パレスティナ2002 - ver.19
その1、
その2、
その3、
その4、
その5、
その6、
その7、
その8、
その9、
その10、
その11、
その12、
その13、
その14、
その15、
その16、
その17、
その18、
その20、
その21、
その22、
その23、
その24、
その25、
その26、
その27、
その28、
その29
ER勤務の日々
現在の仕事の体制はPRCSのプログラム的には、Shifaが2日、PRCSのハリールアルワジールクリニックが3日、Amalが1日なのだが、
ShifaのER当直が一番仕事も多く、私の出来ることが多いので、本来Shifaの日でない夜にも、Shifaに行ったりしている。
よって、ここのところ4日で3日ShifaのER当直をしていたりして、ほとんどShifaのERがメインになってきた。
幸い他の日の勤務は2-3時には終わる。
というのはこちらの医師は、病院勤務のほかに自分のクリニックを持っていて、病院の勤務が終わると、
その後は当直医を残し他の医師は、自分のクリニックにいって診療をするのが普通であるからである。
ただし、ERでメインに働く経験年数6-7年前後の若手にはまだ自分のクリニックを持たないものが多い。
ShifaのER当直は結構きついので、平日のPRCSのクリニックの日は、勤務といいながらほとんど休養をしにいっているようなものである。
実際こちらのほうは仕事は楽なので、助かっている。
この日は、朝からハンユニスに行った。Amal病院で今日は手術があり、その手伝いに行くのだが、始まるのが朝8時半なので、
ガザを出るのが7時半になった。
タクシーを捜すと、乗り合いで3.5シェケルで行くそうだ。本来の物価はこの程度なのである。
ハンユニスの病院までタクシーで行き、早速手術室に行った。
今日の手術は初めは迷走神経切離と幽門形成術が入っていたので、楽しみにしていったのだが、突然中止になったそうだ。
理由は単純で患者が来なかったからだそうだ。
この手術は日本では現在非常に少ない手術で、その理由は胃潰瘍が薬で非常によくコントロールされているからである。
もちろん、パレスティナでも同じ薬は使えるのだが、田舎のほうに行くと、患者が自分で適当な薬を飲んでいたり、
病院に行かなかったりするので、非常に合併症のある潰瘍症例が多いらしい。
結局、今日の手術は、停留睾丸が2例と痔核が2例、肛門のskin tagが1例の5例の小手術のみとなった。
停留睾丸はおそらく日本では、外科医でなく泌尿器科医か小児外科医がやっていると思われるが、
なるほど、子供のソケイヘルニアが出来る外科医なら、それほど難しくない手術である。
パレスティナでは子供が多いので、この手の手術がやたらと多い。
痔核の手術は日本では緻密に血管をだし、出血を止めていくように私は教わったのだが、こちらではもっと大胆で、
はさみで痔核の周囲を剥離したのち、流入動脈を一発だけ結紮して終了である。所要時間5分である。
圧倒的にはやい。麻酔も吸入麻酔をマスクでかがせるだけである。
ということで、これら5例の手術は全部あわせて2時間で終了した。
そのあと、この日はまたShifaで当直なので、そのままガザに戻り、直接Shifaに行った。
今回はこの間のようなことはなく、帰りも30分ほどでガザに着き、お昼すぎにはShifaに着いた。
例によって、ERで外傷の処置に勤しむ。ここでは昼食はいつも2時半から3時の間にある。
2時半すぎになり、一休みするために食堂に行くときに、イスラエルの偵察機が飛んできた。
これは何かあるぞという話になり、落ち着いているはずの日曜の当直に怪しい影がさした。
今日のShifaはいつものAhmed Kandel組の番であり、救急に燃えてる連中の多い組である。
今までも紹介したDr.MohmedやDr.Awad、Dr.Ali以外にDr.Isamがいる。Dr.Isamはここでは珍しく、
Swedenの医大出身で、奥さんと子供はともにSwedenにいる。しかし、母親が病気なので、現在パレスティナに単身赴任中なのだそうだ。
Dr.IsamはPRCSのEmergencyのほうでも働いているらしく、重症患者がいるとどんどんShifaに運んでくる。
かれもアクティブである。
このメンバーとは、もうかなり働いたので、大分気心も知れている。
私の名前はHiroshiであるが、Dr.Mohmedはわざと"Hiroshima"と呼ぶ。そのほうが通りが良いそうだ。
手術室のメンバーのなかにも、Dr.Mohmedの影響で"Hiroshima"と呼ぶものが多い。
Dr.Aliはなぜか"Hashimoto"と呼ぶ。これは、なにか勘違いしているらしい。
Dr.Isamにいたっては"Toshiba"と呼ぶ。もうめちゃくちゃである。初めのうちは訂正していたのだが、
一向に直らないので、最近はこの呼び方で定着してしまった。
私もアラブ人の名前を覚えるのは苦手なのだが、彼らにとっても、日本人の名前は覚えにくいようだ。
写真右:Ahmed Kandel組と私。真ん中に座っているのが、Dr.Ahmed Kandel。
後列左からDr.Awad Dr.Ali Dr.Sara 一人おいてDr.Isam Dr.Mohamedと私。
真ん中のDrは飛び入りの心血管外科医
今日は、基本的にはひどい外傷はいなかったが、頭部外傷が多かった。
ここのERではよくある診断名を略号で記す。RTAはroad traffic accident、FDはfalling downの略である。
RTAにはロバ車による外傷も含んでいるのがガザならではの面白いところである。
しかし、今日はBBOという診断名が多い。BBOって何のことだと聞くとbeaten by others だそうだ。
実際派手に殴られた患者が沢山来ている。
