クリシュナムルティをめぐりて

オーハイ・トーク 5 1955年 8月20日

クリシュナムルティ 我々の殆どが考えたことがあるに違いない重大な問題の一つに精神の完全なコントロールがあります、何故なら、深い、理性的な、バランスのとれた精神のコントロールなしには、もし人が何かを行おうとするなら、特にいわゆる探究―真理や真実や神や何であれ、それらの探究―に関する事柄で何かを行おうとするなら、必要不可欠なエネルギーが保持されません。この精神の安定が根本的な問題に入り込むために必要であることは、表面的な精神では触れることができない根本的な問題に入り込むために必要であることは、人の気づくことであると私は思います。それでも問題はどのようにして精神をコントロールするのかにあります、違いますか? 規律を課す多くのシステムや様々な宗教的な宗派や修道院的共同体がいつも精神の絶対的なコントロールを主張してきました、そして今晩私はそのようなことが可能かどうかを議論したいと思います、そしてこの精神の絶対的な安定はどのようにしてもたらされるのかを議論したいと思います。私は絶対的という言葉をその正しい意味で使っています、それは完全で余すことなく精神をコントロールすることを意味しています。私が言ったように、そのように精神が安定することが必要不可欠です、何故ならそのような状態の中には葛藤やエネルギーの消散、逸脱などがないからであり、従ってそれが途轍もないエネルギーをもたらし、そしてそのような精神は完全に安定しているので深く理性的でいられて真実の中へ浸透することができるからです。
 宜しいでしょうか、精神がどれだけそれ自身をコントロールしようと、支配しようと、規律化しようと、取るに足りない精神は安定することができるでしょうか? 我々の精神の殆どは狭くて、限られ、偏見を抱えていて、取るに足りません、そして取るに足りない精神は絶えず非常に表面的な物事―仕事や喧嘩、憤り、徳の育成、何かを理解しようとすること、スキャンダル、それ自身の進化、それ自身の問題など―で塞がれています。そのような精神は、それがどんなにそれ自身をコントロールしようと、規律化しようと、自由で安定していられるでしょうか? 何故なら自由なしに精神は明らかに安定することができないからです。
 つまり、成功や結果を得ようと努めている精神は、それが手にできない何かを手探りしている精神は、本質的に狭くて、条件づけられていて、限られていて、その正に努力によって取るに足りなくさせられています、そしてそれがそれ自身をコントロールして安定するためにどれほどのことをしようと、そのような精神は深い根本的な安定と共にやってくるあの本質的なエネルギーをもたらすことができるのでしょうか、それともそれは別の一連の限界や更なる取るに足らなさを築き上げるだけでしょうか? 私は私が問題を明確にしていることを願います。
 もし私の精神が国家的で、数知れない信念や迷信や恐れで縛られていて、妬みや憤り、言葉の残酷さ、ジェスチャーや思考の残酷さに囚われているなら、それがどんなにそれ自身を超えた何かを考えようとしても、それには依然として限界があります。従って問題は精神のこの取るに足りなさをどのように打ち破るのかにあります、違いますか? これは根本的な問題の一つであり、もしそれが明瞭になるなら、我々は精神を完全にコントロールするとはどういう意味であるのかを見出すために進むことができます。
 真理とは何かを、神とは何であるのかを、或いはそれをあなたが何と呼ぼうと、それを見出すためには、人は明らかに途轍もないエネルギーを持っていなければなりません、そしてそのエネルギーを追い求めるとき、我々はあらゆる種類の意味のないことを行います。我々は修道院に助けを求めたり、食べ物について変人になったり、或いは様々な熱情や欲望をコントロールすることによって精神を超えた何かを見つけるためのエネルギーをその方向へ導きたいと思ったりします。結局、それが殆どの我々が異なった仕方で努力して行っていることです。我々は我々が善くいることや敬意を表される市民でいることを意図して、或いは欲望を超えた何かを見出すために欲望のこの全ての途方もない活力をその方向へ導きたいと思って、我々の思考や欲望をコントロールしようとしたり、徳を育もうとしたり、言葉や行動に注意しようなどとしたりしています、しかし我々はそれを見出すことができません、たとえどんなに我々がもがいても、我々が精神の取るに足りなさを理解しない限り、我々はそれを見出すことができません。取るに足りない精神が神を追い求めるとき、その神もまた取るに足りないでしょう、それは明らかであり、その徳は単なる社会的な敬意であるにすぎないでしょう。そうすると、この取るに足りなさを打ち破ることはできますか? 質問は明確ですか? 宜しいでしょう、では先へ進みましょう。
