クリシュナムルティ(K) 私は我々が会話を始める前に我々は基本的なルールを確認しておく必要があると思います。私は“討論”という言葉はやや場違いであると思います。討論というのは論争を通じて、意見の相違、判断の相違、個人々々の結論の相違を通じて行う説明や検討を意味します。私はその“討論”という言葉を我々は使うべきではないと思います、もし宜しければ。それよりも我々は、話し合う、一緒に物事を話し合うという意味の“対話”という言葉を使うべきであると思います。
では今日は何を話しましょうか? 本当に話し合うという意味は、非常に真剣な問題に関心がある二人の友人としてということです。二人の友人として互いに親愛の情を抱き、互いを思いやり、互いに気をつけて、互いに感じていることや考えていること、互いの問題が何であり、それをどのように解決するのかを本当に話し合うのです。もし我々がこの七日間を通じてそのようにできるなら、私はそれは有意義であろうと思います。
そこで我々には一緒に物事を話し合うためにある種の親愛の情が必要です、忍耐ではありません、何故ならその言葉は醜い言葉であり、そうするとあなた方は互いに我慢することになるからです―私はあなたに我慢し、あなたは私に我慢します。一方、もし我々が真剣に、思いやって、大いなる親愛の情を抱き、そして当然にも気をつけていて話すことができるなら、恐らく我々は我々の問題の何らかの解決に到達できるでしょう。そのようにしましょうか? では、今朝、我々は何を話しましょうか―ひとつの問題です、宜しいですか、一つのことです、その正に行き着く先まで行きましょう、毎日です―お分かりですか―そうするとそれは意義があるでしょう。
質問者(Q) 宜しいでしょうか、年配者と若者との間の違いがたった今ありました、そしてある種の…時間的な違いが…(聞き取れず)の人々の間の違いがあります。長髪と短髪との差異もあります。そこで、勿論、我々の精神の間にこの差異が存在します、しかしあなたが人々の前に立つとき、恐らくこの差異は必ずしも我々の関係の中に入ってきません、それらはいわば我々が人々を入れておくある種の箱に過ぎません。それらは…(聞き取れず)の間のいわば仕切りでは殆んどありません…は辞書的な存在であって我々が他の人と一緒にそれらの状況と向き合っているとき実際の存在としてではありません。しかし我々の精神の中にも我々の主な差異があります、長髪や短髪や黒色や白色などの間だけではなく、それらはいつも差異に過ぎない…(聞き取れず)…あなたが…その差異ではない…
K そうすると問題は何でしょうか?
Q 問題はどのようにして我々はこの分断を乗り越えたら良いのか…
K 明らかに多くのいわゆる若者たちは、長髪であろうと短髪であろうと何であれ、テントの中で、ここで、討論や対話が一緒にできるのかどうかを尋ねました、そこで私は我々がその種の集まりを持つべきであると考えました。それは若者と年配者との間に時間的な隔たりがあるということでなくて、若い人達が彼ら自身の問題を抱えていて彼らはそれを議論したいという感情です―それが全てです。
Q 私はそれに反対することを言いたかったのではありません、私はただ我々が我々の精神の中で行う差異の問題を…したかっただけです。
K 分かりました。宜しいですか。では今朝は何を話し合いましょうか?
Q 人間の精神を変質させることは可能ですか?
Q 私は人自身の内側の空間に気づかせないようにしているものは何だろうかと思います。人は自分自身を見守ろうと言います、そして彼は逃げようとしません、そしていつもその人は恐怖の中にいます、例えば人は落ち込みます、そして人は逃げ出したいと思います、煙草を吸うなど何でもします、そしてあなたは言います、「私は逃げ出しません、私は自分自身を見守ります」と。しかし人は依然として自分自身を見守りません、人は…を見ません。
K ではそれを取り上げることができますか? 一つの質問は、つまり、彼は問います、どうしたら私は自分自身を見守ることができるのか、無理やり自分自身を見守るのではなく、意図的に逃亡を避けるのでもなく、ただ自分自身を見守るのです。我々はそれを議論できますか? あなたは本当にそれを検討したいのですか? 宜しいですか。
何故、人は…自分自身を見守る必要性とは何ですか? 何故あなたは人が自分自身を見守るべきであると思うのですか? さあ、どうでしょうか。
Q 自分自身について学ぶこと。
K 自分自身について学ぶこと。私は実際に起こっていることを学ぶために自分自身を見守ります―事実として、理論的にではなく、抽象的にではなく―私の中で起こっていることを。私は学びたいのです。ではその学ぶという言葉はどういう意味ですか? 何故なら私は我々が異なった意味を持つ言葉を使うとき我々はそれをはっきりさせるべきであると思うからです。その“学ぶ”という言葉はどういう意味ですか? 私は自分自身について学びたいと思うのです。最初に、自分自身は生き物です、違いますか―宜しいですか―それともあなたはそれは生き物ではないと考えますか?
Q “自分自身”という言葉ですか?
K いいえ、言葉ではなく事実です―自分自身、“私”です。私は自分自身について学びたいと思うのです。宜しいですか? 我々は二つの言葉を検討しています、“学ぶ”そして“自分自身”です―言葉ではなくその言葉の内容です。自分自身は生き物です、違いますか―私は加えたり引いたりして存在しています―それは生き物であって物質や木の死んだ塊ではありません、何故ならそれはいつも動いているからです。違いますか? この点については明瞭ですか?
Q 何故我々は自分自身に関心を持ちたがるのですか?
K 何故我々は自分自身についてそんなに関心を持ちたがるのか。おーっ…
Q 私は自分自身を見守って自分自身について学びたいと思います、何故なら、良いでしょう、私が不幸であると言いましょう、そして私は逃げ出そうとしています、そしていつも…
K 待って下さい、我々はそこへ行こうとしています。
Q …それには何の意味もありません、そして私は私が…(聞き取れず)でないように自分自身について学べるようになりたいのです。
K そしてその婦人は問います、何故あなたは自分自身にそんなに関心があるのかと。
Q おーっ、私の言ったことはそれに答えていませんでしたか?
K はい、彼女は問います、何故人は自分自身にそんなに関心があるのかと。
Q 何故なら我々が不幸だからです。
Q 何故なら我々は自分自身を他の人と較べているからです。
K それは習慣ですか? それは必要なことですか? 関心を持たないこと、学ぶことは関心があることとは違います、明らかに。私は私の財産について関心があります、それを保持するために。私は私の犬に関心があります。私は私の庭に関心があります。しかしここでは我々は学ぼうとしています、それは自己中心的であること、自己中心的に関心を持つこととは全く違います。そのようにそれは明瞭です。
宜しいですか、私は自分自身について学びたいと思うのです。その“学ぶ”という言葉は何を意味するのですか? 自分自身を知ることと自分自身について学ぶこととの間に違いがありますか? お分かりですか? 御免なさい―細かな区別立てをしているのではありません―私はただ…私は学びたいのです、私は言葉の意味を明らかにしたいのです―お分かりですか―そうでないと我々は二つの異なったものを取り上げていることになるでしょう。従って私が私は自分自身を知りたいと言うとき、そして私が私は自分自身について学びたいと言うとき、それらの二つの言葉に違いがありますか?
