クリシュナムルティ(K) 瞑想の中の精神について我々は今朝話しませんか。それはとても複雑で微妙な問題です。もし人が瞑想とは何か、本当の瞑想とは何かを知らなければ、私は人が生の中のあらゆるものを見失うと思います。それは牢獄の中にいるようで、その中であなたはあなたの前の壁を見るだけであり、その限界を、その苦痛を、その悲しみを、そしてあなたの監禁生活を作り上げている全ての取るに足らない狭小なものを見るだけです。そのように私には瞑想は我々の誰にとっても非常に直接的で身近な問題であるように思えます、何故ならそれは生の全活動を理解するための瞑想の中の精神の取り組み方を要求するからです。
しかしこの瞑想の中の精神の探究を共有することはそれ自身かなり難しい問題です。共有するということは耳を傾けている人達の側の興味を意味します、違いますか? そしてそれは我々が話していることを観察すること、それに参加することを意味します。もし私があなたに「あの花を見て下さい、あれは何と美しいのでしょう」と言うなら、あなたは、もしあなたの精神が安らかで従って観察する状態にあるのみなら、その花の美を共有できます。別の言い方をすれば、あなた自身の精神が他の精神と同じレベルで同じ瞬間に出会えなければなりません、そうでないならその経験を共有することはありえません。私が興味を持っていてあなたは興味を持っていない何かを我々は共有できません。私は指摘したり、描写したり、説明したりするかもしれませんが、もしあなたが私と同じ観察レベルで同じ熱気で同じように心で感じていなければ共有することはありえません。
これは誇張的な言い方ではなく、これは日常的な事実です。あなたはあなたの友人に「あの驚くべき夕陽を見て下さい!」と言うかも知れません、しかしその友人がその夕陽の美に興味がなければ、あなたはそれを彼と共有できません。同じように、どのような問題でもそれをあなたの妻やあなたの夫やあなたの隣人と共有するためには、その中でお互いに同じものに即座に気づく親しい交わりが要求されます。
それでは、我々が瞑想の重要性を共に感じることができるのかどうかを、そしてそれと共にその美に、その意味するものに、その微妙さに気づくことができるのかどうかを見てみましょう。はじめに、その“瞑想”という言葉はあなたにとって非常に特別な意義を持つのではないのですか? あなたは直ぐにある姿勢をとって座ること、ある仕方で呼吸すること、精神をあるものに集中させることなどを考えます。しかし私にとってそれは瞑想では全くありません。私にとって瞑想は全く異なるものです、そしてもしあなたと私がこの瞑想とは何かを共に探究することになるなら、あなたは明らかにあなたの偏った見方やあなたの瞑想に関する条件づけられた考え方を脇へ除ける必要があるでしょう。それは本当だと私は思います、我々が政治を議論しようと、或いは特定の経済システムを議論しようと、或いは我々の間の関係性を議論しようと。そのような話し合いやそのような議論或いはやり取りは、何らかの価値があるなら、共有するプロセスでなければなりません、しかしもし我々のいずれかが何らかの結論や何らかの固定的な観点から始めたら共有することはありえません。もしあなたがある特定の形のいわゆる瞑想にふけっていて相手がそうではないなら明らかに共有することはありえません。あなたはあなたの偏った見方や経験を手放さなければなりません、そして彼も彼のそれらを手放さなければなりません、その結果両者が問題を検討できて瞑想とは何なのかを共に明らかにできます。
もしあなたと私がこの問題を共に理解することになるなら、それは非常に微妙で複雑な問題ですが、あなたは私の言っていることに心を奪われないことが肝心です。もしあなたがその説明を越えたものを明らかにしようとする代わりに、単にそれを受け入れたり拒絶したり、或いはそれをあなた自身のやり方で解釈したりしたら、共有すること、本当に親しく通じ合うことはありえません。従ってこの問題に叡智的に取り組むことが非常に重要です。
宜しいですか、叡智の定義を追求しないで下さい。専門家は彼自身の専門領域では非常に賢いかもしれません、それが電子工学であれ、数学であれ、科学であれ、経済学であれ何であれ、しかし彼が生をその狭い限られた観点から見ている限り、彼は明らかに叡知的ではありません。叡知的であるためには、精神は生の全てを取り扱うことができなければなりません、そのある一部を取り扱うのではありません。
