パレスティナ2001 - ver.9
その1、
その2、
その3、
その4、
その5、
その6、
その7、
その8、
その10、
その11、
その12、
その13、
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その18、
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その20、
その21、
その22、
その23、
その24、
その25、
その26、
その27、
その28、
その29
ラマダン
ラマダンも今日で終わりである。
ラマダン中の今、人々は日中は食事や水分摂取、喫煙が出来ない。
その時間はアザーンというモスクからの声によって知らされる。
よって、朝アザーンのなる前に食事を取り、
夕方アザーンがなるのを待って食事をとる。
夕方のアザーンは大体4時半である。
それを皆、Breakfastと呼ぶ。Dinnerではない。
なるほど、日本人はBreakfastを朝食と訳すが、fastをbreakするのが本来の意味なので、
日中fastingをしている彼らにとってはれっきとしたBreakfastなのである。
ここal quds病院では、当直の医者、当番の救急隊員、夜間の受付、事務職員。
PRCSのメンバー。夜勤の看護婦。当番のレントゲン、検査係など、
皆一緒に併設のホテルの最上階でバイキング形式のBreakfastを取るようになっている。
al qudsは給料は安いそうだが、こういった旨みがあるのかもしれない。
皆、ラマダンをしていることもあるが、すごい食欲である。
特に甘いものを沢山食べる。ラマダン中は特に食べるようになるそうだ。
今日の土曜はラマダン最終日で、その後3日間フィースという休日になる。
よって、来週の火曜まではイスラム圏中お休みになり、そのときは皆着飾って、親戚のうちに行き来したりするそうだ。
ようするに、日本の正月のようなものである。
そして、次の月になる。
またラマダン明け、70日後にはまた次のフィースがあり、こちらのほうが、祭りという要素が高いそうだ。
イスラムの祭りはこの2回だそうで、残念ながら3月まではいないので、二回目のフィースは見ることが出来ない。
今日はラマダン最終日で平日であるはずなのだが、何故か人が少ない。
PRCSのオフィスも誰もいなかった。
私は正月前に休みになるのと同様、ラマダン明け前なので、皆休みになったのだと解釈していた。
夕食時、いつもの3分の1くらいしかいない食堂で、あるドクターにこのことについて聞いてみた。
すると、
「今日はイスラエルがガザの主要道路を閉鎖したので、皆来れなくなったのだ。」とのこと。
そのドクターは自分は歩いてきたという。
フィースはもともと日本の正月のように、大騒ぎをするわけではないそうだが、少しは楽しいらしいが、
今年のフィースは最悪だといっている。
「状況はどんどん悪くなっている。シャロンがいなくならない限り、状況は良くならない。」
と彼は言い切った。
彼にいわせると、3日連続の空爆があり、現在の状況は昨年秋のインティファーダ以来最悪の状態だそうである。
PRCS station
今日はフィースで休みである。お昼頃、遅い朝食をとっていると、そこにガザのPRCSの責任者である、
HusamがPRCSのガザ地区での救急体制の責任者であるDr.Faizとともに、お茶を飲みにやってきた。
どうも奥さんや子供達はおばさん、おばあさんと女同士で墓参りに行ったらしい。
子供達に新しい服を着せたりするのと同様、フィースでよくやることらしい。
一緒に食事をとりながら話しているとき、私が
「フィースの休みだがやることもないので、どこかお勧めの場所はあるか?」
と聞くとHusamが
「これから、ガザ地区のPRCSのemergency stationを見に行くが一緒に行くか」
と言ってきた。
断る理由もないので、一緒に行くこととした。
すぐ行くからといいながら、行く前に、病院の全セクションに行って、今日休みでありながら働いているスタッフに、
例によって挨拶してちょっとおしゃべりしてというのを繰り返した。
このHusamはガザのPRCSのトップなのだが、どうもちょっととっつきにくくて、
私は苦手だったのだが、こういった配慮をみると、なかなか良い人なのかも知れないと思い始めた。
とにかく、PRCSには食事と宿泊でやっかいになっている関係上、Husamと仲良くなっておくことは悪いことではない。
最後にalqudsの救急セクションに手土産をもって行き、少し話しこんでから、他のstationに出かけた。
PRCSのemergency stationは言ってみれば、日本の消防署の消防車がない場所と思えばよく、
救急のみをやっている。
ガザ地区には6箇所のstationがあり、北部がJabalia、中部がDeir Al BalahとGaza、
南部がKhan YunisとRafahとairportにある。
Airportにstationがあるのは、もちろん患者を海外に送ることがあるのを想定してのことなのだが、
先日の爆撃によりガザ空港は使用不能になっているので、現在では患者の転送は不能である。
GazaとKhan Yunis のstationには病院が併設してあり、それがAl Quds病院とAl Amal病院になる。この6箇所でガザ地域の救急をすべて受け持っていて、それぞれ重症度に応じて、近隣の病院に送るか拠点病院に送るかが決まるそうである。中部エリアではShifaとAl Qudsが拠点病院になるのだが、一つには地理的問題で負傷者をShifaに送るケースが多いのと、やはりガザエリアの重症者は最終的に皆Shifaに送ることになるそうだ。
まずJabaliaのstationに行った。
ここは、一昨日近隣のBeit Hanounでイスラエル軍の侵攻と爆撃があったところで、
現在も占領が続いているそうである。
そのとき、負傷した患者がまさに、私がShifaでみた重傷患者たちであり、1例目の血気胸を転送した救急士が私のことを覚えていた。彼らに聞くと、普段は一日平均10から15人程度の外傷を運ぶのだそうだが、その日は35人運んだそうである。結局その攻撃で3人が死亡し、27人が負傷しうち4人が重体だそうであり、1人の死亡と2人の重体にはわたしも絡んでいる。
また、結局、先週の3日間の攻撃で計24人のパレスティナ人が死亡し、84人が負傷したそうである。
救急士と先日の患者の話をしながら、いろいろと話がつながり、被害が実感された。
これは実際に私が当直していたときの話であり、私の関係していない救急患者もたくさんいたので、
その数字は妥当なものであり、水増ししていたりするようないい加減なものではない。
その後、Deir Al Balahのstationに行った。中に入ると、
壁のいたるところにある救急士の写真が張ってあった。
するとHusamが説明してくれた。
「昨年のintifadaの時に、ドラム缶の影に隠れて自分の息子を守り、
結局子供は死亡し、自分も重症を負ったJami ad-Durraは知っているだろう?
そのとき、彼らを助けるため、ここのstationから救急士が出動したが、
残念ながら一人の救急士が死亡した。その救急士がその写真の男なのだ。」
交通外傷の場合は問題ないが、イスラエルの攻撃による負傷者を救出に行くPRCSの救急士は
まさに戦場に行くわけだから非常に危険である。
いままで何人もの救急士が死亡したり重傷を負ったりしている。
ひどい場合は救急車を狙って攻撃をされたりするらしい。
Al Quds病院の状況を見ていた私はPRCSにやや懐疑的になっていたが、
今日はいろいろ救急士たちと話をして、PRCS対する認識を改めた。
南部の3箇所については今日は行かなかった。
というのも南部は危険で、道路も頻繁に封鎖されるからだそうである。
上段右:Al Quds病院併設のemergency station
中段左:Jabaliaのemergency station
中段右:Jabaliaのstationのスタッフ。前列右が重傷者をShifaに運んだ救急士。後列右がDr.Faiz
下段左:Dei al Balahのemergency station
下段中:有名なJami ad-Durraの映像。
下段右:Intifadaで犠牲になった救急士。