クリシュナムルティをめぐりて

オーハイ・トーク 4 1955年 8月14日

クリシュナムルティ 理解するのに最も難しい問題の一つにこの変化の問題があるように私には思われます。我々は異なった形の発達があると見ます、いわゆる進化ですが、発達の中に根本的な変化があるでしょうか? この問題があなたの心に響いたかどうか、或いはあなたがそれについて考えたことがあるのかどうか私は知りませんが、恐らく今朝この問題を検討することは価値があるでしょう。
 我々はその言葉の明らかな意味で発達があると分かります、新しい発明があり、より良い車があり、より良い飛行機があり、より良い冷蔵庫があり、発達する社会の表面的な平和などがあります。しかしそのような発達は人の中に、あなたや私の中に根本的な変化をもたらしますか? それは表面的に我々の生の行動の仕方を変えますが、それは根本的に我々の思考を変質させますか? この根本的な変質はどのようにもたらされるのですか?
 これはよく考えるに値する問題だと私は思います。自己の向上の中に発達があります―私は明日もっと良くなり、もっと親切になり、もっと寛大になり、それほど妬ましくなくなり、それほど野望を抱かなくなります。しかし自己の向上は人の思考の中に完全な変化をもたらすでしょうか? それとも変化は全く起こらずに、ただ発達があるだけですか?
 発達は時間を意味します、違いますか? 私は今日これで、明日はもっと良いでしょう。つまり、自己の向上や自己否定や自己犠牲の中に発達があります、より良い生へ向かう段階的進歩観があります、そしてそれは環境に表面的に適応することや、発展したパターンへ順応することや、より高尚な仕方で条件づけられることなどを意味します。我々はそのようなプロセスがいつも起こっていることが分かります。あなたは私と同じように発達が根本的な革命をもたらすのかどうか疑問に思ったことがあるに違いありません。
 私にとって大切なことは発達ではなく革命です。どうかその革命という言葉を怖がらないで下さい、この国のような非常に発展した社会では殆どの人がこの言葉を怖がります。しかし我々が単なる社会的改良ではなく我々の見方の根本的な変化をもたらす途方もない必要性を理解しなければ、単に発達は悲しみの中の発達であると私には思われます。それは悲しみを和らげたり、悲しみを鎮めたりするかもしれませんが、それは悲しみの消滅ではなく、悲しみはいつも潜んでいます。結局、ある時間をかけて良くなるという意味の全ての発達は、実際には自己や“私”やエゴのプロセスです。自己の向上の中には発達があります、明らかに、それは善くいよう、もっとこれでいよう、あれではないようにしようなどと決意した努力です。冷蔵庫や飛行機に進歩があるように自己にも進歩がありますが、その進歩、その発達は精神を悲しみから自由にしません。
 従って、もし我々が悲しみの問題を理解して、それに終止符を打ちたければ、我々は恐らく発達という観点から考えることができません、何故なら発達や時間という観点から考えて明日幸せになると言う人は悲しみの中を生きているからです。この問題を理解するためには、人は意識の全問題を検討しなければなりません、違いますか? これは難しすぎるテーマですか? 私は続けます、我々は分かるでしょう。
 もし私が本当に悲しみや悲しみの消滅を理解したいのなら、私は発達の意味が何であるかだけではなく自己を発達させたいと思うその当のものが何であるのかを見出さなければなりません、そして私は発達しようとする動機も知らなければなりません。これら全てが意識です。日常的活動の表面的な意識があります、仕事であり、家族であり、社会的な環境への神経症を伴った、幸せな、安易な、或いは矛盾する適応です。そして意識のより深い次元があり、それは何世紀にも及んで人間が広く社会的に受け継いだもので、存在する意志や変えようとする意志、何かになろうとする意志です。もし私が私自身の中に根本的な革命を生み出そうとするなら、明らかに私はこの意識の全発達を理解しなければなりません。
