クリシュナムルティ 世界中で我々は多くの重大な問題を抱えていて、何らかの福祉国家がつくられるかも知れないけれども、政治家たちが何らかの表面的な共存的平和を作り出すかも知れないけれども―爆発的に生産して幸福な未来を約束する類の国が経済的な繁栄と共に―私には我々の問題はそう簡単には解決できないと思われます。我々はこれらの問題が解決されることを望んで、それらを解決するために誰か他の人たち―宗教的な教師たち、アナリストたち、指導者たち―を当てにします、さもなければ我々は伝統に頼るか、様々な書物や哲学者たちを当てにします。それがあなたのここにいる理由であると私は思います―何を行うべきかを言われるために。或いは、あなたは説明を聞いて我々の誰もが直面している問題が理解されることを期待します。しかし、もし一つか二つのトークをたいして気を使うことなく何気なく聞いて、我々の多くの問題が理解されるとあなたが期待するなら、あなたは重大な誤りを犯していると私は思います。私は我々が直面している問題を単に言葉で知的に説明しようとは全く思いません。それどころか、これらのトークで我々が行おうとしていることは、これら全ての問題をとても複雑に無限に痛々しく悲しいものにしている根本的な点をより深く検討することです。
言葉にとらわれずに、或いは一、二の表現に異議を唱えないで、どうか辛抱強く耳を傾けて下さい。真実を見出すためには計り知れなく辛抱強くなければなりません。殆どの我々は性急に事を進めます、結果を見出すために、成功を勝ち取るために、目的を果たすために、何らかの幸福な状態を得るために、或いは精神がしがみつくことのできる何かを経験するために性急に事を進めます。しかし必要なことは目的を持たずに追求するための辛抱強さであり忍耐です。殆どの我々は何かを追い求めています、それが我々のここにいる理由です、しかし我々が何かを追求するとき、我々は何かを見つけたいと思うので、何らかの結果や目標や幸せに平和でいられる存在の在り方などを見つけたいと思うので、我々の追求はすでに限定されているのではないでしょうか? 我々が追い求めるとき、我々は我々が欲する何かを追い求めているので、我々の追求はすでに確立していたり、あらかじめ決められていたりしていて、それはもはや追求では全くなくなっています。このことを理解することは非常に大切であると思います。精神が特定の状態や問題の何らかの解決を追い求めるとき、神や真理を追い求めるとき、或いは神秘的であろうと他の何かであろうと、何らかの経験を欲するとき、それはそれが欲するものをすでに思い描いていたり形にしたりしているので、その追求は限りなく不毛です。結果を見つけようとするこの欲望から精神を自由にすることは最も困難なことの一つです。
我々の多くの問題は精神の根本的な革命による以外には解決されえないと私には思われます、というのは、そのような革命だけが真理の理解をもたらしうるからです。従って人自身の精神の働きを理解することが重要ですが、それは自己分析的でも内省的でもなく、その過程に余すことなく気づいていることであり、それが私のこれらのトークで議論したいと思うことです。もし我々が我々の現にある通りに我々自身を見なければ、もし我々が思考する当のものを―何かを追い求めるその当のものを、絶えず何かを願っていて、何かを要求していて、何かを問うていて、何かを見出そうとしているその当のものを、問題を作り出しているその当のものを―“私”や自己やエゴを―理解しなければ我々の思考や追求には意味がありません。思考装置が明らかにされていなくて、歪んでいて、条件づけられている限り、我々が何を考えようと、それは限られていて狭量なものです。
従って、我々の問題は精神を全ての条件づけから自由にすることであり、それをいかにより良く条件づけるかではありません。お分かりでしょうか? 殆どの我々はより良い条件を追い求めています。共産主義者、カトリック教徒、プロテスタント教徒、そしてヒンズー教徒や仏教徒を含めた世界中の様々な党や宗派がみな、より崇高な、より有徳な、利己的ではないとするパターンに従って、或いは宗教的なパターンに従って精神を条件づけようと追求しています。世界中の誰もが確かに精神をより良い仕方で条件づけようとしていて、精神を全ての条件づけから自由にすることは決して問いません。しかし精神は全ての条件づけから自由になるまでは、つまり、それがキリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、共産主義者などとして条件づけられている限り、問題が生ずるに違いないと思われます。
