クリシュナムルティをめぐりて

“ザーネン トーク6 1984年 7月19日”

クリシュナムルティ) 我々は一昨日話し合っていたことを続けても宜しいでしょうか? これが最後のトークです。
 我々は存在の全ての問題を話し合ってきました、我々の日常生活の様々な側面です。我々は関係性について話しました、我々は恐れについて、人の楽しみや終わりのない苦しみについて話しました、そして恐れから完全に解放される可能性があるのかどうかを話しました。我々はそれらを非常に注意深く検討しました。そしてまた我々は知識について話しました、知識を持つことの重要なこと、そしてそれは経験を通して蓄えられ知識となり、頭脳の中の記憶となり、そこから思考が生じ、そして当然の成り行きとしてそれには限界があることを話しました。我々はそれらのことをこれまでの五回のトークで検討しました。そしてこれが最後のトークで我々はなぜ頭脳がいつも何かで塞がれているのかを一緒に話し合う必要があります。
 我々は問うていました、なぜ我々の頭脳は、長い時間を経て進化してきて、四万五千年から五万年を経て進化してきて、そのような長い時間を経てきて、なぜ頭脳は見たところ何かに占められていて、決して穏やかにならず、絶えず何かで塞がれ、絶えず様々な連想が生じ、一つの思考が他の思考に連なるのか、この絶え間ない連鎖がなぜ起こるのかを問うていました。我々はそれを自然なこととして受け入れてきました、我々の日常生活の一部として受け入れてきました。我々はこれを一緒に問いたいと思います。我々が言ったように、このことを繰り返し言うのを厭に思わないでほしいのですが、我々は何らかのプロパガンダを行っているのではありません、何らかの信念や信仰あるいは何らかの理論を広めているのではありません。そうではなくあなたと話し手は一緒に我々の日常生活を詳しく検討しています―(飛行機の轟音)―我々は少し待たなければなりません。好きなようにさせましょう!
 我々は非常に多くのことを話してきました。我々は今朝非常に複雑な問題を一緒に検討しようとしています、つまりなぜ人間は内面的にも外面的にも平和に生きることができないでいるのかということです。なぜ我々の日常生活はそのように混乱しているのか、争いや悲惨の中にいるのか、そして時折の喜びがあるのか、なぜ何千年も経てなお人は平穏、穏やかさ、平和を見出さないでいるのでしょうか? これら全ては大いなる叡智を要します、お互いが平和に暮らすことです、内面的にも、従って隣人とも、あるいは自身の身近な人とも平和に暮らすことです。我々はなぜ我々が平和に暮らしてこなかったのか分からないでいます。我々はそれについて話してきました、なぜ人間はいつも争っているのか、それらの争いは無くなるのかどうか、外面的だけではなく、戦争やナショナリティがもたらす分断、宗教がもたらす分断、様々な分断、言語の違い、意味の違いなどの外面的なそれらだけではなく、あらゆるものをカテゴリーなどに分解する頭脳の様々な性質は無くなるのかどうかを話してきました。それは可能ですか、この現代社会に生き、そのあらゆる複雑さを抱え、生計を立てるために九時から五時まで働き、生活の大部分をオフィスで過ごし、研究室や工場で過ごし、田畑を耕し、そしてそれらの最後に死が待ち受けています―(飛行機の轟音)―我々は待たなければなりません。あれが行くと他のが来ます!
