もし宜しければ、もう一度あなたに思い起こして頂きたいのですが、これは講話ではありません。講話は教えや知識や指示を伝えたり与えたりすることを意味します。そのようにこれは講話ではなく、我々は一緒に心理的な領域の中の精神の幅広い世界へ歩もうとしています、これまで相当に沢山の描写や探究がある地点まではなされているけれども、これらのトークで、もし思い起こして頂けるなら、我々は友人として一緒に、あらゆる精神状態の領域の遠くまで行こうとしています―もし我々に時間があり、あなたが好きではないかもしれない、或いは嫌いな何かの途中で止めるのではなく、その行き着く先まで行けるのなら、人は物事の正に終わりまで行かなければなりません。
我々はまた思考が、世界で、技術的な世界で、この上もなく途方もないことを行ってきたことも見なければなりません、中性子爆弾からミサイルやコンピューター、そしてコミュニケーションの全領域や短時間の旅行などです。思考はそれら全てに責任があります。そしてまた偉大な外科手術や医学、そして健康―もしそれが言えるなら―などです。しかし思考は大きな戦争ももたらしました、この恐らく百年間に我々は二度の恐ろしい戦争を経験しました、それもまた思考の結果です、何故なら思考が人間を地理的にも国家的にも分断してきたからです。そしてまた思考は世界でキリスト教徒や仏教徒、ヒンズー教徒、イスラム教徒として人間を分断してきました。そして我々が言っていたように、アメリカ人やロシア人、ヨーロッパ人、南アフリカ人などとしての分断があるところには争いがあるはずであり、戦争があるはずです、人々は何千という人数で殺戮していて、殺戮は六千年続いています、実際に毎年戦争が起こっています。そして人はこれら四、五万年の間、この長い進化の期間、互いに殺し合うのを、自然を破壊するのを止めませんでした、さらに取り分け今が正にそうです。
思考は自然を作り出していません―トラや狼や驚くべき樹木や花々を作り出していません。しかし思考は男と女の分断を作り出してきました。生物的に男と女は異なっているけれども、思考は男と女の関係の中に大いなる葛藤や誤解、口論、敵対、憎しみなどをもたらしてきました。そのように思考は世界の中に外面的な外側の争いを生んできただけではなく、内面的にも心理的な世界の中にも争いを生んできていて、そのことは社会の外的な構造の再組織化よりもはるかにずっと重要なことです。
社会はそのように我々が作ってきたものです。我々の欲望と共に、我々の野望や腐敗、競争などその他の全てと共に我々が作ってきたものです。そのように人間として我々はばらばらになって危険になり、殺戮や誘拐やテロを行い、腐敗し危険になっている社会を作ってきました。我々はこのことを昨日検討しました、そして我々は宗教的な分断、全ての分派を抱えたキリスト教徒のような分断について、思考には、考えることには責任があるとも言いました、思考には寺院や教会やモスクの中のことについて責任があるとも言いました。
思考は記憶の結果です、もし我々に記憶がなければ考えるということは起こらないでしょう。記憶は知識や経験に基づいています。何についても完全な経験というものはありません、いつも“もっと”という必要性が起こります、そして“もっと”という必要性が起こるところに計ることが生じます、そして計ることは決して完全ではありませんし、計ることが全体を覆い尽くすことは決してありません。そのように知識は限られていて、それは今かいつも未来の中のことです、人はそれに付け加えたり、それを広げたりできますが、そのような正に広がりに限りがあるので、思考には限りがあります。そして限りがあるので、利己心として限りがあるので、自己中心的な活動には限りがあります、従って思考は、それが何を行おうと、必然的に争いを作り出すに違いありません、なぜなら限りがあるものはどのようなものにも、宗教的であろうとイデオロギー的であろうと、どのような概念やどのような理想にもいつも限りがあり、従ってそれは人間の中に途方もない争いを生み出すに違いないからです。
