クリシュナムルティをめぐりて

質疑応答 1

 多くの質問が寄せられています。そして我々はそれらの幾つかを選びました。我々はそれらの質問を検討しますが、それらの答えを出すのではありません。これは対話です、あなたは問います、そして話し手がその問いに応答します。そうするとあなたは話し手のそのような問いかけに応答します。あなたは問います、そうすると話し手があなたの問いかけに応答します、そうしてあなたは話し手の応答に応答します、そのように問いかけだけが残るまでこのことが続きます、対話している人が残るのではありません。あなたはこのことが分かりましたか? 恐らくあなたはこのような対話の問題を検討したことがありません。私はこのことを理解することが重要であると思います、何故なら我々は一緒にそれらの問題を検討しようとしているからです。そして検討するプロセスの中であなたは問います、そうすると話し手がその問いかけに応答します、そしてあなたはその応答に応答します、そうして私は再びそれを取り上げてそれに応答し―我々はこのように続けます―問いかけだけが残ります。お分かりですか? そうすると問いかけが途轍もない活力を持ちます、それはいかなる個人的な偏見にも色づけされていません。あなたはこのことが分かりましたか? 我々はそれを行おうとしています、我々は自分自身でそのことが分かるでしょう。
 なぜ我々は問うのでしょうか、そしてあなたは誰からその答えを期待するのでしょうか? 問うことは良いことです、問えば問うほど、検討すれば検討するほど良いことです。しかし我々は他の誰かがその問いに答えるのを期待します。問うことは実際に何らかの問題です。問題は、その言葉の語源的な意味は、あなたに投げかけられた何かということです。“問題”の語源的な意味は、あなたに投げつけられた、あなたに投げかけられた何かということであり、それは何らかの挑戦です。そして我々は他の人たちが我々の問題を解決するのを期待します―宗教的、経済的、社会的問題など人間が抱えるあらゆる種類の問題です。従ってそれは偏ったものになります。あなたが問うて私が答えます、もし私が全く愚かなら。しかしもし我々が一緒にその問いを検討するなら、その問いの意義を検討して、その問いの意義から逸脱しないのなら、その答えはその問いの中にあります。違いますか? このことが分かりますか?
 我々の殆どは問いを発して誰かがそれに答えるのを待ちます。そのように我々が興味を持つのは答えであってその問いそのものではありません。それにもかかわらず重要なことは問いの中にあって答えの中にはありません。あなたはこのことを間もなく発見するでしょう。何故ならこれは話し手に与えられた問いであり、話し手はその問いに応答し、そうするとあなたがそのような応答を再び取り上げてその応答に応答するからです、我々はこうしたことを問いだけが残るまで続けます、その他の何ものでもありません。そして問いが途方もなく重要になると、それはそれ自身の活力を帯びて、それ自身の答えを出します。我々はそのことがすぐに分かるでしょう。

 ここに一つの問いがあります。その問いの意義とは何でしょうか? 質問者は言います、全ての人が同じ意識を持っていると私は理解しますと。理解するとはどういう意味ですか? 私は不真面目なのでも、細かいことにこだわっているのでもなく、私は理解するとはどういう意味であるのかを知りたいと思います。私は原子爆弾が一撃で一千万人を殺戮するのを理解します。私はそれを理解します。私はその実験を見ました、一千万の人々が吹き飛ばされるのではなくキノコ雲やそのほかの全てを見ました。理解することは単に知的で言葉によるものですか、それとも理解することには途轍もない意義や深さがあって、それは単なる言葉による理解ではないのですか? 宜しいですか? 私はそのような問いかけをしました。そうするとあなたはその問いに答えます、あなたは言います、いいえ、私が理解するという言葉を使うとき、私は論理的であることを意味していません、或いは単に言語的であることを意味していません、私は人々が同じ意識を持っているというそれを、その意味を、その意義を理解しますと。違いますか?
