クリシュナムルティ(K) 我々が昨日話したように、我々は対話をしています、それは二人の間の会話を、或いは多くの人達との間の会話を意味します、我々は人間の何らかの問題に興味があります、或いは関心があります、そしてそれらの問題を、気を配りながら、愛情を持って、いかなる形の主張も議論も差し挟まずに、深く検討したいと思います。そして弁証法的な方法は意見を通して真理を見出そうと探究します。従って我々は弁証法的に探究しません。我々は、二人の友人として、人間の問題を一緒に話し合って、それらを解決し、真理を発見したいと思います。
我々は真理に至るテクニックを見つけようとしているという大きな誤解があるように思われます、テクニックというのは何らかの方法を学ぶこと、何らかの方法を実践すること、あなたや誰かがこの真理に行き当たるように手助けする何らかの形のテクニックを学ぶことを意味します。我々は真理に至る何らかのテクニックがあると唱道したり或いは言ったりしているのではありません。どうかこのことをはっきりさせてください。テクニックは方法を学ぶことを意味します。つまり、火星に行くためには、彼らが行ったように、それは大変な途方もない偉業ですが、膨大な技術的知識、ノウハウの蓄積された膨大な知識が必要です。しかし真理は道なき道なので―どうかこのことを心に留めておいてください―それは道なき道です、あなたはそこへ至る道筋を描くことも、方向性を見定めることもできません、そのようなことを実践することも、そのように自分を律することも、何らかのテクニックを学ぶこともできません。
ですから、どうか心に留めておいてください、我々は何らかのテクニックやメソッドやシステムを与えたり、提示したり、語ったりしているのではないということを。我々はすでにかなり機械的に考える傾向にあります、我々の精神はすでに十分に機械的です、そして何らかのテクニックを実践することによって、何らかの言葉を繰り返し唱えることによって、或いは沈黙することなど、あなたが知っているそれら全ての類によって―全てのテクニックは大なり小なり全ての機械的な活動から精神を解きほぐすか自由にするのでしょう。私はそうはならないと思いますが。我々が言っているのは、見つけようとする興味や意欲や強い気持ちをあなたが持たなければならないということです―自分自身で見つけることであり、そのやり方を教えられることではないのです。そうすると、あなたが発見することは、あなた自身の何かであり、あなたはあらゆるグルから、あらゆるテクニックから、あらゆる権威から自由になるでしょう。我々がそれらの事柄について対話をしているとき、どうかそのことを心に留めておいてください。
それでは、今朝我々は何を話しましょうか、何を対話しましょうか?
質問者(Q) 理解の本質について話せますか?
K 理解すること。理解の本質。
Q (聞こえず)
K 分かりました。質問者は言います、我々は、無防備であること、オープンにしていることを恐れます、なぜなら、あなたが無防備であればあるほど、あなたは傷つきやすいからです。ですから、我々はオープンにしていることを恐れます。宜しいですか、無防備という言葉は、違いますか、風の中の木の葉のように、それが風に対して無防備であることを意味します。それでは我々はそれを議論できますか?
Q (聞こえず)
K 他の人について抱くイメージに関する人間の責任。我々はそれを議論できますか、責任です。
Q (聞こえず)
K 発言、言葉、思考、沈黙する精神の関係。
Q (聞こえず)
K 動機を持たないでどのように生きられるのか―それが質問ですか? はい。動機を持たないでどのように生きられるのか。では差し当たり、それで十分です。その紳士は理解することについて議論或いは対話したいと言いました。発言と言葉と思考と沈黙の関係。関係の中でイメージを抱かない責任。それらの質問がありました。そして無防備であること。我々は動機を持たずに生きられるのか。それでは、それらの質問からどれを取り上げましょうか、それらの質問の中の一つを取り上げて、それを考え、或いはそれを観察し、或いはそれをその最後まで追跡して、他の方向へ逸れることなく、他の全ての質問を含むかもしれないその一つの質問の最後まで行くことにします。
Q 理解することです。
K 理解すること、はい。それも良いと思います、私自身もそれを取り上げようと思います。理解することです。その理解するという言葉で我々は何を意味しますか? どうかそれをゆっくり検討してください、急がないでください。何かを理解するということは、その中にどのような意味が含まれていますか? それは言語的な理解ですか、言葉による描写で理解することですか、愛情で理解することですか―私はあなたが好きで、私はあなたと友達ですから、私があなたに何かを言うと、あなたは私の言うことを理解します。それとも、それはむしろ複雑で込み入ったことに閃くことですか? それとも、理解することはどのように起こるのですか? 私の質問がお分かりですか? 理解は、言葉によるコミュニケーションで、それは描写ですが、起こるのですか? と言うのは、あなたと私は、もし我々が英語を話しているのなら、それは何か、フランス語でも、イタリア語でも何でもよいのですが、言葉によるコミュニケーションです、そしてその描写の中にあるのは何らかの理解ですか、それともそれは何らかの閃きですか? それとも理解は単に言葉で起こるのではなく、単に描写で起こるのではなく、その言葉を超えていくことですか、そしてそれは、あなたと他の人が共に思考の性質である言語的な構造から自由になり、看破して閃くことですか? お分かりですか?
