何て多くの人たちなのでしょう! 我々は本当に我々の話していることに関心があるのだと思います、それがあなた方のここにいる理由だと思います。これは、我々がしばしば繰り返し言っているように、エンターテイメントではありません、これは知的な、言葉によるこじつけやあてこすりでもなければ、ロマンチックな理論や憶測や感傷的なナンセンスでもありません。我々は事実を扱っています。我々が言ったように、事実は起こったことや今起こっていることです、それが事実です。明日起ころうとしていることは事実ではありません、或いは想像される多くの明日は事実ではありません。我々は事実だけを扱っています。そしてもしそれらの事実を我々が根本的に理解できるのなら、何らかの特殊な観点からではなく、或いは特殊な偏った見方や方向からではなく理解できるのなら、恐らく我々は事実を間近に、注意深く検討できます、表面だけではなく根本的に深く検討できます。
これまでのトークで我々が言っていたように、我々は一緒に旅をしています、あなたと話し手は非常に長くて非常に広い旅に出ています、未来への旅ではなく、現在を旅しています。現在は、我々が指摘したように、全ての時間を含みます。現在は過去であるだけではなく、頭脳に蓄えられている、記録されている、あらゆる記憶やあらゆる出来事だけではなく、そのような過去は今でもあります。それは極めて明らかなことです。そして未来は今のことです。未来は確かに、恐らく少しは修正されているでしょうが、現在の中に、今の中にあります。そのように今の自分が明日の自分でしょう、想像される多くの明日の自分でしょう。そしてもし根本的で徹底的な心理的革命―進化ではなく―革命が、変質が、深い根本的な変化が起こらなければ、明日の我々は正に今の我々でしょう。そのようにあらゆる時間が、過去が、現在や未来が今の中に含まれています。これが、理論でもなく思索的哲学的概念でもなく、現実です。もし人が自分自身を非常に注意深く見れば、自分の中で何が起こっているのかを注意深く見れば、今起こっていることは我々が何千年もの年月を経て引き継いできたものです、心理的にも生物的にも。そしてそのような過去の重荷は、それら全ての記憶や経験や知識と共に今のことであり、今の我々のことです。そして今の我々が明日の我々でしょう。そのように、宜しいでしょうか、今が全ての時間を含みます。
そしてそれとの関係で、活動とは何ですか? そして全ての時間が今の中にある、現在の中にあるというのは事実です、そうすると活動とは何ですか? お分かりですか? 暫くの間このことを我々は検討できますか? 宜しいですか、我々は一緒に探究しています、話し手は教えているのではありません、話し手は知識を授けているのではありません。我々は一緒に、あなたと話し手は、探究しています、問うています、検討しています、しかし我々は分析しているのではありません。分析することと気づきとの間には違いがあります。分析することは分析する者を意味します、分析する者は過去を意味します、そしてその分析する者が現在を、今起こっていることを調べます。今起こっていること或いは心理的に起こっていることは、現在に至る或いは現在の観察者のことです。我々はこの点について宜しいですか? 観察者や分析者は情報、知識、出来事、経験などの夥しい収集蓄積の結果です、そのような分析者が今起こっていることを調べます、或いは起こったことを調べます。違いますか? そのように分析者が分析されている当のものです、そしてそれは現在のことです。私は独り言を言っているのですか、それとも我々はこのことについて幾分かは一緒にいますか?