 それでは、気づくことは、意識することは、どのような取捨選択もしないでただ観察することは可能ですか? 宜しいですか? そしてそのことに対する答えは「私はやってみます」です。そしてその答えに対して話し手は言います「やってみないで下さい」と。あなたがやろうとすると途端にあなたは努力をし始めます。そしてあなたが努力をすると、あなたはどのようなものも理解しません。一方、もしあなたが努力をしないでただ見るだけなら、現実に気づくだけなら。宜しいですか? そうするとあなたは言うかもしれません、御免なさい、私はそれが理解できませんと。そこで私は言います、それをもっと検討してみましょうと。
 これは面白いことだと私は思います! 私はそれらの質問を前もって読んでいません。私は、私が話しているとき、それらを初めて見るのが好きです。
 そこで私は言います、それではこれを非常に間近に検討しましょう、どのような先入観も持たずに、どのような立場も取らずに、つまり私がこれを信じているとあなたは議論できません、あなたは探究できません。そのようにこれを検討しましょう。あなたは言います、検討する、探究するとはどういう意味ですかと。誰が検討しているのですか? あなた自身が気をつけています、私は“興味”という言葉を使いません。そこで我々は興味と気をつけていることの問題を検討しなければなりません。あなたがこのゲームに加わっていることを私は期待します。
 殆どの教育者が興味に関心があります、子供たちや学生たちの興味を呼び起こすことです、数学に興味を持つことです、もしあなたが数学に興味がないのなら歴史に興味を持つことです。教師は学生の中に興味を呼び起こすことに関心があります。違いますか? それは事実ではありませんか? 私はバイオリンを弾きたいと思います。バイオリンを弾いてはいけません、それにはその価値がありません、何故ならあなたは生計を十分に得られないからです、その他の何かに興味を持ちなさいと、そのようなことです。ところで興味が起こるといつも矛盾するプロセスがあなた自身の中に進行します。宜しいですか? おーっ、分かりませんか。宜しいでしょう、また説明します。
 私は山へ登ることに興味があります。そして私の先生が言います、それに興味を持たないように、他のもっとずっと真剣な何かに興味を持ちなさいと。すぐに矛盾が起こります。私はその山に登りたいと思っていて、それに興味があります、そして教師が言います、山に登ってはいけません、私の言っていることに興味を持ちなさいと。そこで私の中にすでに矛盾が起こっています、他の何かをしたいと思っても、私は他のことを行うように強いられてきました。違いますか? ですから興味という言葉を決して使わないで下さい。そうするとどの言葉を使うのか、あなたは私に尋ねます。私は言います、気をつけている性質とは何なのかを明らかにしなさいと。宜しいですか? あなた方はこれら全てにとても困惑しますか? 気をつけていることとはどのような性質ですか? その学生は何かを非常に間近に見ることに非常に興味があります。そして私は彼に歴史について興味を持ってほしいのです、しかし彼は窓からカエルを見ています、或いはトカゲを、或いは鳥を見ています。彼は私の要求する歴史に耳を傾けるよりも、それらにずっと気をつけています。そこで私はもっと注意深く見るように彼を促します、彼を助けます。お分かりですか? もっとずっと注意深く見て彼の見ていることに余すことなく気をつけているように促します、助けます。彼がそのようにすると、私はそれを見て取り彼があらゆるものにゆっくりと気をつけるように要求します。気をつけることを学ぶのです、興味を持つことではありません。分かりましたか?
 それでは我々みなが同じ意識を共有していることを検討或いは探究しましょう。我々がどこに住んでいようと、極東であろうと中東であろうと或いはここであろうと、人間はひどい時代を経験しています。深刻な貧困がアフリカやインドやアジアの一部にあります。大変な苦しみが生じています。世界中の人々が不安を感じています。世界中の人々が恐れています。彼らはみな安全を望んでいます、心理的にだけではなく物理的にも。違いますか? これは事実です。そのようにその事実は我々みなに共通のものです。違いますか? あなたは苦しみます、インドのインド人も苦しみます、ロシア人も苦しみます。そのように人間は、全世界の人間を見ると、この途方もない現象を経験しています。違いますか? あらゆる人間がそれぞれの特徴を持ち、それぞれにそれぞれのやり方があり、それぞれの独特の習慣やそれぞれの恐れや神や信念があります、このことが正に世界中の共通の要素です。このようになっています。話し手はそのように言っています。そしてあなたは言います、いいえ、そのようになっていませんと。私は隣の人と違います。そうすると話し手は言います、本当にそうですかと。あなたはより大きな車を持っているかもしれません、より広い庭を、よく手入れされた庭を持っていてあなたはそこで庭仕事をします、あなたはより大きな家或いはより小さな家を持っているかもしれません。違いますか? しかし生物的にも物理的にも表面的な違いは自然であり、実際にあり、それは事実です、あなたは背が高く、他の人は背が低いし、ある人は非常に非常に賢くて、他の人はそうではないというようなことです。しかしそれを超えて或いはその背後を見て下さい、それは心理的な世界です。心理的な世界では我々みなが同じ悲しみを共有しています、悲しみは我々全てに共通です。あなたはある仕方で快楽を手にするかもしれませんが、それは依然として快楽です。それは依然として恐れです。あなたは闇を恐れるかもしれません、他の人は他のことを恐れるかもしれません。恐れは我々全てにとって共通です。違いますか?
