クリシュナムルティをめぐりて

気をつけていないこと

クリシュナムルティ(K) 今朝は何を話し合いましょうか?
質問者(Q) 話し手は人間存在の他の領域から孤立しているという印象があります、従って彼の聴衆から。
 話し手が責任などについてそれほど情熱的に話しているにも拘らず、何故殆どの我々はその炎を持っていないのですか? それは彼が何かを見失っているからですか、それとも彼が人間存在の他の領域を考慮しないからですか?
 (聞き取れず)
 (繰り返して)我々は我々が幼少から死ぬまで傷ついているという問題を検討できますか、そしてそれらの傷が精神から拭い去られることがありえるのかどうかを検討できますか? そうですか?
 はい。
 (聞き取れず)
 (繰り返して)我々は身体的な緊張について話すことができますか。
 (聞き取れず)
 (繰り返して)我々はコミュニケーションと気をつけていることについて話すことができますか。分かりました、宜しいでしょうか、コミュニケーションと気をつけていることについて話しましょう。他に何かありますか?
 子供を条件付けることなく育てることができますか?
 子供を条件付けることなく育てることができますか。
 心理的な穏やかさと仕事上での精神の活動とのバランスはどのようにすれば可能でしょうか?
 私が働いているときの私の活動の雑音と内面的に平和で穏やかでいるなどそれらのこととの間のバランスや調和はどのようにして可能か。
 苦しみとエネルギーと行動。
 苦しみとエネルギーと行動。
 (聞き取れず)
 心とはどういう意味でしょうか?
 癒し。
 感情。
 癒しです。
 癒しの性質です。宜しいですか!(笑い)  癒しの性質、そして全ての質問、つまりどのようにして私は外面的には雑音と活動を保ち、内面的には穏やかでいてバランスを取ることができるのか、そしてどのようにして我々は子供を条件付けることをしないで育てることができるのかなどです。それらのなかの中心的な質問を議論すると、恐らく我々は他の全てのことをカバーするでしょう。
 気をつけていること。
 私もそう思いましたが、私はあなたにそれを言ってほしかったのです。気をつけていることです。我々は何故気をつけていないのでしょうか? 気をつけていることと気をつけていることの欠如との間にどのような関係があるのでしょうか? 気をつけていることは気をつけていないことの対極にあるものですか? そして気をつけていることとはどういう意味ですか、そしてその気をつけていることはずっと維持されますか、それとも二つの気をつけている間には我々が気をつけていないと呼ぶギャップがいつもありますか? 気をつけていることとはどういうことですか? そして気をつけていないこととはどういうことですか? 誰かがこの中で編みものをしています。その婦人或いはその男性は話されていることに気をつけていますか? 我々は気をつけていることを編みものや話すことや見ることや聞くことに分断できますか? 他の言い方をさせて下さい、それはもっと簡単です。気をつけている中に、気をつけているときに何らかの種類の分断がありますか?
 気をつけていることと精神集中との違いは何ですか? 最初に気づきが、気づくことがあります、そして精神集中と気をつけていることがあります。気づきは精神集中と違いますか? “気づき”という言葉はどういう意味ですか? 私はあなたがそこに座っていることに、我々の上にテントがあることに、そして非常に暑いことに気づきます。私は色々な色彩や頭の形などに気づきます。精神は精神の領域の中で何が起こっているのかに気づきますか、認識しますか、知りますか、意識しますか? あなたはあなたの思考や感情に気づきますか? あなたはあなたがそわそわしていることに、身体を掻いていることに、あくびをしていることに、髪の毛を後ろにかきあげていることに気づきますか? あなたはそれらに気づきますか―あなたは後からではなく、あなたがそれを行っているときにそれに気づきますか? そうすると気づきとはどういう意味ですか? 私は葛藤や暴力に気づきます。私は美に、樹木の愛らしさに、川の水の流れに気づきます。私はその川や、その山や、その愛くるしい樹木に対する私の反応にも気づきます。我々はそれらに気づきますか? さあ宜しいでしょうか。これは話し手による演説ではありません、我々は一緒に検討しています、一緒に探究しています。従って我々が共に探究しているときはコミュニケーションが生まれます、言葉の上だけではなく知的に、もっと深く。言葉によるコミュニケーションと同様に非言語的なコミュニケーションが生まれます。
 私はただあなたに尋ねているだけです、あなたは思考の活動に気づきますかと。我々は飢餓に、何百万という人々の飢えに気づきますか―新聞や雑誌や記事に書いてあることを読むことではなく、或いは誰かがあなたに何百万という人々が飢えていると言うことではなく、感受性の鋭敏な精神の気づきです。
 私は分かりません。
 彼は分かりません。気づきは継続的な活動ですか? そうですか? それは自発的ですか、それとも何気なくですか? いつ我々は何かを意識しますか? つまり、いつ我々は何かに気づきますか? 我々は痛みがあるときに、或いは快楽があるときに気づきますか、意識しますか、それとも我々は精神が全く触れたことのない人間存在の領域に非描写的に非言語的に気づきますか?  最初に、気づくためには人の感受性が鋭敏ではなくてはならないのではないですか? 違いますか? 身体的にも心理的にも。あなたが過食しているときに、どうしてあなたは身体的に感受性が鋭敏でいられますか? 宜しいですか―あなたが性にふけっているときに、あなたが身体的な感覚的な満足に気を取られているときに、どうしてあなたは感受性が鋭敏でいられますか。さあ宜しいでしょうか、それを議論して下さい。
 (聞き取れず)
 もしあなたが菜食主義者でビタミンCとBなどそれらを十分に摂取していないなら、可哀想な菜食主義者のバイタリティーは落ち込みます。(笑い)
 話し手は菜食家でこれまで肉を食べたことがありません。
 私も肉を食べません。
 良いことです! そのように殆どの我々は身体的に感受性が鋭敏ではなく身体的に生き生きとしていません。心理的に内面的に我々は内側で起こっていることに殆んど感覚的に鋭敏ではありません―我々の傷に殆んど気づいていません、我々の野望や暴力や憎悪や個人的な敵愾心などに殆んど気づいていません。そして我々は精神的に知的に二番煎じの存在です。そのように我々は精神的に知的に心理的に身体的に感受性が余すことなく鋭敏ではありません。あなたの個人的な欲望やあなたの個人的な願望への感受性ではなく、感受性が鋭敏であることです、その感受性の鋭敏さを持つべきではないのですか? そしてそれが気づきの始まりです。宜しいですか? 
