クリシュナムルティをめぐりて

真理は争いを消滅させる触媒です

 私は、もし宜しければ、これがエンターテイメントではないことを指摘したいと思います。これは真剣な集まりであって、我々は生の様々な事柄を一緒に探究しようとしています。そしてこれは一般的に理解されているような講話でもありません。講話は知識を与えることや教えること、人を何らかの特別な仕方で考えるように勧めること、或いはとても知識的に徹底的に教え込まれることを意味します。従ってこれは講話ではありません。或いはそれは何らかの観念や信念或いは何らかのロマンチックな或いは合理的な結論を広めるためのプロパガンダでもありません。それよりも我々は我々の日常生活の多くの複雑な問題を一緒によく考えようとしています。話し手はあなたに何かを確信させようとしているのでもなければ、何らかのロマンチックでエキゾチックな或いは何らかの哲学的な概念や理想をあなたが受け入れるように勧めているのでも決してありません。完全にはっきりさせておかなければならないことは、我々が励ましたり刺激を与えたりしているのでもなければ、何らかの仕方を指示しているのでもないことです、それどころか、あなたと話し手は一緒になって我々が抱えている多くの事柄や問題を正に検討しようとしています。あなたは話し手に耳を傾けているだけではなく、あなたは話し手に耳を傾けているけれども、あなたはあなた自身の反射的な反応やあなた自身の結論、あなた自身の経験を見守っていてよく考えてもいます。
 そして我々は問うています、疑っています、冷笑することなく大いなる懐疑の念を抱いています、何故なら多くの人たちが非常に騙されやすいからです。我々は専門家によって、それが哲学に関わる専門家であろうと、心理学や科学や生物学などに関わる専門家であろうと、我々は専門家によって騙されやすくなっています。我々は自分自身や権威を、知っていると称する人たちや何かを主張する人たちを、取り分けアジアの国々から奇妙な信念や宗教的な教義や迷信を携えて来る人たちを決して問わないように思われます。ですからどうかこれらのトークや質疑応答の正に最初から、我々はあらゆるものを問うています。我々は大いなる懐疑の念を抱いています、話し手の話すことをも含めて大いなる懐疑の念を抱いています、我々はそれを問うています、それを疑っています、もし敬意をこめて指摘させていただくなら、我々は何が真実であるのかを明らかにし、言葉の意味だけではなく言葉の背後にあるものや言葉の内容の背後にあるものをつかめるほど鋭敏であろうとしています。言葉の語源的な意味だけではなく、その質、その美、言葉の力強さです。何故なら殆どの我々が言葉の網の目に囚われているので、我々の思考過程の全てが何らかの言語化であったり、絵やイメージを作っていたりしているからです、そして我々はそれら全てに囚われているので我々は言葉から決して実際には自由ではなく、言葉や言葉による説明や描写を超えていく用意ができていないからです。
 我々は今日とこの後の何日間は以下のことについて非常に明確であってほしいと思います。つまり話し手には何の権威もありませんし、彼は何らかのプロでもなければ、何らかの種類の専門家でもありません、何故なら話し手にとってそれはとてもぞっとすることだからであり、何かについての専門家であることは話し手にとってぞっとすることだからです。しかし我々は一緒に、正に一緒に、人間の精神の非常に複雑な構造の中へ、現実の我々の非常に複雑な構造の中へ、なぜ我々は現にこのように振舞っているのか、なぜ我々はこれら全ての混み合った思考を抱いて次から次へと果てしなく喋り続けているのかの非常に非常に長い旅路を、時間とは無縁の旅路を歩めたらと思います。我々は一緒に仲良く、友達同士が行うように、これまで表面的に我々が触れてきた領域の中へ長く歩を進められたらと思います、表面的に我々はプロたちによる、心理学者たちや精神科医たちによる、生物学者たちによる、考古学者たちなどによる数知れない描写や説明を手にしています。しかし我々はそれら全てをしばらくの間脇へ除けられたらと思います、それらは他のときに恐らく何らかの価値があるかもしれませんが、しかし今朝は二人の友人が彼らの問題を話すように行えたらと思います。
 我々は問題を抱えています、生は問題で満ちています、我々が生まれた瞬間から死ぬまで生は問題で満ちています。そして我々はそれらのいずれの問題も解決できないように思われます。反対に文明が、その言葉が何を意味しようと、文明が進むと我々は問題を増殖しているように思えます。そして我々は全ての問題から決して自由になれないように思われます、我々は問題が引き起こす影の微塵もない生を全く送ることができないように思われます。これら全ての中へ我々は歩を進めていきます。あなたはその旅路に責任があります、何故ならあなたはここへ来ているからです、かなり暑いけれども、そしてあなたがたばこを吸わないように気をつけていることを願います、というのはそれがとても危険だからです。
