クリシュナムルティをめぐりて

オーハイ・トーク 6 1955年 8月21日

クリシュナムルティ 人間が崇めるべき何かを要求するのは明らかな事実です。あなたや私や多くの人々が我々の生の中に神聖な何かを持ちたいと願い、我々は寺院へ行くか、モスクへ行くか、教会へ行くか、それとも我々は他のシンボルやイメージや我々が崇める観念を持つかします。何かを崇める必要性は急を要するように思われます、何故なら我々は自分自身から引き抜かれて何かより偉大なものに、より広いものに、より根本的なものに、より永久的なものでいたいと思い、我々は大師や教師、天上や地上の神々しいものを発明し始め、様々なシンボルを発明します―十字架や三日月などです。或いは、もしそれらのいずれもが満足のいくものでないなら、我々は精神を超えて存在するものを思索して、それが神聖な何か、崇められるべき何かであると主張します。それが我々の日常生活の中で起こることであり、殆どの我々はそのことによく気づいていると私は思います。このような努力がいつも既知の領域内、精神の領域内、記憶の領域内で起こり、我々は決してそこから抜け出すことができないように思われ、精神では作り出せない神聖な何かを見つけられないように思われます。
 そこで今朝は、もし宜しければ、私は本当に神聖な何かが、計り知れない何かが、精神では計られない何かがあるのかどうかのこの問題を検討したいと思います。そうするためには明らかに我々の考え方の中に、我々の価値観の中に革命が起こらなければなりません。私は経済的社会的革命を意味していません、それは単に未成熟なものであり、それは表面的に我々の生活に影響するかもしれませんが、それは根本的に全く革命ではありません。私は自己知を通じてもたらされる革命のことを話しています―精神の表面上の思考の検証によって成し遂げられる表面的な自己知を通じてではなく、自己知の根本的な深さを通じてもたらされる革命のことです。
 明らかに、我々の最大の困難の一つは我々の努力の全てが認識の領域内にあるというこの事実です。我々は我々が認識できる領域内でのみ機能しているように思われます―つまり、記憶の領域内で―精神がその領域を超えることは可能でしょうか? 記憶は明らかにある次元では欠かすことができません。私はここから私の住んでいるところまでの道を知っていなければなりません。もしあなたが私のよく知っていることを質問するなら、私は即答します。
 どうか、もし宜しければ、私が話しているとき、あなた自身の精神を観察して下さい、何故なら私はこのことをかなり深く検討したいと思っているからであり、もしあなたがこのことをあなたに即座に当てはめないで単に言葉の説明に従っているだけなら、その説明には何の意義もありません。もしあなたがこれを聞いて「私は明日或いはこの集会の後でそれを考えます」と言うなら、それは過ぎ去ってしまっていて、それには何の価値もありませんが、もしあなたが言われていることに完全に気をつけていて、それをあなたに当てはめることができるなら、それはあなた自身の知的で情動的な過程に気づいていることを意味しますが、あなたは私が言っていることに意義のあるのが即座に分かるでしょう。
 私が話しているとき、あなたはあなたがよく知っていることに即座に反応します、そしてよく知っている問いかけがなされると、あなたは簡単に答えて、その反射的な反応は瞬時です。もしあなたがあなたのよく知らない問いかけがなされるなら、何が起こりますか? あなたは記憶の貯蔵庫の中を探し始め、あなたがそれについて読んできたもの、考えてきたもの、あなたの経験してきたことを思い起こそうとします。つまり、あなたは振り返ってあなたが獲得してきた何らかの記憶を見ます、何故ならあなたが知識と呼ぶものは本質的に記憶だからです。しかしもしあなたがあなたの全く知らない問いかけをされるなら、従ってもしあなたが記憶の中には何の手がかりもない問いかけをされるなら、そしてもしあなたがあなたは知らないということを正直に答えることができるなら、その何も知らない状態が未知への本当の探究の最初の一歩です。
 つまり、技術的には我々は途方もなくよく発達していて、我々は機械的なことには非常に賢くなっています。我々は学校へ行き、様々な技術を、エンジンを組み立てるノウハウを、道路を修繕するノウハウを、飛行機を作り上げるノウハウなどを学びますが、それは記憶の育成です。その同じ考え方で、我々は精神を超えた何かを見つけたいと思い、我々は規律を実践し、システムに従います、或いは何らかの愚劣な宗教的組織に従います、そしてその種の全ての組織は本質的に愚劣なものです、それらが一時的にどれほど満足を与えてくれて嬉しく思えるものでも。