これは理解すべきかなり重要な問いかけであると私は思います、何故なら我々が分析する者を分析される当のものから分離した何かとして分断すると、そのような分断のプロセスの中で矛盾や葛藤が生じるからであり、そして抑圧することや外側の何かとして検証したりすることが起こるからです。しかし分析する者が分析される当のものです。人が暴力的なとき、暴力が生じるとき、人は暴力を分析します、人はたやすく暴力を分析できます、遥か昔の親類である類人猿から現在まで、人は暴力を分析できます、我々は何千もの暴力を連綿と引き継いできています、全ての暴力を引き継いできています。我々はたやすく暴力を検証し分析できます。暴力はそれを検証する者やそれを分析する者と異なりますか? 分析する者もまたその暴力の一部ではありませんか? 違いますか? そのように分析する者が分析される当のものであり、それは分析する者から分離した何かではありません、従って分析する者と分析されるものとの間の分断はありません、それらは一つです。そして我々がそのことを理解するとき、争いは分断があるところでのみ存在します―あなたの野望と他の誰かの野望との間の分断、あなたとあなたの妻や夫や隣人などとの間の分断であり、ナショナリティや宗教などを通じて生み出される分断です―心理的なものだけではなく言語的なものなどでも起こる分断です。
そのように分析する者が分析される当のものです、そして我々は言いました、我々は分析しているのではなく、我々はじかに気づいています。我々はこのことにある程度明瞭でしょうか、我々はそこから進めますか? 私は人がこのことを一緒に極めて単純に話せたらと思います、あなたがそこに座って、私が壇上に座って話すのではなく、二人の友人が存在のあらゆる問題を見つめているのです、仲良く、愛情を持ってお互いを気づかいながら、人間のこれら全ての労苦を、誰もが抱える労苦を見ているのです、そのようにすることは、そのような良い対話はとても単純なことです。しかしこのようにとても沢山の人たちがいるとき、それはあいにくできません。しかし一人の人間として、あなたと話し手は一緒に考えることができます、どのような特殊な考え方にもよらずに、どのような特殊な観点からでもなく、自分自身の意見を言い張って頑固になるでもなく、むしろある程度の時間を共有して知り合った二人の友人として、言葉の意味を理解するだけではなく言葉を超えてもいくのです。もし我々がそのように一緒にできるのなら、気づくことは非常に簡単になります、つまり気づくことです。私が気づいて、そして話し手があなたをある特殊な仕方で気づかせるように説いているのではありません、そうではなく気づくことです。そのような気づきの中ではあなたと話し手はいなくなります、何故なら我々はただ気づいているだけだからです、しかしそのような気づきのための動機があると、何らかの方向性があると、頑なな偏った見方や強情な感覚があると、気づきは歪められます、従ってあなたの気づきは他の人と異なります。このことが明瞭であることを願います。
そこで我々は問います、全ての時間が現在の中にあるとき、今の中にあるとき、それは事実であり、何らかの抽象でもイデオロギーでも何らかの理想でもなく、それは事実です、そのような事実があるとき、活動とは何ですかと。お分かりですか? これは理解すべき重要な質問です。我々はそのことを一緒に話し合おうとしているだけではなく、何かになること、心理的に何かになるという問題の全ても一緒に話し合おうとしています。そしてその何かになることとの関係で活動とは何ですか? そしてまたもし我々に時間があるなら、我々は苦しみについて話し合おうとしています、そして恐らく、生の一部である、我々の日常生活の一部である死について話し合おうとしています―病的な出来事としての死ではなく、我々の生の中の途方もなく重要な問題としての死です。
そこで我々は一緒に話し合おうとしています、活動についてです、日常的な活動と何かになるという問題です。そしてその何かになるとき我々はみな安全でありたいと思います。安全は我々すべてにとって非常に本質的です。頭脳はもしそれが完全に安全でないなら、その全ての能力やエネルギーや活力と共に十分に機能できません。違いますか? 違います? もし人が混乱していて、不確かで、数多くの問題を抱えているのなら、どうして頭脳は安全でいられますか? もしあなたが、ほとんどの人たちと同じように、多くの多くの幻想に囚われているのなら、頭脳は動揺し、不確かで、混乱します。そのように頭脳が効率よく機能するためには、技術的にだけではなく心理的に、その方が遥かに真剣なことですが、頭脳には途方もない安定性が必要です、頭脳は絶対的に明瞭で、確かで、揺るがないことが必要です。そして我々は、もしあなたが辛抱強ければ、それら全てを検討しようとしています。しかしもしあなたに興味がないなら、何故ならあなたはとても多くのことに興味があるからです―ボートを漕いだり、ドライブをしたり、本を読むことに興味があります―しかしもしあなたに興味があるのなら、気をつけていて下さい、しかしそれは興味を持つこととは全く異なります。
ほとんどの我々が、恐らくほとんど我々の全てが心理的に何かになろうとしています。外的に、外面的に、あなたは技術者になる学生が理解できます。彼は技術者になり、生活の糧を得て、技術の更に更に専門家になり続けます。そして心理的に我々は同じ考え方を抱きます、私は今これですが、私はあれになります。話し手に同意しないで下さい、問うて下さい、疑って下さい、誰にも心理的に従わないで下さい、もちろんあなたが病気なら、あなたは医者の指示に従う必要があります。しかし心理的に、内的に、どのような種類の権威やどのような種類の専門家やプロに従うことも、人自身の気づきの健全性を破壊します。心理的に我々はみな何かになろうとしています。違いますか? それは明らかな事実です。人は貪欲です、或いは暴力的です、そして人はそうならないようにしようとします、それが何かになることです。戦争があります、そして国連やそれら全ての組織を通じて我々は世界を結び付けようと試みます、それは将来何かになることです。私は様々な国が結び付くようになる矛盾する性質を検討しません、そのようなことは不可能です、それはそれぞれの野望や特殊なシステムの維持に関心がある人たちの政治的な活動です。しかし人はいつも我々一人ひとりの中にこれからあれへ変わりたいという試みのあることが分かります。その“あれ”や未来は時間の中です、遠い先であろうと非常に身近であろうと、しかしそれは依然として何かになることや何かを手に入れること、何かを失うこと、賞罰を受けることなどです。この何かになることの全プロセスは、いつもその人の意図や動機を伴います、つまり、“より良く”であるとか“もっと”であるとか“獲得する”であるとか“失う恐れ”などです。それは明らかです。
それでは何かになることが時間を含むのは事実ですか? それは事実ですか? 私は今これですが、一年或いは二日もらえれば私は違う自分になるでしょう。つまり時間が含まれます、しかしその時間は今です。お分かりですか? 未来は今です。これは難問ですか?