 次の質問は、心理的に内面的に我々は我々の反応に気づくのかということです。我々は我々が真実を語っていないときそのことに気づきますか、我々は我々が二枚舌を使っているときそのことに気づきますか、我々は我々が何かを言って違うことを行っているときそのことに気づきますか、我々は我々が他の人を引き合いに出しているとき我々はそのことに気づきますか? 分かりますか―我々が二番煎じの存在であるこれらの現象の全てにです、つまりそれは伝統的であることであり、順応することです―模範となるものに順応することです。その紳士が昨日言いました「完全な手本がある」と。どうして我々は手本を必要とするのですか? それは順応ではないのですか、その中に模倣や恐れや権威や追随がありませんか? それら全てが伝統的であることです。我々には何千という手本があります。違いますか? そして我々はそれになることを願うのです。そしてその中には非言語的に本質的に権威の受け入れがあります。伝統は権威、順応、模倣、追随を意味します。違いますか? さあ、宜しいでしょうか。  それら全てが伝統です―追随であり、受け入れることであり、二番煎じでいることです。その中には比較することが意味されています―あなたは私よりも良い、従って私はあなたのようにならなければならない。それら全てがその“伝統”という、受け継ぐという言葉の中に含まれています。では心理的に追随する精神ですが、そのような精神はどのようにすれば感受性が鋭敏になるのでしょうか? さあ、宜しいでしょうか。
 (聞き取れず)
 質問が良く分かりませんでした。その紳士は言います、生は伝統的な何らかの形です、継続的な何らかの形です。それがあなたの言おうとしていることですか?
 (聞き取れず)
 宜しいでしょうか、我々は伝統とは何かを議論しています、伝統とは何かを明らかにしようとしています。身体的な構造や遺伝子やその他のあらゆることがあります、身体的な構造です。我々は身体的な構造について話しているのではありません。我々は言いました、心理的に内面的に、もしその内面的な構造が本質的に伝統に基づくなら、どうして鋭敏な感受性が生まれえるのかと。それが我々の言っている全てです。
 (聞き取れず)
 あなたは伝統的ですか? 身体的に明白なことから離れて下さい、それは了解済みです、身体的なことから離れて下さい、あなたは伝統的ですか? 伝統的とは権威を受け入れることであり、手本を受け入れることであり、追随することであり、模倣することであり、順応することであり、二番煎じ的な人間になるように深く教育されていることです。勿論我々はそうです。伝統とは過去です。そして心理的に我々は過去の中を生きています。
 私はあなたがこれら全てに付いてきていることを願います。私は独り言を言っているのですか、それとも暑すぎますか? そして過去の中を生きている精神は、それがどのような領域であろうと―宗教的であろうと心理的であろうと知的であろうと科学の世界であろうと、本当の科学者は恐らくこの…である考えを受け入れることができない…お分かりですか―それら全てです。では精神はそれら全ての領域に気づくことができますか? どうかこのことに気をつけて下さい、もしあなたがそれを検討するならそれはかなり興味深いことです。
 宜しいですか、三つのことがあります、つまり、我々は追随するように教育されています、我々は受け入れるように教育されています、我々は順応するように教育されています。それらから離れないようにしましょう、幾つか他のことがあります。ではあなたはそれに気づいていますか? そしてもしあなたがそれに正に気づくなら、あなたには取捨選択の問題が起こります。違いますか? つまり、どのようにして私は過去によって確立された何が正しくて何が間違っているのかの指示なしに生きることができるのかという問題です。お分かりですか? 従ってあなたは取捨選択しています―これをすべきかあれをすべきか。宜しいですか? つまり、気づいて下さい―伝統の地図を広げて見て下さい―この伝統の地図に気づいて下さい―権威、順応、受け入れること、従順、誓うこと、抵抗すること、分断すること、葛藤、悲しみ、それら全てが伝統の領域の中にあります。あなたがそれら全てに気づくとき、あなたは言います「それらの中でどれが行うべき正しいことか」と。違いますか? あなたが…どうか、私は分かりません、宜しいですか、私は気づきに取捨選択があるのかどうかを問うています。
 ありません。
 ありません。
 その紳士は言います、ありませんと、そしてその婦人は言います、ありませんと。
 もし混乱があるなら取捨選択があるはずです。
 宜しいでしょうか、あなたは確かに理論化していません、従ってあなたは事実として言います、混乱があるところには取捨選択があると。違いますか? それは大変なことを認めることです。お分かりですか? それは知的に認めることではありません、或いはそれは黙認ではありません、或いはそれはあなたがそう思うので何かに同意するのではありません、しかしもしあなたがそれに気づくなら、もしあなたがその意義を悟るなら、つまり混乱しているとき精神は取捨選択をする―政治的に―お分かりですか―このグルとあのグルとの間で、この宗教とあの宗教との間で、このシンボルとあのシンボルとの間で―お分かりですか? あなたが混乱しているとき、これは避けられない行動です。そこで私は問うています、気づきには取捨選択があるのかと。或いは、あなたはその中で取捨選択しないで気づいていますか? 私は飛行機(飛行機の騒音)に気づきます。(笑い) 私はここのあらゆる色彩に、そのバイタリティーに、その途轍もない色彩に気づきます、私はただ気づきます。何故私は取捨選択するのですか? 私は私を喜ばすものだけ選択します。違いますか? ピンクか赤か白か何かを。しかし私が観察するとき、私が気づくとき、取捨選択は起こりません。