ここでは、血まみれになってぐったりしていて、数回吐いているというような症例の場合でも、頭部のレントゲンを撮って、
神経学的診察をして、問題なければ外傷を縫って終わりである。CTはまず撮らない。
日本ではこういった症例の場合、脳外科にさっさとコンサルトしてしまうが、この程度は外科医で処理をする。
よって、一般外科医でも、外傷の頭部や四肢、骨盤の単純レントゲンの読影能力や神経学的な臨床診断能力が要求される。
ただし、ERには若手の脳外科、整形外科の医者がうろうろしていて、いつでも相談できる環境にあるので、
困ったときはすぐ相談できるし、互いに専門の領域を教えあっているので、皆知識が豊富である。
日本でも救急医療センターに卒後数年の各科の医師がローテーションしていたりするが、
ここのERでは卒業したてのGPから、卒後6-7年ぐらいまでの医師がメインで働いている。
このように異なった科の医師が一緒のところで働くというのは、若手には非常に勉強になる良い環境であるし、
なにより同世代が多いので、働いていても楽しい。
夕方近く、RTAの外傷症例が一人きて、結局左の肋骨が3本ほど折れているのと、軽度の血胸を起こしている。
ドレーンを入れるほどではない。
一応入院になった。
今日も相変わらず、Appendicitis(急性虫垂炎)が多い。すでに3人入院した。一人は確実に手術になると思われた。
そしてAppendectomy(虫垂切除)の手術は7時過ぎに始まった。
ちょうどその頃、ガザの北部でイスラエルの攻撃があり、6人死亡したというニュースが飛び込んできた。
こちらにも患者が搬送されてくるかもしれないということで、ERで待機になる。やはり昼間の偵察機はこのためだったらしい。予想的中である。
今回のイスラエルの攻撃は、何の誘引もなく、ハマスも何もしていないそうである。
せっかくここのところ目立った衝突もなく、しばらく平和にきていたのに、なぜイスラエルはわざわざ揉め事を起こそうとするのか理解に苦しむ。
武力衝突を終わりにしないように、またどんどんエスカレートするようにしているとしか思えない。
まあ、軍人上がりのシャロンがイスラエルの首相のうちは、まず和平は不可能であろう。彼には戦いを止めるという選択肢はない。
救急患者のほうはERでしばらく待ったが、重傷患者は幸い結局来なかった。どうも北部にあるUNの病院で対処したようである。
ということで、手術も終わり、今日はなんと12時過ぎには就寝となった。ShifaのER当直でこんなに早く寝たのは初めてであった。
新年
パレスティナにも新年が来た。
ということで、このページの題名もパレスティナ2001から2002にしてみた。
こちらでは全くといっていいほどクリスマスを意識することもなく、年末がすぎた。
新年の休みは元旦一日で、その次の日からは全く通常勤務である。
元旦にも何をするでもなく、街中にもなんの変化もない。
大体、彼らはクリスマスとニューイヤーの区別もほとんどなく、
元旦の休みのことをクリスマスと思っている人間も結構いる。
年末からまたイスラエルの攻撃が始まり、いやな感じである。
今日も朝からF16が断続的に飛んでいる(写真右はF16の飛行機雲)。
こちらにはいわゆる正月気分というものは一切ない。
パレスティナの医療事情続き
今日の午前中はクリニックに行った。
新年早々(1月2日)であるが、全くいつもと変わらない体制である。
元旦に一日だけ休みがあったが、正月気分とかには全く無縁の世界である。
今日は、休みあけということで、患者も結構いた。
月が変わって、前年12月の患者の集計表が出来ていた。
外来総数は326人である。
みると分かるが、子供の上気道炎が多く、大人の場合は高血圧や糖尿である。
このあたりは日本と同様である。ここガザでは、癌にかかる患者が極めて少なく、大抵みな心臓疾患で亡くなるそうだ。
平均寿命は65歳くらいではないかとDr.アラジャは言っていた。
癌にかからない理由としては、誰かは癌年齢まで生きないのだとも言っていたが、Dr.アラジャは食生活などで、
ナチュラルなものを食べるというのが良いのではないかと言っている。真偽のほどは分からない。
この日の朝のお茶の時間は、いつものメニューにザータと言う、ハーブの一種が加わった。
主にパンにつけて食べる(写真左上)。これは以前Dr.Awadも教えてくれて、紅茶にいれて飲んだこともある。
確か呼吸器疾患に良いとか言っていた。ほかにもメロミーエンとかベイブニジなど多くのハーブがあるそうだ。
このとき、またガザのクリニックの体制を聞いてみた。
ここハルワジールクリニックのある場所はシェファジリーンという地域であるが、
住人が2000人の小さな村である。しかもここには難民はいない。
よって、クリニックはPRCSのクリニックしかない。
ジャバリヤやハンユニスには人が多く、難民もいる。そのため、そこには保健省やPRCS、UN、
そしてCommunity associationによるクリニックと大きく分けて3種類のクリニックがあるそうだ。
ここで言うCommunity associationとは、クリニックのマネージメント自体はパレスティナ人がやっているが、
資金は外国のDonationによって成り立っているとのことである。
これら3種類のクリニックは、患者負担としては、UNが難民に対して無料であるのがもっとも安く、
次が保健省やPRCSのクリニック、そしてCommunity associationのクリニックはもっとも高いということである。
患者数も当然患者負担に応じて変化する。しかし、一般にここの人たちは病院に行きたがらないようである。
よって、しばしば病気をこじらせてから来院するケースが多い。
もちろん、お金がないというのもその一因になっている。