クリシュナムルティ 集団と個人を区別すること、そしてどこで集団的なことが終わり、どこで個人的なことが始まるのかを発見すること、そしてさらに集団であることの意義を見て取ること、そして個人的なことを余すことなく生み出すために集団的なことから正に自由になることができるのかどうかを見出すことが非常に難しくなっていると私には思われます。あなたがこの問題を考えたことがあるのかどうか私は知りませんが、それは世界が直面している根本的な問題の一つであると私には思われます、とりわけ集団的なことに大いに重きが置かれている現代では特にそうであるように私には思われます。共産主義国家だけではなくイギリスのような福祉国家が作り出されている資本主義国家でも更に多くの意義が集団的なものに与えられていて集団農場や様々な形の協同組合ができています、そしてそれらを見ると、どこで個人的なものが関与するのか、個人というものがあるのかどうか分からなくなります。
あなたは独りの個人ですか? あなたにはあなたの名前、あなたの銀行口座、あなたの家があり、あなたはあなたの顔を持ち、あなたにはあなたの心理的な特徴がありますが、あなたは独りの個人ですか? 私はこのことを検討するのは非常に重要であると思います、何故なら個人的な非腐敗性があるときのみ、そのことを私は間もなく議論しますが、全く新しい何かが起こる可能性があるからです。それはどこで集団的なものが終わり、それが終わればですが、どこで個人的なものが始まるのかを自分自身で見出すことを意味します、そしてそれは時間の全問題を含みます。これはきわめて複雑なテーマであり、複雑であるがゆえに人はそれに単純に、直接、遠回りしないで取り組まなければなりません、そしてもし宜しければ、私は今朝このことを検討したいと思います。
どうか、宜しければ、私が話しているとき、あなた自身の考え方を観察して下さい、単に話されていることに同意したり同意しなかったりして聞くのは止めて下さい。もしあなたが単に同意したり同意しなかったりして、表面的な知的な見方で聞いているだけなら、この話は、これまでの話は全く無駄でしょう。一方、もし人が人自身の精神の働きを私がそれを描写しているとき観察できるなら、その正に観察が驚くべき行動を、課されたのでもなく強いられたのでもない行動を生み出します。
私は我々一人ひとりがどこで集団的なものが終わり、どこで個人的なものが始まるのかを見出すことは非常に重要であると思います。或いは、気質や個人的な特徴などで修正されるかもしれませんが、我々の考え方の全て、我々の全存在は集団的なものですか? 集団的なものは、社会的行動や社会的反応によって、教育的影響によって、宗教的信仰や教義や主義などその他の全てによってもたらされた様々な条件づけの集合です。この異成分からなる全過程が集団的なものであり、もしあなたが検討するなら、あなた自身を見るなら、あなたはあなたの考えるあらゆるものが、あなたの信仰や非信仰、あなたの理想や理想の反対、あなたの努力、あなたの妬み、あなたの衝動、あなたの社会的な責任感―それら全てが集団的なものの結果であるのが分かるでしょう。もしあなたが平和主義者であるなら、あなたの平和主義は何らかの特殊な条件づけの結果です。
従って、もし我々が自分自身を見れば、どれほど完全に我々が集団的であるのか見て驚きます。結局のところ、西洋世界では、キリスト教が何世紀も存在してきた西洋世界では、あなたはその特殊な条件づけの中で育てられています。あなたはカトリックとして或いはプロテスタントとして、プロテスタント主義の全ての分派と共に教育されています。そして一度あなたがキリスト教徒として、ヒンズー教徒として、或いはそれが何であれ何かとして教育されて、その類のことを信じると―地獄、永遠の罰、煉獄、唯一の救い主、原罪そしてその他の数知れない信仰―それによってあなたは条件づけられます、そしてあなたはそれから逸れるかもしれないけれども、その条件づけの残滓が無意識の中に残ります。あなたは永遠に地獄を恐れます、或いは何らかの救い主などを信じないことを恐れます。
従って、人がこの途方もない現象を見るとき、自分自身を個人と呼ぶことがむしろ愚かであるように思えます。あなたはあなたの嗜好を持ち、あなたの名前や顔を持っていて、他の人のそれとは全く違うかもしれませんが、あなたの思考の過程は正に全く集団的なものの結果です。人種的な本能、伝統、倫理的な価値観、途方もなく成功を崇めること、力や地位や富を強く願望すること、そしてそれが暴力を生むこと―明らかに、それら全ては集団的なものの結果であり、それらが何世紀にもわたって引き継がれてきました。これら全ての集合から個人を救い出すことは可能でしょうか? それともそれは全く不可能でしょうか? もし我々が根本的な変化、何らかの革命を生みだすことに真剣であるなら、この点を根本的によく考えてみることがとても必要ではないでしょうか? 何故なら私がその言葉を使う意味で個人である人にだけ、集団的なものに汚染されていない人にだけ、全く独りでいる人にだけ、孤独ではなく完全に内面的に独存している人にだけ―そのような個人にだけ真実が生まれるからです。