明らかに、精神が全ての条件づけから自由なときのみ、真実を見出すことが、或いは神のようなものが存在するのかどうかを見出すことが可能です。条件づけられた精神が神や真理や愛で単に塞がれているのでは実際に何の意味もありません、というのは、そのような精神はその条件づけの範囲の中で機能しているだけだからです。神を信じない共産主義者はある仕方で考え、神を信じる人は、何らかの教条によって精神が塞がれている人は、別の仕方で考えますが、両方の精神は条件づけられています、従って双方とも自由に考えることができず、それら全ての主張や理論や信念には殆ど意味がありません。従って、宗教は教会へ行くことや、ある種の信仰や教条を持つことではありません。宗教は全く異なる何かであり、それはそれら全ての壮大な数世紀にわたる伝統から精神を余すことなく自由にすることかもしれません、というのは自由な精神のみが真理や真実或いは精神の思い描くものを超えている何かを見つけ出すことができるからです。
これは私の特殊の理論ではなく、世界中で起こっていることから我々が知りえることです。共産主義者は生の問題をある仕方で解決したいと思い、ヒンズー教徒は別の仕方で、キリスト教徒は更に別の仕方で解決したいと思います、従って彼らの精神は条件づけられています。人の精神はキリスト教徒として、それを認めようと認めまいと条件づけられています。人はキリスト教の伝統から表面的に抜け出すかもしれませんが、無意識の深層はその伝統に満ちていて、あるパターンに従った幾世紀にも及ぶ教育によって条件づけられています。明らかに、それらを乗り越えた何かを見つけ出す精神は、もしそれが存在するなら、最初に全ての条件づけから自由でなければなりません。
従って、これらのトークで我々は自己発達を全く議論せず、パターンの発展には無関心であり、精神をより崇高なパターンの中や、より広範囲な社会的意義のパターンの中に条件づけることを追求していません。反対に、精神を、全意識を、全ての条件づけからいかに自由にするのかを我々は見出そうとしています、というのは、もしそれが起こらなければ真実を経験できないからです。人は真実について語るかもしれませんし、それについて数知れなく書物を読むかもしれませんし、東西の神聖な全ての書物を読むかもしれませんが、精神がそれ自身のプロセスに気づくまでは、それ自身が何らかの特殊なパターンの中で機能しているのを見て、その条件づけから自由になることができるまでは、明らかに全ての追求が虚しくなります。
従って、我々自身から始めることが、我々自身の条件づけに気づくことが最重要であるように私には思われます。そして人が条件づけられていることを知ることが何と途方もなく難しいことか! 表面的には、精神の表層部で我々は我々が条件づけられていることに気づくかもしれませんし、我々は一つのパターンを打ち破って別のパターンを取るかもしれません、キリスト教を止めて共産主義者になるかもしれませんし、カトリック教徒を止めて何か他の同じような専制的な集団に加わるかもしれません、そして我々は発達していて真実へ向かっていると考えるかもしれません。しかしそれは単に牢獄を変えているだけです。
それでもそれが殆どの我々の願うところです―我々の考え方の中に安全な場所を見つけることです。我々は決まったパターンを追い求めたいのです、そして我々の考えの中で、我々の行動の中でかき乱されたくないのです。
しかしそれ自身の条件づけを辛抱強く観察できて、その条件づけから自由である精神だけが―そのような精神だけが革命を、根本的な変質を起こすことができて、精神を無限に超えている何かを、我々の欲望や虚栄心や追求の全てを超えている何かを発見することができます。自己知なしには、現にある通りに自分自身を知ることなしには―何かになりたいというのではなく、それは単に幻想に、観念的な逃亡にしか過ぎません―自身の考え方や動機の全てや自身の思考や自身の数知れない反応を知ることなしには、思考の全過程を理解し超えていくことはできません。
あなたはこのトークを聞くために、暑い夕刻、大変な苦労をしてここへ来られました。そしてあなたは本当に耳を傾けているのでしょうか。耳を傾けるということはどういうことでしょうか? もし宜しければ、そのことを少し検討してみることは大切であると思います。あなたは本当に耳を傾けていますか、それとも話されていることをあなた自身の考え方によって解釈しているのでしょうか? あなたはどのような人にも耳を傾けることができますか? それとも耳を傾けているとき、様々な思考や意見が起こって、あなた自身の思考や経験が話されていることとあなたのその理解の間に割って入って仲介の役を果たすのですか?
