クリシュナムルティ 最も困難なことの一つはコミュニケーションの困難さだと思います。私はあなたが理解すると思って自然に話したいのですが、我々の誰もが各々の固有の背景に従って話を聞いて解釈するので、このような大勢の聴衆の中では人が意図することを正確に伝えることは極めて困難です。
私は今晩とても重要であると考えることを議論したいと思います、それは徳の育成に関する問題の全てです。徳がなければ精神は全く無秩序になって矛盾しますし、葛藤のない穏やかで秩序正しい精神なしには人は明らかに更に先へ進めないことが分かります。しかし徳それ自体が目的ではありません。徳の育成がもたらすものと徳行は二つの異なるものです。殆どの我々は徳の育成に関心があります、何故ならたとえ表面的に過ぎなくても徳はある種の落ち着きや、矛盾する欲望の途切れることのない葛藤が存在しない精神のある種の穏やかさをもたらすからです。しかし単なる徳の育成は決して自由をもたらすことはありえず、それはただ社会的に敬意を表される平静さや秩序感覚やコントロール感覚につながるに過ぎません、そしてそれは精神を徳と呼ばれる社会的なある種のパターンへ順応させることから起こります。
従って我々の問題は善くいようとしないで善いことです。この二つの間には大きな違いがあると私は思います。善くいることは努力をしない状態ですが、我々はそのような状態の中にいません。我々は嫉妬深いし、野心的で、ゴシップを口にし、残酷で、狭量で、取るに足らない精神の持ち主で、様々な形の愚かさに囚われています、それらは善いことではありません、そして人がそれらである限り、人は善くあろうと努力しないで善くある精神の状態にどうして至りえるのですか? 明らかに、有徳であろうと努力する人は有徳ではありません、違いますか? 謙虚でいようとする人は明らかに謙虚が何であるのか少しも理解していません。人が謙虚ではないと、人は謙虚を育まない謙虚の感じを持ちえるでしょうか?
あなたがこの問題を考えたことがあるのかどうか私は知りません。徳がなければならないことは非常によくわかります。それは部屋を整頓しておくことと同じようですが、整頓された部屋を持つこと自体が重要なのでは全くありません。徳を目的にするとそれ自体で社会的な利益を受けます、この国であれ、インドであれ、ロシアであれ、それはあるパターンに従って生きるいわゆるまともな市民であることの手助けになります。しかし精神が強制や規律とは無縁に秩序正しくあること、そしてそれらを忘れて精神がいつも抑制されたり規律化されたり何かに順応することを育んだりしていないことは非常に重要なことではないのですか?
結局のところ、我々が追い求めているのは何ですか? 我々一人ひとりが理論的にではなく抽象的にではなく実際に追い求めているのは何ですか? 知識や神を通じて満足を追い求めている人の追求と、裕福であることや野望を成し遂げることを追い求めている人や飲酒で満足を追い求めている人の追求との間に何か違いはありますか? 社会的には違いがあります。飲酒で満足を追い求めている人は明らかに反社会的であり、宗教組織に加わったり隠遁者になったりすることなどによって満足を追い求めている人は社会的に有益です―しかしそれが全てです。
それでは、我々が追い求めているものは、どれほど我々の追求が真剣であっても実際に満足をもたらしますか? 隠遁者であれ、僧であれ、色々な形の快楽を追い求めている人であれ、それぞれがそれぞれのやり方で非常に真剣です。それは真面目な真剣さですか? 何かを手に入れようと追求しているときに真面目な真剣さが生まれますか? 私の質問が分かりますか? それとも何らかの目的を追求していないときにのみ真面目な真剣さが生まれるのですか?
結局、ここにいるあなたは何かしら真面目で真剣です、そうでなければあなたは苦労をしてここに来ないでしょう。では真面目で真剣であることは何を意味するのかを私は私自身に問います、そしてあなたもあなた自身に問うていてほしいのです、何故なら私がすぐ後で説明しようとしていることはそのことにかかっていると思うからです。もしあなたがここで満足を求めているなら、それとも何らかの過去の経験を理解しようとしているなら、それとも静寂や平和をあなたに与えると思える精神の状態を育もうとしているなら、それともあなたが真実や神と呼ぶものを経験しようとしているなら、あなたは非常に真面目で真剣かもしれません、しかしあなたはその真面目な真剣さを問うべきではないのですか? 快楽や静寂をあなたにもたらすものをあなたが追い求めているとき、それは真面目な真剣さですか?