Q 私にとってはあります―知ることは…
Q (聞き取れず)
K ちょっと待って下さい、この婦人が尋ねています。
Q 私にとってはあります。知ることは何か死んでいるもの、最終的なものでしょう、そして学ぶことは絶えず活動していることであり、絶えず私の…を追っていることです。
K その婦人は言います、自分自身を知ることは死んだ表現ですが、自分自身について学ぶことは絶え間ない活動であると。つまり、私は昨日あなたに会ったので私はあなたを知っています、或いは私はあなたに何年か会っているので私はあなたを知っています。私はあなたについてのイメージを持っています、そして私はそのイメージに更に何かを付け足すことができます、そうして私は言います「私はあなたを知っています」と。しかしその間にあなたは変わったかもしれません、しかし私は私が過去五年間に抱いたあなたのイメージを保持します。従って私が「私はあなたを知っている」と言うとき、私は私のあなたについての死んだ結論に基づいて判断しています。従って、我々はその“知る”という言葉を脇へ除けておくことができます。そうすると学ぶということはどういう意味ですか?
Q あなたが一瞬々々考えていることや感じていることに気づくことです。
K あなたが一瞬々々考えていることや感じていることに気づくこと。学ぶことです。
Q それはあなた自身についての情報を集めること…(聞き取れず)と私は思います。
K もっと話して下さい―私は努めて… もっと大きな声で。
Q 学ぶことは情報を集めることを意味する…と私は思います。
K あーっ。学ぶことは情報を集めることを意味する。宜しいですか―私に続けさせて下さい、少し続けても良いですか、それからあなたが続けて下さい。私は自分自身について学びたいと思うのです。自分自身は生き物です、自分自身は様々な経験や記憶や結論などの結果であり、それらの結論や記憶や経験を通じて人はいつも付け足していますが、それは死んだものではありません。そのようにそれは生き物です。私は自分自身について学びたいと思うのです―“学ぶ”とは生きていて、いつも変化したり、適応したり、順応したり、否定したり、押し退けたり、攻撃的であったりする自分自身について学ぶことを意味するのではないのですか―私はそれを学びたいと思うのです。
宜しいですか、学ぶためには私に好奇心がなければなりませんね? 違いますか? 何故なら私は自分自身について何も知らないからです。私はそれについて学ぼうとしているのです。しかしもし私が偏見を抱えてそうしようとするなら―偏見とは前もっての判断であり、前もっての意見です―私はそれについて学ぶことができません。宜しいですか? 従って自分自身について学ぶためには私はどのような偏見も持たずにそこへ至らねばなりません―違いますか―どのような結論もどのような判断も下さずに、そうでないなら私は学ぶことができません。私は…について学びたいと思うのです、私はイタリア語やロシア語を学びたいと思うのです。私はそこへ新鮮に赴くのでなければなりません、何故なら私はそれについて何も知らないからです。従ってもし私が自分自身について学びたいと思うのなら、私はそこへ結論を抱えて赴いてはならないのです。宜しいでしょうか? そうすると、これは難しいことになります。何故なら私が自分自身を見て私は言います「何て醜いのだろう」「何て美しいのだろう」「これは正しい」「あれは間違っている」―それらは全て前もって到達していた結論です、従って私は学んでいません。違いますか? それは…
Q 前もって限定しないでそれに取り組むことです。
K その通りです。では私は自分自身を偏見―賛成や反対―なしに観察できますか? もし私ができなければ学ぶことにはなりません。宜しいですか? では、どうぞ始めて下さい―我々は一緒に話し合っています。あなたは自分自身について学びたいと思うのです、そして私も自分自身について学びたいと思うのです。最初に私は自分自身について学びたいと思うのです、何故ならあなたと私の間に生物的な違いだけではなく心理的な違いがあり、それがあなたと私の間に分断を生み出し、あなたと私の間で、我々と彼らとの間などで争いが起こるからです。そこで私は何故この分断が起こるのかを見るために自分自身について学びたいと思うのです。宜しいですか? 学ぶことです。学ぶということはそれが絶え間ない活動であり、従ってそれは自分自身についての知識を収集蓄積することではないことを意味しませんか? どうかこの違いを見て下さい。宜しいですか?
Q (聞き取れず)
K それを我々は今行っているのです。
Q (聞き取れず)
K 待って下さい、私はそこへ行こうとしています、マダム―ゆっくり行って下さい。私は自分自身について学びたいと思うのです。始めに私は自分自身が生き物であることが分かります。そしてもし私が何らかの偏見を持ってそこへ赴くなら私は学ぶことができません。
Q 私はそれについて疑問があります、宜しいでしょうか。自分自身について学ぶように公式化することは私がそれを感じる仕方ではありません。私は私が自分自身である必要を感じます。もし学ぶことが起こると分離が起こります、そしてそれは苦痛なことであり、分離です。
K 私はそこへ行こうとしています―宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい、宜しいでしょうか。私にとってあなたはとても性急過ぎます。(笑) 私はそれを一歩一歩検討したいのです、宜しいでしょうか、そしてそれから自分自身で何故観察者と観察者が学ぼうとしている観察される対象との間に分断が起こるのかを見たいのです。では、観察者と観察されるものとの間に分断がありますか? 我々は明らかにしようとしています、宜しいでしょうか―ゆっくり行って下さい。我々はこの点について明瞭でなくてはなりません、何故ならそうすることによって我々はスムーズに進むことができるからです。学ぶことが意味するのは、知識としてのどのような形の収集蓄積も更に学ぶことを妨げることです、それは我々が既に知っていることへの追加にしか過ぎないでしょう。そのように私は私が自分自身について抱いてきた前もっての結論で自分自身を見ています。違いますか? それは学ぶことですか、もし私が…宜しいですか、私は自分自身について学びたいと思うのです、そして自分自身について学ぶためには、私は自分自身を何の結論も持たずに見なければなりません、違いますか? 違います?
Q 我々が私は生きている自己であると言うとき、我々はそこで推測しています。
K いいえ。私が私は生きている何かであるというとき、それは推測ですか、それともそれは事実ですか?
Q しかし我々が自分自身を理解して、我々が私は生きている自己であると言うとき、我々は我々が絶えず変化していることを意味します。
K はい。
Q それは生きていることを意味します。
K 生きていることを。
Q そうして我々は自分自身を発見します…
K 我々は自分自身を発見しています、我々は自分自身を観察しています、我々は自分自身について学んでいます。もし我々が偏見を持ってそこへ赴くと、事実としての自分自身の発見はありません。
Q 事実と結論との違いは何ですか?
