クリシュナムルティ(K) 私は弁証法的に問うことと対話は違うと思います。弁証法的に問うことや弁証法的な探究は、辞書によれば、意見を交えて真理を見つけることを意味します。それが弁証法的なアプローチの文字通りの意味です。一方、対話は互いに極めてよく知っている二人の友人が、互いの言葉の意味や言葉の使い方を知っている友人同士が、一緒に、本当の探究心で真理を見出そうとすることです―探究することによって、意見を主張するのではなく。従って、どちらを願うのかはあなた次第です、真理があるかどうか意見を戦わせて探究するのか、それは私には非常に疑問です、なぜなら意見というのは偏った見方や個人的な傾向などを意味するからです、一方、対話は我々が互いに深く問題に興味を寄せていることを意味します、我々が偏った見方をしないこと、我々が何らかの明確な答えを望まないことを意味します、我々が問題の真理を一緒に見出そうと探究していることを意味します。その違いが分かりますか? 一つは弁証法的なアプローチであり、一方は用心深く、個人的ではなく、客観的な真理の探究です。それは、我々が共に意見を言い張るのではなく、何らかの結論を見据えずに、互いに主張することを止めて、一緒に二人の友人として、友人というのは本当にその問題に関心を持っているということですが、それを共有して、一緒にその問題を探究することを意味します、そうすることによって、恐らく真理とは何かが浮かび上がることを意味します。違いますか? そこで、これからの全ての対話を通じて、このことがはっきりしているなら、つまり、我々は意見を主張しているのでもなければ、偏った見方をしているのでも、何らかの結論を見据えているのでもなく、或いは「私はそのように信じている」というのでもありません、それでは何らかの結論になります、一方、我々が探究しているのなら我々は互いにオープンになっています、そして我々が物事を自由に客観的に見ていくのなら、我々は非常に遠くまで行くことができます。
それでは質問は何でしょうか?
質問者(Q) 私は個人的に問いたいと思います。非常にしばしば、私は自制していて内に篭っていると感じます、そのように非常に内に篭っている感じから抜け出して、私は自由な空気を吸いたいと思います。私の質問は、痛みを抱えていても、自然にそれから抜け出して、花開くことができるのかということです。
K 質問を繰り返させてください。彼は問います、自制しているのを感じています、内に閉じているのを感じています、内に篭っているのを感じています、自然にそこから抜け出して花開くことができるのかと。それが質問です。
Q (フランス語で)
K 質問を簡潔に繰り返させてください、質問は手短にお願いします。質問者は問います、私が理解する限り、彼は気をつけていました、そしてそれは部分的であり、断片的です、しかし寝ているときにそれはもっと気をつけているようになるのですかと。それが質問でしょうか?
Q (聞き取れず)
K あーっ!彼は彼の睡眠の状態に気づいています、それが断片的なのに気づいています。はい分かりました。他に質問はありますか? ちょっと待ってください。
Q 恐れがとても強いと、悲しみがとても深刻だと、身体にはそれ自身の叡智があって、神経組織や感覚器官ですが、それは身体的な時間のように振る舞い「私が受け入れられるのはここまでです」と言い、身体はそのような恐れや悲しみを受け入れないでしょう。
K とても強い恐れがあると、とても深刻な悲しみがあると、生理的に、有機的に、身体はそれに耐えられません。
Q それはそれ相応のものを受け入れることができるだけです。
K それはそれ相応のものを許容することができるだけです…では、あなたはそのことを質問しているのですか?
Q 私は‘私’を議論したいと思います。私はそれが飢えであるのかどうかを知りたいと思います、‘私’です、イメージの作り手です、思考ではありません、記憶ではありません。例えば、もし私が食べ物に飢えているなら、私は食べ物のことを考えます。私は食べ物の飢えではなく‘私’が愛に飢えることについて話しています。この愛を渇望する欲求不満が恐れを生み、その渇望と欲求不満が思考やイメージを生んで、それらが恐れを育てると私は思います。
K 質問は何でしょうか?
Q ‘私’は単に過去のイメージですか、それともそれは飢え、愛の飢えだとあなたは考えますか?
K 愛と飢えのように。
Q はい、愛されることに飢えること、或いは食べ物に飢えること。
K はい、質問は分かりました。‘私’は、自分は、思考によって作り出されたイメージなのか、それともそれは飢えのようなものなのか、愛を飢えることのようなものなのか?
Q はい、そうです。
K ちょっと待ってください、それで質問は十分です。それらの質問の中の一つを取り上げて、それをその正に最後まで探究することによって、我々みなが同じように取り組み、同じ道を歩み、同じ速さを保つことができますか? つまり、私は問うています、我々はそれらの質問の中の中心的な問いを一つ取り上げて、それを完全に解いて、最後にあなたが自分自身で知るようになれますか? 宜しいですか? 我々はそのようにできますか? つまり、我々はその紳士の質問、気をつけていること、分断的であること、そして異なった状態で気をつけている睡眠状態のことを議論するのか、或いは、最も重要な要求は愛なのか、飢えのように、そして‘私’は思考の産物に過ぎないのかを議論するのか、或いは、ほとんどの人間は彼らの活動や彼らの悲しみや彼らの問題や彼らの抑制や彼らの教育によって内に閉ざされていて、そのように彼らは言わば要塞の中に閉じ込められていて、繋がれていて、彼らは自身を完全に解放したいと、打ち破りたいと思っていることをあなたは議論したいのか、或いは、悲しみや恐れが強力で有機体はそれ相応にしか耐えることができないことを議論するのか、ということです。それでは、それら四つの中の一つを取り上げるとすると、それらの質問のどれで我々が一緒に探究できるとあなたは思いますか? つまり、愛への最も重要な強い衝動、自我でもない、思考によって作り上げられた‘私’でもないそれなのか、従ってあらゆる人間の最も重要な要求は愛することであり愛されることであるのか、そしてなぜ人間は自分自身の中に篭るのか、自らが作り出した教育や社会によって、自らの欲求不満など、お分かりですね、それら全てによって人間は内に閉ざしていて、そのような囲いの中から抜け出すことができないのか、そして気をつけていることがあるのか、睡眠状態の中に全く異なるそれがあるのか、従ってそれは起きている時にも維持されるのか―もし私がその質問を正しく理解しているのなら―そして一方では恐れや悲しみがあり、身体的有機体は過度のそれには耐えられないと。それではそれらのどれですか?