   そのように我々はみな同じ意識を共有しています。そしてあなたはそのことについて言います、それは非常に論理的に聞こえますが、それは本当ですか、それは事実ですか、それともあなたは何かを事実にしているのですか、何故ならあなたは非個人的な存在を、非現実的なそれを生み出そうとしているからですと。そこで私は言います、私の言うことに耳を傾けて下さいと、あなたは全くの一個人ですかと。実際にあなたはそうですか? なるほどあなたの容貌は他の人と異なり、あなたの生い立ちは他の人と異なります、あなたはカトリック教徒であり、私はプロテスタントです、あなたは仏教徒であり、私はヒンズー教徒などです。外面的にあなたは異なります、それは明らかです。それは事実です。しかし内面的にあなたは異なりますか? どうでしょうか。あなたは言います、はい、私は全く異なりますと。あなたに異なると言わせるものは何ですか? あなたは異なるとあなたが考えるからですか? それともあなたが異なるのは事実ですか? お分かりですか? 考えることと事実は別です。事実について考えることは事実とは全く異なる何かです。事実はあなたが異なるのかということです。あなたは異なるとあなたが考えることではありません。心理的に内面的に異なりますか? 我々は騙します、我々は嘘をつきます、我々は成功を願います、我々はお金を欲しがります。このことは全ての人間に共通することです。違いますか? そのように我々は個の意識はないと言っています、それはあなたの意識ではありません。そしてあなたは言います、私はそれを信じません、それはあなたの発明ですと。私は言います、宜しいですか、あなたが自分自身を一個人と呼ぶとき、その“個”という言葉の意味は何ですかと、その意味です。その言葉は語源的に分割できないという意味です。違いますか? あなたは分割できませんか、それともあなたは断片化されていますか? お分かりですか? もしあなたが断片化されているのなら、現実のあなたのように、あなたは今言ったような“個人”ではありません。その言葉を使わないで下さい。あなたは断片化された人間です、他の全ての人間のように。“個”はユニークであることを意味します。あなたはそうではありません。我々はユニークでありたいと思います、我々は自分がユニークであると考えます、何故なら自分は賢いし、自分はこれだと思うからです、お分かりですか、それは虚栄心の一つの形です。
 そのようにあなたがそれを非常に間近に、先入観を持たずに、このことに関してどのような利己的な感じも持たずに検討するとき、あなたは我々が人類であるのを発見します。我々は同じ意識を共有しません、我々は人類です。あなたはこのことを理解するのでしょうか。あなたがそのような発言を聞くと、あなたはそれを観念として受け入れるか、それともあなたはそのような発言を聞き、それを抽象化して言います、それは素敵な理想だと。違いますか? そして私は言います、あなたがその事実を観念に変えるとき、あなたは事実を避けていますと。違いますか? ですからどうか事実を見て下さい、世界中のあらゆる人間があらゆる種類の問題を経験しているという事実を見て下さい、悲惨や不幸を経験しているという事実を見て下さい、そしてもし彼が賢い人間でお金を稼ぎたいと思うなら、彼はあらゆる種類の歪んだことを行います、お分かりですね、あらゆることです。そして我々はみな同じことを異なった仕方で行いますが、その動機や衝動は同じです。そしてあなたはそれら全てに答えて言います、はい、私はそれら全てが論理的に分かりますが、私は我々が人類であるというあなたの発言の深みを感じることができません、その感じがつかめませんと。そうすると話し手は言います、何故ですか、なぜ我々はこの人間性の中の途轍もない全体感を感じないのですかと。お分かりですか? 我々は地球を共有していて、地球は我々の母であり、我々は全て…から生まれているなどということではありません。私はそれが最新の流行であることを知っています、この国のもう一つの一時的な流行です。あなたはこのことが分かりますか、我々は一時的な流行から一時的な流行へとなびきます、我々が陥る陥穽です。
