クリシュナムルティ(K) 我々が昨日言っていたように、そしてこれまでのトークで言っていたように、繰り返し指摘させてもらえるなら、私は、人が自分自身の光になって誰にも従うべきでないことが非常に重要であると考えます。ただし、勿論、技術的な世界ではあなたは従わなければなりません、あなたは受け入れなければなりません、あなたはあらゆる種類のことをそこでは行わなければなりません、しかし、精神的世界では、或いはもしあなたがその言葉を使いたければ、魂の世界では、権威はその光を損ないます、破壊します。人は自分自身でそれに出会わなければなりません。真理はあなたが他の人を通じて見つけられる何かではありません、それはどのようなテクニックを用いても見つけられない何かです。そして世界中でますます明らかになっていることは、技術的な世界が全く途方もなく発達してきたので、我々は同じ種類の技術が我々自身にも、我々の心理的幸福にも適用できると考えることです。そのように、我々は同じ種類の技術が深い理解には必要であると、閃きをえるには必要であると、或いはその真理に出会うには必要であると考えがちです、或いは感じがちです、或いは受け入れがちです。そこで、もし再び今朝指摘させてもらえるなら、人は、もし人が本当に真剣なら、心理的にいかなる人からも何事も受け入れないように、この上なく注意し熟慮して、自分自身で探究しなければならないと私は思います。そして、そこから人は沢山のことを学ぶことができます、なぜなら、我々が指摘したように、人は世界だからです、もし我々が自分自身であるその書物の読み方を知るなら、あらゆるものがそこにあります。
それでは何について話しましょうか?
質問者(Q) (聞こえず)
K (繰り返して) エネルギー。我々はエネルギーについて話せますか?
Q (聞こえず)
K (繰り返して) 自己欺瞞。我々は自己欺瞞とそれに気をつけていることについて話せますか?
Q (聞こえず)
K (繰り返して) もし私が私の悲しみ、人の悲しみを観察すればそれは消える。それをどうかもっとずっと検討してください。それが質問です。
Q あなたは自殺をどう思いますか?
K 私は自殺をどう思うか。私は自殺を個人的にどう思うのか? 他にあなたは何について話したいのですか?
Q 我々は変質をとげた人間の生についてもっと話せますか?
K 我々は自分自身の光になることについてもっと話せますか、或いは対話できますか? そのことから始めましょうか? そして恐らく我々はその中にその他の全てを含めることができるでしょう。
自分自身の光になるとはどういう意味ですか? そのように我々はスタートすることになります。我々は今自分自身の光ではありません。それは事実です。違いますか? 我々は混乱しています―政治的に、宗教的に、我々の互いの全ての関係の中で我々は混乱しています、ある種の緊張や混乱、争いがあります、そしてそのことからこの悲しみなどの問いかけが起こります。そのように、我々は、人間として、世界中で、恐ろしく混乱しています。とても沢山のガイドがいて、とても沢山の哲学者がいて、とても沢山のグルが彼らのシステムを示して、主張したり、説き伏せたり、あなたがその正しい...などに従うことを願ったりしています。そのように、この測り知れない混乱が内にも外にもあります。それは事実です。我々はそこからスタートできますか?
そして、この光、或いはこの知恵、或いはこの真理、神―それをあなたの好きなように何と呼ぼうと―は一人一人の中に存在すると考える或いは主張する多くの人が世界中にいます。それは憶測であり、理論であり、誰かが主張したことを伝統に従って受け入れているのです、或いは、あなたがそのように条件付けられているので、あなたはそれを受け入れます。そのように、事実は我々が非常に、非常に混乱しているということです。違いますか? 我々はそのような基本的なことからスタートできるでしょうか? 我々は時折混乱していないかもしれません、我々は時折物事を非常に、非常に明瞭に見るかも知れません、そして、それにいったん気づくと、それが記憶になり、我々はそれを捉えようとしたり、それにしがみ付いたり、それを再び取り戻そうと戦ったりします。しかし、人間として、我々がどこで生きようと、どんな気候の中で暮らそうと、どんな環境の中にいようと、この混乱と争いの状態は存在します。それは我々がそこからスタートする事実です。もし我々が今自分自身の光なら、争いは存在しないでしょう。宜しいですか? そのように、我々は実際の現実からスタートしなければなりません。
明らかに、もし何らかの混乱があれば、そのような混乱からなされるどのような選択も自然に混乱しているでしょう。違いますか? 私の混乱から―仮に私が混乱しているとすると―私はある道を選びます、ある方向を、あるグルを、ある活動を選択します。私は混乱しているので、その混乱から私が選択するものは何でも同じように混乱しているでしょう。私はそれが同じように事実だと思います。そうすると、選択しないことが非常に重要になります。違いますか? 我々はそのことが分かるでしょうか。何らかの方向性、或いは何らかの道、或いは何らかのシステム、或いは何らかのメソッド、或いは何らかのグルなど、これやあれに従わないことです、なぜなら、それは我々をより一層の混乱へ、より一層の分断へ導くからです、そしてそれが世界中で起こっていることだからです―あなたのグルがいて、私のグルがいます、そして彼らのグルがいます、私のグルはあなたのグルより良くて、あなたのグルより沢山知っていると。お分かりですか、このような戦いが我々の周りで起こっています。
そのように、自分自身にとっての光を見つけるためには、混乱から行動すると更なる混乱に至ります。違いますか? 我々はそれを事実として受け入れられませんか―それは盲人が盲人を導くようなものです。そのように、最初に要求されることは、私にはそう思われますが、真理を見つけようとする欲望から免れていること、‘現実’から離れた何かを見つけようとする欲望から免れていることです。違いますか? あなたは分かるで...我々は分かり合っていますか? そこで、我々は我々が混乱していることに気づいていますか? そして、もし我々が混乱しているなら、その行動とはどういうものですか、或いは、更なる混乱に至らない行動がありますか、それとも、この混乱を観察するのですか、それは正に観察することによって、つまり、その正に観察が行動なのですか?
