クリシュナムルティをめぐりて

オーハイ・トーク 2 1955年 8月7日

クリシュナムルティ 恐らく最初に、耳を傾けるということが何を意味するのかを一緒に話し合うことは価値のあることかもしれません。あなたは明らかに何が話されているのかを聞いて理解するためにここにいます、そして私はどのように聞くのかを見出すことが大切であると思います、何故なら理解はどのように耳を傾けるかによるからです。我々が耳を傾けるとき、我々は話されていることを我々自身の中で議論して、我々自身の固有の意見や知識や特異性に従って解釈しているのですか、それとも何の解釈もせずにただ気をつけて聞いているだけですか? 気をつけているということは何を意味するのですか? 気をつけていることと精神を何かに集中することを区別することは極めて重要であると私には思えます。我々は解釈をせずに反対することも受け入れることもしないで気をつけて聞くことができますか、その結果、我々は話されていることを余すことなく理解するように聞くことができますか? もし人が完全に気をつけて聞くことができるなら、その正に気をつけていることが途方もない効果をもたらすことは私には極めて明らかです。
 明らかに、二つの聞き方があります。表面的に言葉に付いてゆき、それらの意味を見て、単にその表現の外面的な意義を追い求める聞き方があります、そしてもう一方は、その表現を、言葉で言い表されていることを聞いて、それを内面的に追い求めることができる聞き方です―つまり、じかに自分自身の中で経験するものとして話されていることに気づく聞き方です。もし後者の聞き方ができるなら―つまり、もし表現されているものを通して話されていることをじかに経験できるなら―それには大きな意義があると思います。恐らくあなたは耳を傾けながらそれを試すでしょう。
 世界中に、アジアで起こっているような貧困や、この国で起こっているような途轍もない富や、残虐性、苦しみ、不正、愛のない生活感覚があります。これらを見て、人は何をすべきなのでしょうか? それらの数知れない問題への本当の取り組み方とは何でしょうか? 宗教は至る所で自己の発達を強調してきました、徳の育成や権威を受け入れること、ある種の教条や信仰に従うこと、順応するために大いに努力することなどを強調してきました。宗教的だけではなく社会的にも政治的にも自己の発達を絶えず促します、もっと気高くなければならない、もっと優しくなければならない、もっと思いやりを持たなければならない、もっと非暴力的でなければならないと。社会は宗教の助けを得て、そのもっとも広い意味での自己発達の文化を生み出してきました。それが我々の誰もがいつも行おうとしていることです―我々は自己を発達させようとしていて、それは努力や規律、順応、競争、権威の受容、安全感覚、野望などの正当化を意味します。そして自己の発達はある種の明らかな結果を生みます。それは人を更に社会に組み込まれた人間に、社会的に意義があるだけでそれ以上ではない人間にしてしまいます、というのは、自己の発達は究極的な真実を暴かないからです。このことを理解することは非常に重要であると思います。
 我々が手にしている宗教は真実であるものを理解する助けにはなりません、何故ならそれらは自己を放棄することではなく自己の発達や洗練に基づいていて、それは自己の持続の異なった形だからです。非常に少数の人たちだけが社会から抜け出します、社会の外面的な罠からではなく、所有することや妬み、比較、競争などに基づいた社会の意味する全てから抜け出します。このような社会は精神を思考の特殊なパターンへ、自己発達や順応や自己犠牲のパターンへ条件づけます、そして全ての条件づけから抜け出すことができる人たちだけが精神では計り知れないものを発見しうるのです。
 それでは努力するとはどういう意味でしょうか? 我々はみな努力しています、我々の社会的なパターンは獲得したり、もっと理解したり、もっと知識を得たりする努力に基づき、知識を背景にして行動することに基づいています。自己発達や順応や正しくする努力をいつも我々は行っていて、欲求不満や恐れや悲惨を伴った成就しようとするこれらの衝動がいつも我々にあります。このパターンに従って、我々がその一部である我々がみな知っているこのパターンに従って、野心的であること、競争すること、羨ましく思うこと、何らかの結果を追い求めることなどが完全に正当化されます、そして我々の社会は、それがアメリカであろうとヨーロッパであろうとインドであろうと、本質的にそのことに基づいています。