気をつけていることと精神集中との違いを理解することは重要であると私は思います。精神集中は取捨選択を意味します、違いますか? あなたは私の言っていることに精神を集中しようとしています、従ってあなたの精神は注意を集中し狭くなります、そして他の考えが割って入ると実際に耳を傾けることがなくなり精神の中で葛藤が起こります、あなたが聞いていることとそれを解釈しようとする、私の話していることを応用しようとするあなたの願望との間の葛藤です。しかし気をつけていることは全く異なる何かです。気をつけているときには注意を何かに集中することや取捨選択は起こらなくて、どのような解釈もせずに完全に気づいています。もし我々が話されていることによく完全に気をつけていることができれば、その気をつけていることが精神自身の中に変化の奇跡をもたらします。
我々が話していることは計り知れなく重要な何かです、何故なら、もし我々一人ひとりの中に根本的な革命が起こらなければ、我々が壮大で根本的な変化を世界にどうやって生み出すのか私には分からないからです。明らかに、そのような根本的な変化は本質的です。単なる経済的な革命は、それが共産主義者のものであろうと社会主義者のものであろうと全く重要ではありません。宗教的な革命がありうるだけであり、その宗教的な革命は、もし精神がそれまでの条件づけのパターンに単に順応するだけでは起こりえません。人がキリスト教徒やヒンズー教徒である限り、この本当の宗教的な意味で根本的な革命は起こりえません。我々にはそのような革命が必要です。精神があらゆる条件づけから自由なとき、真実の創造性が、神の創造性が、或いはそれを何と呼んでもよいのです、その創造性がやってくるのが分かるでしょう、そしてそのような精神だけが、絶えずこの創造性を経験している精神だけが、異なった見方、異なった価値、異なった世界をもたらすことができます。
従って、自分自身を理解することが重要です、違いますか? 自己知は知恵の始まりです。自己知は心理学者や書物や哲学者によるのではなく、現にある通りの自己を一瞬一瞬知ることです。お分かりでしょうか? 自己を知ることは自己の考えていることを、自己がどのように感じているのかを観察することであり、単に表面的にではなく現にある通りに、非難することなく、判断することなく、価値評価することなく、比較することなく深く気づいていることです。試して下さい、そうすると何世紀にもわたって比較することや非難することや判断することや価値評価することを訓練されてきた精神にとって、その全プロセスを止めて単に現にある通りのことを観察することがどれほど途方もなく難しいか分かるでしょう、しかしこのことが起こらなければ、表面的な次元だけではなく、意識の全内容の中でこのことが正に起こらなければ、精神の奥底にまで探りを入れることはできません。
どうか、もしあなたが言われていることを理解するために本当にここにいるのなら、このことこそが我々の関心の的であり、その他の何ものでもありません。我々の問題はどんな社会に属すべきか、どんな種類の活動に取り組むべきか、どのような書物を読むべきかなど、そのような表面的なことではなく、いかに精神を条件づけから自由にするかです。精神は単に日常的な活動に没頭している顕在意識だけではなく、過去や伝統や人種的本能のあらゆる残滓が含まれている潜在意識の深層でもあります。それら全てが精神であり、その余すことのない意識が完全に自由でなければ、我々の探究や発見は限られた、狭量な、取るに足りないものとなるでしょう。
