パレスティナ2002 - ver.22

その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12その13その14その15その16その17その18その19その20その21その23その24その25その26その27その28その29






難民キャンプ再び



今日は本来クリニックの日なのだが、Shifaで十二指腸潰瘍による幽門狭窄の手術があるというので、医学的な興味でわざわざ来てみた。 というのは、日本では今あまり行われていない手術だからである。
9時過ぎに、いつものように回診。現在の入院患者は糖尿病性壊疽が男性3人、女性4人、 虫垂炎が男性1名。あとは女性の足の膿瘍と手術患者であった。
幽門狭窄の患者はすでに手術室に行っていた。 回診後早速手術室に行く。
左の写真では著明に拡大した胃がわかる。術式は開腹してみてからといっていたが、おそらく迷走神経切離はすることになるという。
開腹して、狭窄を確認した。狭窄部の炎症はひどく、幽門形成ではなかなか難しそうである。 この時点で術式は迷走神経切離と胃空腸吻合になった。 これは患者が高齢であるということも考慮してのことらしい。
そして、まず迷走神経切離にかかった。どうやら選択的迷走神経切離でなく、幹迷走神経切離らしい。
幹迷走神経切離は手術としては早いのだが、術後の合併症が多いとされる手術である。
しかし、Dr.Ahmad Kandelに言わせると、幹迷走神経切離では確かに、下痢などの合併症が2-30%の患者で起こるが、 時間が立つと症状はおさまるのだそうだ。
術者はSaraであったが、どうも胃空腸吻合の手つきは怪しい。 彼は肝臓外科が専門のはずだが、ちょっとこれでは実力的に肝臓外科が出来るようには思えない。 彼よりもぜんぜん若い、モハメドのほうがスムースな手つきをしている。
このあたり、パレスティナの医師のレベルには、やはり確かにかなりばらつきがあるような気がする。 結局トップであるDr.Ahmad Kandelが助手でありながら大事なところはほとんどやってしまう形で手術が終わった。

この手術が終わってから、Drベスーニ(左)につかまった。
本来今日はベスーニのグループの手術日であり、幽門狭窄は緊急扱いで入ったので、 Ahmad Kandelグループとしては手術はすでに終わってしまっていた。
今日はちょうど迷走神経切離の手術があったこともあって、また例によって彼の持論を私にとうとうと語ってくれた。
どういうことかというと、彼のドイツでの200例以上にわたる経験では、潰瘍による幽門狭窄に対する最良な手術は、 選択的迷走神経切離と前庭部切除、それにRoux-Y吻合だそうだ。
迷走神経幹切離は75-80%の症例では効果があるが合併症が多い。選択的迷走神経切離はpartialとtotalとがあるが、 両者をうまくやり分けるのは難しいとのことだ。
従って、前庭部切除をしない場合で、partial selective vagotomyの場合は幽門形成は必要ないとされているが、 ベスーニの経験では両者とも幽門形成をやった方が良いとのことだ。
潰瘍による幽門狭窄の手術は3-4年前まではパレスティナでも20-30例ほど年にあったそうだが、 今年は半年に1回位の頻度であり、かなり減ってきているそうだ。
ちなみに、Ahmad Kandelのグループでの昨年一年間の手術総数はヘルニア、虫垂炎等全部あわせて480例であるが、 うち胃に関する手術はなんと8例しかない。
そのうち迷走神経切離が5例。その他は胃癌の再発でのバイパス術、十二指腸潰瘍穿孔、胃瘻増設術である。
他の手術は480例のうちおよそ3分の1は胆石胆嚢炎による胆嚢摘出であり、もう3分の1は虫垂切除である。 残りにヘルニアや乳がん、下肢の切断などが入る。日本での外科手術の上位を占める胃癌、大腸癌などは数えるほどしかない。
Shifaの外科は4グループあり、Ahmad Kandelのグループは手術日が他の2つの大グループの半分なので、 単純に計算すると、6倍となり、外科トータルでは3000例近い手術数となる。
小手術が多いということもあるが、それでもこれは膨大な手術数である。