質問者(Q) はい。
クリシュナムルティ(K) はい? 嬉しい! そうすると我々はそれをもっとゆっくり検討できます。我々が言ったように、宜しいでしょうか、我々は我々の他のもの全てです。違いますか? 頭脳に記録されてきた我々の全ての記憶、我々が行ってきた全てが、五十年前のものだけではなく昨日のものも頭脳に記録されています、従って過去は今です。違いますか? そしてこの正に今が、もし根本的な変化が起こらなければ、正に明日でしょう、そしてそれは時間です。未来は従って今の中にあります。違いますか? そうすると何かになるとはどういうことですか? お分かりですか? 宜しいですか、このことは本当に素晴らしいことであり、非常に真剣なことです。我々は進化の考え方に慣れています。つまり、人間は四、五万年或いは百万年を経て今の段階へ到達しました、我々の頭脳は類人猿から今のいわゆる文明人へと進化してきました、私はそれを疑いますが、それは問題ではありません。そしてそれには計り知れない時間を要しました。そのような四万年という時間が今です、何故ならそれが今のあなただからです。そして未来は今のあなたです、恐らく少し修正されているでしょうが、未来も今の中にあります。そのようにもし根本的な変化が今起こらなければ、未来はこれまでのあなたでしょう、明日はこれまでのあなたでしょう。それは極めて単純なことです。無益な議論は止しましょう、それははっきりしています。もしそれがはっきりしないのなら、それをよく考えて下さい、もし時間があるなら、そして思考の傾向などあなたの知っているその他の全てを、もしはっきりいないのなら、脱落させて下さい。恐らくあなたはそうします、それは非常に容易くて簡単なことです。しかしもしあなたに興味があるのなら、もしあなたが本当に自分自身で根本的で心理的な深い変化を発見したいのなら、そのような変化は時間を要しません。それは今起こるに違いありません。分かりましたか?
もしあなたが歯痛だとするなら、痛みがあるなら、「来週まで待とう、それは進化の一部だ」とあなたは言わないでしょう、その他の全てが同様です、すぐに行動します。そのようにもし時間が行動に干渉するのを許す危険を我々が悟らなければ、そのような活動はあらゆる種類の複雑な状況を生み出します、それは明らかです。そこで我々の問いはこういうことです、頭脳が効率よく、はっきりと、いかなる種類の混乱もなく機能するためには、頭脳は安全とは何か、安定とは何かを理解しなければなりません、ほとんどの頭脳がそうであるように、それがあらゆる場面で煮え切らなくてふらつくことがないように頭脳はしっかりした感覚を理解しなければなりません。違いますか? そこで我々は安全というものがあるのかどうか、心理的な安全というものがあるのかどうかを検討しなければなりません。勿論我々は物理的に安全を手にしなければなりません、そしてそれは経済的な理由でますます難しくなっています、そしてその理由は、だれもが自分を先に考えるように、どの国も自分の国が先であると考える点にあります。世界の経済的な状況は非常に深刻です、人々は毎日あなたにテレビでそれについて語ります、もしあなたがテレビを観察すれば、或いは新聞を見れば、人々はそれらの問題を解決しようとしています、そして人々はこれまで成功していません、そして人々は決して成功しないでしょう、何故ならどの集団も、どの共同体も、どの国も、人々は自分たちをその他の世界とは異なる何かだと考えているからです。従って経済的な状況が非常に限られた、小さな、非効率的なものになります。それは全ての人間の関心事です、何故なら世界中の誰もが物理的に経済的に安全を願うからです、そしてそれは戦争があるとき、戦争の脅威があるとき不可能です、宗教的な分断や国家的な分断、イデオロギー的な相違である歴史の弁証的な切開があるとき、マルクスやエンゲルス、レーニン、スターリンなどとしての結論と一方では民主主義としての結論などがあるとき不可能です。私はあなたがこのことに退屈するのを知っています、しかしもし我々が根本的にこの狭苦しいパターンを変えなければ、我々はもっともっと戦争や経済的問題を引き起こすことになり、それらは更に更に危険になります。それはあなた次第です。そしてこれら全ては、あなたがアメリカ人やロシア人、インド人、フランス人、イギリス人などとしての自分自身の条件づけを脱落させて、我々の意識が他の全ての人間の意識であるように、我々がみな同じ一人の人間であるとき、消滅します。私はそのことを検討してきました、私はそれを今は検討しません。