 なぜ五万年かそれ以上或いはそれ以下を経て我々は現にあるとおりの我々なのかを明らかにすることは人間としてあなたの責任です。最も原始的な頭脳から我々が持っている高度に洗練された頭脳への長い進化の過程で、なぜ膨大な経験や知識、出来事、いわゆる進化のこれら全ての過程で、なぜ我々は依然として現にあるとおりの我々なのか―心理的に原始的で、憎み合い、暴力的で、迷信的で、互いを殺し合い、権威を次から次へと受け入れているのか。私はあなたがこの国の中にあなたにドレスの着方を教えたり、化粧の仕方を教えたり、セックスの仕方を教えたり、赤ん坊を育てる仕方を教えたり、読み方を教えたりする専門家がいることに気づいたかどうか知りません。そして全ての政治家があなたにあなたの行うべきことを告げます。もしあなたが気づいたら…恐らくあなたは近くにいすぎて気づきません、あなたが海外からこの国に来ると、あなたはそれら全てを初めからもう一度気づきます。彼らはあなたに言います、新聞や雑誌、聖職者、伝道師、権威、専門家、熟練者など、誰もがあなたにあなたの行うべきことを告げます。そしてこれが自由の国であると考えられています、あなたは物事を自分自身で考えることができ、あなた自身の生を、正しくとも正しくなくとも、取り扱えることができる自由な人間であると考えられています。このような若い国がなぜ専門家の労苦にそれほどまで囚われて、我々自身の内面的な安定性や明晰性や行動感覚を失っているのか私には疑問です。私はあなたがそれら全てに気づいたかどうか知りません。恐らく話し手は誇張しているのかもしれません、しかし私はそれが誇張であるのかどうか疑います。彼は海外から来て一週間、あらゆるテレビに耳を傾けます、あらゆるチャンネル、十三のチャンネルに耳を傾けます、新聞や雑誌に目を通し、何人かの専門家と話します、そして伝道師たちに耳を傾けます―何てことでしょう、何と大勢の人たちでしょう! そして明らかにこの国は面白いことや成功することやお金や快楽を表面的に手に入れる仕方に熱心です。あなたもこれら全てに気づいたのに違いありません。
 そのように世界中で支配的な勢力を伸ばしているのがこの国であり、アジアからインドからヨーロッパから人々がみなアメリカへ、合衆国へ行きたがります、沢山お金を稼ぐためだけではなく、発明の能力を手にするためなどでも人々は行きたがります。
 従ってどうか、もしもう一度指摘させてもらえるなら、我々は専門家ではありません、我々はプロではありません、我々はあなたに何かを教えているのでは全くありません、或いはあなたに何をすべきかを告げているのでは全くありません。そうではなく、我々はむしろ大いに単純でいて、大いなる愛情を抱いて、一緒に歩きましょう。
 一緒に我々は非常に早く或いは非常にゆっくり歩きます。しかし一緒にこの世界の不正を探究します、そして正義があるのかどうか、なぜ人間は互いに傷つけ合うのか、お互いに殺し合うのか、なぜ信念や信仰や理想が世界中で人々を分断しているのかを問います。ロシアのイデオロギーと民主主義のイデオロギーが戦争しているように。世界中で武器が蓄積されています、最も貧しい国においてさえもそうです。あなたはこれら全てに確かに気づいているに違いありません。そのように世界中の誰もが互いに殺し合う用意をしています。特殊な種類の戦争に対して、中性子爆弾のそれであろうと原子爆弾のそれであろうと、反対するデモが起こります。しかし誰も全ての戦争を止めさせることに関心を持たないように思われます。人間を殺すための戦争を止めさせるデモは起こりません。
 そしてそれら四、五万年を経てもなお我々は依然として現にあるとおりの我々です。何が起こっているのでしょうか? なぜ我々はこのようなのでしょうか? 時間は我々に理解をもたらすと考えられています、我々に知識をもたらすと考えられています、正しい或いは真実の妥当な行動感覚を我々にもたらすと考えられています。しかし明らかに時間は我々のどのような問題も解決してきていません。その反対です。
 従って人は問います、問わなければなりません、二人の友人が話し合うように、なぜ我々はこのようになっているのでしょうかと。それはこの国だけではありません、世界中至る所でそうです、アフリカ或いはインドの最も原始的な村から最も洗練された所謂文明人に至るまでそうです。何が我々に起こっているのでしょうか? ある人たちは現にあるとおりの自分に完全に満足するかもしれません、取り分けもし人が豊かで力を持っていて地位や何らかの立場を手にしているのなら、人はそれらのことを問いません。しかしもし人が完全に不満足なら、反抗しているのではありません、不満足なら―不満足と反抗との違いを分かってほしいと思います。もしあなたが不満足なら、それは物事を現にあるとおりに観察することから生まれるのですが、人が作り出してきたあらゆることに不満足なら、人はそれを問い始めます。しかしもし人が単にそれに反対しているのなら、そのような反対は単なる反射的な反応に過ぎません。そして我々は反射的な反応で満たされていて、我々は決してそれから抜け出ません。しかし今朝に限っては、物事をあるとおりに見てほしいと思います、あなたの特殊な偏見や結論やイデオロギーや信仰などによるのではなく、物事をあるとおりに、あなたの特殊な背景からだけではなく世界中の視点から―餓えている人たち、貧しい人たち、教育を受けていない人たち、途方もなく豊かな人たち、途轍もない力が少数の人の手にあること、民主主義であろうと共産主義であろうと全体主義であろうと、力や金、それらにまつわる全てと共にそれらが少数の人の手にあることなどです。