K 私は聞こえません。
Q どうぞ黄色の質問紙を見て下さい、その黄色の紙に彼の質問が書いてあります。
K 彼は紙に質問を書きました―私は書きません。御免なさい。これは友人同士の討論、対話、コミュニケーションであり、話し合いです―どうしてあなたは私に紙を渡せるのですか、我々友人同士が二人ここに座っているときに。
Q (聞き取れず)
Q 彼には手元にマイクロホーンがなく、従って彼はそのような遠くから話すことができないと彼は言っています。
K 私はどうしてよいのか分かりません。
Q 宜しいでしょうか、あなたはいつあなたが事実を見ていると知るのですか、そしてどのようにしてあなたはそれとあなたが結論に達するときとを区別できるのですか? 私は事実と結論との間の違いが分かりません―あなた自身についての事実と結論に達することです。
K その紳士は言います、私は事実と結論との間の違いが分かりませんと。何としたことでしょう! ちょっと待って下さい、お話します。事実と結論です。事実は私が歯痛であることです。宜しいですか? 結論は私は医者へ、歯医者へ行かなくてはならないことです。一つは事実で、もう一つは結論です、私はそれについて何か…何かを知るために医者へ行かなければならないことです。宜しいですか、自分自身についての結論は私に事実を見させなくさせます。つまり、もし私が前もっての結論を持っているなら、それは偏見ですが、私は事実を見ることができません。それが我々の言っていることの全てです。
Q あなたはその例を、具体的な例を示すことができますか?
K 私は例を好みません、しかし彼は結論と事実との間の違いを知りたいと思いました。
Q そうすると私はあなたが言っていることをより理解することができます、つまり、自分自身についてのどのような偏見も私が自分自身を見ることを妨げるでしょう。
K それが全てです。私は自分自身を様々な結論で見ていますか? ですから私はその見ている当のものは何ものなのかを明らかにしたいのです―お分かりですか―学ぶことです。その当のものは何ものですか?
Q あなたはこれが生涯に亘るプロセスである…(聞き取れず)と言っているのですか?
K あなたは言うのですか、質問者は問います、生涯を通して人はどのような結論も持ってはならないと。あなたは明らかにするでしょう。おーっ、何ということか。あなた方は皆…あなたは一歩一歩付いてきていません、あなたは…しようと考えています、それが沢山の人達と話をしているときの難しさです。
ではもう一度始めさせて下さい。私は自分自身について学びたいと思います。私がもし何らかの結論を持っているなら自分自身について学べません。そして私は自分自身について非常に沢山の結論を持っているのが分かります―良いこと、悪いこと、私が偉大であること、愚かであること、これやあれです。では、それら全ての結論を集めているその当のものは何ものですか? 宜しいですか? あなたは付いてきていますか? そうしてそれらの結論は事実から分離します。宜しいでしょうか?
Q 宜しいでしょうか、私が私は悪いというとき、それは事実ですか、それともそれは結論ですか?
K 私が怒っている時、どのようにして私は知るのですか―それは事実かそれとも結論かを。
Q (聞き取れず)
K 怒りが事実で怒りについての意見が結論であることを私はどのようにして知るのかということです。宜しいですか? あなたは分かりませんか? 怒りについての意見や判断が結論です。そして私が怒っているという事実が事実です。お願いです。
Q (聞き取れず)
K それは分かります。二つのことが含まれています、違いますか、観察者とその観察者が観察するものです。宜しいですか? 観察者は言います「私は自分自身について学ばなければならない」と。宜しいですか? 従って観察者と観察されているものとの間に分断があります。宜しいですか―それは事実です。観察者は言います「私は私が観察するものについて学ばなければならない」と。つまり、観察者は言います「私は自分自身についての知識を収集しなければならない」と。違いますか? どうか考えて下さい、それを見て下さい。自分自身と観察者がいます。違いますか? 観察者は言います「私は自分自身であるこれについて学ばなければならない」と。では観察者と観察されているものとの間に分断がありますか?
Q 私の精神にとってはあります。
K 彼女の精神にとってはあります。何故、何故あなたは分断があると考えるのですか? 観察者は結論を下すその当のものですか、「私は自分自身について学ばなければならない」と言うその当のものですか? 違いますか? 観察者は過去の何かです、違いますか? 違うでしょうか? 観察者は言っています「私は沢山知っている、そして私は自分自身についてもっと学ばなければならない」と。観察者は言いません「私は何も知らない」と。違いますか? 観察者は言います「はい、私は自分自身について少し知っています、何故なら私は怒っているからです、私は私なりの考えを持っているからです、私は傷ついているからです、私は非常に沢山のイメージを持っているからです」と、そしてそれらのイメージや傷、それらの判断で彼は彼が“自分自身”と呼ぶものを見ます。違いますか? そうして私は自分自身に言います「私は学ばなければならない」「私はこれをしなければならない」―お分かりですか―と言っているこの観察者とは何ものなのかと。私がそれについて非常に明瞭になるまで私はこれ以上動けません。宜しいですか? この点について明瞭になって下さい。では、この観察者とは何ものですか?
Q “私”です。
K 待って下さい、ゆっくり行きましょう―結論に飛びつかないで下さい、ゆっくり行って下さい。あなたの中のその観察者とは何ものですか?
Q 私≠ナす。
Q もしあなたが、観察者とは何ものか、と言うなら、恐らくそれはあなたがそれをどのように言うかによります、しかし通常はもし私がそれを言うと、それは別の観察者がそれを言っています。
K いえ、いえ、いえ。お―っ! 違います、それをゆっくり見て下さい、ゆっくり取り組んで下さい。私は…私の存在の在り方は分断されています―違いますか―断片にされています、身体であり、心であり、精神です。私は私が傷ついているというイメージを持っています、そして私は愛して…―お分かりですね―私は非常に多くの断片にばらばらにされています。違うでしょうか? では、どうぞゆっくり行きましょう。では、それらの断片の中の観察者とは何ものですか?
Q 私の両親です。(笑)
K 自分自身です。
Q いいえ、私の両親です。
K あなたの両親。お―っ、何と…
Q 私の思考です。
K あなたの両親が観察者である、そうですか?
Q はい。
K あなたは真剣ですか? それとも私をからかっているのですか?(笑)
そうですか?
Q それは観察者と観察されているものとの間の分断です。
K それを我々は言っているのです。
Q それはもし私自身が言わばぴしゃりと打たれなければ起こります、そうすると私は…
K ちょっと待って下さい―私は叩かれたくありません、私は苦しんで明らかにしたくありません、私は叡智を働かせて観察したいのです。私はこのことのためにショックを受けたくありません、それは馬鹿げています。
Q 宜しいでしょうか、私には観察者と観察されるものとの間の分断は考えることから、私が自分自身について考えるときに起こるように思えます。
K 自分自身を見て下さい、それをまだ言葉にしないで下さい。それを見て下さい。あなたの中…あなたは断片的です、違いますか? では、どの断片が観察者なのですか?
Q 宜しいでしょうか、私は動機となっている何ものかを学んでいます、そこには断片があります。
K それは分かります。(笑) よかった 。
Q 何故あなたは我々が断片的であると結論づけるのですか?
K あなたは違いますか?