 そうするともし人がその事実を見ることができて、それを観念にせず、或いはそれを理想として抽象化せず、我々が本当に心理的に全人類であるという事実と共にいられるのなら、そのような感じが、あなたがその事実と共にいられるとき、それがあなたに途轍もないエネルギーを感じさせます、そしてそこには分離というものがありません。

 次の質問に行きます。

 あなたはあなたがいなくなった後であなたの教えを引き継ぐ特別な教師或いは人物を指名しましたか―その人はどこにいますか?! その立場にいると公然と主張する人がいます。
 なぜ彼はその立場を公然と主張しているのでしょうか。このことが起こっているのを私は知っています。私はこの種の馬鹿馬鹿しいことを行っている様々な人たちを知っていますが、彼らは何を公然と主張しているのでしょうか? なぜ彼らは誰かに従いたいのでしょうか、なぜ彼らは誰かの後を追いたいのでしょうか? 仮に―仮にではありません―Kは死にます。話し手は死にます。それは確かなことです、我々みなが死ぬように。それは一つの絶対的に変更できない事実です、あなたがそれを好もうと好むまいと。幸か不幸か彼は沢山のことを言ってきました、幾つかの本を書いてきました、そして幾分―悪名という言葉を使わせて下さい―悪名高くなりました、犯罪者としてではなく、ある種の変人として、或いは宗教的な教師として、つまり別の意味の変人として、或いは何らかの種類の生物的な例外として。そしてそのために、世界で評判であるという世論のために―それはとても醜悪で、それには意味がありません、評判には意味がありません―ある人は自分がKの仕事を引き継ごうとしていると願ったり、感じたり、思い込んだりします。何故ですか? 恐らくそれは非常に有益です、経済的にも、そしてあなたは言えます、私は沢山の愚かな人たちを集めることができますと。このことが世界中で起こっています。教会では使徒的な継承が行われています、宜しいですね、引き継ぎです。インドでもそれが異なった仕方で行われています。
 そのように我々はみな権威が好きです。私は知っているという人に我々はみな付いて行きたがります。そして我々はとても騙されやすいのです。我々は決して言いません、宜しいですか、私はただ生きたいのです、私はあなたの言うことを明らかにしたいのです、あなたが何ものなのかを明らかにしたいのですと、それはあなたが代弁しているものでもなければ、あなたのシンボルなどその他の全てでもありませんと。あなたは何なのかということです。そしてあなたはあなたが何なのかを疑い始めます、問い始めます。そしてあなたは直ぐにそれが何ものでも全くないことを発見します。
 そのようにKは言っています、話し手は言っています、彼は誰も、いかなる教師も指名していません、或いは彼が英国へ行ったあと、彼は来週そこへ行きますが、彼は彼を代弁するいかなる人も指名していませんと! それらは全てかなり馬鹿げています、違いますか?

 我々はこの質問に答えます。我々はこれを止めて行ったり来たりします。質問の一つは、思考はそれ自身に気づくことができますか、ということです。人は家に帰って何をするか考えています。あなたは帰って何をするか考えています。そしてあなたはそのような思考の質とは何かを明らかにしたいと思います、そのような思考はそれ自身に気づけますか? 私の質問がお分かりですか? 私は次の食事のことを考えています。それでは思考はそれが次の食事のことを考えていることに気づけますか? それとも私は次の食事のことについて考えていると言う観察者がいるのですか? お分かりですか? 宜しいですか? 観察するものは観察されているものと異なりますか? お分かりですか? 彼は異なりますか? それとも両方が思考ですか? 違いますか? 観察者は思考です、そして彼が思考として観察しているものも依然として思考です。そのように観察者は思考です。観察者は全て過去の収集蓄積された記憶です。違いますか? そして観察者が言います、私は私の考えていることを見守っていますと。私は私が考えることを見守っています。私は私が考えることのルーツを明らかにしたいと思います。違いますか? 観察者がこのように言います。しかし観察者も思考です。そのように二つの思考があり、一つの思考がもう一方の思考を見守っています。そのようにその二つの共通要素は思考です。違いますか?
