クリシュナムルティをめぐりて

瞑想 2

クリシュナムルティ(K) 私はこれが楽しみや娯楽や何らかのいわゆる精神的高揚のための日曜の朝の集会でないことを願います。我々はかなり真剣であって、我々は殆どこれらのトークや質疑応答の集まりのあいだ生の複雑な全ての問題を話してきました。そして一緒に、話し手と共に、我々は我々の全ての問題を、恐れや欲望や執着の問題、そして我々が昨日話した質問だけではなく、愛は欲望ではないこと、愛は愛の継続的な表現ではないこと、愛は快楽の継続的な表現ではないことなどの質問も同様に解決しようとしています。
 そして我々は、これが最後のトークとなる今朝、活動とは何か、死の意義とは何か、そしてこのひどく乱用されている言葉である瞑想の意義とは何かを検討したいと思います。何故ならこのことは殆どの我々の生に関わるからです。我々は何かを証明しようとしているのでもないし、あなたを新しい一連の信仰や理想に改宗させようとしているのでもないし、何らかのプロパガンダを行っているのでもありません。とりわけ話し手はそれらを恐ろしく思います。しかし話し手と一緒に、もし宜しければ、そしてもしあなたが真剣ならば、それら全ての質問を検討します。
 恐らくあなた方の殆どはこの二週間のあいだここにいたかもしれませんが、我々は今活動とは何かを検討し熟考する必要があるでしょう。何故なら殆どの我々の生は活動だからです、我々の全ての関係、我々の態度や我々の振る舞い、我々の個々の特有な表現、我々の抑制、我々の好きなこと或いは好きではないことを表現する自由など全てが活動であり、我々は暴力的で攻撃的で従属したり信じたりなどします、それら全てが活動です。単にオフィスへこの先五十年毎日通うことではなく―あなたがそれにどのように耐えるのか知りませんが―或いは何らかの特殊な仕事を生涯にわたって何度も何度も何度も繰り返し行うことではありません。それらもまた同様に活動です。そしてそれらの活動は過去の知識に基づいているだけではなく現在によって修正され未来へ継続されます。
 宜しいですか、我々が言ったように、我々は一緒に話し合っています。我々は何か不明確なものを伝えようと或いは言おうとしているのではありません。一緒に、あなたと話し手はこの活動の全ての質問を検討しなければなりません、完全な活動があるのかどうかを、後悔を伴わない活動、不完全で部分的な活動と感じない活動があるのかどうかを、従って葛藤を生まないで分断的ではないなどの活動があるのかどうかを見つけ出すようにしなければなりません。
 従って我々が今朝検討していることは、もしあなたが本当に真剣なら、素晴らしい天気の日に、我々が生の他の問題を検討してきたように、もしあなたがこのことを検討したいのなら… 我々は生を扱っています、つまり我々は日常生活を扱っています、我々の葛藤や混乱、嫉妬、攻撃性、執着、信念、苦痛と悲しみを伴った不断の奮闘などを扱っています。それが我々の生です。そしてそのような騒動から逃げるために、我々は様々な種類の哲学や精神分析が扱う問題を検討して我々自身の日常の葛藤や悲惨や混乱を解決したいと願います。我々は明らかにそれらに決して面と向き合っていません。我々は様々な逃避の形を非常に注意深く育んできました、宗教的な、感覚的な、俗悪な、様々に張り巡らされたネットワークです。
 そこで今朝は、これまでと同じように、我々は一緒に熟考しています、話し手があなたに活動とは何かを話すのではありません、我々は一緒に活動の性質を理解しようとしています、そしてそれが完全で全体的なので日常生活に何の痕跡も残すことなく葛藤を生まない活動があるのかどうかを理解しようとしています。活動とは何ですか、行うことです。殆どの我々にとってそれは収集蓄積された知識や経験に基づいていて、それから行動します。違いますか? 我々はこのことに付いてきていると私はそう願います。つまり何年もかかって学んで、実践し、沢山の知識を獲得し、そしてそれに基づいて行動します、巧みに或いは拙く。それが我々のいつも行っていることです。大工も科学者或いは天体物理学者も彼らの活動の中で、彼らの知識の獲得の中で同じことを行っているのであり、更なる知識を加え、それを修正し、それを変化させます、しかしその基礎は知識を獲得して、その知識から行動することです。一方、行動を起こして、その活動から学ぶことがあります。あなたをたちどころに喜ばす何かを行い、それから学びます、行動の中で知識を獲得します。従って両者とも同じことです。私は我々がこのことを理解していることを願います。つまり、研究によって徐々に学んで知識を獲得し、或いは経験によって知識を獲得し、その知識から行動するのです。そしてもう一方は、行動し、行動から学んで、その結果もっと知識を獲得するのです。従って両者は同じです。お分かりですか? そのように我々の行動は知識に基づいています、多くの情報に基づいています、そしてそこから技術が生まれます。違いますか? そして我々が言っていたように知識はいつも不完全です。人はこのことを非常に明確に理解しなければならないと私は思います。完全な知識は決してありえません、天体物理学者のそれであろうと、科学者や画家、音楽家、ピアノ演奏家、大工、配管工などのそれであろうと完全な知識は決して決してありえません。従って知識はいつも無知と隣り合わせです。従って我々の活動はそれが知識に基づくとき不完全に違いありません。人はこのことを非常にはっきりと見なければなりません。
