クリシュナムルティをめぐりて

ザーネン トーク5 1984年 7月17日

クリシュナムルティ) 日曜日の続きから始めて宜しいでしょうか?
 我々は生の様々な事柄や問題を話してきています、我々の日常生活の中の恐れや関係性や様々な争いです。なぜですか、人が自分自身に問うとすれば、なぜ我々はいつも問題を抱えるのですか、関係性の問題、経済の問題、社会の問題、個人の問題などです。我々は多くの、多くの問題を抱えて生きているようです。そして我々はそれらを決して解決できません。一つの問題を解決しようとすると我々は他の多くの問題を作り出します。我々は死ぬまで沢山の問題を、沢山の未解決の危機などを抱えて生きていくようです。もし人が気づくなら、我々の日常生活に気を配るなら、人は問えますか、なぜ我々はそれらの問題を抱えるのかと。なぜ我々はそれほど沢山の事柄、要求、未解決の問題を抱えて一生を送るのですか? 我々の頭脳は様々な問題に条件づけられているのですか? 子供の時から学校で、大学で、もし人がそういうプロセスを経るなら、あらゆる段階の教育が頭脳を様々な問題に条件づけています、数学の問題、技術の問題そして人が経験する様々な規律の問題です。我々の頭脳は我々が生を受けてから条件づけられているのですか? 我々は様々な問題を抱えています、そして頭脳はそれらの問題を解決するように条件づけられてきています、違いますか? そのように我々の頭脳は様々な問題に条件づけられています、違いますか? 我々は一緒に話し合っています、話し手は何かを教えているのではありません。話し手は何かをあなたに吹き込んでいるのではありません、そのようにこれは講話ではなく、我々は一緒に歩を進めています、物理的に歩を進めるだけではなく内面的にも心理的にも深く歩を進めています。ですから、そのように歩を進めるためには我々は共に歩むのでなければなりません。そのようにあなたもあなたの歩を進めています、話し手だけが歩んでいるのではありません。そのように我々は一緒にそれらの問題を注意深く見ていきます。そのように話し手は何らかの権威ではなく、むしろ二人の友人がそれら生の沢山の問題を話し合っているのです。それが我々の正に一緒に行っていることです。
 我々は問うています、なぜ我々は我々の問題をどれも解決できていないのかと。それは我々の頭脳自身が問題の解決に条件づけられているからですか、従って頭脳自身が問題から自由ではないからですか? 自由な頭脳のみが様々な問題を解決できます。しかしもし頭脳自身が条件づけられていて、従ってそれ自身が何らかの問題になっているなら、どのような問題が生まれるにせよ、それはそれらを解決できません。我々は原因を問うています。なぜ頭脳は、もしあなたが頭脳という言葉が嫌なら、なぜ我々の意識は、我々は意識について話し合うことになりますが、なぜ我々の意識は多くの事柄がそんなふうに絡み合っているのですか、我々の意識が、それは我々そのものですが、それほど複雑な何かのとき、それはそのように複雑では何も解決できません。違いますか? それは単純な事実です。
 我々は問うています、そのような意識、そのような精神は自由でありえるでしょうかと。生は様々な問題を抱えています。生は絶えず問題を作り出しています。もし頭脳が、意識が、我々の全存在が自由でないなら我々はいかなる問題も決して解決できないでしょう。宜しいでしょうか。我々はお互いに耳を傾けていますか? あなたは、友人として言わせてもらうなら、あなたは完全に耳を傾けていますか、余すことなく、そこに座っていて、あるいは森の中を一緒に歩いていて、あなたは余すことなく耳を傾けていますか、それとも部分的に聞いているだけですか? もしあなたが部分的に聞いているなら、気を散らした状態で聞いているなら、あなたは余すことなく気をつけて耳を傾けていません。あなたはこれまであなたの妻あるいは夫に完全に耳を傾けたことがありますか? それともあなたは彼あるいは彼女が言わんとすることをすでに知っているのですか? 我々は彼女あるいは彼と暮らしてきて、そしてその他にも様々なことを共にしてきているので、あなたは彼女あるいは彼の言うことに慣れています、彼の言葉づかいに慣れています、彼の度重なる反応に慣れています、従ってあなたは彼が話し始める前に彼の言わんとすることがほとんど分かります。我々はそんな風ですか? あなたは話し手に耳を傾けますか? 彼の言うことをこれまで聞いてきたというのではなく、初めて彼の言うことに耳を傾けるように、あなたはこれまでそのようにしたことがありますか? 夕暮れあるいは早朝の小鳥の声に耳を傾けるように。あなたはこれまで木の葉の囁きに耳を傾けたことがありますか? あなたはこれまで青空に漂う雲に耳を傾けたことが、見入ったことがありますか?