もし我々が本当に追い求めることの全プロセスを理解するなら、何故我々は追い求めるのか、何を我々は追い求めているのかを理解するなら―そのプロセスは自己知を通じてのみ、我々自身の思考の活動や我々自身の反射的反応や様々な反応そして我々の様々な衝動に気づくことによってのみ理解することができます―恐らく我々は有徳であろうと自身に規律を課すことなく有徳であるとはどういうことであるのかを見出すでしょう。宜しいでしょうか、精神が葛藤の中にある限り、我々はそれを抑え込んだり、それから逃げ去ろうとしたり、それに規律を課そうとしたり、それをコントロールしようとしたり、様々なパターンに従ってそれに形を与えようとしたりするかもしれませんが、その葛藤は精神の中に潜在的に留まって、決して本当には静まりません。穏やかな精神でいることが本質的に重要であると私には思われます、何故なら精神は理解するための、知覚するための、コミュニケーションが生ずるための我々の唯一の装置だからであり、その装置が完全に明瞭でなくて目的を持たずに知覚することが追求できない限り、目的を持たずに追求できない限り、自由や静寂はありえず、従って新しいことの発見はありえません。
従って、この世界―大混乱や不安に満ちた全く安全性を欠いた世界―を努力とは無縁に生きることができるでしょうか? それが我々の問題の一つです、違いますか? 私には、それは非常に重要な問いです、何故なら創造性は精神が努力とは無縁の状態にいるときのみ生まれる何かだからです。私はその創造性という言葉を創造的に書くこと、創造的に行うこと、創造的に考えることなどを学ぶ学問的な意味で使っているのではなく、私はそれを全く異なった意味で使っています。規律を課して徳を育成することが止むと共に過去が全く現れなくなった状態に精神があるとき―そのときのみ時間とは無縁の創造性が生まれます、そしてそれは神や真理などと人の好きなように呼ばれるかもしれません。では精神はどのようにしてその絶え間ない創造性の状態にいることができるのでしょうか?
あなたが問題を抱えるとき、何が起こりますか? あなたはそれを考え抜き、それに没頭し、それにやきもきし、それについてみだりに興奮します、そしてあなたがそれを分析すればするほど、それを掘り下げれば掘り下げるほど、それを磨けば磨くほど、それを心配すればするほど、あなたはそれを理解しなくなります。しかしあなたがそれをあなたから取り除けるや否や、あなたはそれを理解します―全体が突然非常にはっきりします。殆どの我々がそれを経験してきていると思います。精神はもはや混乱や葛藤の状態ではなく、従ってそれは全く新しい何かを感受或いは知覚できます。精神がそのような状態にいて決して反復的ではなく新しい何かをいつも経験していることは可能ですか? それは徳の育成の問題を我々がどのように理解するのかにかかっていると私は思います。
我々は徳を育てて、倫理の何らかの特殊なパターンへ我々を順応させます。何故ですか? 社会的に敬意を表されるためだけではなく、我々は秩序を生みだす必要性が、我々の精神や発言や思考をコントロールする必要性が分かるからです。我々はそれがどんなに大切であるか分かりますが、徳を育てる過程の中で我々は記憶を“私”や自己やエゴである記憶を築き上げます。それが我々の背景です、それがとりわけ自分を宗教的であると考える人たちの―絶えず何らかの規律を実践していたり、何らかの宗派や集団やいわゆる宗教団体に属していたりする―背景です。彼らの見返りはどこかあの世の中にありますが、それは依然として報酬です、そして徳を追い求めているとき、それは精神を磨いたり、精神に規律を課したり、精神をコントロールしたりすることを意味しますが、彼らは自己意識の記憶を発展させ維持していて一瞬たりとも彼らは過去から決して自由ではありません。
もしあなたが本当に自分自身に規律を課して嫉妬深くならないことや怒らないことなどを実践したら、正にそのような実践こそが、正にそのように精神に規律を課すことこそが既知の一連の記憶を残すということにあなたが気づいているのかどうか私は疑問に思います。これはかなり難しい問題を我々は議論していることになりますが、私は私の言おうとしていることが明確になっていることを願います。「私はこれを行わなければならない」と言う全過程が時間を生みます、時間を築き上げます、そして時間に囚われている精神は明らかに時間とは無縁な何かを、未知である何かを決して経験できません。それでも精神は秩序正しくなければならないし、矛盾する欲望から自由でなければなりません―それは順応することや受け入れること、従うことを意味しません。