 そして我々の日常生活の中で、我々のお互いの関係の中で、それが親密なものであろうとそうではなかろうと、活動はそれまでの記憶や我々がお互いに築き上げてきたイメージに基づいていて、それから行動します。どうかこれらのことをはっきりと見て下さい。何故ならもしあなたがこの問題を注意深く理解しないと次の問題がかなり難しくなるからです。つまり、我々の互いの関係の中で知識やイメージに基づいた活動は分断的であるに違いありません、つまりそれは分断し、争いを生み、部分的であるに違いありません。この互いの関係の中にイメージを全く持ち込まない実際の関係が生まれるのか、それとも、もしイメージがあるとそのイメージは知識の産物ですが、その知識から行動するのかということです。従って我々の関係性は、それが親密であろうとそうではなかろうと、部分的で、断片的で、バラバラであり、従ってその関係性の中に愛は決してありえません。違いますか? 愛は思い出ではありません―父の日、母の日、それらの類ではありません。それは商業的なものではありません。
 それでは時間から生まれるのではない活動があるでしょうか? 私はこのことを注意深く説明しようと思います。どのような領域でも知識を獲得することは時間を要します。お互いを知るようになるには時間を要します、たとえお互いがより親密でも時間を要します。そのように我々の全ての活動は知識と時間の産物です。違いますか? 時間は時計時間すなわち日の出日の入りだけではなく心理的時間でもあります。つまり私は今こうで将来はそうなるでしょう、私は今は持っていませんが将来手にするでしょう、或いは私は貪欲であり、怒りっぽく、暴力的です、しかし時間がそれを解決してくれるでしょう。そのように我々の精神は思考と時間と知識で作り上げられています。従って我々の活動はそれから生まれています。もしあなたがそのことを非常に注意深く考えてみるなら、我々の全ての活動はそれに基づいています、従って、知識は不完全であり、思考は不完全であるので二人の間に争いが起こるに違いありません、それが男と女であろうと男と男であろうとあらゆる関係性の間で争いが起こるに違いありません。もし人がこのことを理解するなら、或いは知的にそれ気づくなら、しかしそれに知的に気づくことは部分的です、何故ならそのようなことは我々の生の一部分にすぎないからです、それに情動的に気づくことも部分的です、そうではなくそのことに完全に気づくことです、そのことが意味すること全てに気づくことです。違いますか? 我々はお互いに付いてきていますか、私はそう願います。
 そこで次の質問は、知識の産物ではない活動が、どうか注意深く進んでください、お願いします、知識の産物ではない活動があるのかということです。あなたは付いてきていますか? それが問いかけです、我々はそれがあるともないとも言っていません。言葉や技術を習得したり技術やコンピューターなどに習熟したりするには知識に基づいた技術がなければなりません。そこではそれは必要です。宜しいですね? 我々は全く異なった何かを問うています、つまり我々は心理的に知識から活動しています、私はあなたを何年も知っています、私はあなたについてのイメージを築き上げています、そしてその知識から私はあなたに関する行動をとります。違いますか? 我々は活動がそこから起こる心理的記憶を検討しています。宜しいですか? 我々はお互いに付いてきていますか? 宜しいですか、我々は非常に非常に繊細で難しい何かを検討しています、もしあなたがそうしていないなら、私にはどうすることもできません。それは非常に簡単です、もしあなたがあなたの精神をそのことに向けているなら、もしあなたがそのことに注意深く耳を傾けているなら、話し手の言っていることだけではなく、あなた自身の精神の働きにも耳を傾けているなら―もしあなたが眠たげにしていないのなら、或いはここで日光浴をしているのでないなら、或いは何か食べ物を食べているのでないなら。あなたはこのことに気をつけていなければなりません。
 心理的に我々は我々がそこから活動する沢山の知識を築き上げています。つまり我々の知識は自己中心的です。違いますか? 私はそうしたい、私はそうしたくない、私は貪欲です、私は成就しなければならない、セックスがなければならないなどなどです。そのように心理的に我々は自分自身や他の人々についてのイメージを築き上げています。そのようなイメージやそのようなシンボル、そのような言葉は知識です。違いますか? そのようにこの自己中心的な知識は、我々がそこから活動する自己中心的な知識は本質的に利己的です。違いますか? そして活動が自己中心的な状態から起こると、そのような活動は害があったり、傷つけたり、暴力的であったり、孤立していたりします。違いますか? 私はあなたが気づかなかったかどうか、あなた自身の生を学んできたかどうか、我々のほとんどが自己中心的で自己中心的な虚栄心を心の底に持っているので我々は自分自身の周りに壁を築いてきていることに気づかなかったかどうか知りません。宜しいですか? もし私が攻撃的なら私はすでに自分自身の周りに壁を築いています、そしてその状態の中で私は活動します。違いますか? これらのことを見て下さい、宜しいでしょうか、自分自身の中です。あなたは実際に、もし宜しければ、自分自身を話し手の差し出す鏡の中で観察しています。それはあなたの鏡であり、私の鏡ではありません。我々は人間として正に世界中でこの中心から活動し行動しています。違いますか? そして我々がこの中心から活動している限り争いが起こるに違いありません。そしてこれらのトークの初めから我々が指摘したように、我々の関心は争いを取り除くことです、国家的、経済的、社会的争いや戦争だけではなく様々な宗教間の争いや様々な教義、信仰、迷信、儀式―それらは迷信の一部です―の間の争いを取り除くことです、このような分断的な要素が精神の中にある限り争いが起こるに違いありません。そして我々の活動が自己中心的である限り、この分断的な要素が存在します。違いますか? そしてこの自己中心的な状態は頭脳の中に蓄えられた知識と経験の収集蓄積です、そしてその状態の中で私や私の表現の絶え間ない追求が起こります。違いますか?