 宜しいでしょうか、もし我々がこのことを一緒に検討できるなら―もし我々がそのことに気をつけているなら我々はそれができると私は思います―私は精神が技術的な記憶を全て脇へ追いやることができるのかどうか、隠れているものを見つけようと既知の中へ探索することを全て脇へ追いやることができるのかどうかをあなたと一緒に探究したいと思います。何故なら、我々が追い求めているとき、それが我々の行っていることだからです、違いますか? 我々は我々にとって未知なものを既知の領域内で追い求めています。我々が幸福や平和、神、愛、或いは何であれ、それらを追い求めているとき、それはいつも既知の領域内です、何故なら記憶が既に我々に何かのヒントや仄めかしを与えていて、我々はそれに信を置くからです。そのように我々の追求はいつも既知の領域内です。そして科学でさえも、精神が完全に既知を当てにすることを止めたときのみ、新しいものが生まれます。しかしこの既知への追求の消滅は何らかの決意ではなく、それはどのような意志の働きによっても生まれません。「私は既知を当てにしません、私は未知に対して開かれています」と言うことは全く子供じみていて意味がありません。そのとき精神は発明し思索して絶対的にナンセンスな何かを経験します。精神の既知からの自由は自己知を通じてのみやってくるのであり、日常生活の中であなたが自己の意味を理解するとき生まれる革命を通じてやってきます。あなたは、もし自己の理解を助けている記憶の収集蓄積があるなら、自己の意味を理解することができません。あなたはそれを理解しますか?
 宜しいですか、我々は知識を収集蓄積することによって物事を理解すると、比較することによって理解すると考えています。明らかに、我々はそのように理解していません。もしあなたがあることを別のことと比較するなら、あなたは単に比較に没頭しているにすぎません。あなたはあなたが完全に気をつけているときにだけ何かを理解できて、どのような形の比較や価値評価も気の逸脱です。
 自己知は収集蓄積的ではなく、私はそれを理解することは非常に重要であると思います。もし自己知が収集蓄積的なら、それは単に機械的であるにすぎません。それは、ある技術を学んで絶えず体のある一部分を専門としている医者の知識のようなものです。外科医はその技術を学んできて、その知識や才能を持っており、彼には彼を助けてくれる収集蓄積的な経験があるので、その手術において彼は優秀な技術者かもしれません。しかし我々はそのような収集蓄積的な経験のことを話しているのではありません。それどころか、どのような形の収集蓄積的な知識も更なる発見を妨げます、しかし人が何かを発見するとき、人はその収集蓄積的な技術を使うことができます。
 明らかに私が言っていることは極めて単純です。もし人が学ぶことができるなら、自分自身を見守ることができるなら、人はどのようにして人が見るあらゆるものに収集蓄積的な記憶が働いているのかを発見し始めます、人は永遠に価値評価したり、捨て去ったり受け入れたり、非難したり正当化したりしているので、人の経験はいつも既知の領域内、条件づけの領域内にあります。しかし指示するものとしての収集蓄積的な記憶がないと殆どの我々は途方に暮れ、恐れを抱くので、我々は自分自身をありのままに観察することができません。収集蓄積的な過程があるときは、それは記憶の収集蓄積ですが、自分自身を観察することが非常に表面的になります。記憶は指示したり、自身を発達させたりする点では助けになりますが、自己の発達の中には決して革命は、根本的な変質はありえません。自己発達的な感じが完全に止むときのみ、しかしそれは意志によるのではなく、そのときのみ超越的な何かが、全く新しい何かが生まれる可能性があります。