 従ってもしできるなら、友人として、互いに反対するのではなく、互いを否定するのではなく、他の人の言うことを受け入れるのでもなく、一緒にこの旅を歩みたいと思います。それが意味するのは、我々の誰もが、どのような速さで人が歩きたくても、歩くことであり、他の人に全ての話を、全ての説明をさせないことです、他の人に全ての理由を言わせないことであり、他の人に全ての描写をさせないことです、そうではなく一緒に誰もがそれを見ることです、それを観察することです。観察することは最も難しいことの一つです。いかなる方向づけもせず、どのような動機も持たず、言葉にしないで観察することです、その樹木をただ観察することです、例えば“樹木”という言葉に囚われずに観察することです、その言葉が意味する全てに囚われずに観察することです。もし我々がそのように自分自身や我々が生きている世界を何の偏見も抱かずに、どのような結論も持たずに、どのような観点からでもなく、それがあなた自身の観点であろうと私の観点であろうと他の誰かの観点であろうと、どのような観点からでもなく観察できるなら、それは良いことだと思います。最初にそれをただ見ることです。
 我々は多くの悲惨を目の当たりにします、多くの貧困を目の当たりにします、或いは他にこの国のような豊かな社会を見ます、それでもこの国には貧困があり戦争があります、国と国との、種族と種族との、イデオロギーとイデオロギーとの戦争があります―カトリック教徒、プロテスタント教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒などがあります。二千年に及ぶキリスト教徒のプロパガンダがあり、千五百年或いは千六百年のイスラム教徒のプロパガンダがあり、二千年或いは三千年以上のヒンズー教徒と仏教徒のプロパガンダがあります。我々はこの宗教と呼ばれるプロパガンダの奴隷です、国家と呼ばれるものなどのプロパガンダの奴隷です。世界は戦争をしています、地中海の特殊な地域だけではなく戦争が進行しています―四十の戦争が進行していると私は信じます、私はそう言われました、恐らくそれは間違いです。
 そのようにそれが外面的に観察されます、このような競争です、誰もが神の名のもとに、心理学の名のもとに、科学の名のもとに自分自身を示そうとします、誰もが自分自身を示して、自分の成功や名声や評判や力などを手に入れようとします。
 そしてまた外の世界で個人に途轍もない重要性が与えられます、誰もが自分が全世界であると考えます、自分の正に欲することを行います、成就します、成功させます、競います、その他の全てを行います。そして外面的にもいわゆる宗教が人を分断してきました、全キリスト教世界がそのあらゆる分派と共にあり、仏教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒の分断があります。そして彼らもまた恐らくいわゆる穏やかな戦争をしています。恐らくそうです、もし人が耳を傾けることができるなら、正確に観察できるなら、キリスト教徒は他の誰よりも多くの人々を殺戮してきました。それを注意深く見て下さい。私はキリスト教徒やヒンズー教徒に逆らっているのではありません、ただこれら全てを観察しているだけです。
 そのように外面的に我々の社会は無秩序の中にあります。そのような社会の中に我々は生きています、それは腐敗しています、危険なほど腐敗しています。そのようにこれが我々の生きている外面的な世界です。明らかに人は問います、これら全ての外面的な世界を作り出したのは誰かと、我々が生きている社会を作り出したのは誰かと。明らかに神の手でこの社会が造られたのではありません。社会は我々一人ひとりによって作られます、我々の暴力によって、快楽によって、恐れや信仰や教条によって、家族の中に安全性を追い求めることによって、共同体の中に安全性を追い求めることによって、国の中に安全性を追い求めることによって作られます。我々がこの社会を作り出しました、我々一人ひとりが作り出しました、そのことに疑問の余地はありません。我々が我々の生きる社会を作りました。そして改革者たちが現われます、共産主義者たちのように、彼らは外面的に社会の構造を変えたいと思います。社会主義者たち、全体主義者たち、そして法制度やそのほかの全てによって社会組織を変えたいと思う民主主義の人たちもいます。そのような組織が失敗すると彼らは他の組織を発明します。あなたはこれら全てを知っているに違いありません。そのように再組織された組織が発達と呼ばれます。違いますか? 私はあなたがそれら全てに気づいたかどうか知りません、政治的にも宗教的にも社会的にも。それは大学で、カレッジで、専門的な領域で起こります、しかし我々はなぜ我々が我々の作った、我々の構築した、我々の作り上げた社会の中を生きるのか決して深く真剣に問いません。そしてこれが四万年或いは五万年の進化の結果です。
