クリシュナムルティ これが最後の議論あるいは会話です。質問をする前に言わせて下さい。我々は沢山のことについて話してきました、個人的な生について、全ての人間に共通する生について、全ての問題と共に、混乱や悲惨、争い、暴力など沢山のことについて我々は話してきました。そして私が気になるのは…私はそれが単なる言葉による描写ではなく、それは我々の誰もが相対する我々の日常生活の現実であること、そしてそれらのチィーチングが我々の生に直に関係しているのかどうかを我々が自分自身で明らかにすることを望みます。そうでなければ、それはここにやって来て、そこに座る一日のエネルギーと時間とお金の無駄づかいでしょう。そして、言わせてもらえるなら、人はそれらのチィーチングを一つの全体として受け取っていただきたいのです、あなたの好きなことに基づいてそれを受け取ったり、そうではない他のことを拒絶したりしないでいただきたいのです。それは全体として一つのパッケージなのです、その言い方をさせてもらえば、現代の用語法で言わせてもらえば。そして世界で起こっていることを考えると、政治的に起こっていることを考えると、起こっている全てのぞっとするようなことを考えると、もし我々が人間として徹底的に変わらなければ、根本的に変わらなければ、我々は人間を助けられないでしょう。そして非常に重要なことは、私にはそう思えますが、人はいかなる人にも従わないで、いかなるグループにも加わらないで、いかなるセクトにも加わらないで、全人間に関心を持つことです、我々の生の世界的な問題に関心を持つことです。そしてこの途轍もなく複雑な問題を理解するためには、我々は、私が言ったように、自分自身の光になる必要があります。そしてこの光は他の人を通じては見つけられません、彼らが何を言おうと、どんなに彼らがよく知られていようと、どんなに彼らが人の耳目を引きつけようと。人は全ての権威から自由でいる必要があります、恐れなどから自由でいる必要があります。そして重要なことは、最初の一歩が最後の一歩だということです。私はあなたがこのことを理解することを願います。人の踏み出す最初の一歩が本当に最後の一歩です。
それでは質問してください。
…………
クリシュナムルティ 愛するということがどういうことかを発見するためには、人は所有することや執着、嫉妬、怒り、憎しみ、不安、恐れなどから自由でなければなりませんか? 執着からの自由―それをさしあたり取り上げましょう。あなたが執着しているとき、あなたは何に執着していますか? 仮に人がテーブルに執着しているとすると、その執着は何を意味しますか? 快楽や所有感覚、その使い勝手のありがたさ、それが素晴らしいテーブルであるという感じなどです。人間が他の人に執着しているとき、何が起こっていますか? 誰かがあなたに執着しているとき、あなたに執着している他の人はどのように感じますか? その執着の中に、所有するプライド、支配感覚、その人を失うという恐れが生じます、それゆえ嫉妬が生まれ、従って更なる執着、更なる所有や不安が生じます。それでは、もし執着がないなら、それは愛がないことを、責任がないことを意味しますか? ほとんどの我々にとって愛は人間同士のこのひどい葛藤を意味し、そうして関係が絶えず不安になります。あなたはこれらのことを知っています、私はあなたに話す必要はありません。そして、それを我々は愛と呼びます。そして、我々が愛と呼ぶこのひどい緊張から逃れるために、我々はあらゆる種類のエンターテイメントを手に入れます―テレビから宗教まで。我々は口論して教会へ駈け込みます、あるいは寺院へ駈け込みます、そして戻って来て、再び始めます。そのようなことがいつも起こっています。
人はこれら全てから自由になれますか、それとも、それは不可能ですか? もしそれが可能でないなら、我々の生は絶えず不安な状態にあります、そして、そこからあらゆる種類の神経症的な態度、信念、活動が生じます。執着から自由になることは可能ですか? それは多くのことを意味します。人間は執着から自由になって、それでも責任を感じることは可能ですか?