言い換えると、我々は我々の生を何らかの仮定や前提の下でスタートさせます、神が存在するとかしないとか、天国や地獄があるとか、何らかの確かな形の関係性や倫理がなければならないとか、何らかの特別な思想のもとにいるのでなければならないとかなどです。そのような仮定のもとで、それらは集団的なものの産物ですが、我々は我々が教育と呼ぶ、我々が宗教と呼ぶ構造を築き上げて、我々はとげとげしい個人主義が蔓延っている或いはコントロールされている社会を作り出します。この社会は競争することや野望や妬みを抱くことは避けられなくて必要であるという仮定を基礎にしています。どのような仮定にもよらずに探究し発見しながら社会を築き上げることは可能でしょうか? もしその発見が他の誰かのものなら、我々はすぐに集団的なものの領域、権威の領域へ入りますが、もし我々の誰もが何らかの仮定から自由に、あらゆる前提から自由にスタートするなら、あなたと私は全く異なった社会を築き上げるでしょう、そしてそれが現在最も根本的な事柄の一つであると私には思われます。
宜しいですか、この全過程を意識的な次元だけではなく無意識的な次元でも見て取ると―無意識的なものも集団的なものの残滓です―個人をそれから救い出すことは可能ですか? それは思考から集団的なものが抜け落ちると思考できるのかということを意味します。あなたの思考は全て集団的ではないのですか? もしあなたがカトリック教徒やメソジスト教徒やバプテスト派信徒や何かとして教育されるなら、あなたの考え方は集団的なものの結果です、それが意識的であれ無意識的であれ、従ってあなたの考え方は記憶の結果であり、記憶は集団的なものです。このことはかなり複雑ですので私はかなりゆっくりとそれを検討しなければなりません、同意したり同意しなかったりするのではなく、我々は明らかにしようとしています。
我々が思考の自由と言うとき、それはひどくナンセンスであると私には思われます、何故ならあなたや私が考えるとき、思考は記憶の反射的な反応であり、記憶は集団的なものの結果です―集団的なものとはキリスト教徒やヒンズー教徒であるなどその他の全てのことです。そのように思考が記憶に基づいている限り、思考の自由は決してありえません。どうか、これは単なる論理ではありません。「おお、これは知的な論理だ」と言って、それをそのように払い除けないで下さい。そうではありません。それはたまたま論理的ですが、私は事実を描写しています。思考が記憶の反射的な反応である限り、それは集団的なものの残滓ですが、精神は時間の領域の中で機能しているはずです―時間は昨日、今日、明日としての記憶の継続です。そのような精神にはいつも死や腐敗や恐れがあり、それがいくら腐敗しないで時間を超えたものを追い求めても、それは決してそれを見つけられません、何故ならその思考は時間の結果であり、記憶の結果であり、集団的なものの結果だからです。
そこで、精神は、その思考が集団的なものの結果である精神は、その思考が集団的なものである精神は、それ自身をそれら全てから救い出すことができますか? それは精神が時間とは無縁なもの、腐敗を知らないもの、独存していて、どのような社会からも影響されていないものを知ることができるのかということを意味します。肯定したり否定したりしないで下さい、私はそれを経験したことがあると言わないで下さい―それら全てには意味がありません、何故ならこれは本当に途方もなく複雑な質問だからです。我々は、精神が集団的なものの中で機能している限り、いつも腐敗があると分かります。それはより良い倫理コードを発明するかもしれませんし、もっと多くの社会改革を生み出すかもしれませんが、それらは全て集団的な影響のもとにあるので腐敗的です。明らかに、腐敗せず時間とは無縁で不死な状態があるのかどうかを見出すためには、精神が集団的なものから余すことなく自由でなければなりません、そしてもし集団的なものから余すことなく自由なら、その個人は反社会的ですか? それともその人は反社会的ではなく、集団的なものが拒絶するかもしれない全く異なった次元で機能するのでしょうか? あなたはこれらのことに付いてきていますか?