 従って私には我々が思考のプロセスを理解しない限り、単なる知的な働きや精神的な働きには僅かの価値しかないと思えます。思考とは何ですか? どうか、私が話しているときあなた自身を見守って下さい。思考とは何ですか? 思考は記憶の反応です、違いますか? 私があなたにどこに住んでいるのかを尋ねるなら、あなたは瞬時に答えます、何故ならそれはあなたがよく知っていることだからであり、あなたは直ぐにその家や通りの名前など全てが分かります。それは思考の一つの形です。もし私がもう少し込み入った質問をあなたにすると、あなたの精神は躊躇して、その躊躇の中であなたの精神は正しい答えを見つけるために記憶の広大なコレクションの中を、過去の記憶の中を探し回ります。それは別の形の思考です、違いますか? もし私がさらにもっと複雑な質問をあなたにすると、あなたの精神は困惑して動揺します、そしてそれは動揺することを嫌うので、それは様々な方法で答えを見つけようとしますが、それも依然として別の形の思考です。あなたがこれらのことに付いてきていることを私は願います。そしてもし私が壮大で根本的な何かについてあなたに問うなら、あなたが真理を知っているのかどうか、神が何であるのか、愛が何であるのかのようなことをあなたに問うなら、あなたの精神はあなたがそれらのことを経験してきていると考える他の人たちの証拠を探し回って、あなたはそれらを引用したり、繰り返したりし始めます。最後に、もし誰かが他の人たちの言うことを繰り返したり、他の人たちの証拠に頼ったりすることの不毛を指摘するなら、それらには意味がないかもしれません、あなたはきっと「私は知りません」と言うに違いありません。
 宜しいですか、もし人がその「私は知らない」と言う状態に本当になれるなら、それは謙虚の途方もない感じを指し示していて、そこには知識の傲慢さや印象を与えようとする自己主張的な応答がありません。あなたが実際に「私は知りません」と言えるとき、非常に少数の人しかそう言えませんが、その状態の中ではあらゆる恐怖が止んでいます、何故ならあらゆる認識的な感じが、記憶の中を捜し回ることが消滅しているからであり、もはや既知の領域の中を追求しないからです。そうすると途方もないことになります。もしあなたが私の言うことにここまで付いてきているなら、単に言葉の上だけではなく、もしあなたがそれを実際に経験しているなら、あなたはあなたが「私は知りません」と言うとき、全ての条件づけが止んでいるのが分かるでしょう。精神はそのときどういう状態ですか? 私の言っていることがお分かりですか? 私の言っていることは明確ですか? もしあなたに関心があるなら、そのことに少し気をつけていることは重要なことであると私は思います。
 宜しいですか、我々は何か永遠なものを追い求めています―時間的な感じで永遠なもの、持ちこたえて永続する何かを。我々は我々の周りのあらゆるものが儚くて、流動的で、生まれては朽ちて死んでいくことが分かります、そして我々の追求はいつも既知の領域内で持ちこたえる何かを確立することです。しかし本当に神聖なものは時間的な考察を超えていて既知の領域の中では見つけられません。既知は思考を通じてのみ働くのであり、それは何らかの挑戦に対する記憶の応答です。もし私がそのことを見て取り、どのようにして思考を終わらせたらよいのかを見出したいのなら、私は何をしたらよいのでしょうか? 明らかに、私は自己知を通して私の思考の全過程に気づかなければなりません。私はあらゆる思考が、どんなに微妙であろうと、どんなに高尚であろうと或いはどんなに無知であろうと愚かであろうと、あらゆる思考がその根を既知の中に、記憶の中に置いていることを見なければなりません。もし私がそのことを非常にはっきりと見て取るなら、精神は計り知れない問題に直面するとき「私は知りません」と言うことができます、何故ならそれは答えを持っていないからです。そうすると仏陀やキリスト、大師たち、教師たち、グルたちなどの全ての答えには意味がありません、何故なら、もしそれらに何らかの意味があるなら、その意味は記憶の収集蓄積から生まれているからであり、そしてそれが私の条件づけだからです。
 そうすると、もし私がそれらの真理を見て取って実際に全ての答えを脇へ除けるなら、私にそれができるのは知らないと言うこの計り知れない謙虚が生まれるときだけですが、そのとき精神はどのような状態でしょうか? 神がいるのかいないのか、愛があるのかないのか私は知りませんと言う、つまり記憶の応答がない精神はどのような状態でしょうか? どうか直ぐに自分自身に答えないで下さい、何故なら、もしあなたがそのようにするなら、あなたの答えはあなたがそうであるに違いない或いはそうであるはずがないと考えるあなたの単なる認識にすぎないからです。もしあなたが「それは否定の状態である」と言うなら、あなたはそれをあなたが既に知っている何かと比較しているので「私は知りません」と言うその状態は存在していません。