 我々の精神は、我々がそれを認めようと認めまいと、取るに足りなくて、嫉妬深く、貪欲で、何かを恐れています。それでは、何が精神を取るに足りなくさせているのでしょうか? 確かに、精神が貪欲である限り、それは狭量で、限りがあり、底が浅くて、取るに足りません。それは通俗的なものを放棄して知識や知恵の追求に貪欲になるかもしれませんが、それでもそれは依然として取るに足りません、何故なら獲得しようとするとき、それは成し遂げようとする意志を、手に入れようとする意志を発達させます、そしてこの正に成し遂げようとする意志こそが取るに足りなさを成すものだからです。
 ここで気をつけていることについて話してもよいですか? 気をつけていることは非常に重要です、しかし気をつけていることは精神集中や何かに夢中になることとは全く違います。子供は玩具に夢中になります、そしてその玩具がその子を魅了するので、その子はその玩具に心を注ぎます。それが起こることです、違いますか? 対象物が心を引き付けます、心を吸収します、そうでなければ心が対象物を吸収します。もしあなたが何かに興味を持つなら、その興味の対象がとても魅惑的なので、それがあなたの心を奪います、一方、もしあなたが慎重に何かに精神を集中しているなら、それは夢中になる別の形ですが、あなたはその対象を吸収しています、違いますか?
 宜しいでしょうか、私は全く違うことを話しています。私は対象がその中に全く存在しない、緊張も葛藤もその中に存在しない気をつけていることを話しているのであり、あなたが心を奪われているのでもなく、あなたが何かに精神を集中しているのでもない気をつけていることを話しています。ここで話されていることにあなたが耳を傾けているとき、あなたは理解しようと努力していて、あなたには耳を傾ける対象があります、従って努力や緊張が生まれていて、あなたはリラックスして気をつけてはいません。それは事実です、違いますか? もしあなたが何かに耳を傾けたいなら、緊張や努力やあなたの気を引きつけてあなたを夢中にさせる対象物があってはなりません、そうでなければ、あなたは言われていることに、何らかの個性に、その他のそのようなナンセンスに単に幻惑されているに過ぎません。もしあなたがこの夢中になる過程を間近に観察するなら、あなたはその中にいつも葛藤や緊張感や何かを手に入れようとする努力のあるのが分かるでしょう、一方、気をつけている中には特別な対象は全く存在していません―あなたはあなたが遠くの音楽や歌声を聴くようにただ耳を澄ましているだけです。そのような状態の中であなたはリラックスして気をつけていて緊張していません。
 そこで、もし宜しければ、ここで話されていることに耳を傾けている間、ただ気をつけているようにして下さい。私が話していることは難しいし、どこか新しいかもしれませんので幾分不安になるかもしれませんが、もしあなたがそのようにリラックスした状態で気をつけていて聞くことができるなら、恐らくそれは善いことで、違った意味で不安になるかもしれませんが、あなたは心をかき乱されることはないでしょう。私の言っていることは理解するために欠かすことのできないものです。私が言っているのは精神が完全に安定していなければならないということです。しかしこの精神の安定はもし精神がそれ自身を安定させようとするなら起こりえません、何故なら精神は、その努力する当のものは、その本性上取るに足りないからです。精神は百科事典的な知識に満ちているかもしれませんし、賢い議論ができて膨大な技術の収集蓄積を手にすることができるかもしれませんが、それが貪欲的な感じに基づいていて、従って意志の育成に基づいている限り、それは本質的に取るに足りないままでしょう―つまり“私”がいる限り、獲得している、努力している、取捨して収集している当人がいる限り。精神は神を考えるかもしれませんし、それ自身に規律を課すかもしれませんし、有徳でいるために、真理を追究するための更なるエネルギーを得るなどのために、その様々な欲望をコントロールしようとするかもしれませんが、そのような精神は狭くて限られています―それは決して自由ではありえないので安定することができません。