 従って、社会は、そのもっとも広い意味で文化は、個人が真理を見つける助けになるのでしょうか? それとも、社会は人にとって障害になり、人が真理を発見するのを妨げるのでしょうか? 明らかに、我々が知っているように社会は、我々がその中で生きて機能しているこの文化は、人が何らかの特殊なパターンに順応するのを、人が社会的に敬意を払われるのを助けます、そしてそれは多くの人々の意志の結果です。我々がこの社会を作り出してきていて、それはひとりでに生まれてきたのではありません。この社会は個人が真理や神―それをどのような名で呼ぼうと、言葉は重要ではありません―を見出すのを助けるでしょうか、それとも個人は真理を見出すために文化を社会の価値を余すことなく脇へ除けなければならないのでしょうか? それは―どうぞこのことをくれぐれもよく覚えていて下さい―人が反社会的になることを、好き勝手なことをすることを意味しません。その反対です。
 現在の社会的な構造は妬みや何かを所有することに基づき、その中には順応性や権威の受容や野望の絶え間ない成就が含まれていて、それは本質的に何かになろうと奮闘する自己、“私”です。この種のことから社会はできていて、その文化―快いものであろうと不快なものであろうと、美しいものであろうと醜いものであろうと、社会的な努力の全領域―が精神を条件づけます。あなたは社会の結果です。もしあなたがロシアに生まれて彼らの特殊な形の教育を通じて訓練されると、この国であなたがある種のパターンを受け入れるように、あなたは神を否定して違う種類のパターンを受け入れるでしょう。ここではあなたは神を信じます、もしそうしなければあなたは恐ろしい思いをするでしょうし、社会的に敬意を払われないでしょう。
 従ってどこにあっても社会は個人を条件づけていて、この条件づけは自己の発達という形をとりますが、それは実際には “私”やエゴの異なった形をとった継続です。自己の発達は粗悪なものであるかもしれないし、それが徳や善やいわゆる隣人愛の実践になるときは非常に非常に洗練されたものとなるかもしれませんが、本質的にそれは“私”の継続であり、社会の条件づけの影響の産物です。あなたはあらゆる努力をして、この世で成し遂げられるのであれ、あの世で成し遂げられるのであれ、何かになることを検討してきましたが、それは自己を維持し継続する同じ欲望であり同じ衝動です。
 これら全てを見るとき―私は必ずしもその全てを詳細に検討する必要はありません―人は否応なく自分自身に問います、社会或いは文化は真理や神と呼ばれるかもしれないものを人が発見するために存在しているのかと。大切なことは、明らかに、精神を超えた何かを発見し実際に経験することであり、単に信仰をもつことではありません、それには全く意味がありません。いわゆる宗教が、様々な教師や規律や宗派やカルトに従うことが、それら全てはもし観察すれば社会的に敬意を表される全領域ですが、それらのいずれかが時間とは無縁の至福、時間とは無縁の真実を人が見つけ出す助けになるのでしょうか? もしあなたが単に言われていることを聞いて、同意したり同意しなかったりしているのでなく、社会があなたに衣食住を提供する表面的な意味ではなく、根本的に社会があなたを助けているのかどうかをあなた自身に問うなら―もしあなたが実際にそれをじかにあなた自身に問うているなら、それは言われていることをあなた自身に適用して、それがあなたの直接の経験になり、それがあなたの聞いたことや学んだことの単なる繰り返しではないなら、努力は自己発達の領域内にのみありえるのが分かるでしょう。努力は基本的に社会の一部であり、それは努力を本質的と考えるパターンに従って精神を条件づけることです。
 それはこういうことのようです。もし私が科学者なら、私は学ばなければなりません、私は数学を知らなければなりません、私はこれまで言われてきたことを全て知らなければなりません、私は膨大な知識を収集蓄積していなければなりません。私の記憶は高められ、強化され、広げられていなければなりません。しかしそのような記憶や知識は実際には更なる発見を妨げます。私が獲得した知識を余すことなく忘れて、私が獲得してきた全ての情報を拭い去ることができるときにだけ―それは後で使用可能ですが―そのときにのみ私は新しい何かを見つけることができます。私は過去や知識の重荷を背負って新しい何ものも見つけることができません、それは明らかな心理的事実でもあります。我々が社会の重荷を全て背負い、与えられた文化の条件づけを抱えて真実やあの創造性の途方もない状態に取り組むと我々は新しい何ものも決して発見しないので私はこのように言っているのです。明らかに、至高なものや永遠なものはいつも時間とは無縁であり、新しいものが生まれるためには自己の発達や自己の成就としての努力のいかなる奮闘もありえません。そのような努力が余すことなく止むときにのみ他のものがありえます。