 そこで我々の次の質問は、この自己中心性とは無縁に活動し生きることが可能かということです。従ってそれは非常に真剣な問いかけであり、それは日曜の朝の伝道師的なナンセンスではありません、それは我々が非常に非常に注意深く検討しなければならない何かです。何故なら人間は太古の昔から争いと共に生きてきたからです。そして我々は何百万年を経ても依然としてそのような状態の中を生きています。従って何かが根本的に間違っています、あらゆる哲学や宗教、信仰などにもかかわらず我々はいまだに動物的であり、我々はいまだに我々がそこから活動するこの恐ろしい破壊的な中心を抱えています。私はあなたが単に沢山の言葉を聞いているのではなく、あなた自身の精神を観察していることを願います、あなたがあなた自身の精神が働き、見て、問うているのに気づくことを願います、全く異なった生き方があるのかどうかをあなたが問うていることを願います。百万年を経た同じパターンに囚われることではないのです。宜しいですか? どうかこの質問をこの上なく真剣に自分自身に問いかけて下さい、何故なら我々は我々自身を破壊しているからです、我々は地球や大気を破壊しているからです、そして我々は人間を破壊しているからです。
 そのように我々の責任は途轍もないものです。私は責任という言葉を罪悪感とは無縁に使っています。もしあなたが責任を感じるならあなたは行動します。しかしもしあなたが行動しなくても罪悪感を抱かないで下さい、あなたにはただ責任がないだけです。
 それではこの中心とは何ですか? 宜しいですか? どのようにしてそれは生じるのですか? そして我々が言ったように、我々は死についても話したいと思います。死が起こるときこの活動の中心は止みます。あなたは私の言っていることに付いてきていますか? 私は説明します、私はそれを注意深く検討します。最初に我々は問うています、この中心が止むことがありえるのかと、そしてそれでもこの生を生きることができるのかと、僧院へ入り、何らかの思想或いはユートピアと一体化して、私は中心を失くしたというのではなく―それはナンセンスでしょう。何故ならあなたは単にその中心を何か他のものと同一化したにすぎないからです。違いますか? 私はあなたがそのことを分かるのかどうか知りません。つまり、この自己中心的な活動、この中心、そのエゴはその快楽や恐れ、不安などと共に何かを信じ、そして何かと同一化します―イメージや教義などと同一化します、或いは新しい名前を受け取ります―しかしその中心は依然として残ります。あなたはこのことに付いてきていますか? 宜しい!
 そこで我々の問いかけは、それを死んでやり過ごして、それでも生きていられるのか、活動的で、働き続けることができるのかということです。それは葛藤とは無縁に続けることです。お分かりですか? そこで我々は検討しなければなりません、精神や頭脳、形、名前などがしがみつくこの中心とは何であるのかを。お分かりですか? 私はあなたがこれらに付いてきているのかどうか知りません。我々は問うています、自己の性質と構造とは何なのかを。違いますか? あなたは何なのですか? もしあなたが何ものも身に纏わないならあなたはただ発見することができます。違いますか? もしあなたが「私はある通りの私でいなければならない」と言うならあなたはある通りのあなたを発見していません。或いは、私は私がある霊的な実体であるのを信じます―再びあなたは発見できません、或いは、もしあなたがあなたの偏見を抱えて取り組むならあなたは発見できません。従ってこのことを検討するときあなたは自由に観察しなければなりません。違いますか? 何故なら観察は分析ではないからです。あなたはこのことも注意深く理解しなければなりません。我々の全ての精神と頭脳は分析するように訓練されています。それは我々の生のパターンになっています。そして人が生のそのパターンは葛藤を消滅させることにはならないと見て取るとき、あなたは他の方向を検討しなければなりません。違いますか? 他の方向とは観察のことです。方向性を持たない観察、それは分析を意味しません。御免なさい、もしここに何らかの分析者がいるなら、許して下さい! もしあなたが同意しないなら、それは結構ですが、私と共に、話し手と共に検討して下さい。
 あなたが観察するとき、思考がその観察に干渉するとあなたはそれに方向性を与えています、あなたの記憶やあなたの動機、あなたの欲望から方向性を与えています。違いますか? そうすると観察していません。あなたの欲望やあなたの動機、あなたの快楽などがその観察を指示します。違いますか? そのようにある通りのあなたを実際に観察するためには、人はそれに自由に取り組まなければなりません。それが我々の困難な点です、何故なら我々の精神は条件づけられているからです。そして条件づけられているので我々の取り組み方はいつも限られています。違いますか? そこであなたは今朝そこに座っていて一緒にこのことを話し合いながらそれから自由でいられますか? あなたの偏見から、あなたの分析から、あなたが分析する上でのあなたの攻撃性などそれらから自由になって下さい。ただ観察して下さい、あなたが髪をとかしたりひげを剃ったりするときあなたが鏡の中のあなたの顔を観察するように。宜しいですか?