 人は発達が明らかに革命をもたらさないことは分かります。私は社会的或いは経済的な革命を話しているのではありません―それは非常に表面的です、殆どの我々がそれには同意すると私は思います。一つの経済的或いは社会的なシステムを投げやって他のシステムを打ち立てるとある種の価値が変わります、ロシアや他の歴史的な革命がそうであるように。しかし私は心理的な革命を話していて、それは唯一の革命であって、宗教的な人こそがその革命の状態の中にいるのに違いありません、私はそのことを間もなく検討します。
 この発達の問題に取り組むときには、意識の全過程に気づくことが、意識の全過程の理解がなければなりません。お分かりでしょうか? 意識が何であるのかを私が本当に理解するまでは、単なる表面上の適応は社会学的な意義を持ち、恐らくより良い生活、より多くの食べ物、アジアの飢餓の減少、戦争の減少をもたらすかもしれませんが、悲しみの根本的な問題を決して解決できません。悲しみをもたらす衝動を理解し解決し乗り越えることなしには、単なる社会的な適応は悲しみのあの潜在的な種子の継続です。従って私は意識が何であるのかを理解しなければなりません、どのような哲学や心理学やどのような記述にもよらずに、私の意識の実際の状態を、その全内容を直接経験することによって理解しなければなりません。
 宜しいですか、恐らく今朝、あなたと私はこのことを試みることができます。私は意識が何であるのかを描写します、しかし私がそれを描写しているとき、その描写に従わないで下さい、むしろあなた自身の思考のプロセスを観察して下さい、そうするとあなたは意識が何であるのかを様々な専門家が見つけた矛盾するどのような記述も読むことなく自分自身で知るでしょう。お分かりでしょうか? 私は何かを描写しています。もしあなたが単にその描写を聞いているだけなら、それには殆ど意味がありません、しかしもしその描写を通して、あなたがあなた自身の意識を経験しているなら、あなた自身の思考のプロセスを経験しているなら、そのことは今途轍もない重要性を持つでしょう、明日ではなく、それについて考える時間がある他の日ではありません、それは絶対的に無意味です、何故ならそれは単に引き延ばしにすぎないからです。もしその描写を通して、あなたがあなた自身の意識の実際の状態をここに静かに座りながら経験できるなら、あなたは精神が広く受け継いでいるその条件づけからそれ自身を、社会の全ての収集蓄積や命令からそれ自身を自由にできて自己意識を超えることができるのが分かるでしょう。従ってもしあなたがこのことを試すなら、それは価値のあることでしょう。
 我々は意識が何であるのかを我々自身で発見しようとしています、精神が悲しみから自由でいることができるのかどうかを発見しようとしています―悲しみのパターンを変えることではなく、悲しみの牢獄を飾ることではなく、悲しみの種子から、悲しみのルーツから完全に自由でいることです。それを探究しているとき、我々は発達と心理的な革命の違いが分かるでしょう、心理的な革命はもし悲しみからの自由があるなら欠くことができません。我々は意識の振る舞いを変えようとしているのでもないし、意識に何かを働きかけようとしているのでもなく、我々はそれをただ見ているだけです。確かに、もし我々が観察しているなら、何かに少しでも気づいているなら、我々は表面的な意識の活動を知ります。我々は精神が表面上活動的でも、適応することや仕事、生計を得ること、何らかの傾向や才能や技量を表現すること、何らかの技術的な知識を獲得することなどで塞がれていることが分かります、そして殆どの我々はその表面上の生に満足しています。