 それは全く希望がないのか、人は永久にこのように生きるのかのいずれかです、何故なら四万年間人はこのように生きてきたからです。そしてもし我々が精神の構造を、我々の内面のあり方を根本的に変えるために時間を当てにするなら、もし我々が更にこの先四万年を時間に頼るなら、我々は依然として同じでしょう。もし四万年が我々を変えなかったのなら、この先の四万年も同じことです。
 そこで人は非常に真剣に問います―友人と私は話し合っています、多くの鳥たちがいて多くの花々が咲いていて、丘々の美しさが見渡せる木陰の小道を歩きながら―人間の行動を変えることは可能かと。とても断片化され、とてもバラバラにされ、とても矛盾していて、ひどく葛藤にあえいでいる人間が、表面的ではなく、圧力を受けてではなく、賞罰によらずに、深く、頭脳自身だけではなく、精神の全構造の中に、自己中心的で、利己的で、全くそれ自身にしか関心のないその中に変質が起こりえるのかと。このことは古代からある宗教的な人たちの問題となってきました。そして非常に非常に非常に少数の人たちが自己中心性の連鎖をその全ての利己的な活動と共に恐らく断ち切りました。そして大多数の人たちはそれを継続しています。
 そこで我々は、友人と私は一緒に、問うています、我々が変わるのは可能かと。他の何かに変わるのではありません、それは何かになることに過ぎません。現にある自分をあるべき自分に変えるのは何かになることの一つの形です。違いますか? 従ってそれは変化では全くありません。あなたはこのことを理解するのでしょうか。もし私が貪欲で、それとも精神分裂的で、或いは何らかの種類の娯楽や楽しみやエンターテイメントにかかりきりなら、その特殊な形のエンターテイメントから別の形のエンターテイメントへ変わることは依然としてエンターテイメントです。違いますか? しかし変化は消滅を意味していて、何らかの継続ではありません。我々はこのことに異論はありませんか? あなたは話し手と共に歩を進めている友人です。もしこのことがはっきりしないのなら、我々はそれを検討しなければなりません、何故ならこのことを理解することが非常に重要だからです。
 我々は消滅とは何かを問わなければなりません。“厳格”という言葉を例にとりましょう。その言葉の語源的な意味は舌が渇くということです! アルコールを飲むのではありません、その言葉のギリシャ語などの語源的意味は口が渇くということです。そこから“残酷;厳しい”という言葉が、乾いている感覚、残酷なコントロールの感覚、ある種のパターンへしがみつく単純性の感覚が生まれます。それでは厳格についてですが、我々は乾きや厳しさ、残酷、厳しくしている残酷な規律などそれらの意味で話しているのではありません。あなたはこれら全てを理解するでしょうか。内面的な大いなる単純性を持つこと、それは完全な明晰性が存在するときにのみ起こりえます。そしてそれは絶え間ない放縦が止むときに、消滅するときに起こります。例えば、もしあなたが喫煙家なら、それを止めることです、それはその代わりに禁煙飴をなめたり、他の何かを噛んだりすることではありません。もしあなたが貪欲で、暴力的などその他の全てなら、それを止めることです、「私は他の何かになります」と言わないことです。我々は我々が死について話すとき、このことをもっとずっと深く検討するでしょう。死について話しても構わないですね。アメリカ人はそれについてかなり怖がりますね。今本が書かれていて、最近私はそれを見ました―“幸福な死に方”という題名です。彼らは安楽に死んで行こうとしている人たちを助けています。しかし死は我々が後で話すような途方もない何かです。
 従って消滅することを理解する重要性があります。自分自身でそれを検討して下さい、そうすると人は途方もないことが分かるでしょう、我々は決して何かを止めないことが分かるでしょう、いつも終わりとその同じことが違った形で始まるのが分かるでしょう。我々は“厳格”という言葉を取り上げました、それは本当に途方もない、内面的な厳格性であり、大いに単純である感覚であり、それはいかなる複雑さとも無縁です。しかし我々はそのことを今検討しません、何故ならそれには大いなる理解を必要とするからです。何故なら我々が、非常に非常に厳格な、少なくともそのように装う、偉大な多くの聖者たちやいわゆる宗教的な人たちを思い描くからです。そして愛なしに厳格ではいられません。愛と単純でいることが厳格でいることの本質です。
 そこで友人と話し手は話し合っています、彼らは言います、我々の誰もが欲望や暴力を根本的に消滅させることができるのか、何らかの種類の快楽を追い求めることを根本的に止めることができるのか、恐れなどを根本的に消滅させることができるのかと。そこで我々はそれを今検討します。
 子供のころから我々の頭脳は問題を解決するように条件づけられています。子供は学校へ行き、読み書きの問題を与えられます。そして子供が成長すると数学の問題や地理の問題などが与えられます。そのように頭脳は―これが実際の事実です、話し手の想像ではありません、もしあなたが自分自身を観察すれば―我々の頭脳は問題を解決するように条件づけられています。頭脳は条件づけられています。そのように生涯を通じて我々は問題を解決しようとしています。このことに気づきませんでしたか? 従って問題を解決しようとするとき頭脳はそれを解決するために自由でなければなりません。しかしもしそれがそれ自身問題で満ちているなら、それは問題を解決できません。それは論理的な健全な観察です。人はそれを政治の世界で見ることができます、それがどのように起こるのかを見ることができます、彼らが一つの問題を解決すると、その問題の解決の中で問題が増幅します。違いますか? 人はこのことが分かります、経済的にも他の様々なことについても分かります。