Q 人は内に篭っていて、そして自由を見つけたいと思うことです。
K 分かりました、それから始めましょう、そして恐らく我々は他の全てを含めるでしょう。質問者は問います、どうか議論してください、或いは検討してください、なぜ人間は内に閉ざすのでしょうか、内に篭るのでしょうか、そしてなぜ自由ではないのでしょうか?
Q それは気づきの欠如であると、私は言いたいと思います。
K それは気づきの欠如であると。しかしそれは結論です、結論づけると、人はかくあるべきであると言って探究を止めてしまいます、それは何かの欠如だと言って、それで終わってしまいます。しかし、もし私が、宜しいですか、仮に話し手が、私が、内に篭っていると、私は自由ではありません、私は自分自身を表現できません、くだけた流暢な表現になりません、自由がありません。なぜ人間は正に世界中で―これは彼の質問ではありません、それは人間性の問題です―なぜ人間はそれほどまで自分自身の中に篭って、なぜ人間はこのような途轍もない負荷を背負って、自由を全く感じないのでしょうか? 我々はそのことを議論できますか、それを探究するという意味で議論できますか、「そうです、あなたは自由であるべきだ」とか「あなたには気づきが欠けているからだ」などあれやこれや言うことではないのです。ですから、宜しいですか、我々はこの質問を検討しようとしています、なぜ人間は―実際に世界中の誰もが―不幸にも自分に甘んじてきました、或いは人間はあいにく言わば四つの壁に囲まれてその中で生きています。それでは我々はそれを探究できますか?
どのようにあなたはこの問題に取り組みますか? 私の質問がお分かりですか? 私は内に篭っています。私は傷ついてきました、私はショックを受けてきました、私は途轍もない痛みを抱えています、身体的にも精神的にも、私は多くのひどい侮辱を受けてきました、などです。私は内に篭っています、そして私は私が囚人であると感じています。では、どのようにしてこの問題に取り組みましょうか―お分かりですか? 私はそれにどう取り組みますか? 私の取り組みはそれから自由になりたいということですか? 私の質問が分かりますか? 私の動機は、それが指し示します、これから自由になること、従って私はすでに何らかの方向性を視野に入れて出発しています、従って私は探究していません、その方向づけが私をガイドすることになります―お分かりですか? あなたはこのことを把握するでしょうか? 私は囚人です、心理的に、とりわけ心理的に、そして私はこのことを打ち破ろうとする動機を持っています、その動機が方向性を与えます、違いますか? はっきりしてください。何らかの動機が存在すれば、それはいつでも明らかにある特定の道筋を、特定の方向性を与えます、従って私はすでにある方向づけに沿って始めています、従って私は探求することを止めました。このことは明らかですか? そこで私は私が探究するとき動機から自由ですか? もし私が自由でないのなら、なぜです、もし私が、動機というものはすべて何らかの方向性を与えるので、探究することは不可能になると理解するなら、つまり、もし私が何らかの信念を抱いていて、私がその信念に根ざしているなら、私が探究したくても、私は探究できません。私はすでに途轍もなく偏った見方から始めています。そのようにもし私が私の探究に何らかの動機を抱くなら、その動機がその探究にある特定の方向づけを与えて、その結果それは探究では全くなくなります。そこで、なぜ人間は囚人であるのか、なぜ人間は心理的な囚人であるのかと問うとき、私は動機から自由ですか? 質問がお分かりですか? 最初に、あなたはそれから自由ですか? あなたはその真理が分かるとそれから自由になるでしょう、つまり、動機は何らかの方向性を与えるので、人は探究することを止めてしまうという真理です、だからあなたは言います「馬鹿げている、それを投げ捨てよう」と、お分かりですか、動機を捨て去るのは自然なことです。このことが分かるでしょうか? このことがお分かりになりましたか?
つまり―はっきりさせてください―もし私が私の作った、他の人々が作った、或いは社会が作った、或いは私の両親が作った心理的な牢獄から自由になりたいのなら、もし私の動機がその牢獄から自由になることなら、私の目はある方向を見つめています、従って私は見ていません。違いますか? そうすると私がなぜ内に篭っているのかを私は理解したいと分かります、そしてもし私が何らかの動機を持っているなら、私は探究することが不可能であるということも分かります。それは単純なことです。従って私は動機を持ちません。宜しいですか? あなたはそのような立場に立っていますか? どのような心理的な探究も―それは必要なことです―方向性があってはならないことを要求します。それはどのような信念も抱かないで始めることを意味します、はい、あなたはそれら全てから自由です、従ってあなたは探究するのです。お分かりですか? もし私が仏教徒で何らかの方向性を持っているなら、ある種の偏った見方をしているなら、沢山の書物を読んできているなら、そしてそのことに確信を抱いているのなら、それで終わりです。或いは、もし私がカトリック教徒で...いずれにしても、私が何者であろうとそれは問題ではありません。
そのように、探究するためには観察する自由がなければならないことは非常に重要です、方向性がないときにだけ、動機を持たないときにだけ、あなたは観察できます。違いますか? ではあなたは動機を捨て去りましたか? もしあなたが動機を捨て去ると、その牢獄とは何ですか? お分かりですか? 私は動機を持っていません、私は‘現実’を見ています、それは私の牢獄です―私のさまざまな痛み、傷、生きていく上で経験するあらゆるものです、我々を萎縮させて、我々はカタツムリのように引き籠ります。宜しいでしょうか、それは事実です。我々はそれを見ています。何が起こってきましたか? 私は子供のころから傷ついてきました―家で学校で大学で、生きてきたあらゆる所で、多少とも感じやすいので、人間は傷つきます。そうやって人は引き篭もり始めます。違いますか? 人は内に閉じ篭り始めます。そのように、この引き籠りの原因の一つは、この孤立感や、この囚人のような感じを伴う原因の一つ―要因の一つ―は傷つくことです。違いますか? 全ての人間は傷ついています。違いますか? そこで、我々があらゆる人間を本質的に違わないと見ると、そのことは我々により一層のエネルギーを与えます。お分かりですか? あなたはそのことを理解するでしょうか。私が私は傷ついていると、それは非常に小さなことです、しかし全ての人間は傷ついていると分かると、それは何か途轍もないものになります。お分かりですか? あなたはこのことを理解するでしょうか。そうすると、傷つかないことは可能ですか―決して傷つかないことです! お分かりですか? 人は若いときに傷つきました、そしてその傷はほとんどの人にとって生涯残ります。違いますか? 我々はその傷を引きずります、従って我々は人に抵抗します、我々は引き籠ります、我々は孤立します、我々は辛辣になります、そこから暴力が生まれるなどします。そこで我々は問うています、過去に傷ついたことやさまざまな傷から自由になることができるのかと、そして自由なので決して傷つくことがないのかと。お分かりですか? 過去の忌まわしいプロセスとそれを繰り返すまいとすることが起こります。私は何かを伝えて...我々は理解しあっていますか? おーっ、どうですか、これは対話です。(笑)
私の質問が分かりますか? 過去の傷があります、そしてそれらの過去の傷から自由になることは可能ですか、そしてさらに傷を負わないようになることは可能ですか―宜しいですか―そのようにして頭脳が決して傷つかないことは可能ですか? そのようにしてそれは若さを保ちます―あなたは理解するでしょうか―従ってそれは無垢のままでいます。無垢という言葉―それはラテン語などに由来します―は傷つくことがないことを意味します。そこで我々はそれを見ていこうと思います。私は傷ついてきました、仮に私が人間として子供のころから傷ついてきたとします。そのような傷があるとき、何が起こるか私は知っています、私はそれに気づいています―私は引き籠ります、私は抵抗します、さらに傷つかないように私は孤立します。違いますか? あなたはこのようなプロセスに気づいていますか? さあ、宜しいですか?
