クリシュナムルティ(K) 私には生の中でもっとも困難なことの一つは互いに健全に通じ合うことだと思われます、何故なら我々は言葉を使わなければならないからです、そして我々はそれらの言葉を我々の快楽や痛みや嫌悪に従って言い換えるからです、或いは我々はそれらをいつも我々の特別な知識や情報から解釈するからです。そのようにコミュニケーションは、とりわけ我々が実際に物理的ではないことを検討しているとき、かなり難しくなります、というのは、そのとき我々には、より多くの鋭敏さと明晰さが、耳を傾けるときだけではなく表現するときにも要求されるからです。
私は、もし宜しければ今晩は、あなたにはやや無関係かもしれないことを話したいと思います―私は私の出身の国を代表しているのではなく、私は健全性と言われるあの状態がどういうものかを検討したいと思います。
完全に健全であることは極めて難しいのです、そして本当にバランスが取れていて、健全で、理性的で、明晰な眼差しをしているのは我々の中のごく僅かな人達なのです。健全でいることは自己矛盾がないことです、それは内的にも外的にも途轍もなくバランスが取れていることであり、それは心理的にあらゆるものが秩序の中にあることを意味します、この健全な状態は非常に難しいと私には思われます。健全さを示すものの一つは人の中に矛盾がないこと、バランスを失っていないことです。それはその中で思考と行動が理論的にではなく実際に相応じていることです。あなたの考えることがあなたの行うことであり、それらの間に矛盾がないことです、そしてあなたは事実を扱っているので、現実を扱っているので、あるべき様を扱っているのではないので信念が存在しません。あるべき様は現実ではありません、現にあることが現実です。健全性と秩序の性質を理解する精神が確かにあらゆる信仰や教条や迷信や理想から自由であるに違いありません、何故ならそれらは明らかに実際の人のあり様とは矛盾するからです、そしてそのような矛盾があるときには、我々の殆んどの生の中がそうであるように、その矛盾から様々な形の不均衡とアンバランスが生じます。
そのように私には、真理と呼ばれるかもしれないものとしてそのようなものがあるのかどうかを、賢い、狡賢い哲学的な精神の単なる表出に過ぎないもの或いは物理的な存在のその退屈さと順応性を抱えた日常的な決まりごとから逃げ出す精神の単なる表出に過ぎないものを遥かに超えたものがあるのかどうかを、自分自身で見つけ出すこと―自分自身でそれを明らかにするためには、確かに人には人の生の中に途轍もない秩序が、いかなる種類の矛盾も存在しないという意味での秩序がなければなりません。何故なら矛盾はアンバランスを生むからです―平和を願う人が実際の生では平和を手にすることにはならないあらゆることを行う人であるように。その二つは恐らく一緒にはなりえません、そしてこの矛盾の混乱や緊張が正に人の中の敵愾心を生み、バランスの欠如や健全さの欠如をもたらします。
そこで私は東洋的でも西洋的でもないことについて話したいと思います、そしてそれに当てられる言葉は一般的に“瞑想”です。何故なら私には、もし人が瞑想の仕方を知らないなら、或いはもし精神が瞑想的な状態にないなら、人は生の中で大いなるものを見失うと思われるからです。我々の現在の生はとても浅薄で、かなり虚しく、鈍いのです、そして取るに足りない狭小な精神が不思議なものや不可知なものを神聖にしようとするとき、明らかにそれはそれ自身の取るに足りなさのイメージを作り出すに過ぎないのです。そこで問題は、狭小な精神が、心配や絶望に満ちていて、心配してそれ自身を変えようと何かになろうと奮闘している精神が―その取るに足りない狭小な精神がそれ自身を変質させることができるのかどうか、それ自身の限界を打ち破って広大な地平に出ることができるのかどうかです、何故ならもしそれがそうしなければ健全性は殆んど不可能だからです。健全性は秩序です、外側だけではなく内側でも―謂わば皮膚の下でも、そしてこの秩序がどのようにして生み出されるのかがとても重要です。