 そこで我々の最初の要求の一つ或いは最初に問うことの一つは、なぜ我々がいつも問題を解決しているのか、なぜ我々は最初に問題を抱えるのかの理由を探究するために、我々が自由になれるのかどうかを明らかにすることです。我々は問題を抱えています。違いますか? そしてあなたはあなた自身の問題を解決するために様々なところへ出かけます。もしあなたが独りになって丘々の中を彷徨っていないなら、彼らはあなたに森の中で一人になる仕方を教えるでしょう。あなたが五百ドルかそれ以上を払うと、彼らはあなたに教えるでしょう。そしてあなたは進んで教えられます。違いますか? そのように我々が言っているのは、頭脳が、あなたの頭脳が、それが子供の時から問題の解決に条件づけられているとき、あなたは問題を増幅しているにすぎないということです。しかしもし人が理解できるなら、事実を見ることができるなら、説明や理由やその論理だけではなく、頭脳が子供のころから問題を解決するように訓練され教育されている事実を見ることができるなら、人は確実に問題を更に更に増大させるはずであると分かります。違いますか?  これは論理的で健全です。そうすると問題を全く抱えない頭脳で我々は、あなたは、問題に取り組むことができるでしょうか? お分かりですか? このことが分かりますか? あなたは分からないと思います。
 最初に事実を見て下さい、もしあなたが問題を抱えていて、あなたの頭脳が、現にあるとおり、問題を解決するように訓練されているのなら、あなたはその問題を解決できません。違いますか? 頭脳が自由なときのみ、それは問題を解決できます。これが論理であり道理です。そして弁護士や何らかのプロが我々の問題を増大させます。彼らはそうするための報酬を受けています! 一方もしあなたが問題を解決したければ、人は問題を見なければなりません、あなたがその問題にどのように取り組むのかを見なければなりません。どのようにあなたがそれに取り組むのかです。取り組むことは近づくことを意味します。あなたはどのように問題に近づきますか? もしあなたの精神が問題の解決を追い求めているのなら、あなたは問題に近づけません。違いますか? あなたが問題の解決にエネルギーを費やしていないときに、あなたはそれに近づくことができるだけです、それを見ることが、それを観察することができるだけです。あなたはこれら全てを理解するでしょうか。それはとても単純であり、それを複雑にしないで下さい。
 私は問題を抱えています、仮に私と友人との間に、もしくは妻或いは夫との間に問題があるとします、どのように私はそれに取り組みますか? 自由にですか、それとも私がそうなってほしいと思う結論を抱えて取り組みますか? それとも私には動機がありますか? 従って動機や結論や予め考えられた解決策は歪める要因です、従って私は問題を決して解決しません。違いますか? 従ってこのことについての我々の最初の問いかけは、我々が世界の問題そして自分の問題を見ることができるのかということになります、そして世界はあなたと異ならないこと、世界は我々がそのように作ってきたものであること、社会はあなたと異ならないこと、あなたが社会であり、あなたが世界であり世界があなたであること、我々はそのように見ることができますか、ということです。つまり、それは問題が何であろうと、問題をどのようにも方向づけることなく自由に見ることであり、観察することです。そうすると観察する中で、それに非常に非常に近づくことになります。そうすると問題自体が重要になり、答えは重要になりません。お分かりでしょうか? 従って問題が生じません。おーっ、私はそこへは進めません、もしあなたがそれを理解したのなら、その方がずっと良いのです。
 そうすると、それが意味するのは、なぜ我々の頭脳は―というのはそれが我々の全ての活動の中心、我々の全ての思考の中心、我々の全ての情動の中心であり、それが我々の全ての反射的な反応の中心だからですが―長い年月を経て、四万年を経て、条件づけられているのか、それがキリスト教徒や仏教徒として、哲学者として、科学者として、心理学者や精神科医などそれら全ての類として条件づけられているのかということです。それは条件づけられています。そのような条件づけは行動を歪めるだけではなく、関係性の中に、コミュニケーションの中に、物事を自由に見る上で多くの問題を作り出しもします。従って我々はそのことを最初に問う必要があります。つまり、なぜ我々の意識は―我々の意識は我々の頭脳の全内容であり、それは現実の我々であり、あなたが考えることであり、あなたが感じることであり、あなたの信念であり、あなたの快楽であり、あなたの信仰であり、あなたの偏見であり、あなたの経験であり、あなたの記憶であり、あなたの快楽などです、それら全てが現実のあなたです。それら全てがその全ての反射的な反応を伴ったあなたの意識です。違いますか? それは少しも奇妙なことではなく、それは非常に単純なことです。あなたはこれら全てを明らかにするために何らかの専門家のところへ行く必要はありません。あなたは自分自身を見ることができます、あなたはそれを知ることができます、もしあなたが自分自身を非常に明瞭に観察できるなら、あなたはこのことを書物や専門家よりもずっと深く本当に明らかにするでしょう。