 どうか私があなたに言っていることに単に従うのではなく、あなた自身を見つめて下さい、あなた自身の考え方を見守って下さい。私は我々の日常生活の中で表面的に起こっていることを描写しています―気が散ること、逃避、時折恐怖に陥ること、妻や、夫、家族、社会、伝統などへの順応です―そしてそのような表面的なことに殆どの我々は満足しています。
 それでは我々は表面下にあるこの表面的な順応の動機が分かりますか? もう一度繰り返しますが、もしあなたがこの全プロセスに少し気づくなら、あなたは意見や価値への順応、この権威の受け入れなどは自己の継続や自己防御が動機であるのを知ります。もしあなたが更に深く見ることができるなら、あなたは人種的国家的集団的本能のこの壮大な底流を発見するでしょう、人間の苦闘や知識や努力の全収集蓄積、ヒンズー教徒や仏教徒やキリスト教徒の教条や伝統、何世紀にもわたるいわゆる教育の残滓などがあるのを発見するでしょう―それら全てが精神を何らかの受け継がれたパターンへ条件づけます。そしてもしあなたが更に深く行けるなら、何かでいようとする、成功しようとする、何かになろうとするそもそもの欲望があり、それが自身を様々な形の社会活動で表面的に表現して深い根をもつ不安や恐れを作り出します。非常に簡単に言えば、それら全てが我々の意識です。言い換えれば、我々の思考は何かでいようとする、何かになろうとするこの根本的な衝動に基づいていて、その頂点に伝統や文化や教育の多くの層があり、既存の社会の表面的な条件づけがあります―全てが我々を生き残らせるパターンへ我々を順応させます。多くの細部や微妙な点はあっても本質的にはそれが我々の意識です。
 それでは宜しいでしょうか、その意識内のどのような発達も自己の発達であり、自己の発達は悲しみの中の発達であり、悲しみの消滅ではありません。このことはもしあなたがそれを見て取れば全く明らかです。もし精神が全ての悲しみから自由であることに関心があるのなら、精神は何をしたらよいのでしょうか? あなたがこの問題を考えたことがあるのかどうか私は知りませんが、どうかそれを今考えて下さい。
 我々は苦しんでいます、違いますか? 我々は身体的な病、病気だけではなく、孤独でも、我々の存在の貧しさでも苦しんでいます、そして我々は愛されていないので苦しんでもいます。我々が誰かを愛するとき、愛で応じてもらえずに悲しみが生じます。あらゆる場面で、考えることは悲しみが満ちることであり、従って考えないことがましであると思われ、我々は何らかの信仰を受け入れ、その信仰の中で我々は沈滞します、そしてそれを我々は宗教と呼びます。
 それでは、もし精神が自己の発達や発達を通じては悲しみが消滅しないと分かると、それは極めて明らかですが、精神は何をしたらよいのでしょうか? 精神はこの意識を、それらの様々な衝動と矛盾する欲望を乗り越えることができるのでしょうか? そして乗り越えることは時間の問題でしょうか? どうかこのことに付いてきて下さい、単に言葉だけではなく実際に。もしそれが時間の問題なら、あなたは再び別のことの中に戻っています、それは発達です。それが分かりますか? 意識の枠組みの中では、いかなる場面のどのような活動も自己の発達です、従ってそれは悲しみの継続です。悲しみはコントロールされるかもしれませんし、規律を課せられたり、従属させられたり、合理化されたり、超洗練化されたりするかもしれませんが、悲しみの潜在的な質は依然としてそこにあります、そして悲しみから自由になるためにはこの潜在的なものから、“私”或いは自己というこの種子から、何かになろうとする全プロセスから自由でなければなりません。乗り越えるためには、このプロセスの消滅がなければなりません。しかしもしあなたが「どのようにして私は乗り越えるのでしょうか」と言うなら、その「どのようにして」がメソッドや実践になり、それは依然として発達なので乗り越えることではなく、悲しみの中で意識を洗練化させているのに過ぎません。あなたがこのことを分かってきていると私は願います。