我々はそのことを昨日話していました、そして我々は生き方に関心を抱く二人の友人として一緒に旅を続けなければなりません、どのようなグルの権威とも無縁に、それら全ての愚劣さとは無縁になり、自分自身で明らかにするために旅を続けなければなりません、叡智の働きである生き方を自分自身で明らかにするために、人間の中に大いなる静謐や愛情や生の叡智をもたらす生き方を自分自身で明らかにするために、我々は一緒に旅を続けなければなりません。
二人の友人は、あなたと話し手は、一緒に長くて広い旅に出ています。一緒にです。どうかこのことをいつも心に留めておいて下さい。彼は彼自身の快楽のために話しているのではありません、何故ならもし彼がそうするなら、彼は、もし彼がそうしたいのなら、彼自身の部屋でそうできるからです、しかし二人の友人として我々はどのような偏見も持たずに探究しています、懐疑的に、疑っています、問うています、どのような偏見も持たずに客観的に探究し観察しています、一緒にです、何故なら我々は我々自身の生に関心があるからです。そしてこの精神への問いかけは利己的な活動でもなければ、自己中心的で利己的な活動を促したり広げたりするものでもありません。反対に、宗教的に、世界中で教育を通じて、自己中心的な活動が強調されてきました、キリスト教徒は魂を信じます、そうして他の人間から分離しています、ヒンズー教徒も彼らのアートマンなどで同じことをしています。そしてこの分離した性格の行き過ぎる強調が大きな害や過激な競争や残酷性を生んできました。従って人は問わなければなりません、あなたと話し手はこれら全てを問うています、我々は分離した個人であるのかどうかを、或いは我々は悲しみや恐れ、快楽、不安、憂鬱、そして未知の恐怖である死などの共通の人間性を共有しているのかどうかを問うています。これはこの地球上のあらゆる人間に共通する運命です。この地球上のあらゆる人間がそれぞれの神を発明してきました、そうすることによって何らかの種類の安全が得られると願って、恐れから抜け出せると願って、それぞれの複雑な状況を終わらせようと、それぞれの痛みや不安を終わらせようと―これらは全ての人間に共通することですが―それぞれの仕方で祈ってきました。アメリカ人やイタリア人、ロシア人、イギリス人、インド人などとしてではなく、それはこの地球上のあらゆる人間に共通することです。あなたは、私の友人は、その論理を知的に受け取るかもしれませんが、論理や理由は表面的であるにすぎません、実際に心の底から、全身でこの真理を感じるとき、我々の意識は全ての人間に共通していると感じるとき、それらの論理や理由は表面的なものに過ぎません。あなたはある一つの神を信じるかもしれません、或いはある一人の救世主などを信じるかもしれませんが、そのような信心―信じること―はあらゆる人間に共通です、何かを信じることはあらゆる人間に共通です。そのようにあなたは人間です。これは大いなる真理です。人が実際に心から、心の底から、肝の底からこのことを悟ると、それは大いなる何かです、そうすると我々は世界を全く異なる仕方で考えることになるでしょう。他の人を殺すことは自分自身を殺すことであり、他の人を憎むことは自分自身を憎むことなどです。
そして一緒に、あなたと話し手は旅をしています、我々は規律正しさとは何か、そして超心理学とは何かを問わなければなりません。多くの人々が超心理学に興味があります、オカルトや人の心を読むこと、クンダリニーを覚醒することなどです、あなたはそれらの類を聞いたことがありますね。“発見する”ためにインドへ行きます、或いは行ければ―もう行けませんが―チベットへ行きます、或いは日本へ行きます、この類の他の全てを“発見する”ために。話し手は子供のころからこれら全てに関わってきました。少し個人的になって御免なさい、彼はそれら全ての多くを或いは幾つかを知っています。しかしそれらは全て過ぎ去る心地よい一日や素敵な午後のようであり、それらに重要なものは何一つ全くありません。重要なことは、本質的なことは、不思議でも何でもないそれら“不思議なこと”ではなく、もし人が非常に鋭敏であるなら、身体的にも鋭敏であるなら、そして非常に非常に穏やかで沈黙している頭脳の持ち主なら、他の全てのことが可能です。そして可能なことは理解しえて乗り越えられます。つまり時間とは無縁なものや計り知れないものを発見することの方が、それら子供じみたことにのめり込むよりもずっと重要です。