 そのようにこれが現実のあなたです。そして我々は非常に真剣で根本的な問いを発しています、つまりこの自己中心的な意識は全世界の意識であるということです、なぜなら世界中のあらゆる人間があなたのように自己中心的だからです。人には快楽があります、人には痛みがあります、人には悲しみがあります、人は様々な迷信や信念を抱いています、人は神を発明しました、あなたが神を発明したように。そのようにあなたが抱えているこの意識は、あなたが自分のものと考えている、個人的な、私のものと考えているこの意識は全世界の意識です。人々はこのことを異なった方法で科学的に証明しようとしています。私はそれら全てを検討しません。そうして何らかの科学的な物言いがなされると、あなた方はみなそうですと言います! 何故なら我々は専門家が言うことを受け入れるように教えられてきたからです。しかし我々はここでは専門家ではありません、我々は人間であるこの途方もない現象を一緒に見ています。
 そして宗教や社会や我々の快楽によって我々は我々が分離した個人であると考えるようになってきました。我々の話していることがあなたの信じているあらゆるものに反していることを私は知っています。反対に、我々はあなたが個人ではないと言っています、あなたはその他の人間であり、あなたはあなたが苦しむので、あなたには恐れがあるので、あなたは多くの幻想や迷信や信念を抱いているので、あなたには神或いは救世主がいるので―アジアには沢山の神々がいて、恐らくその方が面白いのですが―あなたは人間であると我々は言っています。そのようにあなたはその他の世界のようです。それは途轍もない認識であり、この事実は途轍もないことです。そうするとあなたは他の人を殺しません、もしあなたが他の人を殺すなら、あなたは自分自身を殺しています。
 そのようにそのことが一つです、我々の条件づけが我々を作ってきました。宗教があなたには分離した魂があると言ってきました、インドでもあなたは分離したアートマンを持っているなどと言ってきました。そこで我々がこの地球上に住むことができるように、とても美しい地球上に住むことができるように、これら全てが根本的に変えられるでしょうか、本質的に変えられるでしょうか、ただ今朝は非常に暑いのですが、それはとても美しい世界です、絵の中ではなく、美術館の中ではなく、人が見渡すと丘々や川や谷があり、世界の中に大いなる美の感じがあります。自然は人によって造られていません、トラは思考によって作り上げられていません。しかし自然を除いて思考はあらゆるものを作り上げてきました、我々自身の自己の構造を作り上げてきました。従って思考には責任があります、知識から生まれる思考と記憶なしに、あなたは何一つなしえません。
 そこで我々は思考とは何かを問わなければなりません。我々は一緒に問うています、もしあなたがよければ。考えるとはどういうことですか? 思考とは何ですか? 何故なら思考は技術の途方もない世界を作り出してきました―月へ行くこと、中性子爆弾、ミサイル、潜水艦、コンピューター、鉄道、空港、思考はそれら全てを作り出しました。そしてまた思考はビジネスの全世界を作り出しました。そして思考は世界の全ての大聖堂、寺院、モスク、教会、そしてヨーロッパの荘厳で美しい大聖堂も作り出しました。そしてまた思考は教会や大聖堂や寺院やモスクの中のあらゆるものを作り出してきました―儀式、衣装、服装、笏など宗教的な人物を誇示するためのあらゆるものです。そしてまた思考は神をも発明しました。従って我々は思考の性質を非常に注意深く問うべきです、何故なら我々の行うあらゆることが思考に基づいているからです。あなたの人との関係は、それが親しかろうと親しくはなかろうと、思考によって築き上げられます。手紙を書くためには、車を運転するためには、一流の科学者になるためには思考が不可欠です。
 そのように我々は思考の性質を、なぜ思考が我々の生活の中でそれほど途方もなく重要になっているのかを非常に注意深く理解すべきです。そして思考は我々が互いに破壊し合う一つの理由かもしれません。従って思考とは何ですか、考えるとはどういうことですか? あなたが何かを問われるとき、あなたの名前を問われるとき、あなたの答えは間髪を入れません、瞬時です―何故ですか? 何故ならあなたはそれを百回繰り返してきたからであり、あなたはそのことに極めて慣れているからです。もしあなたがもっと複雑な質問をされると、それを答える前に時間的な間隙が生じます。その時間的な間隙を縫って、あなたは調べたり、探したり、尋ねたりします、そしてあなたは答えを見つけるために書物を調べます。質問と答の間に間隙が生まれます。そのような間隙の中で思考が問います。そしてまたあなたがもっとずっと込み入った何かを問うて、あなたが「私は知らない」と言うとき―あなたは「私は知らない」と本当に言うのでしょうか。言いますか? あなたが「私は知らない」と言うとき、あなたは答えを待っています、或いは誰かがあなたに答えるのを待っています。従ってそれらは考える段階的なプロセスです。そしてまた考えるとはどういうことですか? 恐らくあなたは話し手がそれについて話すのを、それを説明するのを聞いてきました。願わくば、話し手の言ってきたことを、或いはあなたがそれについて読んできたことを忘れて下さい、それら全てを完全に脇へ置いて、考えるとはどういうことかを見てみましょう。