我々は、私はどのように車が走るのか理解します、それは非常に簡単です、私は車の内部を観察して、それを元通りにし、それで遊びました、私はそれがどのように動くのか知っています、私は山の登り方を理解します、私は知っています、しかし、我々は心理的に理解することを話しています、違いますか、深い理解です、単なる通俗的な理解ではなく、閃きをもたらすもっと深い理解です。‘ひら・めく’ということは、何かの中に何らかの光景を見て、それが真理になるという意味です。そして私はそこから決して引き返せません。お分かりですか? 私が何かを理解するとき、それが意味するのは、私がそのことに閃いて、そのためにその正に閃きがあらゆる誤解を、あらゆる複雑さを拭き払い、あなたがその中に明瞭な光景を目にすることです。
従って、理解するとは、違いますか、精神が、或いは頭脳が、精神の全構造が、言葉だけではなく言葉を超えて、その発言の深い意味を見て取って閃くことを意味します、そしてあなたは言います「理解しました」「分かりました」と。そのように、閃きは、穏やかに、進んで耳を傾け、言葉を超えて、何かの真理を観察することを意味します。例えば、話し手が発言します「悲しみの消滅は知恵の始まりです」と。彼はそのような発言をします。それでは、どのようにあなたはそれを受け取りますか? どうか私に耳を傾けてください。話し手がそのような発言をします「悲しみの消滅は知恵の始まりです」と。どのようにあなたはそれを受け取りますか? あなたはどのようにその発言に反応しますか? それをあなたは何らかの観念にして、何らかの抽象的なものにして、その抽象的なもので、それは観念ですが、彼の言ったことを理解しようとするのですか? それとも、あなたは耳を傾けて、つまり、あなたはその言葉に耳を傾けて、その言葉の意味に耳を傾けて、そしてその言葉を超えて、その発言の真理を見るのですか、或いはその発言の誤りを見るのですか? どのように悲しみを消滅させるのではなく、或いはどのように知恵を手にするのかではなく、あなたはその発言が真理を伝えているのかどうか、或いはその発言が誤りであるのかどうかに耳を傾けるのです。真理或いは誤りを観察するためには、あなたの精神は穏やかでなければなりません、そうしてあなたはそれに閃いて言うのです「何と、それは本当です!」と。それと同じように、理解することは何らかの問題に閃くことを意味します。違いますか? そのように、あなたは全ての議論を、全ての弁証法的なアプローチを超えていきます―そうなります。それは揺ぎないことです。例えば、話し手が「真理に至るテクニックはありません、真理は道なき道です」と言います。彼がそのように発言します―彼はそれを五十年前に発言しました―あなたはどのようにその発言を受け取りますか? どうです。あなたはどのようにその発言を受け取りますか? これは対話です。あなたはそれをあなたの意見に照らし合わせて受け取りますか、そして、いいえと言いますか、それは真実ではありえません、なぜなら誰もがテクニックのことを、そのメソッドのことを、そのシステムのことを言うからです、そしてこの男がやって来て、真理へ通じる道はない、真理に至るテクニックはないと言います。そこで、あなたは言います、では誰がこのことについて正しいのか、この男が正しいのか、それともあの男が正しいのかと。そうすると、あなたは議論しているのですか、較べているのですか、判断しているのですか、それともあなたは、何が正しくて何が間違っているのか知ることなく、その発言に耳を傾けているのですか、なぜならあなたは知らないからです、実際にあなたは知りません。十人が、或いは百万人がテクニックはあると言ってきました、そしてある人がやって来て言います、テクニックというものは全くありませんと。どのようにあなたは知りますか―お分かりですか? この男は全く間違っているかもしれません。そして、彼は説明します、テクニックというものは実践を意味します、時間を意味します、機械的なプロセスを意味しますと。我々の精神はすでに十分に機械的です、そしてあなたはそれをもっと機械的にしています。違いますか? そのように彼はそれら全てを説明します、そしてあなたは依然として言います、それでも沢山の人達がテクニックを身につけていますと。あなたはそれら二つを天秤にかけて、私はそれよりもむしろこちらを好みますと言いますか? それとも、あなたは客観的に完全に沈黙して、穏やかに、真理が何かを知ることなく、言われたことを受け取りますか? あなたが穏やかに耳を傾けていると、それは完全に気をつけていることを意味しますが、あなたは発見します、言われていることに閃きます、そうすると、それはあなたのものでもなければ私のものでもありません。あなたは分かるでしょうか。それは、何が真実で何が誤りかを見つけることです。誤りの中にある真理を見つけることです。違いますか? そうすると、あなたの精神は途方もなくオープンに、守ることを知らないで無防備になっているに違いありません―違いますか―他にあなたは知りません。我々はお互いを理解しているでしょうか。
宜しいですか、愛は知的なものですか? テクニックは知的なものです、メソッドは知的なことです、あなたは何らかのテクニックで愛せますか? 宜しいですか? 愛せますか? とても素敵に、とても親切に、とても優しく振舞うなど、宜しいですか、その他全てのことを実践して、何らかのメソッドを実践して、その一年後に、あなたは愛しますか? そうしますか?
Q いいえ。
K それは不可能です、違いますか? それでは、なぜあなたはいいえと言うのですか?
Q なぜなら、それはテクニックを含むからです。
K その通りです。なぜあなたはそう言うのですか? ちょっと待ってください、なぜあなたはそう言うのですか? 私は、もしあなたが親切心や優しさや非暴力などを実践すると、愛が生まれるのでしょうか、と言いました、あなたはその最後に愛を手にするのでしょうか? あなたはそれを手にするのでしょうか?
Q いいえ。
K あなたにいいえと言わせるのは何ですか? 何があなたにいいえと言わせるのですか? そのことを注意して聞いてください。
Q (聞こえず)
K いいえ、宜しいでしょうか、私に耳を傾けてください。我々は言いました、愛は何らかのテクニックとして知的な努力の形で生まれうるのかと、そしてあなたはいいえと言いました。 何があなたにいいえと言わせるのですか?