 我々はこれら全てを一緒に検討したいと思います、願わくば、これまでの五回のトークと同じように。我々は一緒に問いたいと思います、なぜ人間は自らもそして世界とも平和に生きることができないだけではなく、なぜ人間は子供の時から傷ついているのか、心理的に傷つくのかも問いたいと思います。この問いかけは非常に重要です、なぜならそれは我々の全生活に影響するからです、子供時代から学校や大学の生活あるいは学校以外の他の男子や女子たちとの交わりまで、全生活が様々な形の心理的な傷を生み出します、そしてそれは頭脳にショックを与えて、我々は神経症に罹ります。それでは一つも傷を受けずに生きることは可能でしょうか? 人が傷つくとそれは自己中心的な行為を強めるだけではなくそれは恐れをも生み出します。人が傷つくと人は壁を築きます、自分自身と他の人との間に何かしらの壁を築きます。そうして徐々に人は引きこもります、人はアイデンティティなどの問題を抱えて孤立します。人は我々が抱える傷に気づくのでしょうか。たとえ人が気づいても我々はどうやらそれを消滅させはいないようです、傷を完全に消滅させていません。傷ついているのは何ですか? 宜しいでしょうか、我々が言ったように、我々は一緒にこの問題を検討しています。一緒にです。話し手は何かを指摘するかもしれません、あるいは何かを言葉で表現するかもしれません、あるいは話し手は人がその中で自分自身を見つめることになる鏡の役割を担うかもしれませんが、話し手はグルではありません、あなたは彼の弟子ではありません。これは個人的なカルトではありません、それは全く恐ろしいことです。ですから一緒に我々はこの問題に向き合っています。それはあなたの問題です。話し手があなたに課している問題ではありません。あらゆる人間が傷つきます、心理的に傷を負っています。人は一生そうです。人は決してその危うさ、その破滅的な結末に気づきません。それではあらゆる傷を消滅させることは可能ですか、そして決してそれがぶりかえすことのないことは可能ですか? 傷つくのは何ですか? あなたが、私は傷ついていると言うとき、その“私”とは何ですか? 傷つくその当のものとは何ですか? 宜しいでしょうか 我々は一緒に問うています。我々はお互いを理解していますか?
 仮に私が傷ついているとします、なぜ私は傷つくのですか? 傷つくその当のものとは何ですか? 我々は“私は傷つく”と言います。その“私”とは何ですか? それは自分自身のイメージを形作ってきた様々な出来事や経験や記憶ではないのですか? どうかそれを注意深く見てください、言っていることを拒絶しないでください、話し手の言っていることはどれも受け入れないで人は疑ってかからなければならないけれども、疑問を持たなければならないけれども、問わなければならないけれども、人は疑う精神を持たなければならないけれども。そのように我々は問うています、傷ついているのは何かと。それはあなたが抱えるあなたのイメージですか? そのようなイメージは様々な印象や圧力などによって作られてきました、それは様々なプログラムを組み込まれたコンピュータのようです。そしてそのようなイメージが傷つきます。違いますか? そのように我々は言います、“私は傷ついている”と。
 人は、これは問いかけです、人は日常の生を、何らかのロマンチックな、思想的な、感情的な生ではなく、実際の日常生活で一つも自分のイメージを描かないで生きることは可能ですか? そのようなイメージが生まれるときのみ、思考が作り出すそのようなイメージや映像が生み出されるときのみそれが傷つきます。誰かが何かを言います、お世辞を言います、嘲笑います、褒めるなどします、なぜ頭脳はそれを記録するのですか? 質問がお分かりですか? これはとても難しいことですか? いえ、いえ、これはとてもシンプルです。記録しないことは可能ですか? 心理的にです、もちろんあなたは頭脳に記録していなければなりません、車を運転するときなど頭脳に記録しておく沢山のことがあります、あなたは絶えず記録している機械を使わなければなりません。それでは精神の中で“私”という世界は何かを記録する必要があるのでしょうか? お分かりでしょうか。それでは記録しないことは可能でしょうか? 我々はそれを明らかにしようとしています、もしあなたに興味があるなら。たとえあなたに興味がなくてもそれは問題ではありません。というのは我々が自分自身に問うてこなかったからです、向き合ってこなかったからです、完全に自由であることが可能かどうかを、生の個別の側面だけではなく、我々の悲しみや不安や孤独などから自由になるだけではなく、それも非常に表面的で、好きな所へ行く自由、好きな仕事を選ぶ自由などだけではなく、完全に余すことなく自由であることが可能かどうかを。それは頭脳が記録しないときだけです、物理的な世界を除いて。心理的世界で、内面の世界で記録しないことです、それは途轍もなく気をつけている中で気づくことを意味します、それを我々はこれから話し合おうとしています。