内面的に殆んどの我々の秩序は非常に乱れています。我々は非常に沢山の知識を、良く組織立てられた情報を、外面的な明晰性を持っているかもしれません、我々は外面的な目的を持っているかもしれませんし議論ができるかもしれませんが内面的には殆んどの我々は混乱していて葛藤の中にいます。このことは多くの賢い作家について当てはまるかもしれません。彼らは才能を持ち、そして自分自身に矛盾し、大いに張り詰めた緊張感の中であらゆる種類の文学を生み出しますが、それは基本的に病んだ精神の仕事です。そして殆んどの我々は、私はそう思いますが、混乱しています、我々の中に明晰性はありません。この明晰性は他の人を通じても、古代のものであろうと現代のものであろうと何らかの権威や思考的なシステムに従っても発見されえません。この明晰性は秩序です、そして秩序はその究極的で繊細な意味で徳行です。社会が課す道徳は道徳では全くありません。社会的な道徳は不道徳です、何故ならそれがあらゆる形の矛盾を、あらゆる形の野望や競争心を生むからです。社会はその正に性質上、それが共産主義世界であろうと西洋世界であろうと、外面的な社会的な順応性を、道徳と呼ばれる順応性を生み出します、しかしもし人がそのことを非常に深く検討するなら、人はそのような道徳が不道徳であることが分かります。
私は徳行のことを話しています、そしてそれは社会とそのいわゆる道徳とは何の関係もありません。徳行は人の中に心理的な秩序があるときにだけ生まれえます。我々が社会の全構造を理解するとき―社会の心理的な構造、そして我々はその一部です―その理解の中に秩序が生まれます、そしてそれが徳行をもたらします。徳行なしに、精神は恐らく明晰性や健全性を持つことができません、従って健全性と徳行は手に手を取り合っています。私はこのことを理解することが非常に大切であると思います、何故なら殆んどの我々にとって徳行は非常に退屈なものに、むしろ特に現代世界では大して意味のない愚かで古風なものになっているからです。私は社会の表面的な道徳を唱導しているのではなく、我々は本当の徳とは何かの全ての問題を一緒に、私はそう願いますが、探究しているのです。
人が部屋を秩序正しく整頓して綺麗に片付けるように、そして人がそれを毎日行うように、内側の秩序がなければなりません、しかし内側の秩序は更にもっと気をつけていることを要求します、それは内側で起こっていることに気づくことを要求します。精神はそれ自身の思考と感情の全てに、秘密の欲望や追求と同様にあからさまな欲望や追求にも気づかなければなりません、そしてこの気づきから秩序がやってきます、それが徳行です。 もし人が更にもっと深く徳行を探究するなら、人はそれがあなたの永久に持つことができるものではないことが分かります―それが徳行の美です。あなたは言うことができません「私は有徳であることがどういうことかを学びました、全て終了しました」と。徳行は継続的な、或いは固定した現象ではありません。徳行は一瞬々々生まれ変わる秩序です、従って徳行の中には自由があります、それは反抗ではありません。私が先日指摘したように、反抗は自由ではありません、反抗は依然として社会的なパターンの中です、そして自由は社会的なパターンの外です。社会的なパターン或いは鋳型は心理的です、それは嫉妬であり、貪欲であり、野望であり、我々がその一部である様々な葛藤です。我々は我々が作ってきた社会です、そしてもし人がそれから自由でないなら、恐らく秩序はありえません。そのように徳行は最も重要です、何故ならそれが自由をもたらすからです。人は自由でなければなりません―しかしそれが殆んどの人々の欲しいと思わないことです。彼らは政治的自由を欲しがるかもしれません―ある政治家に投票する自由です、或いは国家的な自由です、しかしそれは自由では全くありません。
自由は何か全く異なるものです、そして殆んどの我々は内側の自由を、その言葉の深い意味での自由を欲しません、何故ならそれは、我々が指導者なしに、システムなしに、どのような権威にも従うことなく完全に独存することを意味するからです、そしてそれには人の中の途轍もない秩序が要求されるからです。殆んどの我々は誰かに寄り掛かりたいと思います、そしてもしそれが人ではないなら、それは観念であり、信仰であり、行動の規範であり、社会によって或いはリーダーによって或いはいわゆる霊的な人物によって或いは自分自身によって確立されたパターンです。