Q (聞こえず)
K 注意して聞いてください。何があなたにいいえと言わせるのですか?
Q (聞こえず)
K あなたは、テクニックは何らかのメソッドであり、それは知的なことであると閃いています―宜しいですか―どのようにそれが愛を生み出せるのですか? お分かりですか? 本能的な反応があります。宜しいですか、もし誰かが言うとします―注意して聞いてください―観察者が正に観察されている当のものである―観察者は過去であり、彼が観察するものは彼の過去の背景を通してのものです、従って彼が見るものはその背景から見られるものです。観察者が正に観察されている当のものです―彼はそのように発言します、そしてあなたは言います「私はそれが理解できません」と、違いますか、「私はそれが分かりません、どうか別の言い方で言ってください」と、そうすると話し手は言います、思考者が正にその思考であると。もし思考が起こらなければ思考者は存在しません。そうですか?
Q そうです。
K なぜあなたはそうだと言うのですか? なぜならあなたは明白なものを見ているからです、違いますか? そして彼はさらに言います、経験者が正にその経験であると。そして彼は言います、経験者はその経験を認識するはずであると、そうでなければ経験というものはないでしょうと。従って、認識は過去を意味します。そのように過去がその望むことを経験します、或いは彼が思い描いたことを経験します。そしてあなたは言います、はい、その通りですと。そのように、あなたは本能的に、或いは、むしろそれが非常に明瞭に言われると、あなたは言います、完全にそうですと。そのように、理解は、我々が共に共通の言葉を話し、その言葉が私にとってもあなたにとっても同じ意味を持ち、我々が同じことを、同じ興味で、同じ強い意気込みで話しているときに、生じます、そうするとじかに通じ合うことになります。違いますか?
Q 言葉だけで。
K 言葉だけで。我々はそのことを済ましています。言葉はコミュニケーションの手段にしかすぎません、しかし我々は言葉を超えていかなければなりません。我々はそのことを十回言ってきました。
Q (聞こえず)
K 猿。はい、そうです。非常に有名な話があります、あなたが聞きたいかどうか知りません。仏陀の所に行った非常に有名な猿の話があります、猿が仏陀に言います「私は瞑想を過去二十年間行ってきました」或いは五十年間「そして私は極めて途方もないことができます。私は数秒で世界を駆け回ることができます」と。そして仏陀は、彼の手を伸ばして、そこに座っている猿に言います、「やって見てください」と。猿が言います「私は世界中を駆け回る途轍もない努力をします」と。そして彼は目を開けて、彼は言います「あなたはまだそこにいる」と。(笑) お分かりですか?
Q (聞こえず)
K その通りです。人は自分自身の周りに壁を築いてきましたと、質問者は言います、そして人はその壁を乗り越えようと願います、なぜなら、その壁が牢獄になるからです、その壁が抵抗の壁になるからです、それは孤立を、辛辣さを、愛の欠如などその他の全てを意味するからです。そして、そのようにあなたは言葉による説明を聞くと、あなたは乗り越えたいと思います。ちょっと待ってください。違いますか? 言葉による説明は、あなたは自分自身の願望によって、傷つきたくないという自分自身の願望によって、あなたが内に閉ざした囚人であるということです、あなたは一つ一つ石を積み上げてこの壁を築いてきました、話し手はその壁を描写します、その壁の結末を説明します―辛辣さや悲しみ、孤立、孤独などです―そしてそこから暴力などそれら全てが生じます、彼はそれを話します、そしてあなたは言います「私はその壁を乗り越えたい」と。それは、あなたがどうしてその壁を築いてきたのかに閃いていないことを意味します。あなたの関心は全てそれを乗り越えることに向けられています。ですから、あなたはそれを決して乗り越えないでしょう。一方、もしあなたが、傷つく全ての活動がどういうことかに閃くなら、抵抗や孤立がどういうことかに閃くなら、その全体の光景を見て取るなら、その全体の光景を観察するなら、その壁は存在しません。
Q (聞こえず)
K それが、なぜ私が...どうか我々の言っていることをはっきりさせましょう。閃くということは、傷つくことの全活動を完全に観察することを意味します。我々はそれを一つの例として取り上げています。傷つく活動を完全に理解することです。
Q なぜですか?
K 待ってください。話します。最後まで聞いてください。後でなぜなのかを話します。我々は傷つく全活動を理解しますか、或いは観察しますか、その全活動です、ただ単に壁を築くことだけではありません。なぜ我々は傷つくのですか、我々が自分自身について抱いてきたイメージです、そしてそのイメージは私です、そうすると私が傷つきます、そうして私はもっと傷つかないように自分自身の周りに壁を築きます、なぜなら私が無防備なら私はもっと容易く傷つくことが分かるからです、だから私は自分自身の周りに壁を築きます。そして、自分自身の周りに壁を築くことによって、私は抵抗します、そして抵抗していると私はますます内に篭ります、ますます孤立します、そしてその孤立感から私は自暴自棄になり、自暴自棄ではないあなたを見ると、私はあなたに憤慨し、私は辛辣になります。その他の全てのことが起こります。私は見て取るのでしょうか、私は傷つくこの全活動を観察するのでしょうか、私は傷つくこの全活動に気づくのでしょうか?