 宜しいでしょうか、これは本当にとても大切なことです。それはあなたのおへそを凝視することや何らかの種類の幻想に入る問題ではなく、社会の中の努力の全プロセスを理解することです―あなたがその産物であり、これはあなたが作り出した社会であり、努力が本質的である社会です、何故なら努力が本質的ではないとあなたは途方に暮れるからです。もしあなたが野心的でないと、あなたは破壊されますし、もしあなたが何かを欲しがらなければ、あなたは踏みにじられますし、もしあなたが妬みを抱いていないと、あなたは幹部にはなれないし大成功を収めることができません。従って、あなたは何かでいるように或いは何かでいないように、何かになるように、成功するように、あなたの野望を満たすために絶えず努力しています、そしてそのような考えで、それは社会の産物ですが、あなたは社会から生まれるのではない何かを見つけようとしています。
 宜しいでしょうか、もし人が真理を見つけようとするなら、人はあらゆる宗教から、あらゆる条件づけから、あらゆる教条から、あらゆる信仰から、人を順応させるあらゆる権威から余すことなく自由にならなければなりません、それは本質的に完全に独存していることを意味していて非常に骨の折れることであり、それは樹木の下に座って何らかのナンセンスを聞くために日曜の朝に心地よいドライブをする趣味とは違います。真理を見つけるには計り知れない辛抱強さ、優しさ、躊躇が要ります。単に書物を読んで学ぶことには何の価値もありません、しかしもし耳を傾けて完全に気をつけていられるなら、この正に気をつけていることが人を努力することから自由にして、いかなる方向へも活動しないで精神が途方もなく美しい創造的な何かを、知識や過去によっては計れない何かを感受することができます。そのような人だけが本当に宗教的で革命的な人です、何故ならその人はもはや社会の一部ではないからです。人が野心的であったり、妬みを抱いていたり、貪欲であったり、競争的であったりする限り、人は社会です。そのような考え方で、それから自由になることは途方もなく難しいのですが、そのような考え方で人が神を追い求めるなら、その追求には全く何の意味もありません、何故ならそれは単に何かになろうとする、何かを得ようとする別の努力にすぎないからです。それが人の社会との関係を理解することの、あらゆる信仰や教条や主義や人が得てきた迷信に気づいてそれらを投げ捨てることの大切な理由です―努力してそうするのではありません、何故ならそのようにするとあなたは再びそれに囚われるからです、しかしそれらをある通りに見て、それらに干渉せずそれらをやり過ごすことが大切です、秋の枯れ葉が朽ち果てて風に運ばれ樹木を裸にするように。そのような精神だけが生に計り知れない幸福をもたらす何かを感受できます。
 あなたとそれらのいくつかを議論していて、私は明らかにそれらに答えていません、何故なら我々は質問の意義を一緒に明らかにしようとしているからです。もしあなたが単に質問に対する答えを聞いているだけなら、あなたは失望するでしょう、何故ならあなたはその問題には興味がなくてその答えにだけ関心があるからです―殆どの我々がそうであるように。根本的な質問をして答えを見つけようとせず、それを問い続けることが非常に大切であると私は感じます、何故ならあなたが根本的な質問を執拗に問うて要求し探究すればするほど、精神はさらに鋭敏に、さらに気づくようになるからです。そうすると根本的な質問とは何ですか? 誰かがそれをあなたに語ることができますか、それともあなたは自分自身でそれを見出さなければならないのですか? もしあなたが自分自身で根本的な問いが何であるのかを見出すことができれば、あなたの精神はすでに変化していて、それはすでにそれが取るに足らない質問をして取るに足らない答えを見つけるときよりもずっと意義深いものになっています。

質問者(Q) 少年少女の犯罪がこの国では驚くべき割合で増加しています。この増大する問題はどのように解決されるのでしょうか?