問題は精神が集団的なものを乗り越えることができるのかということです。もし集団的なものを乗り越える可能性がないなら、我々は集団的なものを飾って、牢獄内の窓を開け放つとか、もっと良い照明を備え付けるとか、もっと浴室を備えるなどで満足しなければなりません。それが世界の関心事であり、それを進歩と呼び、高い生活水準と呼びます。私は高い生活水準に反対しているのではありません、それに反対するのは愚かなことです、特にもし人が他のどの国にも決して見られないような飢餓状態にあるインドからやって来るなら、恐らく中国がその例外ですが、中国では人々が一日半食か半食さえも取らず、悲しみや苦しみや病気に見舞われていて、飢餓のために彼らは反乱を起こすことができません。従って賢明な人間であるなら高い生活水準に反対することはありえません、しかしそれが全てなら、生は単に物質的なものであるに過ぎません。そうすると苦しみは避けられず、野望や競争、敵対、冷酷な効率、戦争などがある現代世界の全構造は時折の魔女狩りと社会改革と共に完全に許容されることになります。しかしもし人が悲しみの全構造を探究し始めるなら―死としての悲しみ、欲求不満としての悲しみ、無知の闇としての悲しみ―人はこの全構造を、何らかの特殊な改革を生みだすための単なる部分だけではなく、単にその軍隊や政府だけではなく、その全構造を問わなければなりません。人はこの社会をそっくりそのまま受け入れなければならないのか、それともそれを完全に拒絶しなければならないのかのどちらかです―それを拒絶するのは、それから逃げ去るという意味ではなく、その意義を見出すという意味です。
従って、もし精神がそれ自身を集団的なものの牢獄から救い出す可能性がないなら、精神は牢獄に戻ってそれを改革することができるだけです。しかし私にはその可能性があります、何故なら牢獄の中で永久にもがくことはとても愚かであるからです。どのようにして精神はそれ自身を価値や矛盾、追求、そして衝動などの異質なものから成る集合から救い出すのでしょうか? あなたがそれを行うまでは個人というものは存在しません。あなたは自分自身を個人と呼ぶかもしれませんし、あなたはあなたが何らかの精神を、何らかの高い自己を持っていると言うかもしれませんが、それらは全て依然として集団的なものの一部である精神の発明です。
人は世界で何が起こっているのか分かります。集団的なものの中の新しいグループが何らかの魂があることを否定しています、不死や永遠性があることを、イエスが唯一の救い主であることなどその他の全てを否定しています。この主張と反駁の集合を見ていると、次の質問が否応なく起こります、精神はそれ自身をそれらから解きほどくことができるのかと。つまり、時間からの自由がありえるのかと―それは記憶としての時間であり、その記憶は何らかの特殊な文化や文明或いは条件づけの産物です。精神はこれら全ての記憶から自由になれるでしょうか? それはどのように家を建てるのかの記憶でもなく、原子の構造の記憶でもなく、自分の家へ帰る道の記憶でもありません、それらは事実としての記憶であり、それなしでは人は正気ではなくなるか健忘症であるかでしょう。しかし精神は心理的な記憶から自由になれるでしょうか? 明らかに、それが安全性を追い求めていないときのみ、それは自由でいられます。結局のところ、私が昨日の午後言ったように、精神が安全性を追い求めている限り、それが銀行口座であろうと、宗教であろうと、様々な形の社会的な行動や関係であろうと、暴力が生まれるはずです。多くを持っている人は暴力を生み出します、しかしその多くを見て隠遁者になる人も暴力を生み出します、何故ならその人は安全性を世俗の中にではなく観念の中に追い求めているからです。