Q (聞こえず)
K ちょっと待ってください。分かりました。あなたの質問は分かりました。最初に、このことを済ませてください。あなたはこの全活動を観察しますか、この全活動に気づきますか? それとも、あなたはそれに部分的に気づくだけで「それを乗り越えるにはどうしたらよいのですか」と言うのですか? この活動に部分的に気づくとき「それを乗り越えるにはどのようにしたらよいのか教えてください」となるのです。そうすると、その‘どのようにしたら’というのがメソッドになります。しかし、傷つくこの全活動を余すことなく観察するとき、‘どのようにしたら’と言うようなことにはならないのです、お分かりですか? それに閃くのです。了解しましたか?
それでは質問は、その婦人が問います、なぜ私はそれに頭を悩ますのですか? なぜ私はこの閃きの類を、そして気づきを経験しなければならないのですかと。なぜなら、人間は暴力的だからです、人間は辛辣だからです、人間は内に閉ざしているからです、頑なに、何もかもが自己中心的だからです、活動すればするほどそれが自己中心的になるからです―神の名目で、社会的な活動という名目で、さまざまな名目で、しかし状況はますます、ますます困難になって、ますます人々の不安が増大し、ますます人々が貪欲になります。そして、これを観察している人が言います「なぜ私はそのように生きなければならないのか」と。
Q (聞こえず)
K あーっ、いえ、いえ、いえ、いえ、...のようなことはありません。あなたは―繰り返して御免なさい―あなたは理解していないように思います。私は、閃きは何らかの活動ではないと言いました。それはその中に活動というものがない、じかに気づくことです。
Q (聞こえず)
K あなたは私の言ったことを聞いていましたか?
Q (聞こえず)
K あーっ、いえ、いえ、いえ、どうか...待ってください、彼女に発言させてやってください。
私は活動がないと言いました、誰かが活動するのではありません。いいえ、あなたは...どうか、マダム、我々は古い友人です、我々は何年もの旧知の仲です。我々は言っています、閃きは、活動というものがないことを意味します。宜しいですか?
Q それはどこへ行くのですか?
K どこにも行きません!(笑) いえいえ、あなたは私の要点を見失っています! 宜しいでしょうか。
Q (聞こえず)
K いいえ、マダム、あなたは理解していません。宜しいでしょうか、あなたは耳を傾けていません、そのように言って御免なさい、しかしあなたは言われていることに耳を傾けていません。
Q (聞こえず)
K 宜しいですか、私はあなたにも私にも非常に当てはまることを言います、そして言葉には、説明には意味がありません、そしてあなたは言います「私は分かりました」と。そのような理解には活動というものがありません、違いますか? あなたはそれを見て取りました。
Q そこで我々は袂を分かちます。
K 御免なさい。袂を分かたないでください、それは、同意しなかったり理解しなかったりするときに誰でもがすることです。どうか、ちょっと待ってください。‘袂を分かつ’という言い方をしないでください、それは最悪な...
Q (聞こえず)
K マダム、私が言わんとすることに耳を傾けてください。あなたの言っていることは分かります、あなたの言っていることは分かりました。あなたは私の言っていることを理解していません。私はあなたの言っていることを理解しました。私はそれを理解しました、どうか信じてください。「我々は袂を分かつ」とは決して言わないでください。それは始めに学ぶことです。それは、あなたと私が互いに対峙していることを意味します。あなたと私です、二人の人間が「我々は袂を分かつ」と言うとき、それは最悪な言い方です。どうか私に耳を傾けてください、あなたは私に耳を傾けていません、あなたは自分自身に耳を傾けています。「あなたは北へ行き、私は南へ行く」というようなところには決して行かないようにしましょう、というのは、我々がここで行おうとしていることは人間の問題を理解することだからです、何が真実で何が誤りかを見出すことだからです。私の真理でもなければあなたの真理でもありません、或いは、あなたの誤りでもなければ私の誤りでもありません、何が真理かです、それは個人的なものではありません、それはあなたのものでも私のものでもありません、それは真理です。それを我々は理解しようとしているのです。ですから、もしあなたと私が何が真理かを探究することに関心があるなら、袂を分かつということはないのです。我々はゆっくり行くかもしれませんし、誰かはもっと早く行くかもしれませんが、我々は同じ道を歩んでいます、我々は同じ方向を向いています―道なき道です。
従って、どうか、「我々は袂を分かつ」と他の誰かに言うことは最も醜悪なことです、それは離婚のようなものです。
Q (聞こえず)
K それは放っておきなさい、それは放っておきなさい、それは放っておきなさい。
Q 閃きと知識、或いは、閃きと理解、我々はそれを議論できますか?