 そして思考のルーツとは何ですか? それが質問です。そのルーツは何ですか? 我々の考えること全てのルーツは何ですか、何故なら我々みなが考えるからです。最も偉大な学者や偉大な科学者、そして最も無知な原始的な人も考えます。そうすると考えることのルーツとは何ですか? 考えることのルーツを見つけられますか、そしてまた全く考えないことができますか? 我々はそれら全てを検討します。
 もし私があなたに問うなら、考えるとはどういうことかを問うなら、あなたの答えはどういうものですか? 恐らくあなたは言うでしょう、私はそれについて全く考えていませんでした、私はその問いを検討したことがありませんでしたと。そして私は言います、何故ですかと、何故なら我々の全生活は思考に基づいているからです―ビジネスであろうと何であれ、あなたが行うあらゆるものが思考に基づいているからです。何故あなたは思考とは何かを明らかにすることに興味がないのですか? どういうことですか? あなたはとても沢山のことを探究します、あなたは海底へ行きます、あなたは上空を飛びます、あなたはあらゆる種類のことを行います、探究します、しかしあなたは思考とは何かを明らかにするためにあなたのエネルギーを決して注いできませんでした、或いはあなたにはそのための強い衝動が決して起こりませんでした。そしてあなたは言います、御免なさい、私は全くそうしてきませんでしたと。そこで我々は言います、宜しいですか、思考とは何かを最初に注意深く観察して下さいと、それが行うことを、それが技術的な世界で行ってきたことを、そしてまたそれが心理的に行っていることを、それが他の人たちとの関係で行っていることを観察して下さいと。このような全ての活動です、技術的な世界や心理的内面的に起こっていること、思考を通じてあなたの関係性の中で起こっていることなどです。思考の活動です、極端な技術的な世界から個人的心理的な世界やあなたの心理的な世界と隣人との関係です。それらはみな同じ活動です、思考の活動です。
 それではそれがあなたと他の人との間の関係の中で何を行うのでしょうか? 宜しいですか? それは何を行うのでしょうか? あなたは言います、分かりません、何故なら私はそれについて全く考えてきませんでした、たとえもし私がそれについて考えるとしても、私はそれをどのように検討したらよいのか分かりませんと。そしてあなたはそのようにそれをやり過ごして、誰かがやってきてその全てを説明してくれるのを期待します。それの意味するのは、あなたが本当は―指摘するのを許して下さい―関心を抱いていないということです。もしあなたが関心を抱いているのなら、あなたはそれに取り掛かります。あなたは生計を得ることに関心があり、あなたは喜んでそれにさっさと取り掛かります。そしてそこであなたは言います、御免なさい、私はこのことに慣れています、或いは私の両親など何世代にもわたって人々は考えることに慣れています、人々はこの問いを全く検討してきませんでしたと。そうしてあなたはそれを脇へ置いて今まで通り続けます。
 しかし一方もしあなたが明らかにするために取り掛かって、見て、気づいて、献身的に取り組み始めるなら、あなたは明らかにするに違いありません、そこであなたは言います、それは私があることを非常に素早く即座に答えられ、そして他のことには時間を費やすということですかと。違いますか? そのように即座に答えることや答える前に時間を要することがあり、そして究極的に言います、私は本当に知りません、私は知りませんと。違いますか? それらが我々の考える状態です、つまり即座に答えることがあり、そして一方では問いに答えるために時間を要することがあり、考え、見つめ、見守り、尋ね、それについて本を読み、そして言います、これが答ですと。そして他の人は言います、私は本当に知りませんと。そのようにそれらが我々の経験する状態です。それではあなたが即座に答えるとき、あなたはそれをよく知っています、それは日常的なことです。あなたは帰り道を知っています、あなたはヒーターの点け方を知っています、あなたは食器を洗う仕方を知っているなどです。しかしもし人があなたにもっとずっと複雑な何かを問うなら、あなたは時間を要します。そしてもし永遠というものがあるのかというような質問をされると、あなたは言います、私は知りませんと。あなたが「私は知らない」と言うとき、あなたは誰かがあなたに答えるのを待っているか、あなたはどのような人の何ものも受け入れないかのどちらかです、しかしあなたは言います、私は知りませんと。違いますか?