そうすると問題は精神が記憶から自由になれるのかということになります―情報や知識や事実の記憶ではなく、何世紀もの信念を通じて生まれてきた集団的な記憶です。もしあなたがその質問に余すことなく気をつけて私が答えるのを待たないであなた自身に問うなら、何故なら答えはないからですが、あなたはあなたの精神がどんな形であれ安全性を追い求めている限り、あなたは集団的なものへ従属しているのが、何世紀にもわたる記憶へ従属しているのが分かるでしょう。安全性を追い求めないことは驚くほど難しいのです、何故なら人は集団的なものを拒絶するかもしれませんが、人は自分自身の経験の集合を発展させるからです。お分かりですか? 私は社会をその全ての腐敗と共に、その集団的な野望や欲望や競争心と共に拒絶するかもしれませんが、それを拒絶すると私の中に何らかの経験が生まれます、そしてあらゆる経験が何らかの残滓を残します。その残滓もまた私がそれを集めたので集合的なものになります、そしてそれは私の安全性になり、私はそれを私の息子や隣人に与えるので私は再び異なったパターンの集団的なものを作り出します。
精神が集団的なものの記憶から余すことなく自由になることは可能ですか? それは妬みから、競争心から、野望から、依存から、安全であるための手段として永遠なものを果てしなく追い求めるこのようなことから自由であることを意味していて、その自由があるときのみ個人というものが存在します。そうすると精神と存在が全く異なった状態になります。そうすると腐敗の可能性、時間の可能性がなくなり、そのような精神に、その精神は個人或いは他の名で呼ばれるかもしれませんが、真実が生まれます。あなたは真実を追い求めることができません、仮にあなたがそうすると、それはあなたの安全性になるので、それは全くの誤りであり、意味がありません、それはあなたがお金や野望や何かを成就することを追い求めるようなものです。真実はあなたにやってくるのでなければならなくて、集団的なものの腐敗がある限り、それはあなたにやってこられません。それが精神の完全に独存していて、何ものからも影響されず、何ものからも条件づけられず、従って時間から自由でなければならない理由です―そのようなときのみ、計り知れないもの、時間とは無縁なものが生まれます。
沢山の質問が寄せられていますが、残念ながら全てにお答えできません。しかし我々が行ったことは最も代表的なものを選ぶことであり、私は今朝できるだけ多くのそれらに答えるつもりです。
私はあなたが私によって催眠術に掛けられていないことを願います。宜しいですか、私の言っていることには意味があります、私はそれを安易に言っていません。あなたは沈黙して耳を傾けます。もしその沈黙が別の個性によって、或いは何らかの観念によって単に圧倒された結果なら、それには全く価値がありません。しかしもしあなたの沈黙があなた自身の思考やあなた自身の精神に気をつけていて観察している結果なら、あなたは魅了されているのでもないし、催眠術に掛けられているのでもありません。そうするとあなたは新しい集団的なもの、新しい追随、新しい指導者を作り出しているのではありません―それは恐ろしいものであり、それには意味がなく、それは最も破壊的です。もしあなたが本当に気を抜かずに警戒して内面を観察しているなら、あなたはこれらのトークに聞くに値する価値があったことが分かるでしょう、何故ならそれらはあなた自身の精神の働きを露わにしてきたからです。そうするとあなたには他の人から学ぶべき何ものもないので、教師もいなければ弟子もいないし追随することもありません。これらは余すことなく全てあなた自身の意識の中に存在するので、その意識を描写する人は指導者にはなりません。あなたは地図や電話や何かが書かれている黒板を崇拝したりしません。従ってこのことは新しい集団、新しい指導者、新しい従属関係を作り出すことではありません、少なくとも私にとってはそうです。もしあなたがそれを作り出すなら、それはあなた自身が悲惨なことになります。しかしもしあなたがあなた自身の精神を観察するなら、それはその黒板に書かれていることですが、そのように観察すると途方もない発見に至るでしょう、そしてその発見がそれ自身の行動をもたらします。
質問者(Q) 戦争の破壊的な驚くべき経験をしてきた多くの人々は現代世界の中に居場所を見つけられないでいるように思われます。彼らはこのひどく混乱した社会の波に振り回されて一つの職業から別の職業へ職を変えていて惨めな生を送っています。私はそのような人間です。私はどうしたらよいのでしょうか?