 あなたの思考は歪んでいるかもしれません、或いは真っ直ぐかもしれません、或いは合理的であったり、鋭かったり、分裂的であったりするかもしれませんが、それは依然として思考です。最も博識な人や最も文盲な人、読み書きができない人、小さな村に住んでいる人など、人はだれでも考えます。そうしてそれらの思考の極端な形があります―鋭かったり、ぞんざいであったり様々です。従って我々は我々の全生活が思考に基づいているとき思考とは何かに非常に明確であるべきです―誤っていたり、歪んでいたり、非論理的であったり、幻想的であったり、全く愚かであったりする思考です。
 思考は調和があるときに起こるだけです。記憶なしに人は考えられません。そしてこの記憶は脳細胞に、頭脳の中に蓄えられます。違いますか? そして記憶は知識の収集蓄積です。そして知識は経験が生ずるときにありえるだけであり、存在できるだけです。そして経験にはいつも限りがあります。違いますか? 従って知識が広がったり幅広くなったりすることはありえますが、知識はいつも限られていて、未来か今の中であり、それはいつも限られています。それは事実です。科学者たちは彼らが既に知っていることに更に更に更に知識を付け加えています。そのように知識はいつも今か未来に限られていて、思考や我々の記憶はいつも限られています、それは明らかです。そのように思考は限られています。違いますか? 従って思考から生まれた行動はいつも限られているでしょう、従って限られているどのようなものも矛盾を生み出すに違いありません。違いますか? これら全てがお分かりですか? あなたが、ほとんどの人たちがそうしているように、自分自身のことを一日中考えているとき、それは非常に限られています、違いますか? そしてそのような限られたものから生まれた行動は数知れない問題や矛盾を作り出すに違いありません。
 そこでそのことをもっと深く検討すると、つまり思考は限られているので、実際にそうなので、どのようなものについても完全な思考というものはありません、あるはずがありません、それは完全性について考えることができます、それは計り知れないものについて考えることができます、しかし思考が計り知れないものとして考えるものには依然として限りがあります、何故なら思考それ自身が限られているからです。違いますか? 従って思考は限られているので、それの行うあらゆるものが矛盾を作り出してきました。つまり、思考がナショナリティを作り出してきました。違いますか? 何故なら思考が言うからです、私は安全でなければならない、家族といても安全ではありませんが、より大きな共同体と一緒なら私は安全でしょう、そしてより大きい究極的な共同体は国家ですと、そしてそれは同族意識から生まれます。ナショナリズムは同族意識の賛美された別の形なだけです。そのように人は世界をそれぞれの神がいるキリスト教世界、仏教世界、ヒンズー教世界、イスラム教世界に分断してきました、それら全てが全く愚かなように思えます。そのように言うことを許して下さい。従って分断があることころには争いがあるはずです。違いますか? 地中海の東側でユダヤ人とアラブ人との間の、イランとイラクとの間の争いが続いています、何について争っているのですか? それぞれの集団が作り出してきたイデオロギー上の神であり仮説です。
 そうすると人が、思考には果てしなく限りがあるということを、思考の限界には限がないということを、言語的にでもなく論理的にでもなく悟るとき、思考は物質的なプロセスです。それは頭脳の中に蓄えられているので、それは物質的なプロセスです。従って思考が作り出したどのようなものも神聖であるはずがなく、聖なるものであるはずがなく、それはただ限られたものであるに過ぎません。
 そこで人は問います、思考が限られていて世界のそのような大混乱を作り出すのなら、思考の居場所はどこにあるのかと。あなたはそのように問いますか? お分かりですか? 話し手が問うているのですか、それともあなたも同じように問うているのですか? あなたも同じように考えていますか、問うていますか、探究していますか、推し進めていますか? それともあなたは単に木漏れ日が差すまだらな影の中に座って山々や丘の連なりやこの場所の穏やかさを楽しんでいるだけですか、それもまた良いことですが、或いはあなたは真実な何かに、あなたが自分自身で真実であると見出した何かに耳を傾けているのですか? そのようにあなたはそれに全身を傾けて、それに取り組んでいるのですか、ただ単に物事をやり過ごしているのではないのですか? もしあなたが真理を聞いて行動しないのなら、その真理は毒として作用します。それはいっそうのトラブルを、いっそうの問題を作り出します。