従って、もしあなたが真面目で真剣なら、私の言う意味で真面目で真剣なら、この問題が否応なく起こるはずです。あなたの精神は既知の結果です。あなたの精神は既知であって、記憶や反射的な反応や既知の印象によって形作られます、そして既知の領域内に置かれた精神は未知のものを、時間の領域の外にある何かを決して理解できません、或いは経験できません。精神は既知から自由であるときのみ創造的です―そうするとそれは既知を使いこなすことができて、それは技術です。私の言っていることは明瞭でしょうか、それともそれは泥のように濁っていますか?(笑)
宜しいでしょうか、我々は退屈なので、我々は絶えず本を読んだり、何かを手に入れたり、何かを学んだり、教会へ行ったり、何らかの儀式を遂行したりしていて、我々はオリジナルで、原初的で、無垢で、あらゆる印象から完全に自由な瞬間を決して知りません、そしてその瞬間こそが創造的であり、時間とは無縁で永遠です、或いはそれをあなたの好きな言葉で言ってよいのです。その創造性がないと、生は味気のない愚かなものになり、我々の全ての徳や知識や追求や娯楽や様々な信仰や伝統が殆ど意味のないものとなります。先日私が言っていたように、社会は単に既知を育てるのであり、我々はその社会の結果です。未知なものを見つけるためには、社会から自由であることが本質的に重要です―それは僧院へ引き籠って、朝から晩まで祈って、絶えず自分自身に規律を課し、何らかの信仰や教条に順応しなければならないことを意味しません。明らかに、そのようなことは精神の既知からの解放をもたらしません。
精神は既知の結果であり、過去の結果です、そしてそれは時間の蓄積です。そうするとそのような精神が努力しないで既知から自由になりオリジナルな何かを発見することができますか? 精神が自身を自由にするいかなる努力も、何かを見つけるためにするいかなる追求も依然として既知の領域の範囲内です。明らかに、神や真理は全く考えられたことのない何かであり、全く新しい、形にされていない、これまでに決して発見されていない経験されていない何かに違いありません。既知の結果である精神がどのようにしてそれを経験できるのでしょうか? 問題がお分かりですか? もし問題が明瞭なら、あなたはそれに取り組む正しい仕方を見つけるでしょう、そしてそれは何らかのメソッドではありません。
それが、もし人が善くいようとしないで、妬みや野望や残酷さを取り除こうとしないで、ゴシップを止めるように自身に規律を課さないで―宜しいですか、それらは全て善くいようとするために我々が自身に課す非難です―人がその言葉の完全な意味で善くいられるかどうかを見つけることの大切な理由です。善くいるように努めないで善くいることができますか? もし我々一人ひとりが耳を澄ます仕方を知るなら、気をつけている仕方を知るなら―今ここにおいてです―そうするときのみそれは起こりえると私は思います。完全に気をつけているときのみ人は善くいます。人は奮闘したり努力したりすることによっては善くいられない真理を見て下さい、その真理を分かって下さい―もしあなたが言われていることに完全に気をつけているなら、そのときのみあなたはその真理が分かります。あなたが読んできた全ての書物を忘れて下さい、あなたが聞かされてきた全てのことを忘れて、有徳であろうと奮闘している限り徳は生まれえないという発言に完全に気をつけていて下さい。私が非暴力的であろうとしている限り、暴力は生まれます、私が妬みを抱かないようにしている限り、私には妬みがあります、私が謙虚でいようとしている限り、私にはプライドがあります。もし私がその真理を、知的にではなく或いは言葉ではなく、それは単に言葉を聞いて言葉で同意しているに過ぎません、非常に単純にじかに分かるなら、そこから善いことが生まれます。しかし困難な問題は、精神が「どうしたら私はその状態を維持できるのか、ここに座って真実であると私が感じることを私が聞いているとき私は善いのかもしれませんが、ここを出た途端に私は再び妬みの流れに呑み込まれます」と言うことです。しかしそれは重要ではないと私は思います―あなたは見つけ出すでしょう。
我々の文化や社会は妬みや様々な形の所有欲に基づいています、それが知識の所有であれ、経験の所有であれ、財産の所有であれ何であれ。そしてそれらから自由になるには奮闘や努力を必要とするのではなく、努力の意味する全てを見て取ることを要求します。知識を獲得している人は平和ではなく、努力に囚われています。精神が余すことなく努力とは無縁なときのみそれは平和であり、それは本当に途方もない状態です、そしてそのことに全身で気をつけている人なら誰でもそれを得られると私は思います。骨を折って奮闘していない精神、社会的に精神的に何かになろうとしていない精神、それは完全に何もないことです―そのような精神のみが新しいものを感受できます。
質問者(Q) ある哲学者たちは生には目的と意味があると主張し、別の人たちは生は全くの偶然で不合理であると主張します。あなたはどう思いますか? あなたは目標や理想や目的を否定しますが、それらなしに生に何らかの意義がありますか?