 そうするとこの私は、このエゴは、この自己は、我々がそのように途轍もない重要性を与えるこれは何ですか? 何故なら人はそれを見出す必要があります、何故ならもしそれが現実の何かなら、幻想ではなく、お分かりですか―あなたが触れることのできる、感じることのできる、見ることのできる何か、人が作り出した幻想ではない何かなら―人はこの“私”の性質が何なのかを見出す必要があります。何故なら我々は一緒に議論をしているからです、我々が過去に話してきたことだけではなく死が何であるかについて議論をしているからです。宜しいですか、それは関連しています。明らかに“私”は教育によって、比較することによって、いわゆる文化や個人の観念によって作り上げられていて、それら全てが思考の活動であり、それが“私”を作り出してきました。お分かりですか? それは事実です、攻撃的である私、何らかの空想的な観念を強く信じている私、それはロマンチックであったり、ひどく孤独であったりします、そしてその孤独から逃げてあらゆる種類の馬鹿げたナンセンスに走ります。そのようにそれら全てが私であり、思考によってそこに置かれています。違いますか? あなたが魂やそれらの類を言うとき、それは依然として思考です。そして我々は言っています、そこから活動が起こると。違いますか?
 自己中心的ではない活動がありますか? 宜しいですか? 非常に簡単に言うと、それは自己中心的に動機づけられていない、或いは方向づけられていないことです。何故ならそれが世界中の大混乱を引き起こすからです。違いますか? 個人的な関係の中だけではなく近かろうと遠かろうと我々の隣人との関係のことです。それではこの自己中心的な存在は止むことがありえるのでしょうか? そしてそれでもこの世界に生きて活動し考え感じることがありえるのでしょうか? つまり、心理的に我々は我々の周りに沢山の知識を築き上げています―人はそれら全ての心理的な知識を死んでやり過ごすことができますか? 宜しいですか? そしてそれは死ですか? あなたはこのことに付いてきていますか?
 あなたは我々が死をひどく恐れていることを知っています。我々は恐れを抱かない精神だけではなく、それを我々は先日話しましたが、死がどういうものであるのかも決して検討してきていません。違いますか? あなたは我々の精神が継続するものにしがみつくのが分かります。違いますか? 継続性の中に安全性があります、私はかつてそうでした、私は今そうです、私は将来そうでしょう。そのような概念、そのような観念は途轍もない力を生み出します。違いますか? 私は安全であると感じます、私は安心を覚えます。そして死がそれらを否定します。違いますか? 私の安全性です、私が保持してきたあらゆるものへの私の執着です。そして我々はそれを恐れます。つまり、未知な何かに入っていくことです。違いますか? 何故なら我々はいつも既知と共に生きてきたからです。あなたはこれらのことに付いてきていますか? どうか付いてきて下さい、それはあなたの生です、あなたの惨状であり、あなたの悲惨であり、あなたの憂鬱であり、あなたの孤独です、それはあなたの生です。あなたはいずれそれと向き合わなければなりません。つまりもしあなたが理解してただ一つの問題も抱えずに、微塵も葛藤することなく、大いなる愛情と愛と共に異なる生を生きたいのなら。つまりもしあなたがそうしたいのなら。しかしあなたはそうしたいと思いません、あなたは引き続き古いパターンの中で継続して自分自身や他の人たちに悲惨をもたらします、戦争をもたらします、そして世界中でうち続くあらゆる悲惨をもたらします。それはあなた次第です。
 そのように我々の生は、我々の日常の生は、我々が知っているように、我々が気づいているように、継続する絶え間ない戦いであり、たとえどんなにあなた方が親密であっても、お互い同士の争いであり、これらの混乱です、ある政治家がこう言えば他の政治家が違うことを言います、ある経済学者が、高い地位にある経済学者が他の経済学者を否定します、ある科学者が…あなたはそのようなゲームが続くのを知っています。これは絶え間ないお互い同士の、我々自身の戦いです。それが我々の生です。違いますか? それが現実であり、それは理論ではありません、誰かがあなたに押し付ける何かではありません、あなたがそれなのです。
 それではそれがあなたの恐れていることですか、それらを失うことを恐れているのですか? 私の言っていることが分かりますか? 恐らくよい例と思われるものを取り上げましょう、執着です―それを聞いてきた人たちには、これを繰り返して御免なさい。人は執着の性質と構造が分かります、そのような執着の成り行きが分かります、苦痛や嫉妬、不安、憎しみ、快楽などです、そしてきわどい一線である俗に言う恋愛映画です。オフィスへ或いは工場へ行きます、或いは秘書をして速記を取ります、お分かりですか、毎日々々途切れることなくこの先五十年です。あなたは何と悲劇的な生き方をしているのでしょう! 或いはあなたはそれらから逃れて何か他の愚行に走ります。そこでもこの争いがあります、そこでもこの攻撃性や快楽が違った形で起こります、そして同じパターンが繰り返されます。そしてこれが我々の生と呼ぶものです。
