミックな秩序とは夕日の沈むことであり、月の出であり、大いなる美を伴なった夕刻の驚くべき空です。そして単に望遠鏡で宇宙を調べるのは秩序ではありません。それはここにある秩序であり、我々の生の中にある秩序です。その秩序は宇宙と途方もない関係があります。あなたはこれらのことがお分かりですか? それは問題ではありません。
 そこで我々は言っています、精神が塞がれていると、秩序が存在しません、空間が存在しません。精神が問題で満ちているとき、どうしてあなたは空間を持ちえますか? ですから空間を持つためには、あらゆる問題がそれの起こった途端に即座に最初に解決されていなければなりません。お分かりですか? それは瞑想の一部ではありません、それは問題を来る日も来る日も来る日も引きずらないことです。私は先日ある婦人に会いました、そして彼女は私に言いました「あなたが少年のとき、あなたは私を精神的に傷つけました、そして私はその傷を未だに引きずっています」と。六十年の傷です。おーっ、あなたはこのことが分かりません。では塞がれていないことは可能ですか、それは無責任を意味するのではありません。お分かりですか? 反対に、あなたが塞がれていないとき、あなたはあなたの責任に気をつけています。塞がれている精神だけが混乱しています、従ってその責任が醜くなります、そうするとその責任に罪やそれらの可能性が出てきます。そこでどうか塞がれないようにするにはどうしたら良いのかと尋ねないで下さい。もしあなたが、どうかシステムやメソッドなどそれらを私に教えてくださいと言うなら、あなたはそのシステムやそのメソッドやそのスローガンなどそれらの類で塞がれているでしょう。しかしもしあなたが、もしあなたに閃きが起こるなら、もしあなたが塞がれている精神は破壊的な精神であると分かるなら、それは自由な精神ではないと、それには空間がないと分かるなら、もしあなたがそれを分かるなら、それは起こります。
 次の質問は―おーっ、何てことでしょう―気をつけていること、気をつけていないこと、そして気の逸脱です。お分かりですか? 気をつけていること、気をつけていないこと、精神集中、そして気の逸脱です。あなたは疲れていますか? 我々は気の逸脱は全く起こらないと言っています。どうかその点を非常に注意深く見て下さい。気の逸脱というようなものはありません。私はそれを説明します、私はそれを検討します。あなたが精神集中しようとすると、そのときのみ気の逸脱が起こります。違いますか? つまり、思考が言います―どうか注意深く耳を傾けて下さい―思考が言います、私はそれに精神集中します―それはイメージであり、絵であり、観念であり、オームという言葉などあらゆるものです―私はそれに精神集中します、そして思考がそのエネルギーをそれに注ぎます。しかし思考も彷徨します、そうして思考が言います、それは逸脱である、私はこのことに戻らなければならないと。両方とも思考の活動です。あなたはこれらのことに付いてきていますか? そのように気の逸脱はありません、思考的な活動があるだけです。違いますか? そして精神集中は囲い込みや抵抗を意味します。違いますか? そこで我々は言っています、精神集中が起こるとき、それは思考がそのエネルギーをある特別なものに、イメージに、あなたが精神集中したいと思う何かに注いでいることですが、その精神集中のプロセスの中で思考が集中できなくなります。そしてそれをあなたは気の逸脱と呼びます、しかし精神集中と集中できなくなることは共に思考の一部です―思考です。そこであなたは自分自身に私は逸脱していると言わないで下さい、何故ならあなたは精神集中と気の逸脱との間の葛藤を取り除いているからです。あなたは私の…いることを分かって…―続けましょう。そして我々は言っています、もしあなたがそのことを理解したなら、そうすると…気をつけていることです。気をつけること―あなたは今気をつけていますか? 気をつけること、それはどういう意味ですか? もしあなたが本当に深く気をつけているなら、あなたには気をつけている中心が存在しません。違いますか? お分かりですか? そしてその気をつけていることは、あなたがそのようにしたいと思っても、継続できません。宜しいですか? お分かりですか? 継続することは気をつけていないことです。あなたはこのことを理解しましたか? 私は説明します。