そして我々は規律正しさとは何かを話し合う必要があります。なぜ人間は秩序の感覚をますます失くしているのでしょうか? 宜しいですか、これは説教ではありません、それでは退屈になります、話し手はあなたが何を行うべきかを、或いはあなたが何を考えるべきかを話しているのではありません、そうではなく一緒に観察することや物事をあるとおりに見ること、あなたや話し手が願うようにではなく、物事をあるとおりに、厳密に、正確に、じかに見ることを言っているのです。我々は非常に秩序の乱れた世界を生きています、大混乱し矛盾している残酷な世界を生きています、そしてこれは長い四万年の進化の結果です、そして我々はこの無秩序の状態へ至りました。そしてそのことを観察するとき、秩序とは何ですか? 秩序というものがあるのですか? それとも人は、人間は、永久に秩序の乱れた中を生きなければならないのですか、外面的だけではなく内面的にも? 秩序の乱れは我々の宿命であるように思えます、明瞭に客観的に考えることはほとんど不可能なように思えます、何故なら誰もがそれぞれの仕方を、それぞれの成就を、それぞれの野望などを願うからです。
それでは秩序とは何ですか? そしてそれと規律正しさとの関係はどのようなものですか? “規律正しさ”という言葉は―語源的に―“弟子、学ぶ弟子”を意味していて、それは“弟子”という言葉からきています。弟子は学んでいる人であり、従っているのでもなく、繰り返しているのでもなく、スローガンを繰り返しているのでもなく、絶えず学んでいる人です。それでは学ぶとはどういうことですか? あなたが学校やカレッジや大学へ行くと、あなたは書物から、教授から、先生から、そして記憶から学びます。そのような記憶はある程度まで職業や仕事を手にするために必要です。人はそのような記憶を巧みに或いはずさんに使います。そのように、学ぶことは、我々が一般的に理解する限り、記憶することです。もしあなたが書物を読めば、数学についてであろうとコンピューターについてであろうと何であれ、記憶して、そしてそこから行動します。従ってそれは機械的になります。そうすると学ぶということが生じますか?
どうか話し手と共に問うて下さい。彼は一緒に歩いている友人に、一緒に旅をしている友人に尋ねています―彼は友人に尋ねています―実際に学ぶとはどういうことですかと。それは単に記憶の働きですか、それはそれぞれの規律正しさやそれぞれの仕方で様々なテーマについて多くの情報や知識を収集蓄積することですか、そして徐々に頭脳がある種のカテゴリーやある種のレールに沿うようになって、それらのレールやカテゴリーや専門化が知識や記憶を収集蓄積する手段となり、その記憶から働くのですか? これが我々の学ぶと呼ぶものです。しかし学ぶことは絶え間ない活動をも意味します、数学や地理、歴史、コンピューターなどの知識を負わせられた頭脳だけではなく、活動的で、探究し、問い、疑ってもいるに違いない頭脳も意味します。そしてこのプロセスでは決して…私は相応しい言葉を探しています…静的な状態は決してありえません。知識は人がたくさん収集蓄積すると静的なものになります、それは繰り返されて静的になります、しかし学ぶことは何らかの活動であり、従ってそれは決して静的にはなりません、それは生きています。人はこのことを非常に注意深く理解しなければなりません、何故なら我々の誰もが、自我や“私”やペルソナは、どのような名をその精神に与えようと、それは記憶の束だからです。我々は偉大な精神的実体―神やそれらの類の他の全て―であると考えるかもしれませんが、それは依然として記憶です、我々は記憶の束です。そしてその記憶に我々はいつも付け加えています。しかしその本質は静的なものです。しかし一方、学ぶことは単に知識を収集蓄積するだけではなく知識から遥かに離れることでもあり、絶え間なく学んでいる活動です。そのように学ぶことは秩序正しくすることであるそれ自身の規律正しさをもたらします。従って秩序は生きているものであり、それは順応的でも、パターンに従うのでもありません―それはまた一日ごとに変わることを意味しません、それが人のみな行っていることであり、様々な流行を追い求めることです。しかし学ぶことは途轍もない観察を意味します、動機を持たない観察です。人が動機を持つや否や、その動機が静的なものになります、何故ならそのような動機は記憶から生まれるからです。