経済学者であったり、科学者であったり、ビジネスマンであったり、主婦であったり、これやあれであったりして、あなたはこれらのことを拒絶して言います「瞑想が私の生活と何の関係があるのですか? 瞑想は托鉢僧や世捨て人にとってはそれで良いでしょう、しかし私の立場は私が普通の人間のようにこの世界を生きて行くことです、ですから瞑想は私と何の関係があるのですか」と。もしそれがその人の取り組み方なら、その人は単にその人自身の鈍さを、その人自身の鈍感さを、その人自身の叡智の欠如を継続しているだけです。我々は人間について話しているのであって、人間の様々な機能についてではありません。この違いを分かって頂きたいと思います。個人の特殊な機能が何であれ、我々は余すことのない人間自身について話しているのです。しかしもしあなたが生を単に機能の問題と考えて、その機能の中のあなたのその特殊な立場にしがみ付くなら、あなたは明らかに存在の全問題に出会うことは決してないでしょう。そしてこの問題に余すことなく出会う能力こそが正に叡智の本質を成すのです。
私には瞑想の中の精神だけが我々の全ての行動、我々の生き方の全てに根本的に影響することができると思われるのです。瞑想はヒマラヤの遁世者や僧院の僧や尼僧のために用意されたものではありません、そしてそれがもしそうなら、それは生からの逃亡に、生の現実の否定になります。一方、もしあなたと私が専門家としてではなく二人の人間として精神が瞑想の状態にあるとは何を意味するのかを明らかにできるなら、恐らくその正に気づきがじかに我々の行動や現代生活の多くの複雑な問題に直面している我々の生き方の全てに影響するでしょう。
では、瞑想とは何ですか、そして瞑想することができるのはどのような精神の状態ですか? 瞑想者とは何者ですか、そして瞑想者は何を瞑想しているのですか? 瞑想者とその瞑想があります、違いますか? そして明らかに瞑想者を理解しなければ瞑想はありえません。人は彼が深い瞑想と呼ぶ中に座ることができるかもしれません、しかしもし彼の精神が取るに足らなくて、条件づけられていて、限界があるなら、彼の瞑想には全く意味がないでしょう。それは一種の自己催眠でしょう―それが殆んどの我々が瞑想と呼ぶものです。そこで、どのように瞑想するのかを問う前に、或いはどのような瞑想システムに従うべきかを問う前に、瞑想者を理解することが非常に重要ではないのでしょうか?
別の言い方をさせて下さい。表面的な精神は様々な経典を一語一語引用することができるかもしれません、しかしそれはそうやっても表面的であることを止めません。それはそれが献身的になっている対象によって魅惑されて座るかもしれません、それはマントラを唱えるかもしれません、それは現実に探りを入れようとするかもしれません、或いは神を追い求めるかもしれません、しかしその本性上それは正に底の浅い精神なので、そのいわゆる瞑想も同じように底の浅いものでしょう。取るに足らない精神が神について考えるとき、その神もまた取るに足りません。混乱した精神が明瞭性について考えるとき、その明瞭性は更なる混乱に過ぎません。
従って最初に瞑想が瞑想する当人にとってどのような意味があるのかを明らかにすることが非常に重要です。殆んどの我々が瞑想と呼ぶものの中に、平和や至福や現実を見つけるために瞑想したいと願う思考者が、瞑想者がいますね、違いますか? 瞑想者は言います「もし私がその現実を、その至福を、私が追い求めているその平和を見つけるようにするには、私は私の精神を律しなければならない」と、そして彼は内に或いは外に瞑想の姿勢を取ります。しかしその精神は依然として取るに足らなく、依然として混乱し、依然として狭くて、条件づけられていて、嫉妬深くて、虚栄心があり、愚かです、そしてそのような精神は、それが瞑想システムを追い求めたり或いは発明したりするとき、それ自身の狭い条件づけの中で更に限界づけられるだけでしょう。
それが瞑想者とは何者であるのかの理解から始めることが非常に重要であると私の言う理由です。僧院の中の僧は瞑想に、祈りに何時間も費やすかもしれません、彼は彼の献身する対象を果てしなく凝視するかもしれません、それが人の手によって作られたものであろうと人の精神によって創られたものであろうと、しかしそのような精神は明らかに献身的で条件づけられています、それはそれ自身の限界に従って救済を追い求めています、そしてそれはこの世の終わりまで瞑想するかもしれませんが、それは決して真実を見つけないでしょう。それはそれが真実を見つけたと想像するだけです、そしてそれはその心地よい幻想の中を生きるだけです―それは殆んどの我々が願うことです。我々は空中楼閣を建てたいのです、我々が決して掻き乱されない、我々の取るに足りない精神が決して揺り動かされない避難所を我々は見つけたいのです。