ではそのことをもう少し検討させてください。仮に私が人間として混乱しているとします。そして私は私がその混乱から何を行おうと、それは更なる混乱、更なる争い、更なる悲惨に至ると悟ります。私はその点について非常にはっきりしています。そして私は行動しなければなりません。生は行動を要求します。私は私が自分自身を完全に条件付けから解放して、そして行動するまで待てません。お分かりですか? 私は行動しなければなりません、というのは行動が生だからです、関係性が生であるように、活動、行動、行うことは生の一部だからです。そうすると私はどうしたらよいのでしょうか? 私は私が非常に混乱しているのを知っています、そして混乱していない私の一部があるのですか? お分かりですか? それとも、私の全部が混乱しているのですか? 私の一部に、或いは私の中のどこかに、明瞭なものが、自由な感覚が、混乱や争いなどその他の全てのない完全な自由がありますか? あなたは私の質問が分かりますか?
Q 人はそれを言葉にしないように非常に注意していなければなりません。
K 人はそれを言葉にしないように非常に注意していなければならない。分かります。しかし、私はそれを探究しています。私は自分自身に問うています―もし私が混乱しているなら―私は自分自身に問うています―私は私の全意識の中で完全に混乱しているのか、その全てが混乱しているのか、それとも、その意識の一部に、それは私ですが、混乱していないところがあるのかと。そして、もし私がその混乱していない部分を保持できて、そこから行動すれば、それは正しい行動でしょう。あなたは私の要点が分かりますか? 私は私の中のどこかに、想像上ではなく、幻想に囚われているのでもなく、私の中のある部分に、本当に美しくて、この全ての混乱から完全に免れているところがあるのかどうかを見つけ出さなければなりません。宜しいですか? あなたは私の質問が分かりましたか? それとも、私の全部が混乱しているのですか? 混乱している精神が、混乱している意識がこのような問いかけをしますか、つまり、混乱していない私の一部がありますかと。あなたはこのことの要点が分かるでしょうか。私は混乱しています、私の精神は問題を抱えています、争っています、崩壊しています、断片的になっています、そして断片的なその精神が問います、明瞭で断片的ではない私の一部がありますかと。お分かりですか? それは間違った問いかけです。勿論です。それは間違った問いかけですが、我々はそのことを問いかけます。あなたがこのことの重要性を分かるかどうか私は知りません。私は混乱しています、そして私は私が非常に混乱しているのを知っています、しかし私は、私の中のどこかに、どこかの場所に、どこかの領域に、途轍もなく明瞭な部分があるはずであると強く望みます。私はそれを強く望みます、そしてそれが幻想を生み出し、そしてその幻想に囚われて言います「そうです、非常に明瞭な領域がある」と。お分かりですか?
そのように、人は、このような観念、或いは明瞭性のある領域を手にいれようとするこのような願望は幻想であることに深く気づかなければなりません、人はそのことに非常に注意深くならなければなりません、そのようなことに囚われないように非常に注意深くならなければなりません。そこで私は問うています、私は全く人間として混乱しています―宗教的に、政治的に、私の関係性の中に、私の活動の中に、後悔や悲しみ、痛み、不安があります―お分かりですか―私を取り巻く全人間の苦悶があります、そして私はその一部です。宜しいですか、生は行動を要求します、生は言います「関係性なしにあなたは存在しえません」と。そして私は私の関係性の中にも、混乱や争いや所謂性差別をめぐる戦いがあるのを発見します。そのようにそれが現実です。そうすると私はどうしたらよいのでしょうか? あなたは今私の質問が分かりますか? 私は、何らかの明瞭性があるという私の意識の中の領域を認めているのではありません、或いは、それを強く願っているのでもありません。私はそれを全く退けます、なぜなら、私は、それが否応なく幻想へ至る願望や希望や欲望の働きであることが分かるからです。そのように私はそれを完全に棄てます。どうか、これは対話であり、私が一人で話しているのではありません。我々はこのことを一緒に共有しているのであり、従ってあなたはこのことに参加しています。
そのように、私はただ混乱しています、そして私は行動しなければなりません、そして私は私が関係性を持っていることが分かります―妻であり、夫であり、男子であり、女子であり、あらゆる関係です、父であり、両親などです。そして私もそこで混乱しています。混乱は争いを意味します。混乱は不確かさを意味します。混乱は分断的な感覚を意味します。私はそれら全てに気づきます。そうすると私は何をしたらよいのでしょうか、私が行うことは何でも更なる混乱、更なる悲惨をもたらすと知ると、私は何をしたらよいのでしょうか? 私は待つのですか、私が全ての私の混乱を排除するまで、私は僧院の世界へ、隠遁の世界へ、隠者の世界へ―お分かりですか―コミューンの世界などその他の全てへ引き篭もるのですか、私はそれら全てへ引き篭もるのですか? そして、それは私がそこでも選択しなければならないことを意味します―どのコミューン、どのグル、どの隠者、どの隠遁地―しかし、私は依然として混乱しています、従って私が選ぶものは全て...お分かりですか? あなたはこれら全てが分かるのでしょうか。そこで私は自分自身に言います、何らかのグループに参加することは、僧院に引き篭もることは、誰か他の人に従うことは、この混乱の依然として一部であると、従って、私は誰にも従いません、私はどのようなグループにも参加しません、或いはどのような僧院へもコミューンへも引き篭もりません。そうすると、私はこの混乱を抱えて取り残されます。あなたは我々の行っていることが分かりますか? 我々はあらゆるものを脇へ除けます―何か明瞭なものを見つけたいという願望はそれゆえ幻想を作り出します。そこで我々は、謂わば、デスクの上を一掃します。
そうすると私は何をしましょうか? 私は関係づけられています、私は関係性を持っています、私は生計を立てなければなりません、私は書かなければなりません、私は読まなければなりません、私は生活の中で行動しなければなりません。私は何をしましょうか? 対話です、お願いします!
