パレスティナ

(エルサレム)

1998.12.22‐99.1.3


パレスティナ、ガザ地区

ハンユニス


98年12月22日から99年1月3日まで、日本パレスティナ医療協会というNGOの団体の関係でパレスティナに医療ボランティアとして行くことになった。
成田からロンドン経由でテルアビブ着。テルアビブ空港からスペシャルタクシーで1時間、エレツというところに行き、そこでイスラエルからガザ地区に入った。軍のチェックがあるが、入るのは結構簡単である。
そこから私の働く病院があるガザ地区のなかのハンユニス(Khan Yunis)という町にいった。ここは、自爆テロで有名なハマスの本拠地でパレスティナのなかでも保守的な地域である。 観光地ではないため、アラブ人でないのは国連やNGO関係者位で旅行者は全くといっていいほど見なかった。町の様子は、基本的には他のアラブ世界と変わらないように見える。道にはロバの引く荷馬車が行きかい、マルシェは人々で活気にあふれ、人々は力強く生きている。しかし、一部に明らかに粗末な小屋が並ぶ難民キャンプがあり、パレスティナの抱える問題点を浮き彫りにしていた。








アルアマル病院(El Amal City Hospital)



ハンユニスにあるパレスティナ赤新月社(PRCS:Palestine Red Crescent Society)の病院アルアマル病院はベッド数120床、ガザでは3番目の規模で医師は50人、月間手術数は多いときは200例を超え、ICU、NICU、も備えた中核病院である。平成10年12月23日から31日の9日間、ここの一般外科で働いた。 外科のスタッフは3人。
Dr.Samir Sh. Deck
エジプトの医学校を出て、ロンドンで研修。一般外科、形成外科のスペシャリティを持ち、その後クエートで20年、サウジアラビアで9年働いた後パレスティナへ。
Dr.Ahmad Kamil Shahwan
イラク出身で内視鏡、腹腔鏡の手術が出来るなど、一般外科で最も実力があると思われる。Military Hospitalとかけもちで、昨年8月は一人で、一ヵ月80例の手術をこなしたとのこと。
Dr.El Kourd Nadjah
アルジェリア出身の女医。卒後フランスで1年、アルジェリアで5年研修し一般外科のスペシャリティをとる。主に小外科を担当するが、小児外科も得意。
私のいった時期はちょうどラマダン(断食)のシーズンだったため、患者も少なく病院は暇だった。それでも、1例実際に手術し、4例の手術の助手をした。
パレスティナとはいえ、医薬品は豊富にあり、医療機器も十分で、医師の実力も前述の様に外国で十分トレーニングを積んでいるので問題なかった。和平後、彼等のような医師が多く海外から帰ってきて、医療物資の援助も充実し、パレスティナの医療レベルは急速に向上したそうである。もはや、ボランティアは必要ないのではないかと思われるほどである。


PRCS(パレスティナ赤新月社)の総裁はファトヒ アラファト、あのPLO議長であるアラファトの実弟である。弟にはパーティーで直接会って紹介されたが、兄に非常に良く似ている。また、そのアラファトの姉が病気なのだが、そういった関係もあって、私が泊まっていたPRCSの経営するホテルで療養していた。
あるとき、ホテルの部屋を出るとそこら中に軍人がいて物々しい様子である。聞くと、どうやらアラファト議長本人が姉の見舞いにきているらしい。エレベターも止められ、銃を持っている兵士がうろうろあしてたが、これは是非お目にかからねばと出口で張っていた。
30分程待った後、ついにアラファト議長が現れた。テレビで見た通りのそのままだが、体は小さくただのおじいちゃんという感じである。もう、70を超えていると言う。以前ほどの影響力がなくなってきているのも納得できる。
彼が死ぬ前に、早く和平が進むことが望まれた。




イラク空爆抗議集会


宿泊していたホテルのロビーにいたダンスチームとミュージシャン達と友達になった。 すると、「今晩、これからパーティーがあるけど来ないか」とのこと。断る理由もないので、行くことにした。
バスに乗って着いた先は、ハンユニスの中心の広場。そこには多くの群集がいて、異様な雰囲気である、そしてサダムフセインの似顔絵とイラク国旗が打ち振られている。
そう、ここはアメリカ、イギリスのイラク空爆に抗議する集会(パーティー)だったのである。