クリシュナムルティ(K) 明らかに社会的なパターンの中の反抗があります。幾つかの反抗は社会的に敬意を表され、他のものはそうはなりません、しかしそれらはいつも社会的な領域内、社会的な囲いの中です。そして明らかに妬みや野望、残虐性、戦争などに基づいた社会はそれ自身の中の反抗を予想するに違いありません。何と言っても、映画館へ行くと沢山の暴力に出会います。途轍もない世界戦争があり暴力を余すことなく表現しています。軍隊を保持する国家はその市民に対して破壊的であるに違いありません。どうかこのことに耳を傾けて下さい。防衛的であろうと攻撃的であろうと軍隊を持っている限り、その国家は平和ではありません。軍隊は攻撃的でもあり防衛的でもあって平和な状態をもたらすことはありません。文化が軍隊を備えて維持するや否や、それはそれ自身を破壊しています。これは歴史的な事実です。そして両体制のもとで我々は競争的であること、野心的であること、成功することを促されています。競争や野望や成功がこのような特殊に繁栄している社会の神々です、そしてあなたは何を期待するのですか? あなたは少年少女の非行が社会的に敬意を表されるものに変わってほしいのです、それが全てです。あなたは問題の根に挑みません、それは戦争の全プロセス、軍隊を維持することの全プロセス、野心的であることの全プロセス、競争を促すこの全プロセスを止めることです。これらの我々の心に根を張っているものが社会の壁であり、その中でいつも若い人も年配の人も反抗する社会の壁です。問題は少年少女の非行の問題だけではなく、我々の全社会構造を含んでいます、そしてあなたと私が社会―野心や残酷性、成功願望、何かになること、頂上に上り詰めることなどを意味する社会―から余すことなく抜け出さない限り、それの答えはありません。その全プロセスは本質的に何かを成就しようとする自己中心的な追求であり、それが社会的に敬意を表されてきているに過ぎません。あなたは何と成功者を敬うことか! 何とあなたは何千人もの人を殺す人をもてはやすことか! そして信仰や教条のあらゆる分断――キリスト教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒―があります。それらが争いを生んでいるものであり、あなたが少年少女の非行を、単に子供たちを家に置くことや、彼らをしつけること、彼らを軍隊に入れること、あらゆる心理学者や社会改革者が差し出す様々な解決策に頼ることなどによって対処するとき、あなたは確かに根本的な問題を非常に表面的に取り扱っています。しかし我々は根本的な問題に挑むことを恐れます、何故なら我々が不人気になるからであり、共産主義者や何とかと言われるからあり、そしてレッテルが殆どの我々にとって途方もなく重要に思われるからです。ロシアであろうと、インドであろうと、この国であろうと、問題は本質的に同じであり、精神がこの全社会構造を理解するときにのみ我々は問題への全く異なった取り組み方を見つけて、このような政治家たちの偽の平和ではない本当の平和を確立するでしょう。
 私は教師から教師へ追い求めてきて、今、その追い求める思いであなたのもとへやって来ました。あなたは他の教師たちと違いますか、どのようにして私はそれを知るのでしょうか?