Q それは非常に難しい、と言うのは、そのプロセスの中にとても強い苦悶や諦めがあるからです。
K その中にとても強い苦悶があるので気づくのは非常に難しい。その言葉を見ていきましょう―私が傷ついていることに気づく中にとても強い苦悶がある。彼の言っていることが分かりますか? さあ、どうですか? どうか眠らないでください。これはあなたの問題です、お分かりですか、それは彼だけの問題ではありません、それは人間の問題です。我々はみな子供のときから傷ついてきています、傷つけば傷つくほど暴力的になります。あなたは何を仰っていましたか?
Q 私は言いたいのです。あなたは誰もが子供のときからこのように傷つくことを経験すると言うのですか? そうすると、明らかに、少なくとも私にとっては、それは人間の本質的な次元であるように見えます。ですので、私が思うに、少なくとも私としては、それは私の意志ではないように、傷つくことを避けようとする私の存在の目的ではないように感じます。明らかに、それは私の存在の一部です。従って、私は、恐らく、絶えず繰り返し繰り返し傷つくことにもっと創造的なやり方で対処しなければならないのです。私は、傷つくことは成長のプロセスの一部であるように感じます。
K 傷つくことは自然であると。成長の手段として、進化の手段として、発達の手段として傷つくことは自然であると、あなたは傷つかなければならないと。
Q 傷つくこととその傷を抱えてその傷を何か心理的なものにしてしまうこととは違います。それは完全に異なるものです。もし誰かが私を押して私がその瞬間に傷ついても、それは異なる傷であり、それは心理的な傷とは何の関係もありません。
K 宜しいでしょうか、その紳士は、人間の一部分は傷つくことであると、それは自然なことであると言います。私はそれを疑問に思います。なぜ我々は傷つく必要があるのですか? それが心理的に内面的に与えるダメージを見てください、それがどのように頭脳に影響するか見てください。「私は傷つくことは生の一部であると思う」ではなく、その結果を見てください。
Q しかしあなたは傷つくことをどのようにして防げますか?
K 私はそれを見ていこうとしています。我々はそこへ行こうとしています。どのように傷つくことを防ぐのか、我々が負っている傷にどのように取り組むのか。しかし、もし我々が、傷つくことは生の一部である、戦争は生の一部である、互いに殺しあうのは生の一部である、病は生の一部である―精神的な病―と言うなら、その議論はそれで終わりです。しかし、もし我々が、傷つくことを防ぐことは可能であるか、人が負っている傷に対処することは可能であるかと問うなら、我々はその問いを検討できます。
Q 宜しいでしょうか、我々が傷ついているとどのように知るのですか?
K あなたが傷ついているとどのように知るのか―あなたが傷ついていることをあなたは知らないのですか? おやおや、さてどうしましょう!
Q (聞こえず)
K 宜しいでしょうか、学校で、家庭で、子供は言われます、あなたはあなたの兄或いは弟よりも出来が悪いと、あなたの姉或いは妹よりも出来が悪いと、そうすると、あなたはすでにその子を傷つけています。違いますか? そして、クラスで、学校で、AはBと比較されます、そして先生が言います、AはBほど賢くない、成績がよくないと、そうするとあなたはすでにその子を傷つけています。そのように、比較することや競争があると傷つくことが起こります。これは非常に明らかです。それでは、我々は―その紳士も問いました―我々が傷ついていると気づきますか? どうですか。単純に見てください、それを複雑にしないでください。あなたはあなたが傷ついていると気づきますか?
Q はい。
K 宜しい!(笑) 少なくとも非常に素直に気づく人がいます。その結果が分かりますか、このように傷つくことの結果に気づきますか、何が起こりますか? 即ち、孤立であり、抵抗です、抵抗は暴力を意味します、深まる孤立感です。そこからあらゆる種類の辛辣さ、愛の欠如、自由な感じの喪失、それら全てが起こります。あなたはこのことに気づきますか? 勿論、誰もがこのことに気づきます、違いますか?
そのような過去の傷があります、どのようにして我々はそれを払拭しますか? もしああたが「私は傷ついてはならない」或いは「私は抵抗しません」と言うなら、それはすでに別の形の抵抗です。そのことが分かるでしょうか。お分かりですか? 私は傷ついています、そして私はその傷やその傷の結果に気づいています、そしてもし私が「私は傷つきません、私は私の傷を忘れます」と言うなら、その結果私はすでに抵抗しています。違いますか? それゆえ、それは別の形の抵抗です。さあ、宜しいですか。
Q 人は焦点を傷から何か他のものに変えるべきです。
K 人は傷を何か他のものに変えることができると、愛することに変えることができると。
Q 焦点です。
K 焦点。人は焦点を他の何かに変えることができると、それは愛であると。お分かりですか、あなたは―どのように私は...あなたはこのことを検討していません―私が傷ついているとき、非常に深く傷ついているとき、私はどうしたら...それはそこにあり、そして私は他の何かに焦点を変えようとするのですか? それは逃亡でしょう。このことは事実であり、それは事実ではありません。違いますか?