 そして我々は一緒に非常に複雑な問題を話し合わなければなりません、それは人間が何千年も向き合ってきた問題です。今朝は非常に美しい朝で光の輝きに満ちています、丘の美や谷の影を目にしますが、我々はこの問題を話し合わなければなりません、病的な意味ではありません、それは死についてです。宜しいでしょうか。それは我々の生の一部です、不安や孤独や恐れそして生の労苦や混乱や争いと同じように、死も我々の生の一部です。人が若くて生を満喫していようが中年であろうが老人であろうが人間は誰もが直面する問題です。我々はみな死にます、それは自明のことです、それは間違いのないことです。そこで我々は一緒に死の意味の複雑さを見ていこうと思います。このことを議論しても宜しいでしょうか? 分かりました。もし嫌でも、我慢してください!(笑)
 なぜ人間は死をそれほど恐れるのですか? なぜ人間は死をできる限り生から遠ざけてきたのですか? なぜ死はそれほど恐ろしいものに思えるのですか? 医者や他の人たちが書物にしてきました、幸福な死に方があると。人はその本の題名を見ました、アメリカで有名な本です、“優雅に死ぬ方法”です、幸福に、リラックスして。(笑)
 それではこの問題を話し合いたいと思います。あなたはこれまで死ぬことがどういうことであるのかを問うたことがありますか? 何かが消滅するとはどういうことですか? 消滅です、継続するのではありません、お分かりですか? 我々は継続することに慣れています、継続することに条件づけられてきました。違いますか? 継続することです。継続するとはどういう意味ですか? 長い期間継続する記憶です。違いますか? 場所や人や観念への継続的な執着です。人は何らかの観念を完全に消滅させた経験がありますか、私が消滅させると何が起こるかということではありません。お分かりでしょうか。分かりましたか? 消滅することを理解することは非常に重要です。何らかの習慣を消滅させること、生物的あるいは心理的習慣です。もしあなたが何かを終わらせるとあなたは言います、そうするとどうなると。それはあなたが依然として継続的観点から考えていることを意味します。違いますか? もし私が怒るのをやめると、利己心をなくすと、そうするとどうなりますかと。違いますか? そのようにいつも我々の頭脳はもし私が何かを終わらせるとそのあとのことに注目します。宜しいですか? そのように我々は決して何かを完全に消滅させてきませんでした。分かりましたか?
 続けても宜しいですか? そのようにもし人が消滅するとは何かを理解すると、継続する欲求や衝動は消滅する恐怖を生みます。違いますか? もし人が消滅することを理解して継続する何ものもないなら恐れは生じません。これらのことが分かりますか? 我々は一緒に考えていますか? 実際に一緒に考えて話し手の言うことを鵜呑みにしないことです、話し手の発言は重要ではありません。我々の精神や頭脳を分かち合うのです。あなたの頭脳や私の精神ではなく、頭脳の質が考えるのです、頭脳の質が言うのです、“私は何としても問うて明らかにしなければならない”と。頭脳の質が疑って問うていると我々は何かを共に行っています。そうすると我々の頭脳は出会っていて我々のコミュニケーションは非常に容易くシンプルになります。違いますか? 我々はこうしていますか? 半々です。我々の困難はここにあります。ここにいる何人かは、依然として私はその人たちに敬意を表しますが、これらのことを何年も聴いてきました、恐らくその人たちは退屈でしょう、彼の言おうとすることを知っています。その人たちは彼の発言に精通しています。しかしその人たちは本当に...我々は共に何かに気づいていますか? 記憶しません、その違いが分かりますか? 我々は記憶します、我々は記憶するように教育されています、我々の知識を上手に駆使できるように我々は記憶します。我々は授業を記憶します、フランス語、ロシア語など授業を記憶します、我々は様々な歴史的事柄を記憶します、我々は科学的事実を記憶します。違いますか? 我々はあらゆる領域で上手に行うために知識を収集蓄積します。しかし気づくことは河の流れのように一箇所に留まらない働きです。知識は留まります、従ってあなたは次から次へと付け加えます。気づくことは途轍もない何かを内に秘めた大河の急流や激流のようで何ものも立ち止まることを許されません。それが気づく働きです。そのように我々は共に気づいていますか? それとも我々の頭脳はコンピュータのようにプログラムされてきているのですか? コンピュータのことを話すのはとても興味深いのです。宜しいでしょうか?