  そのように耳を傾けることは霊妙な働きです。それは霊妙な振る舞いです。あなたが気を散らすことなく、余すことなく耳を傾けるとき何も遮るものはありません、なぜならあなたはあなたが耳を傾けているものに余すことなく気をつけているからです。気が散るときのみ、部分的に聞いているときのみあなたは人とのコミュニケーションを失います。
 それでは耳を傾けるということがどういうことかを一緒に見ていけますか? 耳を傾けるという霊妙な働きです。物理的な耳でだけではなく内面の耳にも耳を傾ける霊妙な働きです。あなた自身だけではなく、あなた自身の動作や反応だけではなく、相手の言うことにも耳を傾けるのです、従ってあなた自身の反応と相手の言うことに等しく気を配っていて分断がありません。それが余すことなく気を配って気づく霊妙な働きです。あなたがクラッシク音楽、ベートーベンやモーツアルトやバッハなどを聴くとき、あなたは完全に聴いています、以前に聴いたことを思い出したりしません、かつて聴いたときのロマンチックな感動を思い起こすことなく、実際に今そのとき耳を傾けて聴いています。それが、我々の言ったように、霊妙な働きです、同様に見ることは霊妙な働きです、移ろう雲、過ぎゆく列車を見るのです、それは正に大いなる雲の美です。そのように正に美を感じるとき干渉する自己は存在しません、自己は、あらゆる問題を抱えた意識はそのとき存在しません。そのように耳を傾ける霊妙な働きが生まれるとき、見る霊妙な働きが生まれるとき、この正に美が生まれるとき、あるいは列車の通り過ぎる音を聞くとき、完全に耳を傾けているとき、自己は全く存在しません。あなたはただ耳を傾けているだけです、見ているだけです。このことはロマンチックな何かではありません、もしあなたが実際にそのように行うなら、あなたはそれがとてもシンプルなことが分るでしょう。
 そこで我々は問うています―(飛行機の音)―あの音に耳を傾けてください! あの飛行機の轟音。あなたが本当に耳を傾けているときあなたはいません、違いますか?  それでは続けましょう。我々は探究しなければなりません―(飛行機の騒音)―あなたがあの飛行機に完全に耳を傾けているときあの音に何の抵抗もしません、抵抗するとき、あるいは防御しているとき自己が現れます、違いますか―(また飛行機の騒音)―(笑)(参加者)
 我々は様々な問題について話していました、頭脳は問題そのものから自由になりえてそれを解決するのかどうかを話していました。それを理解するためには我々は意識の問題を注意深く見ていかなければなりません。意識です、あなたはその意識という言葉を使いたくないかもしれません。心理学者の中にはその言葉に異議を唱える人たちがいます。たとえあなたがその言葉に反対しても、あらゆる反応が起こります、生物的、感情的、知的反応が起こります。それらの反応は頭脳に記憶されます、そのように様々な反応は、生物的な物理的なそれらは、感情的なそれらは、知的なそれらはみな頭脳に含まれます、記憶されます。もしあなたが苦痛を感じれば、それは記録されます。そのような記録や記憶は意識の一部です。そしてそのような意識はあなたの信念であり、あなたの反応であり、あなたの信仰であり、あなたの恐れや不安、疑い、憂鬱、孤独、苦痛、楽しみ、悲しみであり、あらゆる想像上のロマンチックな神の概念であり、宇宙です、それら全てがあなたそのものです。違いますか? それら全てはあなたの意識です。そのように我々の意識は絶え間なくそれ自身の反応と葛藤しています。違いますか? お分かりでしょうか。それは明らかです。それらを詳しく調べる必要がありますか?  一つの欲望が他のそれらと対立しています。一つの意見が他のそれと対立しています、一つの結論が他のそれへと変化を遂げます。人は一つの信念を捨てて別の信念にしがみつきます。違いますか? 一つの楽しみがそれに飽きて別のそれへ鞍替えします。そのように我々の頭脳は絶えず混乱しています。違いますか? それは事実です。誰もそれを否定できません。そのように我々の意識は、我々そのものは、一人ひとり、我々の意識の全内容です。違いますか? 我々が身につけているのは、それが何らかの技術であろうと、科学的な収集蓄積であろうと、知識の収集蓄積であろうと、経験のそれであろうと、それら全てがあなたです。あなたの魂です、もしあなたが魂を信じるなら、あるいはもしあなたがアジア人ならあなたは他の何らかの信念をもつのです、そのようなことです。違いますか? このことは宜しいですか?