どうも私は、Dr.ベスーニに気に入られたようで、自分のグループの手術を見ていけというので、 ちょうどそのときやっていた腹腔鏡下胆嚢摘出の手術を見た。
すると、ベスーニが次にS状結腸の軸捻転の術後の腹壁ヘルニアの手術をやるから一緒にやろうという。 断る理由もないのでやらしてもらった。

手術自体はどうということもない手術であるが、ベスーニは昔の外科医っぽく出血お構いなしに指でどんどん癒着をはいでいく。 とにかく早い。それだけが非常に印象に残った。 しかし、基本的にはきちんとやることはやり、上手な手術であった。

手術もおわり、勤務室に帰ると午後3時頃となった。手術日は手術が終わればその時点で終了である。 今日はこの後時間があるので、これからDr.Awadがつりに行こうという。
本来はクリニックに戻るはずだったのだが、クリニックの時間としてはもう終わりになっていた。 ということで、急遽釣り行くことになった。

行く途中両替をした。先月は100US$が425NISだったのだが、今日は100US$が442NISである。 ここのほうがレートがいいのかと思ったら、最近レートが変わったそうだ。どうもシェケルが下がっているらしい。



彼の家のあるガザ北部の町、Alsheh Radwanに行き、Dr.Awadの隣に住んでいる放射線科医のDr.Mohamedを誘った。
Dr.MohamedはDr.Awadと同様、トルコで大学を出てインターンをやってからパレスティナにきたそうだ。 ちなみにトルコの医大は5年制であり、インターンが1年。 入学前に一年語学学校などの予備校に行っていたのをあわせてトルコには7年いたそうだ。
現在はハンユニスにあるEuropean Hospitalに放射線科医として勤めている。 このEuropean Hospitalというのは、よく話だけは聞く病院である。EUがつくった病院であるが、建物が8年前に出来た後、ずっと使われていないで、 3年前にようやく病院としてオープンしたそうだ。
経営としてはEUとMOH(保健省)が半々に管理をしているらしく、働いているMohmedでさえ、どちらが管理しているかよく分からないという。 最近になってようやく軌道にのりだした病院であり、患者数はまだ少ないらしい。
しかし、Mohmedは放射線科医なので、他院から外来でのCTなどの依頼が結構あるらしく、入院患者は少なくともあまり関係ないそうだ。

さて、Dr.Awadがつりの道具を親からかりてきたので、早速近くの海に行くことにした。
Alsheh Radwanは難民が多いエリアで、生活レベルは低そうだ。 これはお金の問題かどうかは分からないが、遊んでいる子供もはだしだったりする(写真左上)。
しかし、海岸近くには高層マンションが立っている。ここの賃貸料は結構高いそうだが、主に、 外国のパレスティナ人が夏などにリゾートで来るために、別荘代わりに借りているそうだ(写真右)。 しかし、昨今のインティファーダで今後どうなるかは分からない。
海に行く途中、粗末な小屋が並ぶ一体をとおったので、 「ここは難民キャンプか?」と聞くと実はここはベドウィンのキャンプということである(写真左下)。
もともとベドウィンは遊牧民であるが、ここの滞在は不法なのだそうだ。
しかし、居心地がよいらしく、電気が来ていたりして、長くいついているそうである。
もちろん、先行きどうかは分からないそうだ、なにせ彼らはベドウィンだからである。

さて、海につき、釣りを始めた。
海は海岸はごみで結構汚い。船から捨てられたものらしいが海自体は結構きれいなので残念である。
彼が親から借りてきたさおは、なんとリョービのさおであり、日本製である。 とりあえず仕掛けを作ってみるが、えさがない。
近くを掘りながら、探してみたが、いくら探しても見つからない。 しかも、今日はどうも波も高く、非常に寒くつり日和でもない。
Awadの話によると、夏はここは沢山の釣り客でいっぱいなのだそうだ。
しばらくえさのない仕掛けで試みてみたが当然つれるわけもなく釣りは日没とともに終了した。 地中海の日没は美しい(写真左)。
そして、こういう状況でもやはり彼らは祈りは欠かさない(右)。