 その人たちはコンピュータ業界でこの上なく途方もないことを行っています。話し手はその人たちと沢山議論してきました、いわゆる最先端にいる人たちです。それらのコンピュータは人の思考が行ってきたあらゆるものをほとんど行えます。それらは最先端の数学者たちや生物学者たち、科学者たち、技術者たちによって、何らかの個別の課題を解決するようにプログラムされてきています、そして業界トップの教授がプログラムを考案します。違いますか? あなたはこれらのことをよく知っています。我々の頭脳もプログラムされてきています。あなたが自身をキリスト教徒と呼ぶようにあなたはその信仰と共に二千年プログラムされています。違いますか? ヒンズー教徒は恐らく三千年から五千年その信仰をプログラムされてきています、あなたはその全経過を知っています。そしてイスラムの世界も同様にプログラムされてきています。お分かりでしょうか? そのようにコンピュータはプログラムされています、それは超機械的英知と言われます。そしてそれは人間の思考をほとんど凌駕します、その速さで凌駕します。その人たちはアメリカで百万の記憶を有するチップを発見しました。それでは人間に何が起こるのでしょうか、あなたの頭脳に何が起こるのでしょうか? 質問が分かりますか? もし機械的なものが人間を凌駕しえるなら、ある領域を除いて、それらを検討しません、あなたはそれが何か分かります、人間に何が起こるのですか、あなたに、あなたの子供たちに、あなたの孫たちに何が起こるのですか? 機械的英知がある分野で人間を凌駕するとき、それはロボットで車を組み立てて人間が失業するなどします。そうすると活動的であった人間の頭脳に何が起こるのでしょうか? お分かりでしょうか? 活動的に働いていた大工、数学、機械の組み立てなどコンピュータやロボットがそれら全てを行います、これらのことがお分かりでしょうか、我々の頭脳に何が起こるのでしょうか? 我々はこのことをコンピュータの専門家たちに問いました。その人たちの答えは“我々は気にしない。我々は知らない”でした。それは構いません。その人たちの関心は発明することにあるのです。もっともっと発明するのです。コンピュータはあらゆる種類のことを行います。
 どうか耳を傾けてください、真剣に耳を傾けてください、これは冗談ではありません、もてあそぶゲームではありません。エンターテイメント業界、スポーツなど、宗教を含めて、宗教界は全くエンターテイメント業界です、頭脳がそれらに埋没するのか、エンターテイメントが益々肥大化しているのをもしあなたが気づいているなら、子供たちはエンターテイメント業界に取り込まれています、頭脳がそれに埋没するのか、果てしなくエンターテイメントを追い求めるのか、それとも頭脳は内面に向かって、自分本位ではなく、自己中心的世界ではなく、それは非常に小さな世界です、深く深く歩を進めるのかのどちらかです。頭脳は途方もない能力を秘めています、技術の世界に見られるように、そしてその同じ頭脳が見守って非常に非常に深く歩を進めるのかのいずれかです、そしてその深さには限界がありません。そのようにあなたはこのことに向き合っています。
 それでは戻りましょう。死とは何でしょうか? 我々が言ったように、もし我々が消滅する意味と継続する性質―それは我々全てが願うことです、なぜなら我々は継続する中に安心や安全を考えるからです。違いますか? 違うでしょうか?―を深く理解するなら... 国家を自己のアイデンティティとすることや特定の場所にルーツを見出すこと、何らかのシンボルや理想に固執することなどは一連の継続性です。その中に安全性を見出そうと願って我々は何らかの継続性にしがみつきます。そしてその正に継続性が大きな災厄をもたらします、なぜならそれは戦争を引き起こすからです。違いますか? 我々はデモクラシーにしがみつきます、それが何を意味するにせよ、そしてまたロシア専制国家の大集団が存在します、我々は人間を管理しています、コントロールしています。違いますか? 専制主義やその他の恐怖が進行しています。それではどこに安全性がありますか? 質問が分かりますか? 我々は安全性を家族の中に、妻や夫の中に、地域などの中に、国家の中に、国際社会の中に追い求めてきましたが人間にとって安全性は存在しません。文明が複雑になればなるほど安全性は益々なくなっています。そして継続性が安全であることの希望を我々に与えます。安全性はどこにあるのでしょうか? 安全性というのが果たしてあるのでしょうか?