私の友がこれら全てに付いてきていることを願います。もしそうでないなら、友は言います「私はあなたが一体全体何を言っているのか分かりません! 我々はみな動機を持って生きています。性的な動機や快楽的な動機、欲したり、満足したり、何かを成し遂げたりする動機、何かを解明したいという動機、知識や悟りを得たいという動機などそれら全てです、我々は動機によって生きています。そしてあなたは何かを言っています、真実な何か或いは全くナンセンスな何かを」と。
動機という言葉、その言葉の語源は“動くこと”です。それは特殊な方向ではなく、自己中心的で利己的な欲望ではなく、動くことです。これは難しいことになります―動機は意味します、我々が言ったように、動機は記憶から生まれます。違いますか? 何故なら私は私が失った何かを欲するからです。違いますか? それが動機の一つの形です。私は名をはせたい、野蛮な新聞に出て、有名になり、力や地位を得たい、そして誰もが言います「あなたは驚くべき人だ」と。何らかの動機というものがあり、それは我々自身の記憶や欲望の現れです、そしてそのような記憶は限られていて静的なものです。
違いますか、友よ、分かりましたか? 友は言います、「続けて下さい、私はあなたの言っていることを捉えています」と、そして彼は問います、「しかし生きることができますか、学ぶことが全くなくなる時点に至るまで絶え間なく学んでいるように生きることができますか、何故なら数学や工学や科学など技術的なものを学ぶことを除いて何を学ぶことがあるのですか、それら全てを別にして何を学ぶことがあるのですか」と。
そして友人は言います「それらは驚くべきことのように聞こえます、言葉では、しかし私はあなたの言っていることを全く捉えていません。私はそれを漠然と理解しますが、恐らく私はそれをいつか捉えるでしょう」と。そして話し手は言います「あなたがそれをいつか理解することは決してないでしょう! あなたが今それを捉えるのか捉えないのかのどちらかです、そしてもしあなたが今それを理解しないのなら、あなたはそれを明日理解することは決してないでしょう。何故なら“今”は時間だからです。“今”は全ての時間を含みます、過去、現在、未来の時間を含みます。今の現実が、今のあなたが明日のあなたでしょう。あなたが根本的に今変わらなければ、あなたは、未来は今のあなたです。それは極めて明らかなことです。そのように未来は現在であり、現在は過去です、従って今のこの現在は全ての時間を含みます」と。そして友人が言います「私はそのことを考えます、そして恐らく私はそのことをそのうちに把握するするでしょう」と、そうすると彼は単に引き延ばしをしていて“今”の内容に余すことなく気をつけていません。そして“今”が、気をつけている“今”が秩序です。
それでは次へ進みましょう。友人は問います、なぜ私は一生快楽を追い求めたのでしょうかと。快楽が私の生の中で最も重要なことであるように思われます。快楽のどこが悪いのでしょうか? なぜ人間はそれをそれほど絶え間なく追い求めるのでしょうか? セックスを通じての快楽、所有する快楽、力や名声や悪評による快楽などです。本を書くことによる快楽―それは失敗かもしれません、人々はそれを買わないかもしれませんが、それを書く快楽です。快楽は人間の共通の運命のように思われます。何故ですか? 何故それがそれほど重要になるのですか? どうか問うて下さい、話し手は友人に言います、問うて下さいと。「はい、私は快楽を手にするに違いない」と言わないで下さい。我々はいつも快楽に従って生きてきました、充足感、満足感、達成感―快楽の異なった形です。しかしなぜ我々はそれにしがみつくのですか、なぜ我々は絶え間なくそれを追いかけるのですか? 我々はドラッグや酒をそれがもたらすあらゆる悲惨と共に手にします、それは快楽的です。即時的な快楽です。お分かりですか? 快楽の引き延ばしではありません。それは今ある快楽であり、その瞬間の快楽です、思考の干渉や躊躇はありません。快楽は、快楽が起こるその瞬間です、数秒後に思考がその快楽やその感覚のイメージを作り出し、それを追い求めます。違いますか、友よ、このことがお分かりですか?
