クリシュナムルティをめぐりて

見ることと耳を傾けること

クリシュナムルティ(K) 今朝は一層涼しいと思いますが、いかがですか? これが最後のトークです。質疑応答の集まりが日曜、月曜、火曜とあります。
 私は我々が我々の生活の中で秩序を確立したときにだけ、人は宗教とは何かを問えると思います。我々は秩序の乱れた中を生きています、様々な欲望に駆り立てられて混乱した不確かな中を生きています。そして我々は一般的に我々の秩序の乱れの中でぼんやりと過ごしています。そしてまたその秩序の乱れの中にはそれなりの秩序があります―鉄道は大なり小なり西洋では時間通りに運行されていますし、飛行機は時間通りに離陸しますし、電話は地球の反対側へ直接届くことができます。しかしアジアの国々ではそうではありません―列車はおおよそ七時間あるいは八時間遅れますが、あるいは丸一日遅れますが、誰も気にしませんし、それは日常生活の一部です。そのようにこの世界の秩序の乱れの中にも秩序があります、しかしもし余すことのない秩序が生まれないなら、秩序の乱れから生まれたのではないそれがないなら、そしてそれは恐れから自由であるときにだけ、人が子供のときから受ける物理的な傷だけではなく心理的な全ての傷から自由であるときにだけ、そして快楽の意味やその追求や何かになることや悲しみの消滅などの理解があるときにだけ、それは生まれるにすぎません、そうして自由と秩序があるところでだけ、人は本当に問うことができます、宗教とは何であるのかと。
 もし我々が秩序の乱れた、精神の散漫な生活を送っているとき、宗教とは何かを問うなら、我々は我々が行ってきたように様々な宗教を発明するでしょう、キリスト教世界やイスラム教世界の様々な伝統的な既成宗教や書物に基づいた宗教のように、そしてインドではおよそ三千以上の…三十万の―御免なさい―神々がいます。それは一つの神がいるよりももっとずっと愉快です、そうするとあなたはそれら全てと戯れることができます。一日あなたはあなたを満足させる神を選べます、次の週は別の神です、そしてあなたはあなた自身の神を選びながら二、三年でそれらを一巡できます。それら全てが宗教と呼ばれます、確立された、伝統的な、信仰に基づいたそれです、そしてそれらの宗教は、それがキリスト教の世界であろうと、ヒンズー教の世界であろうと、仏教の世界であろうと、イスラム教の世界であろうと、我々の日常の世界とは何の関係もありません。それらは見せかけの世界であり、ロマンチックな世界であり、感傷的な、想像された、表面的に慰安をもたらす世界です―我々はそれを良く知っています。そして我々の無秩序な秩序の乱れから我々は日常生活には何の根拠もない、本質的に意味のない、非常に安楽な宗教をともかくも作り出します、あるいは生み出します、しかし人はあなたが何らかの種類の娯楽や大評判になっている何かへ行くようにそこへ行きます、そして絶え間ない儀式の繰り返しが行われ、香の匂いが漂います―あなたはそれら全てをよく知っています。
 従って話し手は大抵トークの最後に宗教と瞑想をおきます、なぜなら我々がここで共有したこれらの五つのトークののちに、我々は生の全構造とその現実の姿を理解したからです、そして恐らく我々の中の何人かが、深く恐れから自由になって、もはや様々な心理的な傷を抱えていないからであり、快楽を追求する不毛さも理解したからです。そして恐らく何人かが苦しみの意義と苦しみの消滅を手にしました、そしてそれによって愛や慈悲心と呼ばれるあの途轍もないものを手にしました。そうすると我々の生の中に秩序があるとき、思考によってもたらされたのではない秩序があるとき―思考は決して秩序をもたらすことができません―我々は事実を知覚するだけです。そしてその秩序から、そしてそれは明晰な、先入観のない、偏見を持たない頭脳を持つことですが、そうするときだけ、我々は問えるように思えます、宗教とは何かと。お分かりですか? 私は人がこのことを明確にしているのを願います。
 なぜなら、もし人が恐れているなら、そしてその恐れから逃げようとするなら―それがどれほど深く、あるいはどれほど表面的でも、あるいは人がそのことに気づいていても―もし恐れがあるなら、あなたはあなたの望むどんなものでも発明します、この上なく安楽的で満足のいくものなどを発明します、そしてほとんどの人がそうします。そしてそのような発明は―そのような発明の何かとりわけ想像力豊かな構造は―恐れから生まれます、従ってそれは宗教とは、宗教的頭脳とは何の関係もありません。