 そうすると我々の問題はどのようにして精神のこの取るに足りなさを打ち破るのかということになります。問題は明確ですか? もしそれが明確なら、あなたは何をすることになるのですか? 非常に安定していて、深い、穏やかな精神、完全にコントロールされている精神の必要性は分かります―しかし「私はそれをコントロールしなければならない」と言う分離しているその当のものによってコントロールされるのではありません。お分かりですか? つまり、私は安定している精神の重要性が分かります。では、どのようにしてこの精神の安定はもたらされるのでしょうか? もし精神の他の部分が「私は安定した精神を持たなければならない」と言うなら、それは葛藤やコントロールや従属を発達させます、違いますか? 精神の一部が他の部分を指示して、それが彷徨わないようにしようとしたり、それをコントロールしたり、それに姿形を与えたり、それに規律を課したり、或いは様々な形の欲望を抑えたりするので、いつも葛藤が起こります、違いますか?
 宜しいですか、葛藤している精神はその正に本質上取るに足りません、何故ならその欲望は何かを獲得することだからです。安定した精神を獲得しようと欲して、あなたは言います「私は私の精神をコントロールしなければならない、私はそれに姿形を与えなければならない、私は相争う全ての欲望を取り除かなければならない」と、しかしあなたの考え方の中にこの二重性がある限り、葛藤があるに違いありません、そしてその正に葛藤が取るに足りなさを指し示します、何故ならその葛藤は何かを手に入れようとする欲望の結果だからです。そうすると、精神は獲得のこの全過程を、神や何やらを見つけるために非常に安定した精神を獲得しようとするこの全過程を消し去ることが、忘れることができるでしょうか? つまり、あなたが耳を傾けているとき、あなたは言われていることの真理を即座に見て取ることができるでしょうか? 私が言っているのは、精神の完全で絶対的な安定性がなければならないということです、そしてそのような状態を成就しようとするどのような努力も分断された精神を指し示すということであり、そしてその精神は「神かけて、私はその安定性を手にしなければならない、それは素晴らしいだろう」と言って、その状態を、規律を課して、コントロールを通して、様々な形の賞罰などを通じて追い求めるということです。しかしもし精神がそのような状態の真理に耳を傾けることができるなら、もしそれが完全なコントロールの絶対的な必要性を見て取ることができるなら、あなたは何らかの状態を成就しようとする努力の存在しないことが分かるでしょう。
 これは難しすぎますか? 私はそう思います、何故なら、宜しいですか、殆どの我々が努力という観点から考えるからであり、いつも何らかの結果を成就するために努力している当のものが存在するので葛藤が起こるからです。あなたは精神が絶対的に安定していなければならない、コントロールされていなければならないということを聞きます、或いはあなたはそれについて何かを読んで考えて「私はそのような状態を手にしなければならない」と言い、あなたはそれをコントロールや規律や瞑想などを通じて追い求めます。その過程の中で努力が生じ、順応することが起こり、何らかのパターンへの追随があり、権威の確立が成し遂げられ、そして様々なそれに類する他の複雑な事柄が起こります。宜しいですか、何らかの結果を成就しようとするどのような努力も、何らかの状態を獲得しようとするどのような形の欲望も取るに足りない精神を助長します、そしてそのような精神は決して恐らく自由になって安定することができません。もし人がそのことの真理を非常にはっきりと見て取ると精神の絶対的な安定が生まれるのではないのですか? お分かりですか?