Q 何かを行いたいと思うのは何者ですか?
K 何かを行いたいと思うのは何者か。私の彼女或いは妻或いは両親が言います「これをしなさい」と。社会は要求します、私が何かすることを、生計を立てることを。私が何かをしたいのではありません、なぜなら、私は私が行うことは全て混乱であると悟るからです、しかし、社会が、両親が、あらゆるものが言います、あなたは行動しなければならない、あなたは椅子にじっと座って、あなたのおへそを見ていることはできませんと。そうすると私は何をしたら良いのでしょうか?
さあ、どうでしょう、私と対話してください、どうか、これは対話です、同じことに関心を持ち、同じ熱意で―お分かりですか―取り組んでいる二人の間の会話です、それゆえコミュニケーションが容易に生まれます。
Q (聞こえず)
K この混乱からの出口がなければならないという無意識の願望、或いは信念、或いは望みがあります。違いますか? ですから我々はそのような問いを検討しなければなりません。宜しいですか、我々はこの問いを検討しなければなません、つまり、私の意識の内容は、それが顕在意識であろうと潜在意識であろうと―その深い領域のどこかに明瞭な何らかの現実性があるのかということです。何らかの現実性であり、想像上の現実性ではありません。そこで私は意識の中の潜在的部分を検討しなければなりません。宜しいですか?
それでは最初に、誰がこの意識を顕在意識と潜在意識に分けたのですか? 誰がそれを分けたのですか? なぜこの分断が存在するのですか? そのように言って見ましょう。
Q (聞こえず)
K いいえ、そこへ飛躍しないでください、宜しいでしょうか。フロイト派の人たちはみな―お分かりですか―心理学の世界では全て、分析的世界では、精神治療の世界では言います、何らかの無意識が存在すると―違いますか―そして意識の世界です、そのような分断が生じます。そして私は自分自身に言います、どうしてこのような分断が起こるのかと。誰がこのような分断を発明したのでしょうか? なぜ私はこの分断を受け入れる必要があるのでしょうか? 百万人が言います、分断があると―教授たち、一流の資格を有する人達、医学博士たちなどその他の全ての人達が言います、分断があると―無意識と意識の分断です。私はあなた達がみな間違っているかもしれないと言います。私はあなたが正しいとか間違っているとか言っていません、しかしあなたは...かもしれません、私は知りません、しかしなぜ私はこの分断を受け入れる必要があるのでしょうか? お分かりですか?
Q (聞こえず)
K はい、人間の精神は知ることを要求します、そして潜在意識の中に何かがあるかもしれません。それがあなたの言える全てです。潜在的な何かで、分断されていません。お分かりですか? 私はその分断に反対しています。私は理性的に反対しています、私が分断に偏見を抱いているからではありません。しかし私は言います、なぜ我々は受け入れるのか、今西洋世界の何百万の人達は、そして東洋世界の一部の人達は―なぜなら、西洋が技術的にあらゆる点で東洋を征服しているからです―なぜ人間はこれを受け入れてきたのですか?
Q それは全体を見ることができないということです。
K それは全体を見ることができないということです。意識を余すことなく見ることができないということです。そうしてあなたは言います、そのように見ることができないので、このような分断が起こってきたと。このことをあなた自身の中で注意深く見てください。それを自分自身で見てください。私は私の意識を余すことなく見ることができないので、私はそれを分断することに頼ります、そうすることによって私がその全体を見ることを願って。最初に私はそれを断片化し、その全体を見ることを願って、私はそれをまとめ上げます。分かりますか?
Q (聞こえず)
K そのことは知っています、宜しいでしょうか。私はただそう言っているだけです。私はニューヨークで約三十人の精神...治療者たちと会ってきました、そのように私は知っています―それらの類の一部を。そのように我々は最初に分断して、我々はそれらをつなぎ合わせます。私は自分自身に言います、なぜあなたはそれを最初に分断するのかと。そしてあなたは言います「どうしてかと言うと、私はその全体が見えないからです」と。あなたは全体が見えないことをどのように知るのですか? それはあなたがそれを分断しておいて、その分断にあなたが条件づけられているからですか、つまり、それはあなたがそれは分断されるという伝統を受け入れたことになります。あなたはこれらのことが分かるでしょうか!