そのように頭脳は我々が何かになることの全プロセスを理解するとき安定しえるだけです、完全な安全を手にしえるだけです。何かになることは二重性を意味します、そして二重性があるところには争いが生じるはずです―アラブ人とユダヤ人、イスラム教とヒンズー教、カトリックとプロテスタント―お分かりですか―人間がその中を生きている絶え間ない争いです。そのように何かになることが起こるときには二重性が生まれ、従って争いが生じます。そして頭脳は争いの中を永久に生きることができません、それは神経症や精神病になり、あらゆる種類の幻想を追い求めます、そうすると心理学者や治療学者や精神科医の増加です、宜しいですか、彼らは世界中で増加しています。御免なさい、ここに心理学者たちがいます!
そのようにそのような事実を見るためには、その事実の観念ではなく事実を見るためには、人はその違いを理解しなければなりません。人は事実を見て、それを観念と呼ばれる抽象的なものに変えます、そして我々はその観念を追い求めます、事実ではなくその観念を追い求めます。違いますか? 我々はこの点について一緒ですか? 従って我々はこのことについて非常に明確でなければなりません、我々は事実を扱っていて観念や事実の表現であるシンボルや言葉を扱っているのではありません。あなたが時間は解決策ではないという事実を、時間は根本的な変化をもたらさないという事実を見て取るとき、あなたはその事実から離れません。違いますか? あなたはその事実と共にいます。そしてその事実はあなたと異なりません、あなたがその事実です。あなたが暴力的で、野蛮で、思慮を欠き、不安であるなどその他の全てである事実です、あなたは大混乱していて絶えず葛藤している―世界のあらゆる人間の意識のように―人間の意識の全内容です。そのように我々は本質的に全ての人間と同じです、我々の誰もがみな同じ人間です。そしてもしあなたが変われば、明日ではなく―時間というものはありません、時間は変化の敵です―あなたがこのことを悟るのを願います。どうかそのことを真剣によく考えて下さい、もしあなたが本当に真剣なら―そうすると活動とは何ですか? もし全ての時間が今に含まれているのなら、今の中の活動とは何ですか? 私の質問が分かりますか? ちょっと頭が混乱していますか?
Q はい。
K 良いでしょう! それでは我々はもっと検討できます。活動とは何ですか? 日常の活動です、オフィスへ行くこと、工場へ行くこと、妻や夫と話すこと、舟を漕ぐこと、ジャンプすること、観念を追うこと或いはグルを追うこと―それは同じことです。人は活動しています。生は活動です、関係が活動であるように。それでは活動とは何ですか? 我々の活動は賞罰に基づいています、非常に簡単に言うと。私は、もし生から何かが手に入るのなら、生が好きです。そして私は、もし私が正しく行動しないと、罰せられます、従って私は正しく行動するように努めます。そのように我々の活動は賞罰に基づいています、我々の活動は何らかの未来的な概念に、何らかの理想に基づいています、そしてそのような理想に従った活動は順応です、従って葛藤が生じます。我々の全ての活動には動機や方向性があり、それらは一般的に自分本位で、私利私欲的で、利己的です、それは賞罰―未来の報酬―であり、もし私がこれをすれば私はそれを手にするということです。違いますか? もし私がそれをしないと、私は失うかもしれない、従って失う恐れがあります。そのように我々の活動はいつも利益と報償や罰と恐れのこの領域の中にあります。違いますか? 報酬はいつも未来のことです。罰もまた未来に起こるかもしれないことです。従って決して本質的な活動が生まれません。お分かりですか? それ自身のための活動です。素晴らしい箪笥をあなたに作ってくれる腕の良い建具職人のように、それはその仕事そのものの愛であり、報酬や罰や利益ではありません。
そのように時間に関係する活動は葛藤を生みます。違いますか? このことは明瞭ですか? それではそれ自体のための活動がありますか? 愛はそれ自体活動ですか? 嫉妬や憎しみ、娯楽、楽しさや興奮、セックス、快楽などを伴う愛のことではありません―愛はそれら全てでは確かにありません。宜しいですか、愛が生まれるとき、葛藤とは無縁の活動が生じます。そして愛は時間の奴隷ではありません。そのようにそれはそこにあります。もしあなたがそのことを理解できて、その真理を説明し深く捉えることができるのなら、頭脳は途方もなく活力的で、力強く、どのようなことにも混乱しなくなります、何故ならあなたは今を完全に生きているからです、未来や過去の恐れが消えているからです。