そのように殆んどの我々は権威を受け入れます。そしてここで人は我々が話している権威が国の法律ではないことをはっきりさせなければなりません。我々が話しているのは独存することの恐怖によって、自分自身の足で立つことの恐怖によって従うことになる権威のことです、そして我々の生き方を、我々の行動の仕方を、或いは内側の明晰性を誰かに頼らないことです。何故ならそのような権威は軽蔑を生むからであり、それは敵愾心や分断を人々の中に生むからです。真理を追究する人はいかなる時にもいかなる種類の権威も手にしません、そしてこの権威からの自由は西洋世界だけではなく東洋世界でも殆んどの我々にとって手にするのが最も難しいものの一つです、何故なら我々は他の誰かが―救済者や大悟者や霊的教師などのそれらの類が―我々の生に秩序をもたらすと考えるからです、それは絶対に馬鹿げています。我々自身の明晰性や我々自身の探究や気づきや気をつけていることによってのみ我々は自分自身についての全てを学び始めるのです、そしてその学びから、その自分自身の理解から、自由と秩序、従って徳行がやってくるのです。
そのように、人は完全に独存しなければならないという実感は、あなたがあなた自身を理解し始めるときにやってくるのです。自分を知ることが叡智の始まりです、そして叡智はいつも独存的です、何故ならそれは書物や他の人の引用によっては手に入れることができないからです。叡智は各々によって発見されなければならないものです、そしてそれは知識の産物ではありません。知識と叡智は一緒になりません。叡智は自己知が極まるときにやってきます。自分を知らなくては秩序は不可能です、従って徳行は生まれません。
宜しいですか、自分自身について学ぶことと自分自身についての知識を収集蓄積することとは二つの異なることです。どうかこのことに少し耳を傾けて下さい。あなたが私に従うのではなく、或いは私の話すことを単に受け入れるのではなく、あなたがそうしていないことを期待しますが、我々は共に探究しているのです、共に発見しているのです。我々は一緒に旅をしているのです、従ってあなたは話し手と同じくらいに気づくのです、あなたは話し手と同じくらいに一生懸命なのです、そしてそれは我々が共に一緒に探究していることを意味します。 学ぶことと知識を収集蓄積することは二つの異なることです。知識を獲得している精神は決して学んでいません。それが行っていることはこういうことです、つまりそれはそれ自身に知識として情報や経験を収集しています、そしてそれが集めてきた背景に基づいてそれは経験し、学びます、従ってそれは決して本当には学んでいなくて、それはいつも知ろうとしていたり、獲得しようとしたりしています。
私が少し話してから、あなたがこのことについて質問をするのを期待します。しかし私は進まなければなりません。
学ぶことはいつも活動的な現在であり、過去とは無縁です。あなたが自分自身に「私は学んだ」と言うや否や、それは既に知識になりました、そしてその知識の背景に基づいてあなたは収集蓄積し解釈しますが、あなたは更に学ぶことができません。獲得をしていなくていつも学んでいる精神のみが―そのような精神のみが我々の“私”或いは自己と呼ぶこの当のものの全てを理解することができます。私は自分自身を、その当のものの全ての構造や性質や意味を知る必要があります、しかし私は私が私のこれまでの知識や私のこれまでの経験を引きずっていては、或いは私の条件づけられた精神では、それを行うことができません、というのはそれでは私は学んでいないからです、私は単に言葉を言い換えたり解釈したりしているだけであり、既に過去によって曇らされている目で見ているだけだからです。
そのように、知ることと学ぶこととの間には壮大な違いがあります。知識は精神を縛りますが、学ぶことは精神を自由にします。私は自分自身についていつも学んでいる必要があります、何故なら“私自身”は途轍もない、生きているものだからです。変化がある瞬間ごとに変質が起こり、様々な暗示があり、様々な反射的な反応が起こります、そして私はそれら全てを観察しなければなりませんし、それについて学ばなければなりません。しかしもし私がそれまでの経験を知識として抱えていてそれに携わるなら、私は学んでいません。私はこのことが幾分か明らかであることを期待します。
