パレスティナ2002 - ver.21

その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12その13その14その15その16その17その18その19その20その22その23その24その25その26その27その28その29






バーベキュー大会


今日は「地元で野外バーベキューをするので来ないか」と言うDr.Mohmedの招待で、 突如バーベキューに参加することとなった。 朝10時にDr.Mohmedに電話をする。 彼の家はガザ地区の北のほうにあるBeet Lahyaという小さな村であり、 ガザのセンターからタクシーでBeet Lahyaの町に行った。
ここは、自治政府ができてから市になったそうだが、田舎の農業地帯であり、人口3000人程度で、 住民はみんなどこかでたどると親戚筋にあたり、村全体が一つの非常に大きな大家族であるそうだ。
町の中心のファーマシーに行けという指令で、そこにいって店主に、 Dr.Mohmedに連絡を取りたいといったら、店主はなんとDr.Mohmedの友人で 今日のバーベキューに参加するという。
彼はフィリピンの大学を出て、Shifaのファーマシーで働いていたこともあるそうだ。 ということで、彼のファーマシーでDr.Mohmedを待った。
しばらくして、Dr.Mohmedが子供をつれて来た。 今日はいろいろ買出しをするそうで、途中いくつか買い物をしてから、彼の家に行った。

Dr.Mohmedの家は、大きな建物だが、いくつかの家族が集まって住んでいる。パレスティナでは、一家族が大きな建物を建てるのは難しいので、このように集団でビルをたてて、その建物をシェアする形が結構多いそうだ。 中に入ってみると、見かけより、非常にきれいなのに驚く。 中はヨーロッパの家と変わらない感じである。彼は医師なので、 パレスティナでも当然裕福な家庭ではあると思われるのだが、応接間は高そうな応接セットがあり、 大きなテレビもコンピュータも持っている。
Dr.MohmedはDr.Awadと違い、Shifaに長く働いているので、月給は2600NISであるが、 インティファーダ後に2000NISに下がったそうだ。
彼の奥さんは、ボスニア人で、ユーゴの大学にいたときに知り合ったそうである。 よって家の中では、アラビア語とボスニア語が飛び交う。 彼が大学を卒業したのが、1991年で、それからユーゴで外科の研修を始めたそうだが、 まもなく内戦がおき、一時パレスティナに帰っていたそうである。 そして、内戦がすんでからまたユーゴに戻り研修を続けたそうで、自分の生活は戦争ばっかりだと嘆いている。
それでも、以前はまだ良く、自治政府が出来る前(彼の表現では「占領されていた頃」という) はイスラエルには自由にいけて、タクシーで3-40NISも払えばよかったが、 現在(彼の表現では「アラファトが来た後」という)はイスラエル国内でどこに行くか、 日程をすべてあらかじめ決めて、タクシーなどをアレンジして許可を得なければならず、 しかもそのタクシー代が3-400NISとべらぼうに高いそうである。
よって、今では事実上自由にはボーダーを越えることはできない。 前はユーゴから帰ってきたときに家族が空港まで迎えに来てくれていたこともあったんだともいい、 「アラファトが来てから」生活が悪化したともいう。 以前はイスラエル経済に頼っていたので、仕方のないところだが、アラファトが支持されない理由もなんとなく分かる気がした。
ちなみに、彼らは自治政府が出来たときに「独立した」といい、 パレスティナではPA(Palestine Authority)はPNA(Palestine National Authority)、 アラファトは議長(Chairman)ではなく、Presidentと呼ぶ。これは他のアラブの国でもそうである。
彼の家では、奥さんのお手製である、シャンピータというボスニアのお菓子(写真左)を食べながらお茶をしてから、 バーベキューをする農場に出かけた。

Beet Lahyaはガザの北部にあり、ボーダーであるエレツは目と鼻の先である。 しかし、ここはイスラエルの入植地もあり、よく衝突のある場所でもある。
農場に行く途中、 ちょっと遠回りをしてもらって、爆撃で破壊された警察署(左)や、イスラエルの入植地なども回ってもらった。 この間ERで運ばれてきた銃創患者もエレツから入ってきたイスラエルの戦車が隣町であるBeit Hanounで起こしたものであり、 その現場近くも見ることが出来た。
右はイスラエル軍の要塞で、このなかから兵士が監視をしている。もちろんなかから攻撃することも可能であり実際している。
今日は楽しい企画なのだが、ここガザではたやすくこういう現実に直面するので、 なかなか難しいところだ。

さて、会場についた。 オレンジ農場のなかに小屋があり、その前にバーベキューセットもあって、 ここで何度もバーベキューをした形跡があった。
3、4人メンバーが集まったところで早速準備に取り掛かった。 メンバーのなかにはなんとAlquds病院であった医師もいた。 こんなところで知り合いに会うというのも面白い。
まず手際よく火をおこし、炭を入れる。非常に慣れている手つきである。 そして、玉ねぎ、茄子、グリーンペッパー、トマトを丸ごと焼き始めた。 何をするのかと聞くとサラダを作るという。
「これを作るマエストロがいるので、よくみておけ」というので、 サラダ担当のマエストロの仕事ぶりを見せてもらった。



























つくり方は、すり鉢にニンニクと塩をいれてすりつぶし、そこに、焼いた玉ねぎをいれ、 グリーンペッパーをいれてさらにすりつぶす。 そこに、茄子の身の部分とトマトを砕いていれ、レモン汁をかけて、最後にアヘーナという胡麻油を入れて少し温めて出来上がりである。 これはフェルフェルサラダといい、フールのようにパンにつけて食べるのだが、これはとてもおいしく、珠玉の名作である。 マエストロというだけある。 そして、どうも、これはパレスティアでは強壮剤のようなものらしい。




サラダを作っている間に、残りの仲間も合流し、鳥を焼き始めて本格的にバーベキューが始まった。
鳥のレバーの串焼きも始めた。 肉は山ほどある。男達ばかりなので、焼きながら食べながらもう大変である。
しかし、ここはムスリムの国、これだけのバーベキューで男ばかりなのに、誰も酒をのまない。日本ではまず宴会の始まるパターンだが、面白いものである。
フルーツはオレンジがそこら辺にいくらでもあるので、もいで食べる。新鮮そのものである。 まさにナチュラルライフである。








私は、突然のお邪魔だったが、そんなことは全く関係なく、Dr.Mohmedの友人ということで、 歓迎された。 日本人ということで珍しいこともあり、どんどん彼らが食べ物を勧めるので、 もう久しぶりに限界以上食べた。
食後はフルーツを食べ、お茶をのみ、例によってシーシャをやりくつろいだ。
しかし、ここでもやはりお祈りは欠かさない。
以上、3時間ほどのバーベキューだったが、久しぶりに楽しんだ。どうもガザにいると暗い話ばかりでよくないが、地元の人間は基本的にアラブ人であるから、非常に明るく、能天気である。 ちなみに、これだけのバーベキューでいくらかかったかというと、一人25NIS(約700円)である。彼らにとっては、結構な散財らしいが、日本人にとっては非常に安い。 ということで、非常に満足してガザに帰った。 たまにはこういう日もなくてはいけない。