Q 私は断片的であると感じません。
K それではあなたは幸福な人です。(笑) それで終わりです。あなたが私は自分自身について学びたいと言うとき、それは断片的な発言です。違いますか? そのように一つの断片が観察者として力或いは権威を帯びます。違いますか? それが全てです。宜しいですか? この点について明瞭であって下さい。私が憎み、私が愛し、私が野望を抱き、私が貪欲なので、私は―お分かりですか―私は断片的です。それは何故私がそのように言うのかという問題ではなく、それは事実です。我々は調和の取れた全体ではありません―それは事実です。
宜しいですか、断片的であるので断片の一つが観察者として力を帯びます、従って彼がその分断を維持します。ではそれから離れないで下さい、その事実を見て下さい―断片の一つが観察者として権威を帯びる限り、その観察者は分断を維持します。違いますか? そこで私の次の質問は、どのようにして観察者は自分自身を…から自由にするのか、どのようにして観察者は自分自身を断片として分断しないようにするのかです。宜しいですか?
Q 自分自身を分断の原因として見ることによってです。
K 自分自身を分断の原因として見ることによって。あなたは自分自身を分断の原因として見ますか? 宜しいでしょうか、私は生意気な質問をしているのでなく、それは単なる言葉の表明、知的な概念ですか、それとも実際の事実としてあなたは観察者が分断の原因であると見るのですか? あなたはそのように見ますか? あなたはそのように感じますか?
Q 私はそのように感じます。
K そうすると観察者はいません。もし私が分断の原因はナショナリズムであると分かると―お分かりですか―従って戦争やその他の全ての原因がナショナリズムであると分かると、もし私が実際にその危険性が分かると、それで終了です、違いますか―私はもはやナショナリストではありません。では、同じようにもし私が非常にはっきりと観察者がこの分断を維持し、保持し、養っていると分かると―その危険性です、お分かりですね―観察者はいません。観察されているものだけがあります。
Q はい、しかし一時的に過ぎません―明日になるとそれは再び戻ってきます。
K 我々がその危険性を発見するのは一時的かもしれません。本当にそうですか? あなたは断崖絶壁の危険性を一時的に見るのですか? あなたは野生動物の危険性を一時的に見るのですか? それともあなたはそれはいつも危険であると見るのですか?
Q 宜しいでしょうか、私はこのことを私の個人的な意見として感じません、私は生がこのことを絶えず実証しているように感じます。
K はい。宜しいでしょうか、我々はこのようにナショナリズムは毒であると言うけれども、我々は戦争に寄与しています―違いますか―どこかの国民であることによって。そのように我々は分断を維持する観察者の危険性を決して悟りません。それが私の言っていることの全てです。あなたはその危険性が分かりますか?
Q いいえ。
K 分からない。正直になりましょう。あなたはその危険性が分からない。何故です? それを検討して下さい、時間をかけて下さい。何故あなたは分断の危険性が分からないのですか?
Q (聞き取れず)
K 待って下さい、言い訳を探さないで下さい。最初に事実を見て下さい。ドイツとロシアがあり分断されています、イギリス―お分かりですか―イタリア、インド、パキスタンがあり、分断につぐ分断で分断されています。それが紛争や戦争や憎悪の原因です。違いますか? そして人はその分断が最も恐ろしいものであると感じます。違いますか? では、何故あなたはこのことを感じないのですか? 何故あなたはそれを見ないのですか?
Q (聞き取れず)
K マダム、あなたはナショナリズムの危険性が分かりませんか?
Q 分かります。
K ではあなたは国家的ですか?
Q いいえ違います。
K それは非常に単純です、何故ならあなたはその危険性が分かるからです。
Q 宜しいでしょうか…
K それが全てです―それから離れないで下さい。何でしょうか?
Q 問題は我々がそれについての結論から見ることが分かるや否や…(聞き取れず)
K 分かりました。それを結論を持たないで見て下さい。あなたが結論を下すや否や、その結論が観察者になります。このことが分かりますか?
Q 結論が観察します。
K 単純に―一歩一歩。私は「私は自分自身について学ばなければならない」と言う観察者は何ものであるのかを問うています。観察者は私がそれから成り立っている断片の一つです。従って観察者がいるとき彼はその分断を維持します。違いますか? それは事実であって結論ではありません。宜しいでしょうか? それは事実です、インドやパキスタン、ロシア、中国の間に分断がある限り、紛争があるに違いありません。違いますか?
Q 宜しいでしょうか?
K 待って下さい。待って下さい。待って下さい。待って。紛争があるに違いありません。私の中に分断がある限り葛藤があるに違いありません。宜しいですか? (笑)
Q 宜しいでしょうか、国家はナショナリズムに依拠するのではないのですか?
K 何故あなたはそれをそんなに複雑にするのですか? 私はただ一つの事実から別の事実へ移っているのに過ぎません。一つの事実は観察者と観察されるものがあるということです。私が怒っていると私は自分自身に言います「私は怒っていてはいけない」と―分断があります。お分かりですか? それが全てです。
Q 私が非常に不幸であると感じるとき、私は働かなければならない、私は私が何について不幸なのかを見なければならないと私は言います…
K 待って下さい、待って下さい、それで十分です。宜しいですか、私が不幸なとき私は自分自身に言います「何故私は不幸なのか、その原因は何なのか」と。違いますか? そうするとそれは分断です、「何故私が不幸なのかを私は検討しなければならない」と言う観察者がいるのではないのですか? 宜しいでしょうか? では、観察者は彼が観察するものと異なりますか? ちょっと待って下さい、マダム、二秒間その質問を見て下さい。
Q (聞き取れず)
K 何ということでしょう。あなたは…さえしません。宜しいですか、私は怒っています、怒りがあります。怒っている瞬間には観察者がいません。それを見て下さい。あなたが幸せの瞬間には観察者がいません。一秒後に言います「何と私は幸せだったのか」と。怒りの瞬間には観察者がいません、一秒後に「私が怒るのはもっともだ」或いは「私は怒ってはならない」と言う観察者がいます。違いますか?
Q (聞き取れず)
K いいえ、その子供のことは放っておきなさい―我々がいかに一つのことから離れてしまうのかを見て下さい―あなたのことです。
Q (聞き取れず)
K 宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい。勿論我々は示しています、生が葛藤なしに生きられるのかどうかを明らかにしようとしています。ただはいと言い、それを理論にしてしまわないで下さい―我々は明らかにしようとしています。
Q (聞き取れず)
K マダム、それを見て下さい、あなたは私に問う必要はありません―それを見て下さい。私は幸せです。幸せの瞬間には観察者がいません、違いますか? 宜しいですか? ためらいながら言わないで下さい―そうであるかそうでないかのどちらかです。あなたが幸せのときです、あなたが怒っているときです、途轍もなく悲しく感じるときです。
Q (聞き取れず)
K あなたが「私は幸せだった」と言うのはそのほんの一瞬後です。「私は怒っていました」。違いますか? そうして分断が起こります。ではそれを見守って下さい―どうかゆっくり行って下さい。歓喜の瞬間には、大いなる喜びの瞬間には観察者がいません。その喜びは去って行ってなくなりました。そうするとあなたはその喜びを思い出します。違いますか? その思い出が観察者です。違いますか? このことに耳を傾けて下さい、どうかこのことに耳を傾けて下さい。
Q あなたは気づくはず…
K おーっ、どうか私の言うことに耳を傾けて下さい。私は幸せでした、そしてそれは消えてしまいました。その幸せの記憶が残っています―その記憶です。その記憶が「私はもっと幸せでいたいと思う」と言う観察者です。違いますか? そのように、思考としての記憶が分断する要因です。
Q 人は歓喜に気づけるはずです、私はそれに気づけます。
K 私は言いませんでした―あなたがそれに気づいていないとき分離の問題が起こります。何故我々はこのことについて単純になれないのですか? 宜しいですか、あなたは私を傷つけました、あなたは私を殴りました。その瞬間には―お分かりですか―それからその記憶が残ります。違いますか? そうして私は言います、私はあなたを殴り返さなければならないと。そのように記憶が観察者です。どうかこのことをあなたに当てはめて下さい、あなた自身でそれを見て下さい。あなたが大いなる歓喜に浸っているとき、あなたは考えません、違いますか? あなたは大いなる喜びの中にいます。それが消えるとその記憶が残ります、そしてあなたはもっとそれを望みます。違いますか?