 私は、あなたも同じようにあなた自身の精神を観察することによってこのことに付いてこられるように、この問題を声高に話して探究しようとしています。精神が「私は知りません」と言うその状態は否定ではありません。精神は追求することを完全に止めて、どのような活動も起こさなくなりました、というのはそれが未知と呼ぶものへ向かう既知のどのような活動も既知が思い描いたものにすぎないとそれは分かるからです。従って「私は知りません」と言うことができる精神はどのようなものも発見されうる状態の中にのみ存在します。しかし「私は知っている」と言う人、多種多様な人間的な経験を数限りなく研究してきて情報や百科事典的な知識を身にまとっている精神の人、そのような人は収集蓄積されることのない何かを経験できるでしょうか? その人はそれが極めて難しいことであると分かるでしょう。精神がそれの獲得してきた全ての知識を余すことなく脇へ追いやるとき、それにとっては仏陀もキリストも大師たちも教師たちも宗教も引用も存在しないとき、精神が完全に独存していて汚染されていないとき、即ち既知の活動が消滅したとき―そのときのみ途轍もない革命が、根本的な変質の可能性があります。そのような変化が明らかに必要です、そして少数の人たちだけが―あなたや私やXつまり自分自身の中にこの革命をもたらした人が―新しい世界を作ることができます、しかしその人たちは理想家でもなければ、知識人でもなく、計り知れない知識を持っている人たちでもなければ良い仕事をしている人たちでもありません、彼らはそのような人たちではありません。そのような人たちは全て改革者です。宗教的な人はどのような宗教にも、いかなる国家にも、いかなる人種にも属さず、内面的に独存していて、知らないという状態の中にいます、そしてその人は神聖なものに祝福されます。

質問者(Q) 精神の働きは考えることです。私は我々全てが知っている事柄について何年にもわたって考えてきました―ビジネス、科学、哲学、心理学、芸術など―そして今私は神について多くを考えています。多くの神秘主義や他の宗教関係の著述家たちの証拠を研究してから私は神が存在すると確信しています、そして私は私自身の思考をそのテーマに捧げることができます。これのどこが悪いのですか? 神について考えることは神の認識をもたらす助けにならないのですか?
クリシュナムルティ(K) あなたは神について考えることができますか? あなたはあなたが全ての証拠を読んできたので神の存在について確信できるのですか? 無神論者もまたその人の証拠を持っていて、その人も恐らくあなたと同じくらい研究してきて神は存在しないと言います。あなたは神が存在すると信じ、その人は神は存在しないと信じ、両者ともに信念を持ち、両者ともに神について考えています。しかしあなたがあなたの知らないことについて考える前に、あなたは思考とは何かを見出さなければならないのではないですか? どのようにしてあなたはあなたの知らないことについて考えることができますか? あなたは聖書やバガヴァッドギーターを読んできたかもしれませんし、様々な博識な学者たちが神は何であるのかを巧みに記述してあれこれ主張したり反論したりしている他の書物を読んできたかもしれませんが、あなたがあなた自身の思考的な過程を知らない限り、あなたが神について考えることは愚かで取るに足りないかもしれませんし、一般的にそういうことは愚かで取るに足りないのです。あなたは神の存在についての沢山の証拠を集めて、それについて非常に巧みな記述をするかもしれませんが、明らかに最初の問いかけは「どのようにしてあなたはあなたが真実であると考えることを知るのですか」ということになります。思考は知りえないものを経験できますか? それはあなたが情動的に感傷的に神についてのくだらぬ考えを受け入れることを意味しません。
 従って、条件づけを脱している何かを追い求めるよりも、あなたの精神が条件づけられているのかどうかを見出すことの方が重要ではないのですか? 明らかに、もしあなたの精神が条件づけられているなら、現にそうですが、それがどんなに神の真実を探究しても、それはその条件づけに従った知識や情報を収集するだけです。従って神についてのあなたの思考は全く時間の無駄であり、思索というものには価値がありません。それはこの木立の中に座ってあの山の頂上にいたいと願うようなものです。もし私が本当にその山の頂上に何があるのか、そしてその向こうに何があるのかを発見したいのなら、私はそこへ行かなければなりません。ここに座って思索したり、寺院や教会を立てたりして、それらのことに興奮するのは無駄なことです。私がすべきことは立ち上がって、歩いて、もがいて、押し進めて、そこへ行って発見することですが、殆どの我々はそうしようと思わなくて、ここに座って我々の知らないことを思索することに満足します。そのような思索は妨げであり、精神の堕落であり、それには何の価値もなく、それは更なる混乱と更なる悲しみを人間にもたらすにすぎないと私は言います。