自分自身について学ぶことは―人の身体的な反射的な反応や人の生物的な衝動や要求だけではなく人の思考の内面的な活動の全てについても学ぶことは―秩序をもたらすために必要です、そしてそうすることによってのみあなたは瞑想を推し進めることができます。宜しいですか、瞑想についての沢山の本があります、瞑想の仕方や何をすべきかについて書いてきた沢山の教師や賢い人々がいます。あなたがこのことに興味があるのかどうか私は知りません。もし興味がないなら、興味を持たなければなりません、何故なら瞑想の意味を知らないことは片腕しかないようなもの、或いは両腕がないようなものだからです。
殆んどの我々が不思議なものを追い求めています、何故なら我々は我々の生が非常に意味のないものであると、非常に意義のないものであると分かるからです。オフィスへ行く日常、何かを、それが楽しかろうと楽しくはなかろうと、繰り返し繰り返し何度も何度も行う日常、パターンへの絶え間ない順応―我々はそれらにかなりうんざりしています、従って我々は何か不思議なものを、この世でないものを、他の世界のものを追い求めます。そこで我々は、我々が瞑想と呼ぶもので―それはアジアの発明の一つですが―我々がこの途方もないもの、精神によって作られたのではないある真実に出会うと考えます。
そこで瞑想がどういうものであるのかを理解することが非常に重要です、何故なら本当の瞑想の中に大いなる美があるからです、大いなる強烈なものを感じるからです、そして瞑想的な精神のみが愛がどういうものであるのかを知るからです。殆んどの我々は愛がどういうものであるのか知りません。我々は愛を快楽との関係で知っています、しかし我々は快楽から生まれているのではないその愛の性質を知りません。つまり、もし人が観察したなら、人は我々の知っているような愛がいつも快楽と関係していると分かります、即ち、身体的な快楽であり、一緒にいる快楽であり、連想する快楽であり、いわゆる他人を愛する、国を愛することなどから生まれる快楽です。
宜しいですか、快楽は、私が先日指摘したように、欲望の結果です、しかし欲望と快楽との間には少し微妙な違いがあります。私はあなたが自分自身で欲望が起こるとき思考がそれに継続性を与えることに気づいたかどうか知りません。私が何か美しいものを見ます―家でも車でも何でも―そして欲望の反射的な反応が起こります、そうすると思考が欲望に継続性を与えます、それが快楽です。私は美しい樹木や人物を見ることができます、そして正常な、健康的な、健全な反射的な反応が起こります。しかしその反射的な反応に継続性や持続性を与えるのはそれについて考えることです、従って欲望について考えることが快楽です。そして快楽としての欲望の継続が明らかに愛を否定します。
そうすると再び、人の中に秩序をもたらすためには、人の中で一瞬々々起きていることに気をつけていること、気づくことが要求されます、そしてその起きていることを決して否定しないで、それから決して逃げないで、単にそれに取捨選択することなく気づくことが要求されます。
宜しいですか、気をつけていることと精神集中の間には大きな違いがあります。あなたが精神を集中しているとき、あなたの全精神は一つの特別なものに注がれています、そしてもしあなたが非常に上手なら、あなたは他の何ものも入って来られない壁を築くことができます。精神集中は排除であり抵抗です、従って矛盾です、一方、気をつけていることは気づきの状態であり、それは全く違う何かです。あなたは気づくことがどういうことであるのか知っていますか? 人はこのホールの大きさに気づきます、その醜さや不釣合いに気づきます、人は人々に気づきます、人々が着ている色彩に気づきます。人は外側で起こっていることに気づきます。しかしもし人が「私はその色が嫌いだ、その人が嫌いだ」と言うなら人は気づきません、というのはそうすると人は気づく活動を止めたからです。人はこの場所や色彩などに取捨選択することなく気づく必要があります。そうするとあなたは更に沢山学んでいます、あなたの精神は更にずっと活動的です。