K はい。閃きと知識―我々はできますか? そしてまた議論するもっと沢山のことがあります。その婦人が指摘したように、イメージを作ることの責任、そしてイメージを抱かずに生きること、そしてまた、守ることを知らない無防備なことと動機を持たずに生きること、それら全ての質問がそれに含まれています。
我々は、それが我々みなの最初に同意した質問であるので、理解するとはどういうことかを問うことから始めました。もし私がある特定の立場に固執していて、あなたがその立場から離れると、あなたと私の間には理解が生じません、なぜなら私が私の意見に、私の信念に、私の経験に、私の考えることに固執しているからです。従って、あなたと私の間のコミュニケーションは成立しません。話し手には何の信念も、文字通り何の信念もなく、何の意見も持ち合わせていないので、彼はただ探究しているだけなのです、見極めようとしているだけなのです、突き止めようとしているだけなのです。しかし、もしあなたが何らかの立場に立つと、それで終わりです、あなたはそれを探究していません。我々は言いました、何が真理なのかを探究すること、それを問うためには、我々は言葉の意味を理解するだけではなく―英語であろうとフランス語であろうと、何語であろうと、ドイツ語であろうと何であれ―その言葉を超えていかなければならないと、そしてあなたが言葉で成り立っている思考を理解するときにだけその言葉を超えていくことができると―あなたはこのことを理解しますか―それは言葉によって成り立ち、言葉によって成長します、それを超えていくことは本当に通じ合うことであり、それが恐らく閃きをもたらすことになります。それが我々の言ったことです。何が誤りであり、何が真理であるのかに閃くことです。そして、それには非常に用心深くて、鋭敏な、偏った見方をしない観察能力が要求されます。
それでは、我々は他の質問を検討します、人間は自分が傷つくのは自分が無防備だから、自分は感じやすいからであると考えます、そして質問は、無防備であることでもっと傷を深くしないか、従って、無防備であってはならない、オープンであってはならない、なぜなら、そうするとあなたはもっともっともっと傷つくからということです。違いますか? それが一つの質問でした。
それでは、何で傷つくのですか? 我々は言いました、自分自身のイメージを持っているときに傷つくと、そのイメージが傷つくと。それは極めて単純です、違いますか? 私は自分自身についてイメージを持っています、私は偉大な人間である、或いは、愚かな男であると、私が自分自身についてどのようなイメージを持とうと、そのイメージが傷つきます、そのイメージは私です。‘私’とイメージは異なりません。そこで私が自分自身についてイメージを持っている限り、私自身がそのイメージであり、傷つくことは避けられません。違いますか? それは明らかです。
Q なぜなら抵抗があるからです。
K その通りです。なぜなら抵抗があるからです、なぜなら私には何らかの立場があるからです、私は私にとって非常に心地よいイメージを抱いています、そしてあなたがやって来て、それを掻き乱すと、私は傷つきます。従って、もしイメージが全くないなら、傷つく可能性はなくなります。違いますか? 我々はどのようにしてそのイメージを乗り越えるのかの質問を検討しました。我々は先日それを非常に注意深く検討しました。宜しいでしょうか、イメージを全く持たないことは完全に無防備であることです。どうか注意深く耳を傾けてください。抵抗するときにだけ傷つきます。
Q (聞こえず)
K あなたはそのようにはできません。もしあなたがイメージを持っていると、それは抵抗します。それは自然なことです。それは壁を築くようなものです。
Q しかしあなたには身体があります。
K 待ってください。あなたは身体のことに戻ります。つまり、有機体は相応のことには耐えられても、それ以上は耐えられません。分かりました。身体は、有機体は、生物的なものはあるところまで恐怖に耐えられます、それを超えるとそれは耐えられません、それは持ちこたえられません、それは崩壊します。従って、あなたは身体を健康にしておく必要があります―正しい食事そして正しい運動などその他の全てです。質問は何でしょうか?
Q イメージがないと私は何者でもありません。
K その通りです。
Q そして私が何者でもないと、何も私を傷つけることができません。
K はい、「何も私を傷つけることができません」。
Q それは私の問題です。
K 分かります。
Q 植物だけがそのような状態で生きていけます。
K 植物だけがそのような状態で生きていける。私は植物ではありません。宜しいでしょうか、私は生きてきました、この実体は八十年以上生きてきました。あらゆる種類の侮辱を受けてきました、あらゆる種類の献身を受けてきました、あらゆる種類のお世辞を言われてきました、あらゆる種類の言い方を聞いてきて、あらゆる種類の悪口を浴びてきました―醜悪な言葉です―ひどい言葉です。そしてイメージを持たないので、決して傷つくことはありません。私は植物ではありません。あなたは言うかもしれません「おーっ、それはあなたがその中で生きている幻想だ」と。私は言います、いいえ、私は幻想がどのようにして生じるのか探究してきました、それは感覚プラス欲望プラス思考、イメージを意味します。あなたがそのようなプロセスを踏むと確実に幻想が生じます。私はそうしません。私はこのことを徹底的に探究してきました。私は植物ではありませんので、他の人もこのようにできます。
では先へ進みましょう。イメージを抱いていると傷つきます。イメージを全く抱かないとき、それは本質的なことで、それは可能です、そしてそれはあなたがイメージを築く全活動を理解するときにだけ、イメージを築くことに閃くときにだけ可能です、そうするとイメージを全く築かなくなります、そして、そのようなときにだけ守ることを知らないで完全に無防備になります。部分的に無防備なときにだけ傷つきます。
それでは次の質問にいきます、このようにイメージを作るとき我々の他の人に対する責任はどういうものかということです。宜しいですか? これを済ませてから我々は次の質問にいきます、人は動機を持つことなく生きられるのかということです。
責任とは何ですか? 人間の他の人に関する責任は、どちらも自分自身についてイメージを築いているとき、どうなりますか? お分かりですか? あなたはイメージを築いています、そして私もイメージを築いています、そして我々の関係はそれらのイメージに基づいています。違いますか? もしあなたが自分自身を二秒間観察すれば、このことは明らかな事実です。私はある人と一緒に生活しています、そしてその人と一緒にいて、そのような我々の生活から、私はイメージを築き始めます―傷つくこと、いらいらすること、心地よい関係、言葉の数々―お分かりですか―私は年数を経るごとに強いイメージを確立してきました、他の人が私について強いイメージを確立してきたように。そのようにその関係は二つのイメージの間の関係です。あなたがそれを好もうと好むまいと、それは事実です。そこでもしそのうちの一人がイメージを築くことから全く自由になると、文字通りイメージを全く抱かなくなると、その人のもう一方の人に対する関係はどのようなものでしょうか? 私の理解する限り、それが質問です。そうです。それで宜しいでしょうか?