精神は徹頭徹尾条件づけられていて、条件づけられていない精神の部分はありません。そこで我々の問題は、そのような精神が自身を自由にすることができるのか、ということになります。そして、それを自由にするその当のものは何ものなのか、ということです。問題がお分かりでしょうか? 精神は知識や取得したもの、伝統、人種的本能、記憶などの異なった全ての層からなる全意識であり、そのような精神は自身を自由にできるのでしょうか? 或いは精神が条件づけられていることや、この条件づけからのどのような活動も依然として条件づけの別の形であることを見て取るときにのみ、精神は自由になりえるのでしょうか? あなたがこれらのことに付いてきていることを私は期待します。もしそうでないなら我々はそれをこの何日間かの中で議論します。
精神は完全に条件づけられています―もしそのことを考えてみれば、それは明らかな事実です。それは私の発明ではありません、それは事実です。我々は何らかの特殊な社会に従属していて、ある種の教条や伝統を伴った何らかの思想に沿って育てられています、そして文化や社会の壮大な影響が絶えず精神を条件づけています。そのような精神はどのようにして自由になりえるのでしょうか、自由になるための精神のどのような活動もその条件づけの結果であり、従って更なる条件づけを生み出しているのに違いないのですから。ただ一つの答えがあるだけです。精神が完全に静まっているときだけそれは自由でありえます。それは問題を、数知れない衝動、葛藤、野望を抱えているけれども、もし―自己知を通じて、受け入れることや非難することをしないで、それ自身を見守ることによって―精神がそれ自身のプロセスに取捨選択することなく気づいているなら、その気づきからどのような種類の活動も起こらない驚くべき沈黙、精神の静寂がやってきます。そのようなときにのみ精神は自由です、何故なら、それはもはや何ものも願っていないからです、それはもはや何も追い求めていないからです、それはもはや目標や理想を追い求めていないからです―それらは全て条件づけられた精神が思い描いたものです。そして、もしあなたがそのような理解に至るなら、自己欺瞞が起こりえないそのような理解に至るなら、創造性と呼ばれるあの途方もないものが生まれる可能性があること分かるでしょう。そうするときのみ精神は計り知れないものを、神や真理と呼ばれるものを、或いはそれを何と呼ぼうと―言葉には僅かの意味しかありません―それを理解できます。あなたは社会的に裕福かもしれません、あなたは数知れない財産、車、家、冷蔵庫、表面的な平和を手にしているかも知れませんが、もし計り知れないものが生まれないなら、いつも悲しみが生ずるでしょう。精神を条件づけから自由にすることが悲しみの消滅です。
多くの質問が手元にありますが、質問をして答えを受け取るとはどういうことですか? 質問をすることによって我々は問題を解決しますか? 問題とは何ですか? どうかこのことに付いてきて下さい、私と一緒に考えて下さい。 問題とは何ですか? 精神が何かで占められているときのみ問題が生じます、違いますか? 私は問題を抱えています、それはどういう意味ですか? 私の精神が朝から晩まで妬みや嫉妬やセックスや何かで占められているとしましょう。精神があるものに占領されていることが問題を作り出します。妬みは事実ですが、精神がその事実に占領されていることが問題を、葛藤を作り出します、違いますか? そうではありませんか?