Q 私はそれを私の確かさのために分断しています。
K はい、その通りです。
そこで私の質問は、私は、アウトサイダーとして私は、もし指摘させてもらえるなら、私はこのような分断を受け入れません。百万人がそれを受け入れても、私は言います、それは違うと。なぜなら、大切なことは意識の全体を見ることだからです。違いますか? そうすると分断の必要は全くありません。それでは、それは可能ですか? あなたは私の次の質問が分かるでしょうか。
Q (イタリア語で)
K 私は毎日、イタリア人の友人が言います、私は毎日表面的な生活をおくっているので、私には全体を見ることが非常に難しいのです、それゆえ正にその表面性が分断していますと。
Q (イタリア語で)
K はい、そうです、同じことです、はい。私が表面的な生活をおくっていると、時折私は深く探求することがあって、そしてその深い探求によって私は無意識と意識があると考えることがあります―その深い探求で―なぜなら私は表面的な生活をおくっているからです。それがその質問者の言うことです。それが一つの理由です。一方の理由は、全体を見ることができないので分断が起こるということです。他方は、私は、人は非常に、非常に表面的な生活おくっていて、時折人は深く探ります。それは夢かもしれません、或いは、それは意識的な行動かもしれません、そうするとあなたは表面よりももっとずっと深い何かがあると悟ります、従って分断が起こります。違いますか? 進めてください、これは対話です、宜しいですね。
Q (聞こえず)
K (繰り返して) もしあなたが何かを信じると、それは大きな力になります。信念は大きな力になります。違いますか? 宜しいですか、もし何らかの神経症的な信念があると、その正に神経症的な信念があなたに途轍もない活力を与えます。私はあなたが多くの神経症患者に会ったことがあるかどうか知りません。恐らくほとんどの我々は大なり小なり神経症的です。そのように多くの人が途方もなく活力的な人々です―カッコつきの‘活力’です。しかしそれは差し当たりここでの質問ではありません、もし私がこれを検討させてもらえるなら。
そのように、なぜこの分断があるのかの多くの理由があります、或いは幾つかの理由があります、そしてそのように分断されているので、人間はそれを今一般的に受け入れています。そしてアウトサイダーが、話し手のようなアウトサイダーが来て言います「一体全体なぜこのような分断が存在するのでしょうか、意識の全体を見ることはできませんか?」と。あなたは私の質問が分かりますか?
Q (聞こえず)
K はい、つまり、彼は言います、自分自身が我々は断片化されています、我々自身の中に様々な分断があります、そしてそのような分断が我々にこの無意識と意識とに分断することを助けますと。そのようにそれは我々の生の全体の一部であり、生活の一部であり、それがこのような分断を生み出しています。宜しいですか? 我々はそれらの理由を全て受け入れます。宜しいですか?
それでは、人の意識を余すことなく見ることは可能ですか、潜在的なものを含めて、あなたが無意識と呼ぶものも含めて。そこで私は問います、それは可能かと。
Q (聞こえず)
K (繰り返して) 余すことなく観察することができるのかどうかを私が見つけようと求めれば求めるほど葛藤が起こります。
分かります。しかし私は非常に...なものを問うています。それは可能ですか―私はそれが可能であるとか可能でないとか言っていません―我々が意識を余すことなく見ることは可能ですか、その中に無意識、潜在意識を含めた意識を余すことなく見ることは可能ですか? 一般的な意見は、それは不可能であると一致しています。違いますか? 心理学者たち、教授たち、医学博士たち、その人達は全て言います「いいえ、それは不可能です、それはただ恐らく数少ない頭の変な人達の言い分であって、実際にはそれは不可能です」と。
それでは、その余すことなく全体を見るとは我々にとってどういう意味ですか? 我々は何かを全体的に観察しますか? 我々は何かを完全に観察しますか? それとも、それはただ部分的な観察ですか?
Q 部分的です。
K 私はそこへ行こうとしています、宜しいでしょうか、ただ自分自身を見てください。あなたは、貪欲を例に取ると、或いは嫉妬を例に取ると、あなたは貪欲の活動を余すことなく一目で見ることができますか? その活動を余すことなくです。あなたは私の質問が分かりますか? あなたはどう思いますか?
Q 私は分かりません。
K その婦人は言います「私は分かりません」と。それで結構です、あなたはそのように言いました、そうすると、どうしますか? あなたは検討しようとします、違いますか、あなたはもっと検討しようとしますか? 私は分かりません、しかし、無意識を含めた意識を余すことなく見ることができるのかどうかを発見することは重要です。なぜそれは可能ではないのですか? 我々が余すことなく観察するのを妨げているのは何ですか?
Q (聞こえず)
K マダム、我々はその質問には答えました、宜しいですか。宜しいですか、我々の質問は、マダム、あなたは貪欲の活動を余すことなく見ることが、観察することができるか、ということです。それが意味する全ては、なぜ貪欲が生じるのか、その継続性の源は何なのか、なぜそれは非難されるのか、などです―貪欲の全活動です。あなたはそれを一目で見ることができますか―活動的な貪欲や意識的な貪欲だけではなく、隠れた貪欲も。あなたはその全体を見ることができますか?
Q 隠れた貪欲とは何ですか?
K 隠れた貪欲? 私は言うかもしれません、私は貪欲ではありませんと、しかし深いところで、私はひどく貪欲です。(笑) どうか私の質問を最初に聞いてください。私は貪欲の活動を余すことなく見ることができますか? おーっ、それはとても単純なことです!