 そして説教師たちや聖職者たち、いわゆる宗教的権威たち―階級組織―がいて言います、あなたはここでは天国を手に入れられません、それは天上にあります、あなたは信仰を持たなければなりません―違いますか―それを理解するために、それから逃れるために、あなたは信仰を持たなければなりません。私は宗教が書物に基づいていることにあなたが気づいたかどうか分かりません。違いますか? ここではキリスト教は聖書です、そしてイスラム世界ではコーランです、そして仏教やヒンズー教の世界には沢山の書物があり、これを行いなさいと言う書物は一つもありません。そのように書物に基づいているそれらの宗教は疑うことを否定します。それを私と一緒に検討して下さい。宜しいですか? もしあなたが疑うなら、宗教的構造の全てが西洋世界では潰えます、そしてそれは仏教の世界でもヒンズー教の世界でも起こります。そのように信仰が疑うことに取って代わってきました。私はあなたがこの疑うことを検討してきたかどうか知りません。それが精神に及ぼす途方もない浄化作用といったらないでしょう! 勿論もしあなたがあらゆることを疑うならあなたは精神病院へ行くことになるでしょう! しかし人は疑うときを知らなければなりません。それはあなたがいつ疑うのかを知らなければならないことを意味します。あなたが犬を連れているとき、もしあなたがそれを紐でつないでおくときを知るなら、あなたは必要なときそれを解き放します、あなたがそれを自由にしてやりたいときそれを解き放します、あなたはそれをいつも紐でつないでおくことはできません、犬がかわいそうです! そのように疑うことは紐で繋がれていなければなりません、そして時々解き放たれなければなりません。それはあなたが不確かさから始めることを意味します―お分かりですか―確実なことからではありません、どうかこのことに付いてきて下さい。書物はあなたに確実性を与えます。違いますか? 聖書や他の様々な書物です。あなたはそれを信じなければなりません。そのようにそれは確実性から始めて、そしてあなたは検討し始めて不確実になります。一方もしあなたが不確実なことから始めるとあなたは確実性を超えた何か、あらゆる他の物を超えた何かに行き着くかもしれません。我々はそれを間もなく検討しようとしています。
 そこで我々は生きているとき、親密であろうとなかろうと、執着から即座に自由になれますか、そしてそれは死ですか? あなたは私の言っていることが分かりますか? 分かりますか? 死はあなたと議論しません。死です、あなたは死に向かって言わないでしょう、「私にもっと時間をください、どうかもう少し待って下さい」と。しかしもしあなたが死が何であるのかを知るなら、それは消滅することです。違いますか? あなたが生きているとき消滅することです、執着の消滅です。あなたは今付いてきていますか? それは死があなたに言おうとすることです、つまりあなたはあらゆるものを置いてこなければなりません。しかしそのような消滅は恐ろしいことです。違いますか? そこであなたは輪廻転生を信じます、あなたは希望を願うなどあらゆることを行います、或いは天国を信じて再生されることなどを願います。それでは宜しいですか、我々が生きているときあなたは何かを消滅させることができますか? 禁煙をするとかのそれらの馬鹿げたことではなくてもっとずっと深くて内面的なことです、あなたの貪欲を消滅させることです、あなたの攻撃性を消滅させることです、あなたの教条的信仰や経験を消滅させることです、お分かりですか、それを消滅させることです。あなたが何かを消滅させるとき全く新しい何かが始まります。私はあなたがこのことを分かるのかどうか知りません。しかしあなたがそれを分析によって、意志によって消滅させるとき、あなたはそれを消滅させていません。違いますか? これは難しいことです。分かりました、私はそれを説明します。
 もし消滅させようとする動機があるなら、その動機は思考によって、欲望によって生み出されています、そしてあたがそれを分析して消滅させるとき、それは依然として思考のプロセスです―違いますか―それは他の形で継続します、しかしあなたはそれを特殊な方向の中で消滅させました。違いますか? あなたはこのことを理解しましたか? 宜しい。
 従って我々は言っています、方向性や執着を脱落して、或いは攻撃性や暴力とは無縁に観察して下さいと。それを何の動機も方向性も欲望も持たずに観察して下さい、ただそれを観察して下さい、そうするとその正に観察する中でその消滅が起こります。従ってあなたは生きながら死を招き入れています。お分かりですか? 私はあなたがこのことを理解するのかどうか分かりません。自殺するのではありません、それは別の事柄です。しかし争いや苦痛、苦しみの中を生きている精神にはいかなる愛情も愛の感じもありません、何故ならそれは自己中心的だからです、そしてこの自己中心性の様々な側面の一つはこの攻撃性や競争心、貪欲さです、それらの一つを或いはそれらの多くを即座に容易く消滅させて下さい、そうするとあなたはこの世界で全く異なる種類の生を送っています。