 そうすると精神はこの伝統の全地図、全領域に気づくことができますか? あなたです、私ではありません。あなたはあなたの二番煎じの思考に気づくことができますか? あらゆる思考がいずれにしても二番煎じです。あなたはあなたがどのように順応するのか気づくことができますか? 順応するとはどういう意味ですか? 順応することと順応しないことの違いは何ですか? お分かりですか? どこに違いが…明らかにある特定の文化に自分自身を適応する必要があります―宜しいですか―ズボンをはくことや何かを行うことです、他の文化は言います、とても暑いからズボンではなく他の何かをはきなさいと。これらのことが分かりますか? では順応することと順応しないことの違いは何ですか? どうか耳を傾けて下さい。あなたが気づくとき、その二つの間に違いがありますか?
 いいえ。
 どうか同意しないで下さい、それを見て下さい、何故なら殆んどの我々にとって順応することは殆んど瞬時に起こります―ファッションの世界で、呆れたことの世界で、観念などの世界で。とても易々と我々は自分自身を適応させます、順応します。そして私は問うています、いつあなたはこの順応することに気づくのですか、知的にも心理的にも、そして恐らく身体的にも、というのは誰かがあなたに言うからです、あなたはヨガを行いなさい、するとあなたは出かけて行ってヨガを行うのです、そしてあなたは菜食主義者にならなければならなくて、あなたは菜食主義者になります、その他の全てのことがそうです―順応することです。順応することから自由であるということがありますか? お分かりですか? 私と一緒に探究して下さい。それは非常に興味深いことです。言葉ではなく実際にあなたが自由になれるのかどうかを、そのような自由というものがあるのかどうかを、順応することが自由の中でどのような位置を占めるのか明らかにして下さい。私の言っていることがお分かりですか?
 (聞き取れず)
 (繰り返して)自由があると知って自由であることを願うのは牢獄の中にいる人だけです。あなたが自由のとき、あなたはそれを意識しません。宜しいですか、マダム、あなたは順応することがどういうことか知っていますか? 精神は問うています、あなたがそれに気づくとき、何が起こるのかと。
 (聞き取れず)
 いいえ、マダム。もし私が私は順応していると気づくなら、何故精神は順応するのかのあらゆる問題が起こります。何故精神は順応するのですか? 恐れですか? 違いますか、肩をすくめないで下さい。
 我々はそのように育てられてきました。
 それが伝統です。あなたはそのように育てられてきました、そしてもしあなたが順応しないなら恐れが起こります、安全性の欠如を感じます、物理的にあなたは仕事を失うかもしれません、どうか…
 (聞き取れず)
 そうするとどこに順応しないことが起こりますか? もし我々の精神がいつも単に順応しているなら、人は牢獄の中で生きています。そして牢獄の中にいるなら、自由があるといっても無駄です。我々が牢獄を去ったときだけ自由があります。従って人はどこで順応することが消滅するのかを明らかにする必要があります。
 牢獄の気づきの中で。
 いいえ、止めて下さい―それは理論です。そうすると我々は我々が順応していることに気づきますか? 私はあなたにこのことを議論してほしいのです。
 (聞き取れず)
 (繰り返して)それは劇場で役を演じるようなものですか? 誰がその役を演じているのですか、どのような役を演じているのですか?
 私の役です。
 あなたの役。あなたの役は他の誰かの役と異なりますか? 宜しいでしょうか、これは役ではありません。我々は問うています、もし宜しければ、人が気づいているとき―我々は気づきについて話しています、他の何ものでもありません―人が心理的に内面で起こっていることに気づくとき、あなたは否応なくこの伝統の問題に行き当たります―伝統とは権威を受け入れることなどです。そしてあなたがそれに気づいてそれを見ると、あなたの反射的な反応はどういうものですか?
 それから自由になることです。
 では、その反射的な反応は、あなた自身を順応することから、模倣することから自由にすることです。そうですか?
 伝統的な背景は創造性にとって必要です。
 伝統と順応性は創造性にとり背景として必要です。賛成も反対もしないで下さい。そうすると我々は創造性が何を意味するのかを見てみる必要があります。どうして二番煎じな精神が創造的でありえますか? どうして伝統的な精神が創造的でありえますか? 私は…を知っています、おーっ、私はそれを検討する必要がありますか?
 創造性とは何ですか?
 創造性とは何ですか?