Q (聞こえず)
K いえ、いえ、私はあなたに何も言っていません。私はあなたにあなたが貪欲の全活動を見ることができるかどうかを問うているのです。
Q 私はできません、そして私はなぜだか分かりません。
K あなたは見ることができない。あなたは、あなたはできない、そしてあなたはなぜだか分からないと言います。
Q もしあなたが何かに関心があるなら、あなたはその全体を見ることができます。
K はい。その婦人は言います、もしあなたが何かに関心があるなら、あなたはその全体を見ることができますと。私は...(列車の音)...おーっ、この列車!―私は貪欲の活動を見ることに関心があります、その全活動です。しかし、私にはそれを十分に検討するだけのエネルギーがありません。私は関心をもっていますが、その活力、そのエネルギー、その熱気が欠けています。そうすると私は何をしたら良いのでしょうか? もっとエネルギーを得るために薬や煙草や酒などあらゆる種類の刺激物に頼って貪欲の活動を余すことなく見ることができるようにするのですか? それはむしろ愚かなことになります、違いますか? そうすると、私は何をしたら良いのでしょうか? それを検討してもよいですか? 私はそれを検討します、あなたは助けてくれません―見つけ出すことです。私は貪欲の活動を余すことなく観察できますか―全活動です―意識的な貪欲だけではなく隠れた貪欲もです。活動とは何ですか? それが私の貪欲の活動を余すことなくと言った理由です。貪欲は何らかの活動であり、それは静止していません、それは絶えず活動しています、もっと、もっと、もっと、もっとと活動しています。そうすると、私はその活動を観察できますか?
それでは、我々は活動と言って何を意味しますか? 活動はここからあそこへということを意味します。そうすると、活動は時間を意味します。違いますか? 時間は活動です、物理的であろうと心理的であろうと、それは活動を意味します。そうすると、私がこの活動の観念を持っている限り、それは時間ですが、時間は私が全体を観察するのを妨げようとします。あなたはそのことの何かを捉えましたか? もしそれが明瞭でないなら、我々はそれを検討します。
Q (聞こえず)
K いえ、いえ、いえ。待ってください、待ってください、私はそこへ行こうとしています。宜しいですか、彼は問います、あなたはその質問に答えていません。彼はあなたがその質問から遠ざかっていると言います、つまり、あなたは時間という新しい要因を持ち出しました。そうすると、あなたは言うでしょう「どのように私は時間を止めるのか」と。私は何ものも止めようとしていません。私はただ観察しているだけです。そしてそれが違うところです。私は自分自身に問うていません、どのように私は時間を止めるのかと、私はただ全要因を観察しているだけです、貪欲の全地図を観察しているだけです。そして、私が貪欲の全地図を見るのを妨げている問題点の一つはこの活動です―それを止めようとする活動です、それを追い求める活動です、「私は止めなければならない」と言う活動です。私はそれら全てを観察しています。活動のこのような観察であり、私はそれを否定していません、私はそれを止めようとしていません、ただこの活動を観察しているだけです。
そのように、貪欲も何らかの活動ですので―違いますか―それは時間の一部です。私はそれを手にしていないけれども、私はそれを手にするでしょう。お分かりですか? そこで私は私の精神がこの活動に囚われていないかどうかを明らかにしなければなりません。あなたはこれらのことが分かっているでしょうか。
Q はい。
K いいえ、宜しいでしょうか、同意しないでください、それは非常に難しいことですので、ゆっくり行きましょう。我々は言いました、意識は顕在意識と潜在意識の両方を含むと。そして、その意識の一部が貪欲です―或いは他のものを例として取り上げてください。そこで私は問います、我々は貪欲を余すことなく見ることができるのか、その活動を余すことなく見ることができるのか、その性質を、その構造を余すことなく見ることができるのか、どのようにしてそれは起こるのかと。それを明瞭に見ることです、理論的にではなく、実際にです。宜しいですか? あなたはそれを見ることができますか―その源とその消滅です。貪欲は消滅しますか? お分かりですか? 私は富に貪欲ではありません、或いはお金に、立場に、地位などそれら全ての恐ろしいものに貪欲ではありません、しかし私は真理を手にすることにはひどく貪欲です―お分かりですか―真理を見つけることです。それは私にとって最も重要なことであり、私はひどく貪欲です、そしてそれは貪欲の一部です。私はあなたがそのように考えたくないのを知っていますが、それも貪欲です。
そこで私はその全体を見ることができますか、この活動を見ることができますか? 私はただ見ることが―どうか、これは単純なことです―私は方向性を―それを取り除こうとか、それを止めようとか、それを抑えようとかの方向性を持たないときに―それら全ては私が貪欲を余すことなく見ることを妨げます―貪欲の活動を余すことなく見ることができるだけです。違いますか? なぜなら、我々が先日言ったように、方向性は断片的だからであり、それは動機だからです。動機は断片的です。動機は方向性を与えます、従って、それは断片的です。我々が何らかの方向を示すものを持つと、つまり、私はそれを取り除かなくてはならない―貪欲を取り除かなくてはならない―私はある特定の方向に沿って進んでいます、従って、方向が私に全体を見るのを妨げます。あなたはこのことが分かりますか? つまり、貪欲を抑えること、貪欲を合理化すること、貪欲から逃げること、或いは「私は貪欲をなくさなければならない」と言うことなど方向性を示すどのような活動も全体を見ることを妨げます。違いますか? そのように、私が、人間として、私が、意識をその潜在意識と共に余すことなく見たいと思っている人間である限り、彼は、方向を示すものがあるところではどこでも、その方向を示すものは分断的で、従って断片的であり、それが全体に気づくことを妨げるという事実を理解しなければなりません、彼はそのことに閃かなければなりません。
Q ただそれだけのことです。
K いえ、いえ、それだけではありません。宜しいでしょうか。ちょっと待ってください。方向を示すもの―もう一つのものです。
Q (聞こえず)
K いいえ、私は言いました、宜しいでしょうか、貪欲は意識の一部であると、暴力のように、希望や絶望や不安のように意識の一部であると、それらは全て我々の意識の一部です。あなたの意識は世界の意識である、などです。その意識の一部が貪欲です。あなたは貪欲の働きを余すことなく見ることができますか、隠れたそれだけではなく明らかな貪欲も。我々は言っています、あなたはあなたが方向性を持たないときに貪欲の働きを余すことなく見ることができるだけですと。それは動機を抱かないときにだけということを意味します、なぜなら動機が方向性を与えるからです。違いますか? それは単純なことです。そうすると、もし意識を余すことなく見ることによってだけ潜在意識も顕わにされるという要請があるなら、あなたは方向性を持たずに観察しなければなりません。そして、それはある種の気をつけていること、真剣であることを要請します、なぜなら、そうするとあなたは貪欲を消滅させるからです。お分かりですか? そうするとあなたは貪欲と戯れたりしません。そうしてあなたはそれに余すことなく気づきます。しかし、多くの人は貪欲を棄てたくありません、多くの人は貪欲を好みます。それは途轍もない快楽です、所有する快楽です。そこで我々は異なる何かを問うています。そのようにそれは非常に明瞭であると我々は言いました。
そしてまた全体を見ること、それはそれ自身を夢を通じて顕わにするかもしれません。あなたはそれらを検討したいと思いますか? あなたはそれに関心がありますか?