 そのように生きているときに死があります。お分かりですか? あなたはこのことを理解しますか? あなたが年を取り、ぼけて病み、朦朧として、それらの悲惨を味わう生の終わりではなく、生きているときに死があります、お分かりですか? しかし精神が収集してきたものを容易く潔く消滅させることです、そうすると精神の異なった質が生まれます。お分かりですか? そのような精神にはその継続性や不変性はありません。
 そしてさらに我々は二人の友人として非常に非常に複雑な問題を話し合わなければなりません―我々の生は複雑な問題です、不幸なことに―宗教や瞑想についても話し合わなければなりません、もしあらゆる物質を超えた何かがあるなら。あなたは私の質問が分かりますか?
 宗教は、或いはむしろ人はいつも物質的な存在を超えた何かがあるのかどうかを探究してきました、日常的な決まりきったことや仕事、この孤独、絶え間ない苦痛と悲しみなどを超えた何かがあるのかどうかを探究してきました。人は太古の昔から何か超えたものがあるのかどうかを問うてきました。人はそれをいつも追い求めてきています、そして聖職者たち或いはその探究や問いかけを研究機関にしたいと思う精神、それらがそれを宗教にしてきました。違いますか? それを組織や研究機関にしました。従って探究している人はそれに囚われています。私はあなたがこのことを分かるかどうか知りません。従って人はあなたがそれに囚われているのかどうかを明らかにする必要があります。それともあなたは探究していて―違いますか―探究していて信じもしないし信仰することもしないで探究し、観察し、問うています。違いますか? つまり、この存在以上の、この物質的繁栄以上の何かがあるのかどうかを問うています、人の限られた存在を遥かに超えた何かがあるのかどうかを問うています。違いますか? 我々はそれを検討しようとしています、一緒に、私がそれを検討してあなたがそれを聞くのではありません、何故ならそれは非常に安易だからです―あなたがここを去るとあなたはこれらを忘れます、あなたが聞いたことを忘れます、しかしもしそれがあなたの生なら、あなたの日常生活の関心事なら、それはあなたの問題です。
 どのようにして―どのようにしてではなく―あなたはこのことをどういうふうに探究しますか? お分かりですか? 我々の精神、我々の頭脳は時間の結果です。百万年、そして何百万年もそれは進化し発達しあらゆる種類の知識や経験を通して痛みを通して収集蓄積してきました、我々の頭脳はそれです。いつも安全性を追い求めています、物理的にも心理的にも、その正に本質は私に安全性を与えて下さいという点にあります。何故なら頭脳や精神が完全に安全なとき全く異なった精神の状態が生まれるからです。しかし不幸なことに我々の頭脳や我々の精神や我々の反射的な反応などは安全性を見つけてきていません、物理的な世界の中にも内面的な世界、心理的な世界、精神の世界の中にも、そこにもここにも見つけてきていません。百万年経っても我々は依然としてそれを捜し求めています。そしてそれを見つけないので思考は神や救世主たち、大師たちを発明しました―お分かりですか? それらが我々に安全性を与えるでしょう。それがグルたちや全ての聖職者たちが茸のように生えてあなたにあらゆる種類のものを与える理由です、それらの中には狡賢い心理学者たちや哲学者たちも含まれます。
 そこではじめに、安全性というものはありますか? お分かりですか? どうかあなた自身に問うて下さい。他の人との関係性の中で安全性はありますか? 現実的になって下さい! 明らかにありません、あなたはそれを手に入れたいと思います。そしてその安全性は不変性を、違いますか、継続するものを意味します。あなたはそれをあなたの関係性の中で手に入れていますか? もしあなたが正直なら明らかにあなたは手にしていません。しかし精神はそれを追い求めています。もしそれがそれを見つけることができないなら、それは幻想を発明してその幻想の中に安全性を手に入れたいと望みます。違いますか? お分かりですか? そのように精神は、思考は、それは精神と頭脳の一部ですが、思考はこの安全性の不変な活動を追い求めています。違いますか? そしてそれをそこに見つけないとそれは否応なく幻想である何かを発明するに違いありません。それもまた現実です。違いますか? 幻想は一つの現実です。
 従って精神は自由に理解し探究しなければなりません、もし物質を超えた何かがあるなら。精神はあらゆる種類の幻想からも自由でなければなりません。違いますか? 幻想とは信念であり、幻想とは信仰であり、幻想とは依存性です。お分かりですか? 従って精神はどのような形の幻想からも自由でいられますか、そうではないならそれは先へ進めません。あなたがではなく、頭脳は先へ進めません、精神は更に活動できません。それはあなたが幻想を抱いていることに気づいて、それを消滅させることです、あなたの背景の中から探究するのではないのです、そうなるとあなたはその種のゲームに戯れていることになります。従って精神は幻想を作り出す欲望から自由でいられますか? 宜しいですか? それは瞑想の一部です、どこかの場所に座って十分間沈黙することではないのです、朝、夕方、午後、いつでもあなたはそうします、そしてあなたは残りの一日災いをなし、自己中心的になるのです。違いますか?