クリシュナムルティ(K) もしあなたが社会に反抗したら何が一般的に起こりますか? 強いられて或いは必要に迫られて、あなたは何らかの特殊な社会的パターンに順応します、従ってあなたはあなた自身や社会と果てしなく争います。今あるあなたは社会が作ってきました、そして社会は戦争や破壊をもたらしてきました。この文化は妬みや騒々しさを基礎にしていて、その宗教は宗教的な人間を生みません。反対に、それは宗教的な人間を破壊します。そうすると個人は何をしたらよいのでしょうか? 戦争で粉々に打ちのめされて、あなたは神経症になるか、それとも神経症にならないで社会的なパターンに適合し、その結果狂気や戦争、腐敗を生む社会を継続するようにあなたを助ける誰かのところへ行くかのどちらかです。さもなければ―それは本当に非常に難しいことです―あなたは社会のこの全構造を観察してそれから自由になるのです。社会から自由になることは野望を抱かないことや貪欲にならないことや競争的にならないことを意味し、何かになろうと努めるそのような社会との関係で何ものでもないことを意味します。しかし宜しいですか、それを受け入れることは非常に難しいことです、何故ならそうなるとあなたは踏みにじられ、つまみだされ、あなたには何も残らないでしょう。その何もない中に正気があります、それ以外の中にはありません。あなたがそれを見て取るや否や、あなたが何ものでもないものとして存在するや否や、生があなたを気づかいます。そうなります。何かが起こります。しかしそれには社会の全構造を限りなく見抜く必要があります。人がこの社会の一員でいたいと思う限り、人は狂気や戦争や破壊や悲惨を生み出しますが、自分自身をこの社会―暴力、富、地位、成功の社会―から自由にするためには、書物を読むことや教師や心理学者を追い求めることなどそれらの類ではなく、辛抱や探究や発見を必要とします。
Q 私はあなたが先のトークで言った“完全にコントロールされた精神”という意味が分かりません。完全にコントロールされた精神は意志やコントロールする何らかのものを含みますか?
K 私はその“完全にコントロールされた精神”という表現を使いました、そして私はその意味することを説明したと思いました。それが理解されなかったのが分かりますので、私はもう一度説明します。
コントロールされた精神ではなく非常に安定した精神、気が逸脱しない精神が必要ではないのですか? どうかこのことに付いてきて下さい。気が逸脱しない精神は精神にとって興味を集中する対象がどこにもない精神です。興味を集中する対象があれば、気の逸脱が起こります。しかし完全に気をつけている精神、何らかの特別な対象を持たない精神は安定した精神です。
ではこのコントロールの全問題を手短に検討してみましょう。コントロールということが起こるとき、コントロールしようとするその当のもの、支配しようとするその当のもの、純化しようとする或いは代替物を見つけようとするその当のものがいます。そのようにコントロールするときにはいつも二重のプロセスが進行します―コントロールしようとするものとコントロールされるものです。言い換えれば葛藤が起こります。明らかにあなたはそれに気づいています。コントロールするもの、価値評価するもの、判断を下すもの、経験するもの、思考するものとその当のものが検討を加えたり、コントロールしたり、抑制したり、純化などそれら全てを行おうとしたりする対象があります。従っていつもこれら二つの間で―現にあるものと「私は何かでなければならない」と言う当のものとの間で―争いが起こります。この矛盾、この葛藤はエネルギーの浪費です。事実だけが存在してコントロールするものが存在しないことはありえますか? 私は嫉妬深いという事実だけを見て、嫉妬深いのは善くないとか、それは反社会的であり精神的に好ましくないとか、それは変えなければならないとかと言わないことは可能ですか? 価値評価するものが全く消えて事実だけが残ることは可能ですか? 精神は事実を価値評価することをしないで見ることができますか、つまり精神は意見を差し挟まないで事実を見ることができますか? 事実について意見を差し挟むと混乱や葛藤が起こります。あなたがこれらに付いてきていることを願います。
そのように、混乱はエネルギーの浪費であり、精神は事実に結論や観念や意見や判断や非難を交えて取り組む限り、混乱するに違いありません。しかし精神が意見を交えないで事実を真実として見るとき、精神は事実を知覚するだけであり、そこから精神の途方もない安定と繊細さが生まれます、何故ならそうすると精神がそれ自身を消耗させる逸脱や逃避や判断や葛藤がないからです。そうすると思考だけが起こり、思考する当のものがいません、しかしそれを経験することは非常に難しいことです。
何が起こるのかを見て下さい。あなたは素晴らしい夕陽を見ます。それを見ている正にその瞬間には経験しているものがいません、違いますか? その大いなる美の感覚だけがあります。次に精神が言います「それは何て素晴らしかったことか。私はもっとそれに浴したい」と、そこでもっと欲しいと願う経験するものの葛藤が始まります。では、精神は経験するものなしに経験する状態でいられますか? 経験するものは記憶であり、集団的なものです。おお、お分かりですか? 私はその夕陽を比較することなしに「それは何と素晴らしいのだろう。それをもっと味わっていたい」と言わずに見ることができますか? その「もっと」は時間の創作であり、その中には消滅する恐怖、死の恐怖があります。
Q 精神と自己との間に二重性があるのでしょうか? もしないなら、どのようにして自己から精神を自由にするのでしょうか?