 宜しいでしょうか、あなたが本当に何かを追い求めているとして、追い求めるとはどういう意味でしょうか? 質問が分かりますか? あなたは明らかに何かを追い求めています、しかしそれは何ですか? 本質的に、あなたは決してかき乱されない精神の状態、あなたが平和、神、愛と呼ぶもの、或いはそれを何と呼ぼうとそのような状態を追い求めています。そうではないのですか? 我々の生は騒々しく、不安で、恐怖に満ち、暗く、激変し、混乱しています、そして我々はそれらから逃げ出したいと思っていますが、混乱した人が何かを追い求めるとき、その追求は混乱に基づいているので、その人が見つけるものは更なる混乱です。このことがお分かりですか?
 最初に、何故我々は何かを追い求めるのですか、そして我々が追い求めているのは何ですか? あなたは教師から教師へ尋ねて行くかもしれません、そしてそれぞれの教師が異なった規律や瞑想の仕方を、何らかの愚かなナンセンスなことを与えるかもしれません、従って大切なことは明らかに教師や教師が与えるものではなく、あなたが追い求めているものが何かです。もしあなたの追い求めているものが何なのかあなたが非常に明確なら、あなたはそれをあなたに与える教師を見つけるでしょう。もしあなたが平和を追い求めているなら、あなたはあなたの追い求めているものをあなたに与える教師を見つけるでしょう。しかしあなたの追い求めているものは全く真実ではないかもしれません。お分かりですか? 私は完全な至福を願うかもしれません、そしてそれは完全な静寂で、争いも苦痛もない、探究もせず疑問も起こらない精神のかき乱されない状態を意味します、従って私は教師が与える規律を実践して、恐らくその正に規律がそれなりの結果を生み出します、そしてそれを私は平和と呼びます。ドラッグやピルの方がまだましかもしれません、それらには同じ効果があるでしょう―ただそれらは社会的に敬意を払われていないだけで、他方はそうではありません。(笑) 宜しいですか、これは笑いごとではなく、これは我々が実際に行っていることです。
 従って、あなたの追い求めているものをあなたは明らかに見つけるでしょう、もしあなたがその代価を支払うなら。もしあなたが自分自身を他の人の手にゆだねて、何らかの権威や規律に従い自分自身をコントロールするなら、あなたはあなたの願うものを見つけるでしょう、そしてそれはあなたの願望があなたの追求を指図することを意味します、しかしあなたはあなたの追求の動機に本当は全く気づいていなくて、あなたは私の立場や私の言っていることが真実であるのか誤りであるのかをどうやって知るのか私に問います。あなたは様々な教師のところへ行って呪縛され口車に乗せられてきて、あなたは今それをここで試みたいと思っています。しかし私はあなたに何も語りません、実際に私はあなたに全く何も語りません。私が言っているのは、あなた自身を深く深く知って、あなた自身を実際にある通りに見て下さいということだけであり、それは誰もあなたに教えられませんし、もしあなたが信仰や、教条、迷信、恐怖に縛られているなら、あなたは自分自身を現にある通りに見ることができません。
 宜しいでしょうか、独存することができない精神には、その追求は全く意味がありません。独存していることは堕落していないことであり、無垢でいることであり、あらゆる伝統、教条、意見、他の人の言うことなどから自由でいることです。そのような精神は追い求めるものが何もないので追い求めていないし、自由なので、そのような精神は欲するものもなく活動することもなく完全に静まっています。しかし、この状態は成就されるものではなく、規律によって手に入れられるものでもなく、セックスを放棄することやある種のヨーガを実践することによって生まれるのでもありません。それは自己や“私”の在り方を理解するときのみ生まれます、そして自己や“私”の在り方は日常的な活動の意識的精神の中に現れると共に潜在的意識の中にも現われます。大切なことは自分自身で、他の人たちの指示ではなく、意識の内容を余すことなく理解することであり、条件づけられた意識を理解することであり、社会や宗教、様々な衝撃、印象、記憶などの結果である意識を理解することです―それら全ての条件づけを理解して、それらから自由になることです。しかし、自由になるどのような“ノウハウ”もありません。もし自由になる方法を人が問うなら、人は耳を傾けていません。