Q 正に傷つくのは我々が自分自身に抱いているイメージだけではないのですか?
K 我々はそこへ行こうとしています、マダム、あなたはとても...
Q 我々は傷つくのが何かを知りたいのです。
K 宜しいでしょうか、どうか聞いてください。私が受けている傷にどのように取り組んだらよいのでしょうか、私はそれがもたらす結果が分かります、その傷にどう取り組んだらよいのでしょうか?
Q それを経験するのです、それを経験するのです。
K しかし私はそれを経験しています、私は経験ずみです。(笑)
Q もしあなたがそれを徹底的に経験するなら、それは減じるか消えてなくなるという考え方があります。私はその論拠は知りません。
K あなたは、もし私がそれを徹底的に経験できるなら、と言います。私はそれを初めに徹底的に経験しませんでした、その結果が今ここにあります。もし私が最初に本当に気をつけているなら、傷つくことはないでしょう、しかし私は気をつけていなかったので、このような傷を負っています。私は何をしたらよいのでしょうか?
Q なぜあなたが傷ついてきたのか理解するよう試みることです。
K 私はあなたに言います。私は私がなぜ傷ついてきたのか理解できます。私は自分自身について素敵なイメージを持っています、そしてそのイメージが傷ついています。違いますか? 私は私が非常に聡明な人間であるというイメージを持っています、そしてあなたがやって来て私に言います、私は愚かであると、そのことで私は傷つきます。私のイメージが傷つきます。違いますか? 私のイメージは私そのものです。私は私のイメージとは異なりません。違いますか? おーっ、どうでしょう。この点は明瞭ですか? 私は私のイメージと異なりますか?
Q それはどのように解決されますか?
K あなたはあなたがそれを検討する前に何らかの解決策を手にしたいと思います。あなたは何と性急にことを推し進めるのですか、あなたは何につけても早急な解決策を欲します―即効薬、即効のニルヴァーナ、即効の瞑想、何もかもが即効性です! どうか、耳を傾けてください。我々が「私は傷ついている」と言うとき、傷ついているのは何ですか? 私が自分自身について抱いているイメージが傷つくのではないのですか? それは単純です、違いますか? それではそのイメージは私と異なりますか? そのように私はそのイメージです。待ってください、待って、私は直ぐ後であなたの質問に戻ります。私がそのようなイメージを作り出してきたので私はそのイメージです。そのイメージが両親によって、社会によって、環境的な影響等々によって傷ついてきました。そのようにそのイメージは私です、私はそのイメージと異なりません。そこであなたが不愉快な何かを言うと、そのイメージが傷つきます、そのイメージは私です。
Q (聞こえず)
K 聞こえません、マダム。誰か聞こえた人がそれを繰り返してくれませんか? はい、どうぞ。
Q 傷ついてからそのイメージは変わります。私が傷つくと、私のイメージは変わります。そして彼女は言いました、我々はこのイメージの変化を受け入れるべきではないのかと。
K 傷ついた後でイメージは変わると。しかしその傷は残ります。私は私のイメージを変えるかもしれませんが、その傷は残ります。あなたはこのことを本当に探究していません。
Q 幼い子供がイメージのできる前に傷つく可能性はありませんか?
K 私には子供がいないので私はその質問には答えられないと思います。しかしあなたは自分自身で、マダム、あなたが傷ついているのかどうか見ることができます―あなたですよ。もしあなたが傷ついているなら、我々は問うています、傷つくのは何ですか、あなたが自分自身について抱いているイメージですか? それとも、あなたはそのイメージとは異なりますか? あなたはこの問いに答えなければなりません。
Q あなたの言うことは正しいが、私の過去の傷が...
K それは何ですか?
Q 過去です。
K あなたの過去はあなたが自分自身について抱いてきたイメージです。これは何と途方もないことでしょう! 私はただ傷から自分自身を自由にすることだけに関心があります―宜しいですか―他にはありません。私は全ての理論の類を望みません、つまり、傷から自由になる方法を教えてください、の類です、もし私が傷を負っているとしたら、そしてその傷は他のあらゆる手立てにもかかわらず残ります。私は日本へ行って禅を習うかもしれませんし、その他のあらゆることを行うかもしれませんが、それは内面にあって、私はそれから逃れられません。私はそれから逃れようと試みますが、それはそこにあります。私は何をしたらよいのでしょうか?
Q あなたはそれを観察する必要があります。
K 私は明らかにしようとあなたに問うています。あなたは何を行いますか? なぜなら私は傷から自由になる必要性が分かるからです、というは、それがあらゆる種類の醜悪なことをもたらすからです。従って、私はそれから自由でなければなりません、それからの自由がなければなりません、私は何をしたらよいのでしょうか?
Q なぜあなたはそれから自由になりたいと思うのですか?
K おーっ、宜しいでしょうか、私はそれを説明しました、動機です。私はその結果が分かります―宜しいですか―私は何をしたらよいのでしょうか?
Q あなたはその傷をもたらすものを避けられません、それは集中して起こってくるから、その記憶にその鋭さやその潜在的な力をもたらすものをあなたは避けられません。
K はい、その記憶、その経験、その知識、それは過去です、その過去の中に‘私’、そのイメージがあり、それが傷ついてきています。そこで私はあなたに問うています、人はどうしたらよいのでしょうかと。答える前に、それを先ずただ見てください。人はどうしたらよいのでしょか?
Q なぜこの傷は継続するのですか?
K なぜこの傷は継続するのか。
Q はい。どのように私はこの傷を見るのですか?
K なぜこの傷は継続するのか。それは記憶の一部です。人は記憶を拭い去ることはできません、その経験やその知識を拭い去ることはできません。あなたはそれを取り除くことはできません、それはそこにあります。
Q しかし、あなたがそれから自由になりたいと思うとき、あなたは動機も抱いています。
K 宜しいでしょうか、私はあなたに説明しました。手短に言います。宜しいですか、私はさまざまな理由で傷ついてきました、そして私はそれらの傷の結末が分かります、そして私はそれらの傷が消えてしまわなければならない重要性が分かります。私はどうしたらよいのでしょうか?