Q いいえ、それはいつもそうであるとは限りません。
K それは必ずしもいつもではありません、勿論そうです。あなたはセックスをしました、その瞬間には観察者がいません。後になって、そのイメージ、その光景、その記憶、その想像が観察者です、そして観察者が言います…
Q (聞き取れず)
K 記憶は現在の一部ですか? それは存在するけれども、記憶は起こった出来事の、過ぎ去った出来事の結果です。
Q しかしあなたはいつもそれを望みません。
K マダム、あなたは何かを望みませんか?
Q 時々は望みます。
K 私は時々望むことを尋ねているのです。では何故あなたはそれを望むのですか? 何故ならあなたは楽しかった何かの記憶を持っているからです。その記憶が観察者であり、それが言います「それをもう一度持てたらよいのに」と。それが我々の述べている全てです。
Q (聞き取れず)
K 勿論です。
Q 何故それが問題になるのですか?
K 誰が問題を作っているのですか?
Q あなたです―それが我々の話していることです。
K あなたは優越的な態度でものを言っているのですか? (笑)
Q (聞き取れず)
K 私は非常に単純なことを問うているのです。私は観察者が何ものかを明らかにしたいのです。観察者を脱落させて観察するという事実を私は見ることができますか? それが私の問うている全てです。あなたは理解しましたか、今までのところ?
Q はい、一瞬、例えば昨日、いかなる…もしようとせずに自分自身を観察しました。
K その通りです。
Q (聞き取れず)
K それで十分です―ちょっと待って下さい。待って下さい。宜しいですか、一瞬の間、観察者なしに観察しました。違いますか? それは我々全てに起こります、それは不思議な何かではありません。では、何が起こりますか、その後で? 一度、一秒間、五秒間、或いは一分、あなたは観察者なしに、それは過去ですが、観察します―あなたは観察しました。違いますか? では、何が起こりますか、次に?
Q 思考です。
K 待って下さい。
Q 私が思うに、もし人がそのように観察することができさえすれば…のように思われます。
K 私はあなたに示そうと思います。あなたはその記憶があります、違いますか? そしてあなたは言います「生をそのように生きられたらよいのに」と。それはどういうことですか? このことに注意深く耳を傾けて下さい。その経験が記憶になります―違いますか―そしてその記憶が言います「生はそのように生きられるべきだ」と―それは結論です。従ってその記憶が次の機会にあなたにその経験をさせることを妨げます。それが全てです。ですから結論づけてはいけません。あなたは途轍もなく明瞭なその瞬間を経験しました―それで終わりです。「私はそれをもっと経験しなくてはならない」と言わないで下さい。「それをもっと」と言うのは「どんなにかそれは喜ばしいことであったことか、私はそれをもっと経験しなければならない」と言う観察者です。彼が問題を作ります。宜しいでしょうか?
Q 私はテレビで映画を見ました―そのときには観察者がいません。
K 全くその通りです。
Q それが我々の話している全てですか?
K おーっ、いいえ―映画ではありませんよ、君―違います、違います。
Q そうすると我々が探している他の何かがあります、その映画を見ることだけではなく。
K 宜しいでしょうか、あなたが映画を、その映像を見るとき、何が起こっていますか?
Q 観察者がいません。
K 待って下さい、待って下さい、それを見て下さい、それはそこにいます。それはそこにいないけれども…(笑) それはそこにいます、あなたはそれを見ています―何が起こりますか? それは興奮する場面です。
Q あなたは完全に夢中になります。
K あなたは夢中になります、違いますか? 待って下さい、ゆっくり行って下さい。ゆっくり行って下さい。あなたはその出来事に、その場面で起こっていることに夢中になります。違いますか? 子供はオモチャに夢中になります。
Q (聞き取れず)
K あなたは夢中になります。つまり、その映画があなたの全ての思考や観察者を締め出します、というのはそれがとても興奮させるからです、もしそれが、子供がオモチャに夢中になるように興奮させるのなら。宜しいですか、生はその映画ではありません。
Q その瞬間はそうです。
K 待って下さい―何故ならそれは逃避だからです。あなたはあなたの外側の何かに夢中になります。
Q 逃避している“あなた”はいません。
K 宜しいでしょうか、あなたは夢中になります、違いますか?