外側の気づきから、謂わばその波に乗って精神が内側に気づき始めます。あなた自身を観察して下さい、自分自身の思考の動きを観察して下さい、それがどのように条件づけられているかを見て下さい、その性質を、その微妙な働きを、その背景を見て下さい。もしあなたがそれに精神集中するなら、あなたは観察することができません。もしあなたが全体の中の一つの部分を取り上げて、その一つの特別な部分について学ぼうとするなら、あなたは矛盾の状態の中にいます。しかしもし外側に取捨選択することなく気づくなら、精神は内側へ向い始めて、その取捨選択しない気づきから気をつけているように自然になります。
宜しいですか、あなたが何かに気をつけているとき、恐らくあなたが今話されていることに気をつけているように、あなたはあなたの全存在を傾けて気をつけています、違いますか? あなたは完全に気づきます、あなたの身体で、あなたの神経で、あなたの目で、あなたの耳で、あなたの感情で、あなたの知力で余すことなく気をつけています。その気をつけている状態の中には気をつけている当人がいなくて、ただ気をつけているだけです。私は訳の分からないことを話しているのでも、何か空想的なことを話しているのでもありません。それはもしあなたが実際にそれを行うなら非常に単純なことです。精神集中するときには、それは排除のプロセスですが、抵抗が起こります、従って矛盾が起こります。しかし気をつけているときには矛盾が起こりません、何故なら気をつけている精神は排除することなく精神を集中することができるからです。このように気をつけていることは時間の中で発展させられる状態ではありません、何故なら、私が先日指摘していたように、時間は秩序の乱れを生むからです。
私はあなたが私にそれをもっと検討して欲しいと思うかどうか知りません。我々はそれを十分に行ってきました、違いますか?
もし私が行動を引き伸ばすなら、もし私が私は明日変わると言うなら、今と明日との間にあらゆる種類の圧力や影響やあらゆる種類の活動が起こります。従って時間は秩序を生み出しません。その瞬間の中だけに秩序がありえます、時間の中ではありません。人が時間の構造と性質の全てを理解するときのみ秩序がありえます。
そのようにあなたは生の外側の性質を理解する必要があります、それと親密に交わる必要があります、そうして外側から内側へ、精神へ、あなた自身であるその記憶の束へ、あなたの全ての条件づけや、あなたの伝統や、あなたの希望や、あなたの恐れや、あなたの絶望や、あなたの願望と共に向う必要があります、そしてそれら全てに気づくことは、それら全てに気をつけていることは、従ってそれら全てを消滅させてそれら全てから自由になることは時間の問題ではありません。人がこのことを行うとき、精神それ自身が非常に鋭く、明瞭に、繊細になります、何故なら矛盾が起こらないからです、何かであるとか何かになるとかの努力が起こらないからです。矛盾は努力を意味します。これになろうとかあれになろうとか努力している精神は混乱の状態の中にあります、それが明瞭になるために、それ自身に深みをもたらすためにどのような努力をしようと、それは更なる鈍さを、更なる混乱を生み出すだけです。
この全プロセスが瞑想です。
殆んどの我々にとって、美は刺激であり、反射的な反応です。我々は美を感じようとして或いは美を見ようとして刺激に頼ります。我々は言います「何て素敵な夕陽だ」或いは「何て美しい建物だ」と。しかし刺激では全くない美があります、それは刺激の産物ではありません、そしてその美は大いなる単純性なしには存在しえません。単純性はどれだけ多く或いはどれだけ少なく人が手にしているかの問題ではなく、それは自己知が、自己の学びが明瞭なとき生じます、そしてこの単純性は謙虚の性質です、そしてそれは厳格性です。