 言い換えれば、何らかの行動を起こすにはエネルギーが必要であることは非常にはっきりと分かります。もしあなたが裕福な人間になりたいと思うのなら、あなたはあなたの生活をそれに捧げなければなりません、あなたはあなたのエネルギーをそれに集中して注がなければなりません。精神の働きや活動を超えたものを見つけるためには―それは自己知の中の途轍もない深さを意味します―エネルギーの集中が不可欠です。それではこのエネルギーの集中はどのようにして生まれるのでしょうか? この必要性を見て取って、我々は言います「私は私の気性をコントロールしなければならない、私は正しい食べ物を取らなければならない、私は性的に過剰であってはならない、私は私の熱情、情欲、欲望をコントロールしなければならない」―お分かりでしょうか、我々は急に脇道へそれます。それらは全て脇道です、何故ならその中心は依然として取るに足りないからです。精神が何かを獲得するという観点から、何らかの結果を成就しようとする観点から考えている限り、それは野望を抱いています、そして野望を抱いている精神はその本性上狭量で浅薄です。そのような精神は、野心的な人間のそれのように、明らかにある量のエネルギーを持っていますが、我々が議論しているのは自己が全く消えている、より深い、より広い、もっと無制限なエネルギーです。
 人は何世紀にもわたってエネルギーを保持する目的で―宗教的に、社会的に、倫理的に―精神をコントロールするように、何らかのパターンに従って精神を形作るように、或いはある理想を追うように条件づけられてきましたが、そのような精神は努力することなくそれらから離れて精神が余すことなく静まり完全に安定しているあの状態へ瞬時にやってこられるでしょうか? そのときには気の逸脱というものがありません。気の逸脱はあなたがある方向へ行こうとするときのみ起こります。あなたが「私はこのことについて考えなければならない、他の何ものも考えてはならない」と言うとき、他のあらゆるものが気の逸脱になります。しかしあなたが完全に気をつけていて、その気をつけている中には対象物が何もないとき、何故なら獲得しようとする過程や何らかの結果を成就しようという意志の育成がないので、そのときにはあなたは精神が途方もなく安定していて内面的に静かであるのが分かるでしょう―その静かな精神だけが自由に発見するか、その真実を開花させます。

質問者(Q) どのようにして習慣を止めることができますか?
クリシュナムルティ(K) もし我々が習慣の全問題を理解することができるなら、恐らく我々は習慣が生まれるのを止めることができるでしょう。単にある特殊な習慣を止めるのは比較的簡単ですが、問題は解決されません。我々はみな意識する意識しないにかかわらず様々な習慣を持っているので、我々は精神が習慣に囚われているのかどうかを、そして何故精神が習慣を生みだすのかを見出す必要があります。
 我々の考え方の殆どは習慣的ではないのですか? 子供の時から我々はある考え方に沿って考えるように教えられてきました、それがキリスト教徒としてであろうと、共産主義者としてであろうと、ヒンズー教徒としてであろうと、そして我々はその考え方からあえて逸れようとしません、何故ならその逸脱こそが正に恐怖だからです。従って根本的に我々の考え方は習慣的であり条件づけられていて、我々の精神は確立されたレールの上で機能しています、そしてもちろん我々がコントロールしようとする表面的な習慣もあります。
 宜しいでしょうか、もし精神が習慣的に考えるのを全く止めるなら、我々は表面的な習慣の問題を全く異なった仕方で取り組むことになるでしょう。お分かりでしょうか? もしあなたがあなたの精神が習慣的に考えているのかどうかを探究して明らかにしようとしているなら、もしそれがあなたの本当に関心があることなら、例えば喫煙の習慣は全く違った意味を持つでしょう。つまり、もしあなたが習慣の全過程を探究することに関心があるなら、それはより深い次元のことですが、あなたは喫煙の習慣を全く異なった仕方で扱うでしょう。あなたが喫煙の習慣だけではなく習慣的な考え方の全ての過程を本当に止めたいと思っていることが内面的に非常に明確なら、あなたは煙草を拾おうとするなどの全てのあなたの反射的な動作と戦いません、何故ならあなたがその個別の習慣と争えば争うほどあなたはあなたの生をそれに注ぐからです。しかしもしあなたが気をつけていて、その習慣と争わずにそれに完全に気づいているなら、あなたはその習慣が立ち枯れるので精神がその習慣に占領されていないのが分かるでしょう。あなたがこのことに付いてきているのかどうか私は知りません。