Q 私がそれらの傷と異なるときに、私はそれらの傷について何かを行うことができるだけです。人はそれらの傷と異なるはずです、そして彼は先ほど言いました、我々はそれらの傷と異なりませんと、そうすると私はそれらの傷について何もできません。
K はい、その紳士は言います、私は傷ついている、そのイメージがその傷です、そのイメージと私との間に違いはありません、私はその傷です、そしてその傷が傷ついてきました、そして私がそれについて何かを試みている限り、私はもう一つのイメージを作り出していますと。違いますか? あなたはそのことが分かるでしょうか。
Q そのイメージが傷ついている当のものです、あなたは自分自身をあなたのイメージから分離できません、従ってあなたはそれらの傷からあなた自身を自由にできません。
K そうすると何が起こりますか? もし私がその傷であると―あなたはそれに向き合っていません―もし私がその傷であるなら、そしてそのイメージが私と異ならないなら、それは観察者が正に観察されている当のものであることを意味していますが、そうすると何が起こりますか?
Q あなたはそこに留まります。
Q もし私がそのことが分かると、私は私の精神を分断することを止めます。
K 正にその通りです、その通りです。もし私がその真理を見て取ると、私がそのイメージであり、そのイメージが私であると、従って分断というものがないと見て取ると、全く異なったプロセスが働きます。それは、観察するだけになるということであり、傷から自由ではありません。あなたが観察者を脱落させて観察するときには観察しているだけになります、もしあなたがそのことを検討するなら―あなたは私にこのことを非常に注意深く検討してほしいのですか、それがどういうことがお分かりですか―観察者は過去の何かです。違いますか? 観察者はその記憶であり、その経験であり、その知識です、それは過去の何かです。そのように過去の何かで彼はあらゆるものを見ています。違いますか? 過去の何かで、観察者として、彼は現在を見ています。違いますか? 従って、現在と過去の間に観察者によって作り出された分断が生まれます。お分かりですか? そうすると観察者と彼が観察しているものとの間に軋轢が生まれます。彼は言います「私はそれを変えなければならない、私はそれをコントロールしなければならない、私はそれを抑えなければならない、私はそれから立ち去らなければならない」などと、しかし観察者が観察されている当のものであるとき、そのような齟齬はなくなります。そしてこのことは発見すべき最も重要なことです、経験者が正にその経験の当のものであるという真理です。違いますか? 思考者こそが正にその思考されている当のものです。もし思考されるものがなければ思考者はいません。そのように思考者は正に思考されている当のものです。思考者は「私は異なる」と言うけれども、実際には思考者は思考されている当のものです。違いますか? 経験者こそが正にその経験の当のものです。もしあなたが進んで耳を傾けるなら、私はそれをあなたに示しましょう。
私は何かを経験します。私が何かを経験したと知るためには、私はそれを認識しなければなりません、違いますか? 勿論そうです。私はそれが何かを知らなければなりません。そうでなければ私は「私は経験した」と言えません。そのように認識は過去を意味します、違いますか―過去が、その知識や記憶と共に、正にその経験です、そして彼は言います「私は何々を経験している」と。そのように経験者が正にその経験の当のものです。あなたがそれを分かるまで、我々はそこから動けません。宜しいですか、神々を見てください、あなたが作り出してきた神々のことです、人間が作り出してきた神々のことです、キリスト教のそれであろうと、ヒンズー教のそれであろうと、他の何かのそれであろうと、それらの神々は人の思考の産物です、我々の欲望の産物です。違いますか? あなたはそれを受け入れますか? もしあなたがそれをいったん受け入れると、何が起こるか分かりますか? 私の質問がお分かりですか? あなたが神から作り上げたイメージはあなたが拵えたイメージです。神があなたに神のイメージを作らせたのではなく、あなたが神にあなたのイメージを作らせたのです。違いますか? 後生ですから、このことはとても単純です! 違いますか? 同意しますか、しかし全キリスト教や世界の全ての宗教的思考がこのことに基づいています。いったんあなたがこのことを見て取ると、あなたは宗教的な事柄に関する全ての思考構造を否定します。
そのようにその傷は私と異なりません、‘私’がその傷です、そしてその傷が傷つきます、そのように私がその傷です。怒りが私と異ならないように、私が怒りです。私は違うと私は思うかもしれませんが、実際には私が怒りです。そのように、あなたはその真理が分かりますか―その観念ではありません、あなたが怒っているとき、その怒りがあなたであるという実際の真理です。
Q 怒っているのは私ではないように思えます。
K 他の事柄に行かないでください。宜しいでしょうか、あなたはこのことの第一原理を分かっていません。あなたが嫉妬しているとき、その嫉妬はあなたと異なりますか? それは、あなたが「私が嫉妬するには正当な理由がある。嫉妬するのは当然だ。私の妻は...」と言うとき、お分かりですか、あなたと異なるだけです。そうすると、その発言とその事実との間に分断が起こります。事実は、あなたがそのように感じていることです、それをあなたは嫉妬と呼びます。それは単純なことです。それでは、もしそれは絶対的な真理であるとあなたが分かるなら―あなたです、私ではありません―観察者と観察されるものとの間の齟齬は消えます。お分かりですか?
そのように傷つくことがあり、その傷は私です、そしてその‘私’はその傷と異なりません。そのために何が起こりますか? 観察者と観察されるものとの間の―お分かりですか―齟齬に私が費やしてきた全てのエネルギーが無駄に浪費されません。違いますか? あなたはこのことが分かるでしょうか。私は観察者と観察されるものを分断して、‘私’と‘私’でないものを分断してエネルギーを浪費してきました。違いますか? 私は齟齬に、抑圧に、それから立ち去ろうとすることなどのそれらすべてにそのエネルギーを浪費しました。しかし、私が立ち去らないで、私が観察者は観察される正に当のものであるという真理を見て取るとき、何が起こりますか?
Q そのエネルギーが役に立つ。
K そうするとエネルギーは観察するということです。違いますか? そうすると私は何かを見つけました、完全なエネルギーが生まれるとき記録することは起こりません。お分かりですか? 私があなたの侮辱に完全に気をつけているとき、それを頭脳に記録することは起こりません。私が完全に気をつけていないときにだけ、それを頭脳に記録します。要点をつかみましたか? あなたはこの単純な真理を理解しましたか? 後生だから、掴み取ってください! お分かりですか? 私はその齟齬に私のエネルギーを無駄に使ってきました。私は言います「私はそのような傷ではありません、私はそのような傷とは異なります」と、従って私はその傷について何かを行おうとします。違いますか? 私はそれから逃げようとします、それを抑圧しようとします、それに抵抗します、それから分離しようなどとします。しかし、私が私はその傷であるという真理を発見すると、私は浪費していた全てのエネルギーを集めて‘現実’を観察します、そうすると‘現実’を観察する中で何かが根本的に変化します。分かりましたか? そうすると傷というものが存在しません、つまり、過去に由来する傷も存在しません。そうすると、そのように完全に気をつけていると、次にあなたが私のことをあれこれ言っても、それは頭脳に記録されません。完全に気をつけているところには、全感覚の完全なエネルギーがあるところには、頭脳に記録される何ものもありません。
Q 気をつけている源は何ですか?