 精神は発達や進歩や時間という点から考えます、そしてそのような精神は、いわゆる発達が悲しみの中の発達であることが分かると、消滅することができるでしょうか―時間の中ではなく、明日ではなく、即座にです。そうではないとあなたは決まりきった全体の中に、悲しみの流転の中に再び戻ってしまいます。もし問題がはっきり述べられていて、はっきり理解されているなら、あなたは絶対的な答えを見つけるでしょう。私は絶対的という言葉をその正しい意味で使っています。その他の答えはありません。
 つまり、我々の意識はいつも順応しよう、修正しよう、変えよう、吸収しよう、拒絶しよう、価値評価しよう、非難しよう、正当化しようともがいています、しかし意識のそのようなどの活動も依然として悲しみのパターンの中の活動です。その意識の中のどのような活動も、夢であれ、意志を働かせることであれ、自己の活動であり、自己のどのような活動も、最高位を目指すものであれ、もっとも通俗に堕するものであれ、悲しみを生みます。精神がそれを見て取ると、そのような精神には何が起こるのでしょうか? 問題がお分かりでしょうか? 精神がその真理を見て取ると、単に言葉ではなく余すことなく見て取ると、問題が起こるでしょうか? 私がガラガラ蛇を見て、それには毒があると分かるなら、問題が起こるでしょうか? 同様に、もし私が苦しみのこのプロセスに余すことなく気をつけていられるなら、精神は苦しみを超えているのではないでしょうか?
 どうかこのことに付いてきて下さい。我々の精神は悲しみと悲しみを取り除くことで塞がれていて、それを乗り越えようとしたり、それを減じようとしたり、それを修正しようとしたり、それを洗練化しようとしたり、様々な方法でそれから逃げ去ろうとしたりしています。しかしもし私が単に表面的ではなく徹底的に、この正に精神が悲しみで塞がれていることは悲しみを作り出す自己の活動であると分かると―もし私が本当にその真理を見て取ると、精神は我々が自己意識と呼ぶこの当のものを乗り越えているのではないのですか? 
 言い方を変えると、我々の社会は妬みに、所有欲に基礎をおいています、ここアメリカだけではなく、ヨーロッパでもアジアでもそうです、そして我々はその社会の産物であり、それは何世紀も、何千年と続いてきています。宜しいですか、どうかこのことに付いてきて下さい。私は私が妬みを抱いていると分かります。私はそれを洗練させることができますし、それをコントロールできますし、それに規律を課すことができますし、慈善的な活動や社会的な改革などのその代替物を見つけることができます、しかし妬みはいつもそこにあり、それは潜在的で、いつでも湧き出す用意ができています。そうすると、精神はどのようにして妬みから余すことなく自由になるのでしょうか? 何故なら妬みは否応なく争いをもたらすので、妬みは創造性のない状態であり、創造性が何であるのかを見出したいと思っている人は明らかに全ての妬みから、比較することの全てから、何かでいようとする、何かになろうとする衝動から自由でなければなりません。
 妬みは我々が言葉でその姿形を作り出す感情です。我々はそれを言葉にすることによって、それに妬みという言葉を与えることによって、その感情の姿形を作り出します。私はゆっくり行きます、どうかこのことに付いてきて下さい、というのはそれが我々の意識の描写だからです。ある感情の状態があり、私はそれを言葉にして、私はそれを妬みと呼びます。その正に妬みという言葉は非難めいていて、それには社会的、倫理的、精神的な意義があり、それは私が教育されてきた伝統の一部であり、その言葉を使うことによって私はその感情を非難してきました、そしてこの非難の過程が自己の発達です。妬みを非難する中で、私は反対の方向へ発達していて、それが妬みの非在ですが、その活動は依然として妬みを抱く中心から起こっています。