 内面的には私は私が喫煙をやめたいと思っていることは非常にはっきりと分かりますが、その習慣は何年もの間続いてきています。私はその習慣と戦いますか? 明らかに、何らかの習慣と戦うことによって、私はそれに生命を吹き込んでいます。どうかこのことを理解して下さい。どんなものでも私がそれと争うと、私はそれに生命を吹き込んでいます。もし私が何らかの観念と争うなら、私はその観念に生命を吹き込んでいます、もし私があなたと争うなら、私はあなたにあなたが私と争う生命を吹き込んでいます。私はそのことを非常にはっきりと見なければなりません、そしてもし私がある個別の習慣ではなく習慣の全問題を見てさえいれば私はそれを非常にはっきりと見て取ることができます。そうすると私の習慣に対する取り組み方は全く異なった次元のものになります。
 そうすると問題は、何故精神は習慣的な観点から、関係性の習慣から、観念的な習慣から、信仰的な習慣などから考えるのかということになります。何故ですか? 何故なら本質的に精神が安全であること、安心であること、永久であることを追い求めているからです、違いますか? 精神は不確実であることを嫌うので、それは安全性の手段として習慣を手にしていなければなりません。そのような安全な精神は決して習慣から自由ではありえなく、完全にそのような安全性を欠いた精神だけが習慣から自由でありえます―それは救護院や精神病院へ入ることを意味しません。完全にそのような安全性を欠いた精神、不確かで、探究している、絶えず発見しようとしている精神、あらゆる経験を死んでやり過ごしている精神、それが獲得してきたあらゆるものを死んでやり過ごしているので知らない状態にある精神―そのような精神だけが習慣から自由になれて、それは思考の最も高度な形です。
 子供を条件づけることなしに子供を育てることができるでしょうか、もしできるならどのようにして?
 もしできないなら、良い条件づけや悪い条件づけというものがあるのでしょうか? どうかこの質問に無条件で答えて下さい。(笑)
 「子供を条件づけることなしに子供を育てることができるでしょうか」 できますか? 私はできるとは思えません。どうか聞いて下さい、このことを一緒に検討してみましょう。しかし最初に後の質問を片付けましょう、良い条件づけや悪い条件づけがあるのかどうかです。明らかに、ただ条件づけがあるだけであり、良い条件づけも悪い条件づけもありません。神が存在すると信じるのは良い条件づけであるとあなたは言うかも知れませんが、共産主義のロシアでは彼らは「何て馬鹿げたことか、それは邪悪な条件づけだ」と言うでしょう。あなたが良い条件づけと言うとき、他の誰かがそれは悪い条件づけだと言うかも知れません、それは明らかですので、我々はその質問を一気に片付けることができます。
 そうすると、質問は、子供たちを条件づけることなしに、彼らに影響を与えることなしに子供たちは育てられるのかということになります。明らかに、彼らの周りのあらゆるものが彼らに影響を与えています。気候、食べ物、言葉、仕草、会話、無意識の反応、他の子供たち、社会、学校、教会、書物、雑誌、映画―それら全てが子供に影響を与えています。あなたはそのような影響をなくすことができますか? それは不可能です、違いますか? あなたは影響したくない、あなたの子供を条件づけたくないと思うかも知れませんが、無意識にあなたは子供に影響を与えています、違いますか? あなたはあなたの信念や教条、恐れ、倫理、思惑、何がよくて何が悪いかの観念などを持っているので、意識的にも無意識的にも、あなたは子供を形作っています。そしてもしあなたがそうしないなら、学校が私たちには驚くべき英雄がいて他の連中にはいないなどと書かれた歴史書で子供を形作ります。あらゆるものが子供に影響を与えているので、そのことを最初に認識しておきましょう、それは明らかな事実です。