 それでは考えることのルーツとは何かを検討しましょう。宜しいですか、あなたはこのことに取り組まなければなりません、そうしないとこのことは面白くも何ともありません、ただ聞いて、はい、そうです、と言って立ち去るのでは面白くも何ともありません。しかしそれに取り組み、それを検討し、それを明らかにすると、それは途方もなく興味深いことになります。思考は確かに記憶です、或いはむしろ記憶の応答です。違いますか? もし記憶がなければ、あなたは考えられません。それは明らかなことです。もしあなたが記憶喪失症に陥ったら、あなたは考えられません。そうすると記憶とは何ですか? 宜しいですか、あなたは取り組んでいます、ただ聞いているのではありません、あなたは明らかにするために取り組んでいます。記憶とは何ですか? 人が車を運転しています、車を走らせています、そしてあなたがわき見をすると、あなたは事故を起こします―あなたでないことを願います、私です。私は事故を起こします。そしてそのような事故は苦痛などその他の原因になります。そのようにその事故は頭脳に記録されています、その事故の記憶として。違いますか? そのようにその事故はある種の知識をもたらしました。違いますか? そしてその事故は何らかの経験になっています。違いますか? そのようにその事故は何らかの経験であり、それが何らかの知識をもたらしています、そしてその知識が頭脳の中に記憶として蓄えられています。違いますか? そしてその記憶への応答が思考です。違いますか? それは単純です。宜しいですか? そのように私の経験は限られています、私の知識は限られています、私の記憶は限られています、従って私の思考は限られています。違いますか? それらは事実です。そのように思考が行うものは何でも限られています。それが行うものは何でも、永遠があるとそれが想像しようと、それは限られています、神であろうと、思考によって発明された神であろうと、そのような神は依然として限られているでしょう。私はそれに様々な属性を与えることができます、例えばそれは全能の神であると言ったり、それは全き力であると言ったり、それは全き慈悲であると言ったりできますが、それは依然として限られています、何故なら思考がそれをそのように祭り上げたからです。
 そのように思考は限られています。違いますか? 我々はこの事実が分かりますか? 私の説明ではなく、思考はいつも限られているという事実です、何故ならそれは知識に基づいているからです。知識は広がります、もっともっともっともっと広がります。“もっと”ということがあるところには依然として“もっと”ということがあります。お分かりですか? “もっと”というのは計ることです。違いますか? そのように“もっと”は計ることであり、そのような計ることには限りがあります。私が私はより良くなっていると言うとき、そのことにはいつでも限りがあります。違いますか?
 そのように思考には限りがあります。そして思考に基づいた我々の活動には全て限りがあるはずです。宜しいですか? それは事実です。それでは限りがあるものが何を行うのですか? 私が自分自身について、非常に限られた自分自身について考えているとき、私が自分自身について一日中考えているとき、そのような限られた考えが他の誰かにとってトラブルになります―私の妻にとって、私の夫にとって、私の子供たちにとって―何故なら私は非常に小さな自分自身について考えているからです。そのように限られたどのような活動も争いをもたらすはずです。違いますか? 私の国は小さい、この国は途轍もないかもしれません、何千マイルという広さですが、私の自国の概念は非常に小さい。私はそうではなく想像できますが、それも依然として、それは非常に大きい、それは素晴らしいと言っているそのような想像でしかありません―それも依然として限られています。従ってそのように限られたものは別の限られたものとの争いを生み出します、イギリス的に限られたものとの争いを生み出します、或いは…それはあなた方の今の共通の敵です、違いますか? そのようにそれは続きます。
 そうすると我々は限りがあるものは分断を作り出して争いをもたらすに違いないというこの事実が分かりますか? そして我々は争いを不可避なものとして、我々の存在の一部として受け入れてきました。そして我々は決して問うてきませんでした、争いとは無縁に生きられるのかと。そしてそれはもしあなたが思考のあらゆる意義を理解するなら可能なだけです。そしてそれは思考の居場所と思考の居場所が全くないところを明らかにすることです。お分かりですか? 思考には居場所があります―あなたがここから自分の家へ帰るとき、車を運転するとき、手紙を書くとき、ビジネスをするとき、コンピューターを扱うときなどその他の全てです、思考を必要とする場所があります。そしてそれは心理的な世界でも必要ですか、それは私の他の人との関係のことです。検討して下さい、それと取り組んで下さい。あなたの他の人との関係の中に、それが親しい関係であろうとそうではなかろうと、思考が限られていて、分断的で、従って争いの要因であると分かっていて、思考の居場所がありますか? もしあなたがそのことを一つの現実として見て取るなら、単なる理論や概念ではなく見て取るなら、その正に気づきによって、それを見て取ることによって、関係が全く異なる何かを意味することになります。違いますか? 
 そうすると人はさらに問います―恐らくここはその機会ではないのですが―愛は思考の属性ですかと。愛の思考との関係はどのようなものですか? それは何らかの関係を持ちますか、それとも関係は全くありえませんか? 我々は我々がこれら全てについて話すときそのことを検討します。
 しかし質問は、思考のルーツとは何かであり、思考は変化をもたらすことができるのかどうかです。どうか理解して下さい、これが質問です。これを、継続するものを終わらせる要因とは、変化の要因とは何ですか、そして何が実際に変化をもたらすのですか? 思考は変化をもたらすことができますか? お分かりですか? 限られたものがそうできると考えます。従ってそれが変えようと試みても、それは依然として限られています。あなたはこれら全てが分かるのでしょうか。これは賢い論理的な結論ではなく現実です。人間の振る舞いや人間の努力や人間の存在の中に変化が起こらなければなりません。それは明らかなことです。しかし思考がその変化を組織すると、そのような変化は依然として限られています、従ってそれは変化でも何でもありません。思考が、私は何らかの組織を、新しい世界を、人が発明する新規の入れ物を作り出すと言うとき、それは思考によって作り出されます。従ってそのような組織、そのような団体、そのような機構は限られたものであり、それは争いを作り出します。違いますか?