 我々が安全性を求めているとき、それは何らかの継続性の中ですが、死の本当の恐怖が生まれるに違いありません、それは消滅することです。違いますか? アジアでは、特にインドで、心理的にも宗教的にもアジアを席巻したインドで、人々は輪廻転生という言葉を発明しました。それは一連の継続性です。違いますか? 私はこの世で死にます、しかし次の世があります。そして次の世そしてさらにまた次の世です。お分かりですか? 人間が最高の原理あるいは最高の状態に達するまで続きます。そのようにそれは継続性の非常に心地よい観念です。違いますか? このことがお分かりですか? しかし我々は決して自分自身に問いません、消滅するとは何かを、実際に消滅することです。人はそれを恐れます。消滅させることです、例えば、完全に、心理的に、あらゆる執着を消滅させることです。なぜなら我々は沢山のことにしがみついているからです、人々に、様々な観念に、知識に、様々な概念に、様々な形の理想に、お金に、我々の知識や記憶あるいは我々の経験に。“おーっ、私は驚くべき神秘体験をした”そして私はそれにしがみつきます。違いますか? そのように私たちは沢山のことに執着しています。そうすると死がやって来て言います、“友よ、あなたはいかなるものにもしがみつけません”と。違いますか? あなたは去ってゆきます、あなたは何一つ持って行けません。違いますか? あなたの家族、あなたの観念、あなたの知識、あなたの知識的自惚れ、地位、パワー、それら全てをあなたは置いて逝きます。それが消滅することです。それを我々は恐れるのです。それが死と称されます。恐ろしい消滅です、その後で何が起こるのか分かりません。もしあなたがその後何が起こるのか分かるならあなたは継続します。違いますか? 我々の頭脳はとても狡賢く狡猾なので何かが起こる前にあらかじめ知ろうとするに違いありません。もし私が消滅するとそこに何があるのかそれは知ろうとするに違いありません。私は何もないところに生きられません。私は何もない状態を生きられません、何一つないのです。違いますか?
 これが継続することの何かを理解することの非常に重要な理由です、将来何が起こるのかをやり過ごして余すことなく消滅することとは何かを理解することです。死が言います、“最初に、心理的に、いかなるものにもしがみつかないでください”と。そうするとあなたはまず物理的にしがみつかないことを理解するでしょう。もしあなたがあなたの妻あるいは夫に“ねえ、私はもうあなたにご執心なのは止めます”と言うと、恐らく彼女はあなたに石を投げるかあなたが逃げ出すかのいずれかです。その重要さを見てください、どうか、それは可笑しく聞こえます、それはとても可笑しいことですが、なぜ我々はそれほど何かにしがみついているのですか、我々は決して手放そうとしません。そこで問うのは、あなたは自由に生きられますかということです、それは何ものにもしがみつかないことを意味します、そしてしがみつくあらゆるものを、何かにしがみつくことを毎日やり過ごすことです。それが意味するのは、あなたが毎日やり過ごす―それが死です―生を生きられるのかどうかです。質問がお分かりですか? あなたはこのことを試みたことがありますか、実際に、理論的にではなく。それが意味するのは、あなたがどこにも根を張らないことです、あなたのアイデンティティはどこにもありません、あなたの国家、あなたの家族―我々は心理的なことを話しています―どこにもありません、そうすると頭脳は絶えず空です、お喋りしていません。お分かりですか? なぜなら我々はそれら一連の葛藤で我々のエネルギーを浪費しているからです。恐れはエネルギーの典型的な浪費です。それはエネルギーの全くの浪費です。我々にはエネルギーが必要です、途轍もないエネルギーが必要です。あなたがお金を稼ぐとき、有名になろうとするとき、性的な欲求を満たそうとするとき、あなたには途轍もないエネルギーがあるように、あなたには途轍もないエネルギーがあります。しかし心理的領域でそのような途轍もないエネルギーが必要なとき、そのエネルギーは恐れや葛藤や混乱などその他の全てによって、お分かりのように、浪費されています。
 そこで我々は問います、日常の生活で、何らかのロマンティクな、思想的な、ユートピア的なナンセンスではなく、実際に我々の日常の生活で死と生を一緒に生きることは可能かと。あなたはその美が分かりません。あなたはその途方もない質が何か分かりません。しかしもしあなたがそれを深く検討するなら人はその深さに出会います。