 何もないことから新しい何かを行うことです。
 はい、何もないことから新しい何かを行うことです。宜しいですか、今我々は描写することに、意見に没頭しています。違いますか? 見掛け倒しの取るに足らない生を送っていて驚くべき詩を書く作家がいます、彼は創造的ですか? 後生ですから、よく考えて下さい。自分自身や世界と格闘している男がその格闘を小説にして、その詳細な有様の全てを、その拷問を、そして心理的な不機嫌などその他の全てを書くかもしれません、彼は創造的ですか?
 はい。
 さあ、我々はやってきました! 我々は創造的であることが何を意味するのかを明らかにする必要があります。あなたは単に他の誰かを観察していて彼が創造的であるのかないのかを判断しているのです。違いますか? あなたは自分自身でそれが何を意味するのか明らかにしたことがないのです。
 (聞き取れず)
 いいえ、理論化しないで下さい。宜しいですか、これは何故ならもしあなたがあなた自身の中でそれを非常に非常に深く検討しないなら、あなたは決して明らかにしないで、あなたはただ理論化しているだけであると言えるからです。ですから戻ってきて下さい。我々は創造性が何なのかに向うでしょう。つまり、人が伝統的な生に気づくとき、いわゆる作家たちやクリエイターたちの伝統的な生は彼らがパターンに順応しているので順応です。そして彼らは才能を持っていて、あなたは彼らを創造的と言うのです。それは創造性ではありません―違います、私はそれらを検討しません。
 そうすると人が人の順応性に気づくとき―私はあなたが気づいていることを願います―あなたのその順応性に対する反射的な反応は何ですか? あなたはあなたがズボンをはくとき、そしてその他の全てを行うとき、あなたは順応しています、あなたが長い髪をしているとき、短い髪をしているとき、あなたは流行に順応しています、あなたは一時的な大流行に順応しています、あなたが拒絶してきたあなた自身の国の聖職者たちの中にあるのと同じあのグルの権威を受け入れるとき、あなたは順応しています。違いますか? あなたはこれら全てが分かりますか? 精神は順応することを望みます、何故ですか? 順応する活動とは何ですか、そしてそれはどこから湧き起こるのですか? さあどうですか?
 クリシュナジ、私が子供のころ、もし私が順応しなければ私は罰せられました。学校ではもし私が順応しなければ私は笑われました。
 分かります。
 もし私が順応しないなら誰もが寄ってきて何故…と言うでしょう。
 そうすると何故精神は順応したいと思うのでしょうか? 私は私が子供ころ彼らが私に順応するように、そしてその他のあらゆることをするように言うのを知っています、我々はそれら全てを知っています。しかし私は問うています、何故精神は順応したいと思うのでしょうか? そしてどのような精神が「順応するのは愚かなことである」と言うのですか?
 何故なら私は従属したいからです。
 はい、そうです。私はヒトラーグループに属したいのです、私は毛沢東グループに属したいのです、私は共産党グループに属したいのです。私の血の中には種族意識があります。それをただ見て下さい。…であるのは何と頼りないことか。待って下さい。そうですか? 
 (聞き取れず)
 我々は明らかにしているのです。あなたはあなたが順応していることに気づきますか? そしてあなたがあなたは順応していることに気づくとき、あなたの反射的な反応はどのようなものですか? そしてあなたはその反射的な反応に気づきますか? そしてもしあなたがその反射的な反応に気づいて、その反射的な反応を乗り越えるなら、あなたは叡智的であることがどういう意味か、従って順応することと余すことなく順応しないことがあることを明らかにするでしょう。私は何かを伝えましたか? 宜しいでしょうか、我々は全ての順応性を拒絶できません、違いますか?
 はい。
 どうか、はいとは言わないで下さい。よく考えて下さい。
 時には順応することが必要です、その次元によります。
 マダム、我々はそれを言っているのです。他の言い方をしましょう、叡智は順応性の結果ですか?
 あなたがその順応性を認識するとき順応しないことや順応することは問題ではありません、あなたはただそれに気づくだけです。
 そうすると気づきは―どうか耳を傾けて下さい―順応することに関して、それは叡智を呼び覚ましますか?
 順応することは…
 いえ、いえ、あなたは…私は気づきます、私は順応性に気づきます。そして私はその順応性に対する反射的な反応に気づきます。その反射的な反応の拒絶や受け入れに気づきます。私が拒絶するとき、それは反射的な反応の拒絶ですか、それともそれは叡智の拒絶ですか? 待って下さい。従って気づきは叡智の行為です。私が事実と面と向き合うとき、どのようにしたら私は反射的に反応することなくその事実と取捨選択することなく向き合うことができるのですか? 私が事実と面と向き合っていて、そして行動が必要なとき、私は取捨選択をする必要があります。
 それは「どのようにして私ができるか」ではなく…
 分かります。分かります。宜しいでしょうか。私は事実と面と向き合っています、そして私はその事実に取捨選択することなく気づくことができますか、そしてその取捨選択しない気づきからその事実に関する行動が起こりえますか? 我々はお互いにトリックを仕掛けているのですか? 私は事実と面と向き合っています。その事実は取捨選択を要求しますか? 事実です。
 (聞き取れず)
 待って下さい。それは行動或いは非行動を要求します。勿論です。さあ、機敏に進めて下さい。
 私はそれに気づきます。しかし私は途中で…
 分かります。待って下さい。私は道路の分岐点に来ます、そして道標があり、あなたの行きたいと思うところへ行きなさいと書いてあります、取捨選択しません。しかしもし道標がないと私は取捨選択しなければなりせん、従って私は誰かに尋ねます「ピサはどちらですか」と。それは非常に簡単です。取捨選択しません。あなたは何を…
 もし道路に誰もいなかったら。
 従って私は尋ねているのです―私は全てのトリックを知っています。(笑い) 私は尋ねています、事実は取捨選択を要求しますかと。事実は―聞いて下さい―私が苦しんでいるという事実です、その事実は、それは取捨選択を要求しますか? 事実は決して取捨選択を要求しません、それは事実に対する私の反射的な反応です。勿論です。私はその苦しみから逃げることができます、私はその苦しみを合理化できますし、その苦しみから逃げ去ることができます、あらゆることができます、事実は決して取捨選択を要求しません、それは行動を要求するだけです。
 何故それは行動を要求するのですか?