 そのように科学者たちや天体物理学者たちはいつもこの問いかけをしています、もし彼らが真剣なら、単に発明的であったり職業的科学者であったりしないなら、物質を超えた何かがあるのかと。お分かりですか? 思考を超えた何かがありますか? 何故なら思考はものだからです。違いますか? 何故ならそれは脳細胞の中に保持されているからです、その記憶や経験や知識として脳細胞の中に保持されているからです、従ってそれは依然としてものです。そして思考はものです。あなたは付いてきていますか? あなたはそれを受け入れないかもしれません、それを検討して下さい、それを探究して下さい。従って物質を超えた何かがありますか? どのようにしてあなたはそれを見出しますか? 科学者やその他の人たち、天体物理学者などは外に目を向けています。違いますか? 彼ら自身の外側です。違いますか? 我々は言っています、あなたがどのように自分自身を見るのかを知るとき、それもまた物質ですが、自分自身を理解するとき、自分自身を見るとき、そこにあるそれはその他のことよりもより現実的です、このことをあなたは実験できます、お分かりですか? あなたの日常の活動であなたはそれを実験できます―それは単なる一つの理論になるだけですが。私はあなたがこれらに付いてきているのかどうか分かりません。付いてきていますか? 私はあなたがこのようなよい天気を満喫していることを望みます。もしあなたがこのことに興味がないなら樹木を見て下さい、樹木の美しさを見て下さい、葉群れの中の日差しや遠くの山々、それらの光、空の美しさを見て下さい。しかしもしあなたがそれらに鋭敏なら、あなたは話されていることに鋭敏でしょう。
 そうすると発見できる精神の状態、意識とは何ですか―私は“知る”という言葉をかなり広い意味で使っています。宜しいですか、“知る”という言葉は非常に限定的です、違いますか? あなたはあなたの妻に言えます、「私はあなたを知っている」と、しかしあなたは実際にあなたの妻を、あなたの夫を、或いはあなたの男友達を知っていますか? あなたは知りません。あなたはあなたが彼女或いは彼について築き上げてきたイメージに従って知っているだけです。従ってここで“知る”という言葉は―あなたが「私は超えた何かを知っている」と言うとき―あなたはそれを破壊しました。あなたは私の言っていることが分かりますか?
 そのように瞑想はあなたが実践する何かではありません。それは生の全活動を理解ことです。宜しいですか? 悲しみや苦痛、不安、攻撃的であること、孤独などです。そうでなければ、もし精神がそれらから自由でないなら、あなたの瞑想には価値がありません。お分かりですか? あなたはインドから来るグルたちが色々な様々な形のシステムや迷信や概念を持ち込んでいるのを知っています。チベット瞑想法、禅、覚醒するための瞑想法があります―私はただ彼らの言い方に従っているだけです、私を攻撃しないで下さい―クンダリニーを覚醒させる瞑想法や様々な形のヨーガがあります。ヨーガ、その言葉の本当の意味は結びつけることです。違いますか? つまり、彼らによれば、下位の物質的存在を上位のそれに結びつけることです。ヨーガの実践は―分かりますね、あなたは呼吸し、様々な体勢を取るなどそれらを行います―十八世紀か十七世紀ごろオカルト的な力を願ったある人間或いはあるグループによって発明されました。それはコントロールすることによって力づくで―お分かりですね―方向付けをして、彼らはこう言いました、我々は超感覚的な知覚を呼び覚ますかもしれないと、私は現代的な用語でそれを表現しています! そして彼らはそれを実践してきています。しかしただ一つのヨーガがあるだけです、それはラージャヨーガと呼ばれ、そこではいかなる実践もいかなる技巧的な訓練も行われません、歩いたり泳いだり自然にしていて途轍もなく倫理的な誠実な生です。お分かりですか? それが本当のヨーガであり、あなたが戯れるそれらではないのです。
 そしてあなたが瞑想の中のシステムの性質を理解するときあなたはあらゆるシステムを理解します。違いますか? それがチベットのものであろうと、禅であろうと、或いはあなたの地域特有のグル、移入されたグルではなくあなたのところの土着のグルであろうと、もしあなたがそのようなシステムの一つを理解するならあなたは瞑想に関する全てのシステムを理解しました。つまり、それらは本質的にコントロールや精神集中、訓練などに基づいています。違いますか? これやあれを毎日行いなさい、となります。それは―禅を含めて―精神を更に更に鈍くすることです、それは繰り返し、繰り返し、繰り返すことです。お分かりですか? 私はあなたがこれらを理解するのを願います。