K 気をつけている源はありません。はじめに、宜しいでしょうか、そのような質問はまだしないでください。このことはお分かりですか―この驚くべきことです、宜しいでしょうか―それはとても単純です。伝統的に我々はこの考え方に鍛えられています、つまり、私はそれとは異なると。違いますか? 私は私の怒りとは異なります、私の神は私とは異なります、私の信念などです。つまり、我々は伝統的に、経験者はその経験とは異なるということを受け入れます、従って絶えず分断や齟齬が生まれます。分断があるところには齟齬があるはずです。違いますか? そのことはお分かりですか? 国家的に、宗教的に、感情的に、社会的に、分断があるところにはどこでも、齟齬軋轢が生まれるはずです。それは摂理です。
そこで我々は見てきました。私は傷ついてきました、そして伝統的に私は言ってきました、私はその傷とは異なると、従って私はその傷について何かを行います―それから立ち去ります、それから逃げます、それを正当化します、抵抗の壁を築くなどします、それらは全てエネルギーの浪費です、そして観察者が正に観察されている当のものであると気づくと、その傷が‘私’であると気づくと、私はエネルギーを無駄に使いません、そのエネルギーで私は観察します、そしてそれは完全に気をつけていることです。そこでもしあなたが完全に気をつけているなら、たとえ私があなたにお世辞を言っても、それには何の意味もありません、或いは、もし私があなたを侮辱しても、それには何の意味もありません。では、あなたは侮辱されたその瞬間にそのようにできますか、後からではありません。お分かりですか?
Q (聞こえず)
K 宜しいでしょうか、もしあなたが気をつけているなら、傷つくことはありません、或いは、お世辞を言われた痕跡が残りません。お分かりですか? それが意味するのは、質問者が指摘するように、あなたは意識の全問題を非常に深く検討しなければならないということです。お分かりですか? イメージを作り上げることが進行しているところです、人の精神の深い無意識のところでイメージを作ることが進行しています。私は言うかもしれません「いいえ、私はイメージを抱きません」と、しかし深いところにイメージが潜んでいます。そこで私は私の意識の全体に気づくことができますか―お分かりですか―顕在意識だけではなく潜在意識にもです、私の意識の全領域です、私はその全体に気づくことができますか?
Q (聞こえず)
K 最後まで言わせてください、後であなたは質問できます。我々は意識を上位と下位の意識に分断することに慣れています―顕在意識と潜在意識です。この分断は思考によって起こります。思考は断片的です、と言うのは思考が時間の結果だからです、時間は記憶であり、時間は過去です、従って思考は断片的です。違いますか? あなたはこのことが分かるでしょうか。従って、断片は決して全体を見ることができません、そして我々は言います、全体を観察しなければ、それからの自由は決してありえないと。私は、人間は、意識の全内容を観察できますか―その全体です、一部分ではなく、部分的ではなく、意識の余すことなく全てです、意識の全体とは、それが含む全てです、ごく自然に―執着、欲望、思考がそこに作り出したイメージ、悲しみ、痛み、不安―お分かりですか―人間の全努力、人間の全ての悲しみ、悲惨、混乱、混沌、それら全てです、それらをひと目で見ることができますか? あなたはそれを全体として見ることができますか? あなたはそのテントを―どうか聞いてください―全体として見ることができますか? それを見てください、そのテントを見てください、その全体を見ることができるかどうかを見てください。私はその全体を見ることができます、中にあるものを見ることができます。宜しいですか? 私はその外側の全体は見えません。お分かりですか? あなたはこのことを掴み取ったでしょうか。私はこれをそっくりそのまま見ることができます、それは極めて単純です。しかし私はその外側は見えません。宜しいですか? 従って、もし私が空間を理解すると、私はただ何かが完全に見えるだけです。このことはとても...先に進んでもよいですか? 宜しいですか、私が話していて、あなたは加わっていません。私が空間を手にすると、私は何かを余すことなく見ることができます。宜しいですか? 私は内側からそのテントを見ることができるだけです、その全体です、しかし私は外側からはそのテントを見ることができません。その全体を見るためには、私はその内側だけでなくその外側も見なければなりません。それは自然なことです。
Q どっちが全体ですか?
K それが全体です。ちょっと待ってください、ちょっと待ってください。私は明らかにしなければなりません、この人間の意識を観察するためには、それを全体として見るためには空間がなければなりません、違いますか? 何かを見るためには、あなたを見るためには、私はあなたと私の間に空間を持たなければなりません。もし私があなたに間近に接していると、私はあなたが見えません。違いますか? 従って私は空間を持たなければなりません。空間とは何ですか? このことにあなたは関心がありますか? 空間とは何ですか? もし中心というものがあると、その空間は限られた空間です。あなたはそれを可能な限り広げるかもしれませんが、それは依然として限られています―違いますか―もし中心というものがあるなら。もし中心がなければ、空間は無限です。違いますか? 我々は空間を中心からその周辺へと計ります、しかしもし中心がないなら、計ることはできません。宜しいですか? 計るということは起こりません。そうすると、計るということが起こらないとき、あなたは、あなたの意識として、何を手にしていますか? あなたはそれを理解するでしょうか。まだ発言しないでください、それを言わないでください。
宜しいですか、私は私の家具に執着しています―ブロックウッドの私の部屋には非常に素敵なテーブルがあります、美しいテーブルです。私はそれに非常に執着しています―もし仮にです、私はただ例えているだけです―私はそういうことはありませんが、しかしもし私がそれに執着しているなら、それは何がしかを計っているということです、違いますか? あなたはこのことが分かるでしょうか。私は執着しています。私はあなたにそれを触ってほしくありません、それを傷つけてほしくありません、それに日が当たってはなりません。お分かりですか? そのように執着として何がしかを推し量るということがあると、空間は非常に限られたものになります。勿論です。私は私の快楽という中心からそのテーブルを推し量っているので、そのように計ることがその空間を限られたものにします。宜しいですか? もし計ることをしなければ、それはその中心からそのテーブルまでですが、壮大な空間が存在します。宜しいですか? あなたもそうですか? 同意しないでください。あなたもそうですか、中心がありませんか? もし中心がなければ、あなたは意識の全体を見て取ります。あなたはそうするでしょうか。それは驚くべきことです、私はただ...お分かりですか? 私はこのことで興奮しています、私は落ち着かなければなりません。
計ることは、我々は言いました、思考であると。計ることは時間的なプロセスであり、ここからテーブルまでということです。つまり、思考は時間の中の活動です―違いますか―計るという、私からそこへという時間の中の活動です。宜しいですか? もしそのような活動がないと―宜しいですか―私の意識は何で成り立っていますか? 何ものでもありません。あなたはこれらのことが分かるでしょうか。いいえ、あなたはそれが分かりません。これはとても難しくて、あなたはこのことが分かりません。
Q もし中心がないなら、全体があるのですか、部分があるのですか?