 従って我々は今朝一緒に宗教とは何かを探究しようとしています。そしてその探究の中で我々は瞑想とは何かも発見しようとしています、しかしそれは我々の日常生活の外にある何かとしての瞑想ではありません。それではそれは再び途轍もなく表面的になります。あるいは、あなたはいわゆる正しい種類の瞑想をすることによって、その瞑想が我々の日常生活に影響するだろうと考えるかもしれません。お分かりでしょうか? しかし、瞑想は、もし人が瞑想の意義を理解するなら、その実践や世に行われている全ての馬鹿げたナンセンスではなく、もし人がその深い意義を理解するなら、それは途轍もなく大切な何かです、そしてそれを我々は今朝一緒に話し合おうとしています。宜しいでしょうか? ここまでこのことは明瞭でしょうか―そうすると我々は一緒に歩むことができます。話し手が話し続けて、あなたがただ彼に眠たげについて行くのではなく、一緒に宗教とは何かを、それは我々の日常生活の中でどのような位置を占めるのかを共に明らかにする責任を我々は負うのです、そしてそのプロセスの中で瞑想の深さと美とは何なのかを我々自身で、教えられるのではなく、我々自身で発見するのです。なぜなら様々なグル達が最新の瞑想システムを持って来るからです、そしていくらかのお金を払ってあなたは学ぶのです、それはとても馬鹿げているように思われます、それはビジネスになっているのです。
 我々が宗教や瞑想の問題を検討する前に、我々は、もし私に指摘させてもらえば、耳を傾けるということがどういうことなのかを理解する必要があります。我々は、我々一人ひとりは、我々がお互いに話していることに耳を澄ましていますか、耳を傾けていますか? それともあなたは何かを話していて、あなたは私に何かを話したいと思っていて、そして私もあなたに何かを話したいと思っています。あなたが話したいと思っていることは私が話したいと思っていることよりも遥かにずっと重要になります、従ってそのような衝突が続きます―お分かりですか? あなたは何かを話したいと思います―あなたはほとんどの時間を自分自身に語りかけています―そして他の人がやって来てあなたに何かを言いたいと思います。あなたは耳を傾ける時間あるいは心構えあるいは意思がありません、従ってあなたは決して他の人に耳を傾けません。従ってこの絶えず耳を塞ぐということが起こります、それは耳が塞がれた空間です、従って我々は決してお互いに耳を傾けようとしません。耳で聞くだけではなく言葉の意味にも、その意義にも、そして言葉の音にも耳を傾けるということがあります―その音に耳を傾けるのです、それは非常に重要です。音が生じるときには空間が存在します。お分かりですか? そうでなければ音は生じません。もしあなたがあなたの塞ぐ空間を作らなければ、そのような空間の中にのみ音が生じえます。従って耳を傾けるという霊妙な働きは、最大の敬意を払って指摘させてもらえば、耳で聞くだけではなく言葉の音に耳を傾けることでもあります。言葉には音があります、そしてその音に耳を傾けるためには空間がなければなりません。しかし、もし話されていることをいつもあなたがあなたの何らかの偏った見方に変えて、あなたの心地よい、あるいは不愉快と思えるプロセスの中で解釈して聞いているなら、あなたは全く耳を傾けていません。このことは明らかですか? 我々は今朝話し手が話していることだけではなく、話されていることにあなたがどのように反応するのかにも耳を傾けるようにできますか―話されていることに順応しようとあなたの反応を正すのではなく。そうすると次のようなプロセスが進行しています、つまり、話し手が何かを話すとあなたはそれに耳を傾けるだけではなく、あなたは話されていることに対するあなたの反応にも耳を傾けていて、あなたはあなた自身の反応であるその声に空間を与えながら、話されていることにも空間を与えています。お分かりですか? それは途轍もなく気をつけていることを意味していて、それはうっとりと我を忘れて聞いていて「それは驚くべき発言である」―お分かりですか―「今朝は非常に素敵でした、それは非常に良い発言でした、それはこうで、あれはこうだ、私は私がそこにいたことを嬉しく思う、彼は私が考えていなかった沢山のことを私に話しました」(笑)などのナンセンスを言うことではありません。しかし、もしあなたが耳を傾けるなら、その耳を傾けることの中に奇跡が生まれます。奇跡というのは、あなたが話されている事実の中に完全にいて、それに耳を傾け、そしてあなた自身の反応にも耳を傾けていることです。それは同時に進行しているプロセスです―お分かりですか? あなたは話されていることだけではなく話されていることに対するあなたの反応にも耳を傾けます、それは瞬時に起こることで、あなたはその全ての音に耳を澄まします、そしてそれは何らかの空間があることを意味します。お分かりですか? そのようにあなたは余すことなく気をつけて耳を傾けています。私はこのことを明瞭にしているでしょうか? これは耳を傾ける霊妙な働きであり、それは大学で聴くことに関する学位をとって学ぶことではなく、あらゆるものに耳を澄ますことです、あの河の流れに、鳥たちに、飛行機に、あなたの妻あるいは夫に―それはもっとずっと難しいことです、なぜならあなた達はお互いに慣れてしまっているからです、あなたは彼女の言おうとすることがほとんど分かるからです。そして彼女もあなたが言おうとしていることを非常に良く知っています、十日経つと、あるいは十年経つと。(笑) そこであなたは全く耳を塞いでしまいます―お分かりですか?