 そのように神は語られえない何かであり、記述されえない何かであり、言葉にされえない何かです、何故ならそれは未知のままであるに違いないからです。認識的な過程が起こるや否や、あなたは記憶的な領域へ戻っています。お分かりですか? 例えば、あなたが途方もない何かの経験をします。その正に瞬間には「私はそれを覚えておこう」と言う思考者は存在しなくて、その経験の状態だけがあります。しかしその瞬間が過ぎ去ると、認識的な過程が生まれます。どうかこのことに付いてきて下さい。精神が言います「私は驚くべき経験をした、私はそれをもっと経験できたら良いのに」と、そして“もっと”というあがきが始まります。その“もっと”という貪欲的な本能や所有欲が様々な理由で生まれます―何故ならそれがあなたに快楽や名声や知識を与えるので、あなたは権威に、そしてそのような類のナンセンスなあらゆるものにあなたがなるからです。
 精神はそれが経験したものを追い求めますが、それが経験したものはすでに過ぎ去っていて死んでいるのであり消え去っています、そして現にあるものを発見するためには、精神がそれの経験したものを死んでやり過ごさなければなりません。それは毎日毎日育てられ、収集され、蓄積され、保持され、そして語られて書物にすることができる何かではありません。我々ができることは精神が条件づけを受けていることを見て取ることと、自己知を通じて我々自身の思考の過程を理解することだけです。私は私自身を知らなければなりませんが、私が思想的にそうありたいと思うのではなく、実際にある通りに、どれほど醜くても或いは美しくても、どれほど嫉妬深くても、妬みを抱いていても、貪欲であっても、実際にある通りの自分自身を私は知らなければなりません。しかし現にある通りの自分を、それを変えたいと思わずに見ることは非常に難しくて、その正にそれを変えたいと願うことが条件づけの別の形であるので、我々は条件づけから条件づけへと進んで活動し、決して限界づけられているものを超えた何かを経験していません。
 私は何年もあなたの言うことを聞いてきて、私自身の思考を観察することや私が行うあらゆることに気づいていることがとても上手になりましたが、私は決して深い水流に触れていません、或いはあなたの言う変質を経験していません。何故ですか?
 何故我々の誰もが単に見守ることを超えた何かを経験しないのは極めて明かであると私は思います。私に言わば雲の切れ目から鮮やかな空を見るような情動的な状態が稀に起こるかもしれませんが、私はその種のことを意味しているのではありません。そのような経験は全て一時的であり殆ど意味がありません。質問者は何年も見守ってきて彼が深い水流を見つけていないのはどうしてであるのかを知りたいと言います。何故彼は深い水流を見つけなければならないのですか? お分かりですか? あなたはあなた自身の思考を見守ることによって見返りを得ようと考えています―もしあなたがこれをすれば、あなたはあれを得るというように。あなたは全く見守っていません、何故ならあなたの精神は見返りを得ることに関心があるからです。あなたは見守ることによって、気づいていることによって、あなたはもっと愛するようになる、苦しみが減るようになる、苛立つことが減ってくる、何か超えているものを手にすると考えるので、そのように見守っているあなたは取引をしています。あなたはこのお金で何かを買おうとしていて、それは見守っているあなたが取捨選択をしているのであり、それは見守っているのでもなく、気をつけているのでもありません。見守ることは取捨選択をしないで観察することであり、あなた自身を実際にある通りに、自分を変えようという願いを起こすことなく見ることであり、それを行うのは極めて骨の折れることです、しかしそれはあなたがあなたの現在の状態のままでいようということを意味しません。もしあなたが自分自身をある通りに、あなたが見ている中に変化をもたらそうと願わずに見るなら、あなたは何が起こるか分かりません。お分かりですか?