Q 私は関心があります。
K あなたは何にでも関心があります。(笑)
Q (聞こえず)
K そうすると、恐れは我々の意識の一部です、そして恐れがある限り、それは何らかの方向を示しますので、あなたは全体を見ることができません。夢です。明らかな夢があります、明らかな身体的、生物学的プレッシャーと夢があります。我々はそれについて話しているのではありません。夢とは何ですか、そして、なぜ我々は夢を見る必要があるのですか? あなたは私の質問が分かりますか? 日中頭脳は非常に、非常に活動的です―観察しています、あなたはそれが経験することを知っています、考えたり、お喋りをしたり、否定したり、受け入れたり、口論したり、争ったり、それがずっと続いています。侮辱を頭脳に記録したり、お世辞を頭脳に記録したり、全活動が日中続いています。そして夜中その活動が続きます―続きませんか? 違いますか? もし一日の終わりにお喋りや口論、名声を追い求めること、権力、地位などそれら全てのこの活動が消滅しないなら、もしそれが一日の終わりに消滅しないなら、頭脳は続けます。違いますか? それは事実です。我々は一緒に歩んでいますか?
そのように夢は我々の日常の活動の継続です、ただ違う形での継続です、光景や想念―お分かりですか―などそれらを通して、シンボルを通して。そのように、同じ混乱や争い、悲惨などの活動が継続します。そこで我々の問いかけは、我々の日常生活のこの活動が、我々の知るそれが、争いなどと共にその瞬間ごとに消滅しえますか、ということです。お分かりですか? 一日の終わりにではなくです、なぜなら頭脳はそれが絶対的な秩序の下にあるときにだけ機能しうるからです、正しく機能しうるからです。お分かりですか? そのようにそれは秩序を要求します。あなたはそれを自分自身で発見できます―非常に単純なことです。
Q 我々はあらゆる質問をその根底まで検討する時間はありません。
K 私はそれをあなたに示そうと思います。その婦人は言います、我々はあらゆる問題を、あらゆる質問を、あらゆる争いをその根底まで検討する時間はないと。我々は時間を持ち合わせていません。我々には十分な時間があります、何であれ事が起こると、それを見て、それを終わらせるのです。あなたには一瞬の中に十分な時間があります。しかし、我々は...することを好みます、我々はそれと戯れます。我々はそれをその場で検討しません。
Q 心理学的にはどうでしょうか?
K 心理学的にもです、宜しいですか。そのように、我々は言っています、夢は我々の日々の争いや悲惨、混乱の継続であると、夢の中に持ち越されたものであると、そして、そこでも頭脳は活動的です、なぜなら、それは、あなたが寝ている間、秩序をもたらそうとしているからです。お分かりですか? あなたは...でしょうか。なぜなら、それは言うからです「私はもし秩序があれば機能できるだけです。もし秩序が乱れているなら私は不安になります、私は神経症になります、そこで私は秩序を見つけなければなりません」と。秩序を得ることはそれにとって安全を意味します。このことは明らかです、それら全ての質問です。ここに心理学者はいますか? その人達はあなたにそう言うでしょう。
そのように、それは秩序を要求します、それは安全性を意味します、それが健康的に正常に機能することを意味します。しかし、我々の日常生活はとても秩序が乱れているので、それは睡眠時に何らかの種類の秩序を回復しようとします。そうすると、日中、どのような問題が起こっても、心理的な、人間の問題が起こっても、それが起こるや否や、それを開花させ、それを消滅させることは可能ですか? それを開花させるのです。お分かりですか? 仮に私が怒るとします、私はそれを開花させます、それは私が進み出てあなたを打ちのめしたり、何かを言ったりすることではなくて、私が私の中のその怒りが開花し朽ちて行くのを見守ることを意味します。お分かりですか? そのように、日中のあなたの中にそのような現れては開花し朽ち果てる活動があるとき、頭脳は夜中に秩序を得て、それはそれ自身を回復させます―あなたはそれら全てが分かりますか―そうして頭脳は明瞭になります。
そこで我々は問うています、現代社会に生きている人間は、それら全ての複雑さを抱えて、とても混乱しています、そして生は要求します、関係性は要求します、行動することを、人はどうしたら良いのでしょうか。あなたはそれが我々の最初の質問であったことを覚えています。そうして、何をすべきか探究しているとき、我々は言います、あなたは全体を見ることができますかと。あなたが全体を見るときのみ正しい行動が生まれます。我々は意識の全体を見ることができません、なぜなら、我々はいつも何らかの方向性を持っているからです―不快なものであろうと快いものであろうと、隠れたものであろうとオープンなものであろうと、それはいつもそこにあります。従って、それが意識の全地図を観察するのを妨げます。
Q 私は理解する必要があると感じます。
K 私は理解する必要があると感じる。誰を理解するのですか? 話し手を理解するのですか? そうではないかと思います。話し手はその中にあなたが自分自身を見ている鏡にしかすぎません。違いますか? あなたが自分自身を見るとき、その鏡は重要ではありません。それを叩き割ってください、それを投げ捨ててください。本当です。