 それではそのようにあなたのものとして特別になっているこの意識とは何でしょうか? 宜しいですか? 私の質問が分かりますか? あなたは言います、それは私の意識であってあなたのではありませんと。私が苦しみます、その苦しみは私であり、私のそれです。楽しみがあります、それは私のそれです、私には信条があります、それは何百万人あるいは何千人と共有しているかもしれませんがそれはそれでも私の信条です。違いますか? そこで我々は問いたいと思います、それは全くあなた自身のそれであるのかどうかを。我々は教育されています、生物学的にも、社会的にも、宗教的にも我々は他の人とは全く別であると。違いますか? あなたは男であり、他の人は女であり、子供であり、片足を棺桶に突っ込んでいる老人です、そのような違いがあると。しかし意識の中において我々は異なりますか? 質問がお分かりでしょうか。どうかこのことをよく考えてください。ただ聴いているだけではいけません。あなたはただ答えを待っているだけなのかを問うているのです、しかし我々は一緒にこの問いを問うているのです。我々はこれまで我々の意識や我々の知恵、我々の感情、我々の概念は全て我々個人のものであり、私であると受け取ってきました。そこで話し手とあなたはその事実を問うています。それはあなたがそのことに疑念を抱いて疑って問うていることを意味します。
 あなたが世界中を歩き、世界の至る所の小さな村や大きな村や巨大な都市などの様々な場所を見て回ると、全ての人間が同じように何らかの苦しみを抱えていたり、笑っていたり、涙を流していたりしていて、あなたと同じように、人々はみな何らかの問題を抱えていたりします、それぞれが何らかの感情を抱いていたりします、あなたと同じです。その人たちは洗練されていないかもしれませんし、教育を受けていないかもしれませんし、世界がどうなのかを知らないかもしれませんが、その人たちはみなそれぞれ何らかの恐れや不安、憂鬱、深い孤独感、悲しみを抱き、そしてそれら全ての悲惨をやり過ごす何かを期待しています、彼ら自身の神々を信奉しています、あなたが自身の神々にそうするように。そのようにこの意識は、どうか話し手の言うことをそのまま受け入れないでください、問うてください、疑ってください、自身で歩を進めてください、そのようにこの意識は、それは我々のものであると我々は考えますが、あらゆる人間に共通です。違いますか? 地球上のあらゆる人間に共通です。
 そのようにこの意識は我々全てに共通です。宜しいですか? その結果、我々全ての意識、感情、反応は、それがどんなに繊細であろうと粗末であろうと粗雑であろうと地上のあらゆる人間によって共有されています。そのようにそれは私の意識でもあなたの意識でもありません。違いますか? これはあなたが受け入れようとしないところです。従って我々は個人ではありません。あなたはそれを受け入れますか? あなたはそのことが分かりますか? 最初は論理的に理解してください。論理は必要です。論理的に考える必要があります。論理的に一歩一歩、論理的に一歩一歩見ていきます、我々が行ってきているように。そしてあなたがそのことに気づくと、その事実に気づくと、推測ではなく、あるいはロマンチックな理想ではなく、我々みなが意識を共有しているというこの事実に気づくと我々はみな同じ土台の上にいます。我々はみな同じ経験をしています、何らかの苦しみや悲しみ、楽しみ、憂鬱、不安です。