Q 観察者はいません。夢中になっているあなたはいません。
K 待って下さい、ゆっくり行って下さい。あなたは夢中になります、違いますか、その場面に。
Q あなたが“あなた”は夢中になると言うので、その言い方は捻じ曲げられています。
K いえ、いえ。その場面がとてもわくわくするのであなたは暫くの間存在しません。違いますか? それを様々な言い方で言って下さい。そこでは何が起こっていますか? その場面は全ての思考を差し当たり脇へ追いやりました。違いますか? あなたがその映画を見終わって家へ帰ったとき、その家にいるあなたのことを我々は話しているのであってその映画ではないのです。
Q 私はその映画のことを話したくありません…(聞き取れず)
K 待って下さい、待って下さい、待って下さい。そのようにあなたはその映画に夢中になります。他の人は教会へ行くことに夢中になります、他の人は本に夢中になります、他の人はビリー・グレアムに夢中になります。待って下さい、待って下さい、一歩一歩行って下さい。
Q 私はあなたが何故私は最初に映画へ行くのかについて話そうとしていると思います。
K いいえ、私は何故あなたが映画へ行くのかについて話そうとしていません、私は興味がありません。
Q (聞き取れず)
K 私はそう言っているのです。
Q 我々はそれを一緒に議論できますか、何故なら私はそのとき観察者がいないと言っているからです。
K なるほど。
Q そして我々は対話でその点に至りました。
K なるほど、私はあなたに同意します。
Q そこで、私の次の質問は、我々は…以上の何かを話しているのか…
K それ以上です、それ以上です。
Q それが我々の知りたいことです。
K (笑) それを私は言っているのです。それ以上です。私の生は映画館にはありません、私の生は本に食い尽くされていません、私の生は山を見ることに没頭していません、私の生は現にある通りの私です。それらは差し当たり私を夢中にさせるかもしれませんが、それらがないとき私は自分自身に戻ります。それがないときの自分自身について私は話しています。私はそれが逃避だとは思いません、何故私は行くのか―私は私が映画館にいないときの、本を読んでいないときの、何かわくわくする白痴的なことに耳を傾けていないときの自分自身について話しています―私はただ自分自身を見守っています、それが全てです。
Q (イタリア語で)
K 分かりました。その紳士は言います、それは観察者と観察されるものについてのあなたの考えであって、それは我々の学んでいることではない、それは我々の事実の…ではないと。
Q (イタリア語で)
K はい、それは我々の自発的な考えではありません。それは極めて単純です。そこで私はあなたに今尋ねています―あなたの自発性は忘れて下さい、自分自身を見て下さい、自分自身を見守って下さい―人が観察しているものと異なる観察者は存在しないのですか? それが全てです―それは事実です、違いますか? あなたが自分自身を見るとき、あなたは潜在意識を持つことも、人から語られる必要もありません、あなたが観察するとき、それが事実です。宜しいですか、あなたは鏡を手にしています―あなたが鏡の中のあなたを見るとき何が起こりますか? その鏡像はあなたではありません。違いますか? その鏡像は内面的にあなたとは異なります、それを見ているのは、自分自身を鏡の中で見ているのはあなたではあるけれども、内面的に鏡像の作り手がいます、そして…を作る装置… いいえ、鏡像があり鏡像の作り手がいます。それが全てです。
Q 宜しいでしょうか、私は我々が環境的な圧力に取り巻かれていると言おうと思います。
K 勿論です、それが一つの要因です。我々は外的な圧力に埋もれています。違いますか? 誰がそれらの外的な圧力を生み出したのですか? それを検討して下さい―誰がそれを作り出したのですか? 社会ですか? 政治家ですか? 医者ですか? 科学者ですか? そうですか?
Q 我々全てです。
K それはあなたのことです。従ってあなたは―このことに耳を傾けて下さい、それを見守って下さい―あなたは外的な圧力がいつも我々にのしかかっていると言います。そしてそれらの外的な圧力はあなたが選んだ政治家たちであり、戦争屋であり、軍隊です―お分かりですか―ビジネスマンです―あなたはその一人です。違いますか? 違う?
Q いいえ。
K 待って下さい、待って下さい―ですからあなたはあなたが作り出した圧力によって押しつぶされています。
Q はい。
Q 宜しいでしょうか、私は自分自身の中に沢山の動機を見ます、沢山の標準的なものを見ます、そして一つ一つの動機が観察者になります―そうですね?
K 全く同感です。
Q はい。そして私がそれを見るとき、私は全ての観察者がそれらの動機であると分かります。更に観察者はいつも誤りですか? 観察者はいつも断片ですね。(列車の音)
K はい、そうです。ちょっと待って下さい。列車の音をやり過ごしましょう。宜しいでしょうか、私はそれが分かります、では宜しいでしょうか、我々は話してきました―今何時ですか?
聴衆 (聞き取れず)
K なんと! 我々はお互いに一時間耳を傾けてきました―何をあなたは学んだのですか? あなたは学びました、私があなたに語ったことではなく―何をあなたは学びましたか?
Q (聞き取れず)
K 学んだということは事実を意味します、あなたがそれを事実として自分自身で知るということです。あなたは自分自身で観察者が過去のものであることを事実として学びましたか? 待って下さい―あなたはそれを学びましたか?
Q はい。
K では、学んだということはどういう意味ですか?
Q (聞き取れず)
K あなたはそれを学びましたか? あなたは観察者がいるとき分断があるに違いない、葛藤があるに違いないという事実が分かりました―宜しいですか? あなたはそれを激しい雷雨に会うように、危険に出くわすように、動物を見るように見ますか? お分かりですか? それは現実であって結論や観念ではありません。それが全てです。
Q (聞き取れず)
K その通りです、宜しいでしょうか、あなたはそれを見ていません。
Q それを妨げるのは何ですか? その…(聞き取れず)を妨げるのは何ですか?
K 何故あなたはそれを尋ねるのですか? あなたは何があなたを妨げるのか尋ねています。何があなたを妨げるのですか? ちょっと待って下さい―私はあなたに尋ねました、あなたが危険なことや断崖絶壁を見るときのように、危険であると知って毒を飲まないときのように、この事実を見るのを妨げているのは何ですかと。さあ、そのようにはっきりとこの事実をあなたに見させないのは何ですか? 待って下さい―あなた自身に問うて下さい、私にまだ答えないで下さい。それは怠惰ですか? それはあなたにエネルギーがないからですか? それともあなたはそれを見たくないのですか? 何故ならもしあなたがそれを見ると事態が変わるかもしれないからです。お分かりですか? あなたの生が変えられるかもしれません。従ってあなたはそれを見るのを怖がっているのです。あなたは言います「私はそれを見ません、私はそれを見ません、私はそれを見ません」と。
Q (聞き取れず)
K いいえ、宜しいでしょうか、私は尋ねています、その紳士は尋ねました、何故私はこれをはっきりと見ないのかと。あなたの精神は怠惰なのですか―お分かりですか―活動的で「私はこれを明らかにしなければならない」というエネルギーを持っていないのですか、何故なら精神が他の人達の観念を糧にしてきているからです―お分かりでしょうか―引用を糧に生きているからです、二番煎じの装置になっているからです。従ってそれは言います「私はこれを見ることができない」と。従ってあなたがそれを見ることができないかどうかは忘れて、あなたの精神が二番煎じなものかどうかを明らかにして下さい。お分かりですか? それです。そしてあなたがエネルギーを持たなければならないことを見て取ることです、違いますか?
そうすると、それほど浸透していて、それほど説得力があって、それほど事実に基づいているこのことを私が見ないのは何ですか―私の生涯を通じてこの有様です―私はヒンズー教徒です、私は仏教徒です、私はキリスト教徒です、私は共産主義者です、私は若い、私は年寄り―お分かりですか―私は良い、私は悪い、イエスは正しい、そして私は間違っている―お分かりですか―この分断です。そして何故私はこの分断がどのような形であれ、外面的、政治的、宗教的、心理的に恐ろしいものであると見ないのですか―何故私はそれを見ないのですか? ユダヤ人であれ、異邦人であれ、アラブ人であれ―お分かりですか? 何故あなたはそれを見ないのですか?
Q 宜しいでしょうか、それは我々がそれに同意していて、我々はその同意の責任を取ろうとしないからですか?
K その通りです、私はそれを言っているのです。そしてこのことが更に戦争を生み出します―お分かりですか―このことがあなたを破壊しようとしています。 はい、正にそうです。
Q 何故なら我々は考えることを学んでこなかったからです、そして我々は学ぶことができると考えるからです。
K 我々は考えることができませんか? 何故あなたは考えることができないのですか?