 おーっ、宜しいですか。ヘビがいます。それは事実です。それは毒蛇かもしれないという事実です、従ってその事実は行動を要求します。あなたはそれを放っておくか、それともそれと戯れるか、その他のあらゆることです。あなたはこれらのことに出会っていません。
 私は要点に戻りたいと思います、宜しいでしょうか、あなたがこれと共に歩を進めることを願います。何故なら我々が話しているのはあなたの生だからです、私の生ではありません。
 事実は行動を要求します。
 それです、事実は行動を要求します―それは同じことです。
 もし私が“現実”を見るなら混乱はありません。
 はい、そうです、それです、もし私が“現実”を見るなら混乱はありません。もし私が私は嘘つきであると分かるなら混乱はありません。もし私が私は二枚舌を使っていると分かるなら、或いはもし私が誰かを憎んでいると分かるなら問題は起こりません。その事実が行動を要求します。
 私はガラガラヘビに関してあなたがどのように行動を起こすことができるのか分かりません。
 宜しいでしょうか、私はそれを例えとして取り上げました、宜しいでしょうか。その例えを忘れて、そして見て下さい。私は尋ねています、あなたがあなたは順応していると気づくとき、そしてあなたがあなたの取捨選択に気づくとき、あなたの反射的な反応に気づくとき、その反射的な反応は更なる反射的な反応の連鎖を生みますか? お分かりですか? そうなりますか? そうすると人はいつも過去の中を生きていることになります。ではあなたが反射的な反応をせずに順応性に気づくとき、それをただ観察するだけのとき、その気づきは叡智の行為です。違いますか? 私はあなた方の幾人かがこのことを理解するのを期待します、私は幾度も幾度も繰り返せません。
 従って気づきの中に取捨選択は起こりません。気づきは叡智の行為です。ではそこから次のことへ進みましょう、つまり、気づきと気をつけていないこととの関係、気づきと気をつけていることとの関係はどのようなものでしょうか? それを我々は議論しています。
 気をつけていることは余すことなくですか、それとも部分的にですか?
 我々は明らかにしようとしています、宜しいでしょうか、我々は今探究しています。精神は余すことなく気づきますか、それとも部分的にだけですか? その無意識的な活動に気づきますか、それともそれは表面的な次元にだけ気づくのですか? さあ、どうでしょうか。
 それは我々の性質の一部…
 宜しいでしょうか、もし宜しければ、我々が議論していることは大いなる意義があります、何故なら我々は―どうか、私はそこへ戻らなければなりません―我々は人間の精神の中に根本的な変化を生み出すための人間としての責任に関心があります。お分かりですか? そこが全てのトークを通じて全ての議論を通して我々の関心を寄せる所です。何故なら人の意識が変わると、あなたは世界の意識に影響するからです。あなたはこのことが分かりますか?
 気をつけていないことは背景に原因があるように思われます。
 我々は明らかにしようとしているのです、宜しいでしょうか。しかし私が指摘したいのは全てのトークが、我々が行ってきた七つのトークが、そして我々が今行っている対話や会話が人間の精神の、その内容の変質に関わっていることです、というのはその内容が、人間の意識がこのぞっとするような苦しみや混乱した世界を生み出してきたからです、そこには飢えがあり戦争があり暴力があり分断があり政治の腐敗があるからです―それは続いています。このようなこと全てに責任を感じる人なら誰でも行動を起こす必要があります、それは単に腰を下ろして理論化し続けることではないのです。
 ですから腐敗要因の一つが順応性です。どのようにして精神は―“どのようにして”ではありません―精神は順応性や叡智や気づきの性質を悟りますか? 宜しいですか? ですから我々は幾分か順応性を検討してきました、そして我々は今問うています、気をつけていることは気をつけていないことと、そして気づきとどのような関係にあるのかを。宜しいですか? それらは全て関連しています。何故精神は気をつけていないのですか―いや、精神は継続的に気をつけていられますか? その違いが分かりますか? 継続的に気をつけていることは気をつけていることですか? それをどうか検討して下さい。
 いいえ。
 気をつけているときに時間的な活動が起こりますか? 従って私は気をつけていないことの要因を探究しなければならなくて、気をつけていることがどういうことなのかではないのです。どうかこのことの重要性を分かって下さい。つまり、私は一分間気をつけています―それは相当に長い時間です。気をつけていると、私は私の精神や私の神経や私の持っているあらゆるものを、気をつけるために、耳を澄ますために、見るために捧げます、そしてその気をつけている中で私は全てのエネルギーを捉えていて、全てのエネルギーがそこにあります。そのエネルギーの中には途轍もない明瞭性があります。そこでそれが終わると次の瞬間に私は気をつけていなくなります。違いますか? そうして私は自分自身に言います「おーっ、私はいつも気をつけていたい」と。そこで私は訓練を始めます―これに耳を傾けて下さい―私自身を訓練し始めます。私は自分自身を訓練し始めて言います「私は気をつけていなければならない」「私は自分自身を見つめていなければならない」「私は自分自身を鍛えなければならない」「私は正しい食べ物を取らなければならない」「私は気をつけていることに精神集中しなければならない」―分かりますか? しかし私は決して問いません、気をつけていないこととはどういうことかと。何故なら私は一秒間或いは一分間気をつけていて、そして私は気をつけていなくなるからです。気をつけていないことを理解することの方が気をつけていることを理解することよりも遥かに重要です。分かりましたか? 宜しいですか? そこは明らかですか、続けて良いですか? では気をつけていないとはどういうことですか? 何故精神は気をつけていないのですか? そして何故精神は気をつけていないことがあってはならないのですか?