これらの全てが精神の限界を超えるためには必要です。では、超えようとしている当人は何者ですか? 私が言ったように、人が強烈に気づくときには、気をつけているときには、その当人はいません。それをいつか行って下さい―私はあなたがそれを今行っていることを願います―そうするとあなたは分かるでしょう。もしあなたが話されていることに完全に気をつけているなら、その言葉を聴くことだけが起こっています、“あなた”がその言葉に耳を傾けているのではありません。精神が内側で気をつけているとき、言葉の性質の外側の理解を通じてその完全に気をつけている状態に至るとき「私は更に進もう」と言う当のものは存在しません。宜しいですか、あなたが非常に気をつけているとき、あなたの中に大いなる沈黙が生じます、違いますか? あなたが話されていることにあなたの全存在を傾けて実際に耳を澄ましているとき―受け入れるのではなく、解釈するのではなく、否定するのではなく、理解しようとするのではなく、ただ単に気をつけているとき―あなたの精神は途方もなく静かです、違いますか? 技巧的ではない、意志によって力ずくで作り上げられたのではない沈黙が生じます。その沈黙は自己の全構造が理解されるときやってきます、そして沈黙が起こると空間が生まれます。沈黙している、空間を持つ―そのような精神だけが刺激ではない美を知ります。
この全プロセスが瞑想です。
恐らくあなたは質問するでしょう、我々は話されたことについて一緒に語ることができます、もしあなたに興味があれば。
質問者(Q) 苦しむことなく自分自身を乗り越えることはできますか?
クリシュナムルティ(K) では、苦しみとはどういうものであるのか明らかにしましょう。苦しみとは何ですか? 悲しみとは何ですか? 悲しみを生み出すものがあります、あなたの好きな人の死であり、何かを成就できないことであり、良くて力強くて健康な精神を持っていないことであり、愛されていないことです。多くの苦しみの在り方、症状があります、しかしあなたがそれら全てを、その症状を見るとき、苦しみについて何を発見しますか? 実際に、苦しみとは何ですか? 私は私の好きな誰かを失います―私の息子であり、私の妻であり、私の父です―そして私は悲しみの中にいます。それは何を意味しますか? 最初に、その悲しみの中には大いなる自己憐憫があります、何故なら私は私が頼りにしていた人を失ったからです、私が愛した人を失ったからです、そして私は今私には連れ添う人がいないと分かります。私は一人取り残されました。そのように悲しみの要因の一つは自己憐憫です。どうかそれを否定しないで下さい。
Q 私は自己が原因である苦しみのことを言っていません、私は自己が消滅するときにやってくる苦しみのことを言っています。
K おーっ、御免なさい。私は我々の話していたことに少し後で戻ります。私が自分自身をある通りに見るとき、その紳士は言います、それは悲しみを生むと。それがあなたの問うている質問でしょうか?
Q いいえ、違います。
K 御免なさい、私は分かりません。この困難はコミュニケーションの問題です。私はあなたが私に言おうとしていることが本当に分かりません。あなたは、宜しいでしょうか―私は非常に簡潔に言っています―私が実際に現実の私を見るとき、それは苦しみをもたらすとあなたは言っているのですか、違いますか? では何故それが苦しみをもたらすのですか? 仮に私が嘘つきだとしましょう、私は自分自身をその通りに見ます、何故それが苦しみをもたらすのですか? それは事実です。しかし私は自分自身のイメージを持っています、私は私が非常に正直な人間であると考えます、従ってそのイメージは事実と矛盾します。その矛盾が葛藤をもたらします、それを私は悲しみと呼びます。しかし事実を、現実を見ることが苦しみをもたらすことにはなりえません。私が自分自身について持っているイメージが現実と矛盾するとき―そうするときのみその葛藤が、私が苦しみと呼ぶその葛藤が始まります。
Q 私はただこの種の苦しみを受けることなしに自己を知ることができるのかどうかをあなたに尋ねたいと思っただけです。
K 勿論です。もし何らかの苦しみがあれば自己を知ることにはなりません。もし自己の探究を始めるとき何らかの苦しみが起これば―つまり、自己の探究が苦しみを生み出すなら―それはもはや自己の探究ではありません。
Q もし劇を見ている観客がその劇に完全に夢中なとき、それは余すことなく気をつけている状態ですか?