Q 我々はそれを決して実践してきませんでした。
K 我々はそれをここで行っています。お分かりですか―それを行って下さい、明らかにして下さい、時間を掛けて下さい。あなたはここにいて、座っています、話しています―何故あなたはこのことを見ないのですか? あなたは怠惰なのですか? あなたは怠惰ですか? はい、それは一つの要因です。待って下さい、それを受け止めて下さい―あなたは怠惰です。何故あなたは怠惰なのですか? その行き着く先まで行って下さい、「私は怠惰である」とだけ言って呑気に構えないで下さい。(笑) 何故あなたは怠惰なのですか? あなたは過食しました、すき放題に振舞いました、或いはあなたは正しい食事を十分取りませんでした―明らかにして下さい。
Q (聞き取れず)
K そこで、あなたは言います「この葛藤がエネルギーを破壊している」と。待って下さい。そうすると何故あなたはそれを止めないのですか? それをどのように止めたらよいのか明らかにして下さい。私は尋ねています、従って、それを探究して下さい、それを検討して下さい。つまり、観察者がいる限り―宜しいですか―葛藤があるに違いありません。ナショナリティがある限り紛争があるに違いありません、あなたがキリスト教徒で他の誰かがイスラム教徒である限り争いになるでしょう。
Q では何故探究することがそんなに難しいのですか?
K 何故探究することがそんなに難しいのか。何故ならあなたはこれまでにそれを行ってこなかったからです、何故ならあなたはいつも一方的に教え込まれてきたからです、何故ならあなたはいつも他の人達が言ったことを、心理学者が言ったことを、宗教的な人が言ったことを、聖職者が言ったことを、教授が言ったことを受け入れてきたからです―あなたは「私は知りません、私は明らかにしようとしています。そして私は私が知らない言葉は繰り返しません」と言いません。違いますか?
Q 宜しいでしょうか、それは私がこのことを理解するのを今のところ難しくさせます、しかしあなたが言うように、それは危険です、最初の観察者は危険であると言う二番目の観察者がいます。
K いいえ。いいえ。いいえ、違います。宜しいでしょうか、あなたはインドでの、パキスタンとインドとの最近の戦争について聞きましたね? 宜しいですか? 聞きませんでしたか? イスラエルとアラブ世界との戦争―それは事実ですね? そして事実が示しています、生に対するアラブ的な見方とイスラエル的な見方がある限り紛争があるに違いありません―それが全てです。
Q 観察は間違っていると言う継続的な新しい観察者がいるように思われます。
K いえ、いえ、いえ―それは結論です。それを見て下さい、あなた―あなたではない―人は結婚しています、あなたは男の人或いは女の人と関係性を持っています。二つの実体がありますね? 分断がある限り、生物的なそれではなく、心理的な分断が二つの間にある限り葛藤があるはずです。あなたはイメージを抱きます、彼女もイメージを抱きます、そして葛藤があるに違いありません。イメージはあなたの結論です―彼女は良い、彼女は悪い、彼女はあなたが馬鹿げた白痴的な男であるとか何やかや考えます。
Q 肉体の死のあと気づきはどこで起こりますか?
K 肉体の死のあと気づきはどこで起こるか―我々はその地点にきていません。どうかこのことから離れないで下さい。もしあなたがひとたびこのことを深く理解するなら、あなたがこの事実を見るとき、あなたは自分自身であなたが誰にも頼る必要のないことが分かるでしょう。さあ、宜しいでしょうか。
Q 人は観察者がいなくて記憶しますか?
K はい。あなたに示しましょう―それは良い質問です。あなたは知識をその知識が断片の一つによって使われることなしに持つことができるのか。違いますか? 宜しいですか? あなたは私の質問を理解しましたか? 私はあなたの質問を言い直しましたか?
Q もう一度繰り返していただけませんか? 私は分かりませんでした。
K それを繰り返します。私は知識を持っています。頭脳の一部である収集蓄積された知識があります―宜しいですか―その記憶です、それは知識であり、経験であり、過去です。そこで、断片の一つがその記憶を―宜しいですか―知識をそれ自身の利益のために使います、それはその知識を利用します。私はあなたがこれを理解していないのが分かります―もう一度始めましょう。質問者は問いました、知識は、記憶は、何世紀にも亘って集められてきた全ての科学技術的な個人の中の記憶は、観察者がそれを使って分断を作り出すことなく留まることができるのかと。あなたは質問を理解しましたか?
Q (聞き取れず)…この知識、記憶、それは観察者がそれを使うことなく存在できるのか?
K その通りです。あなた方はその質問を理解しましたか? 科学的な知識があります、人間が何千年にも亘って集めてきた全ての知識があります―宜しいですか―それは過去のものです。全ての知識は過去のものです。私はそれに付け加えることができます、もっともっと付け加えることができます、しかしそれはいつも過去のものの中です。宜しいですか、その知識が我々の互いの関係性の中で使われると衝突が起こります。違いますか?
Q (聞き取れず)
K 待って下さい。私はあなたと暮らしてきました、友達として、妻として、夫として、男子或いは女子として―私はあなたと暮らしてきました。私はあなたのイメージを持っています、私は我々の関係の中で一連の記憶や出来事を積み上げました。それらの出来事やそれらの経験やそれらのイメージは知識です。違いますか? その知識が私とあなたを分断します。違いますか?
Q 何故そうなるのですか?
K 何故そうなる? 何故なら私が過去の中を生きているからです。
Q しかし誰もが過去の中を生きているのではありません。誰もが過去の中を生きてはいません、何故我々は過去の中を生きているのですか―あなたは我々が過去の中を生きていることを当然のように言います。
K 私はそのように言っていません―私は指摘しているのです、マダム―私はあなたが過去の中を生きていると言っていません―私に腹を立てないで下さい。私はただ指摘しているだけです、あなたがそれらの記憶を、私についてのそれらの記憶を持っている限り、或いは私があなたについての記憶を持っている限り分断が起こるはずであると。私はあなたが過去の中を生きていると言っていません―私はただ指摘しているだけです。宜しいですか、知識は必要です―お分かりですか―そうでなければ私は橋を作ることができません、私は家へ帰れません、私は自転車に乗れません、私は英語が話せません。しかし過去であるその知識が我々の関係性に干渉するとき分断をもたらします。それが全てです。そしてその分断が葛藤です。私はあなたに葛藤がないとかあるとかと言っていません―それを明らかにするのはあなた次第です。そのように知識は余すことなく非個人的に使用されえます―違いますか―しかしその知識が個人的に使われるとそれは分断を作り出します。それが全てです。
Q (イタリア語で)
K 誰がその知識を使うのですか? 質問に耳を傾けて下さい―誰がその知識を使うのです。仰って下さい、誰がその知識を使うのですか?
Q 観察者が…
K 誰がその知識を使うのですか?
