パレスティナ2001

2001.12.1-2002.1.26

その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12その13その14その15その16その17その18その19その20その21その22その23その24その25その26その27その28その29



今回、2-3ヶ月の期間をとって、海外の医療協力に行くことが可能だったので、 いくつかの国内NGOをあたった結果、1998年の末に一度行ったJPMAでパレスチナへ、 またAMDAでバングラディッシュに行くこととなった。 パレスティナは前回行ったので、様子は大体分かっていたが、2000年の秋にシャロンが首相になってから対立が激化しており、 さらに、アメリカでのテロ以来、ハマスの自爆テロとイスラエルの報復攻撃がひっきりなしに行われている状態で、 危険度は外務省の危険度で4(家族等退避勧告)と増していた。 しかし、ある程度まとまった期間働きたかったこと、また前回とどのように状況が変わっているのかを実際に見てみたいということもあり、 いくことにした。




エルサレム




成田を12月1日の午前11:30に出発し、KLMのアムステルダム経由でテルアビブに同日夜の23:30頃に着いた。
セキュリティーは時期を反映してか、以前より厳しく、 アムステルダムでもテルアビブの入国でもチェックされてあれこれ質問された挙句に 荷物チェックを受けた。まあ、シリア、レバノンのスタンプがあり、 それ以外にも多くの渡航歴があるあやしげな日本人をチェックしないようではセキュリティーに問題があるともいえる。
空港を出たものの、テルアビブに泊まってもしょうがないので、まずエルサレムにタクシーで向かった。
現地の治安が心配なので、途中タクシーの運転手に
「いまこの辺は危険なのか?」
聞いてみると、帰ってきた答えが
"You can die in anyplace."
であった。なるほど、前回とはちょっと違うようだ。
夜も遅いので、とりあえず西エルサレム(イスラエル側)のホテルに泊まることにし、適当なホテルに連れて行ってもらった。 到着は夜の12時過ぎ。チェックインしているときに、ホテルのフロントにいる男が、一時間半ほど前に、 エルサレムの中心で自爆テロがあったと教えてくれた。 部屋に入ってテレビをみると、繁華街と思われる場所で負傷者を救急隊が救助している生々しい映像が映し出されており、 どのチャンネルでもやっていた。後で分かったことだが結構大きなテロだったらしく、二つの自爆テロで10人ほど死んだらしい。 まさに、手荒い歓迎である。
イスラエルは全くの先進国で、町並みも欧米と変わりがない。(写真左) ホテルの設備も、サービスも、宿泊料金まで欧米並みである。
泊まったEldan Hotelは旧市街に近く、歩いてダマスカス門までいける程度の距離であった。 散歩がてらに、ダマスカス門に行って撮ったのが右の写真である。 旧市街の中も結構覚えており、こんなところで土地勘がある自分にちょっと感心した。
結構立派なホテルで一泊80US$もしたのだが、駐車場にはゴラン高原監視団と表示のしてある国連の車 (UNと大きくかかれた車)がとまっていた。 午前中にRamallahにあるPRCSのHQに行くことになっていたので早々にチェックアウトして、ダマスカスゲートの近くのバスターミナルに行った。


パレスティナ西岸地区〜ラマラ



エルサレムからラマラに行く途中、パレスティナ側へのボーダーがある。 そこにはイスラエル兵士が機関銃を手に持ち、監視している。 パレスティナ側に行く場合はさほど問題ないが、逆にイスラエル側に入るときはチェックが厳しく 成人男子は全員がIDカードの呈示をさせられていた。
ラマラは西岸では結構大きい町であり、PRCSのHQがある。 場所が分からなかったのであちこちで道行く人たちに聞きながらになった。 しかし、英語はある程度は通じるのだが、基本的にはアラビア語なので、要領を得ない。 かなり時間を使ってようやくたどり着いたときにはすでにお昼になっていた。
HQで荷物を置き、PRCSについての説明や建物内の案内をしてもらい、 早々にガザに行く手配をしてもらったところ、1時に出発ということになり、 あわただしくガザに向かうことになった。
ラマラに入るボーダーまで送ってもらった後、タクシーでエルツというガザに入る検問所(写真右)まで行き、そこで手続きをしてからガザに入った。



パレスティナ ガザ地区



Al Quds Hospital



ガザのボーダーにはPRCSの救急車が待っており、病院まで送ってくれた。
今回は前回のハンユニスでなく、ガザに新しく出来たエルサレム病院(Al Quds病院)に行った。 この病院は2001年の9月にオープンしたばかりで、100床ほどの病院である。 オープンの日はなんと9月11日。午前中にアラファト議長が来院して開院式をしたその日の午後、アメリカでテロがあった事になる。
ガザにはShifa病院という自治政府の病院があり、 患者はそちらのほうに行ってしまうので、新しい病院には患者はまだ少ない。
行ったときはラマダン中であったこともあるが、入院患者はなんと一人だけであった。 外来患者も閑古鳥でラマダン中は通常患者数は減るにしてもひどすぎる。 その理由として、ここがprivate hospitalであり、治療費が高いということがある。 人々は皆government hospitalであるShifa病院にいくので、 PRCSの病院には来ない。というか、貧しくてかかれないということらしい。 この辺が大きな問題点であると思われる。
設備としては一応一通りのものはそろえているのだが、実際きちんと稼動するのかどうかは疑わしい。 いろんな設備は工事中のものが多く、レントゲンはポータブルのものが一つ。エコーは古いタイプのものが数台。 内視鏡室はあるが、使っているのかどうか不明である。 手術室は4部屋。麻酔医は3人いるが、開店休業中である。ただし、彼らは救急の当番も兼ねている。
常勤の医師は26人。それに非常勤医師が26人の計52人。看護婦は38人ということである。 しかし、外来には数人の医師がいるのみで、開店休業中である。 PRCSの病院であるから、多くの援助を受けているはずであり、 実際医薬品、医療設備ともそれなりのものがあり、ある程度の経験を持つ医師もいるのだが、 全くそれが生かされていない。