 そこで問題は、あなたは子供を助けて子供がそれら全ての影響を叡智的に問うように育てることができるかということになります。お分かりでしょうか? 子供が家庭や学校などあらゆるところで影響を受けていることを知って、あなたは子供があらゆる影響を問うて子供がどのような影響にも囚われないように子供を助けることができますか? もし子供があらゆる影響を検討するように子供を助けたいとあなたが本当に思っているなら、それは途轍もなく骨の折れることです、違いますか? 何故ならそれはあなたの権威だけではなく、あらゆる権威やナショナリズム、信仰、戦争、軍隊などの全問題を問うことを意味するからです―宜しいでしょうか、それは全てのことを探究することであり、それは叡智を育むことです。そのような叡智が働くと精神はもはや単に権威を受け入れたり恐れて順応したりしなくなり、あらゆる影響が検討されて排除されます、従ってそのような精神は条件づけられていません。確かに、そのようなことは可能です、違いますか? あらゆる影響を客観的に調べることができ、深い背景だけではなく身近な背景をも調べ上げることができて、精神がどのような条件づけにも囚われていないそのような叡智を育むのが教育の働きではないのですか?
 結局のところ、あなたはあなたの背景によって条件づけられていて、あなた自身がその背景であり、それはあなたがキリスト教的に受け継いできたものやアメリカの途方もない活力やエネルギーや進歩、数知れない影響―気候や社会、宗教、食事などの影響―などで成り立っています。あなたはそれら全てを叡智で見て、それらを引きずり出して白日の下に晒し、あなたが良いと考えるものを残して悪いと考えるものを排除するようなことをしないで、それらを検討することができないでしょうか? 明らかに人はいわゆる文化と呼ばれる全てのものを客観的に見る必要があります。文化は宗教を作り出しますが宗教的な人間を生みません。宗教的人間は精神が文化を拒絶して、それは精神の背景ですが、その結果、真実が何であるのかを自由に発見するときのみ生まれます。しかしそれは精神が途方もなく警戒して気をつけていることを要求します、違いますか? そのような人間はアメリカ人でもなくイギリス人でもなくインド人でもなくて人間であり、その人はどのような集団にも人種にも文化にも属していないので真実が何であるのかを、神が何であるのかを自由に発見します。どのような文化も真実が何であるのかを人間が発見する助けにはなりません。文化は人間を縛る組織を作り出すだけです。従って、これら全てを、意識的な条件づけだけではなく精神の更なる無意識的な条件づけを調べることが重要です。そして無意識的条件づけは表面的な意識的精神では調べられません。意識的精神が完全に静まっているときだけ無意識的条件づけが特定の瞬間ではなくいつでも現れ出てきます―歩いているとき、バスに乗っているとき、誰かと話しているとき。発見しようと思っていると、あなたは無意識的条件づけが噴き出してくるのが分かるでしょう、従って発見するための扉が開かれています。
 私が初めてあなたの話を聞いて、あなたにインタビュウしたとき、私は深く心をかき乱されました。それから私は私の思考を見守り始め、非難や比較などしないで、私は沈黙の感じを幾分手にしました。何週間の後、私は再びあなたにインタビュウして再び衝撃を受けました、というのはあなたが私の精神は全く目覚めていないことを私に明らかにしたからです、そして私は私が自分の成し遂げたことに幾分自惚れていたことが分かりました。何故精神はそれぞれの衝撃の後で落ち着くのですか、そしてどのようにしてこのプロセスは打ち破られるのですか?