その後、Dr.Awadが先日入院していたおじさんが退院したからこれから見舞いに行くという。 この間内科病棟で見た患者で私も知っていたので、付いて行くことにした。
彼のおじさん(実はDr.Awadもそうだが)は難民であり、ビーチキャンプに住んでいるという。 Awadはおじさんのところに行く前に、同じビーチキャンプにいるおばさんのところに寄るというので一緒に行こうということになった。 ビーチキャンプは前回もきたのだが、周囲を回っただけで中には入らなかったので、これは良い機会である。
そして、まず、おばさんの家に行った。他の家もそうなのだが、パレスティナの家は外から見ると結構汚い感じなのだが、 中に入ると見違えるようにきれいである。
おばさんのサバーは、子供が男3人、女5人いて、女3人はすでに嫁に行って家にはいない。
長男のモハメドは22歳だが、最近結婚して、お嫁さんと一緒にこの家に住んでいる。
次男のライードはラマラの警察に入ったのだが、インティファーダ後はガザに帰ってくれないらしく、 一年以上家には帰れずじまいだそうだ。
そして、何よりこの家庭の問題なのは、サバーの旦那、8人の子供達の父親であるが、彼はガザで仕事がなくなったので、 イスラエルで仕事をするために、家を出て行き、イスラエルにいる女性と結婚したのだそうだ。
アラブでは4人まで奥さんを持つことが出来るので、重婚自体は問題ではないのだが、 、やはり、現在の家庭では、イスラエルの奥さんが収入を握っているので、 ガザの家族にたいする仕送りはほとんどないそうだ。
よって、現在この家の家計は長男の収入と次男の仕送りに頼っている状態であるらしい。
アラブでの重婚は奥さんに対し平等に扱うことを前提としているので、この場合は父親にもちろん責任があるのだが、 もともとはガザに仕事がないというところから発しているだけに問題は複雑である。

Dr.Awadがわざわざ私をこの家に連れてきたわけが分かった。こういう状況を見せるためだったわけだ。
しかし、この家族は基本的には明るく楽しく暮らしている様子が分かる。 例によって、シャーイを飲んで、晩御飯にフールとファラーフェルまで頂いてしまった。 こういう状況でも彼らは非常に明るく過ごしている。

その後、近くにある叔父さんのアブダッラーの家に向かった。
途中UNの学校、クリニックを通る。この様に難民キャンプには学校やクリニックがあるそうだ。 前も言ったようにUNのクリニックは無料である。医師はパレスティナ人であるが、経営が、国連である。 よって、設備もいいらしい。
医師も選ばれた者達らしく、給料は800NISと非常に高い。当然、働くのはHighly competitiveである。

そして狭い路地を抜けて家についた。CORDと気管支拡張症、気管支喘息による喀血で入院していた人だ。
彼の子供は6人。80歳を超える彼の母親と同居しており、叔父さんの兄弟も近くに住んでいる。 双方の子供達が入り乱れて、大変な状況になっている。
ここはUNのつくった家だそうで、このように難民達は順番をまってUNに家を作ってもらったりする。 しかし、UNのつくる家はそんなに大きな家ではない。
難民といっても1948年になった話なので、中には立派な家を建てている家庭もある。
しかし、アブダラーの家は貧乏らしく、ようやくUNに家を建ててもらったそうだ。
本来もっと入院していなければならなかったはずなのだが急遽退院したのは、6人部屋の同室で一晩のうちに同室者が3人亡くなったからだそうだ。 それで、これ以上いると自分も死んでしまうと思って強引に退院したのだそうだ。気持ちは分かるが無謀である。
しかも、退院して、すでにタバコを3本すったそうだ。おかげでみんなにさんざん怒られていた。

これだけ人が集まると話もはずむ。 そして、ここでもシャーイをのんで果物を食べてといろいろもてなされた。 ここでは、本当にどこに行っても歓迎される。アラブの人は皆非常にフレンドリーである。
パレスティナの難民キャンプは難民キャンプといっても、貧乏で、食に困っているような悲壮感はない。 狭い路地に住宅が密集しているが、日本の下町などみんなそういう感じなので、日本人にとってはとりたてて、 ものめずらしいわけでもない。
逆に言えば、先進国日本であるが、住宅事情は難民キャンプ並みであるとも言える。
それはおいておくとして、今日はいろいろ勉強になった訪問であった。