 それでは、精神は言葉にすることを止めることができますか? 嫉妬や欲望や何かになろうとする野望などの感情が起こるとき、精神は、言葉の中で、非難する中で、それを言葉にする中で教育されてきた精神は、その言葉にする全過程を止めることができますか? このことを試してみて下さい、そうするとあなたは感情を言葉にしないことがどんなに途方もなく難しいか分かるでしょう。感情と言葉にすることが殆ど同時に起こります。しかしもし言葉にしないなら、その感情が起こりますか? 言葉にしないとき、その感情は持続しますか? あなたはこれらに付いてきていますか、それともそれは抽象的すぎますか? 同意したり同意しなかったりしないで下さい、何故ならこれは私の生ではなく、それはあなたの生だからです。
 感情を言葉にすること、それに言葉を与えるこの全問題は意識の問題の一部です。愛という言葉を例にとりましょう。何とすぐにあなたの精神はその言葉を嬉しがるのでしょう! それにはそのような意義、そのような美、くつろぎやその他のあらゆるものがあります。そして憎しみという言葉には即座に全く他の意義があります、避けるべき何か、取り除くべき何か、遠ざけるべき何かなどの意義があります。そのように言葉には、我々がそれを意識しようと意識しまいと、精神に途方もない効果があります。
 それでは、精神はそれら全ての言語化から自由でいられるでしょうか? もしそれができるなら―そうでなければなりません、そうでないと精神は恐らくさらに進むことができません―次の問いが起こります、経験とは別に経験する者がいるのかという問いです。もし経験とは別に経験する者がいるなら、精神は条件づけを受けています、何故なら経験する者はいつも経験を収集蓄積していたり経験を拒絶していたりしていて、あらゆる経験を経験する者自身の好き嫌いという点から、経験する者の背景や条件づけから解釈しているからです、そしてもし経験する者が何らかのビジョンを持っているなら、それをイエスであるとか、大師であるとか、その類の何らかの愚かなナンセンスであると考えるのです。従って経験する者がいる限り、苦しみの中の発達があり、それは自己意識の過程です。
 宜しいでしょうか、それら全てを乗り越えるためには、超越するためには、途轍もなく気をつけている必要があります。取捨選択することもなく、何かになろうとする、変わろうとする、何かを変えようとする感じもない、この余すことなく気をつけていることが精神を自己意識の過程から全く自由にします、そうすると収集蓄積している経験者はいなくなり、そのときのみ精神は悲しみから自由であると本当に言うことができます。収集蓄積こそが悲しみの原因です。我々はあらゆるものを日々死んでやり過ごしていません、我々は数知れない伝統を、家族を、我々自身の経験を、他の人を傷つけようとする我々自身の欲望を死んでやり過ごしていません。人はそれら全てを一瞬一瞬死んでやり過ごさなければなりません、それらの壮大な収集蓄積された記憶を死んでやり過ごさなければなりません、そうするときのみ精神は自己から、収集蓄積する当のものである自己から自由です。
 恐らく、この問題を一緒によく考えている中で、我々は既に言われてきたことを明瞭にするでしょう。

質問者(Q) 潜在意識とは何ですか、それは条件づけられていますか? もしそれが条件づけられているなら、人はどのようにしてその条件づけから自由になるのでしょうか?