 そしてそれらのグルもやって来てあなたに彼らがマントラと呼ぶものを与えます。あなたはこれらを聞いてきました。あなたがこれらのことに悩んでいるのを申し訳なく思います。“マントラ”という言葉は、その語源ですが、“マン”と“トラ”という二つの異なった言葉から成っています。最初の“マン”は瞑想すること―注意深く耳を傾けること―を意味します、瞑想すること或いは熟考することで何かにならないことです。お分かりですか? 何かにならないことです、そして“トラ”が意味するのは―私はこれらのことに飽き飽きしています! “トラ”が意味するのは全ての自己中心的な活動を脇へ除けることです。お分かりですか? マントラが意味するのは瞑想すること、或いは熟考すること、何ものにもならないことに関心を持つことです。お分かりですか? それを理解したでしょうか? 何ものにもならないで下さい。あなたは物質的世界では何かになるかもしれませんが内面的には何ものにもならないで下さい。そしてもしあなたが自己中心的な活動を抱くなら、それを脇へ除けて下さい。それがそれの本当の意味です。そして彼らがそれをどのようなものに変えてきたのかを見て下さい!
 そのようにシステムは、それがチベットのものであろうと、ビルマのものであろうと、禅やヒンズー教やキリスト教のものであろうと、それが繰り返されるとき、それはあなたが何かを成就することを願って繰り返すことを意味し、そのシステムはあなたのグルによって或いはあなたのスーパーグルなどによって発明されたものを意味します、そしてあなたはただ従うのです。違いますか? つまり何らかの権威に従うのです。従ってあなたの精神は幼稚で、狭く、機械的になり、その背後には何の実質もなくなります。そのようにあなたが一つのシステムを理解すると…それで終了します。お分かりですか? あなたは禅を理解するために日本へ行く必要がありません、或いはインドや他の全てのところへ行く必要がありません。禅という言葉はサンスクリット語の“ディヤナム”からきています。それは最初に仏教時代以後或いは仏教時代に中国へ伝えられました、一人の僧がそれを伝えました。そして中国人や日本人は“ディヤ”を正しく発音できないので、彼らはそれを禅と変えました。そしてそれが殆ど神聖なものになっています!
 そのように瞑想は消滅することです、あなたの貪欲の消滅であり、あなたの執着の消滅です。違いますか? 何故ならそのようなときにのみ精神は自由だからです、そのようなときにのみ精神には問題がないからです。そのような精神のみが超えていくことができます。つまり、その意識を抱えた精神―意識はその全内容から出来上がっています、お分かりですか、その内容が意識になります、あなたの貪欲であり、あなたの嫉妬心であり、あなたの不安であり、あなたの孤独であり、あなたの信念であり、あなたの執着であり、あなたの安全性の追求です、お分かりですか、それら全てが、あなたの暴力が、あなたの意識の内容です。そして乗り越えていくため、見出すため―或いはむしろそれら全てを超えた何かがあるのかどうかを見るためには、観察するためには、精神がそれら全ての内容から完全に自由でなければなりません。これは理にかなっていて、これは非論理的ではありません。お分かりですか? そうすると精神は空虚です。空虚はネルギーに満ちています。そのように彼らは言います、科学者たちです。違いますか? 精神が空虚なときには何もありません、何もないとは思考によって作られたものが一つもないことを意味します。そのような精神は空虚なのでその精神はエネルギーで満ちています。違いますか? あなたはそれについて知りません、それを検討しないで下さい、もしあなたがその他の全てのことを行ってきていないのなら、それはただの言葉の羅列です。
 そうするとエネルギーを超えた何かがあるのでしょうか、エネルギーの根源は何ですか? お分かりですか? 神ではありません、それらは完全に脇へ置かれました。このエネルギーを超えた何かがあるのでしょうか、このエネルギーの根源です。あります、もし精神が余すことなく空虚で、慈悲心や愛を知るなら、そのような精神はそれに出会うでしょう。
 今何時ですか?
質問者 一時五分前です。
クリシュナムルティ おーっ、御免なさい。一時五分前ですか。このように長くかかってしまって御免なさい。
                   1980年 5月18日  オーハイ トーク 6
                                   中野 多一郎 訳