我々は苦しみの問題も一緒に話し合わなければなりません、それは我々の生の一部です。人間は一人で世界の中にいるのではありません、ただ一人の人間ではありません、僧院の中にいようと、ヒマラヤの中の僧であろうと、街頭の人であろうと、あなたと地球上のあらゆる人間が苦しんでいます。そして我々は他の人たちを苦しめています。それが我々の巡りあわせです。そして戦争によって引き起こされた苦しみがあります、戦争は六、七千年或いは一万年の間存在しています。そしてそのような長い期間、神の名のもとに、平和の名のもとに、獲得や利益の名のもとに互いに殺し合って、人間は自分自身と他の人たちに大きな悲しみや涙を招いてきました。泣き叫んだり、涙を流したり、喪失の痛みを味わったりしない人間は一人もいません。何百万という人たちが不具になりました、何故なら我々が自分自身の特殊な観点や自分自身の特殊な宗教、自分自身の特殊なイデオロギーなどにしがみつくように条件づけられているからです―私が信じて私がそれにしがみつくからです。そしてあなたは何か反対のものを信じます、従って私は進んであなたを殺します。このことが続いています。ロシアのイデオロギーと民主主義のイデオロギーがあり、彼らは進んで殺し合います、お互いを粉々に吹き飛ばします。そしてこのことが何千年も何千年も続いていて、私の国を守っています、私の神を守っています、私の、おーっ、この国にはいません、この国には王様はいません! これは非常に深刻なことです、宜しいでしょうか、あなたはそれを笑い飛ばします、しかしもし人の妻や夫や息子が戦争によって殺されるなら、あなたはその意味することを知るでしょう。我々はみなその意味することを知っていますが、それでも我々は同じ古いパターンの中で同じことを続けています。
そうして人類の悲しみがあります、人間の悲しみがあります。そしてまた我々が自分自身の悲しみと考えることがあります―私の息子の死であり、妻が私から去ったことであり、他の人が苦しむのを見る悲しみであり、読み書きができない人たちや途方もなく貧しい人たちの悲しみです。それら全てが悲しみです、人類の悲しみだけではなく、一人ひとりの悲しみでもあります。誰もが考えます、それは私の悲しみであり、あなたの悲しみではありませんと。しかし悲しみは悲しみであり、あなたのものでも私のものでもなく、それは悲しみです。このことを理解するためには観察する自由が要ります、気づく自由を要します、しかし我々はとても個人的に、とても狭量に、とても小さくなっていて、我々はあらゆるものを自分自身の限られた世界の中に矮小化します。悲しみは全ての人間の悲しみであり、それはあなたのものでも私のものでもありません。
そして人は問います、そのような悲しみは果たして無くなるのかと。それともそれは自然を破壊し、動物を殺し、互いに殺し合う人間の宿命ですか? 言葉で殺したり、ジェスチャーで殺したりするだけではなく、一つの爆弾で何百万人も殺します、何百万人も何百万人も殺戮します。そのようにそれら全ては悲しみです。そして病気や痛みの悲しみ、手に入らない悲しみ、失う悲しみ―それら全てを考えると、それは私の息子が死んでいく悲しみだけではありません。このような悲しみが果たして止むことがありますか? 悲しみは感傷的でもないし、悲しみはロマンチックな何かでもありません、それは恐ろしいものです。それはあらゆる人間に正にじかに関わる何かです、悲しみの孤独であり、その痛みであり、不安などです。それら全ては止みますか? 恐らく我々はそのような問いかけを全く行ってきていません、我々はそれに決して向き合ってきていません、我々はそれから逃げたがり、苦しまないためにドラッグを手に取ります、飲酒します、何故なら我々は決して実際にその問題と、その深刻さと向き合ってこなかったからです、つまりそれは悲しみに完全に気をつけていることを意味するからです。それを言葉や何らかの種類の思索的な願望などで暴くのではなく、それは病的になるのとは無縁に実際にそれと共に生きることです。それはそれに余すことなく完全に気をつけていることです。
気をつけていることは炎のようであり、そのように気をつけていると、悲しみや孤独、痛み、不安、涙などが、そのように完全に気をつけていると、それら全てが無くなります、消え去ります。気をつけていることは炎です。