クリシュナムルティ(K) 我々一人ひとりにとって哲学者たちの言うことに大きな意義がありますか? ある知識人たちは生に意味や意義があると言い、別の人たちは生は偶然であり不合理であると言います。明らかに、それぞれの仕方で、肯定的であるにせよ否定的であるにせよ、両者は生に意義を与えています、違いますか? 一方は主張し、他方は否定しますが、本質的に両者は同じです。それは極めて明らかです。
宜しいでしょうか、あなたが理想や目標を追い求めたり何が生の目的かを探究したりするとき、その探究や追求そのものが正に生に意義を与えようとする欲望に基づいています、違いますか? あなたがこれらのことに付いてきているのかどうか私は知りません。
私の生には意義がないので、そう仮定しましょう、私は生に意義を与えることを追い求めます。私は言います「生の目的は何ですか?」と、何故ならもし生に目的があるなら、その目的に従って私は生きられます。従って私は目的を発明したり想像したりします、或いは読書することや、探究することや、追求することによって私は目的を見つけて、生に意義を与えようとします。知識人がそれぞれの仕方で生に目的や意味があるのを否定したり肯定したりすることによって生に意義を与えるように、我々も我々の理想を通じて、我々の目標や神や愛や真理の追求を通じて生に意義を与えます。それは生に意義を与えることなしには我々の生が我々にとって全く意味をなさないことを意味します。生きることが我々にとって十分ではないので、我々は生に意義を与えたいと思います。あなたがそのことをお分かりかどうか私は知りません。
我々の生の意義とは、あなたの生であり私の生である我々の生の意義とは、哲学者たちの言うことを別にすれば、どういうことですか? それに意義がありますか、それとも我々は、カトリック教徒や何やかやになってシェルターを見つける知識人のように、信念によってそれに意義を与えようとしているのですか? 知識人の知性はあらゆるものを粉々にします、そして知識人は独存することや単独でいることなどそれらのことができないので、知識人はカトリック教に、共産主義に、或いは知識人を育み知識人のために生に意義を与える他の何かに信を置かなければなりません。
宜しいでしょうか、私は自問しています、何故我々は意義を求めるのでしょうか? 何の意義も持たないで生きるとはどういう意味でしょうか? お分かりでしょうか? 我々自身の生は虚しく、悩ましく、孤独なので、我々は生に意義を与えたいと思います。我々自身の虚しさや孤独、悲しみ、我々の生の中の全ての労苦や葛藤などから抜け出そうとせず、生に意義を恣意的に与えないで、それらの虚しさや孤独、悲しみ、全ての労苦や葛藤などに気づくことはできますか? 我々が生と呼ぶこの途方もないものに、生計を得ることや妬み、野望、欲求不満などに我々は気づけますか―非難や正当化をしないで、それら全てにただ気づいて、それらを乗り越えることができますか? 我々が生に意義を追い求めたり与えたりしている限り、我々は途方もなく生命力にあふれた何かを見失っているように私には思えます。それは死の意義を見つけようとしている人のようで、その人は果てしなくそれを合理化したり説明したりしています―その人は決して死が何であるのかを経験しません。我々はそのことを他のトークで検討します。
宜しいでしょうか、我々はみな我々の存在の理由を見つけようとしていませんか? 我々が愛するとき、我々に理由がありますか? それとも愛は理由の全くない、説明のいらない、努力することのない、何かになろうとしていない唯一の状態ですか? 恐らく我々はそのような状態を知りません。その状態を知らないので、我々はそれを想像しようとしたり、生に意義を与えようとしたりします、そして我々の精神は条件づけられていて、限りがあり、取るに足りないので、我々が生に与える意義、我々の神、我々の儀式、我々の努力もまた取るに足りないのです。