 そのように思考にとっての正しい居場所がなければなりません。あなたは考えずにここから自分の家へ行けません。この場所を去るや否や、あなたは考えずに運転できません、家へ行きたいとき、あなたは思考を使わずにはいられません。手紙を書くとき、あなたは思考を使う必要があります、ビジネスをするときなど、あなたは思考を使う必要があります。そのように思考には正しい居場所があります。しかし思考の居場所はどこにでもあるのでしょうか―どうかこのことに耳を傾けて下さい―その居場所は心理的な領域のあらゆるところにもあるのですか、お互いの関係の中のあらゆるところにもあるのですか? 私の質問がお分かりですか? 思考は関係性の中に居場所がありますか? もしあるなら、その関係性の中には限界があります、従って分断があり、従って争いがあります。違いますか? 妻や夫や女性や男性などとの関係の中で、もしその関係の中で思考が大きな場所を占めるなら、思考は限られているので、そのような正に限界が彼女或いは彼との間の分断を作り出します、従って分断があるところには争いが起こるはずです。あなたがよく知っているように、全ての関係性の中に争いがあります、どれほどあなたがその人を好きでも―私は愛という言葉を使いません―どれほどあなたが相手を好きでも、或いはどれほど相手を心地よく思っても、それにはいつも限りがあり、従って争いが生じます。それが法であり、それが道理であり、それが真理です。
 そのように思考の居場所は技術の世界の中にあり、通常の世界の中にありますが、思考には心理的な居場所、内面的な居場所はどこにもありません。それでも自分や“私”を作り出す場所が生じます。“私”や自我やペルソナは非常に限られています。それはそれが驚くべきものであると想像できます、それはそれが途方もないことを行えると想像できます。しかしそのような想像は、そのような心理的映像は本当に依然として非常に非常に限りがあり小さなものです。この真理を見て取るには、それが全てですが、人は何もする必要がなくてただその事実を見なければなりません。そしてその正に事実を、その事実を、危険な何かに気づくように、危険な動物や危険な崖に気づくように、もしあなたがこのことを事実として、正に事実として見て取るなら、あなたは“自己”の連鎖を余すことなく断ち切ります。そのときのみ争いの影が微塵も差すことなく人は他の人と生きていけます。何故なら争いが暴力の正に本質だからです。我々は暴力がそこにあると考えます、テロリスト、誘拐犯、戦争、銃を持ち歩く人たち、この国では誰もが銃を持ち歩くことが許されています、本当に途方もない国です。あなたは店へ行って銃を買えます。
 そのように暴力はそこにあるだけではなく、暴力は分断がある限り、“私”と“あなた”としての分断がある限り、関係性の中に存在します。私の野望、私の欲望、私の目的、私の成就を追い求めている“私”があり、彼女も同じことをしています。従って我々はいつも争いの中を生きています。そして争いを認めると、あなたは言います、どのように私はそれを解決するのかと。そこで我々は元に戻ります、頭脳は子供のころから問題の解決を条件づけられているので、我々は言います、分かりました、どのように解決できるのか、どのように私は変わることができるのか、どのように争いを終わらせることができるのかを見てみましょうと。それが問題になります。違いますか? それが今あなたの行っていることです、どのようにして私は争いを終わらせるのかと。しかしもしあなたがそのルーツを見れば、その原因を見れば、何が原因であろうと、その原因は変えられます、それは取り除かれます。争いの原因は思考によってもたらされる分断的な感じです、そしてそれは限られています。そして限りがあるものは何でも―宗教には限りがあります、あなたの信仰には限りがあります、思考によって作り上げられたものは何でも限りがあります、従ってそれはいつも争いを作り出すはずです。もしあなたがそのことの事実を、その真理を見て取れば、その正に真理が争いを終わらせる触媒です。
 今朝はこれで終わりです。我々は明日の朝続けます。もし指摘させてもらえるなら、あなたは全部に耳を傾けなければなりません―明日また来るようにあなたを誘っているのではありません、それはあなた次第です、私はあなたが来ようと来なかろうと興味がありません、本当です―しかしもしあなたが全体のことを理解したいのなら、生の余すことのない全体を理解したいのなら、あなたは全体に耳を傾けなければなりません、それはいわゆるパッケージです! その単に一章ではなく、それはあなたが読まなければならない全章です。それには多くの章が、多くのパラグラフがあります。その本はあなたのことです。そして我々がそれら全てのことを来週話しているとき、もし宜しければ、人はそれに余すことなく耳を傾けなければなりません。
                                          1984年5月19日 オーハイ
                                                 中野 多一郎 訳