あなたがその真理を理解すると、その真実を感じると、あなたは余すことなく人間そのものです。あなたは人間性です、あなたの中に何の分離もありません、そしてあなたは言います、私はスイス人で独特の環境で育ちましたと。もちろんあなたの周りには独特の生育環境が備わっています、あなたはそれらの驚くべき山々に囲まれています、裕福であり、よく成長しています、カッコつきですが教育も受けています。そして恐らく外国の遠く離れた小さな村に住んでいる少年は教育を受けていないかもしれません、彼はただ生きているだけです、懸命に生きています、一日一食です、しかし彼は考えます、あなたと同じように考えます。考えることは我々全てに共通です。考え方は違うかもしれません。あなたが詩人ならあなたは詩を描くかもしれません。あなたが画家ならあなたはそういう類のことを行うかもしれません。しかし考えることは我々みなに共通です。
 そのようにもしあなたがその真理が分かるなら、その深さが分かるなら、それを感じるなら、その微妙なことが分かるなら、あなたはあなたが人間性そのものであることに気づきます、従ってあなたには途轍もない責任があります、あなたは他の人を殺すことはできません、なぜならあなたは自分自身を殺しているからです。
 そのようにこの意識を理解するとき、意識は、我々が言ったように、全ての過去の記憶であり、頭脳に記憶として蓄積されているそれらの知識を携えた経験です、この記憶は、その表現ではなく、その記憶は共通です。あなたはあなたの家に帰る道を覚えています、同じようにその小さな村人も何千マイル離れた家に畑から帰っていきます。そのように我々は問うています、そのような意識が、様々な反応などとして頭脳に蓄積されている限り、そのような頭脳が混乱状態にある限り、様々な問題を抱えている限り、それはいかなる問題も解決できません。妨害されない、限界づけられない自由な頭脳だけが、そのような頭脳だけが問題を解決できます。
 そこで我々は自分自身に問うています、そのような頭脳は、そのような意識はその全ての内容と共に、宜しいですか、内容が意識を作るかどうかを。もし内容が存在しなかったら意識は我々が今知っているようには存在しないかもしれません。宜しいですか? 話し手は一つのトークで沢山のことを話していますか? もしそうならごめんなさい。そのようになるのです。なぜなら我々は、もし時間があるなら、悲しみや熱気を検討しようとしています、熱気は熱望とは違います、そして悲しみとは何かです。そしてまた、今朝時間があるなら、我々は死の計り知れない問題を探究しなければなりません。というのもあと一回しかトークできないからです。木曜日です。
 そこで我々は問うています、この意識は、その内容と共に、自由でありうるのかどうかを、意識ではなく、この意識を抱える頭脳です。宜しいですか? この頭脳は、様々な記憶を保持する、過去、現在そして未来のそれを保持する頭脳は、そのような頭脳は、そのような意識は完全に空になりうるのでしょうか? 質問がお分かりでしょうか。どうかその質問を自分自身に問うてください。(列車の轟音、汽笛を鳴らす)あの列車は今まで汽笛を鳴らしたことがありません、恐らくあれは我々を鼓舞しています! そして我々がこの問いかけをするとき、つまり頭脳の内容が、日常生活の知識やスキルではなく、心理的に保持されている全てが、記憶されているものが余すことなく雲散霧消しうるのかどうかという問いかけです。これは本当に正に非常に真剣な問いかけです、なぜなら我々はこのような意識と共に四万年あるいは五万年生きてきたからです。そして我々はあらゆる種類の神々、あらゆる種類の救世主、あらゆる種類の宗教書を古代のエジプトから現在に至るまで発明してきています。そこで我々は頭脳が日常生活にとって欠かせない必須な知識を除いてそれ以外の領域の知識を、心理的な、記憶する精神の状態、あらゆる過去や現在を含む精神の状態を保持しないことが可能かどうかを検討する必要があります。宜しいですか?