 例えば、私があなたに精神は余すことなく条件づけを解かれなければなりませんと言います。では、あなたはどのようにその種の発言を聞きますか? どのように気をつけていてそのことに耳を傾けますか? もしあなたが自分自身の精神を見守っているなら、私はそれを願いますが、あなたは心の中で「これは非常に難しい」或いは「それはできない」或いは「条件づけはただ修正されえるにすぎない」などと言うのが分かるでしょう。他の言い方をすれば、あなたはその発言に気をつけていて耳を澄ましていません、あなたは自分自身の意見や結論や知識でそれに反対しています、従ってあなたは気をつけていません。
 事実は精神が条件づけられていることです、共産主義者としてであろうと、カトリック教徒としてであろうと、プロテスタント教徒としてであろうと、ヒンズー教徒としてであろうと何であろうと、そして我々はこの条件づけに気づかないか、それを受け入れるか、それを修正しようとするか、それを高尚なものにしようとするか、それを変えようとするかなのです、しかし我々は決してこのように問いません、精神は余すことなく条件づけから自由になれるのかと。気をつけていてそのように本当にあなた自身に問うことができる前に、あなたは最初にあなたの精神が明らかに現にあるとおり条件づけられていることに気づかなければなりません。私の言う条件づけという意味をあなたはお分かりですか? 言葉や仕草やその他全ての表面的な条件づけではなく、もっと深くてもっと根本的な意味の条件づけです。精神が野心的なとき、それは条件づけられています、世俗的な世界だけではなく、精神的な意味で何かになろうと野心的なとき、それは条件づけられています。この自己発達の努力の全体が条件づけの結果です、そして精神はそのような条件づけから余すことなく自由になりえるのでしょうか? もしあなたが本当にその問いをあなた自身に―気をつけていて答えを追い求めることなく―課すなら、あなたは正しい答えを見つけるでしょう、そしてそれは可能とか不可能ということではなくて全く異なる何かが起こります。
 従って我々がどのようにこれらのトークに気をつけているのかを見つけることが重要です。もしあなたが気をつけていないなら、毎週ここへ来ることは時間の無駄であることを私は受け合います。オーハイへドライブするのは心地よいかもしれませんが暑いのです。しかし、もしあなたが話されていることにじかに気をつけていられるなら、それはあなたの読んできた何かを思い出すことでもなく、意見を戦わせることでもなく、メモを取って「後でそれを考えてみよう」と言うことでもなく、与えられた問いに実際に耳を傾けながらあなた自身にじかに問うことです、そうするとその正に気をつけている現実が正しい答えをもたらします。
 我々の病の多くが心身の病であり、深い内面的な欲求不満や我々がしばしば気がつかない葛藤から引き起こされることはよく知られた事実です。我々が以前は内科医へ行っていたように我々は今精神科医へ行かなければならないのですか、それともこの内面的な混乱から自分自身を自由にする方法があるのですか?
 それはこのような質問になります、精神分析学者の立場とは何ですか? そして何らかの病や病気にかかっている我々の立場とは何ですか? 病は我々の情動的な不安から引き起こされるのですか、それともそれには情動的な意義はないのですか? 殆どの我々は不安を抱えています。ほとんどの我々は混乱しています、大混乱しています、冷蔵庫や車やその他のあらゆるものを持っている非常に裕福な人たちでさえ混乱しています、そして我々はその不安にどう対処するのか知らないので必然的にそれが身体に影響して病気を引き起こします、それは極めて明らかです。問題は、我々は不安を取り除いて健康を取り戻すのを助けてもらうために精神科医のところへ行かなければならないのですか、それともどうすれば不安にならないのかを、どうすれば大混乱や心配や恐怖に陥らないのかを自分自身で我々は見つけ出すことができるのでしょうか?