Q 人は実際に全くイメージから自由ではありません。
K はい、人は実際に完全にイメージを築くことから自由ではありません。ですから我々はそのことに関心を持つ必要があって、その責任ではないのです。我々はなぜ我々がイメージを築くのかに関心を持つ必要があります。それは極めて単純なことです。
Q 恐れによって。
K いえ、いえ、...をまだ持ち出さないでください。なぜあなたは自分自身についてイメージを抱くのですか? あなたは自分自身についてイメージを抱いています、違いますか? 逡巡しないでください、それは単純なことです。(笑) あなたは自分自身についてイメージを抱いています、それはどのようにして生じるのですか? あなたは自分自身についてイメージを抱いています―あなたではありません、私は個人的にあなたに尋ねているのではありません―あなたは自分自身についてイメージを抱いています、なぜあなたはそれを持っているのですか、どのようにしてそれは生じるのですか?
Q 思考によって。
K いいえ、それを単純に見てください。
Q 子供のころから。
K 子供のころからあなたは言われています、あなたはあなたの兄弟よりも出来が良くない、あなたはあなたの兄ほど賢くない、そのようにあなたはゆっくりとそのイメージを築き上げます。あなたの友達がそれを助け、あなたもあなたの友達がこのイメージを築くのを助けます。社会がそれを助け、あなたの両親がそれを助けます。そのように徐々に学校で、大学で、あなたはあなた自身のこの途轍もないイメージを築き上げます、あなたは賢い、或いは、賢くない、あなたはこうである、或いは、ああであると、そのようにしてあなたはイメージを抱きます。そして人は極めて稀にしかこのことに気づきません。違いますか? 人はこのイメージに気づきません。そのイメージは私です、そして人はそのことに気づきません。そこで、このことに気づくことが最初でなければなりません。あなたはそのことに気づけますか? それが好きだとか嫌いだとかと言うのではなく、あなたが自分自身について抱いているイメージに気づくことです―あなたは気づくことができますか?
Q 私が傷つくとき、はい、できます。
K 宜しいですか、あなたが傷つくときではなく、私は尋ねています、あなたはイメージを抱いています、どうか、遠まわしに言うのは止めましょう。それはとても単純なことです。
Q (聞こえず)
K マダム、我々は愛のことを話しているのではありません、宜しいですか、単純に見てください。
そうすると、そのようなイメージに気づくということは、あなたがそれは観察者と異なるかのようにそれに気づくことですか? どうかこの質問に単純に答えてください。あなたは、そのイメージはそれを見ているあなたと異なる何かとして、そのイメージに気づくのですか? その観察者はそのイメージと異なりますか? 勿論異なりません。そのように、その観察者はそのイメージです。違いますか?
Q もし...なら、あなたはそれが分かります。
K ‘もし’ではありません。あなたは、思考するあなたがそのイメージと異ならないことが分かりますか、或いはそのことに閃きますか? あなたが閃くとき、あなたは言います「私はそのイメージです」と。明らかです。それでは、注意深く、ここからはゆっくり行きましょう。あなたは観察者です、そしてあなたは自分自身で発見します、そのイメージであると、観察者は正に観察されている当のものであると、観察者はそのイメージであると。そうすると、何が起こりますか? 推測しないでください。言わないでください「はい、もしそれが起これば、これが起こるでしょう」と。それには何の意味もありません。観察者が彼の観察しているのは彼自身であると悟ると何が起こりますか? そのように観察者が正に観察されている当のものです。つまり、そのことに閃くのです、そうすると何が起こりますか? ゆっくり行ってください、宜しいでしょうか、...は止めてください、何かが起こります...ゆっくり行ってください。何が起こりますか?
Q (聞こえず)
K あなたはそれを見ていません。あなたは複雑にしすぎます、どうか単純に見てください。それが非常に単純なとき、あなたはそれを非常に複雑なものにします。
Q 私はお手上げです。
K あなたはお手上げではありません。あなたは何か...何かを見失っています。宜しいですか、ちょっと待ってください。それを見てください。どうか、それを見てください。このことは本当に大変に重要です。一旦あなたがこの鍵を手にすると、本当のことをあなたが手にすると、あなたは沢山のことを発見するでしょう。観察者が正に観察されている当のものであるとき、経験する者が経験されている当のものであるとき、思考者が思考されている当のものであるとき、何が起こりますか? 何が実際に起こりましたか? その二つの間の分断が消滅しました。違いますか? それまでは、我々にこの分断がありました、観察者が言いました「私は観察されているものとは異なります」と。違いますか? そのように、その分断の中に齟齬軋轢がありました。違いますか? 観察者はそうすると言います「私は観察されているものについて何かを行わなければならない、私はそれをコントロールしなければならない、私はそれを抑えなければならない、私はそれから立ち去らなければならない」と。そのように、観察者が彼は観察されている当のものであると分かると、齟齬軋轢が消滅します。違いますか? アラブ人が彼はイスラエル人であると悟ると、その戦争は終了します。お分かりですか?
そのように、観察者が彼は観察されている当のものであると悟ると、その齟齬軋轢は、その分断は、その苦闘などそれら全てが消滅します、なぜなら彼はその他の何もできないからです、彼がそれだからです。違いますか? 分かりましたか? 彼がそれなので、齟齬軋轢は完全に消滅しました。ヒンズー人が彼はイスラム教徒であると悟ると―お分かりですか―イスラム教徒は異なった習慣を持っているかもしれませんが、本質的に彼は彼自身です、そして彼は言います「後生だから、争うのは止めましょう、愚かなことは止しましょうと」。そのように争いは消滅します。それはあなたにとって事実ですか? それとも、あなたは私の事実を受け入れるのですか?