K “私”や自己やエゴと精神との間に二重性がありますか? 明らかにありません。精神は自己でありエゴです。エゴや自己は妬み、残虐性、暴力のこの衝動であり、愛のこの欠落であり、名声、地位、力を果てしなく追い求めて何かになろうとすることです―それが精神の行っていることでもあります、違いますか? 精神はいつも自身を発達させることを、もっと安全性を手にすることを、もっとよい地位を、もっと安楽を、より多くの富を、増大した力を手にすることを考えていて、それら全てが自己です。そのように精神は自己であり、自己は分離したものではありませんが、我々はそれが分離していると考えたいのです、何故ならそうすると精神が自己をコントロールすることができて、自己を征服したり、自己について何かを行おうとしたりすることなどこの種のゲームをあれこれ繰り返すことができるからです―それは教育という言葉の間違った意味で教育された精神の未熟な遊びです。
そのように精神は自己であり、それは取得することの全構造です、従って問題はどのようにして精神はそれ自身から自由になるのかということです。どうかこのことに付いてきて下さい。もしそれがそれ自身を自由にするための何らかの活動をしても、それは依然として自己です、違いますか?
宜しいですか、私と私の精神は同じであり、私自身と私の精神との間に分断はありません。嫉妬深くて野望を抱いている自己は「私は嫉妬深くあってはなりません、私は気高くなければなりません」と言う精神と全く同じであり、精神がそれ自身を分断しているのに過ぎません。それでは私がそれを見て取るとき、私は何をしたらよいのでしょうか? もし精神が環境の産物なら、妬み、欲望、条件づけの産物なら、それは何をしたらよいのでしょうか? 明らかに、それがそれ自身を自由にするどのような活動も依然としてその条件づけの一部です。宜しいですか? お分かりですか? それ自身を条件づけから自由にする精神の側のどのような活動も、もっと幸福になるために、もっと平和になるために、もっと神の御許に近づくために自由になりたいと思う自己の行動です。そのように私はこれらの全てを、精神の在り方とそのペテン的な策略を見て取ります。従って精神は穏やかになり、完全に静まり、活動が起こりません、そしてこの沈黙の中にこそ、この静寂の中にこそ、自己からの自由、精神それ自身からの自由があります。明らかに、自己は何かを手に入れようとする或いは何かを避けようとする精神の活動の中にだけ存在します。もし何かを手に入れようとしたり何かを避けようとしたりする活動がないなら、精神は完全に穏やかです。そうするときのみ、集団的なものとしての意識並びに集団的なものに反対する意識の余すことのない全てから自由になる可能性があります。
Q あなたの教えを何年も真剣に試みてきて、私は自己意識の寄生的な性質に十分に気づき、その触手が私のあらゆる思考や言葉や行動に伸びているのが分かります。その結果、私は全ての動機だけでなく全ての自信を失いました。仕事が骨の折れる、余暇の、単調なものになりました。私は殆ど絶え間なく心理的な苦痛の中にいますが、この苦痛でさえも自己のからくりであると分かります。私は私のあらゆる出発点で袋小路に陥ります。私は私自身に問いかけながらあなたに問います、今の私は何なのでしょうか?