そのように思考は、もう一度言います、その瞬間のイメージを作り出します―夕陽の途方もない美しさを見ます、夕暮れの金色の光と共に夕陽の荘厳な美しさと静けさを見ます、そして極めて稀に起こる緑色の光線をそれらの中に見ます、そのような瞬時の知覚が起こります、そうすると思考が言います、それは驚嘆すべきことだった、何て美しいのか、途方もない光景だったと。そしてそれはイメージを作り出しました、そして次の日にそれはそれを再び見たがります。違いますか? そのように思考の理解が、思考のプロセスが、途方もなく重要になります。
恐れは快楽と同じように我々の生の要因の一つです。恐らく恐れは快楽よりも大きな要因です。快楽を手にしていない恐れです。そこで友は言います、恐れの問題を検討できますか、そして探究できますかと。そして友は言います、それが消滅することはありえますか、それとも恐れは永久に人間の重荷であるに違いないのですかと。そこで一緒に、友よ、我々は明らかにしようとしています、話し手が教えて、あなたが従うのではありません、それは相当に子供じみていて未熟なことになります、そうではなく一緒に、あなたと話し手は恐れの問題を検討します。
人間は何千年も恐れと共に生きてきました。自然を、激しい雷雨を、闇を恐れることや生の正に存在を恐れること、隣人を恐れること、妻や夫を恐れること、何かを成し遂げられないことを恐れること、失敗を恐れることなど、取り分け成功することが崇められているこの国では尚更そのような恐れが生じます。あなた方は成功したいと思いませんか? 勿論我々はそう思います。そしてほとんどの我々は幸か不幸か大いなる成功者ではありません―恐らく少数の政治家や彼らのナンセンスでお金を収集蓄積するグルたちや伝道師たちなどを除いて。宜しいですか、カトリックの世界が世界で最も現実的な人たちであるとあなたは気づきましたか―彼らは世界中で大量の土地を所有しています。そして何かを成し遂げること、成功すること、愛されることを願うこと、そして愛されていないと分かること。そして恐れ、苦しさ、不安、憎しみがあります。そのように我々は、一緒に、恐れの問題を検討しなければなりません。単なる説明や描写ではありません、それらは非常に欺瞞的です、何故なら人々は一般的に描写や説明に囚われていて、そのルーツにまで至らないからです。
友は言います、そのルーツにまで行きましょう、何故なら私も説明に飽き飽きしているからですと、私は心理学者やその他の全てのところへ行けますが、それらの説明は私から恐怖感を完全に取り除きませんでしたと。従って我々がそれを深く検討しなければ、単なる説明にはごくわずかの価値しかありません。その感じであり、その質であり、その構造です、何故なら恐れがあると、絶え間ない安全への追求が起こるからです。恐れはあらゆる神と世界の救世主たちを作り出してきました。恐れが全くない人には―生物的にも心理的にも―神は存在しません、何故なら彼が宗教的な精神の本質だからです。我々はそのことを後で検討します。
そこで一緒にそのルーツが何かを明らかにしましょう。あなたが明らかにしますか、それとも話し手が明らかにしてあなたにそのことを話すのですか? それが意味するのは、あなたの頭脳が、話し手は友に問うています、十分に活動的で、十分に熱気に満ちていて、明らかにするエネルギーを持っているのかということです。それともあなたは明らかにすべき何かを単に言葉で言われるのを待っているのにすぎないのですか? しかしもし明らかにするためのそのような強烈な何かをあなたが持っているのなら、我々は一緒にそれを検討します。