次々と空爆を非難し、アラブの連帯を叫ぶ演説が続く。いち早く空爆を支持した日本からきた身としては肩身狭いばかりか、下手すると殺されかねない雰囲気である。しかし、よくみると熱狂的なのは一部の人達で、しかもテレビカメラが向いたときだけ妙に盛り上がる。なるほど、よく日本でもアメリカ国旗を焼くシーンなどが放送されるが、あれはかなりヤラセなのだということが分かった。 そうこうするうちに、音楽とダンスがはじまる。こう言う集会は、政治的な意味というだけでなく、あまり楽しみのないパレスティナの若者のストレス発散の場になっているようだ。
顔見知りの司会の男が突然、「日本から来た友人だ」といって私を段上に上げた。
分けもわからず、サダムフセインの似顔絵を持ち、イラクの旗を振る。観衆は拍手喝采。アラブ人達に認められた瞬間だった。 後で聞くと、コウゾウ・オカモトはいまだにアラブの英雄だそうで、アラブ人は日本人に親近感を持っているらしい。また、ミュージシャン達も必ずしも皆が皆サダムフセインを支持しているわけではないそうだ。しかし、空爆でイラク国民が苦しむのは、同じアラブ人として見てられないという思いが強い。また、イスラエルのことを考えると、やはりイラクの肩を持つ気持ちになるらしい。
複雑な中東情勢。アラブはまだまだ、ゆれているようだ。






ガザ空港



あのクリントンも降り立った、開港したばかりのガザ空港に行った。
アラブの流儀らしいが、彼らは建物が全て完成してから使うという概念はなく、建設中からどんどん使っていく。実際、ガザの街中の建物はほとんど建設中で壁はコンクリートむき出しで屋上には鉄骨が伸びている。これは、完成すると税金を払わなければならないということもあるらしい。
税金のためではないだろうがこの空港もまだ管制塔ができてなかった。しかし、逆に我々にとっては幸いなことに、建設中の管制塔に入ることが出来た。(中に入れてくれるあたりもアラブらしい)
まだ、他のアラブ地域からしか、定期便は飛んでないが、将来的にはガザに直接日本から入れるようになるだろう。そのころには、管制塔が完成していることを祈る。




エルサレム




エルサレムはまさに宗教の中心。旧市街にはユダヤ人、ムスリム、キリスト教、アルメニア人と4つのエリアがひしめいている。
1月1日の金曜(金曜はムスリムの休日、正月は基本的にはムスリムには関係ない)に行ったが、まさにダマスカス門は明治神宮状態であった。一緒に言った現地の駐在員に聞くとこれほど混んでるのは見たことないそうなので、やはり今回は特別だったらしい。混雑のなか、旧市街を奥へと進む。そうこうするうち、ユダヤ人エリアまで来る。イスラエル軍のボディーチェックの後、ユダヤ側へ。有名な嘆きの壁という場所で、山高帽と黒服にヒゲのユダヤ人たちが一心に祈っている。岩のドームというモスクが立っている場所にユダヤの神殿の再建を願い、彼らは2000年間祈っているという。 気の遠くなる話である。

キリスト教にとってもここは聖地であり。キリストが十字架を背負い、張り付けになるために登ったピアドロローサがある。
エルサレムは多くの人間の怨念、複雑な宗教の絡み合いに壮大な歴史の重みが加わるものすごい町である。宗教に興味のない人にも、ここは一見の価値がある。

テルアビブ空港のチェックは、うわさ通り厳しかった。

まず、2人の係官に旅行の目的、滞在場所などを聞かれた。 そこで、「ボランティアの医師としてガザ地区に行っていた。」と答えたのだが、そこで誰がオーガナイズしたか?誰に会ったか?どこにいつ滞在していたか? どうして、他の場所ではなくパレスティナなのか?どうやって知ったのか?など矢継ぎ早に聞かれる。
もう完全に対決ムードである。そのうち、別のもう一人の係官が来て同様のことを延々聞いてくる。そして、その後彼等で協議して話のつじつまをチェックしているようだった。
結局、別室へ行き、全ての荷物をスミからスミまで調べ、ボディチェックも念入りにして、怪しげなものは全てX線を通した。
しかも、その後出国手続きをしてパスポートコントロールを終えるのを見届けるまで二人の係官は私から離れなかった。
私がパレスティナ側に行っていたためなのだが、ボランティアの医者だろうが、誰だろうがお構いなしの厳しさである。
今までいろんな国に行き、幾多のセキュリティチェックを受けたが、これほどまでに完璧なチェックには今まで逢ったことがない。
ユダヤ人侮れじ。イスラエル恐るべし。