 そこでこのことを検討するためには我々は時間も見ていかなければなりません、四万五千年から今までの時間です、そのような膨大な時間の継続です。そしてまたそのような長い時間の中で多くの神々、多くの聖典が生み出され、残酷さ、戦争、絶望、涙、笑い、不安、安全性の喪失について多くが語られてきました。そしてそれが我々そのものです。つまり、過去は現在の中に含まれています。それははっきりしています。過去は現在の中にあります。そして未来は現在の中にあります。我々は四万五千年経ているので我々が今根本的に変わらなければ我々は次の四万五千年を過ごすことになります。違いますか? このことは論理的です。
 それではこの意識が完全に消滅することは可能ですか、その全ての様々な問題と共に、様々な混乱などその他の全てを引き連れて消滅することは可能ですか? もしそれら全てが消滅しないならあなたは明日も何千年先の明日も間違いなく、多少の修正はされても今のあなたのままでしょう。宜しいですか? 違いますか? ですからそれが死です。我々はそれをもっと検討します。
 我々は愛とは何かを、慈しむとは何かを、苦痛を伴う悲しみとは何かを検討しなければなりません。人間は時間の始まりから涙を流してきました。人間はお互いを殺し合ってきました、恐らく一度に何人も、弓矢で、棍棒で、剣で、殺し合ってきました、何千もの、何百万もの人々が苦しんできました、涙を流してきました、人々は息子たち、夫たち、恋人たちなどその他の全てを失ってきました。人間は始めからこのようでした、そして四万年、五万年を経てもなお我々はいまだにこれまでと同じです、ただ今我々は一度に何百万を破壊する驚くべき兵器を手にしているだけです。我々は途轍もなく進化してきました、違いますか? これを進化と称します。そのようにそれら四万五千年間人間は涙を流してきました、悲しんできました、人は息子たちを、夫たちを、妻たちを失ってきました、大きな都市を破壊してそこに新しい都市を築くなどしてきました。そのように人間は、人類は途轍もなく苦しんできました、そして我々はいまだに途轍もなく苦しんでいます。これはロマンチシズムではないし感情論でもありません、これは事実です。そして我々は全く立ち止まっていません、我々は同じ道を歩んでいます、同じことをしています。そして我々は泣いています。そのように人間は我々が今苦しんでいるように途轍もなく苦しんできました。この地球上で苦しんでこなかった人間は一人もいません、物理的にも、生物的にも、感情的にも、知的にも一人もいません―(飛行機の轟音)―彼らは我々を愛しているようですね!