 ここで我々は全く異なったことを問うています、問うています、明日にではなく今ここで、我々はそこに座りながら、耳を傾けることの霊妙な働きを問うています。つまり、耳を澄ますことです、あなた自身の反応に気づくことです、そしてあなた自身の鼓動に空間を与えることです、そして耳を澄ますことです―それは余すことのないプロセスであり、分離していない、耳を傾ける一つのまとまった働きです。このことが何か分かりましたか? これは耳を傾ける霊妙な働きです。これは途轍もなく気をつけていなければならない霊妙な働きです。なぜならあなたがそのように気をつけているときには耳を傾けている当のものがいないからです、この耳を傾けているという事実だけがあるからです、あるいは事実の現実性もしくは事実の虚偽性が見て取られるからです―宜しいですか? 私は今朝我々がこのように行っていることを望みます、なぜなら我々は非常に非常に複雑なことを検討しようとしているからです。そしてもし勿論あなたが何かロマンチックな忘我の境へ入りたいのならそれは構いません、しかしもしあなたが本当に宗教的で瞑想的な頭脳の性質を探究したいなら、あなたは非常に非常に気をつけていて、あらゆること(飛行機が近くを飛行する)に耳を澄まさなければなりません…あの飛行機に、そうすることであの音と話し手の起こしているものとあなたが起こしているものとの間の違いがなくなります。お分かりですか? それは途轍もない河の流れのようなものです。ですからどうか今朝は眠らないで下さい、あるいは何らかの想像力に富むロマンチックな忘我の境へ入らないでください。
 我々は宗教とは何なのかを探究しています。それは思考的な構造ですか? それともそれは思考を超えた何かですか? お分かりですか? 我々がこれらのトークで言ってきたように、そして我々は共にそれを理解しました、つまり、いつも経験と知識と記憶に基づいている思考は非常に限りがあると。それははっきりしています。そして思考によって思い描かれた、思考によって作り出されたものは何でもいつも限りがあります。世界の様々な宗教は思考によって作り出されてきました。人は言うのです、“それは馬の口から直接聞いた神聖な啓示である”と―私はこの言い方を分かってほしいのです、それは英語独特の表現で、それはあなたが最高の何かから直に手にしたことを意味します。そして、啓示される何かが思考されて、あなたはそれを紙に書き留めるのです、その紙が二千年前のものであろうと五千年前のものであろうと、それは依然として思考の活動です―宜しいですか? そして全てのくだらない長話や全ての言葉や儀式など―お分かりですか―宗教的な活動の全ての構造が思考に基づいています。あなたはそのように思考が作り出したものを神聖視します、そしてそれを崇拝します、ほとんどの我々がそうしているように、そしてそれを我々は宗教的な何かと呼びます、それは頭脳が幻想的なプロセスにどのように囚われるのかを示すだけです。もし我々がこの点について明瞭なら、我々は限られた思考によって作り出されたのではない宗教が何なのかを明らかにしようとしています―宜しいですか? あなたがあなたのグルを受け入れて、彼の言う全てのことを行うとき、それには非常に非常に限りがあります―違いますか? 彼は啓示のことを語るかもしれません、そしてあなたをそのような真理や何かに導くかもしれませんが、それは依然として思考の活動です。そして我々はそれについて考えて、我々は言います、「それは全くその通りです、みんなそれについて行きましょう」と。あなたはこれら全てを見てきました。宜しいでしょうか!
 そうすると人はどのようなグルにも、どのようなシステムにも、どのようなメソッドにも従うことができません―違いますか? なぜならそれらは全て思考の産物だからです。どうでしょうか―違いますか? 同意しますか? 同意しませんか? (笑) あなたはとても何かに献身的すぎるので、あなたは本当に宗教的な頭脳の活動であるそれを決して理解しないでしょう。それでは思考を超えたものを検討します―お分かりですか―思考が検討するのではありません、そこが難しいところです。私は個人的に分かります、思考の活動には限りがあると、全く限界があると、どのような領域であっても限りがあると、それが技術的な世界であろうとコンピューターなどの世界であろうと、そしてまた心理的な世界であっても思考のあらゆる活動には限りがあります、従って、何らかの争いが起こるに違いないと。それは了解済みです。それが了解されるとき、思考の活動ではない何かを探究できる何かがありますか? それは可能ですか? 質問が分かりますか? どうでしょうか、我々は一緒に検討しています、あなたの全ての頭脳をそれに傾けて下さい。思考はそれ自身の活動を検討できます、それ自身の限界を検討できます、何らかの物を作り上げてそれを破壊したり何か他の物を生み出すそれ自身のプロセスを検討できます。思考はそれ自身の混乱の中である種の秩序を生み出すことができます、しかしその秩序も限られた秩序です―違いますか? 従ってそれは最高の秩序ではありません。秩序は存在の全領域を意味します。