 それでは我々は一緒に話し合わなければなりません、宗教とは何かです。あらゆる文明や新しい文明の誕生が宗教の結果です。僧侶たちのそれではありません、資産やお金、権威、序列的権威、寺院、モスク、教会などで組織化されたそれではありません、それは宗教ではありません。それは全く思考の活動です。違いますか? どうかそれを検討してください、拒絶しないでください。全ての儀式が思考によって編み出されています。違いますか? あらゆる衣装、目を引く衣装、それらは全て思考によって作られます。あらゆる大聖堂が思考によって造られています。様々なシンボル、原罪、救世主、それら全てがそれらを考え出した人たちの成果です。その人たちは言うかもしれません、それは神の啓示であると。あらゆる啓示が思考によって解釈されます。そのように現在の宗教は一つの方向を目指した、一つの目的をもった活動です。人を救うためだけではなく、人をコントロールするためだけではなく、人とは女性も含みます、人を啓発するだけではなく、その人たちの試みは戦争をも引き起こしてきました。違いますか? 宗教的百年戦争などです。あらゆる宗教が相争っています。違いますか? あなたはこれらのことに気づきましたか? 気づいているに違いありません。あなた方はみないわゆる文明人で、これらのことを書物で読んでいるに違いありません、その人たちは相争っています。西欧の一大集団は一つのことを信じていて、その教条や儀式を信じていて、アジアのそれは仏教やヒンズー教です、そしてイスラムの世界があります。それらは全て宗教ではありません、それは明らかです。なぜならそれは思考に基づいているからです、思考は記憶であり、記憶は知識であり、知識は経験の結果です。従って思考にはいつも限界があります、知識にいつも限界があるように。
 それでは宗教とは何でしょうか? 宜しいでしょうか? いかなるグルにも、いかなるセクトにも、いかなる既存の宗教にも属さないで、それらを全て完全に葬り去る頭脳の宗教的質が存在しますか? 完全に葬り去るとは何も恐れずに明らかにしようとすることであり、自己の中で逡巡するいかなるものも完全に葬り去ることを意味します。それでは宗教的精神とは何でしょうか、頭脳でしょうか? お分かりですか? 何百万年も進化してきた頭脳の質とは何でしょうか、どうかこれらのことに耳を傾けてください、もしあなたに興味があるなら、なぜならそれはあなたの生だからです、時間の中を進化してきた頭脳です、そして長い年月を経過する中で沢山の宗教が現れました。いつでも僧侶たちが上から指図します、なぜならある時期僧侶たちが読み書きできる唯一の人たちで、その人たちが有力者であり、賢者であって、次第に権威を帯びました、上手い話です! それではそのような宗教的な質―我々は“宗教”という言葉をこれから定義しようと思います―をもつ頭脳とは何でしょうか? 我々は一緒に明らかにしようと思います。
 宗教”という言葉は語源的にはっきりしません。我々は様々な辞書でその語源を調べてそのように言います。辞書はその言葉の語源的意味について結論を出しません。辞書は言います、それは結びつける形であると、あなたの最高の概念に結びつける形であると、あなた自身をそれに結びつける形であると。それでもそれは疑問を呈しています。そのようにその言葉の語源的意味、その言葉の元々の意味は確立されていません、ですから我々はその言葉を弄ぶのです。それでは我々は一緒に宗教とは何かを明らかにしようと思います。我々は進化のある段階に到達しているので、我々は技術的に途轍もなく進んでいます、そこには限界がありません。そして心理的に我々は表面をただなぞっているだけです。そしてもし頭脳が、無限の可能性を秘めた頭脳が、その頭脳がコンピュータのようにプログラムされているなら―お分かりですか―イギリス人やインド人など何々人として愚かにもプログラムされているなら人々は生のこの上なく途方もない何かを恐らく検討できません。
 ここに瞑想の役割があります。お分かりでしょうか? 瞑想法ではありません。“方法”という言葉は何らかのシステムや何らかの実践を意味していて、何をするのかを教えてください、私はそれを毎日毎日実践します、私は教えられた姿勢を取って座り、教えられた呼吸法を実践します―あなたはそれらの詐術を知っています。あなたはそれらが分かりませんか? 私はあなた方の幾人かがそれらに弄ばされてきたのを確かに知っています。インドと呼ばれるあの不幸な国からやって来たグルがあなたに瞑想について教授します、そしてあなたはそれを鵜呑みにします、なぜならあなたは騙されやすいからです、それはあなたが疑うことをしないからです、あなたが問うことをしないからです。
 それでは我々は一緒に瞑想とは何かを明らかにしようと思います。それは宗教とは何かに関連しています、そして我々の全存在に、我々の日常の生活に関連しています。お分かりですか? 日常の生活とは様々な何らかの混乱や死や自由や途方もない無限の能力を秘めた頭脳などのことです。そして我々が瞑想とは何かを問うとき、それは何らかのシステムや方法を問うのではありません、なぜならもしあなたが何らかのシステムや方法を実践するとそれは機械的になるからです、あなたはそのシステムや方法に囚われます。その論理を見てください。後生だから、その真理を見てください、そうするとあなたは決してシステムに囚われません。頭脳は安全性を求めているだけではなく―お分かりですか―それは安全でなければなりません、物理的にも心理的にも完全に安全でなければなりません、そうでないとそれは整然と、客観的に、熱気を帯びて機能しません。違いますか? それでは瞑想とは何でしょうか?