最初に、時間が恐れの要因です。時間を、昨日として我々は知っています、何故なら昨日の記憶が頭脳に蓄えられているからです、そして明日は確かではありません、明日は多くの明日へと広がるかもしれませんが、明日は不確かであるので恐れが生じます。私は何かを失うかもしれません、私は何かが手に入らないかもしれません、私は独りに、自暴自棄に、不安になっているかもしれません。そのように恐れの要因としての時間は明らかです。そうすると時間とは何ですか? なぜ時間が我々の生の中でそのように重要になるのでしょうか? 言語を覚える時間、女性と婚約する時間、何かしらの専門家になる時間、手紙を書く時間―しかしコンピューターが人の時間を取り去ろうとしています、何故ならそれは途方もなく素早く物事を処理できるからです。私は今がコンピューターについて話すときであるかどうか知りません。恐らく我々はそうするでしょう、何故ならそれが相当に興味深いからです。
我々はそれについて専門家たちと話してきました、コンピューターを制作している専門家たちです。それらは人が行えるあらゆるものを殆ど行えます、恐らく他の人に対して愛情を抱くことを除いて。それは作曲できます、それは…できます、あなたはそれがどれほどのことができるのか知っています、私はそれを検討しません。それはロボットを使って車を組み立てることができます、それらの幾つかの工程が日本やドイツやこの国の様々な工場で行われています。そうしてコンピューターは―我々はキリスト教徒、ヒンズー教徒、アメリカ人、専門家としてプログラムされます―我々がプログラムされるのと同じようにプログラムされます。我々の頭脳はプログラムに沿って、それは記憶ですが、機能します。そしてコンピューターは途方もない速さでこれら全てを行うことができます。IBMは最近そのようなチップを発見しました、そのような小さなチップの中に百万の記憶が内蔵されています。それは計算できます、それは加算できます、それは途方もないことができます、それがコンピューターです。そうすると人間の頭脳に何が起こっているのでしょうか? 私の質問がお分かりですか?
我々の頭脳は足し算や引き算をして活動的でした―お店で、スーパーマーケットで、人は足し算をして、働いて、足し算をする頭脳を使います。しかし人がボタンを押すとコンピューターが全ての足し算を行います、人は何も考えません。そうすると更に更に活発になっている或いは更に更に不活発になっている、更に更に機械的で限られたものになっている頭脳に、コンピューターが殆どあらゆるものをしてしまうとき、何が起こるのでしょうか? それは今起こっているように、ほとんどの我々が全く気づかないうちに非常な速さで腐敗するか、それとも絶え間ないエンターテイメントに我々が絡めとられるのかのいずれかです。エンターテイメント産業はとても強力です。エンターテイメント産業は映画や雑誌などそれら全てだけではなく、宗教的なエンターテイメントでもあります―そのことに狼狽しないで下さい―それもまたエンターテイメントの一部でもあります、何故ならそれは我々の日常生活とは何の関係もないからです。そのようにコンピューターは頭脳の委縮した状態を生み出すかもしれませんし、そのような状態をもたらすかもしれません、そしてエンターテイメント産業がそれに取って代わります、それが今起こっていることです。どうか、後生だから、それに気づいて下さい! それとも我々は探究して異なった生き方をする精神の広大な領域を余すことなく手にするのかのいずれかです。それら二つの可能性が人の前に横たわっています。そして必然的に人は、現にある通り、エンターテイメントを選ぶでしょう。
そこで我々は戻って恐れのルーツとは何かを明らかにしなければなりません。我々は時間と言いました。時間は最高に途方もなく複雑なものです。我々は時間で生きています―我々は決まった時間に昼食を取らなければなりません。時間は今の中に含まれています―人がそれを見れば―未来や過去や時間の全活動が今です、何故なら明日は今のあなただからです。もし今あなたが怒っていたり、憎んでいたり、暴力的だったりするなら、明日のあなたは今のあなたと全く同じでしょう、恐らく少し和らいだり或いはひどくなったりするでしょうが。