 そうすると変化をもたらすものは何ですか? あなたはこれらのことが分かりますか? 少なくとも多少は分かりますか? 思考では明らかにありません。それは変化を組織することはできます。組織は思考によって作り上げられます。それは変化のプランを練ることはできますが、そのようなプランには限界があります。そうすると人が悟ると、その事実を見て取ると、思考は変化をもたらすことが恐らくできないという真理を見て取ると、何故なら思考自身が限られているからであり、従ってそれが何を行おうと、それは限られているからです。宜しいですか? そうすると何が変化をもたらすのでしょうか?
   その事はあなたの前に非常にはっきりと置かれています。言語的に、そのように描写することは正確であり、誇張ではありません、そのような問いに答えるのはあなた次第です、思考は恐らく変化を、変質を、余すことのない心理的な革命をもたらすことができません、そうすると何がそれをもたらすのでしょうか? そうすると思考は言います「はい、神です、私は祈ります」と。これが起こっていることです。「私は祈ります」。祈る者もまた思考による発明です、従ってそれもまた非常に限られています。そうするともし人がその事実を見て取ると、その真理を見て取ると、思考は絶対的に限られているということを見て取ると、頭脳の中に何が起こりますか? 答えて下さい、検討して下さい。人がその事実を実際に悟るとき、それは途方もない事実ですが、その事実を見て取ることは途轍もない革命です。あなたがその事実を見て取るとき、すでに革命が起こっています。何故なら我々は思考が何でもできるということを決して受け入れないからです、それはできます―それは月へ行きました、そしてその上に馬鹿馬鹿しい旗を立てました。それは何でもできますが、それはいつも限られています。もしあなたがそのような革命的な事実を見て取るなら、頭脳の中の細胞自体に変質が既に起こっています。あなたはこのことを理解するのでしょうか。
 人が仮に全生涯を通じて北へ歩いてきたとしましょう、いつも北へ向かっているとしましょう。そしてあなたがやって来て言います、失礼ですが、その方向には何もありません、東か西か南へ行くようにして下さいと。そして私は言います、はい、南へ行きますと。その正に瞬間、北へ向かっていたのが突然今あなたは南へ向きを変えました。何らかの変質が起こっています、何らかの変化が起こっています。あなたは習慣的に来る日も来る日も北へ向かっていました、そのように頭脳は北へ行くように条件づけられています。そこであなたがやって来て言います、そちらには何もありませんと、あなたはそれを説明します、論理的に、正気で、そうするとあなたは言います、なるほど私は南へ行きますと。北から遠ざかる正にその活動が正に脳細胞そのものの中に何らかの変質をもたらしました。違いますか? あなたはそれを受け入れません、それを検討して下さい、あなたはそのことを自分自身で見て取るでしょう。何らかの真理を悟ることが、正にそのように悟ることが根本的な変化をもたらします。「変わるために瞑想します、変わるために努力します」ということではありません。
 そのことに説明が要りますか? 宜しいでしょう。私は思考が限られているという真理を聞きました。それは真理です、それは何らかの発明ではありません、それは風変わりな観念でも、どこかの先生か何かが思いついたことでもありません、それは事実です。そして私はその事実に、その真理に耳を傾けます。そして私は私の日常生活を続けます。何が起こりますか? 私は真実である何かを悟りました、そして私はそのことと全く反対のことを行っています。何が起こりますか? 葛藤がもっともっともっと増大します。その真理を聞かない方がずっと良いのです、そうするとあなたは今まで通り続けることができます。しかしあなたが途方もなく美しい何かを聞き、その美が単なる描写ではなくそのような美の現実であるとき、あなたが何か醜いことを行い、その醜悪なことを繰り返していると、明らかにそれは毒になります。それはあなたに身体的に内面的に影響するだけではなく、それは真実である何かを聞いてその反対のことを行う頭脳にもひどく影響します。従ってもしあなたが今まで通り続けたいのなら、聞かない方がずっと良いのです。
 二人の盗人の非常に良い話があります。彼らは盗みを働いていました、そして彼らの父親は彼らのために神のご加護を祈っていました―お分かりですか、盗人たちも神に祈ります、裕福な人たちだけではありません。そうしてあるとき彼らは誰かから盗みを働いて家路についています。街角で男が説教をしています、そして彼は言っています、あなたは決して盗みを働いてはいけません、あなたは他の人を決して傷つけてはなりません、人に親切にしなさいと。盗人の一人は耳を塞いで聞きたくありません、そしてもう一方の盗人はそれを聞きます。そして彼は残りの生涯を苦しみの中にいます。