K 計ることをしないと、全体があります。ちょっと待ってください、それをあなたに手短に、違った仕方で示します。人間の意識は中心から働きます、違いますか? 私はそこに結び付けられています、私の家族であり、私の家であり、私の怒りであり、私の嫉妬であり、私の希望です―何らかの中心から全意識が構築されます。違いますか? 私はその家具に執着しています、私はその家に執着しています、私はその信念に執着しています、その観念に、私の悲しみに。お分かりですか? いつも何らかの中心から動き出しています。宜しいですか? それが私の意識です。あなた自身の意識を見てください、それは単純なことです、そしてその意識が潜在意識や顕在意識に分断されます、それは西洋世界が行ってきたことです、そして東洋世界はそれを異なったやり方で行います、それは問題ではありません。従ってこの分断が存在する限り、計ることがあるはずです。違いますか? あなたはこのことが分かるでしょうか。そこで私は内面にあるのは何なのかを、奥底にあるのは何なのかを検討します。あなたは分かるでしょうか。そうすると、計ることがないと中心がありません、従って人間が知っている意識が消滅して全く異なる次元が現れます、境界を持たない次元です、なぜなら計ることが脱落しているからです。そのように計ることがある限り、それは私からそのテーブルへであり、空間は非常に限られています、なぜならそれは非常に狭いからです。しかし、もしテーブルやその中心がなければ、空間は無限です。
それでは、精神は意識を余すことなく観察できますか、そしてそれは、「これは正しい、これは間違っている、こうすべきだ、こうすべきではない」などと言う中心がないときにだけ観察できます―お分かりですか。私はあなたがこのことを理解するとは思えません。お分かりでしょうか?
私はあなたの質問に答えたでしょうか? つまり、あなたの質問です、なぜ人間はそのように内に閉ざしているのか、なぜ内に篭っているのか、なぜ人間は自分自身の周りに壁を築いてきたのか、なぜ人間は決して花開かないのか、なぜ花開いて執着を脱落させないのか―お分かりですか―それら全てです、なぜですか? そして我々は言いました―我々はその一部を取り上げました、人間は傷ついているということです、そして人間は考えます、傷は私とは異なると、‘私’は言います「私は異なります、従って私はその傷をコントロールしようと思います、私はそれを変えようと思います、私はそれを抑えようと思います、私はそれから立ち去ろうと思います、これは醜い、こんなことがあってはならない」と。しかし‘私’がそのイメージであるとき、そしてそのイメージが傷つくとき、私はその傷を見るためのそれまで無駄に使ってきた全てのエネルギーを手にします、そしてそのように観察する完全なエネルギーがあるとき、傷つくことはなくなります、それは自然に起こることです。
Q 私はそれが分からないのです。
K あなたは分からない。それは英語の問題ですか? 違う言い方をしてみましょう。世界はあなたと異なりますか?
Q (聞こえず)
K どうか私に答えないでください。これは学校の試験ではありません! どうか私に答えないでください。世界は人間としてのあなたと異なりますか? 外側の世界がありますが、物理的な世界だけではなく、心理的な世界です、怒りの世界、暴力の世界、悲しみの世界、快楽の世界、ナショナリティの世界、宗教的な差異や信仰の世界、そのようなことはあなたと異なりますか? 異なりませんか、その真理を見てください、言葉による説明ではなく、そのことの真理を見て取ってください。インドへ、或いは日本へ、或いはアジアへ、或いはアメリカへ行っても、人間はズボンをはいたり、キモノを着たり、インドではドーティーを巻いたり、あれやこれやするかもしれませんが、本質的に深いところで人間は悲しみや不安や悲惨や不確かさを抱えています―お分かりですか―人間の苦悶はどこでも同じです。従ってあなたは世界であり、世界はあなたです。それは何らかの真理です。あなたはそのことが分かりますか? それともあなたは言いますか「いいえ、そのようなインド人と私は異なります」と―心理的に? 勿論、あなたは異なります、あなたは女であり或いは男であり、皮膚が褐色であったり、黒かったり、茶色であったり、白かったり、社会的に異なったり、食べ物がより豊富であったり、着るものがより沢山あったりなどします、しかし内面的に深いところであなたは同じ苦悶を抱えています。従ってあなたは世界です。あなたはそのことが分かりますか? あなたが、私は世界であり、世界が私であると言うとき、何が起こるか分かりますか? そのことがあなたに途轍もない力をもたらします、途轍もない活力をもたらします―お分かりですか―なぜなら、そうすると、あなたは一人で全世界を敵に回している‘私’ではなくなるからです。あなたはこのことが分かりますか? そうすると、あなたは...ではなくなります、その普遍化の中に活力が生まれます、もしあなたが実際にそのように普遍的に見ることを知れば。
そうすると、世界はあなたであり、あなたが世界であるということと同じように、あなたは経験者であり、あなたはあなたがその経験と異なると考えますが、それは我々の偏った見方であり、我々の伝統であり、我々の教育のせいであるということになります。一方、あなたがその経験であり、その経験はその経験者と異ならないので、経験を探し求めるということはなくなります。お分かりですか? そうすると、あなたは経験から自由になります、そして精神はそれがそれ自身の光となるときにだけ経験から自由になります。お分かりですか? それが真理です。分かりましたか? 何時ですか?