私が妬んでいるとしましょう、或いは私には何らかの暴力的な衝動があるとしましょう。妬みはそれ自身を表現します、葛藤があります、そして私の精神はその葛藤で占められています―どのようにしてそれから自由になるのか、どのようにそれを解決するのか、それについて何をすべきか。妬みに精神が占領されていることが問題を作り出します、妬みそれ自身ではありません―我々はそれをまもなく検討するでしょう、妬みの意味する全体を。我々の問題は事実ではなくて事実に占領されていることです。精神は占領されることから自由になりえるでしょうか? 精神は事実に占領されることなく事実を扱うことができるでしょうか? 我々はこの占領される問題を検討していくでしょう。活動している精神を見守ることは非常に興味深いことです。
従って、これらの問いかけを一緒によく考えているとき、我々は精神を占領されていることから解放しようとしています、それは事実を事実に占領されないで見ることを意味します。つまり、もし私に何らかの強い衝動があるなら、私はその衝動に占領されないでその強い衝動を見ることができますか? どうか、イラつくか何かのあなた自身の強い衝動を見て下さい。それに精神が占領されないでそれを見ることができますか? 占領されていることはその強い衝動を解決しようとする努力を意味します、違いますか? あなたはそれを非難したり、それを何か他のことと比べたり、それを変えようとしたり、それを乗り越えようとしたりしています。違う言い方をすれば、あなたの強い衝動について何かをしようとすることが占領されていることです、違いますか? しかしあなたが何らかの強い衝動を、何らかの衝動を、何らかの欲望を持っている事実をあなたは見て取ることができ、比較することなしに判断することなしにそれを見て取ることができるので、占領されている全プロセスが呼び起こされないことがありえますか?
心理的に、このことを観察するのは非常に興味深いのです―精神を占領している意見や判断や価値評価の巨大な複雑さを招き入れることなく精神は妬みのような事実をどうして見ることができないのか―従って我々は決して事実を解決してなくて問題を増幅しています。私の言っていることが明瞭であることを願います。我々がこの占領されているプロセスを理解することは重要です、何故なら、その背後にもっと深い要素が潜んでいるからであり、それは何かで精神が占められていないことの恐怖だからです。精神が神にであろうと、真理にであろうと、セックスにであろうと、飲酒にであろうと占領されているその質は本質的に同じです。神について考えて隠遁者になる人は社会的にもっと意義深いかもしれませんし、その人は酔っ払いよりも社会的により価値があるかもしれませんが、両者は精神を占領されているのであり、占領されている精神は決して真理を発見する自由な精神ではありません。どうか私の言っていることを拒絶したり受け入れたりしないで下さい、それを見て下さい、見つけ出して下さい。我々一人ひとりがこの一事に本当に気をつけているなら、単に何かに占領されている別のあり方にすぎない占領されていることから精神を自由にしようとすることを止めて、問題に占領されている精神の全プロセスに全身で気をつけているなら―もし我々がこのプロセスを完全に余すことなく理解できるなら、問題そのものが不適切になると私は思います。精神が何らかの問題に占領されていることから自由になるとき、自由に観察するとき、自由に事の全てに気づいているとき、問題そのものが比較的簡単に解決されえます。
質問者 我々の全ての問題は欲望から起こるように思われますが、我々は欲望から自由になれるでしょうか? 欲望は我々の中に内在しているのでしょうか、それともそれは精神の産物でしょうか?
クリシュナムルティ 欲望とは何ですか? 何故我々は欲望を精神から引き離すのですか? 「欲望が問題を作り出すので、私は欲望から自由にならなければならない」と言うその当のものは何ですか? お分かりですか?