そうすると、もし我々が生に意義を与えるなら、どのような意義を我々は生に与えるのかを我々自身で見出すことが大切ではないのですか? 明らかに、我々が成就することを追い求めるために抱く目的や目標、大師たち、神々、信仰、結末などは全て精神によって発明されたものであり、それらは全て我々の条件づけの結果です、そしてそのことを理解するなら、精神の条件づけを解くことが大切ではないのですか? 精神が条件づけを解かれて生に意義を与えないでいるとき、生は途方もないものであり、精神の枠組みとは全く異なった何かです。しかし最初に我々は我々自身の条件づけを知らなければならないのではないですか? 我々の条件づけを、我々の限界を、我々の背景を、無理にではなく、分析しないで、それらを高尚にしたり抑圧したりしないで知ることは可能ですか? 何故なら条件づけの全過程がその当のものを、観察して観察する者を観察されているものから分離するその当のものを含むからです、違いますか? 観察者と観察されているものがある限り、条件づけは継続するはずです。観察する者や思考する者や批評する者がその条件づけをどれほど取り除こうとしても、それらは依然としてその条件づけに囚われています、何故なら思考する者と思考や経験する者と経験との間の分断が正に条件づけの継続だからです、そしてその分断が消えてなくなるようにするのは極めて難しいのです、何故ならそれが意志の全問題を含むからです。
我々の文化は意志に基づいています―何かでいる意志であり、何かになる意志であり、何かを成し遂げる意志であり、何かを履行する意志です―従って我々一人ひとりの中に観察する対象を変えようとしたり、コントロールしようとしたり、変更しようとしたりする当のものがいつもいます。しかし観察する対象と観察者自身との間に差異はありますか、それともそれらは一つですか? これは単純に受け入れられることではありません。それは途轍もない辛抱強さ、穏やかさ、ためらいを伴ってよく考えられ検討されなければならなくて、その結果、精神がもはやそれの考えることと分離していなくて、観察者と観察される対象が心理的に一つでなければなりません。私が心理的に私自身の中で妬みとして知覚するものと分離している限り、私は妬みを乗り越えようとします、しかしその“私”は、妬みを乗り越えようと努力するその当のものは妬みと異なりますか? 或いはそれらは同じですか、妬みは苦痛であると私が感じるから、そして様々な他の理由から妬みを乗り越えるために単に“私”が妬みから私自身を分離しているだけですか? しかしその正に分離が妬みの原因です。
恐らくあなたはこの考え方に慣れていなくて、あなたにはそれは少し抽象的すぎます。しかし嫉妬深い精神は決して穏やかになりえません、何故ならそれはいつも比較していたり、いつもそうではない何かになろうとしていたりするからです、そしてもし人が本当にこの妬みの問題を徹底的に、根本的に、深く検討するなら、人は否応なく次の問題に行きつきます―妬みを取り除こうと願うその当のものが妬みそのものであるのかどうかです。妬みそれ自身こそが妬みを取り除きたいと思っていると人が悟るとき、精神はそれを非難しようとは思わず或いはそれを取り除こうとしないで妬みと呼ばれるその感情に気づきます。そうするとそこから次の問題が起こります、もし言葉にしないなら感情は生まれるのかという問題です。何故なら妬みという言葉が正に断罪的だからです、違いますか? 私は一度にとても多くのことを言っていますか?