そのように、我々は自分自身を観察しています、話し手が言うそれではありません、そのことをあなたは理解する必要があります、あなたは自分自身を理解する、知る、見る必要があります。あなた自身は混乱しています。どうか、これは単純なことです。全く混乱しています。そして、あなたがその意識に余すことなく気づかない限り、あなたが何を行っても、それは更なる混乱や悲惨に至るでしょう。その意識に余すことなく気づくためには、方向を示すものがあってはなりません。お分かりですか? 方向を示すものは動機を意味します、その動機が言います「私は私の意識を理解しなければならない、私はそれを取り除かなくてはならない、私は...ねばならない」などその他全ての子供じみた類です。そのように、方向性を脱落して観察していると、潜在意識が顕在化します。お分かりですか? それが全て顕わになります、一息であなたは全てのものを見ます。我々はそれを行いません。
Q (聞こえず)
K もし私に動機がないなら、なぜ私は何かをする必要があるのですか―それが質問ですか? もしあなたに動機がないなら、あなたは言います、私は何かをしようとする欲望が起こりませんと。違いますか? あなたには動機があります、あなたが家を持ちたいと思うとき、動機が生まれます。違いますか? シェルターです、家です、あなたの頭上の屋根です。あなたが何かを羽織りたいと思うとき、動機が生まれます、なぜなら、寒いのであなたは何かを羽織りたいと思うのです。あなたが空腹のとき、動機が生まれます―食事です。違いますか? その同じ活動が精神にも引き継がれるのですか? あなたは私の質問が分かりますか? 生物学的な、有機体的な動機があります。我々はそのことでとても条件づけを受けているので、我々はそれを心理的な領域にまで持ち越すのかもしれません、そこで我々は言います「私は生きるために動機を持たなければならない、さもなければ私は行動できない」と。マダム、あなたはその違いが分かりますか? 生物学的に、有機体的に、衣食住のための、お金のための動機が生まれます、私は働かなくてはならない、動機が生じます。我々はそのことにとても条件づけられているので、我々はその同じ衝動を心理的な領域にまで持ち込むのかもしれません。そして、心理的な領域で何らかの動機が生まれると、あなたは生を分断し、それをバラバラにします、従って、あなたは生を余すことなく見ません―私の生でもなく、あなたの生でもなく、人間の生を余すことなく見ません。
Q 我々は断片化されています。
K あなたは依然として断片化されています。そこで我々は問うています、この意識は余すことなく観察されうるでしょうかと。そして我々は言っています、それは余すことなく観察されうると、潜在意識を含めて、潜在意識の中で進行する全ての労苦を、顕在意識の中で蠢く沢山のものと同様に! そしてそれら全ては我々が観察者を脱落して観察するとき顕わにされます。お分かりですか? 観察者は過去であり、観察者は動機であり、その観察者が言います「私はこれをしてはいけない、私は...ねばならない」などと。そのように観察者は過去であり、観察者が観察のための動機を与えます、従って、それは決してそれを余すことなく見られません。観察者が正に観察されている当のものです。違いますか? 観察しているその意識は彼自身です、しかし彼はそれを分断したいと思って言います「私は私の意識とは異なります」と、それは明らかに馬鹿げています。そのように、過去としての観察者がいないときにだけ、方向性を与える観察者がいないときにだけ、観察していることになります。そうして全体に気づくと行動が生じます、断片的ではない行動が生じます。あなたは何か理解しましたか?
Q (聞こえず)
K 宜しいですか、宜しいですか、宜しいですか、ちょっと待ってください、ちょっと待ってください。良いことは邪悪なことの対極にありますか? あなたは私の質問が分かりますか? 良いことです。良いことは悪いことの対極にありますか、或いは悪いこと、邪悪なことと異なりますか? あなたは私の質問が分かりますか? その紳士は言います、私はいつも自分自身を良いことに結び付けようと努めていますと。そして我々は言います、良いことは邪悪と異なりますか、或いは邪悪の対極にありますか、邪悪の反対ですかと。
Q 私は自分自身を真理と結び付けます。
K いいえ、あなたは‘真理’という言葉を使うことはできません、宜しいですか、ちょっと待ってください、我々はそこへ行きます、宜しいでしょうか。我々はもっとずっと根本的な質問をしています、つまり、良いことは邪悪の反対ですかと。
Q 善と悪は同じものの一部です。
K 善と悪は...の一部、いいえ、宜しいですか、一つのことから離れないでください。これは本当に非常に真剣な質問です。お分かりですか? なぜなら、これは我々の生の戦いの一つだからです―良いことと悪いこと、美しいものと醜いもの、邪悪なものと有益なものなどです。
Q それらは異なりますが、分離していません。
K それらは異なるが分離していない。私はそれが分かりません。良いことは、あなたが対極と言うとき、それは悪いことと関係していますか? それとも、良いことは悪いこととは全く無関係ですか? よく見てください。
Q (聞こえず)
K 宜しいでしょうか、避けないで、ただそれ自体を見てください、それ自体を。我々は、我々が悪いことを知っているので、我々が邪悪なことを知っているので、良いことを知るのですか? あなたは、あなたが鈍いのをあなたが自分自身を聡明な誰かと較べるから知るのですか? これは非常に...宜しいですか、これは一つの...