 あなたが気をつけているとき、それは耳を澄ますことを意味します―私はそれを説明します、その意味することを―耳を澄ましています、それは耳を澄ますという霊妙な働きです、見るという霊妙な働きです、学ぶという霊妙な働きです。それが気をつけている余すことのない活動です。そのように気をつけているときには、私は学んでいる、私は聞いている、私は見ているという中心が存在しません。この途轍もない全体感があるだけです、それが見守っています、耳を澄ましています、学んでいます。そしてそのように気をつけているときには思考的な活動が存在していません。あなたがそれに気づいたかどうか私は分かりません。思考的な活動が存在しません。そうするとそのように気をつけていることは維持されえません、そうすると思考が言います、私はどのようにすればそのように気をつけていられるのか、どのようにしてそこに至るのか、どのようにすればそれを成就するのかを明らかにしなければならないと。このような逸脱…そのように気をつけているようにしたいと思うこのような活動が気をつけていないことであり、気をつけていることの欠如です。あなたはこのことを理解しましたか? そこで気づくこと、気づくこと、気をつけていることから離れるこの活動に気づくことが気をつけていることです。あなたはそれを捉えましたか? あなたはそれを理解しましたか?
 宜しいですか、我々は言いました、精神には大いなる空間が、無限の空間がなければならないと、そしてそれはお喋りしていないときに、問題がないときにだけ存在すると、何故なら問題は… そして睡眠中の精神の活動も穏やかです、何故ならそれは絶えず夢を見ていないからです、何故ならあなたの問題をそれが起こるや否やあなたは解決しているからです。私はそれを検討しません、それは長くなり過ぎます。
 そのように大いなる空間を持つこと、そしてあなたは中心が存在しないときに大いなる空間を持つだけです。あなたが中心を持った途端に周辺領域が、外周との距離が、中心から周辺への活動が生まれるはずです。そのように空間は中心がないことを意味します。従ってそれは絶対的な無限です。そして我々は精神集中が思考の逸脱であると言っています。思考そのものが一つの逸脱です。そして気をつけていることはあなたの全てのエネルギーを耳を澄ますことに、見ることに注ぐことを意味します―宜しいですか―その中には中心がありません。そうすると秩序を理解した精神がやってきます、そしてそれは恐れから自由であり、悲しみを消滅し、快楽の性質を理解して、それをその正しい位置に置いたりなどします。そうすると問題は完全に沈黙している精神の質とはどういうものなのかということです。それはどのようにして沈黙を成し遂げるのか、どのようにして精神の平和を手にするのかではありません。それがあなた方皆の欲しがるもので、それは精神の一ピース(平和)ですが、あなたはただ単に一ピース(一カケラ)を手にするだけでしょう! 我々は絶対的な沈黙である、時間とは無縁の沈黙である精神の質を話しています。
 宜しいですか、楽器の二つの音の間に沈黙があります、二つの思考の間に沈黙があります、二つの活動の間に沈黙があります、二つの戦争の間に沈黙があります、夫と妻との間に彼らが喧嘩を始める前の、彼らがあらゆる種類のことを起こし始める前の沈黙があります。我々はその種類の沈黙の質を話しているのではありません、何故ならそれらは一時的であり、消えてしまうからです。しかし我々は思考によって生み出されたのではない、育成できない、あなたが存在の活動の全てを理解したときにだけやってくる沈黙を話しているのです。お分かりでしょうか? そうすると起こります、その中に沈黙が起こります、質疑応答は起こりません、挑戦は起こりません、探究は起こりません、あらゆるものが止みました。その沈黙の中に、もしあなたがそこへ至れば、大いなる空間と美の感じと共に、そして途方もないエネルギーの感じと共にそこへ至れば、永遠に神聖であるものが、時間とは無縁に神聖であるものが、文明の産物ではないものが、思考の産物ではないものがやって来ます。それが瞑想の全活動です。
                    1979年 1月14日 マドラス トーク 6 br>                                 中野 多一郎 訳