 そして我々は悲しみが消滅するのかどうかを問うてきませんでした、あるいは検討してきませんでした。そして問う代わりに、その問いに向き合う代わりに、我々は言ってきました、他の誰かが我々の代わりに苦しむと、キリスト教徒が行うように、そしてアジアでは、昔のインド人を含めて、人々は言いました、それはカルマの一つであると、お分かりですか、そのカルマはサンスクリットの言葉で、その語源の意味は行うことです。あなたが蒔いた種はあなたが刈るのです、この世であろうと次の世であろうと。それがその考え方です。あなたの蒔くものが、今のあなたがあなたの次の世のあなたです、恐らく多少の修正があっても今のあなたが次の世のあなたです。そのように我々は何らかの理論、推測、信仰、次の世の考えなどに慰められてきました、しかし我々は事実に向き合ってきませんでした、我々は事実の中に身を置いてきませんでした。人は決して言ってきませんでした、私は苦しんでいると、私はそれと共に生きてなぜ私が苦しむのかを見出そうと―それから逃げないで、目を背けないで、いかなる慰安も求めずにそうしようと。それは苦しみが宝石であることを意味します、高価な宝石です。宜しいですか、もしあなたが高価な宝石を手にするならあなたはそれを眺めます、それに驚嘆します、その美を見つめます、そのプラチナ、金、銀の構造に見入ります、その繊細さ、優雅さ、その美に見入ります、あなたはそれを手に取って見つめ決してそれから眼を離しません。同様にもし人がその事実である悲しみを手に取りうるなら。病的にではなく、それから眼を離さず、ただそれを手に取ってそれを見つめるのです、しかしそれは観察者がそれを見るのではなくそうするのです。何年か前友人が途方もない宝石を持っていました。それはこの上なく美しい宝石でした、そして友人は言いました、ちょっと手に取ってみてと。私はそれを手に取りました、話し手はそれを手に取り、それを見つめました。それは本当にこの上もなく途方もないもので、古代のそれであり、非常に高価で値がつけられないものでした。そしてそれはあなたの目の前にあるものであり、その宝石はあなたの一部ではありませんでした、それはそこにあるものであり、その腕時計のように、そのマイクロホンのように、そのカメラのようにあなたの一部ではありませんでした。しかし悲しみはあなたであり、あなたは悲しみと分離していません。違いますか? あなたが悲しみです。しかし我々は言います、どのようにしたら私はそれから自由になるのかと。従ってあなたがそのように言うや否や、あなたは自分自身をあなたが悲しみであるという事実から分離します。このことはお分かりでしょうか?
 あなたが怒っているとき、貪欲なとき、あなたが正に貪欲です、違いますか? あなたは貪欲と分離していません、あなたが正に貪欲です。しかしこう言います、私は貪欲を取り除かなければならない、あるいは私は貪欲さを手に入れなければならない、などと。お分かりでしょうか? あなたが何らかの感情をあなた自身から分離するや否や、苦痛を分離するや否や、不安を分離するや否や、その分離こそが葛藤を生みます。違いますか? そのように悲しみがあなたです、あなたの自己憐憫、喪失感、孤独感、挫折感、自責の念、後悔、罪悪感などそれら全てがあなたです。あなたがいわゆる愛した人を失った喪失感です。そして我々はその悲しみをあなたから分離するとき、あなたは悲しみとは異なると考えて、あなたはそれから逃げたくなります、それに代わる慰めを探し求めます、しかしあなたが正にそれであるとき、あなたはそれそのものであるので、あなたはそれを手の中に入れて、それを手放さず、いかなる思考の妨害も排除してそれに触れています。あなたはただ見守っているだけです。そうするとあなたは分かります、もしあなたがあなたの全存在でそれに触れているとその悲しみが消滅するのが、決して元には戻らないことが。
 悲しみが消滅すると熱気が生じます、エネルギーが生じます、無限のエネルギーであり、熱気です。熱望は一時のもので繰り返し起こります。しかし熱気は決して繰り返せません、それは悲しみが消滅しているのでそこにあります。そしてほとんどの我々にはこの熱気がありません、なぜなら我々のほとんどが楽しむことに囚われているからです。
 そのように悲しみが消滅すると愛が生まれます。もしあなたが苦しんでいるなら物理的だけではなく内面的にもさらに苦しんでいるなら、どうしてあなたは人を愛することができますか? あなたは憐れむでしょうし、共感するでしょうし、優しくなるでしょう、寛大になるでしょう、しかしそれが愛ではありません、しかし愛はそれら全てを含みます。なぜなら我々は言ってきました、我々は愛とは何かを検討しなければならないと。