クリシュナムルティ(K) 最初に、我々の意識は、起きて覚めている意識は条件づけられていないですか? 条件づけられているという言葉が意味するものをあなたは理解しますか? あなたはなんらかの仕方で条件づけられています。あなたはこの国でアメリカ人であることを条件づけられています、それが何を意味しようと、あなたはアメリカ的な生き方の中で教育されています、そしてロシアでは彼らはロシア的な生き方の中で教育されています。イタリアではカトリック教が子供たちをある仕方で考えるように教育します、それは別の形の条件づけです、一方インドでもアジアでも仏教国で彼らは依然として他の方法で条件づけられています。世界中に教育を通じて、社会的な環境を通じて、恐れを通して、仕事を通じて、家族を通じて―宜しいですか、表面的な精神に、起きて覚めている意識に影響する数知れない方法で―精神を条件づけるこのじっくりと考え抜かれたプロセスが存在します。
 それから潜在意識があります、つまり表面下の精神の層です、そして質問者はそれが条件づけられているのかどうかを知りたいと思います。それは条件づけられていませんか―あらゆる人種的な思考によって、隠れた動機や欲望によって、ある特定の文化の本能的な反応によって条件づけられていませんか? 私はヒンズー教徒であると、インドで生まれて海外で教育などされたヒンズー教徒であると考えられています。私が潜在意識を検討してそれを理解するまで、私は依然としてあらゆるブラフマン的な、象徴的な、文化的な、宗教的な、迷信的な反応を抱いたヒンズー教徒です―それらはそこに眠っていて、何らかの瞬間に呼び覚まされ、夢を通して、意識的な精神が完全に何かに占領されていないときに警告したり仄めかしたりします。従って潜在意識もまた条件づけられています。
 もしあなたがそれを検討するなら、我々の全意識が条件づけられていることは極めて明らかです。条件づけられていないあなたのどの部分も、どのような高位の自己もありません。あなたの思考は、意識的であろうと無意識的であろうと、正に記憶の結果です、従ってそれは条件づけの結果です。あなたは共産主義者として、社会主義者として、資本主義者として、アメリカ人として、ヒンズー教徒として、カトリック教徒として、プロテスタント教徒として或いは他の何かとして考えます、何故ならあなたはそのように条件づけられているからです。あなたは神を信じるように条件づけられています、もしあなたがそうなら、そして共産主義者はそうではありません。彼は笑ってあなたに言います「あなたは条件づけられている」と、しかし彼自身が条件づけされて、彼の社会によって、彼が属する党によって、その文化によって神を信じないように教育されています。そのように我々は誰でも条件づけされていて、我々は決して問いません「条件づけから余すことなく自由であることは可能か」と。我々が知っていることの全ては条件づけの中で洗練する過程であり、それは悲しみの中で洗練することです。
 宜しいですか、もし私がそれを見て取ると、単に言葉の上ではなく、余すことなく気をつけていてそれを見て取ると葛藤が起こりません。私の意味することが分かりますか? あなたが全身で何かに気をつけているとき、つまり、あなたが何かを理解するためにあなたの精神を完全に注いでいるときは葛藤が起こりません。葛藤はあなたが部分的に興味を持ちながら部分的に他の何かを見ているときのみ起こります、そしてあなたはその葛藤を克服したいと思って精神を集中し始めます、しかしそれは気をつけていることではありません。気をつけているときには分断がありませんし、気の逸脱がありません、従って努力や葛藤がありません、そしてそのように気をつけていることでのみ自己知がありえて、それは収集蓄積的ではありません。
 どうかこのことに付いてきて下さい。自己知は収集蓄積される何かではなく、それは一瞬一瞬発見されるものであり、発見するためには収集蓄積はありえなく、参考になるものもありえません。もしあなたが自己知を収集蓄積するなら、それ以降の全ての理解がその収集蓄積によって指示されるので理解が生まれません。
 従って、精神は全ての条件づけに余すことなく気をつけている気づきの中でのみ超えることができます。その余すことなく気をつけているときには修正する者も、批評する者も、「私は変わらなければならない」と言う当の者もいなくて、それは経験する者の完全な消滅を意味します。収集蓄積者としての経験者がいません。どうか、これは理解するために本当に大切なことです。何故なら、結局のところ、我々が何か素敵なことを経験するとき―夕陽であれ、樹木の中で踊る一枚の木の葉であれ、川面の月光であれ、笑顔であれ、ビジョンであれ何であれ―精神はそれを即座に捉えたいと、それを取っておきたいと、それを崇めたいと思いますが、それはその経験の繰り返しを意味していて、繰り返したいという衝動があるときには、悲しみがあるに違いありません。
 経験する者なしに経験する状態の中にいることは可能ですか? お分かりでしょうか? 精神は醜さや美しさを、或いは何であろうと「私は経験しました」と言う当のものなしに経験できますか? 何故なら、真理や神や計り知れないものは、経験する者がいる限り、決して経験されえないからです。経験する者は認識する当のものであり、もし私が真理を認識できるなら、私はすでにそれを経験していて、私はそれを知っているのです、従ってそれは真理ではありません。それが真理の美であり、それは時間とは無縁に未知のままです、そして既知の結果である精神は決してそれを捉まえることができません。
 あなたは全ての衝動は本質的に同じであると言ってきました。あなたは神を追求する人の衝動は女性を追い求める人や飲酒におぼれる人の衝動と違いがないと言うのですか?