 “瞑想”という言葉は熟考する、物事をよく考えるということを意味します。それが辞書の意味です。そしてまたそれは“はかる”ことも意味します、サンスクリットでも語源的に“はかる”ことを意味します。宜しいですか? それがその言葉の意味です。技術的世界は“はかる”ことによって成り立ちます。違いますか? センチメートル、メートル、インチ、フィートなどそれらは“はかる”ことです。もしそのように“はかる”ことができないなら、もし“はからない”なら技術は成り立ちません。それは極めて明白です。心理的にも内面的にも我々もまた“はかります”―私はこうだが、私はそうふうになるでしょう。それは“はかる”ことです。それは現にあることをあるべき様と比較していることをも意味します。人は生きられますか―どうか心してこのことを理解してください―人は“はかる”ことなく生きられますか? 宜しいですか? このことを問うてください、あなた自身を何とも比較しないでこのことを問うてください。比較することは未来を意味します。違いますか? 我々は時間の問題を検討しました。時間は過去です―私はこのことを再び繰り返します。時間は過去です、そしてその過去は今です、あなたはそこにいます。あなたの今は全て過去です。そして未来は今のあなたです。宜しいですか? もしあなたが今日嫉妬しているなら、あなたは明日も嫉妬しているでしょう。それは事実です。あるいは何千という明日も同じでしょう。あるいは何年たっても同じことでしょう。もしあなたが今変わらなければあなたは明日も嫉妬しているでしょう。違いますか? そのように時間は今の中に含まれています―過去、未来、現在です。この深さを理解することは本当に重要です、単に言葉の上だけではなく。時間が何かを理解することです。そして“はかる”ことは時間を意味します。比較することは時間を意味します。ですからもしあなたがいつも自分自身をあれやこれや比較しているならあなたは自身のあるべき姿を思い描いてそうしています。違いますか? そのあるべき姿は現在から思い描いたそれです。従って未来は今です。私はそのことを十分話してきました。人は他のトークでこのことを非常に深く検討してきました。
 そのように頭脳が比較しないとき、それが全く比較しないとき―ただ耳を傾けてください―全く比較しないときそれは今そのものです。宜しいですか? お分かりですか? それは今そのものです。そしてそれは今そのものであって、どこへも全く逸脱しません。お分かりでしょうか?