 そうすると“探究する”という言葉は間違いです、“検討する”という言葉は間違いです―違いますか? なぜならあなたは思考を超えたものを検討できないからです。お分かりですか? あなたはそれについて本を書くことができますし、それから多くの刺激をえることができます。そしてあなたはその種のゲームに果てしなく戯れることができます。神学者や何かに興奮した人達はこの種のあらゆることを行います。しかし思考的ないかなる活動とも無縁に観察することができるのかどうかを理解することです―そのように観察することができるのかどうかです。その樹木を観察して下さい、その川の流れに耳を傾けてください、いかなる言葉―樹木や川―も差し挟まないでそうしてください、それは自然な観察の一部です、あなたの観察に干渉してくる過去の記憶のいかなる活動とも無縁に観察することです、それは観察者としての過去から完全に自由になることを要求します、そしてただ観察するのです。このことがお分かりですか? このことを我々は理解し合っていますか? もう少しそれを検討しましょう。
 我々が妻を見るとき、夫を見るとき、友人を見るとき、あるいは通り過ぎる列車を見るとき、その列車には、その妻には、その夫には、その樹木にはそれぞれみな名があります。その名は記憶と結び付いています、そしてそれは時間です―違いますか? 記憶は起こった何かを思い出すときに生まれうるだけです、そしてそれは時間です。違いますか? そうするとあなたは時間である思考的な全活動を抜きに見たり、耳を澄ましたり、観察したりできますか? 宜しいですか? あなたはそれができますか? どうかこのことに耳を傾けて下さい。そのようにはできないと言わないで下さい。「はい、そのようにしてみましょう」と言って下さい。人は観察しなければなりません。人は実際にどのようにあなたが樹木を見るのか、どのようにあなたが朝日に照らされた明け方のあの雲を、その深さと美と光りに満ちた、途轍もない活動をするあの雲を“雲”という言葉を使わないでどのように見るのか見てみなければなりません。それは極めて容易です、なぜならそれは我々がそれとはとりあえず何の関係もないからです―違いますか? あなたはその樹木を言葉にしないで見ることができます―その列車を、その川を言葉にしないで見ることができます。しかし“川”という言葉はその川そのものではありません、それは正しく川であり、世界中の全ての川を意味します。宜しいでしょうか? しかしもしあなたが川をある特定の川に結びつけるなら、あなたは決して川の全活動を理解できません。宜しいでしょうか? あ―っ、あなたは理解していません、あなたは大変なものを見失っています。
 そのように、あなたは言葉にしないで観察できますか? それは言葉が意味する、言葉が含む全ての記憶や連想とは無縁に観察することを意味します。あなたはあなたの妻やあなたの女友達やあなたの夫を、その“妻”という言葉を脱落させて、その言葉が含む全ての記憶を脱落させて見ることができますか―お分かりですか―その重要性が分かりますか、従ってあなたは彼女や彼、あるいはその川をまるで初めて見るかのように見ますか? お分かりですか、あなたが朝起きて窓の外を眺めると、それらの山々や谷や樹々が見えます、そして緑の草原があり、谷の中に点在する山小屋があります、それはあなたがまるで生まれて初めてそれを目にするかのような驚くべき光景です。それはどのような先入観も持たずに観察することを意味します―違いますか? いかなる結論も抱かず、いかなる偏った見方もせずに観察することです。あなたは我々が話しているとき、そのようにしていますか? もしあなたがぼんやりしているなら、あなたはそのようにできません。このことは気をつけていることを再び要求しません、そこに意味されていることをつかんでください、あなたはそれをたやすく行います。もし私が私の妻をあらゆるイメージを通して、あらゆる出来事や記憶や傷などそれら全てを通して見るなら、私は決して彼女を見ていません。私はいつも彼女を何らかのイメージや過去の記憶を通して見ています、私なりの目で彼女を見ています。あなた方はみな…あなた方の何人かは結婚していますね、あるいは女友達がいますね? その人たちを見て下さい。あなたの妻や夫を見てください―注意深く、注意深く、私ではなく、宜しいですか!―あなたは全てのイメージや記憶などそれら全てのナンセンスを脱落させて初めて見るかのごとく見ることができますか?