従って、瞑想している精神を理解しないと瞑想は単なる自己催眠のプロセスになります。“オーム”という言葉や他の何かの言葉を繰り返すことによって、マントラを唱えることによって、或いはアルファベットを何回もしきりに言ってみることによって、あなたは精神に催眠術をかける音のリズムを作り出すことができます、そして催眠術を掛けられた精神は非常に穏やかになります、しかしその穏やかさは依然としてあなた自身の取るに足りなさの領域の中にあります。もし人が思考者や瞑想者を深く理解しないなら、瞑想者と彼が瞑想する対象との間にいつも分断が、ギャップがあります、そしてそのギャップを彼は絶えず埋めようともがいています。
大切なことは活動している精神に気づくことです―観察者としてではなく、精神を見ている当人としてではなく、精神がそれ自身の活動に気づくことです。私は私の言っていることが明確になっているかどうか分かりません。
あなたが何かを見るとき、いつも観察者がいます、違いますか? あなたが花を見るとき、あなたはその観察者です、そしてその花があります。思考者は思考と分離しています、経験者は経験されるものと分離しています。あなたが自分自身を見守るとき、あなたはいつも観察者と観察されるもの、“私”と“私ではないもの”、経験者と経験されるものとの間にこの分断があるのが分かるでしょう。
そこで、瞑想の問題の一つは経験者を経験されるものから分離するこのギャップをいかに取り除くかです、何故ならこのギャップが存在する限り、葛藤があるからです―対極間の葛藤だけではなく、絶えず目的を果たそう、ゴールに辿り着こうともがいている精神の葛藤です。ではどのようにして人は経験だけしていて経験者がいないあの途轍もない精神の状態を生み出したらよいのでしょうか?
宜しいでしょうか、あなたが非常に静かに座って何らかの種類の瞑想をしようとするとき何が起こるのでしょうか? あなたの精神はあらゆる所を彷徨います、違いますか? あなたはあなたの靴のことを考えます、あなたの隣人のことを考えます、あなたの仕事のことを考えます、何を食べるかを考えます、シャンカラが言ったことを、仏陀が言ったことを、キリストが言ったことなどを考えます。あなたの精神は彷徨します、そしてあなたはそれを特定の焦点へと或いは中心的な課題へと連れ戻そうとします。彼の思考をコントロールしようとする思考者の側の努力が精神集中と呼ばれます。そこでいつも思考者と彼の彷徨う思考との間に矛盾が起こります、そして彼はその彷徨える思考を絶えず引き戻して特殊な轍の中に無理やり入れます。そしてもしあなたがあなたの全ての思考をあなたが選択したパターンの中に押し込めることに成功すると、あなたはあなたが驚くべき状態に達したと考えるのです。しかしそれは明らかに瞑想ではありません、それは気づきの覚醒ではありません。それは単に精神集中の技術を学んでいるのに過ぎなくて、それは学校の生徒にもできることです。
精神集中は排除や抵抗や抑制のプロセスです、それは一種の強制です。学校の生徒が本当は窓の外を見たいとき或いは外に出て遊びたいとき、無理やりその教科書を読もうとしているその生徒は精神集中していると言われます、そしてそれが正にあなたの行っていることです。あなたはあなたの精神を無理に集中させます、そうして観察者と観察されるもの、思考者と思考との間の矛盾が起こります、そしてそれは果てしのない葛藤の状態です。あなた自身の中のこの葛藤に気づくと、あなたはそれを取り除かなくてはならないと言います、そしてあなたは瞑想的なシステムを追い求めます―それが我々みなの非常に良く知っている成り行きです、特にインドでは殆んど誰もが何らかの瞑想を実践しています。
では、瞑想的なシステムを実践するとは何を意味するのですか? それを一緒に良く考えてみましょう。それは、どうでしょうか、あるメソッドやある実践やあるシステムを通じてあなたが平和或いは解放或いは至福と呼ぶある地点にあなたが到達しようとすることを意味するのではないでしょうか? あなたは神のことを悟りたいと思い、あなたはその悟りを得るためにあるシステムを実践します。しかしいかなるシステムもあなたをあなたが望む何かに導くことはできません、何故ならあなたの精神がそのシステムによって麻痺しているからです。托鉢僧から何から、あなたから誰某に至るまでこれは実際に起こっていることです。