我々は欲望が何であるのかを理解する必要があるのであり、欲望が問題を作り出すから、或いはそれが精神の産物かどうかという理由で欲望をいかに取り除くかを問うことではないのです。最初に我々は欲望が何であるのかを知らなければなりません、そうすると我々はそれをもっと深く検討できます。欲望とは何ですか? どのように欲望は起こるのですか? 私は説明します、そしてあなたは分かります、しかし単に私の言葉を聞くだけであってはいけません。実際に我々が話していることを一緒になって経験して下さい、そうするとそれには意義があるでしょう。
どのように欲望は生まれるのでしょう? 明らかに、それは知覚することによって、或いは見ることによって、触れることによって、感じることによって欲望が生まれます。そうではありませんか? 最初に車を見て、触って、感じて、最後にその車を手に入れたいという欲望が、それを運転したいと思う欲望が起こります。どうかこのことにゆっくり、辛抱強く付いてきて下さい。その車を手に入れようとするとき、それは欲望ですが、葛藤が起こります。欲望を果たそうとする正にそのときに葛藤が起こります、痛みが、苦しみが、喜びが起こります、そして快楽を保持して苦痛を捨て去りたいと思います。これが我々一人ひとりに実際に起こっていることです。欲望によって作り出されたその当のものが、快楽と一体化したその当のものが「私は不快なもの、苦痛なものを取り除かなければならない」と言います。我々は決して「私は苦楽を取り除かなければならない」とは言いません。我々は快楽を保持して苦痛を捨て去りたいと思いますが、欲望は両方を作り出します、違いますか? 欲望は、知覚、接触、感覚を通じて生まれる欲望は、快楽をもたらすものにしがみついて苦痛であるものを捨て去りたいと思う“私”と一体化します。しかし苦痛をもたらすものも快楽をもたらすものも共に欲望の結果であり精神の一部です―それは精神の外側にあるのではありません―「これにしがみついてあれを捨て去りたい」と言うその当のものが存在する限り、葛藤が起こるに違いありません。我々は苦痛をもたらす全ての欲望を取り除いて主に快楽的で価値のあるものにしがみつきたいと思うので、我々は決して欲望の全問題をよく考えません。我々が「私は欲望を取り除きたい」と言うとき、何かを取り除こうとしているその当のものは何ですか? その当のものも欲望の結果ですか? これらのことがお分かりですか?
どうか、トークの初めに言ったように、あなたはこれらのことを理解するために限りなく辛抱強くなければなりません。根本的な問いには、イエスやノーの絶対的な答えはありません。大切なことは根本的な問いかけをすることであり、答えを見るけることではありません、もし我々が答えを追い求めないでその根本的な問いを見ることができるなら、その根本的なものの正に観察が理解をもたらします。
従って、我々の問題は快楽的なものにしがみつく一方で苦痛をもたらす欲望からいかに自由になるのかではなく欲望の全性質を理解することです。このことが葛藤とは何であるのかという問いかけになります。快楽的なものと苦痛をもたらすものとの間でいつも取捨選択しているその当のものとは何ですか? 「これは快楽であり、それは苦痛である、私は快楽的なものを保持して苦痛をもたらすものを拒絶する」と言う、我々が“私”や自己やエゴと呼ぶその当のものは依然として欲望ではないのですか? しかし、もし我々が欲望の全領域を見ることができるなら、何かを保持したり取り除いたりするという観点からではなくそうすることができるなら、欲望は全く異なる意義を持つことが分かるでしょう。
欲望は矛盾を生みます、そして十分に警戒している精神は矛盾の中を生きようとは思いません、従ってそれは欲望を取り除こうとします。しかし、もし精神が欲望を打ち消したり“これは良い欲望であり、あれは悪い欲望である、私はこれを保持してあれを捨て去ろう”と言わないで、欲望を理解できるなら、もしそれが拒絶したり取捨選択したり非難したりしないで欲望の全領域に気づくことができるなら精神が欲望であることが分かるでしょう、それは欲望から分離していません。もしこのことを本当に理解するなら、精神は非常に穏やかになり、欲望が起こってもそれはもはや衝撃をもたらしません、それにはもはや大きな意義はありません、それは精神に根を下ろさず、問題を生み出しません。精神は反射的に反応します、そうでなければそれは生きていられません、しかしその反射的な反応は表面的であり根付きません。それが殆どの我々が囚われているこの欲望の全プロセスを理解することの重要である理由です。囚われているので、我々は矛盾を、その限りない苦痛を感じて、欲望と格闘し、その格闘が二重性を生みます。一方、もし我々が判断することなく価値評価することなく非難することなく欲望を見ることができるなら、それがもはや根を下ろさないのが分かるでしょう。問題の根に土壌を供給する精神は真実を決して見つけられません。従って要点は、いかに欲望を解決するのかではなく、欲望を理解することであり、人はそれを非難しないときにのみそれを理解することができます。欲望に占領されていない精神のみが欲望を理解できます。
1955年 8月6日 オーハイ
中野 多一郎 訳