Q 十二時五分前です。
K おーっ、何と!
Q (聞こえず)
K 質問者は知りたい―どうぞこれが最後の質問です、五分で我々は終わらなければなりません―彼はT.M.について知りたいと言います―あの懐かしいものです! トランセンデンタル・メディテーションです。どうか、宜しいですか、我々はそれを客観的に見ていきます。我々はそれを非難していません、我々はそれを退けません、我々はそれを見ていきます。マントラという言葉は、その超越瞑想に含まれているその言葉は、何らかの形を意味します、何らかの方式を意味します、精神が集中するように後押しをする一連の言葉を意味します。お分かりですか? その言葉の根本的な意味は、マントラは、その言葉の根本的な意味は、精神が集中するように助けることです、何らかの絵を通じて、何らかの言葉を通じて、何かを繰り返すことによって、何らかの方式によって、あなたを精神集中させる助けになることです。
Q 私はそれは違うと思います。それは何らかの精神集中ではありません。
K 宜しいでしょうか、私は言いました、その言葉の根本的な意味と。
Q 分かりました。
K 頼みます!(笑) その言葉の根本的な意味です。どうか、特定の立場に立たないでください、あなたは超越瞑想か何かを行う人かもしれませんが、特定の立場に立たないでください、我々はそれを見ていきます。そのように、その言葉の根本的な意味は精神集中をもたらすことです、言葉や文句でそれを助けることです。精神集中はあなたの全てのエネルギーをある焦点に向わせることです―違いますか―そしてその焦点に侵入してくる他のあらゆるものに抵抗することです。違いますか? 書物或いはページに精神集中するということは私が他のあらゆる活動に抵抗することを意味します。違いますか? 私は超越瞑想について話しているのではありません、私はただ精神集中の中に含まれている意味について話しているだけです。他のあらゆる思考を排除して、この特定の思考だけということです。違いますか? そのようにすると、分断が生まれます、精神集中と精神集中しないこととの間にです。お分かりですか? 私は十分間精神集中して、その間、侵入してくる他のあらゆるものに抵抗します、従って私はある種の分断を作り出します。それが精神集中に含まれている意味です、そしてさまざまな形の精神集中の中にコントロールするものとコントロールされるものが作り出されます。違いますか? 私は私の思考をコントロールしようとします、それは、コントロールするものがコントロールしようとするものと異なるということです。彼がコントロールしようとしているものは別の思考です、そしてコントロールするものもまた思考の一部です。そのようにあなたが、コントロールするものがコントロールされる当のものであるという真理を理解すると、精神集中の全現象が完全に変質します。
そこで、このトランセンデンタル・メディテーションの中の、‘トランセンデンタル’という言葉は不幸な言葉です、と言うのは、それが人間のあらゆる葛藤を超越する、他のあらゆるものを超越するという意味だからです。それがその言葉の意味です、超越する、乗り越えることです。そこで、ある種の言葉を繰り返し唱えることで、最初は大きな声で、次に静かに、そして今度は言葉にしないで唱えると、精神がますます穏やかになります、それは、ある種の言葉を絶え間なく繰り返すことによって、あなたがあなたの精神を穏やかにさせるという考え方です。これがマントラやその他の全ての考え方です―精神を穏やかにすることです。つまりそれは、メソッドによって、システムによって、「これをしなさい、そうすればあなたはそれを手に入れるでしょう」と言う人物によって、権威と権威を受け入れることによって、何かを獲得することです。先ほど我々が言ったように、精神的な事柄には権威は存在しません、なぜなら、あなたがあなた自身の光になる必要があるからです。グルというものはいないのです。リーダーというものはいないのです。
Q もしあなたが超越瞑想を実践すれば、あなたはリーダーを受け入れる必要はありません。あなたは直ぐに自然に穏やかになります、私の経験では、私はクリシュナムルティを何年も読んでいて、私はそれを受け入れました。私は超越瞑想を実践する前からクリシュナムルティを読んでいました、それは非常に美しかった、それから超越瞑想を二十分した後でクリシュナムルティを読みました、それはただ単に穏やかで美しいということを遥かに超えていました。超越瞑想をしていると感受性が深まります、超越瞑想をしているときはゴールというものがありません。河を眺めているように、ただマントラを見ているだけです。マントラには意味がなく、過去も未来も広がらないので、正にその瞬間を生きることを学びます。私がクリシュナムルティを最初に読んだとき、それは彼が正に我々に生きてほしいと思うことであると、私は彼にいつも言いたかったのです、もし我々が超越瞑想を実践すれば、いかなる権威も受け入れることなく、我々はそれを非常に自然に学べます。それはクリシュナムルティが我々に教えていることと異なる何かではありません。それは誤解です―それは抑圧ではありません、それはコントロールではありません、それは非常に自然でユニークなものです。何も違いません。
K それは非常に違うと私は思います。あなたに反論して御免なさい。
Q 私はあなたを見るのが好きです―あなたは確かに超越瞑想を学んでいます。
K あなたは私が間違いなく超越瞑想を実践したと言うのですか?
Q いいえ、私はあなたの本を読んでそれが分かるのです。
K それらの本を読まないでください!(笑) 宜しいでしょうか、あなたは私の言っていることを分かっていません。宜しいですか、宗教的生の第一原理は権威とは無縁なことです、それはあなたがあなたの光とならなければならないということを意味します、従って、何ものにも依存しないことです、グルやマントラや書物や人物や概念など何ものにも依存しないことです。それはあなた自身の光になることを意味します、それはあなたが完全に独存することを意味します、独存するということはその中に全てが含まれるということを意味します。お分かりでしょうか? その‘独存’という言葉の意味は全てが一つの中に存在するという意味です。おーっ、あなたたちはこういうことが分かりません!
そうすると、あなたがそのような意味で独存するとき、あなたは溢れるばかりの慈愛に満ちます、従ってあなたはあなた自身の光となり、あなたはあらゆる神々、あらゆるマントラ、あらゆる教師を忘れることができます、何ものも重要ではありません。しかし、我々は独存することを恐れます、自分自身の光になることを恐れます、間違いを犯したり、失敗したりします、自分自身を照らす自分自身を見つけるのです。そのためには大いに気をつけていること、大いに気を配ることが要求されます、そしてあなたは書物や人物やマントラで気をつけることはできません、愛することはできません―そのようなことはありえません。
中野 多一郎 訳