 私は例を挙げて、あなたが分かるように、それを吟味しようと思います。私が暴力的な人間であるとしましょう、殆どの人たちがそうであるように。我々の文化は全て暴力的ですが、私は暴力の分析を今はしません、何故ならそれは我々が熟考しようとしている問題ではないからです。私は暴力的です、そして私は私が暴力的であるのを認めます。何が起こりますか? 私は直ぐに私がそれについて何かをしなければならないと反応します、違いますか? 私は私が非暴力的でなければならないと言います。それはあらゆる宗教的な教師が何千年にもわたって我々に言ってきたことです―人が暴力的であるなら人は非暴力的にならなければならないと。従って私はそれを実践し、思想的なあらゆることを行います。しかし今私はそれがいかに馬鹿げているのかが分かります、何故なら暴力を観察して、それを非暴力に変えたいと願っているその当のものが依然として暴力的だからです。従って私の関心はその当のものの表現にあるのではなく、その当のもの自身にあります。あなたがこれらのことに付いてきていることを私は願います。
 宜しいでしょうか、「私は暴力的であってはならない」と言うその当のものは何でしょうか? その当のものはそれが観察してきた暴力と異なりますか? それらは二つの異なった状態ですか? お分かりでしょうか、それともこのことは難しすぎますか? トークが終わりに近づいてきて、恐らくあなたは少し疲れています。明らかに、暴力と「私は暴力を非暴力に変えなければならない」と言うその当のものは同じものです。その事実を認めることが全ての葛藤に終止符を打つことです、違いますか? 私は暴力的にならないようにする精神の活動がそれ自身正に暴力の結果であると分かるので、もはや変えようとする葛藤が存在しません。
 そこで質問者は、何故彼はそれら全ての精神の表面的な格闘を超えていくことができないのかを知りたいと言います。意識的にも無意識的にも、精神がいつも何かを追い求めていると、その追い求めることこそが正に暴力や競争或いは全くの不満足感をもたらすことになるという簡単な理由を。精神が完全に静まっているときにだけ深い水流に触れる可能性があります。
 我々が死ぬとき、我々はこの地上に再び生まれるのでしょうか、それとも我々はどこか他の世界の中へ死ぬのでしょうか?