Q 自己です。
Q あなたは誰がその知識を使うのかとは言えません。何がその知識を使うのかと言えません。
K 我々はそう言えるのか言えないのかを明らかにしようとしています。
Q そのように問うのは罠です。
K 待って下さい―彼はそれを問いました。彼はそれを尋ねました。あなたが「宜しいですか、その質問には根拠がありません」と言うか、それには根拠があるのかのどちらかです。
Q それは不適切な質問です。
K 我々は明らかにしようとしています。
Q わたしはそれが分かります。
K あなたはそれが分かる。もし彼がそれを分かるなら彼はそれを問わないでしょう。彼がそれを問うので我々はその質問に根拠があるのかないのかを明らかにしなければなりません。彼の質問は、誰がその知識を使うのかです。知識があります、意識的にも無意識的にも、それは“私”です。違いますか? 私がその中で育てられてきた文化、伝統、宗教的な信仰、迷信―それら全てのものは私が持っている知識です。その知識があります。宜しいでしょうか? では誰がその知識を使うのですか? 誰が―それを見て下さい―誰がその知識を使うのですか? それはそこにあります―違いますか―私はそれを否定できません、私は、まあそうですね、それは存在しませんとは言えません―それはそこにあります。いつその知識が働くのですか? さあ、どうでしょうか、検討して下さい、私が答えるのを待たないで下さい。いつその知識が働くのですか?
Q 観察者が知識から記憶を引き出すときです。
K それをもっと単純にして下さい。私の質問は、あなたはこの収集蓄積された全ての知識を持っています、意識的にも無意識的にも、そしてそれはあなたの意識の内容です―違いますか―私はあなたに言います、いつこの知識が行動に結実するのですかと。あなたは自分自身にそれを答えます―お分かりですか―あなたは私や本に頼っていません。
Q 私がそれを必要とするとき。
K 待って下さい―あなたがそれを必要とするとき。それを必要とするとはどういう意味ですか? 待って下さい―宜しいでしょうか、ゆっくり話して下さい―私はあなたの言うことが分かりません。もしあなたが実際にそれを行わないのなら、自分のことではないものを繰り返さないで下さい。私はいつこの知識が働くのかを尋ねています。
Q 行動がそれを必要とするとき―行動がその知識を必要とするとき、それは私を通じて行動します―私の手を通じて、私の…を通じて…
K はい―いつそれが働きますか? 何故あなたはそのような…私は性急であってはなりません―続けて下さい。
Q あなたが思い出したいとき。
K 宜しいでしょうか、私はあなたの名前を尋ねます。あなたは答えませんか?
Q (イタリア語で)
K 彼は言います、外的な刺激からと。私はあなたにあなたの名前を尋ねます。記憶が、収集蓄積された記憶が応えます。それをよく見て下さい―ゆっくり行って下さい。あなたはあなたの名前を非常に良く知っているので、あなたはそれを何千回と繰り返してきました。違いますか? 知識があります―それは挑戦を受けると応えるだけです。違いますか? ではもう少し進んで下さい。私はあなたに尋ねます、その距離はどのくらいですか、或いはもっと複雑な何かを尋ねます、そしてあなたはその質問と答えの間に時間をおきます、違いますか? 宜しいですか? その質問と答えの間に何が起こりますか―時間的な隔たりがあります―何が起こりますか?
Q 思考です。
K いいえ。
Q 記憶です。
K 何が起こるでしょうか? 私はあなたにこの場所とジュネーブとの間の距離を尋ねます―あなたは何と言いますか? 何があなたの中で起こりますか? あなたは思い出そうとしています、違いますか? はい、と言って、誰かがあなたにそれは九十キロ、或いは八十キロ、私自身はよく知りませんが、と言いました―お分かりですか? 精神は検討しています、そうですね、それを見ています、明らかにしようとしています―違いますか―そしてあなたは、はい、それは九十キロ或いは百キロですと、まあそのようなことを言います。そこで私はあなたにもっとずっと複雑なことを尋ねます、そしてあなたは言います「私は本当に知りません」と。お分かりですか? つまり、あなたはそれを良く知っていると即座に答えます、あなたの名前を聞かれると即座に答えます、そしてもっと複雑な質問ではあなたは時間をかけます。違いますか? それは一日かもしれません、あなたは本を開きます、あなたは人々に訊きます―あなたは時間をかけます。そうすると問題が起こります、あなたは言います「私には知識がないので私は本当にどう答えてよいのか分かりません」と。違いますか? そのように知識は挑戦に応じて答えます。もしその答えが不適切なら―お分かりですか―適切ではないなら、完全ではないなら、観察者が生まれます。あなたはこのことが分かるでしょうか。
私は何か新しいことを言っています。あなたは私の言っていることが分かりますか? 分からない―私は嬉しい、私はそれを説明できる。宜しいですか、私があなたに質問をするとき、あなたの名前を聞くとき、それは適切な、完全な答えです、宜しいですね―違いますか? その中には葛藤がありません、そうですね? では、私はあなたに時間を必要とするもっとずっと複雑なことを尋ねます、そしてもしあなたがその挑戦に対する答えを見つけることができるなら、それは完全な答えです、その中には葛藤がありません。違いますか? では、もし私があなたにあなたのそれに対する答えが適切ではない、完全ではないことを尋ねたら、何が起こりますか? 葛藤が起こります、違いますか? 起こりませんか? さあ、どうですか。
Q 暫くしてから私は諦めます。
K あなたは諦めます。しかしもしそれが答えられなければならない質問なら、生死に関わる質問なら―お分かりですか―それは危機です、そしてその危機の中で、もしあなたが完全に答えないなら、葛藤が起こります、違いますか? どうでしょうか。そしてその葛藤はその不適切さです、そしてそれは観察者であり、それは記憶に依拠しています。どうですか―それは単純です―分かりましたか? なんと!
Q (聞き取れず)
K 従って、どのような挑戦に対しても、もし完全に応えるなら観察者は働いていません。それはあなたにとって結論です、私にとってではありません、何故なら私はそれを見て取るからです、それは事実だからです。お分かりですか? そこで私は自分自身に言います、私は生きられるのかと、その中であらゆる挑戦が余すことなく応えられる生き方があるのかと―数学的な問題ではありません―お分かりですか、何故なら私は知らないからです、私は数学的な問題を知りません―関係性の中のどのような挑戦にもです、そしてそれが生の中でもっとも大切なことです、数学だけではなく、何故なら関係性の中に、その関係性の中に挑戦があるからです、私は、私の精神は余すことなく応えられるでしょうか? そうすると、もしそれが余すことなく応えられるなら葛藤がありません、従って観察者がいません。その事実をただ見て下さい、それを見て下さい、それを呑み込んで下さい、それを噛み砕いて下さい、それをあなたの一部として下さい。
そうすると、あなたの生の中で、日常的な生活の中で、そしてそれは関係性ですが、あなたはあらゆる関係性に余すことなく応える生き方ができますか? それはあなたがその関係性の中で途轍もなく感受性が鋭敏で、エネルギッシュで、そして気づいていなければならないことを意味します―あなたが料理人と話しているとき、あなたの使用人と話しているとき、或いはあなたの上司と話しているとき、或いは工場で話しているときなどです。
二時です―このことから離れましょう。
1972年 8月2日 ザーネン 対話 1
中野 多一郎 訳