 我々は気をつけていなければなりません…
 いいえ、いいえ。宜しいでしょうか。いいえ、宜しいでしょうか、私は説明しました。一分間私は非常に気をつけています、私はあらゆるものが非常にはっきりと見えます、私には葛藤がありません、大いなるものを感じます、宜しいですか、完全に気をつけていることです、問題が起こりません、何もありません。そしてその気をつけていることが止んで、私は突然自分自身で私が気をつけていないのが分かります、私はその明瞭性の質を失いました、そして私は言います「どのようにして私は再びそのように気をつけているようになるのか」と。そして私はもがいて問いかけます、そして私はそのように気をつけていることができないので私は惨めになります。そこで私は言います、重要なのは気をつけていることを理解することではなく、差し当たり気をつけていないことを理解することであると。宜しいですか? それはとても単純です、宜しいでしょうか。気をつけていないこととはどういうことでしょうか、何故精神は気をつけていないのでしょうか?
 思考が気をつけていないことの原因であるように思えます。
 そうするとあなたは言います、思考の働きが気をつけていないことの原因かもしれないと、そうですか? あなたは本気でそう言っているのですか、それともそれはただの推測ですか? これを推測しないで下さい、これは当てっこ遊びではありません。私は気をつけていないことの重要性を明らかにしたいのです―どうか耳を傾けて下さい―気をつけていないことの重要性と気をつけていることの重要性です。宜しいですか? 気をつけていないことは精神が休養を必要とすることかもしれません、そのような高揚したエネルギッシュな途轍もない気の働きを必要としないことかもしれません。従ってそれは言います「二、三分休ませて下さい」と。しかしその数分の間に―ちょっと聞いて下さい―その数分間でどのような行動も腐敗した行動になります。私の言っていることがお分かりですか? あなたが機敏に私と一緒にいることを願います、私は疾走しています、あなたはそうではありません。
 宜しいですか、私は一分間気をつけています、そしてそこには境界がありません、時間がありません、私がいません、問題がありません、全てのエネルギーがその気をつけていることの中に含まれています、それは高揚して気をつけていることであり、エネルギーです。それは精神にとって途轍もない活動です。そうするとそれは疲れて気をつけていなくなります。そしてその気をつけていない状態の中ではどのような行動も条件付けされているはずです。マダム、宜しいですか? 私の質問がお分かりですか? 宜しいですか、私は気をつけています、その気をつけている状態のときには私は努力することなく考えることなく、宜しいですか、物事を行うことができます。それが本当の創造性です―我々はそれを検討しません。そして気をつけていない状態のとき行動を進めなければなりません―宜しいですか―私は友達と会わなければなりません、私はそのことに退屈しています、そこで行動を進めなければなりません。行動しているとき、もし私が気づいているなら、気をつけていないのではありません。あなたがこれらのことに付いてきているのか疑問です。 私の質問がお分かりでしょうか? 精神がそれは気をつけていないと気づくとき気をつけているのです―我々は気をつけていることを維持しなければならないということではないのです。あなたはこのことを理解するでしょうか。
 そのように気をつけていないことは気をつけていることの一部です。理解しましたか? 宜しいですか? 気をつけていないことから気をつけていることへ行くのではありません。宜しいでしょうか、瞑想は、動機があり従って目的がある精神集中の全く起こらない、余すことなく気をつけている働きです。あなたはこれらのことがお分かりですか? そして瞑想の中には気をつけていないことがありえます―お分かりですか? おーっ、このことに付いてきて下さい。だめですか、あなたは付いてきていません。どうか、私に同意しないで下さい。私はあなたが私の言っていることに付いてきているとは思いません、というのはそれが本当に極めて複雑だからです、このことは。今は瞑想を議論するときではないので私はそれを議論してはいけないと思います、恐らく我々はそれを明日行えます、もしあなた方がそうしたいのなら。
 私が指摘しているのは、その気をつけている状態の中には、状態です、それは活動です、それは死んだものではありません、それは気をつけている活動であり時間的な活動ではありません―時間的な活動は精神集中です―その気をつけている性質の中には時間がありません、境界がありません。境界が何か分かりますか? 固定です。中心がないので境界領域がありません。それが気をつけていることです。ではその気をつけている中に何故気をつけていないことがあってはならないのですか? お分かりですか? それは全領域です、私は気をつけていないことを気をつけていることから分離しません。あなたはこのことがお分かりでしょうか。あなたが気をつけていなくて「何としても、私はこれを棄ててあれを捉えよう」と言うときにだけ、あなたは気をつけていないことを気をつけていることから分離します。
 宜しいでしょうか、あなたが言っているのは気をつけていないときに気づくとき…
 いいえ、いいえ。ではエネルギーの問題です―今何時ですか? 宜しいでしょうか、順応することはエネルギーの浪費です。宜しいですか? 私が伝統によってもたらされたパターンに順応するとき―伝統が意味するもの全て、単に一つの伝統ではなく、全体、それは権威やそれら全てです―順応するときエネルギーの浪費が起こります、というのはそのとき葛藤が起こるからです―私は順応してはいけない、そしてどこに私は順応性の線を引いたら良いのでしょうか? これらのことが分かりますか? 従ってそれはエネルギーの浪費です。そして権威を受け入れること―権威、はじめにこのことを理解しましょう、即ち、法の権威があります、私がそれに順応しなければ私は牢獄に入れられるでしょう。つまり、もし私が道路上で順応しなければ、左側或いは右側を守らなければ、私は直ぐに事故に会うでしょう、従って私は順応しなければなりません。今我々は順応性のことを言っています、我々が順応性の全ての性質に気づくとき、そして私がその中に意味されていることやそれがエネルギーの浪費であることが分かるとき、気をつけていることと気をつけていないことの気づきの中に―お分かりですか―全く異なった叡智が生まれます、そしてそれが言います「順応しなさい」或いは「順応してはいけません」と。指示するのはあなたの反射的な反応ではありません。あなたはこのことを理解したでしょうか。私は早すぎますか?