 それは悲しみの消滅だけではなく嫉妬の消滅であり野心の消滅でもあります、どうかこのことに耳を傾けてください、野心の消滅でもあります。どうしてあなたは人を愛せますか、愛を心の中に宿せますか、もしあなたが野心的になっているなら、もしあなたが野心的に、物理的世界であれ心理的世界であれ、何かを成し遂げようとしているなら、何かを満たそうとしているなら。あなたが悟ろうと野心を抱くとき―これは何と言う馬鹿げた言い方でしょう―あなたが瞑想するとき、あなた方の幾人かがそうするように、恐らく瞑想について語る多くの人たちがそうするように、その人たちは野心的です、なぜならその人たちは何かに到達したいからです。従ってその人たちに愛は生まれません、なぜならその人たちは依然として何かを手に入れたいと考えているからです。
 それではこの途方もない香りが漂うことはありえますか、そこには嫉妬することもなければ何かと比較することも何かと対立することなど生じません。愛が生まれると、そのような愛が生まれると慈しみが生まれます。つまり慈しみは悲しみから解放されるときにのみ生まれます。あなたに熱気が生まれますか、あなたが国家に従属するとき、宗教に従属するとき、何らかの集団やセクトに従属するとき、あなたが何らかのリーダーのとき、あなたが何らかのグルのとき。あなたはこれらのことが分かりますか? そしてそのような慈しみが生まれると叡智が生まれます。
 我々は正にこの叡智のことを検討しなければなりません。叡智は興味とは異なります。叡智は非常に賢くなっている思考の活動とは全く異なります。人は途方もなく賢くなって人々を操ります、そしてそれを愛と称します。違いますか? このことがお分かりですか? あなたは叡智が何であるのか問うたことがありますか? モーターを組み立てるには大いなる英知を要します。違いますか? 月へ行くには三十万人の大いなる英知を要します。中性子爆弾を造り出すには、潜水艦を造り出すには、航空機を造り出すには驚異的に賢い英知を要します、しかしそのような英知には限界があります。違いますか? それは機械的です、つまり記憶や知識や経験のたまものです、そして思考にはそれ自身の活動があり、それを思考は英知と称します。違いますか? しかしそのような英知には限界があります、なぜなら思考には限界があるからです。我々は思考の問題を検討しました。つまり思考は記憶に基づいていて、記憶は知識の収集蓄積です、そして知識は経験の結果です。そして我々は何千も何千も経験してきています、恐らく何百万もの経験をしてきています、我々はそういう人間です、しかしさらに多くの経験が我々の行く手に待ち構えています。そのように蓄えられたあらゆる経験が知識になります、従ってそのような知識には限りがあります。それは明白です。そしてそのような限られた知識が頭脳の中に記憶として保持され、そしてその記憶の反応が思考です。従って思考は正に限られています。あなたは無限の状態を想像できますがそれも依然として限られた何かです。あなたは神を全能の神、恵みの神などあれやこれやと想像できますが、それには依然として限界があります。そのように叡智はそれらとは全く異なる何かです。それは愛と慈しみが生まれるときに働きます。そのような叡智は合理的で健全で健康的で限りがありません。そうすると我々人間は、この地球上に生きて、日常生活のつまらない退屈な仕事をしながら、あるいはうきうきする仕事をしながら慈しみに満ちていて、この途方もない愛の香りを漂わすことができるでしょうか? そうするとそこに至高の叡智が生まれます。
 終了する時間です。ですから我々は死の問題を議論しなければならないでしょう、死の途轍もない意義です、死の力強さです、それは愛のそれと同じです。そして我々は木曜日の朝、明後日の朝、宗教とは何かを、瞑想とは何かもまた一緒に話し合わなければならないでしょう。話し手はトークの最後に死や宗教や瞑想について話し合います、なぜならこれまでの五回のトークで、このトークを含めて、我々は基礎を固めてきました。そのような土台がしっかりしていないと、つまりそれはいかなる恐れも幻想も抱かず、人と争わずに人と交わり、悲しみが消滅していること意味していて、そのような土台がしっかりしているときのみ我々は瞑想とは何かを検討できます、いかに瞑想するかではありません、実際に瞑想を生きることであり、宗教的生と我々の称する実際の生を生きることであり、それは死の大いなる意味を生きることです。
立ち上がっても宜しいでしょうか?
           ザーネン トーク5 1984年 7月17日
                 中野多一郎 訳