宜しいですか、執着から自由であることはその対極を、無関心であることを意味しません。このことを理解することは非常に重要です。我々が執着しているとき、我々は執着の痛み、その不安を知っています、そして、我々は言います「何としても、私はこれら全ての恐ろしいことから離れなければならない」と。そうして無関心の戦いが始まります、その葛藤が始まります。もしあなたがその言葉とその事実に気づくなら―執着という言葉とその言葉からの自由に、その感じに気づくなら―あなたはその感じを何の判断も差し挟まずに観察します。そうすると、あなたはそのような余すことのない観察から全く異なる活動が起こっているのが分るでしょう、それは執着でもなければ無関心でもありません。あなたは我々が話しているときそうしていますか、それとも、あなたはただ沢山の言葉を聞いているだけですか? あなたはあなたが家や信念、偏った考え方、何らかの結論、人物、何らかの理想に途轍もなく執着しているのを知っています。執着は安全性を大いにもたらしますが、それは幻想です、違いますか? 何かに執着することは幻想です、なぜなら、その何かは消え去ってしまうかもしれないからです。そのように、あなたが執着しているものはあなたがそれについて築き上げたイメージです。あなたは執着から自由になって義務ではない責任をもちえますか?
そうすると、執着しないとき、愛とは何ですか? もしあなたが何らかのナショナリティに執着しているなら、あなたはナショナリティの孤立を崇めます、そしてそれは祭り上げられた民族主義の一つの形です。それは何を行いますか? それは分離します、違いますか? もし私が途轍もなく私のヒンズー人としてのナショナリティに執着していて、あなたがドイツやフランス、イタリア、イギリスなどのナショナリティに執着しているなら、我々は分離します―そして戦争です、そしてそれら全てのあらゆる複雑さが進行します。それでは、もしあなたが執着を持っていないなら、何が起こりますか? それは愛ですか?
そのように、執着すると分離します。私は私の信念に執着します、そしてあなたはあなたの信念に執着します、従って我々は分離します。ただその成り行きを見てください、その意味することを見てください。執着が生じるところには分離が起こります、従って争いが起こります。争いが起こるところには、愛はおそらくありえません。執着やその意味する全てのことから自由なとき、その人と別の人との関係はどうなりますか? それはその始まりですか―私はその始まりという言葉をただ使っているだけですので、その言葉に飛び付かないでください―それは慈しみの始まりですか? ナショナリティを持たないとき、いかなる信念にも全く執着しないとき、いかなる結論にも、いかなる理想にも執着しないとき、人間は自由な人間であり、その人と別の人との関係は自由から、愛から、慈しみから生まれます。
宜しいですか、これら全ては気づきの一部です。それでは、あなたは、我々が執着の意味するものは何なのかを、その意味する全てを含めて、見て取ろうとしているとき、分析しなければならないのですか、それとも、あなたはそれを即座に余すことなく観察しえてから分析するのですか? その逆ではありません。我々は分析することに慣れています、我々の教育の一部は分析することです、そのように我々は多くの時間をそれに費やします。我々は全く異なることを提案しています、観察すること、余すことなく見ることです、それから分析するのです。そうすると、それは非常に単純なことになります。しかし、もしあなたが分析して、その全体に至ろうとするなら、あなたは間違うかもしれません、それはあなたが一般的に行うことです。しかし、何かを余すことなく観察すると、それは方向性を持たないことを意味しますが、分析が重要になることもあれば重要にならないこともあります、あなたが分析できることもあれば分析できないこともあります。
それでは、私はこのことから他のことを検討したいと思います。生の中に神聖な何かがありますか、それはこれら全ての一部分です。あなたの生の中に神聖な何かがありますか、聖なる何かがありますか? 言葉を除けて下さい、言葉やイメージ、シンボルから離れてください―それは非常に危険です―そして、あなたがそうするとき、自分自身に問うてください「私の生の中に本当に神聖な何かがあるのかと、それとも、あらゆるものが皮相的なのかと、あらゆるものが思考によって作り上げられているのか」と。思考は神聖ではありません、違いますか? あなたは思考と思考の作り上げてきたものが神聖であると思いますか? 我々はそのように条件づけられてきています、ヒンズー教徒として、仏教徒として、キリスト教徒として、我々は思考が作り上げてきたものを有難がるように、崇めるように、祈るように条件づけられています。そして、我々はそれを神聖と呼びます。