 社会的に宗教的に個人的に我々は絶えず何らかの形の挑戦を避けています、違いますか?  我々は物事が現にある通りに進んでほしいと思います、何故なら精神は動揺させられるのを嫌うからです。それが何かを成し遂げるとそれは落ち着きます。しかし生は挑戦と反応の過程であり、もし挑戦に適切に応じていないなら葛藤が起こります。その葛藤を避けるために我々は安楽な決まりきったやり方の中で落ち着いて堕落します。それは心理的な事実です。
 つまり、生は挑戦であり、生の中のあらゆるものが応答を要求します、しかしあなたにはあなたの限界や心配、条件づけ、信念、すべきことやすべきでないことの理想などがあるので、あなたはそれに十分応じることができません、従って葛藤が起こります。その葛藤を避けるために、或いはそれを乗り越えるために、あなたはゆったりと構えて安楽をもたらす何か他のことを行います。精神は心がかき乱されない状態をひっきりなしに追い求めていて、それをあなたは平和や神と呼びます、或いはそれをあなたの好きなように呼びますが、本質的にその欲望は心がかき乱されないことです。心がかき乱されない状態をあなたは平和と呼びますが、それは実際には死です。一方、もしあなたが精神は絶え間なく応ずる状態になければならなくて、安楽や安全性、精神的な拠り所、精神的な支え、信仰や観念や財産に慰安をもとめるなど全てが望むべくもないことを理解するなら、あなたはあなたに衝撃など必要ないことが分かるでしょう。そのときには衝撃によって目覚めて再びまどろむことになるに過ぎないこのようなプロセスは存在しません。
 宜しいですか、それによって本当に非常に重要な問題が浮かび上がります。我々は我々には教師やグルや指導者が必要であると考えます、そしてそれらの人たちの助けによって我々は目覚めていると考えます。恐らくそれがあなた達の殆どがここにいる理由です―あなたはあなたが目覚めているように別の誰かがあなたを助けてくれるのを願っています。誰かがあなたを助けてあなたが目覚めているなら、あなたはその人に頼っていて、その人があなたの教師、ガイド、指導者になります。その人は目覚めているかも知れません―私は知りません―しかしもしあなたがその人に依存するなら、あなたは眠っています。(笑) どうか笑わないで下さい、何故ならそれは我々皆が我々の生活の中で行っていることだからです。もしそれが指導者でないなら、それは何らかの集団であるか、家族であるか、書物であるか、レコードであるかということになります。
 従って、何ものにも依存しないで、薬やグルや規律や絵画や他の何ものにも依存しないで目覚めていることは可能ですか? このことを試してみると、あなたは過ちを犯すかも知れませんが、あなたは言います「それは問題ではない、私は目覚めていよう」と。しかしこれを行うことは非常に難しいことです、何故ならあなたはとても沢山のことを他の人たちに依存しているからです。あなたは友人によって、書物によって、音楽によって、儀式によって、集会へ定期的に行くことによって刺激を受ける必要があります、そしてその刺激はあなたを一時的に目覚めさせておくかもしれませんが、あなたは飲酒をしているのも同然です。あなたが刺激に依存すればするほど精神は鈍くなり、鈍い精神は導かれなければなりません、それは従わなければなりません、それは権威を持たなければならないか途方に暮れるかのどちらかです。
 従って、この途方もない心理的な現象を見て、我々を目覚めさせておくためのどのような形の刺激にも内面的に全く依存しないで自由でいることはできないでしょうか? 言い換えると、精神は習慣に決して囚われないでいられるでしょうか? それが意味するのは、実際に、我々が理解してきたものは何でも、我々が学んできたものは何でもやり過ごすことであり、我々が収集してきた過去のあらゆるものをやり過ごして精神が再び新鮮で新しいことです。精神は、もしそれが過去の全てのものを、全ての経験を、全ての妬みや憤りや愛や熱情を死んでやり過ごして、それが再び新鮮で、熱気を帯び、目覚めていて、従って気をつけていることができなければ、新しくありません。明らかに、精神が全ての内面的な依存する感じから自由なときのみ、それは計り知れないものを見つけることができます。
                          1955年 8月20日 オーハイ
                                  中野 多一郎 訳