 衝動は全て同じではありませんが、それらは全て衝動です。あなたには神へ向かう衝動があるかもしれませんし、私には飲酒したいという衝動があるかもしれませんが、我々は共に強いられ、衝き動かされています―あなたはある方向へ、私は別の方向へ。あなたの方向は賞賛され、私の方向はそうではありません、それどころか、私は反社会的です。しかし精神が徳や神で占められている遁世者や僧やいわゆる宗教的な人は本質的に精神がビジネスや女性や酒で占められている人と同じです、何故ならそれらの精神は何かに占拠されているからです。お分かりでしょうか? 一方は社会的に価値があり、他方は、酒で精神が占められている人は社会的に不適合です。従ってあなたは社会的な観点から判断しています、違いますか? 僧院に籠って朝から晩まで祈りをし、一日のうちのある時間を庭の手入れで過ごし、その精神が神や自己懲罰や自己規律や自己自制で占められている人―あなたはその人を非常に神聖な人、極めて途方もない人と思います。一方、ビジネスを追い求め、株式を操作し、いつもお金を稼ぐことで精神が占められている人をあなたは「他の我々のようにただの凡庸な人」と言います。しかしその人たちは共に何かで精神が占められています。私にとっては、精神が何で占められているかは重要ではありません。神で精神が占められている人は決して神を見つけないでしょう、何故なら神はそれによって精神が占拠される何かではないからであり、それは未知なものであり、計り知れないものです。あなたは神であなた自身を塞ぐことはできません。それは神を考える安直な方法です。
 意義があるのは精神が何で占められているかではなく、精神が何かで占められている事実です、それが台所で占められていようと、子供たちで占められていようと、娯楽で占められていようと、どんな食事をしようかで占められていようと、徳や神で占められていようと問題ではありません。精神は何かで占められていなければなりませんか? お分かりですか? 何かで占められている精神は新しい何かを、それ自身が何かで占められていることを除いて何かを見ることができますか? もしそれが何かで占められていないとすると何が起こりますか? お分かりですか? もし何ものにも占領されていないとすると精神は存在しますか? 科学者はその技術的な問題やその力学やその数学で精神が占められています、同じように主婦は台所や子供たちで頭が一杯です。我々はみな何かで精神が占められていないことを恐れます、そのことが社会的に意味することを恐れます。もし人が何かで占められていないなら、人はある通りの自分自身を発見するかもしれません、従って何かで占められていることは現実の自分からの逃亡です。
 では、精神は絶えず何かで占められていなければなりませんか? 精神が何かで占められていないことは可能ですか? 宜しいですか、私は答えのない問いをあなたに投げかけています、何故ならあなたは見つけ出さなければならないからです、そしてあなたが正に見つけ出すとき、あなたは途方もないことが起こっているのが分かるでしょう。
 精神が何かで占められていることを自分自身で発見することは非常に興味深いことです。芸術家はその芸術で、その名前で、その発達で、色の調合で、名声で、悪評で精神が占められています、そして知識の人はその知識で精神が占められ、自己知を追求している人はその自己知で精神が占められていて、小さな蟻のようにあらゆる思考やあらゆる活動に気づこうとしています。彼らはみな同じです。余すことなく何ものにも占領されていない、完全に空虚な精神のみが―そのような精神のみが新しい何かを感受できます、そしてその中には精神を占拠する何ものもありません。しかしその新しいものは精神が何かに占拠されている限り生まれえません。
 あなたは何かで占められている精神は真理や神を感受できないと言います。しかしもし私が私の仕事で私の精神が占められていないなら、どのようにして私は生計を得られるのですか? あなたはあなた自身これらのトークであなたの精神が占められているのではないのですか、そしてそれがあなたの生計を得るあなたなりのやり方ではないのですか?