どのようなシステムも既知から既知への活動です、そして既知はいつも固定したものです。あなたが「平和に到達したい」と言うとき、あなたが追い求めているのはあなたが平和はこうあるべきであると思い描いたものです、従って、あなたの家のように、それは固定されたものです、それは動くことができません、そして方法やシステムはあなたをそこへ導くかもしれません。しかし真実は生きているものであり、それは固定されていません、それには住居がありません、従ってどのようなシステムもあなたをそこへ導くことはできません。もしあなたが本当にこのことの真理に気づくなら、あなたはあらゆるグルから、あらゆる教師から、あらゆる書物から自由になります―そしてこれは途轍もない解放です。
そこで我々の問題は、どうでしょうか、思考者と思考が一つであること、観察者は観察されている当のものであるという事実を経験することではないのでしょうか? そしてもしあなたがそれを試みてみるなら、あなたはそれを行うのが途轍もなく難しいことであると分かるでしょう。それは自分自身を観察されているものと一体化することではありません。お分かりでしょうか? あなたは自己を何らかの個人と同一化することができます。あなたは自己を寺院の中の仏像と同一化することができます、あなたは祈りの儀式であるプジャを行います、そしてあなたはあなたが献身と呼ぶ途轍もない情動を感じます。しかしそのような同一化は自己を何かと同一化するその当人を依然として保持しています。我々は全く異なった状態のことを話しています、その中には同一化は存在しません、そのような認識はありません、自己を経験されるものと同一化しようとすることによって矛盾を作り出す、経験されるものから分離した経験者は存在しません。経験する者は全くいません、ただ経験しているだけです。
あなたは自己をあなたが献身的になる対象と同一化するかもしれません、しかしそこには依然として二重性が存在します。あなたはあなたをインド人と考えます、何故ならあなたは自己を地図上のインドと呼ばれる色のついた部分と同一化しているからです―政治家がそれを利用してきました、そしてあなたもまたそれを利用したいと思います。しかし事実は、他のあらゆる形の同一化と同じように、それは自己を何かと同一化したその当のものを維持します。
もしあなたがこの事実を見るなら、次の質問は、精神が経験者を脱落させて経験しているだけの状態を生み出すことができるのかということです。
別の言い方をしましょう。日中のあらゆる瞬間に精神は様々な印象を受け取っています。カメラの高感度なフィルムのように、あらゆる出来事やあらゆる影響やあらゆる経験やあらゆる思考の活動が精神の上に何らかの印象を残します。我々がそれを意識するしないに関わらず、それが実際に起こっていることです。過去の経験のそれらの印象を抱えて精神は過去の観点から現在と出会います。別の言い方をすれば、いつも過去が現在と出会って未来を作り出しています。
では、精神は何らかの印象を抱いても、それらを精神に刻印せずにいられますか? お分かりでしょうか? それを非常に単純に言いましょう。あなたが侮辱されます、或いは誉められます、そしてそれがあなたの精神に刻印されます、つまりそれはその侮辱やへつらいが精神の土壌に根を下ろしたのです。では、あなたはもしあなたが侮辱或いはへつらいを受けても、その後であなたの精神がそれらを全く刻印せずにいられるのかどうかを実験したことがありますか? 数知れない経験が積み重なっていて、それらが大混乱し矛盾した印象を精神に残しています、そしてそれらは記憶の表面の傷のようです。精神はそれらの傷とは無縁に新しく経験できますか? 私はできると思います、そしてそのときにだけ思考者を脱落させて考える、経験者を脱落させて経験する、それゆえに決して矛盾の生じないそのような状態が生まれます。
もしあなたがあなたの瞑想と称するその中のあなたの精神を観察するなら、あなたは思考者とその思考との間でいつも分断や矛盾のあることが分かるでしょう。思考から分離した思考者が存在する限り、瞑想はその矛盾を克服するための止むことのない単なる努力にしかすぎません。
私はこれら全てが抽象的過ぎないことを、そして難しすぎないことを願います、しかしもしそうであっても、どうか耳を傾けて下さい。話されていることをあなたが十分に理解していないかもしれなくても、その正に耳を傾けていることは暗い土壌に種をまいているようなものです。もしその種子に生命力があり、そしてもしその土壌が豊かなら、それは芽を出すでしょう、あなたはそれについて何もする必要がないのです。同じように、もしあなたがただ耳を傾けることができるなら、そしてその種子を精神の母胎へ落とすことができるなら、それは芽を出すでしょう、それは繁茂して意識せずとも真実の行動を生むでしょう。