 そうすると我々は宗教的な頭脳の性質を、思考によって汚染されていないその性質を観察しようとしています。これはあなたがこの上なく気をつけていることを要求します―違いますか? それはあなたがどのような献身的な関わりからも余すことなく自由であることを、完全に自由であることを意味します―違いますか? それはあなたのグルからも、あなたの教会からも、あなたの観念からも、あなたの過去の伝統からも、観察するためにそれから完全に自由であることを意味します。違いますか? あなたがそのように観察するとき頭脳の正にその性質の中に何が起こりますか? あなたは私の質問が分かりますか? 我々がそれを検討する前に、どうかその質問を始めに理解して下さい。私はいつも樹木を、川を、空を、雲の美しさを、私の妻を、私の子供たちを、私の夫を、私の娘などを、いつも記憶と共に、イメージと共に見てきました。それが私の条件づけです。そしてあなたがやって来て私に言います、言葉にしないで、イメージを脱落させて―宜しいですか―全ての過去の記憶を脱落させて見てくださいと。そして私は私にはできないと言います。最初の反射的な反応は、私にはできないというものです。それはあなたがこの男の言っていることを実際には耳を傾けていないことを意味します―違いますか? あなたは間髪を入れず“私にはできない”と言います。では“私にはできない”と言うことに気づいて下さい、そう言うことに気をつけていてください、それは一種の抵抗です、なぜならあなたがあなたのグル特有のくだらないことに献身的に関わっているからです、あるいはあなたが何らかの宗教的教義に献身的に関わっているからです、従ってあなたはそれを手放すのを恐れます、従ってあなたの反射的な反応は“私にはできない”となります。ですからそのことに、宜しいですか“私にはできない”と言うことに気をつけていてください、そして他の人の言っていることにも耳を傾けてください―宜しいですか? 観察するためには言葉から、そして言葉の内容から完全に自由でなければなりません、その両方に耳を傾けてください。そうすると、この活動―お分かりですか―抵抗することと耳を傾けることです、耳を傾けたいと思うことです、そしてもしあなたが抵抗しているなら、あなたは耳を傾けることができません、気づいてください、それから離れないでください、“私は理解しなければならない”とは言わないでください―ただそれを見守ってください、そうするとあなたは余すことなく気をつけています―違いますか? あなたはこのようにしていますか、あなた方の何人かはこのようにしていますか? 私はあなたが楽に座って話されていることに気をつけているので、思考的な活動を起こすことなく観察できていることを願います―宜しいですか? 分かりましたか? あなたはそうしていますか? それともこれはただのもう一つの理論ですか、それは瞑想のような何かを行いたいもう一つの何かですか、そして“どのように行うのか教えて下さい”“そのメソッドはどのようなものですか”“そのシステムはどのようなものですか”と言うのですか? それらは全て相当に子供じみています。違いますか? 我々はそこから続けることができますか?
 それは自己の活動が脱落している純粋な観察です―違いますか? 言葉が自己です―違いますか? 言葉や記憶、収集蓄積された傷、恐れ、不安、痛み、悲しみ、人間存在の全ての労苦が自己です、そしてそれはわたしの意識です―違いますか? そしてあなたが観察すると、それら全ては消えてしまいます。それら全てはその観察の中に入ってきません。観察している“私”がいません。宜しいですか? そうすると日常生活のその観察の中に完全な秩序が生まれます。矛盾が起こりません。矛盾は秩序の乱れです、そしてその秩序の乱れを伴なったその正に矛盾にはそれ自身に特有な限られた秩序があります。お分かりですか? 我々は忘我の境へ入っていっているのではありませんね? 
 それでは進みましょう。そうすると我々は問うことができます、瞑想とは何かと。“宗教”という言葉、その語源的な意味ですが、それは全くはっきりしていません。様々な辞書を調べて下さい、それらはその言葉の端緒に辿り着くことができていません。様々な時代に様々な意味が与えられてきましたが一般的にそれは集めることを意味します。あなたの全てのエネルギーを集めることです。私がそのように言っているのです、辞書にそう書いてあるのではありません。それでは瞑想とは何ですか? どのように瞑想するのかではありません。あなたが“どのように”と問えば、あなたにどうすべきかを教える人が現れます。違いますか? もしあなたが“どのように”を問わずに瞑想とは何かと問えば、あなたはあなた自身の能力を、あなた自身の経験を、それがいかに限られていようと、それらを働かせなくてはなりません、あなたは考えなければなりません―違いますか? ところがあなたは言うのです“瞑想とは何かを私に教えて下さい、そうすると私はその類の馬鹿げた夢の中へ入っていくでしょう”と。“瞑想”という言葉はじっくり考えること、熟考すること、関心を持つことを意味します。そしてそれは、その根源的な意味は、サンスクリット語やラテン語やギリシャ語などでも“はかること”であり、そして英語でも“はかること”です。じっくり考えることや、熟考すること、関心を持つこと、献身的であることだけではなく―何かに対して献身的であるだけではなく―献身的な精神でもあります、お分かりですか? そしてその“はかる”という言葉の意味を理解することでもあります。我々は“はかること”によって生きています。“はかること”は時間です、違いますか? 私は自分自身をはかります、今の私とあるべき姿の私をはかります。それが“はかること”です。私はあなたが耳を傾けていることを願います。何らかの瞑想の中へ消えていっていないことを願います。私はあなたがあなた自身で明らかにするために耳を傾けていることを願います、というのは誰もあなたに瞑想とは何かを教えることはできないからです、その紳士がたとえどれほどあご髭を長く伸ばしていようと、あるいはその人がどのような奇妙な衣装を身に纏っていようと。しかしあなた自身で明らかにして、そしてあなた自身で明らかにしたことを守って誰かに依存しないことです。