Q 我々はいつもそうします。
K その紳士は言います、我々はいつもそうすると、我々は自分自身を誰か聡明な人と較べて自分自身を鈍いと言います。それが我々の生涯を通じて行うことです。しかし我々は挑戦しています、それに疑問を投げ掛けています。私はそれが普通であることを知っています、それが伝統的であることを知っています、我々はそれら全てを知っています、極めて明白なことを持ち出さないでください。しかし我々は問うています、良いことは邪悪なことの対極にあるのですかと。もしそれが対極にあるのなら、それはそのルーツが邪悪なことの中にあります。違いますか? 宜しいでしょうか、あなたは探究していません。
Q それらは同じ現象の二つの面であり、同じコインの裏表です。
K 同じ現象の二つの面、同じコインの裏表。しかし、宜しいでしょうか、それはただの言葉です。私はそれよりももっと深く行きたいのです、あなたはただ言葉にこだわっています!
Q (聞こえず)
K あなたはそれを見ていません、あなたは探究していません、あなたはただ何かを言っているだけです。どうか探究してください、それが我々の四日間を通じて行ってきた対話の目的です、そして明日が最後の対話です。我々は言っています、どうか探究してください、それは快楽であるとか、それはこうであるとか、それはそうであるとか言わないでください。我々はそれら全てのことを知っています。良いことは邪悪なことの対極にあるのですか? もしそれがその対極にあるのなら、良いことはそのルーツが邪悪なことの中にあります。違いますか? 私は私が鈍いのを私が自分自身を聡明なあなたと較べるときに知るだけです。違いますか? そのように、私の鈍さはあなたの聡明さの中にそのルーツがあります。それとも、その二つは異なりますか? もしそれらが異なるなら、どのようにして私は邪悪が何であるのかを知るのですか? そして、良いことについて私は何を知るのですか? 良いことです、相対的な良いことではありません、邪悪なことの対極にあるものではありません。そうすると、どのようにして私は良いこととは何かを知るのですか? 私はただ比較する中で良いこととは何かを知っているだけです。もし私が比較しないなら―お分かりですか―もし私が自分自身を聡明なあなたと比較しないなら―そのように比較して私が私は鈍いと分かる―もし私がそのような比較をしないなら、そうすると私は鈍いのですか? 私は知りません。
Q (聞こえず)
K 私は我々が理解したとは思いません。これはとても難しいことです。宜しいでしょうか。全ての宗教はこの問題を抱えています、邪悪なもの、良い天使と悪い天使。良いことと悪いこと。このことは古代のシュメール人から現代まで全宗教に通じることです。つまり、この壮大な...これとそれとの間の葛藤があります。これとそれとの間の葛藤は、もしそれらが相関関係にあると起こるにすぎません。もしそれらが相関関係でないなら、どのようにして私は良いこととは何かを知るのですか、もしそれらが相関関係でないなら。比較することだけで―そして比較は計ることを意味します、計ることは思考することを意味します、思考は良いことの産物ですか? あなたは私の言っていることが分かりますか? いいえ、あなたは分からない。もし良いことが思考の産物なら、それは単に何らかの断片であり、従って良いことではありません。しかし、思考の産物ではない何らかの良いことがあります、従って、それは対極関係とは何の関係もありません―それはあります。
我々は理解しましたか、我々はお互いに通じ合っていますか、お互いに何かを共有していますか、我々は今朝何かを手にしましたか? それとも我々は旧態依然たるやり方で続けているだけですか?
Q (イタリア語で)
K (笑) その紳士は言います、あなたはある次元にいて、我々は別の次元にいます、あなたは我々のところへ降りて来られますか。(笑) それとも我々はあなたのところへ上がって行けますかと。そして、我々があなたのところへ上がって行けるのは...その紳士が言います―私はこのことを言っていません―我々が同じ興味を、同じ瞬間に、同じ熱気で持つときにだけ、我々は互いに出会えると。つまり、我々みなが同じ興味を、同じ熱気で、同じエネルギーで持つとき、我々は互いに出会います。そうすると、質問者は言います、何らかのコミュニケーションは決して生まれません、なぜなら、我々はいつも浮き沈みしているからですと、そして、あなたは我々の困難を見て取って、我々の困難を打ち破り、それについて何かできませんかと。そうすると、あなたはその重荷を私に背負わせています。そして私は何度も言ってきたように、私はあなたのグルではありません、私はあなたのリーダーではありません、私はあなたの教師ではありません。あなたがその教師です、あなたがそのグルです、あなたは、もしあなたがあなたの本の読み方を知るなら、その本とはあなた自身のことですが、自分自身についてあらゆることを学ぶことができます。しかし、あなたはそれを読みたくありません、あなたは労を惜しまずにそれを見ようとしません。そして、そこに全てがあります、なぜなら、あなたが世界であり、世界があなただからです、従って、全てのものがあなたの中に埋もれています―その苦悶であり、その苦しみなどその他の全てです。
中野 多一郎 訳