パレスティナ2001 - ver.15
その1、
その2、
その3、
その4、
その5、
その6、
その7、
その8、
その9、
その10、
その11、
その12、
その13、
その14、、
その16、
その17、
その18、
その19、
その20、
その21、
その22、その23、
その24、
その25、
その26、
その27、
その28、
その29
難民キャンプ〜その1
今日は、PRCSにアレンジしてもらって、難民キャンプに行くことにした。
といってもどこに行ってよいわからなかったので、とりあえずガザ市内の近くにあるbeachcampに案内するということになった。
実際行ってみたら、イメージしていたものとは全く違って、単なるアラブの旧市街に過ぎない感じであった。
聞くと、ここのキャンプは以前はいわゆる難民キャンプだったのだが、だんだん新しく家が建ってきて、
もうそんなに悪い状態ではないのだそうだ、UNの施設も近くにあったが、
どこからどこまでが難民キャンプかわからないというのが本当のところである。
ただ、ちょっと中に入ってみると迷路のようになっていて、小さな家が密集している。
しかし、それも、日本の下町のウサギ小屋のような家を考えれば大した違いはない。
「難民キャンプといってもそんなに悪い環境ではないではないか?」
と正直な感想を言うと、
「ここはそのとおりだ。しかし、ジャバリヤやハンユニスに行くと、イスラエルに壊されたりしている難民キャンプがある。」
というので、今度はハンユニスの難民キャンプに案内してもらうことにした。
Al Amal病院
今日はハンユニスのAmal病院に行く日であった。
Husamも仕事の関係で、ハンユニスに行くようであり、一緒に9時過ぎにガザをでた。
なんと救急車を使ったので、30分ほどでハンユニスについた。
ハンユニスの町並みは覚えていた。散々銃撃戦をしているという話が伝わってきたので、
さぞかしすごいことになっているのではないかと思っていたが、町の中心は予想に反し、さほど変わっていないように見えた。
病院に着き、そこでまずDirectorや、その他のスタッフに紹介してもらった。
ここのDirectorはAlQudsに移ったので当然なのだが、他のスタッフも以前いた人たちとは変わっていて、
覚えている顔はいない。
その後早速手術室に行った。
そこでは、以前Amalで一緒に働いたAhmed Shahwan(右上)がすでに手術を二件終えていた。
相変わらずすばやい手術である。
今日の手術は、鼠径ヘルニアと乳腺腫瘍の生検、下顎の腫瘤摘出と痔ろうである。
私は毎週日曜に来て手術を手伝うようにアレンジされたのだが、それはDr.Ahmedが毎週日曜にここで、手術をしているためのようだ。
彼とは以前も手術をしたので、やりやすい。
麻酔医もしっかりしていて、左のように小児の麻酔も、十分な手技で行っている。
まあ、ここでは小手術がメインなのだが、それでも外科医としては十分である。
ちなみに、来週は胃潰瘍の迷走神経切離と幽門形成が一つ大きな手術として入っている。
来週は楽しみである。
オペ室のスタッフには3年前から働いているスタッフもいて、私のことを覚えているものもいた。
以前ICUにいて、結構仲の良かったスタッフが手術室に移って来てきていたりしていて、私自身も知っている顔が何人かいた。
こういう再会は結構うれしい。
今日は手術は4件しかなかったので、昼過ぎには手術は終了した。
病棟にいって術後の患者の状態を確認し、仕事を終えた。
難民キャンプ〜その2
ハンユニスの難民キャンプに行くのは、簡単ではなかった。
というのはガザからハンユニスに行く道はいつも通れるわけではなく、情勢により、封鎖されることがあるからである。
PRCSにアレンジを頼んだが、そういった理由ですぐに行けたわけではなかった。
初めはラマダン前にアレンジを頼んだのだが、日程が合わなかったのと、
治安情勢が許さなかったので結局行くことは出来なかった。
そして、Amal 病院に行ったときに、せっかくハンユニスにきたので、時間があったこともあり、
今まで行けなかった難民キャンプにいくことにした。
PRCSにアレンジを頼むと、JICAのオフィスで働いているというHussinというガイドを紹介してくれた。
彼は基本的にはラファの救急士として働いているそうだが、いままでいろんなジャーナリストのガイドをしているらしい。
今日も日本人のジャーナリストのガイドをして、ガザに今行っているとのことである。
連絡を取ると、これからちょうどハンユニスにくるところらしい。
ということで、急遽彼のガイドで難民キャンプ見学をすることにした。
PRCSの事務所で待ち合わせをすると、Hussinと日本人のみやさんというジャーナリスト志望の大学生の女の子と
ジャーナリストの小田切さんという人が来た。
小田切さんはなんと以前JPMAでガザに来たことがあるらしく、会うなり「JPMAの方ですか?」という質問が来た。
この世界は狭い。
とりあえず、彼らをつれてきたタクシーとHussinをガイドに雇って、
ラファとハンユニスの難民キャンプを見学にいくことにした。
車は1日150NIS、ガイド料は20$となった。
通常プレス関係を相手にしているせいだろうが、結構ぼってくる。
小田切さんはもうすでに何度も行っているようなのでPRCSに残ったが、みやさんは今回初めてなので、
彼女も一緒に行くことになった。
まず、ラファに行った。ラファはガザ地区の一番南に位置し、エジプトとのボーダーに面する町である。
ラファとエジプトの間には、もちろん国境があり、そこから入国も出来るのだが、当然その管理はイスラエルがしている。
しかも、国境はその時々で開いたり開かなかったりと情勢によって変わる。
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ラファの難民キャンプはそのまさにボーダー付近にあり、