悲しみ、その言葉の語源は熱気でもあります。悲しみの消滅は熱気であり、強い欲望ではありません。そして我々は決して熱気を持ちません、我々は快楽を欲します。熱気は途方もなく異なる何かです。悲しみの消滅するところに熱気があります―それはあなたの熱気でもなければ私の熱気でもなく、それは熱気です。そしてそれは愛の一部です。愛があるところに慈悲心があります。そしてこの途方もない慈悲心の熱気があるところに叡智があり、そしてそのような叡智が働きます―そのような叡智はあなたのものでもなければ私のものでもないしXYZのものでもありません。
そしてもし我々に時間があるなら、我々は非常に真剣な問題である死について話し合わなければなりません。このような素敵な朝に、死について話すことは馬鹿げているかもしれません。私は我々が最初に美について話せたらと思います。美とは何ですか? 友は言います、「私はそのことに興味がありません、美は大して重要ではありません」と。愛があるところに美や自由や善があります―それは人間の問題の一つとなってきました。愛があれば、あなたが何を行おうと、それは正しいでしょう。それでは明日まで美から離れましょう、それは複雑すぎます。
我々はこの途轍もない死の問題を話し合わなければなりません。絶対的に確かで変更できないことが一つあります、それは我々がみないつかは死ぬことです。そして我々はその問題を全く検討してきませんでした、何故なら殆どの我々がそれを恐れるからです、死とは何かを、死ぬとはどういうことであるのかを。そしてなぜ我々は死を生や生きることから遥かに懸け離れたものとしてきたのでしょうか? 私の質問がお分かりですか? 我々は今生きています、そして死は我々が九十歳や百歳のとき或いはもっと後で、もっとずっと後でやってくるかも知れません―私はあなたがそうであってほしいと願います。そのように長くて広いギャップが今と―私の言っていることが分かりますか―今と未来との間にあります。今を知ることは未来を含みます、従って死は今です。あなたはこれら全てを理解するのでしょうか。
それをゆっくり検討しましょう。私は私がこれまで決して見たことがない何かを見ただけです。それは何ですか、そしてなぜ我々は死を怖がるのですか? 我々は生きることを怖がります、明らかに。我々が生きると呼ぶものは、恐ろしい騒動や争い、必死の努力、痛み、不安、経済的な逼迫、お互いの絶え間ない意見の相違、意見の対立、そして朝いつも通りに起きてオフィスや研究室や工場へ行く準備をして出かけることなどです。私はどのように我々が我々の一日々々や我々の一年々々を過ごしているのかをあなたが本当に理解しているのかと思います。人はそれを楽しい生活と呼ぶかもしれません、もしあなたが成功していて金持ちで沢山の娯楽を手にしているのなら、あなたは言います、「私は楽しい快適な生活を過ごしてきました」―ほとんどの人たちが、金や力や地位や彼らが欲するもの全てを手にするとき、そう言います。しかしそのような人たちは世界の中で極めて極めて極めてわずかです、幸運にも。しかし大多数は、我々の全ては、日曜日に教会へ殺到します、神が我々を見るので我々はそこにいるようにただ参加します。そしてオフィスへ二十歳からあなたが死ぬまで通い、働いて、働いて、働きます―責任や義務、恐れ、不安、孤独などがあります。人はこれら全てに気づくのでしょうか。あなたは成功者かもしれませんし、沢山のお金を手にしているかもしれませんが、いつもその終わりには死もあります。
そのように我々が生きると呼ぶものは非常に痛々しく、混乱していて、不安な生です。違いますか? それが我々の生きると呼ぶものです、そして我々はそれにしがみつきます、何故ならそれが我々の知っている全てだからです。そして我々はそれから逃げたいと思います、そうして我々は娯楽やスポーツやサッカーなどの途轍もないエンターテイメント産業を生み出します、宜しいですね、エンターテイメント産業です。そして宗教的なエンターテイメントもあります。それはエンターテイメントではなく、それはもっと神聖であると言わないで下さい、それは依然としてエンターテイメントです。それは何らかの感覚です。どうか人が罰あたりであると考えないで下さい、我々はただ事実に向き合っているだけです。