 そこでそのためには人は非常に注意深くその言葉の意味を理解しなければなりません、そしてそれは基本的に”はかること”を意味します。それではそれは何を意味しますか? 古代のギリシャから現代に至るまで工学の世界では“はかること”が不可欠です―違いますか? 西洋の、むしろ北ヨーロッパの技術的世界の全てが“はかること”に基礎を置いています―違いますか? 人は恐らく“はかること”なしに橋を作ることや驚くべき百階建ての高層ビルディングを作ることができません。そして内面的にも我々はいつも“はかっています”、私はこうでした、私はこうなるであろう―違いますか? 私はこうです、私はこうでした、私はそうならなければならない―違いますか? それは“はかること”だけではなく比較でもあります。“はかること”は比較することです。あなたは背が高い、私は背が低い。あるいは私は背が高い、あなたは背が低い。私は色が白くて、あなたは褐色です―お分かりですか―“はかっています”。そのように“はかること”や“より良く”や“より多く”というこの二語を理解することです―それらの二語を理解して、そして“より良く”あるいは“より多く”というそれら二語を内面的に決して使わないことです―あなたはこれらのことが分かりますか? あなたは我々が対話をしているときにそのようにしていますか? あなたは瞑想という言葉の意味を理解しました。一緒に考えてみること―私はそれ以上それを検討しません―一緒に考えてみること、私が考えてみて、私は正しいというのでなく一緒に考えることです。それはあなたと私が進んで自分自身の偏った見方を手放して考えてみることを意味します。そしてそれは一緒に考えてみることをも意味します。そして“はかる”という言葉の深さを見てみることです―宜しいですか? 我々はそれに簡単に触れてきました。私はそれをもっとずっと検討できます、私はその細部を検討したくありません。しかしその意味を見て取ることです。
 そうすると精神が…頭脳が“はかること”から自由なとき―お分かりですか? 何かになることは“はかること”です。そうすると頭脳が“はかること”から自由になること―あなたはあなたが自由なとき何が起こったのか分かりますか、頭脳が“はかること”から自由なとき、“はかること”に慣れてきた、“はかること”に条件づけられてきた正に脳細胞が突然その真理に目覚めたこと、“はかること”が心理的に破壊的であるという事実に目覚めたこと、従って脳細胞が正に変質を遂げたことをあなたは理解しますか? 分かりましたか? あなたはこれを理解したのでしょうか。
 もしあなたが明瞭ではないならそれを繰り返しましょうか? 人の頭脳はある方向へ行くのに慣れてきました―宜しいですか? 我々の頭脳は北へ、北東へ行くことに慣れてきました、そしてあなたはその先に何があろうとそれが唯一の方法であると考えています。その先にあるものはあなたが発明するものです、当然です。しかしあなたが来て私に言います、その方向は、北東は、あなたをどこにも導かないでしょうと。私は抵抗します。私は言います“いいえ、あなたは間違っています。全ての伝統が、偉大な全ての著述家が、偉大な全ての聖者が、そして誰某の何某が、あなたは間違っていると言う”と。それはあなたが本当には探究していないで、あなたは他の誰かを引用しているということを意味しています。違いますか? それはあなたが抵抗していることを意味します。そうするとその人は私に言います“抵抗しないでください、私の言うことに耳を傾けてください、あなたが考えていることに、あなたの反応がどのようなものかに耳を傾けてください、そして私の言っていることにも耳を傾けてください”と。そのように両方に耳を傾けてください。そして両方に耳を傾けるためには、あなたは気をつけていなければなりません、そしてそれは空間を意味します。宜しいですか?
 そのようにあなたが特別な瞑想の瞬間ではなく日常生活を“はかることなく”生きられるのかどうかを明らかにすることです。あなたはその意味することが分かりますか? “より良く”とか“より多く”とか“私はもっと何々である”とか“私は昨日の自分よりも良い”とかの言葉を決して使わないことです。それは馬鹿々々しくてナンセンスです! 私はそれほど腹を立てていない。私は自分自身を今日は少しだけより厳しく律した。お分かりですか? それが様々な場面で我々がみな行っていることです。そのようにどのような意味でも“はかること”をしない生を生きること―それが瞑想です。一緒に考えること宜しいですか―一緒に熟考することです。共に関心を持つことです。共に“はかること”をしないことです―お分かりですか―もちろん、あなたが服を選ぶときやあなたが車を買うときは、あなたはより良いものを手に入れなければなりませんし、あなたは様々なモデルを見る必要があることなどは例外です。
 そのように瞑想は正にその言葉を深く理解し感じることを意味します、そしてその言葉の正に理解が、その言葉の意味に気づくことが、その言葉の意味の閃きが、“はかること”を、心理的に“はかること”を葬る行為です。お分かりですか? 我々はこのように行っていますか? それともあなたはただこのことと戯れているだけですか? 始めに我々は何かをはかっていませんか―もし我々が自分自身に正直なら、我々はいつも何かをはかっているのではありませんか? それは明らかです。私は貧しかった、今私は豊かである。私は今理解しました、私は以前には理解していませんでした。宜しいですか? それはひどくナンセンスです。なぜならあなたは最初気をつけていませんでした、今あなたは気をつけるように強いられています。お分かりですか? そのようなことです。比較することなしに、心理的にはかることなく日常生活を生きることです。違いますか? それは脳細胞が、その全生活を通して“はかること”に慣れてきた脳細胞が、突然”はかること”を止めたことを意味します、従って脳細胞の中に変質が起こっていることを意味します―違いますか? あなたはそのようにしていないかもしれませんが、その事実を見てください。それは論理的で知的な事実です。それは何か…あなたの頭脳は機械的です、それは明らかです、それには疑問の余地がありません。様々なプログラムに、様々なプロパガンダなどに反応して人の頭脳は機械的に、決まりきったものになっています、九時半から五時まで、あるいは九時から五時までオフィスに行くことなどです。そのようにあなたの頭脳は、その細胞は条件づけられています。そしてその条件づけを即座に破ることは、時間的なプロセスを経てではなくそれを破ることは、全く新しい何かに耳を傾けることです。つまり、心理的に“はかること”を行わないことです。従ってあなたが何の抵抗もしないでその事実を見るとき、その正に気づきが脳細胞の正に構造の中に根本的な変化をもたらします―お分かりですか?