町の中の道はボーダーに向かって垂直に走っているのだが、その道の一番奥には壁があり、
その向こうにイスラエル軍が駐留する。
そして、時折、戦車がやってきては、ラファの町側に砲撃をするらしい。
よって、その垂直に走っている道にまさに、銃弾が飛び交うことになる。
ボーダー近辺には子供が遊んでおり、車を降りると、一斉に近づいてきて大変であったが、別にホームレスというわけではなさそうである。
こういったプレス関係者の訪問には慣れているようで、鬱陶しいことこの上ない。
その後、まさにボーダー目の前にあるモスクにいった。
壁には銃弾のあとが無数にあり、無残な姿をさらしている(右)。
すぐ向こうにはエジプトが見え、建物も見える。
このほんのちょっとの距離がとてつもなく大きいのだろう。
他にも何箇所か同様のボーダー近辺にいってみた。どこも無残な建物が並んでいた。
海岸線側にも行ってみた。ガザ地区は海岸線に面しているのだが、ラファ、ハンユニスの場合、
海岸線はイスラエルが管理しており、パレスティナ人は許可のあるものしか行くことが出来ない。
市内と海岸の間にはチェックポイントがあり、そこではカードの呈示が義務付けられる。
そして、そのチェックポイントには戦車が待っている。
そのチェックポイント付近の写真が右である。少年の後ろには戦車が見える。
こういった環境で彼らは育っていくわけである。
その後、ラファのPRCSのstationに寄った。
ここはHuseinが前働いていたところである。
前回PRCSのstation巡りをしたときは、情勢が悪く行けなかったところでもある。
このstationも前述したように、ボーダーから伸びている道に面している。
従って、何度も戦車の砲撃に晒されている。
実際救急隊員が何人も撃たれているそうだ。
小さなstationで、一日救急車は通常は10人前後を運ぶのだが、有事の際は25人くらいを搬送するそうだ。
ちなみに、現在破壊されて、使えなくなっているairportのstationにあった救急車が、
ここに運ばれて使用されているので、救急車の数は多い。
その後、ラファ街の中心に行った。ここには国際赤十字などが立てたテントがあり、最近家を壊された人々が生活していた。
このあたりは治安が悪いのか、Huseinは
「写真は車の中から撮れ」と言い、カメラを持って車から降りさせてはくれなかった。
しかし、見た目はそれほどすさんでいるようには見えなかった。
いろいろと外からは分からない問題があるのかもしれない。
これで、ラファを終わりにして、またハンユニスに戻った。
そして、今度はハンユニスの難民キャンプに行った。
難民キャンプというと、普通、日本人は(私も含めて)テント村のようなものを思い浮かべるだろうが、
実際、ここの難民キャンプは、きちんとコンクリートで作られた家が建っている。
通常の町並みよりは汚く生活レベルは確かに低いが、バラックのような、おんぼろの家ばかり立っているわけではない。
たしかに、難民といっても、もうイスラエル建国から50年以上たっているので、
戦争で難民になったものが、何時までもテントに住んでいるはずもない。
しかし、この一帯は頻繁にイスラエルの攻撃のある地帯で、もっとも危険な地域らしい。
というのも、3方を入植地に囲まれており、どこから攻撃があるか分からないからだそうだ。
海側に向かって一番端に行ってみる。例によってチェックポイントがある。
チェックポイント付近に向かうときはイスラエル兵に見つかると危険だからカメラは隠し、
帰りに写真を撮れという指示があった。いろいろ問題があるらしい。
チェックポイントに向かうと周囲は瓦礫の山に変わっていった。
銃撃で蜂の巣になっている建物もある。確かにひどい状態である。
そして、おもむろに引き返す。
すると、後ろで砲撃の音がした。我々に対して撃ったのではなさそうだが、
なんだか分からないので、とにかく車を走らせてその場を立ち去る。
確かに危険である。
このような銃撃、砲撃はこのあたりでは日常茶飯事であるようだ。
ハンユニスでは前回2週間程度滞在したが、難民キャンプには行っていなかったので、
昔と今でどう違っているのかは分からない。
市内の中心は少なくともさほど変化はないように見えたが、難民キャンプあたりはやはりちょっと情勢が怪しいことはよく分かった。
市内に帰ってきて、その時点で、4時半過ぎ。
早くしないと、ガザとハンユニスの間のチェックポイントが閉まってしまうとのことで、
この時点で見学は終了し、ガザに向かった。
帰る途中、ハンユニスとガザのチェックポイントは大渋滞をしていた。
しかし、こういうことは日常茶飯事であるそうだ。時には突然チェックポイントが締められ、
車の中で一夜を明かすこともあるらしい。
延々つらなる車の列はなかなか進まない。次第に、あたりはだんだん暗くなった。
チェックポイントでは、紅茶を売りに来る少年がいたりもする。この辺アラブ人はしたたかであり感心する。
そして、ようやく、チェックポイントにさしかかる。
チェックポイントでは、何か荷物チェックをされるのかと思いきや、別に何があるわけでもなく、
単に片側一車線になっており、そのために大渋滞となっているだけであった。
もちろん、道は本来二車線あり、それをイスラエル軍がわざと一車線に狭めているのである。
こうする軍事的理由は全くもって不明であり、単に、嫌がらせをしているだけとしか思えない。
散々時間を食った挙句、ようやくホテルに帰ってきた。
行きは30分であったが、帰りは2時間である。
日本でもこういったことはあるが、これが人為的な渋滞かと思うと腹立たしい。
その時点ですでに6時半。
7時にはチェックポイントが閉まってしまうとのことで、Hussinたちは早々にハンユニスに帰った。
これから毎週日曜はハンユニスであるので、先が思いやられる。