 私の精神が私のトークで占められているとは何としたことでしょう! そういうことはありません。これは私の生計を得る手段ではありません。もし私の精神が何かで占められているなら、思考の間に空隙がなく、何か新しいものを見るために欠くことのできないあの沈黙がないでしょう。そうすると話すことが全く退屈になるでしょう。私は私自身のトークによって退屈でいたくありませんので、私は記憶に基づいて話していません。それは全く異なる何かです。それは問題ではなく、我々はそのことを他のときに検討するでしょう。
 質問者は問います、もし彼の精神が彼の仕事で占められていないなら、彼はどのようにして彼の生計を得るのですかと。あなたはあなた自身をあなたの仕事で塞いでいますか? どうかこのことに耳を傾けて下さい。もしあなたがあなたの仕事で塞がれているなら、あなたはあなたの仕事を愛していません。その違いが分かりますか? もし私が私の行っていることを愛しているなら、私はそれで塞がれていません、私の仕事は私と別ではありません。しかし我々はこの国で、そして不幸なことにそれが世界中で習慣になっていますが、我々が愛していない仕事上の技術を獲得するように訓練されています。少数の科学者や技術的な専門家や技術者がその言葉の紛れもない意味で彼らの行うことを本当に愛しているかもしれません、そのことを私は間もなく説明しようと思います。しかし殆どの我々は我々が行っていることを愛していなくて、それが生計を得ることに我々が塞がれている理由です。もしあなたがそれを本当に検討するなら、その二つの間には違いがあると私は思います。もし私がいつも野望に駆られていて、私の仕事を通して何らかの目標を果たそうとしていたり、何ものかになろうとしていたり、成功しようとしていたりしたら、どうして私は私の行っていることを愛することができますか? 芸術家がその名前や、その偉大さや、比較や、その野望を果たすことに関心があるなら、その人は芸術家であることを止めていて、その人は他のみんなと同じように単なる技術者にすぎません。それが意味するのは、実際に、何かを愛するためにはあらゆる野望、腐っている社会(笑)の―皆さん、どうか笑わないで下さい―社会的な認知を願うあらゆる欲望の余すことのない消滅がなければならないということです。我々はそのように訓練されていませんし、そのように教育されていなくて、我々は社会や家族が敷くレールに乗らなければなりません。何故なら我々の先祖は医者であり、弁護士であり、技術者であったので、私は医者や弁護士や技術者にならなければならないからです。そして今はより多くの技術者がいなければなりません、何故ならそれが社会の要求することだからです。従って我々は物事そのものへのこの愛を失っています、もしわれわれがそれを持っていても、私はそれを疑いますが。あなたが何かを愛するとき、あなたはそれで塞がれることはありません。精神は何かを成し遂げるのを見て見ぬふりをして他の誰かより良くなろうとはしません、そしてあらゆる比較や競争或いは成功や成就を願う全ての欲望が余すことなくなります。野望を抱く精神のみが何かに塞がれています。
 同様に、神や真理で塞がれている精神は決してそれを見つけることができません、何故なら精神が塞がれているその当のものを精神はすでに知っているからです。もしあなたが計り知れないものをすでに知っているなら、あなたが知っているものは過去の産物であり、従ってそれは計り知れないものではありません。真実は計られないので、それで精神が塞がれることはありません、精神の静寂があるだけであり、何の活動も起こらない空虚があるだけです―そのときのみ未知のものが生まれえます。
                          1955年 8月14日 オーハイ
                                  中野 多一郎 訳