人は見つけ出さなければなりません、なぜなら、もしあなたが思考によって作り上げられてはいない本当に神聖な何かがあるのかどうかを見つけ出さなければ、生はもっともっと皮相的に、もっともっと機械的になるからです、そして人の死が全く意味のないものになるからです。宜しいですか、我々は考えることと思考の全プロセスにとても執着しています、そして我々は思考が作り上げてきたものを崇めています。イメージやシンボル、彫刻などは―手で作られたものであろうと、頭で作られたものであろうと―思考的なプロセスです。そして、思考は記憶であり、経験であり、知識です、そしてそれは過去です。そして過去が伝統になります、そして伝統が最も神聖なものになります。そのように我々は伝統を崇拝しています。思考や伝統とは何の関係もないものがありますか、それらの儀式やそれらが演じる全てのドタバタ劇とは何の関係もないものがありますか? 人は見出さなければなりません。
どのようにしてあなたは見つけ出しますか? 何らかのメソッドではありません、私が‘どのようにして’という言葉を使うとき、私は何らかのメソッドのことを言っていません。生の中に神聖な何かがありますか? 「絶対にない、あなたは環境の産物です、そしてあなたはその環境を変えることができます、だから神聖な何かについて決して話してはなりません。あなたは機械的な、幸福な個人です」と言う人間の一大文化圏があります。しかし、もし人が非常に、非常にこのことについて真剣なら―そして人は本当に胎の底から真剣である必要があります―あなたは唯物論者的文化圏に属しません、或いは、宗教的それに属しません、それもまた同様に思考に基づいています。そうすると、あなたは見つけ出さなければなりません。あなたは何も主張しません。そうすると、あなたは探究し始めます。
それでは、人の生の中に―生の中に、人の生の中ではなく―生きる中に深く神聖な何かが、聖なる何かがあるのかどうかを見出すために、人自身の中を検討するとはどういう意味ですか? 驚くべき、至高の、神聖な何かがありますか? それとも何もないのですか?
非常に穏やかな精神を持つことが必要です、なぜなら、正にその自由の中でだけ、あなたは見出すことができるからです。自由に見るのでなければなりません、しかし、もしあなたが「何というか、私は私の信念が好きです、私はそれにこだわります」と言うなら、あなたは自由ではありません。あるいは、もしあなたが「あらゆるものが物質的です」と言うなら―それは思考の活動ですが―そのときもあなたは自由ではありません。そのように、観察するためには、文明が押し付けるものや個人的な欲望、個人的な希望、偏った見方、願望、恐れなどから自由でなければなりません。あなたは精神が完全に静かなときに観察できるだけです。精神は完全に活動を脱落することができますか? なぜなら、もし活動があると歪むことになるからです。人はそれがひどく難しいと分かります、なぜなら、思考がすぐに入り込んでくるからです、そこで人は言います「私は思考をコントロールしなければならない」と。しかし、コントロールするものが正にコントロールされる当のものです。あなたがそのことを見て取ると、思考するものが正に思考されている当のものである、コントロールするものが正にコントロールされる当のものである、観察するものが正に観察されている当のものであると見て取ると、活動というものがなくなります。人は怒りが「私は怒っている」と言う観察者の一部であると悟ります、そのように、怒りと観察者は同じものです。それははっきりしています、それは単純なことです。同様に、思考をコントロールしたいと思う思考者は依然として思考です。人がそれを悟ると、思考活動は止みます。
精神の中にいかなる種類の活動もないとき、自然に精神は静かになります、何の努力もしないで、いかなる強制とも、いかなる意志とも無縁に、静かになります。それは自然に静まります、それは意識的に醸し出された静けさではありません、なぜなら、それは機械的だからです、それでは、それは静けさではなく、ただの静けさの幻想です。そのように自由が生まれます。自由は我々が話してきたそれら全てを意味します、そして、その自由の中に沈黙が生まれます、それは活動がないことを意味します。そうすると、あなたは観察できます―そうすると観察が起こります、そうすると観察だけになります、観察者が観察しているのではありません。そのように、余すことのない沈黙から観察しているだけになります、精神は完全に静まっています。そうすると、何が起こりますか?
もしあなたがそこまで行ったのなら―それは人が人の条件付けから自由になることであり、従って、活動というものがなくなり、完全な沈黙、静けさが生まれることです―叡智が働きます、違いますか? 執着の性質やその全ての意味することを見て取ることは、それに閃くことは、叡智の働きです。あなたがその地点まで行くときにだけ―それは自由になることであり、それと共に叡智が働くことです―あなたは穏やかで、健全で、正気な精神を手にするのですか? そして、その穏やかさの中で、 あなたは本当に神聖な何かがあるのかどうかを見出すでしょう、或いは全く何もないのかどうかを見出すでしょう。 (要約テキスト)
中野 多一郎 訳