 これは事実だと私は思います、それは本当に紛れもない事実だと私は思います、そして我々はそれを理解しないように思われます、途轍もなく美しい何かをあなたは見ます、あなたは感受性豊かなのでそのような美を見ます、そしてあなたは醜悪な何かを行い、それが本当にあなたを苦しめます、もしあなたが感受性豊かなら。それが真理のとても危険なものである理由です。

 誰がこれを言ったのですか? 沈黙を観察することが真理に気づくためには必要であると誰が言ったのですか? 話し手はそう言いましたか? それとも他の誰かがそう言いましたか? それともあなたは真理を捜し求めて、あなたは沈黙が必要であると発見したのですか? 真理は捜し求められますか? 私の質問がお分かりですか? 真理は捜し求められるのですか? もしあなたが真理を追い求めるなら、あなたはすでに真理とは何かを確立しています。違いますか? あなたはすでにその方向に進んでいます。それが意味するのは、真理が固定した何かであるということです、そしてあなたは、真理を追い求める中でそれを見つけます、何故ならあなたは真理が既にあらかじめ思い描かれていると信じて、それを追い求めるからです。
 それでは何故あなたは沈黙が必要であると考えるのですか? 私は知りません。誰かがそう言います。ですから私は他の人の言うことに耳を傾けません、どれほど有名であっても、或いはどれほど評判であるなどそれら全てのナンセンスであっても。私はあきらかにするつもりです。お喋りしている精神や頭脳は、お喋りしていると、何かに耳を澄ますことができますか? あなたはお喋りしています、あなたの友人と話しています、そしてあなたはやって来て言います、私はあなたに話したいことがあると。あなたはお喋りをしているので耳を澄ましていません。そのようにお喋りしている精神は耳を澄ますことができますか? 明らかにできません。そうすると耳を澄ますためにはあなたは気をつけていなければなりません。違いますか? それは自然なことです。我々はどのようなものにも決して完全に気をつけていないので気をつけていることはかなり難しいことです、我々は部分的に聞き、部分的に話して部分的にそれを行います。我々は何事もその正に最後まで明らかにするために進むことを決してしません。私はその行くつく先が何なのか知りませんが、我々は我々が何かを発見するまで続けます。そのようにお喋りしている精神は、朝から晩まで、そして夜中でさえ何かで占められている精神は、それは穏やかでありえますか? 真理を見つけるためではありません、おーっ、何てことでしょう! それが通常の問いかけです。どうか自分自身でそれに答えて下さい、何かで塞がれている頭脳が、ビジネスやセックス、快楽、恐れ、それ自身の孤独、お分かりですか、何かしらで占められている精神が、その髪型や身なりの良し悪しで塞がれている頭脳が穏やかでありえますか? あなたはそれらの類のその他の全てを知っています、それは占められています―神で、イエスで、救世主で、瞑想で―それは何と瞑想で塞がれています!
 そうすると自然な問いかけは、この何かに途轍もなく果てしなく塞がれ続けていることに終止符を打つことができるのかということです。それはあなたが何かに気をつけているとき自然に止みます。もしあなたが話し手の今言っていることに気をつけているのなら、気をつけているというのは耳を傾けているということですが、あなたは何かに塞がれることなく耳を澄ましています。それはあなたが耳を傾けているときに「私はそのことに全く同意しません、あなたは正しいと私は思います、あなたは違う言い方をすべきだと私は思います、私はこのことを違うふうに理解します、なぜ私はそれを違うように理解するのでしょうか」などと言って聞くことではありません。しかしもしあなたが実際に耳を傾けているのなら、あなたは気をつけています、そして気をつけていることは沈黙していることです。違いますか? なぜ我々はあらゆるものをそのように複雑にするのでしょうか。生は複雑です、途轍もなく、コンピューターのように、それは途轍もなく複雑なものです。しかしそれを理解するためには、人は非常に単純な精神を持たなければなりません。単純で明瞭な精神を持つと、取り散らかっていない精神を持つと、気をつけていることが途方もなく単純になります。
 今日はこれで十分です。終わりです。
                                 1984年5月22日 オーハイ 質疑応答 1
                                                 中野 多一郎 訳