瞑想の中のもう一つの問題は精神集中と気をつけていることです。精神集中は、私が先に指摘したように、抑制であり限定です、それは狭める排除的なプロセスです。学校の生徒が精神集中するとき、彼は窓の外を見たいという欲望を排除して言います「これはひどい教科書だ、しかし僕は試験に合格するためにはこれを読まなければならない」と。これは本質的に我々みなが精神集中するときに行うことです。何らかの抵抗があります、精神をある焦点へ狭めます、そしてそれが精神集中と呼ばれます。
宜しいですか、気をつけていることはそれとは全く異なります。気をつけているときには境界がありません。どうぞこのことを良く見て下さい。気をつけている状態の中の精神は認識がもたらす境界の制限を受けません。気をつけていることは、内面や周りで起こっているあらゆることに完全に気づいている状態です、それは精神集中するときに生じる認識の境界或いは境界域とは無縁です。
宜しいでしょうか、後生だから私の言うことに耳を傾けて下さい、私の話していることを経験して下さい。ノートを取らないで下さい。あなたは、もし誰かがあなたを愛していると言うと、ノートを取りますか? (笑い) あなたは笑います、しかしあなたはその悲劇が分かりません。殆んどの我々にとって問題なのは我々が憶えておきたいと思うことです、我々は言われたことを認識していたいと思うことです、そして我々はそれを記憶の中に仕舞い込みます、或いはそれをノートに書き写します、そうすることによってそれを明日考えることができるように。しかし誰かがあなたを愛していると言うとき、あなたはノートを取りますか? あなたは他所を見ていますか? ここでも同じことです、そうでなければこれらの集まりは無益です。空虚な言葉には何の意味もありません。ですから話されていることに耳を傾けて下さい、もしあなたができるなら、それを経験して下さい―しかし経験する者としてではなく。
私は精神集中と気をつけていることの違いを指摘していました。精神集中しているときには気をつけていません、しかし気をつけているときには精神の何らかの集中が起こります。気をつけているときに精神には境界がありません。あなたが気をつけている状態のとき、あなたは話されていることに耳を傾けています、誰かの咳きを聞き、男の人が頭を掻いているのを見ます、そして別の人が欠伸をしているのを見ます、更に別の人がメモを取っているのを見ます、そしてあなたは自分自身の反応に気づいています。あなたは耳を傾けています、あなたは見ています、あなたは気づいています、あなたは努力しないで気をつけています。
努力は精神集中しているときだけ起こります、そしてそれは気をつけていることの反対です。気をつけている状態のときには、あなたの全存在が気をつけていて、あなたの精神のただ一部分が気をつけているのではありません。あなたの精神が「私はそうしなければならない」と言った瞬間に精神集中が起こり、それはあなたがもはや気をつけている状態にはないことを意味します。精神集中は何かを得たい、何かでありたいと熱望して起こります、それは矛盾の状態です。
この真理をただ見て下さい。気をつけているときには全存在が余すことなく気をつけています、一方、精神集中するときはそうではなく、それは何かになろうとする姿です。何かになろうとしている人は何らかの権威を内に秘めているはずで、その人は何らかの矛盾の状態の中を生きています。しかし単に気づいているとき、実現されるべき目的を掲げないで努力とは無縁に気をつけているとき、あなたは精神に認識的な境界がないことを発見するでしょう。そのような精神は精神を集中することができますが、その精神の集中は排除ではありません。「そのように気をつけている状態をどのようにして獲得するのか」と言わないで下さい。それは“獲得”できるものではありません。このことの真理をただ見て下さい、気をつけている状態のときには精神に境界がありません、獲得されるべき或いは達成されるべき目的の認識がありません。そのような精神は精神を集中することができます、そしてその精神の集中は排除ではありません。これは瞑想の中の精神によって発見されるべきものの一つです。
そうすると精神の中に生ずる矛盾する多くの思考の問題が浮かび上がります。精神は気まぐれで落ち着きがなく絶えず一つのことから他のことへ飛び回っています。それが殆んどの人達の習性です、違いますか?