 そのように瞑想は時間の深さを理解することです、そして我々が我々のトークの最初からその基礎を固めてきたように、それは日常の生活を扱うことですが、その日常生活に余すことのない整然とした秩序がなければなりません。秩序の乱れではないそれです、我々はそのことを他の日に話しました。つまり、あなたはあなたの“家”に秩序をもたらさなければなりません、物理的な秩序だけではなくあなたの内面的な完全な秩序です、それはあなたが全く恐れないことを意味します。恐れこそが秩序の乱れをもたらします、何らかの執着が恐れにつながります。私は何かを作りました、私はそれに執着します。私は何かを発明しました、それは私のものです。そのように秩序を確立した頭脳、自己中心的な振る舞いから完全に解放された自由な感覚、それを手にするのはとても難しいことです、そのことが詳しく検討されなければなりません、それを我々は行いました、この間ずっと行いました。トークは我々の自己中心的振る舞いを指摘することです、従ってその振る舞いが非常に限られた狭いことを指摘することです。
 そのように瞑想は、秩序が整うとき、それは途方もなく穏やかになります。そして観察することは、何かに余すことなく気づくことは何らかの混乱があってはありえません。そのように頭脳はそれが完全に穏やかなとき何かに余すことなく気づけます。あなたはそのようにしていますか? 我々の頭脳は決して穏やかではありません、我々がトークのはじめに言ったようにそれはいつもお喋りしています、いつもあれやこれやで塞がれています。そうすると頭脳は機械的になります、限られています、その中に摩擦を生じさせます、従って完全な静かさや沈黙の質が決して生まれません。あなたがあのような山々や雲を見るとき、あなたの頭脳が穏やかでなければその美に気づけません、もしあなたが絶えずお喋りしているなら、喋りまくっていて決してそれらを見ようとしないなら、あなたは山の美の途轍もない深さが分かりません、あるいは夕暮れの光の中の雲の美が分かりません。そのように論理的にそしてごく当たり前に頭脳には完全な穏やかさが必要です。
 それでは創造とは何でしょうか、発明とはなんでしょうか? お分かりでしょうか? 宗教は創造であって発明ではありません。発明は思考の収集蓄積であり、その中に欠落が生じてそれを埋める何かの発見です、しかしそれは依然として思考の領域です。違いますか? あなたがそうしたことがあるのか私は知りませんが話し手はこのことを科学者たちやその種の専門家たちなどと議論したことがあります。創造とは何でしょうか? 赤ちゃんの生物的な誕生などそれらの類だけではなく、それらを遥かに超えた何かです。創造とは何でしょうか? 誰が創造するのかではありません。お分かりですか? もしあなたがそれは神であると言うなら、それで終わりです、あなたの神、私の神、イスラム教の神、ヒンズー教の神、あなた自身が愛する神です。それは安易な説明です、そしてほとんどの人がそれで満足します。しかしもしあなたがそれを振り払って、そのことから脱皮するなら、創造とは何でしょうか? それは知識の誕生ですか? もしそれが知識の誕生ならそれは創造ではありません、なぜなら知識には限界があるからです。違いますか? なぜなら我々は絶え間なく知識を追加するのです。追加するのは限界があるからです。違いますか? それは“はかる”ことでしょう、“もっと”、“より良く”、それは“はかる”ことです。そのように知識が加わって発明がなされます。創造は知識とは関係ありません。従って人々が偉大な創造と考える世界中のあらゆる絵画は様々な角度から描かれた思考の産物です、偉大な芸術家、偉大な詩人、驚くべき音楽、それらは全て思考などの働きです、私はそれらを検討する必要はありません。
 そのように創造、それは宗教です。お分かりでしょか? 精神、頭脳は知識を要するとろでそれを使います、物理的世界です、何かを書くとき、話すとき、車を運転するときなどです、そして知識は心理的世界では場違いな代物です、なぜなら知識には限界があり、それは分断や争いなどその他の全てを生み出すからです。あなたがこう言うとき、“私は妻のことを知っています”、あなたはすでにあなたの妻を破壊しています。そのことがお分かりでしょうか? これはショックではありませんか? そのようにあなたの他の人との関係は知識に基づいているからです、そしてそれは思考です、思考は愛ではありません。あなたの全ての欲望や嗜好や感じ方は思考です、従ってそれは愛ではありません。愛が生まれると慈しみが生まれます。慈しみは余すことのない自由がないと生まれえません。もし私が私の文化に執着するなら、私の伝統に執着するなら、私の宗教にヒンズー教徒として執着するなら、それはただの...そして何と慈しみについて語るのです、それは児戯に等しいのです。慈しみがあるところには叡智があります。正にそれです。そしてそのような叡智が至高の叡智です、それはあなたのものでも、話し手のものでも、他の誰かのものでもなく、それは正に叡智です。そしてその叡智の中に究極の安全性があります。他のどこでもありません。そのように宗教、瞑想は知識とは無縁の宗教的頭脳の創造です、それは創造する状態の中で働きます。これらのことがお分かりでしょうか? たとえ論理的であっても、知的であっても、このことをよく見てください。もしあなたが本当にこのことを理解するなら、それが正にあなたの日常の生活に根本から革命をもたらす当のものです。我々は新しい宗教を誕生させます、それは既存のそれとは何の関係もありません。それが創造です。残念ですが、これでトークは終わりです。立ち上がっても宜しいでしょうか?(拍手)どうか自分自身に拍手を送ってください。(笑)
        ザーネン トーク6 1984年 7月19日
                 中野多一郎 訳