 (聞き取れず)
 待って下さい、いいえ、いいえ。あなたはそれを違うように解釈しています。私は私が今言ったことを知りません、私はそれを繰り返せません。宜しいでしょうか、我々はかなり不注意な人間です。我々は反射的な人間で、いつも反射的に反応しています。今私は順応性の問題を抱えています、そしてそれは伝統的な構造の一部です。精神は順応性の意味するものとその構造に気づきます。何故精神は順応するのか、何故ならそれは恐れるからです、それはそれ自身を守りたいからなどです。反射的な反応が起こるときのそのような気づきの中ではそれは依然として反射的な反応です。そして私はそのような気づきの中でその反射的な反応が私の背景から起こるのが分かります、そしてその背景が言います「順応しなさい」と。宜しいですか? そうすると精神は順応性に気づくことができますか、その反射的な反応やその反射的な反応の打ち続く波に気づくことができますか? そしてあなたが順応性や反射的な反応や反射的な反応の波にとても気をつけているとき、その気をつけている中に叡智が働き、あなたに順応すべきときや順応すべきではないときを伝えます―それは反射的な反応に基づいていません。宜しいですか? それはとても単純です。
 (聞き取れず)
 待って下さい。あなたはあなたの言いたいことを言います。あなたは私が言わんとしていることを理解しましたか? 宜しいですか。
 (聞き取れず)
 我々は、宜しいでしょうか。我々は気をつけていないということが何なのかの問題を検討しています。何故なら、宜しいでしょうか、最高の形の叡智が狂った世界の中に必要だからです、そして叡智はあなたの叡智でもなければ私の叡智でもありません。勿論です。それは国民的な叡智でもなければ宗教的な叡智でもありません―宗教的な叡智ではないという意味はある宗教に属していないという意味です。それは宗教の正に本質です。待って下さい。もしあなたが耳を傾けるなら私はそれを検討しようと思います。
 そしてその叡智はあらゆる次元で働く叡智です、そしてそれが本当の宗教的な叡智です―偽の宗教的なそれではありません―そして私は精神が、何世代にも亘って順応してきた精神が益々より機械的になっていると、そのような精神は、それが世界を変えるために或いはより偉大なこれやあれを生み出すために何をしようと、それは依然として順応性の世界の中にあると分かります。宜しいですか? どうかこのことに付いてきて下さい。そして私の関心は、人間の意識が異なった構造と性質を生み出して世界の中で働くために変化させられなければならないことです。私はその責任で胸を焦がしています、それは単なる言葉ではありません。そして私は人間が非常に僅かしか気づいていないことが分かります。彼らは彼ら自身の快楽や彼ら自身の成就事や彼ら自身の欲望や彼らの欲求不満や彼らの怒りなどその他のあらゆることに気づいています。しかしそれは非常に狭い気づきの領域です。そして気づきは余すことのない活動を意味します。その活動の中には取捨選択が起こりません、それを我々は検討しました。とても気をつけていること、そのように気をつけていることを維持すること―恐らく非常に少数の人達しかそれはできません―そして彼らはそのように気をつけていることを実践してきています、そしてそれが瞑想の考え方の全てです。そして私は精神集中があるところには、そしてそれには動機があり、抑制があり、抵抗がありますが、それは気づきではないと分かります。そして気をつけていない状態もあります。気をつけていないことは気をつけていることの対極にある何かですか?