 何故我々は不安になるのでしょうか、もし我々が不安でいるなら? 不安とは何ですか? 私は何かを欲しがりますが、私はそれを手に入れることができません、そこで私は混乱します。私は私の子供を通して、私の妻を通して、私の財産を通して、地位や成功などその他のあらゆるものを通して何かを成し遂げたいと思いますが、私は果たせません、そしてそのことは私が不安になることを意味します。私には野心があります、しかし他の誰かが私を押しのけて、私の先を越します、そして再び私は途方に暮れて大混乱に陥り、それが身体的な反射的反応を生み出します。
 ではあなたや私はこの大騒動や混乱から自由になりうるでしょうか? 混乱とは何ですか? お分かりでしょうか? 混乱とは何ですか? 混乱は事実にそれについての私の考えがプラスされるとき起こります、それは事実についての私の意見であり、事実の無視であり、事実の回避であり、事実についての私の価値評価などです。もし私が事実を何らかの付加的な質を交えずに見ることができるなら混乱は起こりません。もし私がこの道路はベントゥーラに通じていると知るなら、混乱は起きません。混乱は私がその道路は別のどこかへ通じていると考えたり主張したりするときのみ起こります―それが殆どの我々の置かれる状態です。我々の意見や信念や欲望や野望はとても強力なので我々はそれらに重くのしかかられて我々は事実を見ることができません。
 従って、事実プラス意見、判断、価値評価、野望、その他のあらゆるものが混乱を引き起こします。そしてあなたや私は混乱していると行動を起こさないでいられますか? 明らかに、混乱から生まれるどのような行動も更なる混乱、更なる大混乱に至るに違いなく、それら全てが身体に神経組織に影響して病気を引き起こします。人は混乱しているので、人が混乱していることを自分自身に認めさせるには勇気ではなくある種の思考の明瞭さ、知覚の明瞭さが要求されます。殆どの我々は我々が混乱していることを認めるのを恐れます、従って我々の混乱から我々はリーダーや教師や政治家を選びます、そして我々が我々の混乱から何かを選ぶとき、その正に選択が混乱しているのに違いないので、そのリーダーもまた混乱しているのに違いありません。
 我々の混乱に気づくことは可能でしょうか、そしてその混乱の原因を知って行動しないことは可能でしょうか? 混乱した精神が行動するとき、それはただ更なる混乱を生み出すだけです、しかし混乱していることに気づいていて混乱の全プロセスを理解している精神には行動を起こす必要がありません、何故ならその正に明瞭性こそがそれ自身の行動だからです。このことは殆どの我々にとって理解することがかなり難しいことだと思います、何故なら我々は行動することや行うことにとても馴染んでいるからです、しかしもし人が行動を見守ることができるなら、その結果を見ることができるなら、政治的に世界中であらゆる場所で起こっていることを観察できるなら、いわゆる社会改革的な行動が単に更なる混乱、更なる無秩序、更なる改革を生み出していることは極めて明らかです。
 そこで我々一人ひとりが我々自身の混乱や混迷に気づくことができて、それと共に生きて、それを理解し、それを取り除きたいとか、それを脇へ除けておきたいとか、それから逃げたいとか思わないでいられるでしょうか? 我々がそれをはねのけている限り、それを非難している限り、それから逃げている限り、その正に避難や逃亡こそが混乱のプロセスです。どのような精神分析学者もこの問題を解決できないと思います。彼は一時的にあなたを彼が普通の存在の在り方と呼ぶ社会のある種のパターンへ順応するように助けるかもしれませんが、問題はそれよりももっと深くて、あなた自身以外に誰もそれを解決できません。あなたと私がこの社会を作ってきました、それは我々の行動の結果であり、我々の思考や我々の正に存在の結果です、そしてそれを作り出してきたその当のものを理解しないでその産物を単に改革しようとしている限り、我々はもっと病むでしょうし、もっと無秩序に陥るでしょうし、もっと少年少女の非行を生みだすでしょう。自己の理解が知恵と正しい行動をもたらします。
                           1955年 8月7日 オーハイ
                                  中野 多一郎 訳