そのように、もしそれがあなたにとって事実なら、あなたは争いというものが全く起こらない生き方をすることになります、それは対極的な齟齬軋轢がないことを意味します。お分かりですか? あなたはこのことが分かりますか? 対極的な関係がないということです。つまり、対立する欲望、これをしたいという思いとあれをしたくないという思い、それは互いに対立する思いです。あなたが、欲望は異なった目的を持つけれども欲望は依然として欲望であると悟ると、その対立はなくなります。あなたはこれらのことが分かりますか? 欲望があるだけです。そうすると欲望とは何ですか? そこであなたはそれを検討して、欲望は感覚プラス思考それから欲望となるときにだけ起こりうると分かります。そこからイメージが生まれます。あなたはこれらのことが分かるでしょうか。感覚、思考、欲望、そうしてイメージが築かれます。私がその車を見ます、それを観察します、何らかの感覚が生じます、そうして思考が言います「何て素敵なんだろう、もし私がそれを運転できたら」と―欲望が生じます、そしてイメージが生まれます、それはその車に乗って楽しんでいる私です。宜しいですか?
従って、イメージを築くことがある限り、傷つくことがあるに違いありません。イメージを決して築かないときには、傷つく可能性は全くなくなります。そしてそのことに閃くと、あなたはイメージを築くことから自由になります。違いますか?
そして次の質問は、その婦人は言いませんでしたが、私が問おうと思います、一方の人が本当にイメージを築かないで、他方の人がイメージを抱いているとき、その二人の間の関係はどうなるのでしょうか、ということです。そのときその二人の関係はどうなりますか? お分かりですか? それは起こりえます。お分かりですか? それは起こります。あなたは結婚しているかもしれません、そしてあなたの妻はイメージを築くことから免れているかもしれません―何と、それは奇跡的なのでしょう!(笑) そして彼女も、もしあなたがイメージを決して抱かないなら、それを奇跡的と言うでしょう。そうすると、彼女のあなたとの関係はどうなりますか―彼女はイメージを抱きません、そしてあなたはイメージを抱いています。どうなりますか? それはあなたの責任です、私のではありません。
Q 私は答えられません。
K あなたは答えられない。その通りです。
Q 彼女は彼を愛すはずです。
K あーっ、あなたは知りません。宜しいですか、あなたはすでに何らかのイメージを築いています。もしあなたがイメージを全く抱かないなら、世界とあなたとの関係は、あなたと他の人との関係はどうなりますか、人間同士のこの関係の中でイメージを築くことがないとき何が起こりますか? あなたは知りません。違いますか? それは真理です。あなたは知りません。何を築こうとそれはイメージの構築です。あなたは知りません。あなたは知らないという事実に留まっていてください、それは途方もない発見です。お分かりでしょうか? あなたはいつも何らかの答えを持っています、しかし自分自身に言うのです「イメージを築かないと何が起こるのか私は本当に知りません、しかし私は明らかにしようと思います」と。お分かりですか? 宜しいですか、あなたが確実であると考えるものからスタートすると、あなたは疑問に行き着きます。あなたが確実なものは何もないとスタートすると、あなたは完全に確かなものに行き着きます。お分かりですか? そのように、あなたは知りません。そこから始めて、明らかにしてください、あなたがイメージから免れうるのかどうか、それは何を意味するのか、そうすると他の人達との関係はどうなるのか。お分かりですか? そこでは正に驚くべきことが生まれています、開花しています、あなたはそれを発見します。
そして次の質問は、人は動機を持つことなく生きられるのか、ということです。つまり、我々は言いました、何らかの動機があるところには、何かの方向性があると。宜しいですか? 思考によって決められた方向性です。違いますか? 私は金持ちになりたいという動機を持ちます。ありがたいことに、私はそのような動機を持っていません、しかし仮に私がそれを持つと、私は動機を持っているので、私の全生活はその一事に向けられます―お金を手にすることです。なぜなら、そうすると、私は楽しくなれるからです、私は旅行できるからです、私は家を持てるからです―お分かりですか―その他の全てのことです。そのように我々は伝統的に方向性を持つように訓練されています、洗脳されています―天国やイエスや仏陀などあらゆる方向性に、経済的に、社会的に、宗教的に―我々は方向性を持つように訓練されています。違いますか? そのように、我々は動機を持たないでどのように生きるのか知りません。そこで、我々は問います、動機を持たずに生きることは可能かと。宜しいですか? 知らないと、我々は見つけることができます。私は「私は動機を持ってはならない」と言ってスタートしません、そのように言うのは馬鹿げています。しかし、「なるほど、私は動機を持っています」と言い、私は動機の中に何が意味されているのか見ます、ある方向を持った活動で、愉快であったり或いは不愉快であったり、儲けたり或いは儲けなかったり、やりがいがあったり或いはなかったりなどの活動です。その方向性は思考によって決められます、それは欲望、イメージ、感覚であり、ある特定の方向です。それが動機の働きです。我々は伝統的に、教育的に、社会的に、あらゆる仕方で、宗教的にさえ、訓練されています。お分かりですか? あなたは方向性を持っています―方向性を持っています、動機を持っています、そうすると、あなたはなぜ思考が方向性を決めるのか明らかにできます。あなたは私の質問が分かりますか? あなたはこのことが分かりますか? なぜ思考が生の方向を決めるのかです。方向性は全体の無理解を意味します。違いますか? それは地図を見ているようなものです―どうか、私に五分ください、飽きないでください、もしあなたが飽きてしまうと、寝てしまい、耳を傾けなくなります、少なくとも五分間起きていてください。今何時ですか、マダム。