そのように人は生まれた時から死ぬまで、問題に次ぐ問題とその解決に追われ、そして問題の解決の中で更に多くの他の問題を抱えます。頭脳が子供の時から問題を解決するように訓練されているとき、数学的な問題や地理的な問題、技術的な問題、工学的な問題などです、お分かりですか、我々の頭脳は子供の時から問題を解決するように条件づけられていて、問題を理解するようにはなっていません、問題が何であるのか、何が問題なのかを見るようにはなっていなくて、それらの解決に条件づけられています。そして問題の解決の中で、それが異なった仕方で組織化されます。違いますか? これが我々の生です、これが我々の政治的、経済的、社会的な生活です、そして我々は一瞬たりとも決して自由ではありません。そして取り分けこの国では、人々はいつも自由について語っています、選ぶ自由であり、この狭い場所から別の場所へ行く自由であり、職を変える自由であり、妻を変える自由などです。そのように我々は選ぶことが自由であると考えています。しかしそれはそうではありません、違いますか? 選ぶことは頭脳が不確かなときにのみ起こります。明瞭であるときには選んだりしません。そうするとこのような非常に深い混乱や不確かさ、孤独、絶望、憂鬱など、お分かりですね、我々の生の全てのサイクルが生じます。
そして死がやってくると、我々は吹き飛ばされます、他に何もありません。そこで我々は輪廻再生を発明します。あなたは輪廻再生を信じますか? もし信じるなら、正しく生きることです。今を正しく生きることです、何故ならもしあなたが今を正しく生きていないなら、来世は今のあなたと全く同じでしょう。当然、時間のせいで、それが千年を要しようと今であろうと、正しい活動はありません、それは愛と呼ばれる、この質、この香、この途方もないものがあるときに起こりえるだけです。もしそれがそこにないなら、来世は今のあなたと全く同じでしょう、少しだけ修正されていて、恐らくより大きな家に住んでいるかもしれません―それがあなたの願う全てです、より大きな車、更なる快楽です、しかしそれは同じことの継続です。
そうすると死とは何ですか? 我々は生が何なのかを理解しました、少なくとも我々が考える生とは何かを理解しました、時間に途轍もなく縛られている生です。そして死とは何ですか? 有機体には死があります、我々はみな毎日年をとります、生まれた瞬間から年を重ねていてやがて死にます。そして我々は死とは何かを、それが何を意味するのかを生きているうちに決して問わないできました―我々がその終わりを迎えるときにではなくです。生きているうちに我々はその意味するものを、その意義を、死の深さを決して問わないできました。我々は生の深さを、生きることの深さを決して問わないできました。それには途轍もなく意義のある生きていることの何かがあるに違いありません、しかし我々はそれをそのように取るに足りない小さな出来事にしてきました。そのように我々はそこでは決して問うてきませんでした、我々は次に死とは何かを決して問いません。それでは二人の友人としてそれを見てみましょう、怖がることなくそれを見てみましょう、何故なら怖がっているとあなたはそれを決して理解しないからです。
そうすると我々が先週恐れの問題を検討したように、恐れの消滅を検討したように、死の性質やその質やその深さを理解するためには、恐れが消滅しなければなりません。我々が言ったように、生物的に、有機的に、我々は一日一日有機組織を浪費しています。もし我々が間違って生きていても、この全ての労苦や悲惨、混乱、快楽、痛み、途轍もないエネルギーの浪費などの生を生きていても、それは消滅します、それは死の一部です。そしてまた物理的生物的存在は別として、死んでいくのは何ですか、何が死んでいくのですか? “自分”とは何ですか、それは“私”であり、自我であり、人であり、ペルソナであり、自己です―この一つの言葉から離れないようにしましょう―この自己とは何ですか、死んでいく“自分”とは何ですか? 宜しいですか? そしてそれが我々の怖がることです、死を怖がるのではありません。“自分”は、記憶や知識や経験として、この生の中に収集蓄積されてきました、“自分”は、私の利己心や私の欲望や私の野望などが記録されている全てです、それは記録です、そしてそれが頭脳の中に蓄えられています、それが“自分”です、そして我々は“自分”が消滅していくことを怖がります。そこで我々は“自分”とは何かを間近に検討する必要があります。あなたは何ものですか、あなたの名前やあなたの預金通帳やあなたの住まいなどそれらの類を別にして、物理的な自分や物理的な身体、背が高い低い、それら全てを別にして、あなたとは何ですか? あなたはこれまでそれと面と向き合ったことがありますか? 今それと向き合いましょう、怖がらないで下さい。