 それではそこから進みましょう。瞑想とは何ですか? 我々はその言葉の意味を共に理解しました、関心を持つ、熟考する、よく考える、一緒に見る―宜しいですか? そして“はかる”という言葉の意味を理解することです、“私は背が低い”“私は背が高い”“私は鈍い”“あなたはわたしよりずっと賢い”などと決して言わないことです。そしてあなたがそのようにふるまうとき、あなたは現にある通りのあなたです、そこから我々は進むことができます―宜しいですか? もし私があなたは賢いのであなたを絶えず真似しているなら、私は真似しているのであり、それは賢さではありません、なぜなら私は比較することで鈍くなっているからです。もし私が賢いあなたと私を全く比較しないなら、私は現にある通りの私です。私はそうすると自分自身を鈍いとは言いません。私は現にある通りの私です。そこから私は始めることができます。しかしもし私がいつもあなたを追い駆けているなら、私はどこからも始められません。私はあなたを追い駆けているのです。お分かりですか?
 それでは瞑想の中に次は何がありますか? 我々は気をつけていること、完全に耳を傾けることの性質を理解しました― 宜しいですね? 耳を傾けるためには空間がなくてはなりません、そしてその空間の中に音がなくてはなりません。そして我々は言っています、神聖なものが、聖なるものが、…なものがありますかと、我々はあるともないとも言っていません…思考によっては決して触れることができない何かがありますかと。私が思考を超えた何かに到達したということではありません、それは馬鹿げたナンセンスです。思考を超えている何かがありますか? それはものではありません。お分かりですか? 思考は物質的なプロセスです。私はそれらを検討する必要はありません、我々はそれを検討しました。そのように思考によって作られたどのようなものにも限りがあります、従ってそれは完全ではありません、それは全体ではありません。宜しいですね? それでは全く完全にこの思考の世界の外にある何かがありますか? 質問がお分かりですか? 我々は一緒に探究しています。話し手はあるとかないとかと言っていません。我々は探究していて、あなたは気をつけています、耳を傾けています、そしてそれは何を意味しますか? 思考的な活動が全て止みました―違いますか? 日常的な世界や物理的な世界は例外です、私は何かをしなければなりません、宜しいですか? 私はここからあそこへ行かなければなりませんし、私は手紙を書かなければなりません、私は車を運転しなければなりません、私は何かを食べなければなりません、私は料理をしなければなりません、私は皿を洗わなければならないなどです。そこでは私は思考を使わなければなりません、思考がどれほど限られたものであろうと、思考がそこではどれほど決まりきったものであろうと。しかし内面的には、それは心理的にはということですが、思考が完全に止んでいなければ更なる働きはありえません。違いますか? それは明らかです。あなたは質問が分かりますか? 思考を超えた何かを観察するためには、思考が止んでいなければなりません。どのようにして思考を止めるのかではありません、思考を止めるメソッドとは何かではありません、それではそれは精神集中であり、コントロールです、コントロールする当のものは何ですか―お分かりですか? コントロールがもたらす心理的な争いです。それらは全て子供じみた未熟な代物です。
 そうすると探究するためには、更なる閃きを得るためには、思考によって作られたものではない思考を超えた何かがあるのかどうかを観察するためには、思考が完全に止んでいなければなりません、その正に明らかにしようとする必要性が思考に終止符を打ちます。分かりましたか? 私はある山を登りたいと思います、ユングフラウです―私には登れません、しかし仮に私が登れるとするなら―私はトレーニングをしなければなりません、私は鍛えなければなりません、私は来る日も来る日ももっともっともっと登らなければなりません―違いますか? 私は全てのエネルギーをそれに注がなければなりません―違いますか? そのように思考以上のものがあるのかどうかを明らかにしようとする必要性が、その正に必要性が思考に終止符を打つエネルギーを生み出します。このことが分かりましたか? 