そのように未来は今です。どうかこの真理を見て下さい。友よ、その事実を見て下さい。ですからもしあなたが心理的な革命をあなたの中に余すことなく徹底的に根本的に起こさなければ、明日のあなたは今と同じあなたでしょう。そのように時間は人間の敵です。どうかそれを見て取って下さい。そのように時間は恐れの要因です、私は仕事を持っています、私はそれを失うかもしれません、妻が出て行って私を置き去りにすることが起こりえます、嫉妬やそのほかの全てが生じます。そのように時間が恐れの根源的な原因です。そして時間は思考でもあります。両方とも活動です、心理的な活動でもあり外的な外面的な活動でもあります。そのように時間、思考は恐れのルーツです。それは事実です。
そうすると友は尋ねます、一体、どのようにして私は時間、思考を止めることができるのですかと、どのようにしてですかと、私はオフィスへ行かなければなりません、そこでは時間が必要ですね、しかし時間は、あなたが私に言っています、内的に心理的に何かになるために、何かでいるために、車を運転するなどのために人が時間を使うとき時間は敵であると、何故なら明日は今のあなただからですと、従って人が根本的に今変わらなければ、明日というのは敵であると。
そのように恐れ、人がみなよく気づいている恐れがあり、この地球上の人間は誰でも恐れを知っています、それから生まれる悲惨な出来事、それがもたらす悲哀、そして恐れの残虐性です。それが起こっていることです、イデオロギーの残虐性―ロシアのイデオロギーと民主主義のイデオロギーです。それでは、宜しいでしょうか、それを注意深く見てみましょう。そのように時間、思考が恐れのルーツです。どのようにして私は、友が尋ねます、時間と思考のこの活動を止めるのでしょうかと。話し手は言います、それは間違った質問ですと。人が間違った質問をすると、間違った質問には答えがありません。正しい質問をして下さい、つまり人は事実を見ますか、時間と思考の現実を見ますか、ということです。観念としてではなく、事実として、現実のあなたを、未来のあなたを見ることです。そうするともし人が事実を見ると、観念を通しての事実ではなく。お分かりですか? 我々の頭脳は最初にその観念をとらえて、その観念を事実に適用します。“観念”という言葉はギリシャ語などで他の異なった意味がある一方、“観念”は観察することをも意味します。観察を通じて結論に達するのではなく、ただ観察することを意味します。人が強烈な熱気で極めて深く観察するとき、それは時間と思考に気をつけていることですが、恐れは全く生じません。
友は言います、私はあなたがこれを表現しているその瞬間はそれを理解します、あなたの強烈さが私を助けますと。しかしそれに頼らないで下さい、あなたがこのエネルギーを、そのバイタリティーを、その強烈さを持っているのかどうかを明らかにして下さい、その正に最後まで行くための、恐れへの旅の終わりまで行くためのそれらを持っているのかどうかを明らかにして下さい。そのことが意味するのは、人がいつも同じ強烈さを維持しなければならないことです、それがどのようなときでも緩まないことです。同じ強烈さで、同じ活動で、その最後まで行って下さい。
しかしほとんどの我々はお喋りで―果てしなくお喋りをしたり、人のうわさ話をしたり、批判したり、中傷したりして―エネルギーを浪費します。そしてまた我々はエネルギーを争いの中で―絶え間なくお互いに言い争って―浪費します。“何かになろう”としてエネルギーを浪費します。“何かになる”ということは決してありません―ただ“現実”があるだけであり、“現実”の完成があるだけです。そうすると人はえも言われぬエネルギーを手にします。更なる害悪をなすのではなく、大いなる愛と慈悲心と叡智で日常生活を送ります。
今日はここで止めます、そして我々は木曜日と日曜日、次の木曜日と日曜日に続けます、そして我々は何人かから寄せられた質問に話し手が答える質疑応答を行うことになると思います。答えるのではではありません、我々はそれらの質問を一緒に検討します。
1984年5月20日 オーハイ
中野 多一郎 訳