 同じコインの別の面。
 同じコインの別の面。宜しいでしょうか、私は明らかにしたいのです、言葉でではなく、私は気をつけていることと気をつけていないこととの関係がどうなのかを明らかにしたいのです。あなたが「それは同じコインの別の面」と言う瞬間に私はイメージを描きます、そして言います「はい」と、しかし私は明らかにしていません。それは何らかの現実ではありません、それは私が受け入れたただの描写的なイメージです。従って私は気をつけていないことが何なのかを明らかにしなければなりません。そして何故精神は気をつけていないことがあってはならないのですか? 気をつけていない状態のときにだけ快楽の増大や恐れの増大があり、私はそれに反応します。お分かりですか? その気をつけていない状態のとき、私は問います、それの何が悪いのですか、何故私は気をつけていないことがあってはならないのですかと。
Q 気をつけていないことは悲しみをもたらします。
 私は分かりません。何故私は気をつけていないことがあってはならないのですか? 私は気をつけていました。宜しいでしょうか、私は一時間半気をつけていました、何故私は数分間気をつけていないことがあってはならないのですか、何が悪いのですか? その気をつけていないことは気づいていないことですか? そのことを見て下さい。
 いいえ、違います。
 そのことを見て下さい、宜しいでしょうか。
 私は私が気をつけていないことに気づいています…
 はい、我々はそのことを先ほど言いました。あなたは私の要点が分かっていません。
 静寂があります。
 いいえ、私は静寂や何やらを話していません。私は気をつけているだけです、私は丸一時間気をつけていました、そして何故私は今気をつけていないことがあってはならないのですか? 一分間そこにただ留まって下さい。気をつけていないことは気をつけていることの何らかの対極ですか? 違いますか。或いは、精神が休息を取っているのですか?
 それが気をつけていないことです。
 それは気をつけていないことではありません。宜しいでしょうか、一時間半の間、話し手は気をつけていました。そして彼は言います「私は休息します」と。休息しているとき、気をつけていないのではありません。
 (聞き取れず)
 待って下さい、待って下さい、待って下さい。
 もしあなたの感受性が鋭敏ならあなたは気をつけています、そして気をつけていないときにあなたは感受性を失います。
 違います、違います。彼は言います、感受性は気をつけていることを意味すると、そして気をつけていないときにあなたは感受性を失うと。宜しいでしょうか。あなたが長い間気をつけていると、我々がこのテントの中でそうしているように、もしあなたが今朝そうしているなら、精神は言います「私は休息しています」と。そのように休息しているとき精神は気をつけていることに即座に反応できます―即座に。しかしそれは穏やかに休息を取っています、それは休息しています。それのどこが悪いのですか?
 どこも悪くありません。
 それでは我々は何に反対しているのですか? 待って下さい、待って下さい。ゆっくり行きましょう。私はあなたに示します、あなたが… 気をつけていないその状態のとき、それはあなたが決して気をつけていないのではありません。
 (聞き取れず)
 宜しいでしょうか、二分間私に頂けますか? ただ付いてきて下さい。気をつけていること、あなたはそれの意味することを大なり小なり知っています。もしあなたがそれを非常に非常に非常に深く検討しなければ精神はそのように気をつけていることを維持できません。そして精神は疲れて言います「休息します」と。休息しているそのとき、それは気をつけていることに即座に反応できます。そして他の種類の気をつけていないことがあります、他の種類の休息があります、つまりそれは、私は一瞬気をつけていることを捉えました、そして私はそのように気をつけていることを維持しようともがいています。そのように気をつけていることを維持しようともがくことが気をつけていないことであり、そこからは即座に反応することができないので私は私の伝統に従って休息します。
 (聞き取れず)
 勿論です。それは問題ではありません。私は私が…を使っているのは知っています。宜しいでしょうか、機敏に振舞って下さい。
 (聞き取れず)
 あなたは気をつけていないのですか? あなたが車を運転しているとき―いえ、私は直喩を使ってはなりません。私は直喩を使いません、何故ならそれは非常に危険だからです。あなたは気をつけていないことがどういうことか知っていますね? 我々は皆それを知っています。その気をつけていない状態のとき我々は葛藤をもたらすことを行います、我々は好ましくないことを行います、我々は恐らく他の人を傷つけることなどを行います。我々はそのような気をつけていないことを知っています。宜しいですか?
 我々はそれをその瞬間は知りません、我々はそれを後で知るだけです。
 はい、しかしそれは気をつけていない状態です。宜しいですか? 私があなたについてひどいことを言うとき、或いはあなたを批判するとき、或いは「あなたは素敵な人です、私と友達になって下さい」と言うときなど。それらは全て…我々はそれを知っています。そして気をつけていないその状態のときに行動します。宜しいですか? 我々は行動しませんか? 勿論します。私が何かひどいことを言うとき、私は行動しています。そのように殆んどの我々は気をつけていないことがどういうことか知っています。その類の気をつけていないことは気をつけていることと何の関係もありません。私は、精神は、その類の気をつけていないことから気をつけていることへ移れません、そのような活動は依然として気をつけていないことでしょう。違いますか? あなたは疲れてきていますか?
 そうすると私はそのことが分かります。そうすると私はこのことが分かります、つまり、気づき、感受性、気づき、気をつけていること。その気をつけている状態のときには―その気をつけている状態は完全であり、エネルギーの総和です、もしあなたの身体や精神やあらゆるものが完全に調和していなければ、あなたは丸一時間そのように気をつけていることを維持できません、不可能です、或いは一時間半。そのように暫くのあいだ気をつけています、そのように気をつけているとき気をつけていないことも起こります―宜しいですか―あなたは言います「私は休息しています、私は穏やかにしています」と。そのように気をつけていないことは通常の気をつけていないこととは全く異なります。分かりましたか? それが全てです。御機嫌よう。
                     1974年 8月3日 ザーネン 対話 4
                                  中野 多一郎 訳