更に観察するための思考の消滅の必要性が、その正に必要性が、思考の消滅をもたらします。それはそのようにシンプルです。それを複雑にしないで下さい。お分かりですか? 我々はこの点について明瞭ですか? もし私が泳がなければならないのなら、私は泳ぐことを習います。泳ごうとする思いは泳ぐことの恐怖よりも強いのです。
 従ってこのことは重要です、なぜなら思考、限られた思考、その限界にはそれ自身の空間があるからです。宜しいですか? お分かりですか? それ自身の何らかの秩序です。限られた思考活動が止むと空間が生まれます―宜しいですか? 頭脳の中の空間だけではなく、何らかの空間です。自己がそれ自身の周りに作り出す空間ではなく限界のない空間です。お分かりですか? 思考が自らその限界性を発見して、その限界性が世界の大破壊を生み出していると分かると、正にその観察が思考を消滅させます、なぜならあなたは―お分かりですか―何か新しいものを発見したいからです。それは、宜しいでしょうか、工学に慣れていて訓練をつんできた人が、ピストンである内燃機関の理解に何年も励んできました。そして彼は言います“私はそれ以上の何かを発見したい”と。そこで彼は新しい何かを見るために、それら全てを脇へ追いやりました―宜しいですか? もし彼がいつもそれらを携えているなら、彼は新しい何かを見ることができません。お分かりですか? ジェットエンジンはそのようにして発見されました。それを発見した人は内燃機関を完全に理解しました、つまり、ピストンやその他の全てです、プロペラです、そして彼は言いました、もっと何かがあるはずであると。彼は見守っていました、待っていました、耳を傾けていました。そして彼は何か新しいものに出会いました。私の言っていることがお分かりですか? 同じように―五分間長くても問題ではありませんね?―同じように私は分かります、人は分かります、思考には限りがあると。思考が何を行おうと、それにはいつも限りがあるでしょう。それは明らかです。その性質上それは条件づけられているので、それには限りがあります。それはその機械を使ってそれ以上進めません。従ってそれは言います“もし私がもっと進みたいと強く思うなら、この機械は消滅しなければならない”と。それは明らかです。そうすると思考の消滅が始まります。お分かりですか? そうすると何らかの空間が生じて、沈黙が生まれます。つまり、瞑想はその言葉の、“はかること”の意味の理解です、そして心理的に“はかること”の、それは何かになることですが、その消滅です。その消滅であり、限りのある思考を見て取ることです―思考は絶えず限られています。それは限りのないことを考えるかもしれませんが、それは依然としてその限界から生まれています。従ってそれは止みます。そのように頭脳が、お喋りをしていた、ぼんやりしていた、限界づけられていた頭脳が、突然何の強制もなく、何の規律にもよらずに沈黙しました、なぜならそれはその事実を、その真理を見て取るからです。そしてその事実は、その真理は、我々が先日指摘したように、時間を超えています。従って思考が止みます。
 そうすると頭脳の中にあの絶対的な沈黙を感じます。思考の全活動が止みました。それは止みましたが、物理的な世界で必要性が起こるとき、それは機能させられます―お分かりですか? それは穏やかです。それは沈黙しています。そして沈黙が生まれるところには何らかの空間があるはずです、際限のない空間です、なぜならそこから…する自己がないからです―お分かりですか―自己にはそれ自身の限られた空間があります、あなたがあなた自身について考えているとき、それは限られていてそれ自身の狭い空間を作り出します―違いますか? しかし自己がないとき、それは思考の活動がないときですが、頭脳の中に壮大な沈黙が生まれます、なぜならそれは今やそのあらゆる条件づけから自由だからです。そして何らかの空間と沈黙が生まれるとき、そのときのみ時間や思考によっては触れられない何か新しいものがありえます。それがもっとも聖なる何か、もっとも神聖な何かかもしれません―恐らく。あなたはそれを言葉にできません。それは恐らく名付けようのない何かです。そしてそれが生まれるとき叡智と慈悲心と愛が生まれます。
 そのように生は断片的ではありません。それは全体的にまとまったプロセスの活動であり、そのように生きている何かです。
 我々は死について少しも話しませんでした。我々には時間がありません。我々はそれを今は始めません。我々はそれについて他の機会に十分話してきました。しかし死は生と同じように、生きることと同じように重要です。それらは表裏一体です。生きることは死ぬことを意味しています、そしてそれは生きることが大いなる労苦であることを意味します―違いますか? 苦痛、不安、それを終わらせることが死ぬことです。それは二つの水流が一緒に流れているようなものです、そしてその背後に途轍もない水量を湛えています。そしてそれらはこれらのトークの初めから今まで瞑想の一部です、なぜなら我々は人間の性質を検討してきて、そしてその中に根本的な変質をもたらそうとしてきたからです。そしてそれはあなた自身以外に誰もできません。終わりです。立ち上がっても宜しいですか? 
                    1983年 7月21日 ザーネン トーク 6
                            中野 多一郎 訳