 この質問は我々全てにとって興味ある問題です、若い人にとっても、年配の人にとっても。ですから私はそれをやや深く検討しようと思いますので、あなたが十分に付いてきてくれることを願います、単に言葉の上だけではなく、私があなたと議論しようとしていることをあなたが実際に経験することを願います。
 我々はみな死が存在することを知っています、特に年配の人たちは知っています、そしてそれを観察する若い人たちも知っています。若い人たちは言います「それがやってくるまで待って下さい、そのとき我々はそれに対処するでしょう」と、そして年配の人たちはすでに死が近いので、彼らは慰めを与えてくれる様々な形のものに頼ります。
 どうか付いてきて、このことをあなた自身に当てはめて下さい、それを他人事にしないで下さい。あなたはあなたが死ぬことを知っているので、あなたはそれについて何らかの考えがあります、違いますか? あなたは神を信じます、あなたは復活を信じます、或いはカルマや生まれ変わりを信じて、あなたはこの世界や別の世界へ再生すると言います。それともあなたは死を合理化して死は避けられず、それは誰にでも起こると言い、そして樹木は枯れ果てて土壌を養い、そして新しい木の芽が誕生すると言います。それともあなたはあなたの日常生活の心配事や不安、嫉妬、妬み、競争、財産などで頭が塞がれていて死を考えることができません。しかしそれはあなたの精神の中にあって、意識的にも無意識的にもそこにあります。
 最初に、あなたは信念から、合理化から、或いはあなたが死について育ててきた無関心から自由になれますか? あなたはそれら全てから今自由になれますか? 何故なら、重要なことは、生きていて、十分に意識していて、活動的で、健康で、死がやってくるのを待たないで、死は事故やゆっくりとあなたの意識を奪うことになる何らかの病気であなたをあっという間に運び去ってしまいますが、いま死の館に入ることです。死がやってくるとき、それは生きることと同じように活力のある途方もない瞬間に違いありません。
 宜しいでしょうか、私は、あなたは、生きているときに死の館へ入ることができるでしょうか? それが問題です―再生があるのかどうか、あなたが再生する別の世界があるのかどうかではありません、それは全く未熟な何かで子供じみています。生きている人は決して「生きるとは何か」を問いませんし、その人は生きることについての理論を持っていません。中途半端に生きている人だけが生の目的について語ります。
 従って、あなたは、私は、生きているとき、意識的で、活動的で、我々の全ての能力を傾けて、それらの能力が何であれ、死が何であるのかを知ることができますか? そうすると死は生きることと異なりますか? 殆どの我々にとって、生きることは我々が永遠であると考えることの何らかの継続です。我々の名前、家族、財産、我々が経済的にも精神的にも既得権益を持つもの、我々が育んできた徳、我々が情動的に育んできたもの―それら全てを我々は継続したいと思います。そして我々が死と呼ぶ瞬間は未知の瞬間であるので、我々は恐れて何らかの慰めや何らかの種類の慰安を見つけようとして、我々は死後の生があるのかどうかなど他の幾多のことを知りたいと思います。それらは全て見当違いの問題であり、それらは怠惰な人たちや生きているときに死が何であるのかを見出したいと思わない人たちの問題です。そこで、あなたは、私は、見出すことができますか?
 死とは何ですか? 明らかに、それはあなたが知っているあらゆるものの完全な消滅です。もしそれがあなたの知っているあらゆるものの消滅ではないなら、それは死ではありません。もしあなたが死をすでに知っているなら、あなたには恐れることは何もありません。しかしあなたは死を知っているでしょうか? つまり、あなたは生きているとき永久ではない中に何か継続するものを見つけようと果てしなくもがくのを止めることができるでしょうか? あなたは不可知なものを、我々が死と呼ぶその状態を、生きているとき知ることができるでしょうか? あなたはあなたが書物の中で読んできた死後に何が起こるかの全ての記述を、或いはあなたの安楽を願う無意識な思いが述べる死後に何が起こるかの全ての発言を脇へ除けて、その状態を、途方もないに違いないその状態をいま吟味する或いは経験することができますか? もしその状態がいま経験されえるなら、生きることと死ぬことは同じです。
 従って私が、広く教育を受けている私が、膨大な知識を持っている私が、数知れない経験や苦闘や愛や憎しみを経てきた私が―そのような“私”が消えてなくなることがありえますか? “私”はそれら全てが記録されている記憶であり、その“私”が消えてなくなることがありえますか? 事故や病気で消えてなくなるのではなく、あなたや私はここに座りながらその消滅を知りえますか? そのときあなたはあなたがもはや死や継続性についての愚かな質問―死後の世界があるのかどうか―をしないのが分かるでしょう。そうするとあなたは自分自身でその答えを知るでしょう、何故なら不可知なものが生まれるからです。そうするとあなたは生まれ変わりに関する全てのくだらない長話や多くの恐怖―生きる恐怖、死ぬ恐怖、歳を取ってからあなたの世話を他の人たちに負わせる恐怖、孤独や依存の恐怖―を脇へ除けて、それら全てが消滅するでしょう。これらは虚しい言葉ではありません。精神がそれ自身を継続させようと考えないときのみ不可知なものが生まれます。
                          1955年 8月21日 オーハイ
                                  中野 多一郎 訳