K あなたは劇を見ています、そしてその劇がとても興味深いのであなたは完全に夢中になります。当座は“あなた”はいません、何故ならその劇があなたを、あなたの全ての心配事や不安や恐れと共にあなたを夢中にさせたからです。では、あなたが夢中になっていることと面白いオモチャに夢中になっている子供のそれとの違いは何ですか? その子供は腕白で悪戯で、あらゆる種類の落ち着きのない事をしてきたかもしれませんが、非常に面白いオモチャをその子供に与えると彼は完全にそれに夢中になります。そのオモチャが非常に面白いので彼は彼の落ち着きのなさの全てを忘れます。その二つの間の違いは何ですか? 劇が、本が、教会が、観念が、信念が、音楽が、絵画や何やらがあなたを夢中にさせます、そしてあなたは自分自身を忘れます。そのように重要になるのは絵画であり、オモチャであって自分自身を理解することではありません。あなたは劇に一時間夢中になるかもしれませんが、あなたが家に帰るとあなたは再びあなたのいつもの自分です。そのようにたとえあなたが何かに夢中になっても、プロパガンダや国家的な要求に夢中になっても、或いはたとえあなたが自分自身を何かと同一化させても、それは別の形で夢中になることですが、そのような状態の中には学びはありません、従って自由がありません、そのために徳行が生じません。オモチャに夢中になっている精神は、そのオモチャがどんなに優雅でも、どんなに美しくても、どんなに重要と思われていても、その精神は明らかにそれ自身から逃げています。そのような精神はいつも秩序の乱れの中にあります、そしてその行動は更なる秩序の乱れを、更なる混乱を世界に生み出します。
Q 生は永遠ではないという知識は苦しみをもたらしますか?
K はい、もたらします。しかし生が永遠ではないというのは事実です、違いますか? あなたの関係性は永遠ではありません、あなたの思考は永遠ではありません、あなたの自己成就やあなたの野望的な衝動と成就は永遠ではありません、何故なら死があるからです。そして何故人は永遠ではないので苦しむのですか? 事実は永遠ではないことがあるということです。そういうことになっているのです。しかしあなたはその事実を受け入れたくないので、あなたは言います「永遠な何かがあるはずである」と。あなたは永遠なものを思い描きます、従ってあなたが永遠ではないものに直面すると絶望的な感じになります。あなたは死を、それは永遠ではないことの本質ですが、それを遠くに追いやります、従って隔たりができます、あなたとあなたが死と呼ぶそれとの間にギャップができます。こちらであなたは毎日生きています、あなたの日常を、あなたの心配事を、あなたの欲求不安を、あなたの野望を継続しています、そして遠くに死があります、そしてあなたはそのことについて考えます。あなたは死を見てきました、そしてあなたはあなたもいつか死ぬと知っています、そしてあなたはそのことについて考えます。未来を永遠ではないと考えることが恐れを生みます。どうかこのことに耳を傾けて下さい。しかしもしあなたが死を―あなたが未来に据えたそれを―あなたが活動的で精力的で力強くて病気とは無縁である現在に据えるなら、あなたは死と共に生きています、あなたは一瞬々々をあなたが知っているあらゆるものを死んでやり過ごしています。結局のところ、終わるものだけが新しい始まりを手にしえるのです。春を見て下さい。長い冬の後で春がやって来るとき、新芽が現れます、新鮮で、柔らかくて、若くて、無垢なものが現れます。しかし我々は終わることを恐れます、そして終わることは、結局のところ、死です。ただ一つだけ取り上げて下さい、あなたに大いなる快楽或いは大いなる苦痛を与える何かを、あなたが持っている誰かの記憶を、あなたに苦痛や快楽をもたらす記憶を、そしてそれを終わらせて下さい、それを死んでやり過ごして下さい、明日にではなく、一瞬のうちに。あなたがそうするとき、あなたは新しいことが起こっていることを、新しい精神の状態が生まれていることを発見するでしょう。そのように古いものが止むとき創造が起こります。
1965年 5月27日 パリ トーク 4
中野 多一郎 訳