もし私がその感情を言葉にしないなら、妬みの感情は生まれますか? それを正に言葉にすることによって、私はその感情を維持しているのですか? その感情とそれを言葉にすることはほとんど同時に起こるのではないのですか? それらを分離してそれを言葉にすることなく反射的反応だけが起こることは可能ですか? もしあなたが本当にそれを検討するなら、その感情を言葉にしないとき、妬みは全く止むことが分かるでしょう―誰かがあなたより美しいので、それとも誰かがあなたの車より良い車を持っているなどの愚かなことであなたが感じる妬みではなく、妬みの途方もない深さ、妬みのルーツのことです。我々はみな嫉妬深くて、我々は様々な仕方で嫉妬深くない人はいません。しかし妬みはただ表面的なものだけではなく、それは我々の精神に非常に深く食い込んで我々の精神をとても広く占拠しています、そして妬みから徹底的に自由になるためには批評する者や妬みを取り除こうとする妬みの観察者がいてはなりません。我々はそのことを別の機会に検討します。
Q 非難したり、正当化したり、比較したりしないでいることは意識の高い状態にいることです。私はその状態にいません、どのようにして私はそこへ至るのですか?
K 宜しいですか、「どのようにして私はそこへ至るのですか?」という正に質問が妬みです。(笑) いえ、いえ、どうか気をつけて下さい。あなたは何かを手に入れたいと思うので、あなたはメッソドや訓練、宗教、教会など妬みや比較、正当化、非難などを台にしてうち立てられたこの全上部構造を手にします。我々の文化はこのより多く持っている人たちと持っていない人たちとの間の、知っている人たちと知らない人たちとの間の、無知な人たちと知恵に満ちた人たちとの間の序列的な分断に基づいているので我々の問題への取り組み方は全く間違っています。質問者は言います「非難したり、正当化したり、比較したりしないでいることは意識の高い状態にいることです」そうですか? それとも我々は単に我々が非難したり、比較したりしていることに気づいていないだけですか? 何故、我々は最初にそれが意識の高い状態であると主張して、さらにどのようにしてそこへ至るのか、誰が我々をそこへ至るように手助けするのかという問題を作り出すのですか? それはそれらよりももっと単純ではありませんか?
つまり、我々は我々自身に全く気づいていなくて、我々は我々が非難していたり、比較していたりすることが分かっていません。もし我々が正当化しないで或いは何かを非難しないで我々自身を毎日見守ることができるなら、我々が判断することなしには比較することなしには価値評価することなしには決して考えないことにただ気づくことができるなら、その正に気づきで十分です。我々はいつも言っています「この本は他の本ほど良くない」或いは「この人はあの人より良い」などと、この絶え間ない比較のプロセスがあり、我々は比較して理解すると考えます。そうですか? それとも理解は人が比較していないで本当に気をつけているときにのみやってくるのですか? あなたが何かを気をつけて見ているときあなたは比較していますか? あなたが余すことなく気をつけているとき、あなたには比較する時間がありません、違いますか? あなたが比較するや否や、あなたは他の何かに気が逸脱してしまいます。あなたが「この夕陽は昨日のよりも美しくない」と言うとき、あなたはその夕陽を本当には見ていなくて、あなたの精神はすでに昨日の記憶へ逸脱しています。しかしもしあなたがその夕陽を完全に、余すことなく、全身で気をつけて見ることができるなら、比較することは止みます、明らかに。
従って問題はどのようにして何かを手に入れるのかではなく、何故我々は気をつけていないのかの問題です。我々は気をつけていません、明らかに、何故なら我々は興味を持っていないからです。言わないで下さい「どのようにして私は興味を持つのか」と。それは不適切であり、それが問いではありません。何故あなたは興味を持つのです? もし言われていることを聞く興味があなたにないなら、何を悩みます? しかしあなたは思い悩みます、何故ならあなたの生は妬みや苦しみで一杯なので、あなたは答えを、意味を見つけたいと思います。もしあなたが意味を見つけたいと思うなら、十分に気をつけていることです。困難な点は我々が本当には何ものに対しても真剣ではないことです、その言葉の正しい意味で真剣ではないことです。あなたが何かに完全に気をつけているとき、あなたはそれから何ものも得ようとしません、違いますか? その余すことなく気をつけている瞬間には変えようとする、修正しようとする、何かになろうとする当のものが、自己が全く存在していません。気をつけている瞬間には自己や“自分”がいなくて、その気をつけている瞬間こそが善いのであり愛です。
1955年 8月13日 オーハイ
中野 多一郎 訳