Q 十二時二十分前です。
K 我々はこのことを済ませます。なぜ我々は生の中に方向性を持つのですか? なぜなら、その理由の一つは、それが安全性を与えるからです、少なくとも思考はそれが安全性をもたらすと想定します。違いますか? もし私が動機を持たなければ、私はどうしてよいのか分かりません。ああ何と、私は途方に暮れます。そのように、途方に暮れることを恐れて、安全でないことを恐れて、経済的にも、心理的にも、身体的にも恐れて、思考は言います「私は生の中に何らかの方向性を持たなければならない」と。そのように、それは何らかの方向を決めます、それは他の全てのことを排除することを意味します、我々がオリンピックで目にした選手たちのように、その人は完全に一つの方向に目を向けています、ダイビングしたり、走ったり、それが何であれ、完全に夢中になっています、訓練されています、精神集中しています。そして、その他の生―お分かりですね、政治や宗教やあらゆるもの―は二の次です。そこでは、その人は完全に安全です。そのように、思考は生物的にも心理的にも安全であるために何らかの方向を設けます。それは事実です。違いますか? そうして、それは生の全体図を放棄します。それは一つの方向だけを見ます、その特定の村だけを見て、他のものは否定されます。そのように、あなたが何らかの方向性を持つとき、それは伝統的であり、普通のこととして受け入れられていますが、そうすると、北に向う人と南へ行く人或いは南東へ行く人或いは南西へ行く人との間に、お分かりですね、分断が生じて、全てが断片的なことになります。お分かりですか? あなたが方向性を持つや否や、あなたは生を断片的なものに分解します。あなたは分かるでしょうか。私は今それが分かりました。私はそれに閃きました。お分かりですか? いいえ、自分自身でそれを見てください。あなたが何らかの方向性を持つや否や、あなたは生を断片的なものに分解します。そうすると、あなたが方向性を持つので、あなたの生は一つの断片になります。お分かりですか? あなたは分かりますか?
そうすると、質問は、私は方向性とは無縁に生きられるのか、ということです。お分かりですか? 私が全地図を見ると、地図が言います、動機というものはありません、方向性というものはありませんと。ちょっと待ってください。私はこのことをゆっくり検討します。私は、方向性があると生の断片化が起こると、生きることが断片化すると言いました。それははっきりしています。断片化は争いを意味します―あなたはそっちの方向へ、私はこっちの方向へ、彼女は別の方向へ、そのようにして我々はみなバラバラになります、従って、利益やその類の他のことを除けば、協力することがなくなります、そのように、断片化が生じるときにはいつも争いが生じます。違いますか? 進めて宜しいですか? そして精神は言います「断片化とは無縁に、方向性とは無縁に生きられるのか」と。それは、それが何らかの方向性を持つために、それが断片的な生き方をしているとそれが見て取ったときに、それに閃いたときに、そう言えるだけです。私の言っていることが分かりましたか? もし私が、何らかの方向性を持つことは断片化を意味すると見て取ると、観察すると、気づくと...断片化があるところには、争いがあるはずです―アラブ、ユダヤ、ヒンズー、イスラム、カソリック、プロテスタントなどの生の全てに関してです。何らかの方向性があるところには断片化が起こり、そのために分断が生じ、それゆえ争いが起こります。
あなたはこの現実に閃きますか? それは現実です。違いますか? それは、実際の事実として日常的な現実です、私が何らかの方向性を持つと―首相になりたいと思う私とあなた、などです―お分かりですか―そうすると、あなたと私の間に齟齬軋轢が生じます。分断があるところには争いが起こるはずです、それは摂理です。私はそのことに閃きますか? そうすると私は言えるだけです「私は動機を脱落させて生きられるのか」と。閃く前にそう言うのではありません、なぜならそれには何の意味もないからです。そのように私は知りません。お分かりですか? 私は「そうですね、私はできます或いは私はできません」と言いません、私は知りません。しかし私は知っています、私が何らかの動機を抱くと、そこには断片化や争いなどその他の全てが起こると。そのため私はそのことに精通して、そのことをよく知っています、私の日常生活です。そこから私は自分自身に問います―なぜなら私はそのことに閃いているからです―私は自分自身に問います、動機を持たずに生きることは可能かと。私は本当に知りません。私は他方は知っていますが、私はこのことを知りません。そこで私は問うことにします。私は見守ろうと思います、私は見守っています、私の行動を観察しています、私の発言を観察しています、私が動機を持っているのかどうかを観察しています。そして私は言います「はい、私はそこで動機を抱きました、なぜなのか」と。お分かりですか? そうして私はそれをブルドーザーで処理します、(笑) それら全てを廃棄します。そうして、最後に私は言えます「私は動機を持っていません」と。その意味が分かりますか? 争いが起こらない、断片化しない、全体的で、健康で、正気で神聖な生です。そのときにあなたはこのように言えるだけです、しかしそれを前もって言うことには何の意味もありません。
Q 私は動機を持っていると言う‘私’とは何ですか?
K 私は動機がないと言いました、私は動機を持たないと言います。宜しいでしょうか...それは生きるための動機がないことを意味します。あなたはそれが何を意味するか分かりますか? そうすると、それは本当の慈しみを意味します、お分かりですか?
中野 多一郎 訳