その日の夕方、ちょうどアザーンがなり、ラマダン明けの夕食時に、突然工事現場の音のようなダダダダという音がした。 そして、なにやら周囲が騒がしくなってきた。ふと見ると遠くで黒い煙が上がっている。(写真右)
そう、イスラエルの報復攻撃であったのだ。ダダダダという音はおそらく機関銃の音である。
早速、救急車が出動した。救急外来で患者の到着を待つ。しかし、幸い負傷者は5人程度で、 たいしたことがなく、全員Shifa病院に収容されたとのことであった。
昨日、一昨日と2回のテロがあったので、当然イスラエル側の報復もあるだろうと予想していたが、 案の定現実になった。人々は結構平静で、よくあることという感じで慣れっこになっているようだ。

12月3日:今日の外科のクリニックでは一人魚の目を切った以外は患者がいなかった。 こんなに暇なのに医者は沢山いる。しかし、いろいろ聞いて回るうちにようやく状況が分かってきた。 まず、ここはプライベートの病院であり、保険が利かず、診療費が高い。 そのため金持ちしかかかることができない。 たとえば、入院費だが、治療費や検査の費用なしに単純に泊まるだけで、一泊個室は100US$、二人部屋は50US$、5人部屋は25US$だそうだ。 これだけの費用を全額自己負担である。
ただし、交通外傷とインティファーダによる負傷者の場合は全員無料で診療するとのことだった。
また、ここにいる医者は基準よりもかなり低い賃金だそうで、医師達も患者がいない病院で積極的に働きたいわけではないのだが、 他に雇ってくれるところがないので、仕方なしに働いているんだとのことである。 コンサルタントの場合は他の病院とかけもちなのだが、レジデントの場合はもっと悲惨であり、 毎日いることを義務づけられるが賃金が伴わないそうである。 また、レジデントにもなれないボランティアの医師(私のような海外のボランティアでない)もいて、 ポスト待ちをしているそうだ。
ではおなじPRCSのAmal病院はどうかというと、70%が政府から出て、30%を個人で払う形であり、 まだここよりは患者が多いとのことである。
Shifa病院の場合,自治政府の病院であり、100%政府から出るので、 患者であふれていて医者も足りないのだが、 医者を雇う金がないので、医者は増やせず仕方がないのだそうだ。Shifaにもボランティアはいるとのことで、PRCSとの関係が何とかなれば、 Shifaに行くことも可能だと思われる。私としては是非Shifaに行きたいと思う。
PRCSがなぜ私をここに来させたのかは疑問だが、一つにはこの病院が多くの国の援助から成り立っていることがある。 Donation はイスラム銀行、日本政府、イスラムサミット、とエジプト、シリア、サウジアラビア、バーレーン、オマーンのRed Crescentだそうだ。 日本政府が二番目にくるのはそれだけ多くのお金をだしたからであり、彼らにしてみれば、 日本のおかげでこんないい病院が出来たということを私に示したかったのだと思う。
しかし、おろかなのは、これだけの病院が機能していないという様も私に見せたことになるので、 更なる援助をひきだそうと思うなら逆効果であった。
ではなんで、こういった病院をPRCSが作っただろうか。 これは私見だが、PRCSのトップはアラファトの弟であり、上層部を同族で固めている。 つまり彼ら上流階級のためにつくったのではないかと思っている。 すでに数ヶ月働いているボランティアの看護婦の話によると、この病院には確かにVIPがよくくるそうである。 実際、私が以前行ったときにはPRCSのアマル病院にアラファトの姉が入院していたこともあった。 でなければ、貧しくて病院にかかれない人々が沢山いる中で、劇場、ホテル、映画館やスポーツジムまで備えた病院をPRCSが作る意味は全くない。

今日のお昼にまたガザでイスラエルのアタックがあった。早速救急車が出発し、 院内にいる医者は全員待機になり、患者の来るのを待った。 今回のアタックでは2人死亡し、うち一人は10歳の子供だそうだ。 他に16人負傷者がいたとのことだった。しかし、結局うちの病院に来たのはpsychic traumaの若者一人だけであり、 鎮静剤を打ち、点滴を入れて入院して終了となった。 ガザでアタックがあった後、ラマラ、ジャバリアでもアタックがあったそうである。
重症の外傷に関しては、Shifa病院がセンターとなっているとのことで、 ほとんどこちらの病院には送られてこない。これでは、何のためにきたのか全く分からない。 ということで、他の病院に移ることが出来るようにPRCSに交渉することにした。 出来ればShifaだが、Amal病院でもここよりはましだと思われる。 幸い、今日の外科外来担当のDr.Hazemは昔Shifaに勤めていたそうで、PRCSがだめだったら、 口を聞いてくれるとのことだった。 他のDrやNsに聞いてもShifaがよいというので、具体的に行動に移そうと思う。