K あなたは私の教えを試しているのですか、それともあなたはあなた自身を試しているのですか? 私はあなたにその違いを分かってもらいたいのです。もしあなたが私の言っていることを試しているのなら、あなたは「今の私は何なのでしょうか」と問うことになるに違いありません、何故ならあなたは私が手にしているとあなたの考えている結果を成就しようとしているからです。あなたはあなたが手にしていない何かを私が持っていると考えて、もしあなたが私の言っていることを試すなら、あなたもそれを手にすると考えます―それが殆どの我々の行っていることです。我々はそれらのことを商取引的な考え方で取り組みます―私はそれを得るためにこれを行います。私は何かを手にするために崇拝し、瞑想し、自己を犠牲にします。
宜しいですか、あなたは私の教えを実践しているのではありません。私には何も言うことはありません。或いはむしろ、私の言っていることは全てが―あなた自身の精神を観察して下さい、精神がどこまで深く行けるのか見て下さい―ということであり、従ってあなたが重要なのであり、それらの教えではありません。私が今朝指摘してきたように、あなた自身の考え方やその考え方が意味するものをあなたが明らかにすることが重要です。もしあなたが本当にあなた自身の考え方を観察しているのなら、もしあなたがそれらを見守り、試し、発見し、それらに干渉せずそれらをやり過ごし、あなたが収集してきたあらゆるものを毎日死んでやり過ごしているのなら、あなたは「今の私は何なのでしょうか」というような質問を決してしないでしょう。
宜しいですか、確信は自信とは全く違います。あなたが一瞬一瞬発見しているときに生まれる確信は、発見の収集蓄積から起こる自信とは全く違います、その収集蓄積は知識となり、あなたにとって重要になりますが。その違いがお分かりですか? 従って、自身の問題は完全に消滅します。絶え間ない発見の活動があるだけであり、書物ではなくあなた自身の精神を―意識の全構造、意識の壮大な構造を―絶え間なく読み解いて理解することがあるだけです。そうするとあなたは全く結果を追い求めていません。あなたが結果を追い求めているときのみ、あなたは言います「私はそれら全てを行いましたが、私は何も手にしていません、私は確信を失いました。今の私は何なのでしょうか」と。一方、もしあなたがあなた自身の精神の在り方を見返りを求めず、目的を持たず、何かを手に入れようとする動機を抱かずに、検討し理解するなら、自己知が生まれて、あなたは驚くべきものがそこからやってくるのが分かるでしょう。
Q どうしたら気づきを新しいテクニック、瞑想の最新の流行としないようにできるのですか?
K これは非常に真剣な問いなので、私はそれをかなり深く検討しようと思いますが、あなたがさほど疲れていずにリラックスして気を抜かずに警戒しながらあなた自身の精神に付いていけることを願います。
瞑想することは重要ですが、もっと重要なことは瞑想が何であるのかを理解することです、そうでなければ精神は単なるテクニックに囚われてしまいます。新しい巧妙な呼吸法、ある姿勢で座ること、背筋をまっすぐに保つことなどを学ぶことや精神を沈黙させるための様々なシステムの一つを実践すること―それらはいずれも重要ではありません。重要なことはあなたと私が瞑想とは何かを見出すことです。瞑想とは何かを正に見出しているとき私は瞑想しています。お分かりですか? どうか構えないで下さい、宜しいでしょうか、同意したり同意しなかったりしないで下さい。
瞑想することは途轍もなく重要です。もしあなたが瞑想の何であるのかを知らなければ、それは香りのない花を手にするようなものです。あなたは驚くべき話す能力を、絵を描く能力を、生を楽しむ能力を持っているかもしれませんし、あなたは百科事典的な情報を持っていて、あらゆる知識を関連付けるかもしれませんが、それらはもしあなたが瞑想とは何であるのかを知らなければ全く意味がありません。瞑想は生の香りであり、それには計り知れない美があります。それは精神では開けられない扉を開け、単に教養のある精神では触れられない深みへ赴きます。そのように瞑想は非常に重要です。しかし我々はいつも間違った問いをして間違った答えを手にします。我々は「どのようにして瞑想するのか」と言って、ヒンズー教の尊師やどこかの愚者のところへ行ったり、書物を手にしたり、システムに従ったりして、どのようにして瞑想するのかを学びたいと思います。宜しいですか、もし我々がそれら全てを脇へ除けるなら、ヒンズー教の尊師たち、ヨーガ行者たち、解釈者たち、呼吸法の実践者たち、座禅を組む人たちなどそれらの類の全てを脇へ除けるなら、我々は否応なく次の問いに至るに違いありません、瞑想とは何であるのかと。