では、何故精神はそうするのですか? 明らかに、精神はその正に本性上怠惰なのでそうします。気まぐれでいて思考で塞がれている精神は、一つのことから別のことへ蝶のように飛び回っている精神は、怠惰な精神です、そして怠惰な精神がその移り気な思考をコントロールしようとすると、それは単に鈍く愚かになるだけです。
一方、もし精神がそれ自身の活動に気づくなら、もしそれが思考の起こるたびにそれら全ての思考を一つ一つ見て取るなら、そしてもしそれが立ち現れるどのような思考をも捉まえて、それが良かろうと悪かろうと、その思考の正に行く着く先まで追求するなら、あなたは精神が途轍もなく活動的になることを発見するでしょう。精神のこの活動こそが思考の気まぐれに終止符を打つのです―しかしそれは何らかのコントロールによるのでもなければ力づくでもないのです。そのような精神は途轍もなく活動的です、しかしその活動は政治家のそれでもなく、電気技術者のそれでもなく、本を引用する人のそれでもありません、それは中心のない活動です。野望に駆られた精神、それ自身の成就事を追い駆けている精神はこのような意味で活動的では全くありません。しかしもしあなたが一つの思考を取り上げて、それを十分に、心奪われるほどに、嬉々として、あなたの全存在をかけて検討するなら、あなたはあなたの精神が途轍もなく活動的になることを発見するでしょう、そうすると精神のこの正確さが生まれるに違いありません。
我々の次の問題は、精神が時間の産物であること、既知の産物であることです。あなたが経験したこと全て、あなたの記憶、あなたの条件づけ、あなたにとって認識可能なあらゆるものが既知の領域の中です、違いますか? 精神は既知から既知へと思考します、その活動はいつも既知の領域の中です。精神がそれ自身を既知から自由にすることが何よりも重要です、そうでないとそれは未知の世界へ入ることができません。既知に縛られた精神は、腐敗とは無縁の完全な静寂があるそのような状態を経験することができません。精神が意識的な次元だけではなく無意識的な次元でも既知を理解したときだけ、それが理解して、従ってそれ自身を欲望や野望や憎悪やへつらいや快楽やそれが収集してきたあらゆるものから自由にしたときだけ―そのときだけ、この既知からの解放の中にだけ未知のものが生まれます。あなたは未知のものを招くことができません。もしあなたがそうするなら、あなたが経験することは再び既知の産物でしょう、それは真実ではないでしょう。
そのように瞑想の中の精神は認識する中心のない気づきの状態です、従ってそれには境界がありません、それは境界というものを脱落して気をつけていることです。瞑想の中の精神は努力することなくそれ自身を既知から自由にしている精神です。枯れ葉が枝から落ちるように既知が脱落しました、そうすると精神は不動になり、精神は沈黙の状態の中にあります、そしてそのような精神だけが計り知れないもの、未知のものを受け取ることができます。
1959年 3月4日 ニューデリー・トーク 8
中野 多一郎 訳