あなたは何ですか? あなたは収集蓄積された全ての記憶ではありませんか―記憶、楽しいもの、痛々しいもの、五十年或いは三十年それとも10日間の記憶など、あなたはそれら全てではありませんか? あなたの快楽の記憶、あなたの欲望の痛みや不安、孤独、憂鬱、必死の努力など、それら全てがあなたではありませんか? それらは全て記憶です。違いますか? それを今あるとおりに見て下さい、「記憶を超えた上位の何かがあるのではないですか」と言わないで下さい。私はそのゲームを知っています! 人は何か上位のものを発明できます、何らかの魂があると言えます、ヒンズー教徒はそれをアートマンと呼ぶなどです、上位の意識です、何か神聖なものであり、何か非常に非常に明瞭なものです。それらは全て理論であり、馬鹿馬鹿しいものです、実際に存在するのは現実のあなたであり、人間の、人間の記憶のそのような壮大なコレクションです。もしあなたが偉大な技術者で原子爆弾や中性子爆弾を作っているのなら、あなたは沢山の知識を収集蓄積しなければなりません、そして死がやってきて、あなたは言います、「ちょっと待ってくれ、私にそれを完成させてくれ」と。それは全て収集したり、分配したり、収集したりするプロセスです。あなたはそれです。それは事実です。しかし我々はその事実を見たくありません。我々は言います、「いいえ、私はそれ以上の何かです」と。この“それ以上の何か”は欲望であり、「それは小さすぎます、確かに私はそれよりもずっと重要な何かです」と言う思考です。そのようにそれもまた思考の発明です。そのようにあなたは思考によって作り出された記憶の束です。それに面と向き合って下さい! そして死がやってきて言います、「友よ、それで終わりです」と。そしてあなたは言います、「どうか、もう少し長く生きさせて下さい」と。
ですからどうかこのことをじかに追ってみて下さい、そうするとあなたは自分自身でそれを見て取るでしょう。時間は今です。時間に過去や未来が含まれていて、時間は今です。従って死は今です。それが意味するのは、もし私が私の妻や私の何かしらに、私の家具に執着していても―あなたは何かに執着していませんか―死がきて言います「その消滅です」と。それを断ち切って下さい。そのようにあなたは執着から自由になれますか? 従ってそうするとあなたは生きています、生きて同時に死んでいます。あなたはこのことが分かりますか? おーっ、分からない! 行ってみて下さい、宜しいでしょうか、そうするとあなたはそれが途方もないことだと分かるでしょう。もしあなたがあなたの記憶やあなたの経験、あなたの失敗、あなたの野望などに執着していても、それら全ては消滅していきます。そうするとあなたは死と共に生きることができますか、それはあなたの野望を今消滅させることです。そして野望を抱くことなく生きることは途轍もないエネルギーを意味します―さらに災いをなさないことを意味します。
そのように死と生はいつも一緒です。そしてこのことが起こるとき、実際に、理論的にではなく、想像上ではなく、それを願ってのことではなく、あなたが執着しているどのようなものに対しても実際にあなたがそうするとき。もし夫が妻に「ねえ君、私はもう君に執着していない」と言うなら、彼は大変な困難に出くわすでしょう、私はその難しさが分かります。そしてそれは別の問題です、途轍もない問題です。あなたは執着から自由かもしれません、そして彼女はそうではありません、或いは彼女が自由で、あなたはそうではありません。そうすると関係性とは何ですか? 関係性は快楽や痛みとしての記憶の単なる収集蓄積ですか? 関係性はそうすると単なる何らかの感覚ですか? お互いのイメージ、それが関係性ですか? 従ってそれらの分離したイメージが生まれるとき、葛藤や痛みや不安が生じます。そのように痛みや不安や恐れがあるとき愛は生まれません。
そのように死と生はいつも一緒に歩みます。そうすると自分自身の取るに足らない労苦からのそのような絶対的に自由な感じが生まれます。そしてそれが時間とは無縁なものを理解するためには必要です、もし永遠というものがあるのなら。我々はそれについて別のときに話し合います、しかしこれら全てを生の活動として、死ぬことと生きることとして見て取って下さい。従ってそのような意味であなたは他の人を決して殺したりしないでしょうし、決して他の人を傷つけたりしないでしょう。違いますか、宜しいでしょうか、終わりです。
1984年5月26日 オーハイ
中野 多一郎 訳