ですから、どうか注意深く耳を傾けて下さい。我々は今、どのように瞑想するのかではなく、或いは気づくテクニックとはどういうものであるのかではなく、瞑想とは何であるのかを問うています―それが正しい質問です。もしあなたが誤った質問をすれば、あなたは誤った答えを受け取るでしょう、しかしもしあなたが正しい質問をすれば、その正に質問が正しい答えをあからさまにするでしょう。それでは瞑想とは何ですか? あなたは瞑想が何であるのか知っていますか? あなたが聞いた他の人の言うことを繰り返さないで下さい、たとえあなたが二十五年瞑想に打ち込んできた人を私が知っているように知っていても。あなたは瞑想が何であるのかを知っていますか? 明らかに、あなたは知りません、違いますか? あなたは様々な聖職者や聖者や隠遁者が瞑想や祈りについて話してきたことを読んだかもしれませんが、私はそのようなことを話しているのではありません。私は瞑想のことを話しています―その辞書的な意味ではありません、それはあなたが後から調べることができます。瞑想とは何ですか? あなたは知りません。そのことが瞑想する基礎です。(笑) どうか聞いて下さい、笑い飛ばさないで下さい。「私は知りません」 そのことの美が分かりますか? それは私の精神から瞑想についての全てのテクニック、全ての情報、他の人たちがそれについて行ってきたあらゆるものが脱落していることを意味します。私の精神は知りません。我々はあなたが正直に私は知りませんと言えるときのみ瞑想が何であるのかを見出そうと先へ進めます、そしてもしあなたの精神の中に二番煎じの情報がチラつくなら、バガヴァドギーターや聖書や聖フランチェスコが瞑想について行ってきたことや祈りの結果がチラつくなら―それが最近の流行であり、あらゆる雑誌でそれらのことが語られています―あなたは「私は知りません」と言えません。あなたはそれら全てを脇へ除けなければなりません、何故ならもしあなたが何らかの真似をすれば、もしあなたが何らかに追随すれば、あなたは集団的なものに逆戻りします。
宜しいでしょうか、精神は「私は知りません」と言う状態にいられるでしょうか? その状態が瞑想の始まりであり終わりです、何故ならその状態の中であらゆる経験が―正にあらゆる経験が―理解されて、そして収集蓄積されることがないからです。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、あなたはあなたの思考をコントロールしたいと思います、そしてあなたがあなたの思考をコントロールするとき、気を散らさないようにしているとき、あなたのエネルギーはコントロールに向けられていて思考には向けられていません。お分かりですか? エネルギーがコントロールや征服すること、気の逸脱と戦うこと、推測、追求、動機などに浪費されていないときのみエネルギーの集積がありえます、そしてエネルギーの、思考のこの途轍もない集積は活動とは無縁です。お分かりですか? あなたが「私は知りません」と言うとき思考の活動が起こりません、違いますか? あなたが探求し始めるときのみ、見出そうとし始めるときのみ思考の活動が起こり、あなたの探求は既知から既知へと向かいます。もしあなたがこのことに付いてきていないなら、恐らくあなたは後でそのことをよく考えるでしょう。
瞑想は精神の浄化のプロセスです。コントロールするものがいないときのみ精神の浄化が起こりえて、コントロールしているときはコントロールするものがエネルギーを消散します。エネルギーの消散はコントロールするものとコントロールしようとする対象との間の摩擦から起こります。宜しいでしょうか、あなたが「私は知りません」と言うとき、答えを見つけようとする思考の活動はどの方向にも起こらなくて、精神は完全に静まっています。そして精神が静まっているためには途方もないエネルギーがなければなりません。精神はエネルギーなしに静まることができません―葛藤、抑圧、支配で消散してしまうエネルギーではなく、或いは祈り、追い求めること、希うことで消散してしまうエネルギーではなく、それらは活動を意味していますが、それらではなく完全に気をつけているエネルギーがなければ精神は静まることができません。どの方向の思考の活動もエネルギーの消散であり、精神が完全に静まるためには完全に気をつけているエネルギーがなければなりません。そのときのみ招くことができないもの、追い求めることができないもの、社会的賞賛とは無縁で徳や犠牲では追い求められないものが生まれます。その状態が創造性です―それは時間とは無縁なものであり真実です。
1955年 8月28日 オーハイ
中野 多一郎 訳